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私という恥(はじ)多い者にもこのような憶(おも)い出がある。十幾年(いくねん)という昔(むかし)の話である。
それはまだ自分が中学の三年か四年の頃(ころ)だったように思う。まだ弟達が随分(ずいぶん)小さい時のことであった。上の方の弟が小学校の二年、小さい弟がまだ小学校へ上っていなかったか、それとも一年生になっていたか、――なににせよずっと古い頃の出来事なのである。
私がそれまで経験して来たところによると、親というものは子供の安否を、まるで馬鹿(ばか)げきった想像までもして、気遣(きづか)うものであるということが頭に滲(し)みていた。
私が心配される時、それから兄弟が心配される時、私はそれを正当と思うよりもある腹立たしさをいつも覚えるのが常だった。
旅行の出発の時に永々とひきとめられて注意をきかされたりすると、単にはいはいときき流していればいいとは思っていても、ついいらいらした気分になってしまうことがよくあった。また、弟等二人が海水浴へやってくれとせがんでいるのに、危いからやれないなどと云(い)っている父母を見ると、私はつい干渉(かんしょう)がましいことを云ってみたくなった。海水浴は父母が最も嫌(きら)ったものの一つであった。海水浴へ行ったものの予定の帰宅の時間が少しでも経過すると、私はすぐに父母の顔色から不安の色を読むのだ。そして一時間も遅(おく)れると矢も楯(たて)も堪(たま)らないように私達にさがしに行って来てくれと云い出す。私としても全然不安がないとは云えない、しかし私はそんな場合、私の感じているだけの不安をもってそれのある程度まで同情する代りに全然反撥(はんぱつ)してしまうのが常だった。無暗(むやみ)に腹が立って来て、そんなバカなことがあるものかと云いたくなる。第一にそんなことを心配するのがまるで馬鹿げた杞憂(きゆう)で、第二にはそんな用事をいいつかるのが大嫌(だいきら)いだった私は、そんな杞憂のエゴイズムのために働かされるのは真平(まっぴら)だと考えていたからであった。それを多寡(たか)を括(くく)っている私に、どうしてそんな遠い所まで捜(さが)しにゆく元気が出るものか――そしてそれはいつも行きちがいになるか、何かそのようなむだになるにきまっていたのだ。
今から思ってみれば、海水浴などは、子供が家の戸を出るや否(いな)やから、父母はもうそれを許したことを後悔(こうかい)しているのだ。たとえ正当の時間に帰って来ても、帰って来るまでが大きな重荷なのだ。
親たることのいかに大きい十字架(じゅうじか)であることだろう。
やはりそのようなことが起ったのだ。
冬か初冬だったと思う。寒い時候だった。二人の弟が昼飯時から姿を消したまま、夕方になっても帰って来ないのである。弟達の声がきこえない家は妙(みょう)に淋(さび)しかった。どこにいても必ず帰って来るべき、お八(や)つの時になっても帰って来ない。私と母は二人きりでひっそりとお茶をのんでいたが、その時にはもう例の不安が争えない色や線になって、彼女の顔に描(えが)き出されていた。それを見ると私はまたぶっとしてしまって、二人の行方(ゆくえ)を怪(あや)しむような言葉などおくびにも出さなかった。
豆腐屋(とうふや)が通ると次には夕刊が来、それから街燈(がいとう)という風に遠慮(えんりょ)なく夜は迫(せま)って来ても、二人は帰らなかった。家の前の病院の電燈はいつものように赤く、さむざむと暮(く)れてゆく冬の夕方の白っけた空気の中にその色が妙に淋しかった。
ぱっと部屋の電燈にも電気が来る、それが来たとき「いよいよ来た。」と私は思った。
もちろん母は早くから不安に苛(さいな)まれていたに違いない、しかし私にはそんな早くからその不安を訴(うった)えることは出来ない。(それは私が間違いなく反撥することも事実だったが、母はある正直さから自分の時を弁(わきま)えない厄介(やっかい)な心配を恥(は)じてさえいたというのも間違いのない事実なのである。)しかし今はもう電燈も来たのだ。夜になったのだ。あれも心配するのが当然である時が来たのだ。――こう思って母は捜(さが)しに行ってくれと云いに来るにちがいがなかった。
