【 NDLJP:6】
緒言
塵塚物語は、専ら風教に稗益あるべき逸事逸聞をはじめ、足利氏季世の巷談街説を集録す。当時の著聞集ともいふべきものなり。作者詳ならず。尤も其の奥書に、天文二十一年十一月日藤某判とあれば、後奈良天皇時代の公家の手に成れるものなるべし。元禄二年版行す。
大正元年八月一日
古谷知新識
目次
【 NDLJP:160】
塵塚物語
巻第一
前飛鳥井老翁一日語られていはく、常徳院内大臣義尚公は天性をいうにうけさせ給ひて、武芸の御いとまには和歌に心をふけりまし〳〵て、御才覚もおとなしくまし〳〵ける。高官眤近の公家つねにまゐらるゝ時は、かりそめの御雑談もなく、歌のはうへんのみ談じ給ひけるとなん。其比の和歌の達者某大納言、はじめは歌の様など心やすく御指南申されけるが、御年二十に過させ給ひては、彼卿かへつて風情をうかゞはれけるとなん。いみじき国主たれども、たゞ〳〵御よはひ壮年にみたせ給はざりつるは口をしき御事など、申あへりけるとなん。曽而江州にひさしく御留陣おはしましけるに、一日御遊のために湖水のほとりへ出御なり、すなはちおほくの舟どもをかざり、御饗膳めづらかにとゝのへて、諸道の達人数輩供奉せしめらる。公方あまねく湖水のみぎはを御覧まし〳〵けるに、童子二人こぶねにのりてたはぶれけるを、あれは何ものぞととはせたまへば、梅がはらのものにて御座候と申けるを、大樹きこしめして、御心にふと思ひよりたまふ句あり。
【 NDLJP:161】 湖辺自異山林興 童子尋㆑梅棹㆓小船㆒
此二句を御こゝろにうかばせたまひて、此対句もがなとしばし案じましませども、つひによろしき句も浮ばずして還御ありしに、其夜御ゆめのうちに、男体の人来て彼句にたして七言四句となれば、御ゆめのうちによろこばせ給ひて、程なく覚けるとなん。其句近習の人に仰られて書とめさせ給と云々、その後皆人其二句を失念によりて無㆓其詮㆒と云々、あたら事なり。是のみならず、去比又逆敵近隣をかすめけるに、いそぎ御進発ありけり。時しも炎天のみぎはにて五万ばかりの軍兵をめしつれ給ひけるが、士卒此あつさにたへかねて練汁のごとくなる汗をかき、馬もこらへかねて多くはひざまづきければ、人皆仰天してしどろになりにけり。
そのところ鏡山のふもとにてありければ、大樹の御うたに、
けふばかりくもれあふみのかゞみ山たびのやつれの影のみゆるに
とあそばされ、しばらく木陰にやすらひ給ふに、すこし程ありて天くもり涼風おもむろに吹来れば、諸ぐんぜいも中秋夕暮のおもひをなして、たちまちよみがへるが如しと云々、上古末代まで高名の御ほまれなり。まことに一句のちからにて、数万の軍兵くるしみをやめらるゝ事、天感不測の君なりといへり。
鎌倉左馬頭基氏は、武勇たくましくして慈悲のこゝろも人にこえ、いと正直なるうまれつきなりけりと云伝へ侍る。歌道にもをさ〳〵執心せられて、をりふしは五首十首づつよみおきて、公家へ遣して褒貶を頼まれけるといへり。いとやさしき事にも伝るならし。しかうしてつねに美食をこのみて賞翫し侍るに、或時庖丁人をよびよせ、ふなを取寄て曰く、この魚よくやきてのち羹にすべし。相かまへて無さたに仕るなと、きびしくいひ付て内へ入られけるとなん。庖人かしこまりて、右ふなをよく炙りてみそ汁をもて熟くこしらへ、煮て膳部にそなへけり。扨陪膳のもの是を持て基氏へすゑたり。基氏椀のふたを取てふなをみれば、よきほどに火とほりて愛すべしとみえてければ、かた〴〵を食して又うちかへして食はんとし給へば、則一方は生にてぞ有ける。庖人の不運にや、此魚ぶ沙汰にはせざれども、片身きら〳〵しく生にて有るあひだ、基氏大きにいかり給ひて、やがて執事をよびよせて、彼庖人を召つれて可㆓罷出㆒よし責られけり。執事も此ものをふびんに思ひながら主命もだしがたくして、つひに庖人を引つれ、客殿の二間を過ておくへ入れば、庖人もすは覚悟してけり。あつぱれ爰にて御手うちにあひぬるものをと、色をうしなうてひざまづき居けり。時にもとうぢわきざしを腰に横へ、かたなをばひだりの手にひさげて、ちか〴〵とあゆみより、おのれすでに日来の不忠心にあるゆゑに、今かやうの失あり、すみやかに命をうしなふべきなれども、先此度はゆるしおくものなり。自今以後よく心得て料理いたすべし。さりながら此度も唯にはあらじ。はだかにして此縁のはしへまゐりひざ【 NDLJP:162】まづきて居るべし。ゆるしなき内は、はたらくべからずといひて、又鷹がりに出られける。彼料理人いとかなしき姿にて、ひろ縁すのこのはしにうづくまりてゐたりけるが、もとうぢ他行せられけるをみて、執権のものひそかにいひけるは、殿の御留守には苦しからじ。台所へ罷出よとゆるす間、此ものおそろしながら執事の言葉をたのみてだい所へ出で、きる物を著して居けり。もとうぢは終日あそびてかへられけるに、門を入らるゝとひとしく、彼庖人はだかになりて件の縁のうへに罷出けり。もとうぢおくの間へとほるとて見たまひて、おのれはいまだはだかにてありけるにや、ゆるしおくものなりとのたまふ間、かたじけなき気色にて立退けり。
扨執権をよびよせて、あの庖人めはさせる失にはあらねど、後日のために所課するものなり、いかに我がいひ付るなればとて、終日赤はだかにてさし置条未練第一のふるまひなり。かさねてよく心得て諸事はからふべし。凡そ我が善悪をたゞすもの汝が外はあるまじ。さあるによからぬはからひをする候、彼庖人が困窮汝が所為なりと申されけるとなん。いと正しきの事なり。国をしらんものはかくある事にや。
天満宮の御事威力澆季の世にさかんにして、万人丹精をぬきんづるともがら、其瑞験をかうぶらずといふことなし。むかし大江匡衡朝臣聖廟の御宝前へ種々供物色々の幣帛をたてまつらる。其奏状に云云、抑右天満大自在天神塩梅於㆓天下㆒、輔導於㆓一人㆒、或日月於㆓天上㆒照臨出㆓万民㆒、就㆑中文道之大祖風月之本主也。翰林人尤風夙可㆓勤労㆒とかゝれたる句あり。然して其夜たゞひらの見られける夢こそあらたなれ。天神、御殿のとびらを押ひらかせ給ひて仰られけるは、我にたむくるところ文筆皆心肝にそむところなり。但抑日月於㆓天上㆒と云句は神ならずして何ぞや、可㆑摧汝既に神道に通ずとす。我は是本地十一面観音なり。極楽にては称して無量寿とす。しやばにては則北野天神とす云々、夢さめてきいのかんるゐをながされけるとなん。これよりして、天神をば十一面くわん音と申つたへたり。古今歴然たる神言なり。此尊神の御事挙㆑世信伏せずといふことなし。聖主御歌の会日も、月次二十五日とさだめさせ給ふ。三公、九卿、諸侯、大夫、凡卑、蒼生のともがら世に人といはるゝほどのもの、皆仰がずといふ事なし。三善清行が菅右相府に奉る書にも、翰林より走て槐位にのぼり給ふ、吉備公の外名をおなじうする人なしと云々、吉備公の巨益尤和朝唯一の重臣たり。然れ共中人以下土農卑夫のものにいたりて、其徳をもしらず名をさへしらぬもありけり。天神の至徳申すも愚かなり。かやうに挙㆑世仰たてまつる霊神ためしすくなき御事なり。去延徳二年の春式文人、此前に祭文をさゝげて御示現に預るといふこと明白なり。加㆑之予一とせ宿願を申上げ、立所に利生に預れり。諸神も皆御威光照々たれども、翰林より大臣にいたり、御死去の後聖廟とあがめたてまつる事比類なき御事なり。或人の云く、御一代の御詠歌に恋の歌すくなし。是を以て御在世の其世には、不義尾籠の事のみ翫び【 NDLJP:163】たりとみえたり。是其代の風味なるにや、今の世に似つかず思ひ侍る。されど聖廟の御在世をつらつらたづね奉るに、金鉄の御行跡うたがひなきものなり。しかれば歌仙才人の恋執不義の聞えあるをば、其世の風俗とは申がたきか。
応長の比より世に連歌をもてあそぶ事さかりになれりと、或歌の抄に見えたり。就㆑中文正のころよりこのかた、連歌の名師ありて、四かい一同にもてあそびきたりて、今れんめんこのころある連歌しけるもの、生得ぶき量にしてはなはだ執すといへども、人のくちにひろまりがたくてとしをふるに、独おこたる事なし。ある人の云く、年五十にいたるまで上手にならざる芸をばすつべきなり。はげみならふべき行末もなしと、古人もいへり。吾子すでに五十になん〳〵たり。行さきいかほどの余命ありてか、不堪の身をもて世にしられん事をねがふぞや、すみやかにすつべきなりと、さま〴〵いさめけれど、此もの曽而承伏せず、いよ〳〵勤めけるに、やうやく人にもしられて師の名をもあらはしたり。此もの外のわざには下根なれども、連歌には終日終夜座をかさぬれどくたびれもせず、生れつきやまひ深く侍れど、連歌にはこれを事ともせず、人々ふしぎに思ひけり。此人一日いひけるは、道は篤実をもて至極とす。われ全身ぶきやうにしてつとむる所はかんのう也。かるがゆゑにいましばらくに名をひろむと云々、又曰く京極人道は一生八十にして、平生病気せまりなやまれけれど、公事雑務、歌道等をつまびらかにしるして一日も怠らぬ人なり。彼卿日記の中にも、けふは痰気にせまりなやみ、今日はなに〳〵のやまひによりくるしむなど、一世のうちこゝろよき日はなし。然れ共篤実をもて百世に名をのこさるゝものなり。根機といふはやまひと又別の品なりと見えたり。しかのみならず、つらゆきは一しゆの歌を二十日まで工夫おこたらず。ふぢはらの長能は公任卿に歌を難ぜられて死し、宮内卿はうたをふかく案じいりて、血をはきなやみしと云へり。又宗祇は連歌に執して句を案じ入て、朋友の机前にとひくるをしらず。此ほか名人の道に執したる事かぞへがたし。漢家の潘安仁といふ人は、詩を沈思して、已に白はつの翁となれりといへり。人として堪能にして実あるものはすくなし。不堪ながらも道に執篤すればつひに其極にいたる。たとへばわれは物わすれありて文をみれども覚えず、我はかご耳にして用にたゝずと人ごとにいふめれど、それは皆すかざるによりて也。たとへかごにて水をくむ程の健忘者なりとも、其籠を平生水にしづむれば、其中に水自然とみてり。学文も平生不退にしてまなこを書にさらせば、久しくしてつひに其あぢはひをしるとぞ。是併かごを水中にしづむるに水満たりとおなじと、傍若無人に申けり。此事は唯人もしれる事ながら、時にとりてのたとへをかしく侍る也。とかく大功は遅く成就すと云事を忘るべからずとぞ。
