辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女のくびれた肢体を思い出すのである。

 トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。



一ノ二

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「莫迦ッ、そんな事が出来ねエのか、間抜けめ!」

 親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。

 まだいたいけない少年の黒吉は、恐ろしさにオドオドして、

「済みません、済みません」

 そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺をさすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。

 ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロとこぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなくみ込んで行った。

 ――ここは、極東曲馬団の楽屋裏だった。

 逆立ちの下手な、無器用な黒吉は、ここの少年座員なのだ。

 からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。

 黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。

 それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらをめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。

 こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」をむしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。

 彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。

 黒吉は明かに、他の同輩の少年達から

「オイ、こっちへこいよ」

 と声をかけられるのを恐れているように見えた。

 しかし、それは、単に彼の危惧に過ぎなかった。

 他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。

 結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。



一ノ三

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 憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。

 ――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。

 (それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)

 黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、わざわいされていたのだった。

 男の子の容貌が、そんなにも、幼い心をしいたげるものだろうか――。

 如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は

「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」

 そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。

 この観客にさえわらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――

(俺は芸が下手なんだ)

(俺は醜い男なんだ)

 薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹きすさんでいるのだった。

 そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。

 こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。

 ――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。

 世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。

 しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。

「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、

(いっそ、あの手でたれたら……)

 と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。

 これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。



一ノ四

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 安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。

 ――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。

 それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。

 団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。

 団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら

「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」

 恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。

「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」

「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」

「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」

「いやじゃねエよ」

「ハハハ、五月蠅うるせえなア」

 と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。

 そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎じじいなのだ。

 結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。

 男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。

 しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。

(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)

 誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。

 黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。

(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)

 そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。

 しかし、尚そればかりではなかった。



 この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。

 やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。

 だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。

(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)

 だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ

(駄目だ)

 と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。

 ――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。

 葉子は、まだ黒吉と同じように、とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。

 そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。

 黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に

「こっちへいらっしゃいよ」

 とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面

「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」

 といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、

(俺を嗤うんじゃないか)

 こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。

 黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。

       ×

 思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。

「さあ、葉ちゃんの出番だよ」

「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」

「いそいで、いそいで」

 葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口かじると、衣裳部屋を飛出して行った。

 恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、そのたべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。



二ノ二

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 葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。

 黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。

 それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体をかがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。

 その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっとほっ〈[#「口+息」、16-9]〉とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ちえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手のひらに載せて見た。

(これが、葉ちゃんの喰いかけだな)

 そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。

 黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。

気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。

(葉ちゃんのつばきかな)

 黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。

 彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。

 しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……

(葉ちゃんの唾だな)

 その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅をくわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。

 それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。

 黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりをぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。

しょっぱい――な)

 これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。

 彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳顬こめかみをひくひくと波打たせていた。

 そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。

「こらっ。何をしてるんだ、黒公」

 ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。

「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」

「ウン」

 黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。



二ノ三

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 黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。

(一度でいいから葉ちゃんと、沁々話したい)

 これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。

 彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。

 しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。

 そして、早熟ませた葉子への執着が、き切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。

 一度こうしたけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。

 彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子のちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、うずめていた事もあった。

 その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。

 そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかくつまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、

「葉子チャンノカミノケ」

 そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上からさすって見てから、それを、肌身深くしまいこんで仕舞った……。

 こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょいくなるようになった事でも、充分想像が出来た。

 失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、

(盗られた)

 という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。

 ――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。

 だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。

       ×

 極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。

 そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸をかしげさせていた空模様が、一時にくずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。

 団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。

 しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。

 黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。

 それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。

(隣りに寝ているのは、葉ちゃんじゃないか――)



二ノ四

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 瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。

(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)

 それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。

 そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。

 黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。

 彼は、そーっと、薄い蒲団のへりへ、手をかけた。だが――

(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。

 それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。

 ――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触をほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)

 黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。

 彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。

 フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。

(もう夜明けかな――いつの間に寝て仕舞ったんだろう)

 それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。

(葉ちゃんは……)

 黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。

(おや……)

 彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。

 急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。

(まだ夜中だ)

 黒吉は〈[#「口+息」、22-9]〉っと心配をき棄てた。

 彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。

 黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。

 眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。

 又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。

 暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。

 何故か、彼の唇は、ガザガザに乾いていた。

 やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、へこますのを感じた。



二ノ五

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 黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。

 唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。

 彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。

 黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。

「ク……」

 周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。

(眼を覚ましたかな)

 黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)

 寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。

 彼は、ようやく〈[#「口+息」、24-4]〉っと、熱い息を吐くと、唇に触ってみながら、蒼黒い周囲あたりを、見廻していた……。

 ……翌日は、昨夜の暴風雨あらしに引かえ、何処までも澄んだ蒼穹が訪れた。

 黒吉は、ゆうべの偶然な出来事を、独り反芻して愉しもうと、小屋の丸太を伝いながら、あがって行った。

 天辺まで行って、首を出した、と同時に、眼に這入ったのは、恰度真向うの、水蒸気を含んで、輝いている森の姿だった。

(綺麗なもんだなア、――けれど)

 胸の端を、ちょいと横切ったのは、「葉子」だった。その瞬間、この少年には、葉子の方が、もっと生々しい、美を持っているように思えた。

(森なんか……)

 そう呟くと一緒に、彼は、耳元で話掛られて、思わず、丸太を掴んだ腕が、ビクッと震えた――いままで、人に話掛られて、いい事なんか殆どなかったから――

「森なんか、なんだっていうの、黒ちゃん」

 黒吉は、返事が出来なかった。何時来たのか眼の前には、葉子が立っているのだ。

 それに、いままで、「黒ちゃん」なんて、優しく呼ばれた事は、誰からも、ただの一回もないのだから……。

「何を考えてんのよ」

 葉子は、暖かい陽の中で、愛らしく笑っていた。

「森、みてたんだ」

 黒吉は、彼女の顔を正面まともに見る事が、出来なかった。そして、足の先きを、ごそごそ動かしながら、打切棒ぶっきらぼうに、こういった。

「まあ、森を見てたの、あんた詩人ね」

 この可愛い、おませさんは、何処で憶えたのか、こんな事をいった。黒吉は、返事が、考えつかなかった。

「ほんとに綺麗な森ね、黒ちゃんは森が好きなの。綺麗だから――」

「ううん、森なんか嫌いだい。君の方が綺麗じゃないか」

「まあ――」

 葉子は、如何にも女の子らしく、よろこんで、大きな眼を開けた。

「だけど、俺はきたないからなア……。遊んでくれる」

 彼は、少しずつ口がけるようになった。

「遊ぶとも」(葉子は、時々乱暴な言葉を使った)

「黒ちゃんは穏和おとなしいから好きよ。ゆうべだって……」

「えッ。知ってんの――」

 黒吉は、思わずビクッとした。



二ノ六

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「驚かなくたって、いいじゃないの。あたしだって、接吻初めてよ」

 黒吉は、顔がカーッとほてるのを感じた。そして、この十位の幼い少女が、こんな事を、あけすけにいうのか、と思うと、この愛らしい姿の中に、悪魔が宿っているのではないか、と思われた。如何に、すさんだ周囲の中に育ったから、とはいえ、恐ろしい事だった。

「いつ来たの、ここへ」

 彼は、返事に困って、こんな事をいった。

あんたあがっているのを見たから、直ぐ後から来たのよ」

「なんか用――」

「ウウン、用なんかないわ。……あんた変な人ね、あたしが嫌いなの。そんなら、なぜあんな事、したの」

「違う、違うよ。俺ア葉ちゃんが好きなんだよ。――だけど、どうもどうもうまく喋べれないんだ……」

 これは、黒吉の本音だった。

「まあいいわ、ここに坐りましょう」

 葉子は、黒吉に席を明けると、二人は並んで、屋根組みの丸太に、腰を掛けた。

 人が見たらば、曲馬団の子供が、日向ぼっこをしている位にしか、見えなかったろう。

ゆうべあたし知ってたのよ」

 葉子は何故か、執拗だった。

「じゃどうして、寝たふりしてたの」

「だって。あの虫みたいな(あらごめんなさい、みんなあんたの事をそういうのよ、隅で小さくなってるから……)だけどあたし好きになっちゃったわ、あんたが」

 黒吉は、彼女の口から「虫」といういやな綽名あだなを聴くと、苦汁を飲まされたような気がして、黙って仕舞った。

「だから、いい事おしえて上げるわ」

 葉子はそういって、垂らした足を、ぶらぶら、ゆらし始めた。

 その度に、葉子のふくふくとした肩が、いくらか固くなった黒吉の体に触れた。彼はその柔らかい感触に、得体の知れぬうごめきを受け、又ゆうべの夢が、生々しく甦って来るのを感じた。そして苦汁は軽く揮発きはつして行った。

「いい事って、何さ」

 葉子は尚も、足を振り続けた。或は故意に――と思われる程、体と体が、劇しくぶつかる事もあった。その度に、黒吉の固くなった心は、音もなく、融けて行くのだ。

「いい事ってね、あんた芸が下手じゃ駄目よ、親方には嫌われるし、皆んなは莫迦にするし」

 葉子は、姉さんのような事をいった。

「うん」

「だからあたしいい事聞いたの。あんた本当に一生懸命やるつもりあって」

「やるとも、葉ちゃんと一緒にやるのかい」

「いいえ、一緒じゃないわ……けど、とっても六ヶ敷い芸なの、今は誰もしないわ、せんに源二郎爺さんが、若い時にやったきりですって、それが出来りゃ親方だって、大事にするわ」

「うん」

「ほんとに出来たら、二人でしましょうか、親方に頼んで……」

「ああ、そうしよう、でなきゃつまんないや。でも、どんなことだい」

 黒吉は、すっかり朗らかになっていた。昨日までの、じめじめとした気持を、いかにも少年らしく、すっぽりと、脱ぎ棄てて仕舞って、太陽のように笑いたい気持だった。

 下では、源二郎爺が、ゆうべの雨で濡れて仕舞った、座蒲団を干しながら、ふと上を見上げると、小屋の屋根で、少女花形の葉子と、「虫」とが、愉しそうに、話し合ったり、手を握り合ったりしているのを見つけて、怪訝な顔をしていた。



 源二郎じいが、最初に感じた「怪訝」は、やがて一座の全員に、たった一人葉子だけを除いて――拡がって行った。

「虫」と綽名された、陰気な、芸の無器用な鴉黒吉が、まるで生れ変ったように、夢中になって、暇さえあれば、曲芸の稽古を始めたのだ。

 それは如何にも、驚くべき変化だった。オドオドとした女々しい黒吉が、少年本来の「快活」を取戻したのだろうか――、それにしても、その稽古は余りに激烈な、血の滲むようなものだった。

 黒吉の、少年らしく、まだ潤んだ眼は、蜘蛛の巣のような血脈に上気し、固く喰いしばられた唇からは、いまにも鮮血が、タラタラとしたたりはしないか、と危ぶまれた。

 時々彼の体は、宙を飛んで、羽目板に叩付られる事があった。それでも、つい漏らす呻き声の外、黒吉は矢張り、歯を見せようとはしなかった。

 しかし、その肉と骨との相尅するような、鈍い、陰惨な音を聴くと、却って、不思議そうに見守っていた他の座員達の方が、或る者は思わず唇を噛締め、又或る者は顔を外向そむける程だった。そして、厳格な、氷のような団長ですら、ただ唖然とするばかりだった。

 だが、葉子は――。

 可怪おかしな事に、この黒吉の心を、急廻転させた、その原動の葉子が、此処には、姿を見せていなかった。けれども、誰か座員が、四辺あたりを、よく注意して見たならば、この稽古場の隅の、薄暗いところから、隠れるようにして、この様子を見詰めている葉子に、気がついたろう。

 葉子に気がついたとしても、誰も、この黒吉の大変化に、この少女を結びつけて考えるものはなかった――いや、むしろこの血みどろな稽古には、彼女が、隠れ見していた方が、よっぽど自然に見えた。

 しかし、これは、彼女にとって、恵まれた偶然だった。彼女は、先刻さっきから、この野獣のような、肉と骨との相打つ、荒々しい雰囲気に飛出して行こうとしても、足が前に出ぬ程の亢奮を感じていたのだ。

 そして、眼の前にのたうつ肉塊がかもす、グイグイ締付けられるような、圧力を伴なった幻酔感は、この少女に、立っている事にすら、苦痛を与えた。彼女は、に汗を握り、荒い息吹きの中にあった。

(あっ、血が――)

 黒吉は、鼻血を出したのだ。彼は周章あわてて、上を向くと、鼻血は、鼻のわきから、スーッと赤黒い線を残して、耳の裏に、遁げ込んで行った。

 葉子は、瞬間、ハッと胸の中が、空虚からになったように感じた。それと同時に、こみ上げて来たのは、クラクラするような、倒錯した恍惚感だった……。

 葉子は、ふと気がついたように、四囲あたりを見廻してみると鼻血を出した為か、もう黒吉の姿はなく、他の少年座員達が何か密々ひそひそと囁き合いながら、銘々に稽古を始めるところだった。

(黒ちゃんの事を、噂してんだわ)

 葉子は、そう思いながら、黒吉を捜す為にようやく立上った。

 方々捜しあぐねて、やぐらの日当りに、黒吉の姿を見つけると葉子は、直ぐ飛んで行った。

「黒ちゃん、すごいわねエ、あんなに勇気があると思わなかった」

「すごかないさ、葉ちゃん見てたの」

 黒吉は、鼻血は止ったけれど、まだ腫れ上った体をさすりながら、それでも、嬉しそうだった。

「見てたわよ、鼻血出したんで驚いちまったの……、あら、真赤よ、血が滲んでいるわ」

 葉子は、何故か、しげしげと、その赤く膨脹ふくれて、毛穴に血を含んだ黒吉の肩を、見詰めた。



三ノ二

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 櫓は、一杯の明るい日射しを受けて、ぽかぽかと暖かく、四辺あたりには、他に人影が見えなかった。

「血が出てる? アッ、触っちゃ痛いよ」

「…………」

 葉子は、返事もしなかった。しかし、その眼は、焼けつくように、あざになった傷に、注がれていた。

「黒ちゃん、痛い?」

 葉子は、そういって、又そっと傷に触れたようだ。

「痛……」

 黒吉は、思わず、出かかった言葉を、呑んで仕舞った。

 傷の周囲あたりに、見えないけれども、何か生温かいペラッとしたものを感じた。

(舐めた?……)

 と思うと、その傷のある方の半身がズーンと、足の先きまで、痺れたように感じた。

「葉ちゃん……」

 周章あわてていった、その言葉までが、痺れていた。

 黒吉自身にとって、こんな異様な、触感は始めてだったが、尚も二三度舐められるのを感じると、これはあながち、不快なものではないように思えて来た。

 むしろ、くすぐられた時に感ずる、あの不思議に、胸のどきどきする快感があった。

 粘々ねばねばとして、弾力を持った、暖かい彼女の舌が、さぞ醜くいであろう傷の上を、引ずるように、過ぎる度に、黒吉の昂ぶった神経は、ズーン、ズーンと半身を駈下って、足元に衝突した。

「どお、痛い?」

 葉子は、彼の顔を覗きこんだ。

「ううん」

 黒吉は、周章て頭を振った。

「痛いもんか」

「だって、体が震えていたんだもの。舐めた方が早くなおるんだって、いったわ」

 傷に唾液つばきをつける事は、彼等の中でありふれた、最も原始的な、治療法だった。しかし、葉子が、唯、本当の親切心から舐めて遣ったのだろうか――。尠くとも黒吉は、彼女の親切と信じていた。が、先刻さっきの、不可思議な様子を考えてみると、恐ろしい事に、この可愛いい少女は、このむごたらしい血の滲んだ傷に、残虐な魅力を、舐めたい衝動を、感じたのかも知れない。いや、確かに、その亢奮を感じたのだ、唾液つばきをつけて遣るだけなら、何も、舐めてやる程の事もないだろうから――。

 しかし、黒吉の胸は、幸福に、膨らんでいた。

「葉ちゃん、もういいよ。もう痛くないから」

 葉子は、黙って顔を上げた。

「俺ア、葉ちゃんに訊きたい事があるんだ」

「なによ」

「何って。なぜ俺みたいにきたないもんと、遊んでくれるんだい」

「醜なかないじゃないの。あたしあんたが好きよ。穏和おとなしいんだもん。義公みたいになまっちろい、それでいて威張っている奴なんか大嫌さ」

 義公は同じ黒吉一座の少年座員で、可愛いい美少年だった。黒吉は彼女の口から、その名前を聴いただけでも、快よくはなかった。

「……それでさ、義公ときたら梯子の上であたしを受取る時なんか、わざとぎゅっと抱くのよ」

 黒吉の眼の前には、義公の生意気な顔が浮んだ。

(畜生――)