電燈が母の不安を爆発(ばくはつ)さす関所であった訳をこういう風に考えても満更(まんざら)妥当(だとう)を欠いてはいないだろう。すなわち時計の針の動きにしろ、日光が薄(うす)れてゆく加減にしろ、それは時々刻々の変化で、従ってそれに伴(ともな)う母の不安も滑(なめ)らかな増加を見たに過ぎないが、電燈が夜の来たことの争えない証拠(しょうこ)であり、厳(げん)とした道程標である以上、夜が迫(せま)って来る感じはその瞬間(しゅんかん)飛躍(ひやく)して、ぐんと色の濃(こ)いものになり、母の不安ももう立ってもいてもいられない程度に激変(げきへん)する。
とにかく八千衢(やちまた)を暗(やみ)に封(ふう)じ込めてしまう夜が来たのだ。
思った通り母は私の部屋に入って来た。
「お前この近所にはいないんだよ。○○さんの所にも、××堂にも。お前どっか心当りがありませんか。」
「心配しなくってもすぐ帰って来ますよ。」
「でも、お前、ひょっと二人がどこかへゆくってな相談をきかな……(欠)
 ……土産(みやげ)がいつものようにあったのだ。)
しかし母はそれにも気付いてはいたが、まさかと思うと云い出した。
「だって、歩いてゆくのは大変だし。あの児(こ)らはお銭(あし)は持っていないはずなんだよ、」
「でもわかりませんよ、一度電話をかけてみたらどうです。」
母が立って行った後で、今頃(いまごろ)かけても父はもう帰り路(みち)だろうなどと私は考えていた。
しかし電話も駄目(だめ)だった。帰り路だと思っていた父はその晩は忙(いそが)しくて会社にいて電話口へ出たが、弟達はゆかなかったこと、それから次郎に捜させろということを云って電話を切った  と母は沈(しず)みながら云った。
とうとう探して来いと言うのだな!と思うと私はまた腹が立って来た。「次郎に捜させろ!」と父が云ったというのもどうかわかるものか。
「ね、捜して来ておくれ。」
「捜しに行ったって無駄(むだ)ですよ。一体どこにいるかというあてもないのに。いつもの事ですよ。すぐ心配するんだ。この間だって。――」
と云いながら私は母の愚かなる心配なるものの例を列挙し出して、毎度の心配の捲添(まきぞ)えになって、いつもの馬鹿げた捜索(そうさく)にやられるのを徹頭徹尾(てっとうてつび)回避(かいひ)しようとした。
「帰って来ますよ。三郎だって十にもなっているんだから迷児(まいご)になっても心配なんかありません。」
しかし母も負けていずに、迷児を出した不孝な家の考証をはじめた。そして最後には父の命令もあるのだし、
「強情(ごうじょう)はってゆかないのならお父さんに云いつけるよ」と厳(きび)しい眼をした。
「だって、腹も空(す)いてるし。」と私は云った。本当にそうでもあったし、また一つにはこうなれば飯に難癖(なんくせ)つけてすねてやれ、そのうちに帰って来るかも知れないというのが私の腹であった。
「だからご飯も用意してあるから。」
と云うので立って行って見ると、電燈の光の下の卓袱台(ちゃぶだい)の上には私一人分だけの茶碗(ちゃわん)やその他の陶器(とうき)がその冷たい肌(はだ)の上におのおの一つずつの電燈の小さい影像(えいぞう)を写し出している。落ち着いて飯でも食ってやれという依怙地(いこじ)な計画も気が乗らなくなってしまい、こんな時には意地にでも空腹を抱(かか)えて飛び出すというあてつけの方が私の腹立ちには快かったので、私は第一、そんな寂(さび)しい食卓(しょくたく)では食欲が起らなかったし、ちゃんと用意までしてあるんだなと思うと、誰(だれ)が食ってやるものかと思った。
「お前食べないのかい。」
私は腹が立っていたので返事もせず、足音であたり散らかして、どんどん家を飛び出した。
まず私は近所の○○さんや××堂へ行って、弟達を見なかったとか、どこかへ行くと云ってなかったかとか云ってききただしたが、何の手懸(てがか)りもえられなかったので、不平でぶーぶー膨(ふく)れ面(つら)しながら暗い路を○○神社の方へあるき出した。私の心の中の不平は憤(いきどお)りとなって、その道々弟達の上に燃えた。
「捕(つか)まえたら、撲(なぐ)りつけてやる。」