いにしへ
命松丸といふもの歌よみにて、
兼好が弟子也けるが、兼好をはりて後、いま川伊予入道のも
【 NDLJP:164】とにふかくあはれみて、つね
〴〵歌の物がたりなどせられけるとなん。つねは南朝へもかよひ侍るとなん。此
命松丸入道して、南朝のありさま物がたりにつくりて、歌など
交へてやさしくその時のさまをのべたり。其中にいはく、くすの木
帯刀正行がはか所に石たふを立たる其まへに、いかなる物かしたりけん、書つけて侍る。
くすの木の跡のしるしをきてみればまことの石となりにけるかな
おなじ物がたりにいはく、やよひのころ日のうらゝかなるに、女院の御所の庭にちりつもりける花のいと多かりければ、伴のみやつこめさせ給ひて、ひとつ所にあつめさせ給へば、高さ五尺ばかりがほとの山のなりにてありけるを、いと興ぜさせたまひて、よしのゝはなをうつせし山なればとて、あらし山となづけさせ給ひて、人々に歌よまし上にも啓し給ひければ、あすのほどにわたらせ給ひてんとの給はせたまひけるに、其夜風のはげしくふきていひがひなくなりにけり。つとめて弁の内侍のかたへ、兵衛のすけのつぼね、
みよしのゝ花をあつめし山の名も今朝はあらしの跡にこそあれ
とありけるを、そうし給ひければ、
千はやふる神代もきかず夜のほどに山をあらしの吹ちらすとは
との給はせて、いといたうをかしがらせ給ひにけりと云々、此物語の中のうたおほくは命松翁が仕わざなるにや。彼ものゝ歌のていに似たる言葉をさ〳〵見えたり。
小松天皇は仁明天皇第二の御子也。此みかどは、親王にて御座ありしとき常陸の大守中務卿上野大守式部卿
太宰の
師など経させたまひてのち、御とし五十五歳にして思召しよらず御くらゐにつかせたまふと云々。
むかし唯人にておはしませしときより、つねに松をこのませたまひて、御庭にあまたの小松をうゑさせたまふ。御くらゐのとき、御としすでにたけさせ給ふゆゑ、小松も大木になりて枝はびこりたれば、御くるまをいれんとせしに、松にさゝへられて入るべきやうもなし。諸臣せんぎありて此まつをきるべきよし奏す。その時勅諚にいはく、朕いまくらゐにつく事天せう大じんより御ゆづりのくらゐならば、此まつの中を車やるべし。松さはらずばくらゐにつくべし。さはらば位につくまじとおほせらるるによりて、諸臣も是非なく御くるまをとほすに、松ども左右へ枝わかれて御くるま大路を引くが如し。此聖徳によりて小松の天皇と申たてまつるとぞ。まことに本朝不双の賢王にて渡らせ給ふ御事、諸史に載せ奉らずといふことなし。又つねにめくら法師をふかく不便がらせ給うて、大隅の国を下されけるとなん。その聖恩わすれずして今の世までもとぶらひたてまつるとなん。二月十六日彼御国忌めくら法師どもあつまりつゝ、石塔といふ法会を執行乞たてまつるといへり。六条河原にいでて石のた【 NDLJP:165】ふをつみてとぶらひたてまつるゆゑに、石塔と申とぞ。
或人のいはく、伊勢物がたりに、むかしみかど住吉にみゆきならせたまふ事をのせたり。此帝は文徳天皇にて天安元年に行幸ましますといへども、国史にも実録にもみえず。新古今に此
詞書のごとくすみよしにみゆきありし時と載せたれども、いづれのみかどの行幸とはしるさず。国史にもしるしもらしけるにやおぼつかなし。此事さだかにしる人なし。きかまほしきことゝいへるに、折ふし予かたはらにありあはせていはく、先年ある所にて文ども見侍る中に、後小松院
御宸翰なりといひて一冊あり、題して伊勢二門極理灌頂撰阿古弥
浦口伝抄とあり。此書はむかし高くらの院御在位の時、
神道議論のうへにて勅して書かしめ給ふと云々、その中にいはく、住よし行幸のみかど
文徳清和両帝なり。天安元年五月十八日
辰一点に帝都をたゝせ給ふ。此時
業平供奉せられ侍るとあり。此ほか住吉の
神秘業平の
来由などくはしくのせたり。我これをみ侍りつといふに、かの人大きにきそくへんじて、あな大切の御事や壁に耳といふことはさも侍る。
高声にの給なと口くばせをしてさらぬ体にて其座をたちさりける。さてその翌の日、文してねんごろにまねきよせて此事をたづねられ侍り。もとより予辞する事にあらねば、彼文の内にありつる事覚えつるまゝに、つまびらかにかたりければ、
稀有のよろこびをなしてやがてしるしとめられける。此事予があながちにも
秘し侍らねども、此に取て花文を覚悟するは、人のためには大切なる事もこそあれと思ひ侍りて、そのゝちみづからも又手日記にのせ侍りける。
坂の上のたむらまろは
古今独歩のゆうしなり。事毎にしるしとゞめつれば、其来由あながち勘へずもありなん。
いにし春、日本後記をよみ侍るに、さがの天皇の巻に云く、
田村麻呂者、正四位下左京大夫苅田麻呂之子也。身長五尺七寸、胸厚一尺九寸、目如㆓蒼鶏㆒鬚編㆓金糸㆒、有㆑事而欲㆑重㆑身、則三百一斤、欲㆑軽則六十四斤、怒而博視目、禽獣懼伏、平居談笑者、老少馴親云々。
此外類聚史譜等にも田むらを美称せり。すべてわが国にならびなき勇質なりとみえたり。しかれども終に不㆑得㆓其死然㆒といひつたへ侍る。又仏家の人のいへるは、田むら丸壮年のいにしへ武術のきこえありければ、桓武天皇めさせ給ひて勅問あり。抑なんぢは生得の武術あり、いみじき事なりとおほせ下されけるに、田むらめいはく、まことに恐れがら剣戟をとりて有情におそれらるゝといへども、此まゝにてやみなん事口惜くもまかり過候。それにつき、君は日本聖皇第一の御むまれつき有、此国には過させ給ふとみ奉る。あはれ異国の御望しかるべく思ひ奉る。しからば征伐の節使には身不肖なりといへども、田むらまろを御ゆるし下さるゝに於ては、まかり向ひて大唐を平治つかまつり、君を和漢【 NDLJP:166】両朝の御あるじと仰奉るべしと、傍若無人に申されければ、みかどわらはせ給ひて、大きにまことしからずと仰られけり。田むらかさねて申さく、御不審御尤に覚え奉る。心みに術をみせ奉らんといひて、無罪のもの五百人あつめて太刀のはに墨をひき、一ふりうごかしければ、五百人のくび墨にてひきたる跡あり。是御覧なされ候へ、此術をもつて人を殺さん事百万もやすき事に覚え候まゝ、仰ゆるされ候はゞやと望みけるあひだ、帝も御仰天ありて、その事ならばゆるしめんと仰下され、既に田むらわが国をたちたまひける。異こくにも此前表いちじるくして、雨江水をふらし侍るによりて、唐帝清龍寺の恵果和尚に命じて大元明王の法をおこなはしむるに、明王海をわたりたまひ、田むら出船の所はかたといふにて、首を取てかへらせ給ひ、此首を清龍寺の塚にこめて置賜ふとなん。此事いかなる文にも有ともしらず侍る、仏家の沙汰なり。
昔宇治のくわんばくよりみち公
平等院を御こんりふあそばされて、善つくし美つくされて、おほくの
貨財をなげたまひけるとぞ。扨本尊は天下
無双の
仏工定朝法眼が一刀三いあみだによらいにて、しやう
厳七宝をつくして
赫々たり。
内陣四
壁のさいしきの絵は、わが国にならびなき画どころの
為業が筆といへり。
観経の文は、詩文能書御ほまれます具平親王の御
筆跡にて、
飛龍廻天のいきほひを得給ひたりし
字画なりと云々。此がらんこんりふのいにしへより、既に五百年の
星霜をふれども、いまだ一
炬のわざはひなければ、
依然として上古のかざり
光彰をます、誠に
〳〵またたぐひなき
霊場なり。むかし
茂仁のしんわう御むほんのとき、源三位よりまさ入道、いのちをかろくし義をおもくし一戦の功をはげますといへども、大軍の責めまぬかれがたくして、かばねを古岸の
苔にさらし、名を長流のなみにたゞよはせしも此所なり。此軍中のさうげきにも一椽一尾の
損亡なくいまにめでたく
霊地也。扨
惣門はきたむきなり。これは
古当寺草創の
比、
頼通公先惣門のびんぎをわづらはせたまひけるをりふしに、四条の大納言
公任卿まゐらせ給ひて
雑談ありけるに、よりみち公ののたまはく、此地はひがしに川みなみは山西はうしろにて、北よりほかに大門をたつべきたよりなし。きたに惣門のある寺やはべるとたづねたまひけるに、さしも
和漢の才ひろき公任卿も覚悟なかりけるに、
江帥たゞふさそのときはいまだ
弱冠にして、車のしりにあひのりして
同じくまゐられたるに、もしさやうの寺や候ととはれければ、たゞふさのいはく、先わがてうには
六波羅密寺空や上人所住のてら、漢土には
西明寺円側国師所住の寺、天ぢくには大ならんだじ三国に通じて例侍ると、