 彼はその幻影を撲り倒すように、口の中で呶鳴った。その時、黒吉の心には少年らしからぬ、激しい「嫉妬」が、火花のように散っていたのだ。



三ノ三

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「葉ちゃん、俺ア死んでも義公なんかに、負けねエよ」

 黒吉は、そう吐出すようにいうと、傷の痛いのも忘れて立ち上った。

「ほんとに負けないでね、あんたがここの立て役になったら、あたし嬉しいわ。……夫婦いっしょになってもいいわ」

夫婦いっしょに」

 流石に黒吉は、子供っぽい顔を、本能的な羞かしさに、一寸あからめて、葉子を見返した。

「ほんとよ。……嘘だっていうの」

 葉子は、むきになって、口を尖らせた。

「よし。じゃここで約束しよう」

 黒吉は、照れ隠しにこういうと、小指を突出した。そうしてこの二人は、明るい櫓の上で、陽を一杯にあびながら、如何にも子供らしい方法で、固い堅い約束を交わした。

 ――この少年と少女の約束が、どんな形で彼等を訪れるだろうか……。それは全く不明であるけれども、この陰惨な、そして執拗な少年と、残虐な空気に、亢奮を見せる少女との間には、到底月並な終結は、望み得ないように思われる。――しかしそれは、ずっとあとの事だ。

 現在の、櫓の上に、陽をあびて立った、黒吉の心は、幸福が、歓喜の浪に乗って、惜気もなくこぼれていた。

 そして、彼の血みどろな猛練習は、尚一層彼の体を、唯一塊の肉として、冷たい床板にのたうたせた。

 又それに比例して、葉子の、彼に対する愛撫も加速度に昂まって行った。

 その愛撫が、どんなものであったか、という事は、二人だけの秘密ではあったが、黒吉は、彼女の唇の裏にある、小さな黒子ほくろを見つけ出したし、又夜の葉子のは、汗に濡れていた事も知った。

 或る時は、そっと衣裳部屋の鏡に、肩の傷を写して見ると不思議な事に、その傷は小さい唇の形に、血が滲んでいるのを――葉子が、強く吸ったのではないか、と思うような――を見つけた事もあった。

 しかし、そうしたくらい影とは別に、黒吉の技倆は、ぐんぐん上達して行った。この命がけの、絶えず心に拍車を受けての猛練習は、あの無器用な、逆立にすら親方を怒らせた頃と比べて、まるで同日の談ではなくなったのだ。

 しなしなと伸びる体は、彼の芸所作しぐさから、全く危惧を取去って、観客にただ陶酔と拍手とを与えた。そして「鴉黒吉」の名は、「貴志田葉子」に並んで、ゲラ紙に刷られた広告ひろめに少年少女の花形スターとして、大きく刷り出された。

 彼は、葉子と名前を並べられた事だけでも、例えようのない程、嬉しかった。それがもし、新らしい町に来て、座員一同お広目に、町中を列を造って練る時など、二人だけ一緒に小さい車に乗り行列に加わっていたが、その時黒吉はこってりと塗られた白粉の下で、どんな陶酔を持てあましていた事か――。

 彼は芸にかつて味わった事のない自信を感ずると伴に、又忘れ得ぬ執着を――恰度葉子に味わったような――を感じた。

 黒吉は、昔とった杵柄きねづかの、源二郎爺に呼吸を教わりながら、いよいよ恐ろしい曲芸の稽古にとりかかった。

 それは、高い小屋の天井の、両端にブランコが垂らされ、その一つから、他の一つに飛移る――と、口でいえば簡単ではあるが、眼のくらむような高い小屋の空での、離れ技は、一か八かの冒険だった。一寸、手を滑らせば、遙か下の冷めたい大地に、腐った無花果いちじくのような、血の華を咲かせなければならないのだ。



 こうした、幼き少年にしては、余りに多彩な雰囲気の中にようやく、芸と云うものと、葉子との交渉に、一日の殆んどを消費するようになってから、黒吉の周囲は、幾つかの事件を何時の間にか、過去にのこして、彼はもう十六の少年になっていた。

 しかし、この長き苦練は、幸い葉子の慰撫を受けて、そう単調なものではなかった、と同時に、決して無駄でもなかった。

 彼は既に、この一座で、押しも押されもせぬ、花形曲芸師だった。如何にも、十六といえば、年からいっても、彼等の世界では、もう立派な、一人前の男なのだ。その上他に誰も出来ぬ、恐ろしい空を飛ぶ曲芸を、彼自身の十八番おはこにして仕舞ったのだから――。

 又ここに、忘れてならないのは、葉子の事だ。

 葉子も、何時か、体全体に、脂肪を持った、ふくよかな肉がつき、ろやかに、体から流れ出る線は、白く、そして弾力に富んで来た。又、彼女の傍を通り過ぎる時、ふと感ずる、淡い香りは、ハッキリと彼女の成熟を物語っている。尚又葉子の恵まれた美貌は、年と共に、一層、妖しき迄の完成に近づきつつあった。

 白く抜出た額に、頸を振る度に、バサッとかかる、漆黒の断髪は、海藻の美だった。そして明るいと小気味よい鼻は静観の美であり、かすかに開かれた紅唇くちから覗く、光さえ浮んだ皓歯こうしは、観客の心臓を他愛もなくえぐるのだ。

 この美しき葉子が、何故、あの醜くい容貌を持った黒吉に好意を見せるのか――。

「葉ちゃんもヨ、物ずきじゃねエか、なんぼ、芸が上手くなったからって、黒公なんかと……。まるで色男が居ねエ訳じゃあるめエし――」

 ピエロの仙次が、その可笑しな扮装の儘で顎を撫ぜた。

「ははは。――お仙様という色男がいるのになア……」

「まったくヨ」

「テ、しょってやがる」

 冗談まじりの会話ではあったが、これは彼等の間で、最も興味ある、そして不思議な問題だった。

 仙次のいった事から見れば、座員は、黒吉が上達した為、葉子の好意を受けた、と考えているようで、あの幼き日の、不思議な二人だけの出来事を、誰も知らないように見えた。

「だけど――」

 仙次は又真顔になって、続けた。

「こんな事、聞いたぜ。黒公の奴がなア俺にいったよ。俺ア葉ちゃんと夫婦いっしょになるんだぜ、葉ちゃんが、そうしようといったんだ、って抜かしやがる。――面白くねエよ」

「ほんとか。――まったく今の調子じゃ解らねエぞ……」

「莫迦いえ!」

 突然、口を出したのは黒吉の為に、花形の地位と一緒に、葉子まで奪われた、美少年の義公だった。

「そんなことがあるもんか。おら、ちゃんと知ってるんだ。黒公の奴はちょいちょい葉ちゃんに撲られてんだぜ」

「え、ほんとか……」

 そこに居合せたものは、思わず義公の亢奮した顔を見詰めた。



四ノ二

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 義公は、不意に、一同の視線を浴びて、その可愛いい顔をぼーっと上気させながら、それでもすぐ続けた。

「ほんとだとも。俺ア、ハッキリ視たんだ。それも鞭で撲られてたぜ」

 誰も、返事をするものはなかった。

「……だけど、だけど黒公の奴、平気なんだ。喜んで撲られてやがんだ。葉ちゃんとにやにや話しながら撲られてんだぜ……」

 そういうと、義公も不審気に頸をかしげた。勿論、いま聞いたばかりの仙次を始め他の座員に、その不思議な悦楽の原因なぞ、解る筈はなかった。

 悦楽――如何にもそれは、恐ろしきたのしみだった。が、葉子の美しい肉体の中には、黒吉の猛練習が生んだ、血と肉と骨の相尅する陶酔境が、空を切る鞭の下に、生々しく甦えり、彼女を甘美な夢に誘うのだった。

 そして又、黒吉は、この乱れ飛ぶ鞭の下に、なお、欣然としているのだ。

 彼は、眼の前に荒れ狂う、美しき野獣の姿に、尚新たな慾感を覚えたのだ。

 この暴風のような、狂踊が済むと、後は雨のような愛撫だった。黒吉は葉子の汗ばんだ、指のつけ根がえくぼのように凹んでいる、柔らかいを、肩に感じると、胸には熱く息吹くくなくなとした乳房を受けた。それは無論、薄い肉襦袢越しではあったが……。

 黒吉は、すれすれに近づけられた、葉子のの中に、自分の醜い顔が写っているのを見つけて、無意識にハッと眼を外らした。しかしあの写った自分の顔の中の瞳に、又葉子が写っているんだ、と思うと、もう一遍覗いて見たい気もした。

「葉ちゃん……」

 彼は、口の中でそういうと、思い切り彼女を抱き締めた。だが、いくら力を入れても入れても、彼女には感じないのじゃないか、と思われる程、葉子の体は、むちむちと豊かな弾力に充ちていた……。

 ――こうした遊戯は、陰の陰で、誰知らずの間に行われた。そして、も一つの陶酔は、観衆の眼の前で行われたのだ。

 それは、彼等の曲芸だった。

 一渡り、はやし立てられたジンタが済むと、旋風のような、観客の拍手に迎えられて、ぴったりと身についた桃色の肉襦袢を着、黒天鵝絨びろうどの飾りマントを羽織った黒吉と、同じ扮装こしらえの葉子とが、手を取りあって、舞台に現われる。

 そしてその黒天鵝絨びろうどのマントを、パッと真紅な裏を見せながら脱ぎ捨てると、小屋の天井の両端から、一本ずつ垂らされた綱に、手をかけた。と見るともう二人は、殆んど並行して吸上られるようにするすると登って行った。

 その綱の先きには、蜘蛛の巣のように張り廻らされた丸太の間から、源平織りにされた綱で、如何にも曲馬団らしい簡単なブランコが、一つずつ吊されていた。

 観客が、そんな事を見ている中に、もう身軽な二人は、銘々ブランコまで登りついていた。それと同時に、屋根裏の助手が、登って来た綱を、大急ぎで捲上げ、遙か下の舞台ではピエロに扮した仙次の、物馴れた口上が、この小屋の空間に相当な距離を置いて吊された二人の間へも、途切れ途切れに聴えて来た。



四ノ三

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「え――皆様……この度命がけの大冒険……ブランコからブランコへ飛移り……あの美しき少女が首尾よく受取りましたら、御手拍手……とござアい」

 その途切れ途切れの口上を聴きながら、黒吉は遙か下の舞台を下すと、ピエロの仙次は、可笑おかしな身ぶりに、愛嬌をふり撒き、代って救助網を持った小屋掛人足が、意気な法被はっぴを着て三人ばかり出て来るところだった。

 黒吉は、思わずに浮いた脂汗を、かわがわる肉襦袢の腿のあたりに、こすりつけた。

(落ちたら最後だ)

 救助網なんかは、勿論名のみのものだった。この物々しさは、黒吉にとって、大した役にはたたなくとも、観客の心をエキサイトするには、充分効果的だった。

 黒吉は、ちらりと葉子の方を見ると、黙々と呼吸いきを整えながら、一つ二つと数えるようにブランコをゆり始めた。

 やがてそれが、大ぶりになって来ると、丸太組の小屋は、どこからともなく、鈍い軋みの音を、伝えて来た。

(アッ……)

 小屋全体が、一つグンとゆれたかと思った瞬間、黒吉の体は、一つの桃色の肉塊となって、宙へはじき出された。

 その肉塊は、くうでグルッと宙返りをする、かと見ると、もう葉子のブランコへ飛移っていた。

 それは、まだ観客の眼の底に、桃色の線が残っている程、瞬間の離れ技だった。そして、観衆が思い出したように、ざわざわとしながら、激しい拍手を送る頃には、黒吉は既に、葉子の暖かい乳房の間に固くいだかれて、自分の劇しい動悸の音を、聴いていた。

 拍手の音が、ようやく静まって来るとブランコの上の、二つの肉体は、もつれ合うように極めて徐々に注意深く動いていたが、すぐその縺れが、解けたのを見ると、葉子は、脚でブランコの綱をからんで、垂下り、そのほの白い手の先きには黒吉が、足を吊されて伸び伸びと、ぶら下っていた。

 そして、葉子の腰の辺りが、くねくねと微妙に動いたかと思うと、程よく調子をとられた、つなぎ合わされた一組の肉体は、頸の痛いのも忘れて、一生懸命見上げている観客の頭上に、揺れ始めた。

(もし葉子の、組んだ脚が解けたら)

(もし葉子が、手を離したら)

 そんな事を考えた観衆の胸には、次の瞬間への、死のような緊張が、寒む寒むと、しみ渡った。

 それはあながち、危惧ではない。

 葉子は、この美しき野獣は、血に何か知らぬ魅力を、感じているのだ。

(発作的に、手を離しはしないか)

 黒吉ですら、時々そうした、蒼白い予感に、体中の血が先きを争って、内部へにげ込んで行くような恐ろしい気持を感じた。

 こう思うと、しっかり葉子の手に握られた足首に、ねとねととして脂汗がわき、ずるずると滑って、いまにも虚空へおっこちそうだ。

(葉ちゃんの為なら、死んでもいいや)

 又一方、そうした気持が、恐怖感を蹴飛そうと、胸の中で争っていた。

 だが、大丈夫――。葉子は、しっかりと歯を喰いしばり、可愛いい顔に、朱を注いで、黒吉の足をつかんでいる。

(舞台で失敗する位なら、その儘死んだ方がましだ)

 この先天的な曲芸人気質が、緊張した葉子の小さい胸を占領して、幸い、他の感情を与える余地がなかったから――。



 こうした不安な、ジメジメと威圧されるような雰囲気は、結局、この命がけの離れ技のかもす一つの副産物だった。

 観客が、銘々の戦慄に、手一杯の汗を握っている中、小屋の空では、肉体で組立てられたブランコが次第次第に、振子のように大ぶれになって来た。

「調子をはからいまして、これなる少女が手を離す、途端に、少年が空を切って、あちらのブランコへ飛移りましょうという、千番に一番の……」

 これは、先刻さっきの、仙次が、述べた口上だったが、観衆は、その瞬間を見遁みのがすまいと、瞬きもしないで、ブランコの振れについて、頸を右に、左に廻していた。

 誰かゴクンと唾を飲んだ音が、聴えた、と同時に、黒吉は、葉子の手を離れて、空に投出されたその時、ハッと観衆の息が、止ったようだ。

 黒吉の体は、恐ろしい勢いで、小屋の高い屋根とすれすれに、矢のように飛んで、体が、宙に捻れたかと思うと、物の見事に、元のブランコに飛移っていた。

 それは如何にも、一瞬の出来事だけれど、黒吉はこの命がけの冒険に、強い強い執着を感じたのだ。

 彼は、その空を切って飛ぶ時の気持が、例えようもなく、好もしいのだ。或はそれは倒錯した快感かも知れないが――。

 ハッと息を止めて空に投出されると、遙か下、色とりどりな、玩具おもちゃ箱のような小屋全体が、自分一人を残して、サッと一転し、半ば夢中で、向うのブランコへ飛乗ると、何処へ隠れていたのか、急にあびたような汗が、一遍に噴出ふきだし、心臓は、周章あわてて血管の中を、方々へ衝突しながら、駈廻った。

 この鋼線のように、張切った気持、生と死との僅かな隙間を、息を殺して飛抜ける自分に、葉子の愛撫にも劣らぬ、激しい眼の眩む陶酔を覚えた。

 自分一人で、葉子の方のブランコへ飛移る時、左程でもないが、帰りの場合、葉子に足を掴まれて、逆様に吊された儘、大きく振られると、記憶とか思考とか、そういった精神的能力は、ことごとく振り棄てられて仕舞うのだ。

 そして彼は、まるで空っぽな頭と、投出された瞬間の、体全体の引千切ひきちぎるような、虚無感の中でひくひくとはねる神経に、黒吉の、あの先天的なひねくれた気質が、調和し、心臓を掴み出されるような、底知れぬ魅力に、酔い痴れていた。

 しかし、近頃は何故か、この曲芸を済ますと、黒吉は又、昔のように、ぽつんと楽屋の隅で、独り考え込んでいた。

可怪おかしいなア)

 黒吉は、呟いた。彼はこの頃、あの曲芸の最中、葉子の手を離れて向うのブランコへ飛移る瞬間に、ふと葉子の笑い顔なんかが、眼の前に浮ぶのだった。

 勿論、葉子の方へ飛移る時なら、彼女の顔が見えても、別に不思議はないが、全然、彼女と後ろ向きになって、命がけで飛んでいる時に、極めてぼんやりとはしていたが、確かに葉子の顔が、幻のように、小屋の空に浮くのだった。

(変だなア)

 黒吉は、又そう呟きながら、楽屋の向うを見ると、恰度通り合せた葉子が、

「なんか用?」

 呼ばれた、と感違いしたのか、房々とした断髪を、後ろの方へ、掻き撫ぜながら、近寄って来た。彼女の、ぴったりと体についた、肉襦袢に包まれたむちむちとした肉体は、歩く度に、怪しくうごめいて、又新らたに、黒吉の眼を奪った。