しかしその報いられない捜索が別に確かなあてのあるものでもなく、そして何というつまらなく腹立たしいことを強いられているのだろうと思いながら、その賑(にぎや)かな通りをあるいていると、小料理屋の格子(こうし)から冷い夜気の中へ白く湧(わ)き出て来る湯気や、醬油(しょうゆ)のたきつまる匂(におい)は堪らなく私の空腹を淋しがらせはじめたのだった。するとまた、こんな考えも浮んでくる。――(もう彼等は家へ帰っているかも知れない)そんな気持が湧いて来ると、独りで空腹を抑(おさ)えながら不熱心にその辺りをほっつき歩いている私には、その好都合な想像がやがて本当の事実として映るようになり、無責任にいい加減歩きまわったのを機会に私はまだ急いで家へ帰りはじめた。
「帰っていたら、いきなり撲ってやる。」
私はまだ不平を街上に鳴らしながら家まで帰った。
しかし環涿sのその急(せ)ぎ込(こ)んだ予想も、家のしきいをまたいだ瞬間にそれが裏切られていたことがわかった。弟達はまだ帰っていなかった。しかし会社からは父が帰っていた。
「どうだった。」
父は尋(たず)ねた。
「○○神社へ行ったのですがいませんでした。」
「××町は。あの・・は。」
「行きませんでした。」
「あそこを捜しておいで。」
空腹の私に飯も食わさないでもう一度近くもない××町までやろうとする父の気持が、乱暴(らんぼう)にも、残酷(ざんこく)にも言語道断に思えた。(飯も食わずに○○神社まで行ったんだぞ)と心の中ではぷんぷん憤っていた。父の前には温かな湯気(ゆげ)を立てている鍋(なべ)があった。私はその匂いに力強くひきつけられた。
さっき食わずに出たものを、母がなぜ、飯を食ってからゆけと云わないのだろう、私にはそれがまた腹立たしかった。私はまたこじれた考えを抱いた。ここで飯を食おうと云いはろう。父は私がもう飯をすませた事だと思っていただろうから私がすぐゆけるつもりでいたのだろう。それだから、飯を食おうと云うと牴牾(もどか)しがって、飯は後にしてと云うだろう。そこで口答えをしてやろう。別にそのように意地悪い論理を働かした訳ではなかったにせよ、飯を食わせろと云った私の心の不平のあまりたしかにその辺を大きく狙(ねら)っていたに違いなかった。
「さきにご飯をたべさせてもらいます。」
「なんだ、ご飯はあとにしてすぐ行っておいで。」
「お腹(なか)がへってるんです。」
「それじゃ三郎や四郎はどうなんだ。あれらも腹を空(す)かせてるじゃないか。」
「それは勝手です。」
自分ながら云い切ったなと思った。
父が見る見る目に角をたてるのを母は制しながら、さっき食ってゆけと云ったのを食わずに行ったのだからと云って飯の用意をしてくれた。
私は意地わるくそれを見ながら、うんとこさ食ってやれ、と思っていた。しかし意地もなにもない真正の空腹にその飯は意地でも張りでもなく本当にうまかった。しかし私が飯を食いかけるが早いか、私はもう捜しにゆかなくてもいいようになった。弟達が帰って来たのだ。
下駄(げた)をぬいでいる小さい足音をきいた時、私達はおやと思った、帰って来たのかな。そう思った瞬間、彼等は一体どこに今までいたのだろうという疑問やその時まで私の心の底にあった心配が自由に蘇(よみがえ)って来た。
電燈の光の下へ、ぱたぱたと姿を現わした時彼等は二人とも、悄(しょ)げて、真面目(まじめ)であった。それで父や母に対するこじれた気持もその瞬間ずっと薄(うす)れてしまったように思えた。
「帰って来た。」
十になる三郎はものにおびえた表情をしていたし、七つの四郎は泣いていた。
「どこへ行ってた。」
父はまず厳しくきいた。三郎は、築港へ軍艦(ぐんかん)を見に行ったのだと低い神妙(しんみょう)な声で答えた。この間盛(さかん)に母にゆかせてくれるように三郎がねだっていたのを私は思い出して私は合点(がてん)が行った。母はいつもの心配性でその時肯(がえん)じなかったのだった。
「築港へ。」
父も母も少し呆(あき)れていた。もちろんそれは無鉄砲(むてっぽう)な遠足には相違(そうい)なかった。
「馬鹿、ここまでおいで。」
私は父が三郎を折檻(せっかん)しやしないだろうかと思った。