傍若無人に申されければ、
博達の公任卿も奇異のおもひをなして
感動しばらくやまざりけり。頼通公も御
悦喜にて、扨はさやうの例もありけるにや、しさいなき事やとて、やがて北向に惣門を立られけるとなん、すなはちいまの山門の事なりとぞ。
〈私にいはく、うぢは方角外よりの見聞抜羣相違あり。川はきたへむかひながるゝといへり。くはしく彼里民にとふべし。〉
【 NDLJP:167】
ちか比一休宗純といふ人は、後小松院の後胤にして、わが朝にならびなき道人なり。勝雲院殿御代の後あまねくきこえありて、人たふとみけり。其身風漢経遽の人にて、欲する所の作業一としてとげずといふ事なし。頓智叡智悟道の人なれば、所業いづれも節に当りて、世には釈尊牟尼の応化なりと申あへり。壮年のころおもひ立所ありて、山陽のちまたにかゝり、播州のかたへおもむかれけるに、先一のたにゝいたり亡卒のむかしを思ひいでて、追悼の語をはき、一りやう日も宿してそのわたりのこらず見めぐり、扨五里以上の路次に日なのめになれば、いづくともしらぬ野原のつゆをかたしきて、日くらし夜をあかされけるとなん。此所より明石の浦人丸の塚に詣でられけるに、ふところより料紙ゑぐをとり出して、件のかみに人丸の貌を絵かき賛せられける。
歌道根原即化身 若非㆓菩薩㆒仏歟神 至㆑今明石浦朝霧 有㆑島有㆑舟無㆓此人㆒
かくのごとくの巧言とんさくをのべて、自画自書して籠られけるとなん。
その後此わたりたび〳〵軍卒のためにさうどうし、あるひは野伏あぶれもの所々乱入し、宝蔵ぢう物の善悪をいはず引ちらしとりのきけるが、もしさやうの事にやありけん、永正の以後は件の画賛のさたなし云々。
千本
釈迦念仏といふは、きさらぎ
中旬、大報恩寺釈迦堂遺教経の法事についての事なり。つれ
〴〵草にいはく、千本釈迦念仏文永年中如輪上人はじめられけると云々、是
念仏の
濫觴にあらず。此ねんぶつ寛仁年中のいにしへ
源信僧都の高弟に、
定覚上人といふあり。是則
釈迦念仏〈音乱名号大念と云、俗にしやか仏念仏と申来り〉
の始祖たり。其後一旦はめつして又弐百五十年ののち、亀山院御宇、文永年中に如輪上人〈一云明院律師〉といふ人ふたゝび此念仏を執行せらるゝ云々。件の定覚上人の事、本朝僧伝譜ならびに元亨釈書等にもみえず。山門横川の記にのせたり。
釈定覚姓政田氏、肥之後州之人也。居㆓台嶺㆒三十、源信之徒行㆓心観妙理㆒、雖㆑然常修㆓金剛密宗禅門等㆒矣。寛仁之始、為㆓法界四姓㆒、音乱名号、大念仏開発三所焉。破滅之後乃明鏡律師如輪継㆑之、故以覚為㆓念仏之始祖㆒。凡開基繁花之地、一旦破却而遥経㆑年序後、又再興之例多之、到㆓于後世㆒縁起開基之行状等失墜云々。
永和元年三月日 首楞厳院比丘 厳誓判
右山門之記文分明云々
如斯のうへは、定覚上人といふ人のさう〴〵にて、釈迦念仏之祖たり。如輪は定覚より二百五六十年後、しかうして彼念仏破却をなげいてふたゝび発起せる物ならし。加之彼寺の鐘康暦元年七月に鋳たると云々、此銘にも粗有㆑之。
同所名木の桜あり。〈普賢像云々。〉
【 NDLJP:168】此さくらの花盛を待て一枝を公方家へ進上して、翌日より念仏を始むると云々、下行米五十石を給ふと也。
一、昔応永年中鹿苑相国よしみつ公、北山の別業におはしまし、後小松院行幸を申請させ給ふ。
〈此事北山行幸記にあり云々。〉即別業に於て御止宿廿余日、此けいえいによりて二月中旬の念仏しばらく延引ありて、三月にわたり、花の時分をまちて行ふと云々。〈此事左にみえたり。〉
一、北山行幸の比は応永十五年春となり。即釈迦念仏恒例の法事にあたり、洛中羣をなして喧しかりけるあひだ、停止すべきのよし、将軍家義満公より仰下さると云々。即上使斯波治部大輔義重をもつて、彼寺へ仰ありて云、此てらのさくら名木のよし上聞に達す。一枝を捧ぐべし。因㆑之彼住僧大枝を手折りて進上す。その時将軍家大きに御立ぷくまし〳〵、かさねては小枝を切てさし上べし。名木の大枝無㆑情非㆑可㆓折取㆒と云々。扨御下行米を下されてより、当世まで退転なきは右之謂なり。
一、普賢像といふは、古来より名だかき花木なりといへり。宇多天皇雲林院御幸あそばされて、花をえいらんせさせ給ふ。此時菅家御供し給ひて、青色を謝し給ひ、勅命によりて詩賦御作文の事、当代までつたふる事也。此ふげん象は其種流なりと云々。
一此寺の由来を縁起等失散して不㆓分明㆒。是応仁よりこのかた舟岡山合戦に及びて、度々のたゝかひに武家の陣舎となれり。故に重宝みな失散す云々。
去比、
宗祇法師本にて名高くして
冠家の人にもこれをはぢて法伝をうけらるゝ事あり、其身
斗藪に住して一所不定のきこえ有り。其比天下に
連歌師おほく侍る。所謂肖柏桜井弥四良基佐宗長など、其外も類おほく侍る。宗祇は
随一にして、歌道の
骨柱たりとみえたり。其比宗祇以下の連歌師五六輩をえりて、五万句の連歌を
張行せしめ、かたじけなくも
先院勅点をくだしめ給ふ。
衆輩皆宗祇に不
㆑及
㆓点数
㆒すくなし。誠
俗生いやしなどいへど、歌徳によりて其名は
摂家清花も及給はず。尤此みちの
逸人也。或時宗祇嵯峨
〈[#「峨」は底本では「蛾」]〉のあだしのゝ北に
草庵有るをみて、
便路に立よりて侍る、庭に
卯の花咲ける。あるじの野僧立いでて侍るに、其
坊主鼻高く見にくかりければ、宗祇かへるさに、彼花に
短尺して、
さかばうのはなにきてなけほとゝぎす
宗祇かへれば、あるじの野僧此短尺をみて、にくき所為かなと思ひて、客僧御留り候へとよばりけるとなん。宗祇立かへれば、此句をよみきかせ給へといふ。宗祇さかはうの――とよみければ、さては仔細なく候。我は此句を嵯峨坊の鼻にきてなけと心えて候故、扨はにくき事也とおもひ、よびかへしつるといへり。をかしき事也と云々。凡そふぐのものは人にまじはるごとに向ふの人のいふことばを、よろづ我不具に推してきくもの也。是かたはものゝ毎々ある事也と云、此僧も同日之談か。宗祇も下の心がらはあつぱれ鼻をよそへたる句なればとみゆれば、たはふれたるとみえたり。
【 NDLJP:169】
人皇五十七代陽成院のわうじ元良親王は、
玄妙幽の
歌仙にて、御自詠あまた人口に多し。徒然草にいはく、此親王元日の
奏賀の
声甚しゆしようにして、大ごくでんより
鳥羽のつくり道まできこゆるよし、李部王重明親王の記に侍るなどいへり。此李部王の御記は、
名目高くしてまれ
〳〵なる物なりとぞ。
勿論貴族等には
所持もありつらめ、なれども挙
㆑世大切の記なりとみえたり。今川伊予入道貞世九州探題職をかうぶり罷下るの
砌、公方より申預り書写し侍ると云一説有之、其後其記何かたへかちりつらん、又兵火のためにや
灰燼となりつらん、あたら事といへり。近代ある人、歌書の
抄物など述せらるゝ中に、やゝもすれば、此記を証文にひかれたる所おほし。此人若所持せられたるか、又外にてたまたま一覧もありつるか、又ふるき抄物の切句などに、李部王記をひきける事おほし。若其類を用ひて
載挙げられけるにや、
如何様不審におぼえ侍る。兼好さへおぼつかなくいへり。しかるを二百余年の
後輩として、たやすく此記を沙汰するは、
後生おそるべき事か、如何々々。扨右にしるすごとく元良親王の御声は、
大極殿より鳥羽のつくり道まできこゆと云。また僧伝にいはく、釈静安西大寺の
常騰法師にしたがひて
法相をまなび、曽て江州ひらの山に居し、十二仏名経をよみて
礼拝修懺す。そのこゑ
帝闕に聞ゆ。又諸州のあひだにも聞
㆑之ものありと云々。此事頗元良親王と同日の談乎。又古史にいはく、足利又太郎忠綱が声十里を去て聞ゆと云々、是又一同之談なり。凡そ漢家にも此ためしありといへども、本朝には間おほくいひつたへたり。此説いさゝか
所謂ありげに聞え侍る。しかりといへども、凡そ愚の今料簡するには、不
㆑得
㆑心にもおぼえ侍れど、
古伝の
所記なれば、あざむくべからず、
誣ふべからず。かやうの事は
仏家のものに沙汰すれば、さま
〴〵わが道に引入て、義理ふかくとりなす物なり。されど仏法以前にかやうの談、異国にも其例あれば、今釈氏のいへるまゝにも有るべからず。
【 NDLJP:170】
巻第二