五ノ二

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「呼んだんじゃないけど……」

 黒吉は、自分の一寸した独語ひとりごとにも、葉子が聞きとがめて、わざわざ来てくれるのが、たまらなく、嬉しかった。

「何いってたのよ、いま」

「何って(変だなア)って独語ひとりごといったのさ」

「どうして変なの、何が――」

「そういわれると、困るけど、一寸、不思議な事さ」

「何さ一体、……まあいいわ、意地悪ねエ、あたしなんかにいいたくないんでしょう、いいわ、そんなら」

 葉子は鼻を鳴らすような声で、そういうと、豊かな肉体を、くねくねとさせながら、すねて見せた。

 黒吉は、時には鞭で自分を打ち、嬉し気に笑う、年若き麗魔が、こんな素晴らしい技術を持っているのか、と思う前に、唯、官能的な美に溺れて仕舞った。

「いうよ。いうよ。葉ちゃんにいえない事なんか、ないじゃないか……俺ア、葉ちゃんの顔を見るんだよ」

あたしの顔を?」

「うん、それが、空を飛ぶ時なんだ、あのブランコでさ。まぼろしっていうんかしら」

「まあ、あんな時。あたしなんか一生懸命で、なんにも考えることなんか出来ないわ」

「そりゃ俺だって夢中さ。だけど眼の前に、ぽーっと浮ぶんだよ。だから、変だなア、っていったんだ」

「へんなの。……あたしどんな顔していて? そんとき――」

 如何にも女の子らしい質問だった。黒吉は体を捻って、葉子の顔を覗き込みながら

「こういう顔さ。肌は雪のように白く、うるしのような眼に、椿のはなびらよりも紅く可愛いい唇で……」

 黒吉は、知っている限りの美文を並べると、「えくぼが指先きを吸込むように……」

 そういって、彼女のふくよかな頬を、指でつついた。

「いたい――わよ」

 葉子は、大袈裟に顔をしかめると、それでも、嬉しそうに、クックックッと笑った。

「この綺麗な顔が、俺の頭を占領しちまったらしい」

 黒吉は、又、わざと真面目な顔をしながら、続けた。

「しらないわよ。おだてたって駄目よ」

 そういうと、葉子は、笑いながら舞台の方へ駈けていって仕舞った。

 黒吉は、薄く笑って、葉子の、駈ける度にぷかぷかと跳ねる断髪の背後うしろ姿を、見詰めていたが、葉子の姿が、しきりの幕に、隠れて仕舞うと同時に、又頭の中に拡がって来たのはあの奇怪な、幻影の事だった。

(まあいいや、俺は本当に、葉ちゃんの事ばかり考えているんだから)

 途端に、一休みしていたジンタが、あの耳馴れた狂燥を、響かせて来た。

(もう開場だな)

 彼は、ぽん、と一つ、腿を叩くと、ざわざわと伝わって来た観客の足音を、聴きながら

(さあ、支度だ)

 口の中で呟いて、腰かけていた衣裳箱から立ち上った。

「黒ちゃん」

 おやっ、と振返ると、葉子が、何故か珍らしく緊張した顔をして、駈けて来た。

「大変よ、黒ちゃん。あんただけ来ないんで、親方怒ってるわ」



五ノ三

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「何さ、一体――」

「何さ、じゃないわよ。大変よ。親方のねエ、あの指輪知ってるでしょう。いつもめている金のさ。あれがないんですって、確かにさっきまであったんだから、小屋の中で落したに違いないっていうのよ。開場あける前に捜さなきゃ、きっとなくなって仕舞うわ――、今まで皆んなで血眼ちまなこになっていたのよ。

 そこへあんただけ来ないんだもの、親方、面白くないらしいわ……。

 だけど、どうしてもないもんだから、親方、ぷんぷんしちまってね、到頭いま開場あけたの、あんたすぐいって見た方が、いいわよ」

「そんなことをいったって、誰も呼びに来ないじゃないか、解りやしないよ――」

「そんなこと、いまいったって駄目よ、ここにあんたが居るってのを知ってるのは、あたしぐらいなもんだわ――」

 こういって、葉子は、ずるそうに笑った。

「なんだ、じゃ葉ちゃんは、わざと俺に教えなかったのか……。ひどいなア」

「そうでもないわ、まあいって御覧なさいよ」

(ひどい奴だ。何故俺に教えないんだろう。親方が怒るとどんなもんだかも知ってるくせに……)

 と、彼は思ったが、葉子の喋ったあとで、しっとりと濡れた、色鮮やかな唇から流れ出す言葉に、反抗する気には、なれなかった。

「うん、いってみよう……」

 黒吉は、それだけいうと、あとの言葉は、胸の中に吐き棄て、歩き出した。

(あれは、普段から、バカに大事にしていたようだ、ほんとになくなったら、きっと、俺にひどくあたるぞ)

 黒吉は、歩きながら、持前の陰鬱が、倍加されるのを、自分でも感じた。

 行って見ると、部屋の隅に、親方がむっつりとして、舞台の用意に自分のシルクハットの埃を払っていた。そして、その附近には、衣裳部屋、支度部屋――無論、簡単に幕で仕切られたものだが――などを出番の遅い座員が、如何にも、捜しています、というように、歩き廻っていた。

(まずいな)

 彼は、親方がシルクハットの埃を払っている手つきが、まるで叩いているように荒々しいのを見て

(よっぽど御機嫌が悪いな)

 と、直感した。

 黒吉は、成るべく親方の方を見ないようにして、こそこそと捜し出した。しかし、大勢の者が捜した後だもの、そう簡単に見つかる筈はなかった。

 それどころか、彼は、気の所為せいか親方が、時々自分の方に、白い視線を送るようで、ひやりとしたものを感じた。

「黒公。あるか。尤もいま頃から捜しちゃある方が可怪しいが、一体、何を捜すのか知ってるのか――」

 親方の声は、無気味な程、静かだった。だが、それには、親方一流の皮肉があった。

(来たな……)

 黒吉は、ゴクンと唾を飲んだ。

 と同時に、彼は思わぬ幸運を拾った。

「黒公。出番じゃねエか、何処に居るんだ」

 幕の向うで、そう呶鳴ったのは、仙次らしかった。

 これは彼のひがみかも知れないが、仙次は彼を助ける為に、呼んだのではないようだ、むしろ、まだ黒吉が来ないと思っている仙次が、わざと親方に聞えるように、呶鳴ったのだ――と見た方が当を得ていただろう。

 それはともかくとして、この場合、黒吉には仙次が、有難い恩人にも思えた。

「じゃ……一寸行って来ます」

 黒吉は、それだけいうと、親方が返事をしない中、早々に部屋を飛出した。



五ノ四

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 彼は、急いで肉襦袢を舞台用のものに着換えると、いつものように、ジンタの行進に送られ、葉子と一緒に、舞台には立ったが、ともすれば心は、あの指輪の紛失に奪われ勝ちだった。

(こんなことを考えていて、失敗したら大変だぞ)

 黒吉は、大きく頭を振って、その心配を振落し、葉子にちらりと眼くばせすると、何時いつものように、するすると身軽く、天井のブランコに綱を伝ってのぼって行った。

 そして、要心深く、ブランコに乗って、一つ二つと、心を落着けながら、ゆらし始めた。

 彼の目の前には、もう親方も指輪も、観客もなく、妖しい縞を織った世界が激しく去来し、唯一つ葉子の乗ったブランコのみが、或る時は、遠く針のように痩せたかと思うと一瞬にして眼一杯に立ち拡がり、すぐ又、糸のように視界を顛落していた。

(よし――)

 黒吉の血は、全部、神経と入れ換った。彼の体は、ブランコを離れたのだ。

 パッとあたりは闇になった(或は彼が、眼をつぶったのかも知れない)次の瞬間、なぜか小屋の隅の洗面所のあたりが、薄々とではあったが、眼の前に浮んだ。

(おや、何か光っているぞ)

 その洗面台の陰に何か光っているものがあるのだ。

(アッ、指輪だ。見つけたぞ)

 その瞬間、眼の端を、葉子を乗せたブランコが、矢のように通り過ぎようとした。

(しまった!)

 恐ろしい力を持った恐怖が彼の脳裡に、硫酸のように、沁透しみとおった。

 グワッ、と心臓を吐出すような叫びを漏らすと、黒吉は、渾身の力で、空に体を捻った。幸い、彼の片手は、ブランコの一端を、やっと掴むことが出来たのだ。

 〈[#「口+息」、50-3]〉ッ。彼は、鉛のような吐息を、下界に落した。

 そして、漸々ようようブランコに這上ることは出来たが、もうとても、葉子の手にぶら下って、元のブランコに飛び帰る事は出来なかった。

「どうしたのよ、黒ちゃん……」

 耳元で、案外平気そうに囁く、葉子に答えようとしても、体の中のものは、全部胸につまって、例えようもなく、重苦しく、そのくせ腹の中は、まるで空っぽで、力というものは、跡形なく消え飛んでいた。

 到頭、断念した黒吉は、気を利かして係りが、綱を下してくれたのにすがりつくようにして、舞台に下りつくと、こそこそと遁げるように、楽屋に這入って仕舞った。

 気のいい観客は、これが曲芸だと思って、一生懸命、拍手してくれているが、舞台裏の黒吉には唯、わらわれているとしか響かなかった。

 黒吉は、おずおずと、団長の部屋の方へ歩いて行った。

(どんなに呶鳴られても仕方がない)

 そう思っては見たが、親方の部屋の仕切りの幕が親方の怒りを受けてか、ひくひくと顫えているようなのを見ると、一瞬、立止って仕舞った。

 果して中には、火のような、親方の憤怒があった。

「莫迦、よくのめのめ来やがったな」

 黒吉は、のっけから呶鳴られると、却って心は、シーンと落着いて行った。

「親方。俺ア指輪をめっけたんです。あの空を飛ぶ時に……」

「バカいえ。あんな高い所から下が見えるか」

「でも、でも……」

 黒吉自身も可怪おかしいとは思ったが、この際、これ以外に方法はなかった。

「でも確かに見たんです。洗面所の陰に……」

 親方は、ジロリと黒吉を睨むと、

「よし」

 そういって、わざと跫音を響かせながら、出て行った。



五ノ五

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 黒吉は、しょんぼりと、突立った儘、親方の遠のく、跫音を、聴いていた。

 頭の中は、色々の考え事に、ぽーっと上気し、床板の割れ目に落されたは、何故とはなく、潤み勝ちだった。

(弱った事になったなア)

 彼は、無意識に、脂汗の浮いたを肉襦袢にこすりつけた。

(ほんとにあってくれればよいが……いや、ある筈がない)

 あんな事、いわなければよかった――、その悔恨が、時と共に、もくもくと拡大されて行った。

 沼のようなこの部屋へも、時々観衆のざわめきと、拍手がうしおのような高低を持って、伝わって来た。

 突然、小屋の向うから、ジンタの奏曲が始った。そして、その悄悵しょうちょうとして、あわい音色のクラリオネットが、「ここは御国を」などの、聴き馴れたものを、一つ一つ教えこむように吹き鳴らす時、黙々と聴入った黒吉の胸の中には、何かしらぬ熱いものが、音もなく押上げられていた。

 彼は、久しく忘れていたものに、眼がしらが潤むのを、唇を喰縛くいしばってこらえた。その時、がたッと背後うしろの方で音がした。

(親方?)

 黒吉は、ハッとして目を拭うと、背後うしろを振向いた。

 そこには汚れた鼠色の幕が、風を受けたように、重そうに揺れ、その幕の下と、床板との二三寸の隙間から、衣裳用の箱か何かが横倒しにされたのが、僅かばかり見えた。

 彼は、ジッと、その仕切りの幕を、凝視した。彼は見たのだ、振向いた瞬間、極く瞬間ではあったが、その幕の中程にある小さいカギ裂の向うに、ちらりと動いた、白い手を。

(葉ちゃんだ……)

 彼は、そう直感した。

(何故あんな所から覗こうとしたんだろう)

 不思議でならなかった。明らかに葉子は、覗こうとして、箱にあがり、それがひっくり返って、あんな音を立てたに違いない。

(俺が怒られると思って、心配したのかな)

 彼は、葉子の、可愛いい紅唇くちを憶い出した。

(だが――)

 黒吉は、さっきの危うく身を粉々にしようとした、恐ろしい瞬間に、案外平気な顔をしていた、むしろ妖しい笑いさえ浮べていた葉子の好奇の眼が、スーッと網膜をぎると

(あいつ、俺がどんな事されるかと思って見に来たんだな)

 そうした、生れて始めて葉子に、ある冷めたい気持を感じた。

(確かにそうだ)

 心配して来てくれたのなら、いま親方が居ないのだから、慰めの言葉一つ位、かけてくれる筈だ――、それに、葉子は時々黒吉を撲って、不思議な愉悦を覚えるらしいのだ。

(ちぇっ、綺麗な顔してやがって)

 黒吉は吐出すように呟いた。

「黒公。黒……」

 親方だ。彼は思わず、ドキッとすると、周章あわてて振返った。

「黒公、見ろ、あったぞ。不思議だよ、実際まったく

 親方は、そういうと、キョトンとした黒吉の眼の前へ、左手を突出した。その節くれ立った、頑丈な左手の、薬指のつけ根には、何時ものように、あの金の地に、何か彫られた指輪が、黙々と光っていた。



五ノ六

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「ああ、ありましたか……やっぱり……」

「あったよ。黒公、一体どこで見つけたんだ」

「よかったなア……ですから、あの空を飛んだ時に……」

「冗談いうな、もうおこらねエからいってみな千里眼じゃあるまいし……それにあんな高いところから下がハッキリ見えるもんか、おまけに、あそこからは、洗面所は陰になって、見えねエ筈だぜ……」

「そ、そうですが……」

怪訝おかしいな、成程、親方のいう通り、あの天井からは、恰度引幕の陰になって見えない筈だ――)

 黒吉は、一生懸命に、考えを引纏めようとしたが、頭の中は、一層もやもやとするばかりだった。

「なぜだか知りませんが、とにかく見えたんだす。もやもやッとした中に、洗面所と指輪だけが……指輪のことばっかり考えていたからかも知れませんけど――」

「まるで夢みてエな話じゃねエか、夢中になって考えていたから――というんだな」

「ええそうなんです」

「ふーん」

「だもんで……」

 黒吉は、折角、直って来たらしい親方の機嫌を、又こじらしては大変と、焦慮あせって弁解に勉めたが、自分にもハッキリと判らないことが、親方に呑込めるだろうか。

「だもんで、みつけたな、と思った途端に、舞台のことを忘れちまって、失敗しちゃったんです。……どうも済みません……決して悪気でやったんじゃないんです……」

「あたりめエだ、悪気でやっても命がけだ……顔を洗う時に落したのかな……」

 親方は、指輪を撫ぜながら、独り合点すると

「まア、今日のところはいいや……だが、これから女の夢なんか見やがって、おっこちたら承知しねエぞ……」

「エッ」

 黒吉は、葉子の幻のことを、いわれたのか、と思って、ギョッとした。

「ハッハ…………。よしよし、向うへいって支度をしろ」

 親方は、指輪が見つかった御機嫌で、珍らしく冗談をいったのだ、と、気づいた。

「ヘエ、済みませんでした……」

 黒吉は、出来るだけ無表情な顔をして、恐縮を見せながら、親方の部屋を出た。

「不思議だ――。実に怪訝おかしな話だ。あの葉子の空に浮いた幻といい又今の、指輪の発見といい全然見える筈もないものが、それも、まるで考える力も、記憶も、すっかり振り落して、無我夢中で空を飛ぶ時に、ヒョクと、頭の中を掠すめるのだ――」

 一体、これはどうしたことだ。黒吉は、親方の部屋を出て、楽屋の片隅まで来ていた。しかし、頭の中は、余すところなく、それらの狂気染みた疑問に占領され、それらの疑問は、又激しく、熱っぽく摩擦しあった。

(俺は、昼日中、夢を見ているのじゃないか――)

 黒吉は、何時も腰掛ける衣裳箱に、ストンと腰を落した。

 箱の冷めたかったせいか、氷のような恐怖を覚えた。

(俺は、気が違ったんじゃないか――)

 こんなことを沁々しみじみと考える程、恐ろしいことはない。

 自分は、気が確かだ。と、どの証拠で断言することが出来よう。狂人だって考えることは出来る、物を視ることも出来る。喋ることも、聴くことも、寝ることも、走ることも――。