すでに入る時泣いていた四郎は、だんだん泣き声を大きくして喚(わめ)き出した。肥えを大きくすればするほど、そして涙(なみだ)を流せば流すほと、彼がこの家に帰りつくまでに嘗(な)めつくした、恐怖(きょうふ)や、空腹や、頼(たよ)りなさや苦痛の痛手がそれだけ早く癒(なお)るかのように。またその泣声は合間合間に四郎は「……でさんちゃんが…したんだよう」と云ってわけのわからない讒訴(ざんそ)をはじめた。
永い間の心配から解放の気持も私にはよくわかった。それは志賀直哉(しがなおや)の「真鶴(まなづる)」や芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の「トロッコ」にかかれている児供(こども)の気持そっくりの気持であったにちがいないのだ。「しかし四郎甘(あま)えてやがるな。」と私は思はざるを得なかった。それ故、彼をただ泣かしておくだけで何ともかまってやらない母の正当な処置が私には快く思われた。
年も小さく末っ児ではあり、みなに可愛(かわい)がられている故か、四郎の、大きな泣声ですぐ父母の懐(ふところ)の中に飛び込んでゆくという風の叱責(しっせき)を予期していない、そしていじけていない、無邪気(むじゃき)なやり方は大抵(たいてい)の時は気持のいいものであったが、今の場合はそうではなかった。常から四郎に比べては甘やかされていない三郎が、たとえ、その脱出について責任があるとはいえ涙一粒(ひとつぶ)出さずに父の前で神妙に裁かれているのを見ると私の同情はむしろ三郎にあった。
父はまだ折檻しなかった。折檻したら、私にも云うことがあると思った。
「三郎がこの間もあんなにねだっていたのに、なぜか父や母はやってやらなかった。やってやらないから、行きたさの募(つの)ってこのようなことになるのだ。お弁当をつくってやり、電車の小遣(こづかい)をやれば、三郎にだって独りゆけないことはないのに。築港までの往復は五里以上あるぞ。それをあの児達は往復歩いたのだ。」
私は彼等の罰(ばつ)以上の罰である、往復の苦しみをいとおしく思う気持と、いつも友達との山登りだとかなんだとかに誇大(こだい)な心配をするばかりで賛成してくれたことのない父母に対する憤りがかたみに燃えた。
「馬鹿」を幾度浴びせられた事だろう。三郎は母に誨(おし)えられて父に詫(わ)び、そしてもう二度と默(だま)って遠い所へゆくようなことをしないと誓(ちか)わされた。
三郎が頭を下げている傍(そば)では、四郎がまだ時々思い出したように大声をああげては泣きじゃくっていた。
三郎はまた、母に誨えられて、私に心配させ捜させたのを詫びに来た。彼もそろそろ耐(た)え切れずに泣きはじめた。
「寒かっただろう。」
とか云ってなぐさめてやればやるほど、大きな声で泣いた。
父も一通り叱(しか)れば、やはり当然すぎる同情をあらわして、泣きやんで飯を食えと云った。母も心配から解き放たれて、満足そうであった。茶碗(ちゃわん)がかちゃかちゃなって賑かな夕餉(ゆうげ)になった。
築港もこの頃は随分家も立っているがその頃の築港はずっと淋しいものだった。電車は通じていたが、一里ほどの間は停留所の附近に少々人家があるだけで、とは埋立地(うめたてち)だとか、水たまりだとか、蘆(あし)が一面に生えていた。そこへ鴨(かも)が来るので鴨猟(かもりょう)が出来た。それほど淋しかった。それからそんな蘆原をへだてて、港の方に高いガントリー・クレーンが見えていたり、六甲山(ろっこうさん)がずっと見渡(みわ)たされたりした。そんな所の暮(く)れ方(がた)が十や七つの児供にはどれほどおそろしかっただろう。
私は飯を食いながらその沿道の淋しさを心の中に浮べていた。そしてそんなことを思うと二人ともなぜもっと先ほどのように大きな声で泣いて、戻(もど)って来た喜びの興奮(こうふん)を端的(たんてき)に表わさないのだろうか不思議なような気もした。