天文の初、洛陽に名高き目盲法師ありて、高官有職の人々へつねにまゐり、さま〴〵の芸をつくして侍る間、都下の人きいの思ひをなせり。かくのごとく鳴る芸なれば、富貴の町人すべて、彼目盲法師が門戸に市をなしてもてなしあへり。同五年あらたまの御礼を申などいひて、先公家がたへおもむきけるに、此盲者の手を引くもの、田舎よりのばりて諸事無下なれば、常々教訓して召仕ひけるが、今日手を引くに付て、さま〴〵の事をしへていはく、内裏御築地のうちへ入る時は、町屋の心え仕るまじ。位たかき御かたさまなればつゝしむべし。若長袖の御人体とみるならば、半町もまへかたより此方へ申べし、跪き礼をなすべしと庭訓をふくめける。さて正親町の面の御門より入る時、手引きに云付けるは、是より内かた様は皆雲上なり、かまへてあやしき人相の御かたとみるならば、我に告ぐべし。貴人堂上の御かたさまは、平人と衣ふくも替りて長袖なり。但長袖といふにしさいあり、必ず御かしらに物をいたゞかせたまふ、是則御公家也。たとへ又長袖の人なりとも、つぶりにものゝなきは凡人也。よく〳〵見分て我にしらすべしとくりかへし〳〵申しける。扨御門を入るとひとしく彼手ひきのもの告ていはく、御申の御かた様これへ御こしとさゝやきければ、盲者膝折頓首して、白砂に手をつき、しか〴〵のものにて御座候と一礼をのぶれども、何の御こたへもなし。又使をたまはりて御太儀と云事もなかりけり。扨如㆑此して下馬する事、一町の間に十所ばかりもひざまづきければ、ひねもその礼には、百四五十所もつくばはせけるあひだ、身もひえ水衣も沙泥になりてみぐるしければ、道に行あふ人ごとにつまはじきをしてわらひけるとぞ。かやうに路次にておほくひざまづけども、一度も御ことばに預る事なかりけり。盲者もくたびれて、もはやいつしか手引と共にかへりてけり。扨宿へかへりてしばらくやすみて、彼手引に申しけるは、毎年の御礼には上方様より御詞を被㆑下る。又さほど下馬もせず唯御やかたへ参る計なり。さて〳〵今日の下馬の事ふしぎ也。若なんぢ人たがへして、我につげぬるか。又御公家ならば、さだめておなじ御かたへ幾たびも礼を致させたるにてぞあるらん。いぶかしき事也。最前よりよく〳〵示し教へけるにといへば、彼手引がいはく、先刻より御教の御方ならでは、御告を申さずと云ふ。猶不審におぼえて、かしらには物をいたゞかせ給かととひければ、いかにも左様に候と云ふ。さては弥おぼつかなしと思ひてまたとふ、長袖をめしたるにや。彼引手こたへて云、いかにも長袖にて大紋のかたびらをめし、御手には鼓をもたせたまひ、御供の人人はみなふくろをもち給と云。彼盲者仰天して、扨は仔細なき万歳楽なり、口惜き礼をもしつる物かなと云て、その手引をしばらく追ひこめけれどもかひなく、後には盲者もをかしきことにおもひ、また公家のひと〴〵へ、かさねて御礼を申あらためて、この事をかたりわらひけるとかや。をかしきこ【 NDLJP:171】となり。
妙心寺関山ゑげん禅師は、そのかみ濃州に山居せられて、智行兼備の道人本朝にならびなき禅哲なりといへり。去建武之後、大徳禅院大灯妙長の令名世に比類なく、王侯大人一同に帰依せしめたまふ。これによつて五山大刹の長老も机前のもりをはらはんことをのぞみ、隠遁無為の尊徳もかへつて残盃の冷にしたがふ。四海に鳴る事雷霹の如しと云ふ。しかれども門弟曽て大灯の心にかなひがたく、唯龍の勢ありておそるゝのみといへり。一日門弟論義せるに、問説心に叶はざるにや、大灯立て首をうたれけるが、あまりにつよく打擲せられて弟子をうちころされけるとなん。これよりいよ〳〵おそれをなして、門下の輩しんしやくの体にみえて、敢てつかうまつる事人にゆづりあひて、悟道を耳のよそになせり。此事挙げて天下にかくれなく、あるひはたふとびあるひはさらずともなどいひて、かたぶけける者もおほしとなり。関山此事をつたへきゝて、是則我のぞむ所なり。あつぱれ師や、かゝる人にこそ、師資の盟約もなすらめとて、急ぎわらんづをはきしたゝめ常住の体にて上洛あり。即時に大灯の禅院のたづねゆきて、しか〴〵のものなりとことわられければ、大灯やがて立て出合はれけるに、関山庭上に立ちながら、急に法問二三度に及ぶ時、大灯歎じて曰く、あゝなんぢ我をしれりや、はからざりき、けふすでに汝に会せんとは云々。大灯もこゝろよく、問談数廻におよびて、是より彼禅師を吹挙合体せらるゝと云々。かゝるたふとくおそろしき教化を聞きつたへて、不日に上洛ありて、法問におよぶ事、まことに未曽有と云つべきか。凡本朝の禅師といふは、関山を称して云といへり。是若経者よりしてこれをいはゞ、等覚十地の再来とも称美すべきかと云々。扨はなぞのゝ勅願所、御影堂、法塔、山門、鐘楼五山に超えて美々しくいらかをならべ、寺門一宗の開山たり。
〈妙心寺の僧の云く、寺は大徳寺へゆづり、宗は妙心寺へゆづり給ふと云、大灯の語ありと云々。宜哉今にいたりて、益々門人□林尤義と云々。〉ある人のいはく、恵玄妙心寺住せられしころ、天龍寺夢窓国師嵯峨より入京の折ふし、寺前を過ぎたまひける間、人をして関山をとはせられけるに、折よく関山住坊にまして、やがてやぶれごろもをとゝのへ走出、先御入寺せしめ給へとて引導して、住坊に入り、こゝろよく対談ありて後、国師へきやうをぞ致すべきが、貧賤なれば心外なりとて破れたるすゞりばこより銭四五銭をとり出して、近隣の在家へ小僧をはせて、やきもちといふるのを買はしめ、夢窓へもてなされけるとぞ。夢窓もこれを見給ていぶせきながら、関山の志の切なるを感じ入て賞食ありて、こゝろよく謝して退出せられけるとなん。軽忽のもてなしなどいふもおろか也といへり。彼夢窓国師は四海の智識にて、当時天下の大人渇仰の上、世こぞつて崇敬し奉ること言舌に述べがたし。富貴にして柔潤優廉のきこえ又かまびそし。殊に和こく風詠其妙、より〳〵公門をはづかしめらるると云、かた〴〵有道の師、言語道断にして、五山第二の列にそなはられ、風水怪石をもてあそびて、其こゝろざし悠々閑然たりといへり。
【 NDLJP:172】かゝる止事なき高徳を、関山のもてなしつくろはずかざらずして、唯そのまゝの体未曽有の事どもなりと、ある人かたられ侍りし。
信州おく山の中に、草津といふ所あり。其所に
熱泉あり。此所いたりて山中にして
人倫まれなる所なり。浅間の山のふもとより七八里も奥山なりと云。此
温湯はきはめてあつくして、勢ひ又強く其味しぶれり。是いはゆる仏説に、東海の北国に草津といふ所あり、其所に
熱湯ありて
衆痾を治すと云々、則此湯なりといひつたへたり。しかれども、此湯の性つよくさかんなるがゆゑに、病によりて忌
㆑之といへり。凡
瘡毒難治にして骨にからみ、又悪血ありて
腫物を発し、春秋寒暑の節にいたりて再作するの類は、かならず十人に八九は治すと云。されば此湯を頼むものは、まづ深切にその人の
虚実強柔の質器をみあきらめて、しかうして後に可
㆑用
㆑之と云。
〈猶此事、医術の人に相談し、且又此湯を用ひたる人に、再往たづねとふべし。〉此事は前年、彼湯にいりてしば
〳〵其しるしをえたるものかたり侍し。和国第一の
熱泉也。一たび湯治してかへるもの其
太刀、
脇差、
衣服、
器財の類、惣じて色を変ぜずといふことなし、てぬぐひを彼湯にひたすに、
白潔の布たちまち
柿渋の汁にて染めたるがごとし。やぶるゝ事なくして、其布かさね畳む所の折目よりすなはちをれ切るといへり。かやうの湯もある事にや。扨三月より中秋まで、遠近のもの爰に来り、其程すぎぬれば、
入湯難
㆑叶と云。
〈其所の民俗語て云く、九月より以後は、此所の山神参会し給ふ故、重陽の比より此所の旅館の人も去て里に下り、又来年の期を待て此所に来たりて、旅人をもてなしあつかふと云。秋去もし此説然れるか、又重陽より以後は至て寒きが故か、両条いかゞ。〉又此湯より猶おく山へいれば、おそろしく焼上る山おほしと云。昼は其やくる時いたりても見分がたし。夜に入て焼る刻限には、四面皆火也と云。外国のものたま〳〵此事をきけば、身の毛もよだつておのゝく事也。古僧の説にいはく、焼上る山は皆地ごくなり。此国むかしより人情強頂にして邪欲無道なり。道を説すゝめがたし。此ゆゑに善光寺の本尊はる〴〵と西邦より此国にうつらせ給ふは、此いはれなりと云々。又或人のいはく、武蔵の国ちゝぶの辺に穴あり。此あなに入れば前途いく程といふことを知らず。地ごくの相をうつし異人奇形の物に逢といへり。
〈わたくしに云、此説いかゞなり。先年此郡のものに此よしたづれ侍るに、古僧と同日之談也。此事然りや否。又云、いつはらと云所に地ごくへつたふ穴ありと云。是則武蔵の国也。地ごくの事はしらず、穴あるは実也と云々。〉
古来の文どもにも武蔵野の下に地獄有りといひつたへたり。もし然らば、頗相似たる説也、しひて地ごくの沙汰を決するにはあらず、かたりしまゝをしるしとゞむ。
鎌倉の
執権上杉民部入道道昌といふもの、
発明利根のうつはもの也。あるとき
領内の土民松山を論じて
隣里のともがらと度々いひ合ひいさかひ侍るが、
賤しきもの共なれば、後の慮もなく、又時代の用捨もなく、唯わがまゝをのみたがひにふるまひて、後は一揆がましくなりて、さび矢をみがき
竹鑓などの物用意し、
不日の
難儀に及ばんとす。これによりて
近郷の百姓より
代官までひそかに告うたへける間、時の代官田中源太左衛門なにがしと云もの、
具に聞届け大きにおどろき、やがて執権まで此事を
【 NDLJP:173】うかゞふ。家臣も唯ならずおもひけるに依て
道昌へ達しける。此山の論に就て事々しき仔細あれども、
畢竟山のいたゞきよりふもとまでの
間尺を積りあきらめずしては、此論決しがたしと云々。先
家老代官相共に被
論評の百姓のうも、
当を立る者四五人をよびよせて
対決せせしむ。然してたがひの
究極、此山の高さをつもらねば
勝負決しがたきによつて、さし当り人々も弁へかねて、此事いかゞすべしといふ。代官も山の間尺を
直に知る事同朋の中に不
㆑得
㆑心なれば、
勝て承知仕らず申けり。かくのごとくしてやうやく時をうつすところに、道昌は此事耳のよそにして、大やうに下知もなく、最前より百姓の一
揆何条の事かあるべきとあざむかれ侍りけるが、けふは折ふし浴室へ入りて、しばらく垢などすらせ、只今
風呂よりあがりさまに、障子をへだてゝこの事を立ぎきせられけるが、もどかしくやおもはれけん、
頓て身をぬぐひ刀を手に