 それらのことが、「さあ、どうだ、どうだ」とばかり、恐怖と、懊悩の泥沼に、黒吉自身を押込むのだ。



「ちぇっ、勝手にしやがれ……」

 黒吉は、ネトネトと口の中で澱んだ言葉を吐棄てた。

「俺が、この俺が気違いだって。ふん」

 彼は、胸の中の心配を引剥がす為に、わざと声を立てて、自分自身を嘲笑した。

 しかし、誰もいないところで、大きく独語をいったあとは、却って、狂気きちがい染みた静けさだった。

 ジッとしては、いられない気がして、どんと一つ思い切り勢いよく、腰掛けていた衣裳箱から立ち上ったもののやっぱり、何かしら「不安」が自分の後に、つきまとっているようで、黒吉は、何処へ行くでもなく、汚点しみだらけの防水幕に仕切られた楽屋の片隅を、檻の中の熊のように、往きつもどりつしていた。

 溺れる者のように、例え藁屑にでも、シッカリとすがりつきたい気持に、苛々しながら、歩き廻っていた。

 何か、偉大な力に、骨のベシベシ折れるほど堅く抱擁されたら……きっと、落着くに違いない、と思った言葉の先きに、ふと、

(葉子)

 が浮んだ。

「そうだ。葉ちゃんが……」

 思わず呟いて、立上った。

 歩き廻ったせいか、額に、脂汗の浮くのを覚えた。

 ダガ――。忌わしい翳が、又黒吉を悒欝ゆううつの底に押戻した。

(この頃、葉ちゃんは少し変じゃないか。さっきだって、俺が、親方に怒られるのを見に来たんだ。そればかりじゃない、ワザと俺にだけ、指輪の失くなったのを教えないで、親方に怒らせようとした……)

 次から次へと、最近の葉子の、冷めたい仕打ちが、浮んで来た。

(何故葉子は、俺が、嫌になったんだろう……)

 黒吉は、そう考えると、今まで想像もしたことのない、激しい空虚な気持に襲われて来た。あの白昼夢の恐怖なぞ、古びた写真のように、ぼやけて仕舞った。

 失恋――。黒吉は、愕然とした。

「ば、莫迦な……」

(そんなことが、あるものか)

 口の中で、いくら呶鳴ってはみても、不安は増しこそすれ決して減りはしなかった。

 葉子が、自分から遠ざかる原因が、何んであるか、それが解らないだけに、なお結果が恐ろしかった。

(よし、葉ちゃんに聴いてみよう。悪いとこがあれば、直せばいいんだ)

 黒吉は、急いで舞台を覗いてみた。

 恰度、葉子は出番で、盛上ったような観客の前に、白蛇のように自由に肢体をくねらせている彼女の姿が、艶々と光って見えた。



六ノ二

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 空気が、ざわざわと拍手に乱されると、直ぐ葉子が、心持顔を、上気させて、楽屋に帰って来た。

「葉ちゃん、一寸……」

 黒吉は、小さく手を振って、呼止めた。

「なアに、用?」

「うん、ほんの少し」

「じゃ一寸よ。又、直ぐ出なけりゃならないから……」

 葉子は、興味なさそうに、っき黒吉の掛けていた衣裳箱に、腰を下した。

 彼女の肉襦袢の、腰の辺につけられた銀モールの刺繍が、トゲトゲと、黒吉の眼に沁み込んで、顫えていた。

 黒吉は、口をこうとする度に、心臓が、どきどきと咽喉元に押上って来て、妨げられた。

「何さ、一体……呼んでおいてサ」

「葉ちゃん……葉ちゃんは、やっぱり上手いね」

 黒吉は、考えてもいない言葉が、急に口から転げ出て、ハッとした。顔がカーッとほてったようだ。

「ほ、ほ、ほ、何んだと思ったわ、わざわざ呼止めておいて。いやな黒ちゃん」

 葉子は、如何にも、莫迦莫迦しそうに、腰を浮かせた。

「ま、待って」

 黒吉は、周章あわてて彼女を戻すと、

「一寸待って、訊きたいことがあるんだよ……葉ちゃん、怒らないでね。どうして、俺が嫌いになったんだい、何故」

 思い切って、いってのけた。

「あら、誰がそんなこといったの」

 つぶらな艶黒なひとみが、むしろ、好奇的だった。

「誰って、誰もいわないよ。俺が、只、そう思うんだ」

「まア、いつあたしが、あんたを嫌いだといったの、そんなことないわ」

「だって……口ではいわなくても……そうだろう、と思うんだ。

 せんはとっても親切にしてくれたじゃないか、俺アせんの方がよかった。みんなに下手まずい、下手いって、嗤われたって葉ちゃんだけは、笑わなかったし、元気づけてくれたし」

 黒吉は、くどくどと話しながら、自分の言葉に、瞼が、熱っぽく膨れてくるのを感じた。

「そんなの、あんたひがみよ。あたしが褒めなくなって、皆んなが褒めるだけ、上手くなったじゃないの」

 葉子の顔も、蒼白く、固まった。

「俺ア皆んなに褒められるより、葉ちゃん一人に褒められた方が、ずっとずっと嬉しいんだ。

 そりゃ俺なんか、きたないさ。義公なんかと比べもんになんないさ。けど、俺は、誰がなんといっても葉ちゃんが好きだ……」

「まア、黒ちゃん、何いうの。ほ、ほ、ほ、あんたあたしに恋してんの、大人みたいなこというのね。そんな話よしましょうよ」

 葉子は、勝気な少女らしく、何んでもないことのように、いい切ると、早足で、支度部屋へ行って仕舞った。

 黒吉は、その背後うしろ姿が、ぼーっと霞むと、膨らんだ瞼から熱いものが、頬を伝った。

(葉ちゃんと夫婦いっしょに……)

 そんな、幻想は木葉微塵に、飛散った。

 ほろほろとおちなみだの中に、ハッキリとした葉子の離反が、鋭い熊手のように、胸の中を、隅々までも掻き廻し始めた。



六ノ三

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「黒ちゃん、何、考えてんのよ」

 ぽかん、と気抜けのように突立った儘、狂騒なジンタに聞き入っていた黒吉は、ギクッとして振向いた。

「なんだ由坊か、おどかすない」

「ほ、ほ、ほ、葉ちゃんじゃなくて、お気の毒ね」

 そういって悪戯いたずらッ子のように、体ごと笑ったのは、期待した葉子ではなく、同じ少女座員、薗道由子そのみちよしこだった。

「何がお気の毒だい、そんな……」

「やアだ、知ってるわよ。あんた葉ちゃんと喧嘩したんでしょう」

「ウソ……」

「嘘じゃないわよ、ちゃんと知ってるわ、あたし見たの。葉ちゃんたら変な人ね、あたし、すっかり同情しちゃったわ、あんたに」

「こいつ……」

(大人みたいなこと、いうない!)

 と、いってやろうとしたが、彼には、もう口がけなかった。

 黒吉は、こうしたさびしい時には、何時までも、独りでいたかった。独りでならば、一生懸命、こらえられる泪も、優しい慰めの言葉をかけられると、却って、熱湯となって、胸の中を奔流するのだ。

「いいよ、由ちゃん。あり難う。なんでもないんだよ」

「そお、じゃいいけど……」

 そういいながらも、由子は、何か奥歯に挟ったものを吐出したげに、佇立していた。

 薗道由子は葉子と親しくはしていたが、彼女ほど美貌でもなく、又、芸の方も、目立って上手いというほどではないので、葉子のみを考えていた黒吉とは、自然、没交渉だったのだが、葉子というものを、改めて見直さなければならなくなった今、由子の登場は、黒吉の心に、何等かの波瀾を起すのではないか、と思われた。



六ノ四

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「黒ちゃん」

「うん」

「あのね、あんたね、悪いことはいわないわ、葉ちゃんなんか、忘れた方がいいわよ……」

なぜ――」

「なぜって……」

「そんなこと、いったって仕様がないじゃないか」

(俺にゃ、葉子は忘れられない!)

「余計なこというなよ」

 黒吉は、そっけなく、早口に吐出した。

「でも、でも、どうせあんた不幸ふしあわせになりそうなんだもん」

「へんなこと、いうじゃないか。どうせ俺ア不幸だよ、――由坊みたいに綺麗じゃないからな……」

「まア黒ちゃん、ソンナこというもんじゃないわよ、あんたあたしを疑ぐってんの、そんなにひがむもんじゃないわよ」

 由子も、自分の言葉に我れしらず亢奮して眼を見張った。

あんた、知らないのね。やっぱり男の子って細かいところに気がつかないのね、葉ちゃんの恐ろしいくせ、知らないの……」

(葉ちゃんの、恐ろしいくせ――)

 黒吉は、朧気おぼろげながら、思い当るような気がした。

「恐ろしいくせって……」

「葉ちゃんたら、とても慘酷むごたらしいのよ、アンナ綺麗な顔してるくせに――、あんた気がつかないの」

(やっぱり、そうか)

 黒吉は、黙って、首を振った。

「とっても凄いの、鼠でも、蛙でも、蛇でも、平気で引裂いて殺しちまうのよ。でも、自分でも、あたしにだけ時々いうわ、あたし、時々血を見ないと、くさくさするのよ――って恐いわ。それに、それに、一ト月に一遍はきっと、それが激しくなるんだって――。ソンナ時よ、あんたを鞭でぶったりしたのは、エ、ウソ、嘘じゃないわよ、ちゃんと知ってるわよ、そして、あとで――ああ、さっぱりした――っていうのよ、凄いわねエ、恐いわ。あの人ったら、人が目茶目茶に撲られるのが大好きなんだって、方々に血が滲んで、ぐったり倒れているのを見ると、すがりつきたいようなんですって、あの人、いまに人殺しするかもしれないわ。

 それから、こんなこともいったわ、人殺しするのに、ピストルなんて、莫迦ね、あたしなら短刀でえぐってやるわ、すごいでしょうねエ。って、葉ちゃんは綺麗なだけに、そんなこといって、眼が光るととっても、とっても……黒ちゃん黒ちゃんてば……」

 黒吉は、黙って、この饒舌おしゃべりな由子の傍を離れると、立附たてつけの悪い楽屋の床板を小さく鳴らしながら、あてもなく顔見世台の方へ歩いて行った。

 顔見世台の下には、町の子供等が大勢、何とはなく喋り合いながら、極彩色のペンキ絵に見入っていた。

 そのペンキ絵には葉子と黒吉のもつれ合った曲芸姿が、まるで別人のように華やかに描かれていた。

(どんなに撲られたって、たとえ、殺されたって、俺ア、やっぱり葉ちゃんが好きだ)

「ちえッ!」

 黒吉は、眼の前に浮んだ由子の饒舌おしゃべりな顔を、首を振って、払いのけた。長々しく葉子の悪口をいう、由子自身の方が、よっぽど悪魔に近いように思われた。

(由公なんか、なにいってやがんだい)

 彼は、無意識に肩を聳やかした。



 あの暴風雨あらしのような愛撫を、惜し気もなく、振撒いた年若き麗魔、葉子は、もうこの虫――黒吉――に対して、興味を喪失して仕舞ったのであろうか。

 それとも、葉子一流の、執拗なたわむれであったろうか。

 黒吉の心は、この重大な、最も重大な、と思われた問題を解決する前に、彼の眼前に現われた、もっともっと恐ろしい、この世のものとは思えぬ混迷の中に、叩込まれて仕舞ったのだ。

 ――空に浮ぶ夢――

 ソレだった。

 葉子との問題の為めに、一時、古びた写真のように生彩を失っていた、あの、空に浮ぶ幻像であった。それが甦えって来たのだ。生々しい現実味を帯びて、甦えって来たのだ。

 白昼、大勢の観客を前にして、空を飛ぶ時、フト浮んだ、あの葉子の顔を発端として、絶対に見える筈のない「指環」の発見。それらの黒吉自身を、狂ったのではないか、と疑わせたあの「白昼の妖夢」が恐ろしいほどの明瞭さを以って、空を飛ぶ黒吉の瞼の裏に飛散るのだった。

 黒吉は、あの葉子とのいた事を胸に持っていようが、いまいが、日に尠くとも一度は、空を飛ばなければならなかった。

 空を飛ぶ時の彼――、それは全く、一本の神経も無駄には出来ない、極限まで引伸ばされた鋼線のように張りきった、澄みきった、無我の一瞬である。

(それなのに、どうして暢気のんきらしく、夢なんか見るんだろう)

 これは、とても急には、解決の出来そうもない問題だった。

脳味噌あたま汚点しみが出来たのかな)

 そんなことを、真面目に考えても、可笑しくなかった。

 その幻は――、とてつもないことが浮ぶのだ。名も知らぬ雑草が、ぐんぐんと伸びて、パッと尨大な深紅の花が咲く、と見るまに、ぽとりぽとりと血の滴るようにはなびらが散って仕舞う、或は、奇岩怪石の数奇を凝らした庭園の中を、自分が蜻蛉とんぼのようにすいすいと飛んでいる。又は、ああ、自分は、いつ鼹鼠もぐらになったのであろうか。真闇まっくらな、生暖かい地の底を、どこまでもどこまでも掘って行かなければならないのだ……。

 だが、こんな夢ばかりならまだいい。



七ノ二

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 そんな、他愛のないものばかりなら、何も恐れることはない。只、夢――、幻――――、として片附られるのだ。

 しかし、あの「指環の発見」はどうだ。絶対、断然、断じて見える筈のない事実が、ありありと瞼に浮ぶのだ。

 あの寤寐ごびにも忘れ得ぬ、葉子のことすら、振り落して飛ぶ一瞬にうつる、妖しき雲にも似た幻影は、黒吉をぐいぐいと力強く四次元の宇宙へ連れ込むのだった。

 端的にいえば、いつしかそれは「予言の夢」となって来たのだ。

 思えば、指環の発見は、たしかにその「予言の夢」の発端であった。夢――というものが、記憶の反芻とすれば、空に浮く幻は、未来の夢であった……。

 ……或る秋の日。いつものように、黒吉は、葉子を介添にして、あらゆる支持物から開放された虚無の空へ、弾丸のように飛出した瞬間だった。

 瞼の裏には、次の町での、大当りに当っている一座の有様が、アリアリと写った。

 ――そして、次の町で、初日の蓋を開けてみると、気味の悪いほどの人気なのだ。

 盛況の第一じつ閉場はねると、急にひっそりして仕舞った小屋の中に、親方の珍らしくご機嫌のよい笑声が、久しぶりに廻って来た春のように、響いた。全く大入りの時は、誰だってうきうきした気持なのだ。

「さあみんな。――皆んな集ったか」

 親方は、舞台姿のタキシイドに、得意の髭を撫でながら、一座の者を見渡した。

 もう何処からか貧乏徳利が運ばれて、又、ざわざわと小屋の中が、一しきり賑やかになって来た。

 黄ばんだ電灯の下に、がたがたの床を踏みならし、酔い痴れたピエロが踊り出すと、いつか印袢纏しるしばんてんの兄いが、シルクハットの紳士が、甘酸っぱい体臭を持った、肉襦袢の女たちが、思い思いに捻子ねじをまかれた泥人形のように、がらっとした小屋一杯、猥褻な悲鳴をあげながら、地獄絵巻を展開していった。

 激しい笑い声が、耳元で起るたびに、黒吉はコツンコツンと頭を叩いていた。彼は、さっきから小屋の片隅に、そうして胡座あぐらをかいた儘なのだ。だが、彼の目は、血走っていた。

(俺が、俺がこないだ見たままだ……)

 次々に展開する異様な風景は、寸分違わぬ空に浮く夢の、復習でしかなかった。

 普段は、顫えを恐れて、盃にさえ触れぬ、あの源二郎爺の酔い痴れた姿までが――。

 背筋に、冷めたい汗が、スーッとはしった。

 あてつけかとも思われる葉子と義公との、奇怪なダンスも別な意味で、犇々ひしひしと覆い被さる重圧をもった悪夢であった。

 ――周章あわてて含んだ苦い酒が、咽喉でコロコロと鳴った。

(どっちが本当なんだ……)

(夢を見てるんじゃないか……)

 簡単な疑問に、ハタと行詰った。

 トテモ、とてもたまらない――。黒吉は、夢中で、神経を酒びたしにしようと焦慮あせった……。



七ノ三

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 黒吉は、空を飛ぶことに、始めて恐怖を味わった。と同時に、何か得体の知れぬ魅惑をも感じた。

 しかし、次に見た「予言の夢」は、不吉にも、この一座が不入りを極めた夢だった。

 しかも、それがピッタリと、陰画から焼付られた陽画のように一分一厘の違いもないのだ。まるで座員の方が多いほどの、見物人しか呼ぶことが出来なかった。

 黒吉は、空を飛ぶ時、手を握り締め、歯を喰いしばり、必死の力で飛ぶのだ。

(なんとかして、も一度あてたいもんだ)

 だが、――一体どうしたというのだ。「予言の夢」は、もう幸福を知らせてはくれないのだ。

(先きのことを、覗いたせいかな)

 黒吉は頭を振った。

(それにしたって、俺の知ったこっちゃない)

 彼は、癖で、無意識に肩を聳かした。

「こんなことが続いたら解散だ!」

 親方は尚一層、気六ヶ敷くなった。

 葉子も、由子も、義公も、仙次も、誰も彼も、暗い翳を感じながら、言葉数を減らして行った。源二郎爺までが、座蒲団を干しながら、ぽかんと空を見詰めていた。

(俺の知ったこっちゃないぞ)