しかし二人はかたみに問う、父母の質問に平和に返事をしていた。軍艦の話。道での話。きいていると、三郎はそれを前日から計画していたらしく、二枚もっていた電車の切符(きっぷ)と昨日からのお八つの貯(た)めたのを糧(かて)としてそれを見にゆくつもりをしていたのだ、それを何か下手(へた)なことで四郎に嗅(か)ぎつけられて、つれてゆかねば四郎がそれを母に云いつけるので、仕方なく、往路は電車に二人が乗って帰り道を歩いたと云うのだ。さっき、泣き喚く合間合間に四郎が三郎の讒訴をしていたのは、その三郎の貯めといたお八つの分配だとか、早く歩けと云って突(つ)いたとかいうことなのであった。
しかし三郎にしても、内証に脱(ぬ)けだしたお陰(かげ)で大空に帰った小鳥のような喜びや、末っ児でのさばっている四郎を隷属(れいぞく)させて得々と自分の力を意識しながら、軍艦見物した気持は、帰途(きと)のあまりにむごすぎる恐怖はあったにしろ、悪い気持ではなかっただろうなど私は思った。
とにかく夕餉はほっとした親子の安堵(あんど)の中に楽しく終って、私は自分の部屋へ帰って来た。
その時私は「夕凪橋の狸、」ということを思い出した。それは父の知っている船の船長が一度私達の前で話した狸の話で、夕凪橋というのは築港へゆく路の最も淋しい場所に架(かか)っている橋なのであった。夕凪橋に狸が出て何とか何とかするというその話を弟達はよもや忘れていはしまい。夕凪橋を通るとき二人はどんな気がしただろう、と私は思った。
「おい、四郎。」
私は四郎を呼んでその話をきこうと思った。
「なに。」と云って四郎は私のいる部屋へ入って来た。夕餉の後の満足したおどけた心から、私は四郎の顔を見たとき、「こいつめ、一つ威(おど)してやろう。」と思った。一つにはそれは三郎に与えられた不公平なと思われる叱責などに対するバランスとしてであった。その威しをその後憶(おも)い出すたびごとに私はいつも自分ながら恐怖に打たれるのが常である。
「おい、四郎。俺はな、夕凪橋の狸だぞ。」
そして私は目をぎょろっとさせて四郎を睨(にら)んだ。
「やーい、嘘(うそ)いってるよ。」
と大きな声で四郎は云った。
「確かにどきっとしたな。その恐怖を大きな声でおっ払(おあら)おうとしているのだな。」
そう思った瞬間私はその仕事にほとんど病的な興味を覚えてしまった。
「なにが嘘なものか。ハッハッハ。」
私はまた眼玉をぎょろつかせて、思い切って不自然に笑って見せた。
「いやだよう。」と云いながら四郎は右手で私の顔を叩(たた)いた。
「この顔がこわいのだな。」
私は私の中に、この芝居(しばい)がういかにうまくやれるか、何とかしてうまく狸に化(ば)けたいものだという欲望とそれに伴って様々な計画がますます成長して来るのを感じた。
「へへへ。お前はお家(うち)に帰ったと思って安心してるんだな、へへへ。化かされてるんだよう。」
私は四郎の顔が少し異様な輝(かがや)きを帯びて来たのを見たと思った。そして私の部屋はしめ切られていて、家の者の気配からは少し離(はな)れていた。
「へへへへへへ」私はまた眼をちょっとぎょろつかせた。そして口は滑稽(こっけい)にならない限りなるべく怪異(かいい)な恰好(かっこう)になってくれと、ぎゃっと開いた。
「本当にお家へ帰ったような気がするだろう。ハハハハッ。」
私がよく見た時には、四郎の顔はまるでおびえていた。
「お母さんに云いつけてやるよ。」と大きな声をあげて四郎はきびすを返しかけた。私は彼の帯をつかまえて私の前へ引きもどした。
白々しい気持にまでつっかえされた私のおどけた気持は「あ、ひょっとしたら」と思うたとたん、大きな不安の方へ馳(は)せて行った。
「わっ。」変にゆがんだ顔が崩(くず)れたと思うと、弟は泣き喚きながら、両手で私の顔をかきむしりはじめた。まるで狂気(きょうき)のように、目も鼻もどこがどうの差別なしに、引(ひ)っ掻(か)いたのだ。
私はその小さい手と薄い爪が縦横にはしりまわる下で考えていた。「あんなことがうまく行ったら大変だった。大変だった。」
そして私は早く弟をなだめなければいけないと真面目(まじめ)に思った。
「俺は本当に兄さんだぞ、狸じゃないぞ。」
「勘弁(かんべん)、勘弁、嘘だよ、嘘だよ。」をかたみに火のついたように云いはじめたのだった。
 

この著作物は、1932年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。