提てたち出で直訴をきかれけり。扨山の間尺をつもるに至りて、かやうかやうにして、其山の間尺毛髪も違ひなしと云て、此公事わけられ
諍論もしづまりけると云。凡山の間尺を直さまにつもり知るといふは、先其山いたゞきに何にてもあれ目あてのしるしを置き、其所に人を置き、扨又一人は三間にても五間にてもあれ竿をこしらへ、其先に印を付け山のいたゞきより次第に山路をくだり、此竿の先の
印と山のいたゞきの印とおなじやうなる時、山上のものとたがひに声をかけて、両方のしるし同じやうなりといふ時、下の竿をもちたる者立留れば、其所にて何間何尺とつもり、又山上の印を其所へ持下りて置き、
最前のしるしを持たるもの坂を下りて前のごとくにして、何間とつもり次第に間尺を書しるし、ふもとまで下りて惣の間尺何程とつもるに、
毫髪もたがひなしと云々。たとへ山路の
曲折何十町ありといふとも、直上して間尺を知るときは纔也といへり。直上百間の山は普通に超て、人の目にたつといへり。富士山もすぐに立てみるに、九十六町ならではなしと云。しかうして京口よりのぼる時は、山路十二里有と云々。道昌武勇万人にこえたる人なれば、尤其道は
鍛錬せられめ、あらぬ事までも覚悟しけるは、まことにたゞ人にはあらず。若軍書の中にありけるにや、いかさまふしぎの事共也と云。又一日道昌遊宴の後
遁世者びは
法師などよびあつめられて、四方山の物語せさせてなぐさまれけるに、彼の者ども、我いちはやしと様々の
珍説をのみ云出侍りしに、其中より云く、御領の其寺に五重の塔あり、高さ何十間有と云。かたはらより申けるは、左にあらず、それぞれの間尺有といひて、相互に
虚空なる
穿鑿をして時をうつしけるを、道昌又聞
㆑之
微笑して、なんぢらが論義共に
穏当ならず、皆以て人のいひしまゝを聞いて、我しりがほに論ずれども、ひとつもあたらざる也。塔は何重にてもあれ、下の重の四方を間を取ばしるゝ物也、たとへば下の重三間四方ありて五重ならば、
升形まで十五間有る物なり。又五間四方ならば、二十五間あるものとしるべし。三間四方にて、三重ならば九間也。如斯一重づつ五間三間にてもあれ、四角に積り扨やねをふき立る物なり。上下の重に甲乙あれば、塔のかたちみにくゝ、又
暴風大雨のとき、甚あやうくして損亡する物也と云々。則なんぢらが今
僉儀する塔を右の如くに積るべしと云て、人を遣して右の如くにして少しも
【 NDLJP:174】相違なしと、又
九輪は其
塔にしたがひて
品あるものなり。如此にこゝろえべしと、かたられけるとなん。まことにきい人也。
〈此事、先年鎌倉の家来の末かたりしまゝ也。然哉否暫く老工を待つ。〉
鹿苑院殿大相国義満公去御応永十五年春、後小松院行幸をきた山の別業に申入させたまふ。此
経営によりて増々
金殿紫閣をみがきつくりそへさせ給ひ、滝水を引き池をほらしめ、池中に
洲崎をかまへ、水中に伊勢島
雑賀の名石をならべ、海島の意味になぞらへ
風情をつくして
結構あり。是かたじけなくも天子
鳳輦をうながしめ給ふによつてなり。そのうへ義満公後小松院
御猶子の御約東有
㆑之に依て、わきて奔走せさせたまふも
御理なり。扨池の汀に南面にかまへたる三重の閣あり。
〈四壁に、金ばくを押て彩色の絵あれば、俗に金かくと云。〉此閣より水上をのぞむに、澰灔たる池崎、うき草をうごかし、陰森たる縁樹影沉で魚鼈枝にあそぶ。又遠山をみれば、白雲花色をうばひ、薄霞山岳をゑどる、絶景無二の壮観也。これによりて、天子も龍顔殊にうるはしく、二十余日の止宿とぞきこえけり。扨彼金かく三重の上の天井をば、一枚の板をもつて方一丈をふさがれけるとなん。もつともふしぎの大木にてもありぬると、此事人口にいみじく、今の世までも云ひ伝ふる人侍る。去る中秋ある武家の会合に、此閣の物語ありて、座中耳をかたぶけ感情止まざる所に、奥より富士の神職大宮の住中務と云もの走出て、さみしていはく、凡花洛の人人はおほくは外を御存知候方すくなし。此ゆゑに、此一枚の天井板をみづからいみし、御雑談ある事なり。富士山のむもれ木といふは、彼板に倍せる木おほく侍る。先づは某が茅屋に二間の杉障子あり、是則一枚板なり。御不審においては、御供申罷下御見参に入候べしとつぶやきければ、座中の人々手をうつて、是より外のうはさはやみにけり。すべて六十余州の日本にさへ遠国には耳なれぬ事のみ多し、いはんや唐土てんぢくのさかひ、さぞあるらんと思ふ計也。香といふものもあぶらのこりたる木なり。みさまはあやしくて、その匂ひえもいはれず。栴檀といふものもふしぎの香也。いみじき物のみかぞへがたし。
尼子伊予のかみつねひさは、
雲州の国主として武勇人にすぐれ、
万卒身にしたがつて不足なく、家門の
栄耀天下にならびなき人にてぞ有ける。是はむかし
大御所等持院どの尊氏公御存生の時、
執事武州もろ直に讒せられて、命を雲陽のちまたにおとせし、塩冶はんぐわん五代の
後胤なりと云々。然るに高貞
生害の後、其子三歳の
児を法師にして、尼の弟子として養育せり。成人の後
還俗して、其師名を貴び、故に名字を尼子と名乗けるとぞ。
経久までは五代なりとぞ。是も其先宇多天皇より出て、佐々木一流の名家也と云つたへ侍る。
さてこのつねひさは、天性無欲正直の人にて、らう人を扶助し、民とともに苦楽を一にし、ことにふれて困窮人をすくはれけるあひだ、これに因りて、かの門下に首をふせ渇仰するもの多し。斉の孟し【 NDLJP:175】やうくんが食客三千のむかしも、今雲州に再興せるかと人みな賞しほめあへり。去る永正八年船岡山の一乱の後、京城しばらく静るといへども、国々在々郡々は私の武よくによつて、干戈しばらくも止事なし。此時経久は雲州の居城に有㆑之、先暫休そく活計せられけるとなん。扨此つね久親族の大みやうにてもあれ、又出入拝趨のさぶらひにてもあれ、常にとぶらひくる人ごとに、四方山の雑談にして、後所持の物をほむれば、則其身もよろこびて、さほどいみじく称美の上は、貴方へつかはすなど云て、墨跡、衣ふく、太刀、刀、馬鞍等にいたるまで、即時に其人におくられけるとなん。これによりて経久の風をしれる人、かさねてとぶらふ折からは、何にても所持の道ぐをみせらるれども、人々斟酌して誉もせず、目にふるゝばかりにてやみけるとなん。年々の暮ごとに所持の衣ふくをぬいて家来のものにとらせ、わが身は薄わたの小袖一つを著て、五三日をすごされけれども、寒気面貌へもあらはれず、手あしもこゞえるさまなし。宛暮春煖気の人相をみるがごとしといへり。あるとき、出入の某といふものとぶらひ来て、きげんうかゞひものがたりせるに、折節その前の庭に大きなる松あり、えだのふりやうわざとならずして、景気すぐれて見事なりければ、彼出入のものも、経久平生のふるまひはよくしれども、さればとて樹木までほめぬも座体さながら無骨なりとおもひて、扨々御庭の古松木立えならずおもしろく一らん仕候。此木はそもいづかたより誰がし殿の御進上にて候ぞや、又むかしより御庭におのづから生じたる松にて御座候や。かやうのめづらしき松は、いまだ見申さず。御ひさうあそばされ候べしといひてかへりけり。その翌日家来にいひ付て、此木をよくほらせ人夫をあつめて、才覚を廻らしそこなはぬやうにして、きのふ来たりし某が方へつかはすべしといひ付て、内へ入られければ、家の子かしこまりて候とて、くだんの松をほらせ、くるまにのせんとすれども、すぐれたる大松なれば、くるまにもつみやすからず。長さは十間あまりもある木なれば、通路せばくして枝はびこりたれば、只めいわくするのみにて、途方をうしなひて、また経久にかくと申上ければ、つね久其事ならん、其儀ならば是非なし。其松をこまかに切てつかはすべしとて、つひに此木を切りくだき、牛ぐるまにのせてのこらず送り侍となん。ふしぎといふもおろかなる人なりとぞ。此事細川の某伝へきゝていはく、夫攻伐は武道の第一、人々わすれざる所也。是本大欲に似たれども、其あひだにおほくの品なり。あるひは君につかへて朋友浸潤の讒にあひ、あるひは傍輩著座上下により、あるひは不意におそひ来る敵あり。あるひは一言の失をあたへられて、後代の恥を思ふ。かくのごとくの品繁々なり。此類よりして、蜂起闘諍しあるひは打まくる人あり。或は打勝て敵国を我有とする事あり。是自然なり。あながち欲より出づるのみにあらず。経久武勇の家に生れ、攻伐は其業なれば各別の事也。平生かやうのふるまひまことに古今いまだきかず、武士たる者のよきてほん也。侍は一朝命安をんに居しがたし。此ゆゑにかねて人に約しがたし。況や後子の栄枯を思はんや。予はつねひさが行跡にこゝろをよせはべり。若かのふるまひをあざむくもの有るべけれど、実は人々の及ばざるところ【 NDLJP:176】なり。かやうの無欲をこそ行しがたくとも、せめて聚斂せざるやうに、身を持べき事なりとぞ申されける。
鹿苑院大相国源よしみつ公は、
大御所贈左天臣等良公の御辞、木朝不変の将軍にておはしましげる。宝篋院殿
御他界の後、わづかに十歳のほどにて御世をしろしめされて、四十余年が間天下をたもち給ふ。御在世には仏家に
帰依し給ひ、
禅院寺塔を
建立あり、
栄耀時をえ給ひ、後小松院御