 黒吉は、胸の中で呶鳴ってみたが、やっぱり不安だった。

(俺は、前に、同じ夢を見るだけだ……)

「それがいけないのだ!」

 何処かで、そんな声が聞えたような気がして、ゾッとした。

「皆んな集ったか――」

 親方は、何を思ったのか、一座の者を集めると口を切った。

「集ったか――。皆んなも知ってる通り、近頃は、まるでなってない。俺にゃもうやっていけなくなった、次の町で打って、打って駄目だったら、もう解散だ……」

 そのあとは、聞えなかった。

「解散!」

 この一語で充分だ。薄々予期したとはいえ、みんなは、改めて愕然とした。



七ノ四

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「解散!」

 黒吉は、突然、打ち前倒のめされたような気がした。

(葉子と別れるのだ――)

 そう思うと、解散そのものは別に恐ろしくもなかったが、葉子と別れなければならぬ、ということがたまらなかった。握りしめた拳が、思わずぶるぶるッと顫えた。

(畜生! どうしても……)

 彼は石にかじりついても、「良い夢」を見なければならない、と決心した。

 狂騒なジンタがまき起っても、黒吉はまだタッタ一人、その楽屋裏に佇立つったっていた。

「黒ちゃん、シッカリよ……」

 いつの間にか、舞台着に着かえて来た葉子は、さすがに彼女も、「解散!」の一語が胸にこたえたと見えて、いつもより心持顔をこわばらせながら、黒吉の肩を叩いた。

 ふっと顔を上げた黒吉は、

「うん……」

 いつもなら、彼女に肩を叩かれてさえ、そこがほかほかと熱っぽく感じられるほどの彼でありながら、今日は、こっくりと一つ頷いたきりであった。

「葉ちゃん、シッカリやろうぜ」

「ええ」

「葉ちゃんに別れんの、つらいからなあ……」

「まあ、何いってんのさ……一生懸命やって『入り』がなきゃあ、仕様がないじゃないの」

「でも……」

「そんなにくよくよすんなら、一そ、落こちて血鱠ちなますになっちゃいなさいよ……」

「ふ、落ちて死ぬんなら独りじゃ、やだよ、葉ちゃんも一緒に引落しちゃう――」

「まあ、――ふん、どうせそうでしょ」

 彼女はキラリと眼を光らすと、蓮ッ葉らしい棄台詞すてぜりふを残してさっさと行ってしまった。

 黒吉は、相変らず佇立つったった儘、その葉子の後姿の、異様に蠢めく腰部のふくらみに、激しい憎悪に似た誘惑を覚えて眼をつぶった。

(どうしても、良い夢を見るぞ……)

 眼をつぶると、物狂わしいジンタが、あたり一面に吹きすさんでいた……。

       ×

 出番になると黒吉は、ピッタリ身についた肉襦袢を着て、僅かばかりの観客に、流すような目礼をすると、ジッと天井のブランコを睨んだ。そして、するすると綱を登りながらも、頭の中は、イヤ体全体は、「良い夢」のことで一杯であった。

 やがてブランコが小屋全体をギシギシとゆすって、大ぶれになって来ると、

「エッ!」

 すッと、血が退いた、黒吉は虚空へ飛出したのだ。

「あっ――」

 と観客の幾人かが、低く呻いた時は、もう黒吉の体が、葉子のブランコに移りきって、一呼吸した時であった。

(ダメだ――)

 黒吉は蒼白な額を、片手で拭った。

(駄目だ、駄目だ……)

 どうしたことか、今日に限って、あの空に浮く、「白昼の夢」が写らないのだ。

(俺にゃ、予言の力がなくなっちまったんか……)

 あれほど恐れていた「白昼の妖夢」が、却って期待に胸を膨らませた今日の黒吉には、どうしたことか現われてはくれなかった。

(よし、もう一度だ)

 もつれるように、ブランコに足先きをからんで垂れ下った葉子の、柔かい手に吊され、ぶらりぶらりと天空でゆられながら、逆流する血潮の中で、黒吉は喘ぎ喘ぎ考え続けた。

「グワ……」

 と張りさけそうな葉子の咽喉の不気味な音を、一瞬のうちに、遙かうしろに離して、黒吉は一転すると、元のブランコをはっしと掴んだ、一呼吸、グルッと尻上りでブランコにちゃんと腰をかけると、遠く下の方からざわめきあがった拍手の音に、誘われて、一遍にビッショリするほどの汗が吹き出して来た。

 だが、黒吉は、汗を拭うのも忘れていた。

(ダメだ――)

「夢」は浮ばなかった。

 まるで視野は暗転する舞台のように真ッ暗だった。それだけに尚更、「次の場面」が覗きたかった。

(吉か、凶か――)

 やがて気づいたように、するすると綱を伝わって下り、楽屋に帰っても、そのことばかりが頭全体を占領してしまっていた。



七ノ五

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 日が暮れ、火がともり、そして又一つ一つ灯が消えていった。

 既に場はハネて、あたりは深閑としていた。何時頃であろうか、一旦寝床に這入った黒吉が、すっくり起上った。黒吉の眼は物に憑かれたように、異様な光りをもっていた。

 彼はいくらねむろうと焦慮あせっても、眠ることが出来なかった、この一座の未来が、つまり自分と葉子との未来に大きな関係のあるこの一座の「明日」が、一体、吉なのであろうか、凶なのであろうか――。

 吉ならばよし。凶なら凶で……

(たとえこの一座が解散したって、俺は葉子と離れないぞ……)

(もし別れるのなら、一層のこと、葉ちゃんをって……)

 とまで思いつめてはいても、矢ッ張、「明日」が気になるのだ。普通ならばあすのことなどどうにも仕様のないことなのだが、幸か不幸か、黒吉は、未来を覗くすべを、――それは恐ろしい「未来」への冒涜であろうけれど――どうしたはずみかで、身につけてしまったのだ。

 ……たまり兼ねた黒吉は、誰にも知れぬように、こっそりと床を抜け出すと、音を忍ばせながら高い小屋の天井へのぼって行った。

 あがり切ってみると、そこはいつもとは全く違った風景であった。人ッ子一人いないガランとした観客席は、白々しく冴え返って、頭の上には、天幕テントの継目が夜風にハタハタとはためいていた。

 遙か眼の下、谷底のような舞台には、黄色ッぽい五燭の電球たまが、タッタ一つ微かな輪を描いているきりであった。

 黒吉は、捲上げられてあるブランコを垂らすと、身軽く飛乗って、一つ一つ、数えるように、力をめて、ゆり初めた。

 ブランコの描く円弧は、次第に拡大されて来、加速度が加わって来ると共に、深閑とした天幕テント小屋は、びっくりするような音をたてて軋むのであった。

 フト、下を覗きみると、寝衣ねまき姿の葉子と由子が、いつ眼を覚ましたのか、何か口をぱくぱくさせながら手を振って見せていた。それが、黒吉にはどんな意味か知らなかったけれど黒吉は、こっくりと一つ頷くと、こんどは目をつぶって、尚もブランコに力を入れて行った。

「ヤッ!」

 呻きに似た掛声を残して、暗い小屋の空に、弾丸のように飛出した。

「アッ!」

 黒吉は、恐るべき過失をやってのけたのだ、いつもは助手が向う側のブランコをちゃんと下ろして置いてくれるのだが、今は、向うに助手がいよう訳がなく、考えるのに夢中で、彼自身、向う側の飛移るべきブランコを垂らすことを、スッカリ忘れてしまっていたのだ。

(しまった!)

 そう思った瞬間、彼の視野の片隅に、捲上げられたブランコの一端が、チカリと光った。

「グワッ!」

 根かぎり、虚空で躰をひねった、ダガ、そんなことは、まるで無駄だった、もう遅かった。

 黒吉の五体は、陰惨な断末魔の叫びをあげ、空中を幾度か急廻転しつつ、スサマジイ勢いで、無気味な小屋の空間を、一直線に転落して行ったのだ。

 由子は、

「あっ……」

 といったきり、顔からは血の気を失って、蹣跚蹣跚よろよろっと坐ってしまうと、頭を膝の中に抱えこんだ、さすがの葉子も、一瞬、ハッと目を外らした。

 まことに、それは墜落というより、大地に向って叩きつけられた、といった方が近いほど、物凄い物音であった。黒吉は呻き声すら漏さなかった。

 次の瞬間、葉子は息を切らせて駈寄った、そうして、馬場の砂地へ貼つけたようにのびている黒吉の無残な姿を、ジッと見直すと、やがて彼の上半身をそっと抱起して、低く呟いた。

「黒ちゃん、黒ちゃん、すごかったわよ……ね……ほんとにすごかったわ……」

 そして、夢みるように薄く口を開きながら、高い高い小屋の天井を見上げていた。



 長い長い、真ッ暗な針地獄の中に、喘ぎつづけて、フト、気がついた時、黒吉は、消毒薬のムッとする施療院の片隅に、転がっている自分を発見した。

(俺は、まだ死ななかったんか……)

 夢うつつの中に、そう思いながら、最初に気づいたのは、僅かに左の眼と、口元だけを残して、自分の顔も頭も、体全体が厚ぼったい繃帯につつまれているということだった。

 すると、見る見るうちに、目が眩んで来て忘れていた痛みが、急にジクジクと甦り、押寄せて来て、再び黒吉は果てしもない昏睡の中に、引ずりこまれて行った。

 ……それから又、どの位たったであろうか、けむりのように、

(葉子の顔……)

 が浮んで、ハッと目をあけた、だが、相変らず体は、ベッドに釘附にされたように、ビクともしなかった、痛みと悪寒に似た苦痛とが、血の脈に乗って、ヒクヒクと足指の先にまで滲み透って行った……。

(葉ちゃん……)

 譫言うわごとのように呟いても、辛じて、唇のはたが、かすかに痙攣するに過ぎなかった。

 視力の鈍った左の眼一つで、遠近さえ判然とせぬ病室の天井を、ジッと凝視みつめていると、その中に、ぽっかりと、心持ち頬をこわばらした「おんな」の顔が写った。

(葉ちゃん!)

 霞のかかったようながもどかしく、パチパチ瞬きしたが、でもやっぱりうすものとおしたようにしか写らなかった。そして、その病室全体が、急に生暖なまぬるく歪んで来ると、ほろりと熱い泪が、目のふちの繃帯に吸い込まれて、あたりがパッと暗くなった。

(おや、俺は泣いていたのか――)

 そんなことを思いながら、その「おんな」の顔を、しげしげと見詰めたが、目のせいかそれは葉子ではないようだ。

(看護婦――)

 とも思われたけど、その顔はどこかで自分が見た顔であった。

(看護婦なら、知ってる筈がない……)

 目をつぶると、もう考えること、それ自身がものうくなって来た。

 目をつぶった自分の耳元で、その「おんな」が、何かぼそぼそと囁いたようであったが、それは何んであったかよく聴えなかったし、又「聴こう――」とするのもカッタルかった。ただ体中まるでヒビのはいったように、熱っぽく苦痛であった……。

 ……それから一週間以上もたったであろうか、もともと体の人一倍丈夫だった黒吉は、目に見えて、どんどん恢復して行った。

 そして口がきけるようになると、先ず最初に聞いたのは、勿論極東曲馬団の消息であった。しかし回診に来た医者が、気の毒そうに小声で答えたその返事は、黒吉を、又も深い深い谷底へ蹴落してしまったのだ。

「あの曲馬団は解散してしまったんですよ……」

 そういった医者の言葉は、あの小屋の天空から、真ッ逆様に墜落した時よりも、モットモットひどい失望を、彼に与えた。

「先生、おら助かるでしょうか……」

「大丈夫だとも、全く運がよかったんだよ、落ちたところが砂の上だったからね」

「……」

「どうしたい、痛いかね」

「ううん、おら、死んだ方がよかったなあ、その方がサッパリすらあ……極東が解散しちゃ飯の喰上げで……」

(なによりも、葉ちゃんと別れなければならない)

「……それに、それに俺は碌に字も出来ねえし――雇ってくれるもんなんかない……」

 医者が他に廻って行ってしまってからも、黒吉は独りで、ぼそぼそ呟き続けた。

(ダガ。待てよ――)

 一体、誰がここに入院させてくれたのだろう。

団長おやかた?――)

 でも、親方に、そんな余分な金があろう筈がない、あるならまさか解散はしなかったろう……。

(誰だろう――)

 勿論黒吉はその僅かばかりの給料を蓄えてはいなかった、彼は葉子の歓心を買う為に、その殆んど全部を費してしまっていたのだ。

(この親切な人は誰だろう――)

 と同時に、

(最初のうち、夢うつつに見た「おんな」の人か――)

 と思い当った、でも、それが「誰」であろうか、

(葉ちゃんなら……)

 と胸をはずませてみたけれど、第一あの顔は葉子ではなかったようだし、それに、あの浪費家の葉子が、そんな金を持っているはずがないのだ。

 しかし、誰か解らないながらも、黒吉はいくらか元気づいて来た。

(俺をかばってくれる人があるんだ……)

 と思うと、陰惨な曲馬団に育った彼だけに、とても暖かいものを感ずるのであった。

 そして、その人に、心から御礼をいってみたかった。

 大けがをしながら、いつになく、心が浮々する――。



八ノ二

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 いつものように、又、回診の医師がはいって来た。

「どうだね……」

 厚い近眼鏡の奥で、老医が柔和に笑った。

「ええ、だいぶいいです」

「そうか、それはよかったな……いい具合だった」

「いつ、退院できるですかね、……」

「まだまだ。そうあわてては不可いかんよ。暢気のんきにしていたまえ」

「でも、でも俺にゃ金がないんで……」

「はっははは、君、そう心配しなくていいよ、ここは施療院だから――」

「施療院――?」

 黒吉には、そんな言葉の意味が、なんだか解らなかったけれど、

(たいして金の不用いらないところなんだな――)

 と推察することが出来た。そして、

「じゃ――」

 と去りかけた医者に、

「先生、どこか曲馬団を、ご存じでないかな」

「ふん、なぜだね」

 老医は振かえった。

「その――、ここを出れば、喰わなきゃならんもの……」

 黒吉は、哀願するように、眼鏡の奥のを見上げた。

「君、まだあの曲芸をするつもりなのかね、……その片足で――」

「えッ」

 黒吉は、愕然とした。

「片足!」

 この一言は、まさしく青天の霹靂へきれきであった。

 黒吉は、何かわからぬゾッとしたおそれに、ぶるぶる顫えながら、思わず腕の痛みも忘れて、胸から腹、腹から腰と撫ぜて見た。そして、腰から……、ああ、腰から……いくら撫ぜてみても、彼の手はそこまで来ると、ストンと敷布の上に、落ちてしまうのだった。

 ああ、

(俺には右足がない!)

(俺にはもう右足がなくなっているぞ!)

 幾重にも捲かれた、厚ぼったい繃帯の下で、額がネットリと汗ばみ、全身の血がスーッと引いてゆくのを感じた。あたり一面、毒瓦斯ガスでも撒かれたように、息苦しくなって来た……。

(俺は恐ろしい不具者になってしまった)

 一体、これからの浮世を、何に寄ってしのいで行けというのだ。

 余りにも無残な、自分の運命ほしに、泪も枯れ果てていた。

 どうせ切落すなら、一っそ一思いに、左足も、右手も、左手も、サッパリ切ってしまえばいいのに……。どうせもうこの俺には、あの空を飛べないのだ……そうだ、あの空を飛ぶことが出来ないのだ。

 ――すると……。黒吉の頭には、あの曲芸の持つ、不思議な空の感覚への憧れが、奔流のように、渦を巻いて飛散るのであった。

(もう一度、もうタッタ一度でいいからあの快感を、心のままに味わってみたい……)



八ノ三

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 翌日になって、黒吉は、もう片足のことはすっかり諦めてはいたが、それでも、

(空を飛びたい!)

 という慾望は、尚一層熾烈しれつになって行くのだった。

 あのグーン、グーンと全体に響く、快よい鞦韆ブランコの鼓動!

 あっ、と思った瞬間、虚空を飛翔する虚無の陶酔感!

 そして、フト眼の底に浮ぶ「明日の夢」!

 なんとそれは魅力のあるものであろうか――。

 黒吉は、既にこの常人ひとの窺ってはならぬ「白日の妖夢」の俘囚とりことなってしまったのであった。

 全身の支柱を失った、空中に在るときに限って、なぜあのような、とてつもない、そして又、ゾッとするほど正確な「明日」を見ることが出来るのであろうか――。これは、とても簡単には解くことの出来ぬ心理現象である。しかし、黒吉にとっては、それが催眠術であろうが、妖術であろうがそんなことは全然問題でなかった。まるで阿片アヘン中毒者のように、それがどんな結果をもたらそうと、知ったことではなかったのだ。ただ、それに溺れ切れれば幸福であったのだ。

 黒吉は、日がな一日、汚点しみだらけの天井を睨んだ儘、そのことばかりを考えていた。

 コツ、コツ、コツ……と廊下を渡る跫音がぴったり黒吉の病室へやの前で止ると、

「もうよろしいのですか……」

 といった声は、正しく女の声で、黒吉の鼓膜に残っている声色こえであった。

「葉子!」

 片足と、空を飛ぶことばかり考えていて、忘れかけていた名前を、びくッと思い出した。殆んど同時に、ドアーが押あけられると、静かに這入って来たのは、期待した葉子ではなく、あの由子の姿であった。

「由子ちゃん……か」

 黒吉は、露骨にがっかりして、起しかけていた半身を倒した。

「黒ちゃん、どお――」

「うん……」

「でも、こんなに早くよくなって、よかったわねエ……」

「うん」

「……まだ気分が悪いの――」

「ううん、もうすっかりいいんだ」

「そう、よかったわね」

「葉子ちゃんは――」

「葉子ちゃん?」

 由子は、一寸いやあな顔をしたようだったが、すぐさり気なく

「葉ちゃんはね、解散するとすぐ義公と東京の叔父さんを頼って行くって行ったわ」

「義公と――」

 黒吉は、カッと胸のほてるのを感じた。

 葉子と、あのキザな、生っちろい義公とがまるで新婚気取りで汽車にゆられて行ったのか、と思うと、眼の眩むような不快に、ドキドキと鼓動が昂まって来た。

「葉ちゃんも悪いわねエ、一度位、黒ちゃんを見舞って行ってもいいのに……」

 由子は、わざと思わせぶりに、そういって黒吉の顔を覗き込んだ。

(ちえッ、何いってやがんだい……)

 と、口のはたまで言葉が出ながら、それは声とはならなかった。ただ口がぴくぴくと顫えて歪むと、なぜか泪がはらはらと落ちた。

「あら、どうしたの……」

「ううん、一寸、痛かったんだ、足が……」

 黒吉は顔を外向そむけた。

 足ではない、胸の中が張りさけるほど痛かったのだ……。

 しばらくして、黒吉は、やっと向きなおった。

「由っちゃん、済まなかったね、時々見舞いに来てくれたんだろう……何処へも行かないのかい」

「あら、済まないなんて、やだわ。御見舞いにんのあたりまえじゃないの……あたし、黒ちゃんが可哀そうだし、それに――」

 その最後の言葉は、口の中で消えてしまったけれど、それでも充分意味が解った。

「由っちゃん、親切ありがとう……だけど俺もう、俺はもう前よかもっともっときたなくなっちまったんだよ……おまけに片足の跛足びっことくらア……ふっふっふ」

 黒吉の声も、上滑うわずって、かすれていた。

「知ってるわ……だから、一層同情しちゃったの……」

「ふん、なまいってらア」

「いいの、いいのよ、あたし、あなたの気持が好きなの――顔なんか、跛足なんか――」

 由子は、流石に、一寸顔をあからめて、横を向いた。その赤らんだ耳朶みみたぶにかかった二三本の遅れがかすかにふるえていた。

 黒吉は、この少女とも思えぬ由子の、大胆な言葉に、半ば呆気にとられていた。あの肉襦袢を着て、飛び廻っていた由子――饒舌おしゃべりの由子――、それが今、こうして貧し気ながらもタッタ一枚の着物を着、大人のような帯を締ていると、その言葉のように、由子はもう大人だったのだ。あの撥剌はつらつとした春の草のような生気が、激しい音をたて血管の中をはしっているに相違ない。その、いかにも窮屈気な胸の膨らみ、まろく駛り落ちる腰の曲線――それは葉子のそれのように、胸を締つける力ではなかったけれど、仄々ほのぼのと匂う生の美であった。



八ノ四

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 黒吉は、眼をつぶった。

 この粗野な、新鮮な由子に飛びこんで来られながら、なぜか、それを忘れなければならぬ――と思っていた。

 黒吉の胸には、あのコケテッシュな「葉子」の面影が、余りにも生々しく、焼ついてしまっていたのだ――。

(葉子は、義公と一緒に行ってしまったのだ)

(葉子は、お前なんか、もう眼中にないのだぞ――)

 と思いながらも、やっぱり諦めきれぬ未練な黒吉であった。

「由ちゃん、俺はやっぱり、ここを出たら曲芸をやろうと思うよ……」

 黒吉は、話題を変えて、話しかけた。

「あら、そんな……不自由な体で――」

「でも、俺にゃ、あの宙乗りの気持が忘れられないんだ。何も彼も忘れて飛びたい――」

「でもね、……あなたにいうのは、却って逆だけれど、あの宙乗りは、ほんとの呼吸もんでしょう、ブランコと呼吸とがピッタリ合わなけりゃ危ないわよ」

「そうさ――」

「それが、それが、片足になったら、その呼吸が全然違うじゃないの――片足で振る時と、両足で勢いをつけるのとじゃ、まるで違うわ……恐らく、あの半分も飛べないわ」

「ううん……」

(そうだ、いかにもそうだ……)

 黒吉は、がっかりして考え込んでしまった。

(俺には、もうあの曲芸が出来ないのか――)

(宙を飛ぶことが出来ないのか――)

「由っちゃん、何かいい工風くふうはないかしら。何でもいい、何でもいいから、俺はこの体を、思いきり、ぶっ飛ばしてみたいのだ、ね、ね、いっそ、高い山から飛下りてやろうか――」

 黒吉は歯を鳴らしていた。

「君、君」

 あの老医が廻って来た。

「そう興奮してはいかんね、どうした」

「ああ、先生、先生、空を飛ぶ商売はないでしょうか、思い切り飛べるような、足がなくてもいいような――」

 老医は、その急な質問に、しばらくポカンとして繃帯の中から左の眼ばかり光からしている黒吉を、見つめていたが、

「じゃ君、飛行機はどうだい。――といって君には操縦は出来まいしね……あ、そうそういいことがあるよ、この町から汽車で三ツ目の町に『柏木航空研究所』っていうのがあってね――時々飛行機の音が聞えるだろう――あそこでパラシューターを募集してるそうだよ、それならどうだい……」

「パラシューター?……」

「知らんのかい、そら、飛行機から落下傘で飛下りるのさ」

「あっ! あれか、ありゃ素的だ……けど先生、もう満員じゃないかしら」

「どうしてどうして、なかなか満員なんかならんよ、何しろ命がけの仕事だからね、あそこじゃ新型のパラシュートを研究しているんで、その実地試験をやらせるらしいね、それで募集しているらしいが、なんでも一回で十円くれるそうだよ」

「十円! 十円もくれるんですか」

 黒吉自身も、傍にいた由子も、思わず眼を円くした。彼等は十円札なんて、滅多に見たことはなかったのだ。

「十円は安いよ。パラシュートが開かなかったら、それっきりお駄仏だぶつじゃないか……さ、手当をしよう」

 そういうと、もう看護婦を手伝わして、繃帯を解きはじめていた。

 しかし、黒吉は、傷の痛みどころか、あの蒼空を裂き、銀翼を閃めかして、漠々とした雲のみねを乗り越えて行く飛行機の壮快な姿――そして、その飛行機からひらりと飛び下りる颯爽たる自分の姿――の想像に、我を忘れている始末だった。

「パラシューター」

「パラシューター」

 黒吉は、その今聞いたばかりの外国語を、生れる前からの憧れの言葉でもあったかのように幾度も幾度も呟き続けていた。

 また、見られるであろうあの空の白日夢。俺は、こんどどんな幻を見るだろう……。

(もしかすると、葉ちゃんと俺とが……)

 胸がどきどきと昂まって来た。

 妖しい幻影の魅力!

 彼は、眼がくらむほどゾクゾクと興奮し、上気していた。

 由子は由子で、

(高給取りになった黒吉)

 を想像して、乳首に痛さを感じていた。



 それから一ト月とは経たぬ頃、醜い、しかも片足のない無気味な小男が、「柏木航空研究所」の受付を訪れた。

 いうまでもなく、それは鴉黒吉であった。

 受付の男は、この怪物のような小男が、パラシュート志願と聞いて、笑い出す前に、あきれ果ててしまっていた。

「君が――。冗談じゃないよ、一体パラシューターってのは何んだか知ってんのかね……ふっふっふっ……君がパラシューターになれるんだったら、百年も前に、この俺がなってるぜ……」

 だが黒吉は、その嘲笑をこらえて、執拗な押問答の揚句、ともかくも、所長まで取次いで貰うまでに、幾度泪を流したことか……。

 その所長も、黒吉を一眼見たきりで

「君かい、パラシューター志願ってのは――」

 とむしろ、唖然としていた。

「僕です。頼みます。是非お願いします」

「駄目だよ、普通の人間でさえ、なかなか六ヶ敷いのに、君は片足じゃないか」

「でも、パラシューターに足なんか要らないでしょう――、僕は、もと曲芸師だったんです、どんな六ヶ敷い曲芸でもやっていたんです――飛行機から飛下りる位なんでもありません……お願いします。是非お願いします、このパラシューター以外に、僕は生きて行かれないんです……」

 黒吉は、又そこでも受付の時と同じように口のつばきが枯れてしまうのではないか、と思われるほど哀願しなければならなかった。

 この醜悪無残な不具者が、眼に一杯泪をためて哀願する様は、哀切というよりも、むしろ凄惨であった。

「お頼みします。例え死んだって僕のせいです。出来るか出来ないか、試すだけでも……是非……」

 頑として承諾しなかった所長も、遂には根負けして、

「仕様がないね、君。――じゃまア、死んでもいいんなら一度やってみるさ……」

 と吐出すようにいって、口をへの字に結んでしまった。

 その時の黒吉のよろこび……。それはとても何んといってよいか、口に表わすことは出来なかった。

 あの物凄い顔一杯に、歪んだ笑いをみなぎらせ、不自由な松葉杖を振廻すようにして、部屋の中を、コツン、コツンと歩き廻り、果ては異様な、呻きに似た歓声を上げるのだった。

 そして、心配気に附添って来た由子の姿を門の外に発見すると、ばったのようにはしって行きまるで赤ン坊のように、獅噛しがみついて泣き出した……よくもこう泪が続くものか、と思われるほど……。

 それから半月ほど経って、黒吉は体も本当になり、地上練習も終って、初めて飛行機に同乗してみることになった。

 初めて乗った機上の感じ――それは又なんという素晴らしいものであろう……。

 爆音は総ての忌わしい記憶を打消して流れ、仰ぐ無限の蒼穹あおぞら、その中には彼の醜い容貌を気にする何物もないのだ。それだけでも、彼にとっては、この上もない愉悦だのに、見よ! 遙か眼下にどろんと澱んだ山。銀蛇のようにくねくねした流れ。森はひょろひょろと蹌踉よろめきながら後ずさりし、膿盆のうぼんのような海は時々ねたまし気な視線をギラリとなげかける。やがて、けちくさいまだらなあくたと化した地球は、だんだんに遠ざかって行く――。

 黒吉は、すっかり有頂天になっていた。

(こりゃ思ったよりずっとずっと素敵なもんだぞ)

(俺はこの風景をクルクル廻しながら飛下りるんだ)

(その黙りこくった世界には、又思い切った饒舌おしゃべりな「夢」があるに違いない……)

 そう思うと、今直ぐにも飛下りたい衝動に駆られ、思わず戸を握りしめて機体を乗出し、幾度となく、遙か下界を覗き見るのだった。



九ノ二

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「どうでしたの……」

 この研究所から受けるわずかばかりの手当で、ともかくも、黒吉はその日には困らなかった。由子は、この小さな町に、たった一軒あるカフェの女給に住込んだ。

 そして通勤するほど「もらい」のないそのカフェ・金鳥の、主人の眼を偸んでは黒吉のごろごろしている荒物屋の二階にしばしば訪ねて来るのだった。

「どうでしたの……」

「うん、すごいぜ、由っちゃん」

「あら、そう――」

「だって――、何んていうかな、とにかく、曲芸なんて、飛行機に比べたら、鼻くそみたいなもんだぜ、いいなあ、飛行機は……」

「まあ、素敵でしょうねエ、あたしも乗ってみたいな――」

「駄目さ、女なんて――」

「あら、そんなのないわ、女だから駄目だなんて、ひどいわ、ひどいわ……」

 由子は、巧みに鼻を鳴らすと、渾身の媚態を波打たせて、黒吉の肩をゆすった。

「よせよお……」

 黒吉は、口でそういいながら、由子の円い肩を、ごつごつした手で抱きかかえていた。

 黒吉は、自分自身、不思議であった。

 他人は元より、自分でも、この身、この容貌が、人一倍醜いことを、よく知っていた、生れつき醜男ぶおとこであった黒吉は、あのブランコからの墜落で、片足と片眼を失い、その上顔の右上から斜め下に、太い蚯蚓みみずのようなひっつりを作ってしまった今、自分ですら進んで鏡を見たくないほどの、いや、黒吉は以前からこの醜貌を、ありの儘に写し出す鏡というものに、烈しい嫌悪を持っていたのであるが――それほど美しからぬ自分に、なぜこうもあの葉子といい由子といい、特別の「好意」を持ってくれるのであろうか。これが「女」の物好きなのであろうか。それとも極端から極端を好む、女の心理なのであろうか……。

「由っちゃん」

 黒吉は、由子の柔かい肩に、顎を乗せて、その透きとおったような、白いうなじに見とれながら、

「由っちゃん、――なぜ俺なんかがすきなんだい、こんな怪物ばけものみたいな男が――。店にはもっと色男が一杯来るだろうに……」

「何いってんのさ、ふん、店に来るような、色男ぶった生ッ白い奴なんか大嫌いだよ――上べはすましているくせに、考えてることはみんな同じさ、どうせあんなところに来る奴は色餓鬼ばかりさ、あさましいってのか、なんてのか……いやんなっちまう――」

 由子は、思いがけぬほど強い口調で、吐出すように「お客様」をけなしつけた。

「ふん、あたしはね、あんな狼みたいな野郎より、あんたみたいな心持のさっぱりした人が好きなんだよ……」

 これが十六娘のませた恋愛心理だった。他人よりも恋愛については、二十年も経験を積んでいる由子だった。――曲馬団にいる頃はあんなに子供子供していた少女だと思っていたのに――。

「そうか――じゃ女の子に好かれるには、わざと知らん顔をした方がいいんだね」

「まア、そうね、だけど……ちょいちょいやったら承知しないわよ」

 由子は、大人のように、睨んでみせた。

「しないよ、俺は、そんなことするもんか――」

 黒吉は、その遅れ髪のかかったうなじを、燃えるように見詰めると、

「しないとも、するもんか……」

 そういいながら、手を廻して、由子の肉附のいい胸に手をかけた時、その兵古へこ帯の上に、思いもかけぬ、福よかな肉の隆起があって、あっ、と思うほど、柔らかく、暖かく、悩ましく、顫える指さきを、吸盤のように奪うのだった。

 振かえった由子は、黙って、複雑に笑っていた、もうその顔は、少女ではなかった。

「あら、だめよ、だめよ……」

 そういいながら、黒吉の手を、しっかり胸のところに抱いた儘、離そうとしなかった。そうして眼をつぶっていた。

 黒吉も、眼をつぶった。腕の中になよなよと蠢めく悩ましき肉体は、瞼の葉子と二重写しになって、まるで、あの葉子を、力一杯抱きしめているような気がして来た。

(葉ちゃん――)

 そう思うと、もう腕の中の女は、由子ではなかった。

 情熱が、脈管の中を、どよめきはしった。

(葉ちゃん!)

 胸の中でそう叫び、叫びながら、由子に頬ずりし、抱きすくめて行った……。

 その日、黒吉は、葉子と結婚し、由子は黒吉と結婚した。早熟ませた二人はお互にそれで満足したのであった。



九ノ三

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 あの素晴らしい同乗試験が、二三回済むと、いよいよ黒吉は、生命の縄一本に身を托す、パラシューターとしての第一回の飛下りを決行することになった。

 ――飛下りてから、口の中で五ツを数えてから、グッと力まかせに、綱を引いてパラシュートを開かせる――そして、ゆたりゆたりと空のコスモポリタンをきめ込めばいいのだ。

 だが、それはなんというスリルに富んだ一瞬であろう。もし綱を引いても、パラシュートが開かなかったら!