猶子の御ちぎりいますによりて、御他界の後、天皇号まで贈らせ給しを辞せさせ給ひけるとなん。かやうの御贈号古今例なき御事也。公方の号は此時よりはじまりけるとぞ。つねの御心ばへはなだらかにやさしくおはします。よろづ人にふびんせさせ給ひければ、皆人あがめ奉るとみえたり。
御存生の御事かの家の御記文にくはしければ、しるすにおよばず。一とせ西国
御下向の折ふし、長門の国にあみだ寺へ
御参詣あり。其時
院主申ていはく、此所に平氏亡卒の
霊蟹と
化生して、此うみに住候。これこれ御上覧に入奉らんとて、かの平家がにを一つ進上しければ、よしみつ公つく
〴〵御らんじて、寿永元暦のむかしのあはれ御心にいたましくおぼして、追悼の御作文をあそばしける折から、やさしき御風情申もおろかなりとぞ。其御追悼の詞言、
嗚呼悲哉、三がい流転のしゆらの業は、跋提河のながれにおとされて、苦海のなみにしづみ、かゝる蟹のすがたと化生せしもの歟、可憐々々。すぎし元暦のいにしへをも、今の事よとあやまたれ、もろきなみだ袖にあまる。つら〳〵人間盛衰をあんずるに、たゞ是かんたん一時のねぶりにもたらず。平家わづかに二十余年のおごりも、盛者必衰の夢のうちにきたりて、つひに東夷の武威にくだかれ、寿永の秋の一葉に掉さして、西海の波濤にたゞよひ、浮沈のながれに身をよせしも、いとあはれなりし有様なり。比しも元暦二ねんの春の半ば、官軍諸所の軍に打まけて、つくしぞさして落塩の、天子をはじめ、月卿雲客も皆一蓬の滴露に涙を比し、帆をひやうはくの浪にまかせて、豊前の国柳がうらに著かせ給て、しばしは君しんきんを休めたまひしかば、官軍一まづ安堵の思ひをなせり。斯りしところに、三月二十二日とかや、おもはざるに範頼よしつね、兵船数千さうにておしよせ、幡旗を春風にひるがへし、矢をいる事雨のごとし。櫓楫掉歌は天をふるはし、鯢波の数声海底をとゞろかす。されば兵は凶器、武は逆徳とはいへども、王土に身をよせし武士共、情なくも先帝の御座船、天子の龍の天績を憚らず、七重八畳に打困む。官軍今を限と軍すと雖、天運微にして忽まけ、女院擒れ給しかば今は是迄也と、二位の禅尼進み出て、安徳天皇八歳の君を左の脇にいだき奉り、右の手に宝劔をぬき持、海ていに飛いりたまへば、諸卿百官諸司、平家の一ぞく公達も、一つながれに身を沈め、水の泡立つ時の間に、消えて姿もなき跡は、よせくる浪ぞ名残なる。そもそも官軍此蟹と化生する事いかなれば、なれぬ海路のたゝかひに、七手八脚てだてつき、しんい【 NDLJP:177】強情のうらみきえやらず、弘誓のふねにほだされ、随縁真如の浪おこつて、八苦の海にしづみ、ぼんなうの波瀾にたゞよひて、万卒のこんぱく天源にかへる事能はず、終に水底にるてんして、よる所なきまゝに、虫に解して此かにとなれるもの歟。今かれがすがたを見しよりも、むかしのあはれに袖ぬれて、
過し世のあはれに沈む君が名をとゞめ置きぬる門司のせきもり
よるべなき身は今かにと生れきて浪のあはれにしづむはかなさ
かやうの御追善大樹の御身にて、たぐひなくやさしく覚え侍る。則此御筆跡を彼寺にをさめて今にありといへり。生前の富貴死後の文章といふ本文有り。いけらんうちのさかえは、皆浮虚のたのしびなり。死して後名をのこすは文章なり。いさゝかの事にてもかきおく人は、其心ばへやさしく覚え侍る。いはんや公方の身をや。いうに覚え侍る物ならし。
関東の管領さまのかみ氏満公は、常に酒を好て宴せられ、雨天になれば
近習外様となく召しあつめて、気かろげに辞をかけらるゝ間、空くもれば、すはや殿の御遊はじまりぬらんと、上戸のともがらいさみあへり。一年
五月雨の空いつもよりうちつゞきて、はれ間なくさびしさまさりければ、かの酒宴ひたものうちつゞき、
座体尊卑をいはず、主従もろともに無礼講といふべきほどに興じられけるに、氏満のいはく、天子も人なり、将軍も人なり、又我も人なり、我に仕ふる汝等も又人倫なり。智をいはばなんぢらこそ、結句われにもこゆべし。いかにといふに、つねに
下民卑賤のわざを見て、人情をこまかに目にふるゝによつて、ものゝ思ひやり下臣の身ほどくはしかるべし、如此一等々々の
序次人間ほど品あるものはあらじ。書を見ても目にふれず、哀を間近くきかざれば、おもひはかる所の情けにはすくなかるべし。折々は主従を引かへて世を治めたらんこそ、よかるべき物とたはぶれ給へるに、近習の人々かつて此返答を申ものなし。やゝ有て、はるかの
末座にひざまづきたる森元権之助信光といふもの罷出て、こは勿体なき御意にてこそ侍れ、上ありての下にてこそ候へ。さて主君のよろしきと申は、唯おほやけなるが物にさはらずしてよくおはしまし候。凡そ大君の
御利発、下従のごとくなるはあしく、けつく下としてよろづの法をはからひがたく、なまじひに御利根すぐるれば、民のために却つて煩に罷成り候べし。いかにと申すに、とても三皇五帝の聖代のごときも、今時はおはしますまじ。又泰時時頼のごとくに、人を撫育してあきたらず、尚
頭人評定のものまひなひにふけりて、民をなやます事もこそあんなれと、諸こくを
斗藪して、下農商旅の唯ならぬをあはれみ、天下ひとしくたひらかにをさめらるゝ事、古今にためしなき事に申あへり。其よりのちの将軍家、又管領奉行頭人評定のこゝろざしをみ侍るに、おほくは皆わたくしあり。人を害する事をかへりみず。此いはれに兵乱うちつゞき候。さはいへど、天下のぬしとむまれさせたまふ人は、
只人にてはあるまじ。そのゆゑ
【 NDLJP:178】は、右大将家よりこのかた、代々の国主
御逝去のときにのぞんで、
天変地化万人のまなこにさへぎる。是併其表事天下に徹するがいはれ也。
大御所尊氏御逝去のとき、さる沢の池水、色変じ皆泡になると申候。又宝篋院大樹御死去の時も、
虚空に
哀慟の声一両夜あひつゞき、これをもつてみれば、只
凡人にあらざ事あきらけし。惣じて
人界の品を
工夫仕るに、たとへば五重の塔に比して申さば、御国主は
九輪のうへの宝形なり。それより下の重は、皆一ぞくの類、又其下の重は
大名高家、それより一重づつ下は、皆それ
〴〵の役人、
領知相応に位も劣り
威もかろし。扨下の
土代のごときは、御中間小人
恩沢に預かり渡世するものども也。是等は皆
御扶助に預かる人にたぐへ、扨塔の具をはなれて、そのほかのくさむらの露にいのちをつなぐむしのごときものは、皆農工商のともがらなり。是は
天露をなめ
潤雨のめぐみならではいきがたし。此事おそれながら、よく御案じ候うて、
向来あはれみをおこさせたまふやうにおぼしめさるべく候と申ければ、氏満大に悦喜有て、只今のたとへ時に取りておもしろし。よくぞ申たりとて、酒たうべさせて、大禄をくだされけるとなん。彼上杉が余流のものがたり侍る。その時は侍従傍輩も大汗になりて、無用のたとへと思ひしが、大禄の後はあつぱれ
〳〵てがら也。森元ならではとほめぬ人もなかりしとぞ。
世の中のほめそしる事は、善悪によらぬものなり。人間の用捨のみ貧福にありといふ本文、まことなりけり。
相模の国の住人本間孫四郎資氏といふ者、去る建武以後そのほまれ天下にかまびそしく、弓馬相まじへて、
古今独歩の達者也。
〈世に本間方と云て、一流の祖也。〉扨此孫四郎事在世のてがら、さま
〴〵也と云へり。しかるをちうばつの後おほく世にかきもらせると云々。
勝定院殿大樹義持公、弓馬の御稽古のはじめ、日本の弓馬の書召集めらる。此時作州の
牢浪人、稲村元澄といふものゝ許より、差上げたる弓馬奥義書
数帙あり。其中に本間が手がら不
㆑残挙たる書あり。近比其写したる本なりとて、ある所にて見侍るに、世に書もらしたる事不
㆑可
㆓挙算
㆒、あたら事也。むかし兵庫和田の御さきにおいてかけ鳥を射たるふるまひ、又塩消判官高貞がもとより
龍馬献上之時、天下馬道の達人、皆此馬に
辟易して近づくものなし。独り此
資氏勅命をかうぶりて、これにのればたちまも
飛龍くもをかけるの
威、
憤虎山をふるはす
為体、又
言の葉に述がたしと云々。馬も馬なり、御者も御者なりといひて、
異口同音に
感動あり。是より其名天がしたに
溢れ、門人彼が
風骨を学ばん事をねがふものおほし。それ
諸芸諸道を学べるもの、
初心、
後心、
堪能、
不堪の品ある事、世こぞつて然り。凡稽古のもの何にてもあれ、其みちのさし口一二ヶ条を半途習ふ時、早此事をみづからあざむき、一等飛んで又其上を欲するがゆゑに、終にその道にいたるものすくなしと云。習れのはしめより、悟文の後まで、一級々々の品を正し、はしごをのぼる如くする、是則篤実によりて然かり。
嗚呼道をつとむるの士、
鮮き事ひさし。豈其両端をあぢはへるも
【 NDLJP:179】の、其中道深遠
㆑之理をしる事あらんや。然して天下の人こぞりて本間をたつとび、習つとむるといへども、終に資氏が心に叶はず。如何となれば、彼所謂一より五六に飛、其次を除て十に至らん事をねがふによつてなり。門弟の中、あるもの一日本間に申しけるは、凡そ貴方の御奥義何が条候哉、さだめて千万の
秘術も御座候はんといふに、本間につこと笑ひて、その事なり、千万の術は一をよくすればそのほかは自然に満足す。第一の大事といふは、かけはしをのるに
口伝有り。これをならひ得れば、のこる所は、すべてこゝろざしにしたがふものなり。しかれども此
故実たやすく伝へがたしと云へば、此ものすはやとおもひて、いまだ十の内一二もいたらずして、早千万の
奥蔵を遂げまくおもひて、ぜひとも