 千が一、万が一、いや絶対に、黒吉は生きてこの地上に立つことは出来ないのだ。

 その上、ここのパラシュートは、言ってみれば試験中のもので、誰が絶対に安全の保証をなし得ようか。設計した技師も、自信はもてても、その最後の点には、この実地試験を、幾度も繰返えさなければならないのだ。

 もし、綱一本の手違いがあったら、もし、畳み方一つにあやまちがあったら……。黒吉の体は木葉微塵となってしまうことは、火をるよりもあきらかなのだ――なんという恐ろしい仕事であろう。なんという命しらずの試験であろう。

 パラシューター、それは大空のコスモポリタンである。

 ……その日、地上では研究所の所員たちが、この不具者の黒吉が、一体どんな「飛下り振り」をするか、と固唾かたずをのんで、爆音を青空に流して快走する銀翼を凝乎じっと見詰めていた。

 飛行機は、硬直したトンビのような恰好をして廻っていた。

 この旧式練習機は、操縦士からの命令を聞く為めには、耳に伝声器を挟んでいなければならなかった。

「オーイ」

 ひどく大きな声が、蚊のなくように、黒吉の鼓膜に響いた。あたりがあまり喧音に満たされているので、その声が大きいのか小さいのかハッキリしなかった。

「東北風が十メートル位あるから……飛行場が右に見えたら飛下りる……恰度飛行場に流れて行くだろう……も少しだ……いいか、オーイ、用意……」

 操縦士の声が、とぎれとぎれに流れて来た。

 黒吉は、静かに伝声器を耳から外し、バンドを外した。そして、シッカリ背中に背負ったパラシュートを、手を廻して撫ぜながら、眼をつぶった……。

 眼の底には何もなかった。怖くもなかった……そして、又静かに眼を開けると前方の操縦士が、キラリと飛行眼鏡を光らせて振返りながら、手を振っていた――。

 地上の所員の眼に、飛行機がきらりと光った。そしてその機体から塵のような汚点しみが、ぽろりと一つこぼれ出た。

(黒吉が飛下りた――)

 ――一方、黒吉は、泳ぐようにして、銀翼を離れると、真暗な、手答えのない世界を、どこまでもどこまでも落ちて行った。

 烈しく炸裂し動揺し奔騰する空気の中に、すべての色彩や感覚から開放された黒吉の頭には、一瞬、得体の知れぬ虹のようなものが火花を散らして爆発した――と、次の瞬間には、そこに見憶えのない、可愛いい娘の顔が現われ、ジッと微笑を含んで、黒吉を見詰めるのだった。

(誰?……)

 もう一度見直そうと、グッと力を入れて体を捻った途端、足元でダイナマイトが囂然ごうぜん爆発したような、凄まじい音がした――と同時に、黒吉は、物凄い力で数十米も釣上げられ、空中を目茶苦茶に振り廻されるような気がした。

 パラシュートが開いたのだ。

 黒吉が、グッと体を捻った瞬間、無意識にパラシュートを開く綱を引いたのだ。

(あのまま夢に酔って、パラシュートを開くことを忘れていたら……)

 勿論、真逆様に、地面へ叩きつけられていたことだろう。

 彼は、力強い綱で宙に吊されてから、あの不思議な幻に陶酔していた自分を思い、ゾッと背筋をはしる悪寒を覚えた。

 恐る恐る下を覗き見ると、もう地面は間近かに迫って、畑の中の一本松が、まるで沼の中の藻草のように、くねくねとゆらぎながら、伸上って来るのだった。



九ノ四

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 黒吉が地面へ下り立つと、所員達は心配そうな顔をして駈寄って来たけれど、彼は、黙って松葉杖を受取ると、それらの人々を振切るようにして、あてもない広い飛行場を、ピョコリピョコリと歩き出した。

 頭の中は、あの「幻の中の娘」に占領されていた。

(誰――だろう)

「あッ!」

 彼はギクン、と立止った。

(あの、あの葉ちゃんではないか――)

「そうだ、葉ちゃんだ、確かに葉ちゃんだ……」

 あの虹の中の「葉ちゃん」はハッキリは見えなかったけれど、どうやら結綿ゆいわたを結っていたようだ――。

(何故だろう)

 行く手きわまりない飛行場のように、大きな疑問だった。

(あまり、葉ちゃんのことばかり、考えていたせいかな……)

 それにしても、葉子が、かつて結ったこともない「ゆいわた姿」なぞ、なぜあの幻の中に見えたのであろう。

(空を飛ぶ時の夢は、予言の夢だ――そうすると、近く結綿姿の葉ちゃんに、逢うのじゃないだろうか)

 黒吉は、はっと顔を上げて、蒼空を睨んだ。その瞳は、気のせいか、獣のように光っていた。

(葉ちゃんは、……義公と東京に行ったんじゃないか……)

 がっくりと頸垂うなだれた。

(とても、逢える筈がない――)

 黒吉は、研究所の裏門を抜けると、ぽこぽことした白茶けた埃っぽい道を、当てもなく町端れの方に歩いていた。

 頭は熱っぽく上気し、引ずるような片足は板のように堅かった。

 疲れるにつれて、こんどはたまらなくなくなって来た。わっと泣きたいような、いきなり往来の真ン中にぶっ倒れてみたいような……。

 カラカラに乾いた咽喉と血走った眼に、フト、――一寸一ぱい、千鳥ちどり食堂――と禿ちょろの看板をぶら下げた居酒屋が写った。

 しみだらけの暖簾のれんを、ぐいと肩で押して、這入った。

 中は土間に、三四脚の長床几しょうぎを置いただけの、ひどく殺風景な、薄暗い店であった。

 誰もいなかった。

「オーイ……」

 と黒吉が声をかけると、直ぐ店に続いて、一段高くなっている居間の、煤ぼけた箪笥の蔭から、

「あい」

 としゃがれた返事がした。

「オイ、おみせだぜ――」

 そのおやじの声を引とるように、

「あら、いらっしゃい……」

 と、この古ぼけた居酒屋に似合わぬ、陽気な、若い女の声がすると、赤い塗下駄を引っかけた、結綿の女がぱっと花が咲いたように出て来た。

「いらっしゃい、何を……」

「あっ――」

「あら――」

「葉ちゃん!」

(葉子が――。やっぱりあの空の夢は本当だったんだ……)

 黒吉は、愕然とした。

 そして、阿呆のように、ぽかんと口を開けて佇立つったった儘、口もきけなかった――。

(義公と東京に行ったという葉ちゃんが、ナゼこんな所の居酒屋に……。何故、なぜ、ナゼ――)



「葉ちゃん、しばらくだったなア」

「ほんとに……」

「……あの、東京に行ったって聞いたけど……」

「そうよ、一度東京に行くことは行ったの、だけど、尋ねる叔父が、なんのことはない、この町に帰ったっていうんで、又来たわけなのよ……」

「ふーん、そうか……あの……あの、義公はどうしたんだい――」

「義公? ああ、あいつ仕様がない奴さ、あんまり執拗しつっこいから東京でまいちゃったんさ――よく知ってんね、黒ちゃん」

(黒ちゃん!)

 その言葉を、あの可愛いい紅いくちから、幾月聞かなかったことだろう。何十年も聞かなかったような気がする……。

 少女とは思えぬ鉄火口調のうちにとろけるような韻律を持った、葉子のコトバ……。それが生々ういういしく結綿に結上げられ、よく油を通された髪は男の心を根柢からゆり動かすものがあった。髪の匂いと、女の体臭とのまざった、あの胸を刺す媚香――。

「叔父さんの趣味でねえ、こんな髪、結ってんのよ――」

 そういって、心もち俯向うつむきながら、撫でつけた襟足の美しさ……。

 黒吉は、もう眼の眩む思いがした。

「葉ちゃん、葉ちゃん……逢いたかったなあ」

「逢ったじゃないの」

「うん、よかった、ほんとによかった――」

 黒吉は、長い年月としつき、探し求めていた宝石ほうぎょくに、やっと手を触れた時のように、興奮し、感激していた。

 葉子はこの、以前から醜かった少年が、尚一層、片眼の跛足という化物のような姿に変ったのに一寸吃驚びっくりした以外、別に、再会したことには、さして感激もしていなかった。

 言ってみれば、黒吉独りで感激し、興奮していたのだ。

 でも、この二人が、こんなところで再会した、というのは、まったくどう考えても偶然だった。

 黒吉には、葉子のたった一人の叔父が、ここで居酒屋を開いていた、ということが神の引合せ――いや、あの「予言の夢」の仕業であると、思っていた。

「葉ちゃん、僕は、葉ちゃんを、ここに来る前に見付てたんだよ」

「あら、いつ――」

さっきさ……ほら、前にいったことがあるだろう、あの空を飛ぶ時に見る夢さ、あれだよ。今日パラシュートで飛下りた時に、ふっと葉ちゃんの顔を見たんだぜ……」

「まあ、そうなの――」

 葉子は一寸恐ろし気な顔をした。

気味きびが悪いわね……」

「気味悪くないさ……僕ア、僕アいつも葉ちゃんのことばっかり思ってたんだもん……」

「まあ……、あたしそんなこという人、きらいよ――どして男ってそうなんだろうなア、義公もそんなことばかりいうから嫌いなっちゃって、さよならしちまったんだし」

「義公が……」

(畜生! 義公が葉ちゃんを好きだなんて……)

 黒吉は、思わず、松葉杖を握りしめた。

「どしたの、黒ちゃん」

「うん、いや、どうもしないよ」

「そお……」

「ね、葉ちゃん、俺んところへ遊びに来ないか……」

「そおね……」

「そう! ありがと。俺んところはね、研究所の正門の通りね、あれを真直まっすぐ行った左側の「広田屋」っていう荒物屋、その二階だよ」

「一人でいんの……」

「そうさ、勿論……」

「あら、えらいわね、よく一人でやってけんのね……そのうち、行くわ」

「ほんとだよ、きっとだよ、ね、……」



十ノ二

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 黒吉は、退院して以来はじめての朗らかさで、何か訳のわからぬ鼻唄を唄いながら、大人の様に、酔っぱらって帰って来た。――あとに好奇心に瞳を輝かせながら、葉子が尾いて来るのも知らずに――。

「まあ、どしたの、きょうは……」

 やっと、うようにして二階への階段をあがり切ろうとした時、いきなり頭の上から、そう声をかけられて、ギクンとした。

「なんだ由公か……」

「あら、すごい元気ね」

「そうさ」

 黒吉は、片足を投出すと、

「由っちゃん、きょうはね、葉ちゃんに逢ったんだよ……」

「え、葉ちゃんに!」

「うん、葉ちゃん、葉子だよ、俺と仲よしの――」

「まあ、そうお、どこで……」

 由子は、気のせいか、いやあな顔をして俯向いた。

「あのね、裏門のとこに、千鳥っていう『呑屋』があるだろ、あそこだよ」

「ああ、あそこなの、どおりで。店に来るお客さんがそういってたわ、近頃あそこにとても綺麗なのが来たんだぜ――って、お蔭様で研究所の人たちは、みんなあっちへ行っちゃうのよ。きっと、葉ちゃんを張りに行くのね……」

「ふーん」

 変って黒吉が、いやあな顔をして、黙ってしまった。

「ねえ、黒ちゃん、葉ちゃんと、あたしと、どっちが好きなの――」

「うん」

「ね、ねえ、どお……」

「俺は、俺は……葉ちゃんも……」

「ええ、どうせそうでしょ、あたしなんか、……」

「いや、由っちゃん、由っちゃん、そういう訳じゃないんだよ……ね、ね……」

 黒吉は、自分でも、その酒くさい息を持てあましながら、由子の顫える肩を、しっかりと抱き寄せると、

「由っちゃん、変に思わないでおくれよ、俺は、俺は久しぶりで葉ちゃんに逢った、っていっただけじゃないか……ね、それだけなんだよ――」

 その時、みしみし階段が軋むと、間の悪いことに葉子がひょっこり上って来た。

「あら――」

 葉子は、あがり口の手すりを握んだ儘、一目でこの狭い部屋の中の様子を見極めると、

「黒ちゃん、おたのしみね、……ほほほ、一人だよ、なんて可笑しくって……。由っちゃん、お久しぶり……せいぜいその不具の化物を可愛がってやってくださいね、あたしもね、退屈だから、一寸揶揄からかってやろうと思って来たんだけど、先約があっちゃねエ……ごゆっくり――さよなら――」

「あ、葉ちゃん!」

 ぱっ、と由子を離した黒吉は、何か

(しまった――)

 と思いながら、必死になって、

「葉ちゃん、葉ちゃん、誤解しないでおくれよ、何んでもないんだよ、恰度、恰度いま由っちゃんが遊びに来たんで、その、その葉ちゃんとこへ行ってみようか、っていっていたんだよ……それだけだよ……」

「もう沢山、来てくれなくて結構よ、わざわざあたしを呼んでおいて、二人で見せつけようなんて、……ふん、黒吉さんも相当なもんなら、女、女もそうだよ……黒ちゃん、あんたこそ誤解しないで頂戴よ、あたしあんたが、大キライなんだからね……

 あたしのところに来て下さる相談なら、まさか抱き合ってまでいう話でもなかろうからねエ――」

 心持ち蒼白になって、険の浮いた葉子の顔は、ゾッとするほど凄く美しかった。幼なくして妖婦の面影のあった葉子の、姐御じみた鉄火口調は、火のように激しく辛辣に、黒吉の胸をえぐった。

 まして、心底から、全身を捧げて恋いしたった夢にも忘れ得ぬ葉子に、無残にも愛想づかされた激しい言葉は、毒針のように、脳天から突き通ったのだ。

「葉ちゃん、そんな……」

 追かけるように見上げた黒吉の、大きく見開かれたタッタ一つの眼は、溢れる泪に濡れていた。

「もういいの、聞きたくないわ――」

 葉子は、はしるように、階段を下りていってしまった。

「ま、まって……」

 不自由な片足で、はねるように、夢中であとを追った黒吉は、

(あっ――)

 と思った瞬間、真ッ逆様に階段から転がり落ちてしまった。

(む……)

 と息がつまって、一瞬視力の鈍った網膜に、サッサと振り向きもしないで帰って行く葉子の、蠢めく腰が写った……。不思議にも、それは、着物も何も着ていない、赤裸々な、悩ましい腰であった。



十ノ三

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「黒ちゃん――」

 やっと、由子の肩をかりて二階へ上って来ると、由子は、いかにも呆れ果てた、というように、

「黒ちゃん、なんていう醜態なの、――よくもこのあたしどろを塗ったわね……ふん、葉ちゃんが来たからって、何も大周章あわてで飛のかなくてもいいじゃないの、そんなにこのあたしが嫌いなら、何故嫌いのようにしないのさ、――あたしは不自由で可哀想だと思えばこそ、来てやるのに、つけ上ってさ――ふんだ、葉子じゃないけど、あたしの方でご免蒙るわよ、まったく……。そんな化物みたいな顔して『由っちゃん』が可笑しいわ。よしてよ。もう由っちゃんなんて、呼んで貰いますまい。

 ……あたしはバカだったわね、なまじっかの同情が、こんな男にいいようにされて、嫌われて……、ふふふふ、おも、面白いもんねエ……大バカの由子――」

 噛つくように呶鳴っていた由子も、しまいには鼻声になって、こみ上げて来る啜泣すすりなきを、たもとで押えたまま、出て行ってしまった。

 黒吉は、もうそれを止める元気もなかった。何故なにゆえとはなく、止め度なく溢れる泪を、ぬぐう気力もなかった。

 一瞬にして、葉子と由子とを失ってしまった自分――。それが大暴雨のあとのように、妙に信じられないような、その癖、まだどこかに、無気味なものが残っているような、……こうしている今にも、葉子と由子とが、「こんにちわ――」と笑いながら、這入って来そうな、妙な気持だった。

 ダガ、それはあまりにもむごい一瞬だった。あれ程までに自分の恋したっていた葉子、あれ程までに自分をいたわってくれていた由子――それが、この一寸した手違いから、もう遠く自分から離れてしまったのだ。

 由子には済まない話だけれど、――それに、一寸考えると、妙なことだけれど――、自分の本当に恋し、本当に満足させてくれていたのは由子ではないヤッパリ葉子だったのだ。

 黒吉は、由子を抱きしめながら、葉子のことを思い、そしてそれを葉子のように愛撫していた。いってみれば、由子の肉体は、黒吉にとって、「葉子の幻像」であったのだ。温たかい、現実的な写し絵にすぎなかったのだ。

 黒吉は、由子を勢一杯抱きながら、葉子の香に酔っていた。なんという異状な恋愛であろう――なんという激しい葉子への思慕であろう――。あの曲馬団の暴雨風あらしの夜の最初の接吻! それは黒吉がまだとおの時であった……。

 黒吉には、その哀れな傀儡かいらいであった由子を忘れても、葉子を忘れることは出来なかった。

(葉ちゃん……)

 黒吉は、ほうり落ちる泪の中で、幾度も幾度もその名を呼び続けた。



十一

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 それからの黒吉は、研究所の所員たちに嗤われ、肝腎の葉子にすら蔑まれながら、それでも、僅かな暇を偸んでは、不自由な足を引ずって、あの千鳥食堂に、通いつめるのだった。

 あの、曲馬団が解散する頃には、もう移り気な葉子からすっかり見離されていた黒吉が、なお一層醜怪な容貌となってしまった今、改めて葉子の歓心を買うことは、とても出来ない相談だった。

(一度は、ともかく、家へも来てくれたのだから……)

 と黒吉は、胸の中で思っていたのであろうけど、葉子にしてみれば、移り気の多い女の特徴として、何気なく、半ば無意識に寄ってみたまでで、まして、曲馬団時代の競争者、由子とのむつまじげな様子を、わざと見せつけられたような気がし、

(ふん……)

 と反感を増しこそすれ、この貧しい醜少年に笑顔一つ見せる義理はなかった。

 葉子は、そんなものに相手はしていられない程、美しく、ちやほやされ過ぎていた。

 又、金廻りのいい高級所員や、何処からか嗅ぎつけて来る金持の息子共の歓待の中に忙しく、それと反対的に、自分の過去を知りすぎている黒吉を、邪魔には思っても、いい顔一つしよう訳がなかった。

 葉子に、冷遇されればされるほど、黒吉の恋情は、いや増すばかりであった。葉子は執拗しつっこく通う黒吉の前で、わざと他の男の膝に乗ってみせびらかしたりなどした。だが、黒吉は、ただ黙って寂しく顔を歪めて笑うきりだった。

 心の中は、掻き毟られるように、痛く悲しかったけれど、うわべは、ただニヤニヤと笑う恋に弱い黒吉だった。

 葉子は、この無反応の黒吉に、却って躍起となって、有頂天になった男共の群の中に、強いてまで身を投げ込んで行くのであった……それは、どうにも、この儘では長いこと続きそうもない、無気味な気配を感じられるのだった。

       ×

 しかし、一度彼が身を機上に托して、大空から飛下りる、その瞬間の幻影の中では、黒吉は、飽くことない愛撫を、葉子に与えることが出来るのだった。

(葉ちゃん、東京に行ったって聞いた時は淋しかったよ)

(そう、ごめんなさいね……)

(いいんだよ。今はこうして一緒にいられるから、とても嬉しいんだよ)

(そうね、あたしもよ……黒ちゃんに逢いたくて、ここへ来たようね)

(うん、そうなら嬉しいんだけど……)

(でも……でも、由っちゃんに悪いわ)

(何いってんだい、あんな奴――、なんでもないんだよ、ほんとに、ただ遊びに来るだけなんだよ)

(あら、そう、ほんとならいいけど……)

(ほんとだよ――)

(あッ、危い!)

 黒吉が、葉子の方に手を差しのべた途端、物凄い音がして、パラシュートが開く、と、その愉しい幻影は、跡形もなく消え失せて、虚空を木の葉のように流れ落ちて行く黒吉……。

 それは哀れな現実だった。

 ダガ、黒吉は、その「夢」の再生を信じていた。

(何時かは、そうなる――)

 と……。

 そして、相変らず夜は千鳥の片隅で独りのけもののようにぽつんと腰かけた儘、舐めるように、葉子の全身を見廻し、昼は大空の夢の中に、葉子を、シッカリと抱くのであった。



十一ノ二

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 この頃は、黒吉は、あの恐ろしい空の冒険を自分から進んで日に二度も三度もやってのけるのだった。そして飛行のない日は、全く気抜けのしたように、研究所の片隅で、松葉杖を抱えたまま、しょんぼりと考え込んでいた。――それは、空を飛下りる時の、妖しい幻影にのみ、たのしみをつないでいる、淋しい男の姿だった。

 しかし、このタッタ一つ残された「夢」というオアシスにも、到頭恐ろしい破局が訪れて来た。

 それは、まだ、葉子の誤解もとけて、睦まじく話すことの実現しない矢先に、突然、この町から少しばかり離れた資産家の化粧品商の息子と、あの葉子とが、近々結婚することになった――という、彼としては、いきなり千じんの谷へ突落されるような、忌わしい幻影なのであった。

 黒吉は、この妖夢を見た瞬間から、スッカリ心の平衡を失ってしまった。

(俺の楽しい夢、俺の素晴らしい楽園は、もう木葉微塵に叩き壊されてしまうのだ……)

(かつて、あの「空の白日夢」の外れたことはない――とすれば、この忌わしい「予言」も、キット実現するに違いない――)

 なんという恐ろしいことであろう。

 物心ついてから、早くも一生の寄生木やどりぎとして心の奥底から、それこそ、何物にも代え難く愛し、敬し、慕っていた、その偶像「葉子」が、この自分を棄てて、結婚してしまうのだ。

 ――近頃の、惨酷にまで冷めたい葉子の仕打から見て、

(そんなことになりはしまいか……)

 と惧れ、恐れていたことが、いよいよ実現しようとしているのだ。あの、この世に咲いた、最も美しき花「葉子」、命よりも愛し恋うた「葉子」――それが、むざむざと見知らぬ男の、好色な腕にシッカリいだかれようというのだ。

(成るほど、俺は不具だ、おまけに醜男ぶおとこだ……)

 ダガ、醜男は生れつき――かつて、葉子はその醜男の黒吉と、堅い固い約束をしたではないか、そして、幼なくして、早くも「女」を教えてくれたのは、葉子ではなかったか――。不具だって、いってみれば、葉子と別れるのがつらさに、曲馬団の解散を惧れて、「明日」を覗こうとして失敗した為なんだ――。

 臆病な「虫」といわれていた黒吉を、ともかく曲馬団の花形としたのも「葉子」母を知らぬ黒吉に、最初の女性の優し味を与えてくれたのも「葉子」。そして最初の恋も、最初の接吻も……すべて黒吉の周囲から「葉子」を切り離しては考えられないのだ。

 そして又、いまは、最初の、泪の「失恋」を彼女から与えられようとしている……。

 思っただけでも、ゾッと鳥肌が立つほど恐ろしかった。

 何故、こんなことを考えなければならないのか――それが怖かった。

(ほんと、でなければいいが――)

(いまのままでいい。優しい言葉一つかけてくれなくとも、冷めたい眼で見られても――それでも毎日、彼女の身近かに自分があることだけでもいい……)

 黒吉は、もうじっとしていられなかった。

 薄暗くなり出した曠漠たる飛行場を横切って、千鳥食堂へ急ぎ出した。



十一ノ三

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 夕日は、腐った血の色だった。

 不吉の前兆のような、無気味なしずかさが、原っぱの上全体に押しかぶさって、夕靄が、威圧するように、あたりをめていた。そして颯々さつさつと雑草をなぎ黝黯あおぐろい風……。

 行く手に、ぼんやりと千鳥食堂の灯が、ただよって来た――と同時に若い女の後姿が、仄々と影絵のように、浮び出て来た。

(おや、葉子かな)

 その特徴のある、悩ましく腰をゆすって行く女は、正しく葉子であった。

(畜生――、あの化粧問屋の情夫いろおとこに、逢いに行くんだな……)

 黒吉は、頭がカーッと火熱ほてって来た。そして、片足の男とは思われぬほどの、恐ろしい速さで、原っぱを駈け出した。

「葉ちゃん――」

 やっと追ついた黒吉は、上ずった、嗄がれた声で、飛つくように、呼止めた。

「え――」

 はっと振向いた葉子の顔には、一瞬、本能的な恐怖の、黒い影が散った。

「葉ちゃん――、毎日逢いながら、こう二人っきりで葉ちゃんと呼んだのは、ほんとに、何月ぶりだろう」

「……」

「そんなに嫌な顔をしなくても、いいだろう……そんなに俺が厭なんかい――」

「……」

「俺は、俺は、命がけで葉ちゃんのことを思っているんだよ……ね、ね、少しは察してくれてもいいじゃないか、ね」

「……」

「何んとか返事をしてくれてもいいじゃないか……、生ッ白い化粧品屋のせがれに、また、逢いに行くのかい……」

「ええまあ、まあ、何故それを――」

「ふっふっふっ、驚ろいたろう――俺は何んでも知ってるんだよ」

「そんなことないわよ、いま一寸、用があって来たのよ――」

 葉子も、これほど熱烈な黒吉の気魄に、少し可哀想になったのか、しんみりそうはいったものの紛れ射す月の光に、この呪われた醜怪無残な彼の顔が写ると、ぞっとして吐出すように、

「黒ちゃん、もうお互いにサヨナラしましょうよ、それがお互いのためだわよ――ほほほほ、ねエ黒ちゃん、もう昔のことはいいっこなし、『極東』の解散と一緒に、他人になりましょうよ。……少しでも、あたしに可愛がられたあんたは幸福もんだと思いなさいよ……あたしはね、これから仰言る通り、あの人に逢いに行くの……今夜は向う泊り――うらやましくって……」

 靄を透して来る、弱い月の光りにも、彼女の顔には、黒吉にとって、最早絶望の、鋭い険があった。

「葉ちゃん、もう一度でいい、その手を握らしてくれ、その円い胸を抱かせて……、それでいい、俺はそれで満足するんだ、ね……もう一度――」

「何、いってんのさ、跛足のバカ……お前さんの顔は、化物そっくりだよ、ヘンだ、そんな顔でよくも図迂図迂ずうずうしいことがいえたもんだね……せいぜい、由公でも抱いてるさ……」

 秋の飛行場は、物寂しい闇につつまれていた。周囲はほの暗く、憤怒に燃え立った黒吉のは、殺意を含んで、ギラギラと輝き、無恰好な体からは、陰惨な血腥ちなまぐさい吐息が、激しく乱れた。

「うう……畜生」

 呻くと一緒に、彼の左手は、もう白くくびれた葉子の咽喉元に喰い込んでいた。

「な、なにするのよ――」

 葉子は、その手を払いのけ、黒吉の片足をあなどって、いきなり身をかわして逃げ出そうとした時だった。

 カッと逆上した黒吉は、松葉杖を振りかぶると、渾身の力をこめて、目茶目茶に、葉子を撲りつけた。

 タッタ一声の悲鳴で、脆くも葉子は、倒れてしまった。黒吉は、既に悪魔の虜だった。

 彼は、握り締めた松葉杖を、抜きとるようにして抛り出すと、

「畜生……畜生……」

 狂おしく叫びながら、いきなり倒れた葉子の体の上に、獣のようにのしかかり、力まかせに、グイグイと咽喉を締め上げていた。

 ――それから、どんなむごいことが、この全然人気のない原っぱの中で行われたか……ただ、彼女の真白い足の裏が、靄に溶け込んだ蒼白い月の光りの中に、まるで海底の海盤車ひとでのようにいぎたなく突き出されて見え、そこら一面には、着物や肌着などが、暴風雨あらしのあとの花のように飛散し、若い女の血の臭いが、なまぐさただよっているのだった。



十一ノ四

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 翌日――。

 中秋の空は高く、うらうらとした、明るい日であった。

 いつものように、格納庫から離陸場へ引出された飛行機は、黒吉を乗せると、昨夜、この原で、無残な殺人が行われたのも知らず、一点の雲もない蒼空に、いかにも軽々と飛込んで行った。

 フト、気がつくと、黒吉の座席の足元の空地一杯に、何か大きな風呂敷包みのようなものが、窮窟そうに押込められていた。

 ……こんなものが、何時の間に積み込まれたのか、誰一人気づかなかったけれど……。

 だが、それは、どうも葉子の死骸らしいのだ――そんな不吉な予感がする。

       ×

 あんなにまで愛し、あんなにまで恋いしたっていた「葉子」。その葉子に、あんなにまで烈しく侮蔑され、嘲笑されようとは、黒吉自身も思っていなかったことで、余りのことにカッとした黒吉は、いきなり眼の眩む思いがすると同時に、半ば、無我夢中のうちに、葉子を「死」にまでおとし込んでしまい、そして、その冷えて行く美しき死骸に、熱い熱い接吻をした。そして、始めて我れに還った黒吉だった――。

 あの常軌を外れた曲馬団の楽屋裏の毒々しい色彩と、嬌声と、猥歌と、汗じみた肉襦袢の中に初めて物心づき、早くも美しき変質少女葉子を知り、恋をして来た黒吉――。あの渾身の力をめ、虚無の一線を飛うつる曲芸の中に、不思議な自己催眠術を覚えた黒吉――。そして又、不具になり、一層偏執になって、「葉子との楽しき夢」ばかり追っていて、最早や、夢と現実の境界さえ確然としないほどの黒吉――。

 その黒吉としては、むしろ当然であろうこの「殺人」の終端へまで来てしまったのだ。

 しかし、葉子を殺害した黒吉は、例えようもない幸福に酔っていた。

(葉子――、あれほど慕っていた葉子が、今は自分の自由になるのだ――)

 葉子は、もう、厭な顔一つしなかった。もう黒吉の醜い顔を、いくら近附けても、嗤わなかった。いくらシッカリ抱きしめても……、雨のような、弾丸のような、激しい接吻に、その匂うようなはなの顔が、ベトベトと濡れ果てても……。

(なんという幸福であろう――)

 だが、黒吉は、その幸福に、これ以上、酔っているわけには行かなかった。気のせいか、はっと顔を上げて見ると、長い秋の夜がすでに去ってもう空が白々と明るみかけて来ていたのだ。

(人にみられたら……)

 人に見られたらもうお仕舞なことは、解りきっている。この葉子と引離された揚句、自分は死刑の宣告を受けて、何処か訳のわからぬ墓穴の中へ投込まれてしまうのだ。

 死刑は別に恐ろしくなかった。ただ折角手に入れた葉子と引離されることが堪えられなかった。

 黒吉は、さんざん考えた末、葉子を、空につれて行くことに考えついたのだった。

 そう思いつくと、葉子の死骸を、長いことかかって格納庫まで引ずるように、持って来、勝手知った出入口から忍込んで、たった一台しかない旧式練習機の、座席の足元から横に開いた特別広い空胴の中に、無理矢理押込むと、あとは知らん顔して飛行を待っていたのだった……。

       ×

 飛行機は飛びだした。幸い誰も気づかなかった――。黒吉と葉子の、空の新婚旅行がはじまったのだ。

 傍にそなえられた高度計の目盛は、グングン廻って行った。遙かなる地球は、蹌踉そうろうとして足下に、のたうっている……。

 黒吉は、やがて、思い出したように、その足元の風呂敷包みを解きはじめた。引めくるように、その風呂敷がとられると、いきなり露出むきだしにされたものは、あの美しく、年若き妖婦、葉子の、それこそ一糸も纏わぬ全裸まっぱだかの肢体だった。

 そして、既に、魂は去っていたが、その蒼白い、均斉のとれた美事な肢体は、飛行機の蠕動を受けて、さも生けるもののように、くねくねと顫え、黒吉の膝の下に、従順に、跪いているのだった。

「葉ちゃん――俺の、俺だけの、葉ちゃん……」

 勢一杯に呶鳴った声は、はかなくも虚空に、飛散してしまった。

 でも、黒吉は幸福だった。彼は、飛行帽の中で、厚い唇をペラペラ舐めずると、さも嬉しそうに、醜い顔をにたにたとくずしながら、倦かず葉子の淫らな姿に見入るのだった。



十一ノ五

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 無限に澄み切った、目の玉の溶ろけるような青空の中で、黒吉は、葉子をシッカリ抱いたまま飛んでいた。

「オーイ、用意……」

 突然、送話管を通して、操縦士の太い声が伝わって来た。ハッとした黒吉は、座席から伸上って遙か下界を見下すと、箱庭のような風景が、いかにも葉子の死体を待ちうけているように、手を拡げて、ゆたりゆたりと踊っていた。

 ――黒吉は、発狂したのであろうか。いきなりパラシュートを外すと、飛行帽をかなぐり棄て、飛行服までむしり取ってしまうと、グット邪慳に、葉子の死骸を抱き上げた、と同時に、

(あっ――)

 と思った瞬間、この銀色の機体から、シッカリ抱合った全裸の男女が、遙か下の遠い遠い地球目がけて、まるで爆弾のような凄まじい勢で、どこまでもどこまでも、墜落して行った……。

       ×

 黒吉は、満足だった。

 いままで毎日見なれて来た山や川や森や畑が、この自分だけ二人を、優しく抱擁してくれるように思えたのだ。それに、何んという神の祝福であろう、空気の断層をつんざいて転落する自分の両腕には、地獄までも離すまいと、力の限り葉子を抱きしめているではないか――。

 黒吉の、あの空を飛ぶ時の、不可思議な白昼夢は、いまや現実よりも明瞭に現われて来たではないか……。

(黒ちゃん、許してね。やっぱりあたしは……、もうすっかりあなたのものよ)

(わかってくれたね、葉ちゃん。俺の気持、やっと解ってくれたね)

(わかったわ、わかったわ、もう決してあなたのそばは離れないわ)

(ありがとう、葉ちゃん。ありがとう。俺も、俺も、決してもう離しはしないよ……)

 ああ。葉子は、黒い瞳に媚をさえ浮べて、自分を見詰めている。葉子の血のはなびらのように赤い唇が、わなわなと顫えながら、近づいて来る……。

(ああ、俺は幸福しあわせだ……)

(「探偵文学」昭和十年六月~十月号、未完。昭和十一年『夢鬼』収録時に完結)
 

この著作物は、1944年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。