〳〵御師伝にあづかり候はん。たとへ一朝に命をまゐらすといふともかならんと、手をあはせて懇望しける間、本間もぜひなくして、さらば
師伝申べし。此所にてはつたへがたし。すなはち山谷に行てつたふべしまゐられよと、師弟相ともに誘引して、道のほど三里ばかりも行つれ、或谷川の上に
梯あり。本間は先に乗り弟子は迹につづきてのりけるが、彼かけはしのもとにて、本間ゆらりと馬より飛おり、此ところ大事に候。よく
〳〵御覧あれと云て、馬の口を引き、しづ
〳〵とかけはしをわたし、扨又其馬にのりてけり。弟子是をみて、
希有のおもひをなし、扨いかなるふるまひにて候ぞやととへば、其事なり、をこの高名はせぬにしかずと云本文有り。此かけはしなくとも、一鞭あてたらんに、五間三間の
谷合はたやすく飛こえさすべし。いはんやかけはしのうへをのらんをや。若我乗りてみせんに、貴方はやそれに心をかたぶけ、毎々か様のわざをこのまば、これ則あやふきををしゆる
張本也。道は
不得心にして、大事は
遮て懇望あり。是無用の第一なり。梯に不
㆑限あやふき所の高名はせぬもの也。ひつきやう大事といふは、身をまたうする所をいふ。若やむことを得ずして、敵大勢おそひかゝり、不意に取まきなば、すみやかに死すべき事肝要也。梯の外、軒ば渡し、くわんぬき通し、其外のわざは、皆人の目をよろこばしむるのみ也。相かまへて自今以後此事をつゝしみて、無用の軽わざをこのみたまふなと教へけるとぞ。まことに、此もの馬道の長者なれば、弟子に示すところいはれなきにあらず。尤をかしきふるまひと云々。
【 NDLJP:180】
巻第三
青蓮院前門主の御弟子に、藤原のなにがしといふ人、
当流にかんのうのきこえあり。御門主も此人をこそとおぼしめして、つねの
御懇切他にことなりしが、或時御機嫌のよき折から仰られて云く、近代なに事もおとろへゆくこと、皆おなじといへども、
手跡は
中比より以外おとれり。そのゆゑは、わが家流の大祖伏見、後伏見の両院、
風雅れい
〳〵としてもろこしの筆法をあらはされ、しかも其のすがたの中に、
和朝の
体忽然としてそなはれり。これ則家流にかぎらず、中古相かなひたる
宸翰なり、更に
凡慮のおよふべきところにあらず。扨法親王尊円の御手跡は、又これよりをさ
〳〵いやしと云々。むかし伏見後ふしみ御在世の御時、
尊円はいまだ御幼稚にして、
手翰名誉のしるしあらはれ、是によりて益々院にもいつくしみふかく、愛せさせ給ひけるとなん。十七歳の御時
法然房の作られし一枚きしやうといふものをあそばされて、
筆体にすこし私のいみじき所をくはへたまひて、えいらんにそなへたてまつらるとなり。此時院御らんぜさせ賜ひて、御ふくりふ以外なりと云々。その故は
妍をとりていみじく書賜ふ故、其さまいやしく思召によりてとぞきこえし。其後は尊円と
筆跡の論によりて、御中よからぬ事もありといへり。然れども、尊円
以降の
法親王滔々として皆おとれり。尊円に
比並すれば十が二三也とみゆ。
殊に近世予が如きは、竹の枯枝を折て交へたるに似たり。あへて其門に不㆑及。畢竟尊円の筆跡にしくはなきものなり。さはいへど、近代惣て筆法うすくなりて、文字たよわくなる其みなもとは、尊円よりおこると言ふ。いかなればまなびがたきによりて、不堪よりしひて此手跡に似ん事をねがふものは、あるひはつたなくいやしくなりもてゆく事也。尊円の流義は、普通の琢磨にては、人の目にも立がたし。然ども此筆志をわするゝものは、他流又いたりがたし。此筆をよくまなぶ時は、衆流おのづから至極せずといふことなし。凡そ文字は亡命の後のたましひ也。正しく書しるしてしかるべし。たとへ名墨たりといふとも、死後によみがたき文字は、悪筆におとれり。そのうへ古来より筆をたしめと云本文をみず、たゞつとめまなんで書をよめとこそみえたれ。此事皆人しる事なれば、時にとりてわきまへぬものあり、かるがゆゑに、しかいふ。又世尊寺も行能経朝より以後の筆法は、皆かなはず、さながらつくろひたる体にみえて、あぢきなし。乍㆑去正しくみゆる文字は、皆よき手跡といふべし。あまがち其人の流義にはよるべからず。中止よりなま才覚の禅僧ごときもの、あるひは和朝の風はつたなし、あるひはまつたき文字はいやしなど、さま〴〵人をさみして、おのれが手跡はかつて心えず、文字のわかちのみえぬを本として、自負するありさまいとあさましき事ども也。この比禅僧やうの物折々たづねきたりて、筆下にたゝん事をねがふ者もありつれど、予あへて此ものにくみせず。た【 NDLJP:181】ちかへりてはいよ〳〵わが家をさみすべしなど、こまやかに申されけるとなり。此事を聞く人々、尤の仰せ至極せりなどほめたてまつる人もありし。
昔慈照院殿御在世に、さま
〴〵の道具古き筆簡など、もろこしわが朝の名人をつくして高覧あり。これによりて将軍家拝趨の人々、皆めづらしき筆跡を各まゐらせられけり。あるひは
宸翰のたぐひ、其外のかける物ども宛も山のごとくにあつまり侍るとぞ。そのしな
〴〵は申におよばず、たぐひなき見物なりしといひつたへたり。其中にむさし坊弁慶が筆跡とて、文二十通計あなたこなたよりあつまれり。其こと葉は皆かり状なり。あるひはやせたる馬一疋御かし候へ、あるひは
沙金すこし預けたまへ、或はきぬ一たん
粮米一俵かし給へと、あらぬ事までかりとゝのへたる文どもなり。是第一の見物なりとて、上下喜悦してわらひあひ給へりとぞ。将軍仰せけるは、纔に取残したる今の文どもさへかくの如くのかり状なり。在世にはいくらの物をかかりつらんといとをかし。此文をみて無欲のものといふ事あきらか也。一日のたくはへあれば、明日は又人の芳志によりて日をくらしつるとみえたり。如
㆑斯うへはさだめて其かり物を
返弁する事もなかるべきか、
畢竟聚歛せざる者といふ所あらはれて殊勝のよし、大樹も御感ありとぞ。唯今の
僧俗弁慶がふるまひならば、人にうとまるゝ事あるべからず。扨弁慶が姿を恐ろしくいぶせく絵にかき来れり。大きなるひが事と見えたり。右の
反故の中に弁慶を美僧なりといふ事、あまた其世の僧共の文あり。各別千万の事也。
洛東の高山を如意が岳といふ。是むかし
如意輪堂ありて美々敷盛なりと云々。此山に滝あり。急雨五月の比、京より此山を望むに、瀑布あり
〳〵と見えていみじき壮景也。むかし当寺繁昌の折から、此瀑布のかたはらに
楼門あり。是則三井寺の境地にして西方の門也。かるがゆゑに号して
楼門の滝といへり。往古三井寺へ役する者此道を往還すと云伝ふ。京より彼寺へ行時は、外の海道より嶮なれ共、ことに近きによりてなり。此山の
城墎去る比公方いみじく
執したまひけれど、後不吉の聞えありといひて廃荒せり。又此わたりに、
昔平氏の世に俊寛僧都やすより入道その外の人々、後
白河院へ勧め奉りて、平族をほろぼすべきとの相談ありし山庄の跡也といひて
礎有り。すべて此一山はいにしへさまざまの寺院山庄ありて、軒を並べいみじき所なりといへど、
廃亡は時なればせん方なし。扨去比、此所の城盛んなりし折から、不思議のばけものありて、人をたえ入らしむと云
伝ふ。奥の
矢倉の下につとめ守るさぶらひ共、雨天物さびしき折から、碁すぐ六などもてあそびたはぶれける時、あかりさうじの破れたる所より、面のひろさ三尺ばかりにして、三目両口の
鬼形のもの内をきつと見入れければ、やがて人々興をさまし、身の毛も立て怖ろしとなん。すべて夜ふけぬれば
虚空さうどうし、かぶら矢太刀の音などきこえて、
化生の物まなこに遮り、怖ろしき山なりと云々。此事常徳院殿御家来某
【 NDLJP:182】といふもの、ちかく迄長命して、修学院の辺に
牢浪として閑居しけるがくはしくかたり侍る。ある人のいはく、凡そ山中広野を過るに、書夜をわかたず心得あるべし。ひとげまれなる所にて、
天狗魔魅のたぐひ、或は蝮蛇猛獣を見つけたらば、逃かくるゝ時かならず目をみ合すべからず。おそろしき物をみれば、いかなるたけき人も、頭髪たちて足にちからなくふるひ出て、
暁鐘をならす事勿論也。是一心
顛倒するによりてかゝる事あり。此時まなこを見合すれば、こと
〴〵く彼ものに気をうばはれて即時に死すもの也。外の物はみる共、かまへてまなこ計はうかゞふべからず、是
秘蔵の事也。たとへばあつき比、天に向ひて日輪をみる事しばらく間あれば、たちまち
昏盲として目みえず。是太陽の光明さかんなるが故に、肉眼の明をもつて是を窺へば、終に眼根をうしなふが如し。万人を降して
平等にあはれみたまふ日天さへかくのごとし。いはんや
魔魅障礙のものをや。
毫髪なりとも便りを得て、其物に化して真気をうばはんとうかゞふ時、目をみるべからずとぞ。
ある
真言師の云く、大みねは奥州
湯殿山と
金胎両部の山なり。此山至て高く諸木枝をつらねて茂れるによりて、
輙く日光をだにみる事あたはずと云へり。昔役君開闢の後、一旦
蝮蛇毒鬼のために人跡もたえ、延喜のころは此山すでに
魔界となりて参詣する人もなければ、聞きつたふるのみなり。しかるところに醍醐寺の
聖宝といふ
修練験徳の人、此山の霊験鬼蛇のためにうしなはん事をなげきて、一日発起して、入山せられ侍るに、毒蛇道に
横はりて前途をふさぐ。聖宝これを事ともせずして、忽ち鉄履を以てふみころされければ、其蛇すなはち白骨となれり。其白骨今に残りて醍醐に侍るとぞ。扨それより次第に登山せられけるに、いろ
〳〵の
異しきもの出て、聖宝をうかゞふといへども、聖宝曽て物のかずともせず、
密呪をもつて封ぜらるゝに、
天狗化物やうの物力つきてゆるしをこひ、向来此山の守護をいたすべき
由降参してうせにけるとなり。又其後帝子日蔵上人此山の奥、
笙のいはやと云所に
蟄して、
塩穀をたちて修せられ、蔵王の
擁護にあづかりたまふ。此上人修練いまだ熟せざる時は、蛇に追はれて命をうしなはんとせる事たび
〳〵なりとかや。凡蛇の追来になまぐさき息をふきかく。そのいきはなはだあつくなまぐさくして、眼もくらみ方角もしらぬ物なりとぞ。其追はるゝ時、先鼻を蔽うて逃ぐべしと云。日蔵の住たまふ所は、普通の
験者の行がたき所なり。此いはやより執金剛神にいざなはれ、蔵王の御前にいたりて、日蔵九々年月擁護といふ金札を給はり、此八字の
趣向日蔵も解しがたくあんじ給ひける時、西天より
菅公大政威徳天来たり蔵王と列座まします。日蔵此金札八字を威徳聖廟に問はせ給へば、天神仰られて云、日は大日也、蔵は胎蔵なり、九々は年月なり、擁護は蔵王の加護なり、いふこゝろは日蔵といふ名、一
宗に過分なり、今名をかへたらんにおいては、九々八十一年の命をたもつべし。そのまゝの日蔵ならば、九々八十一月に寿命ちゞまるべし。速に改名せば、九々八十一年の期まで蔵王護し給ふべしとの意也と申させ給へば、日蔵もかんるゐをのごはれ、其後名を
道賢【 NDLJP:183】とあらためたまふとぞ。此事
元亨釈書にもみえたる。くはしくは大峯の
縁起にありと云々。いみじき事共也。此わたりに
巌穴あり。良香が
脱戸仙術を得し所と云。其外此山に仙家ありて往々に異人に逢ふ輩おほし。此山順逆の外入るものすくなし。つねに人跡まれにして、
幽邃たれば鳥もすむ事なし。木葉は五六尺、所によりて一丈も深ければ、むしもなく唯
山嵐枝をならす音のみ也とかや。まことに霊山異人のすむべき地也とぞ。
円満院の
門主行尊僧正此山にて
卯月ばかりに桜をみて、花よりほかにしる人もなしとよめる歌の意味は、彼山へ入ずしてはしれがたしとぞ、二条家の人申されき。近比は衆人もたやすく入るといへど、多くは
半腹までいたりてかへりつゝ、さま
〴〵の事みたりといふ。ことに国々の下山伏など、旦那の前にてはゆゝしくかたれども、実はふもとよりかへるとぞ。彼の山のこと一切外の人へもらすことなりがたし。その法式ありて、
峯入のとき、僧俗ともにちかひを立てしむとなり。
南朝弁内侍と申は、右少弁俊基朝臣のむすめなりとぞ。かたちいとうるはしく侍りけるを、いつの比なるにや、武さしのかみ師直みそめ侍りつゝ、あけくれこゝろにかけて思ひくらしけるに、
御門かくれさせ給ひてのち、よき時分と思ひて、文つかはして、忍びいでさせ給へ、御むかひをまゐらせてんと度々いひやりけれど、かへり事もしたまはざりければ、いとにくしとおもひて、
行氏卿へかよひけるをんなのありけるを求め出して、北の方へかゝる事なん侍る、共にはからはせ給うて、
本意遂げなんには、しらさせ給はん所をもあまたつげ侍りなん。三位殿の官位を進とすゝめて言ひおこすれば、さらぬだに世の中の人のおそれぬはなきに、いとたのもしくきこえければ、御文をとゝのへ給うて、内侍のきみに、本仕へし梅が枝といひし女をそへて、はからはせ給へかしときこえけるに、いとよろこびて、命をかけてちぎりけるさぶらひ二十人ばかりえらびて、梅が枝にそへて吉野へつかはしける。内侍の君に、梅が枝が北の御かたの文をもちてこそといひ入けるに、御こひしうおもひて過しつるに、こなたへとめされて御ふみたてまつるに、はるかにこそわたらせたまへ、山ざとの御すまひさこそと思ひやらるゝ、今袖をこそしぼりあへ給はね、御こひしさのいとせめて、すみよしへまうではべりしほどに、道のたよりもしかるべければ、逢たてまつらん事をおもひて、かうちの国とかや、たかやすのほとりにしりたる人のさぶらふに、まゐりてこそ待ちたてまつれ。はかなき世のましてみだれがはしければ、このたびならではいかで相見んなど、こまやかに書きたまうて、
あひみんとおもふこゝろをさきだてゝ袖にしられぬ道しばの露
御つかひも御ふみのこゝろにかきくどきければ、まことの御母君にすてられ参られしよりは、それにもまさりておもひまゐらせし御なさけの忘られで、あさゆふこひしうおもひたてまつりつれとて、君に御いとまをけいし給ひて、とりあへずいでさせ給へり。にようばうふたり青さぶらひみたり、御供【 NDLJP:184】にはつかうまつりけるに、道に人出あひて、たかやすに待せ給ひけれども、人多くてむつかしければ、すみよしまでまかるにこそ。若御出もさふらはゞ、あれまでぐしたてまつれとおほせおかれさふらへばとて、人あまたいでてとりこめたてまつる。いとこゝろ得ぬ事にこそ。すみよしまではるばるといかで行なん。御こしをかへせとのたまはすれば、あをさぶらひども御こしをかへしなんとしければ、たゞ住吉までいそぎたまへとひきたつるに、いかにもかなふまじけれと引とゞむるを、さないはせそとて、三人ともに打ころしてけり。君はいとおそろしく、鬼にとらへられ給へる心ちしたまひて、ただなきになかせ給へり。ものゝあはれをもわきまへぬものゝふども、なさけなうこよひ住吉迄いそぎなん、殿もそれまでいでむかひおはさんなどいひのゝしりて、いしかはといふ所までゐてゆきけり。たてはきまさつらが、吉野殿へめされてまゐるに行あうて、其ほど過しなんとかたはらなる木かげにたちしのぶを、こゝろもとなく思ひて、たちとまりて事の様をとひけるに、つぼねがたのすみよしにまうでさせたまひけるといふに、さてはとて過なんとするに、ないしの泣きたまへるこゑをきゝて、おして御こしのほとりへたちよりてよくとへば、かう〳〵のことになんとの給はすに、いかさまにもあやしければ、そうしなんほどは皆めしとれとて、のこらずからめとりてけり。恥を思へる者三人四人ありて、抜合せ戦ひけれどもつひに打殺しぬ。吉野へ参りて事のよしを奏し奉れば、梅が枝をすかしてとはせ給へば、はかりつる事を申しけるに、侍共は皆きられて、梅がえは尼になし給うてかゝるありさまを、北のかたへよく〳〵けいせよとてかへされにけり。まさつらがなかりせば、くちをしからましに、よくこそはからひつれとて、弁のないしをまさつらにたまはせんとみことのりありければ、かしこまりてかくこそ詠じける。
とても世にながらふべくもあらぬ身のかりのちぎりをいかでむすばん
とそうして辞退しけり。その時はこゝろえがたくおぼえしが、後におもひ合はされていとほしみあひにけり。
凡そ武勇人の子には男女にかぎらず強勢の人あり。是
勿論そのぶゆう
膂力の種子なればにや、むかし新たいけん門院に伊賀のつぼねといへる人は、新田さちうじやう義貞朝臣のさぶらひ
篠塚伊賀守がむすめなりとぞ。女院の御所はくわうきよの西の方にて、山につゞけるところなりけるが、さんぬる正平ひのとの亥のとしのはるのころ、おそろしき
化物有りとて人々さわぎおそれたまへり。そのかたちをしかと見さだめたるものもなし。これにゆきあひけるものは、こゝちくらくなりにけり。
内裏よりとのゐ人あまたまゐらせたまうてひきめなど射させければ、そのほどはしづまりにけるとぞ。みな月十日あまりのほどに、いとあつきころなりければ、此つぼね庭にいでてたゝずみたるに、月のさし出てあかゝりければ、
【 NDLJP:185】 すゞしさを松ふく風にわすられてたもとにやどす夜半の月かげ
とたれきく人もあらじとひとりごとしてたちけるに、松のこずゑのかたよりからびたる声して、唯よくこゝろしづかなれば則身は涼しといふ、古き詩の下の句をいふに、見あげければ、さながら鬼の形にて、つばさのおい出でたりけるが、まなこは月よりもひかりわたるに、たけきものゝこゝろもきえうせぬべきを、此つぼねうちわらひて、まことに左にこそありけれ、さもあらばあれ、抑いかなるものにかあるらん、あやしくおぼゆるにこそ、名のり給へと問はれて、我はふぢはらのもととほにこそはべれ。女院の御ためにいのちをたてまつりさふらひしに、せめてはなきあとをとはせ給はん事にこそあれ。それさへなくさふらへば、いとつみふかくして、かゝるかたちになりてくるしき事のいやまされば、うらみたてまつらんとおもひて、此春のころよりうしろやまにさぶらへども、御前には恐れてまゐらぬにこそあれ。此よし啓してたまひなんとこたへければ、げに〳〵左はきゝおよびし。されどうらみたてまつるべきことかは。世のみだれに思ひすぐし給へるぞかし。その事ばかりならばけいしとぶらひてん。さるにても御のりにはいかなる御事かよかるべき、心にまかせ侍らんとのたまへば、唯その事ばかりにさふらへ、御とぶらひには唯法華経にしくはあらじ。さらばかへりなんといふに、かへらん所はいづくにかととひければ、露ときえにし野のはらにこそ、なき魂はうかれさふらへとて、北をさしてひかりもてゆくをみおくりて後、女院の御まへにまゐりてけいしはべりければ、まことにおもひわすれてこそ過しつれとて、あけの日よしみつの法印にみことのりありて、御だうにて三七日法華きやうをくやうしたまひけるに、そののちあへてことなる事もなかりけり。浮びてやあらんといとたのもしく侍ると云伝へたり。
むかし
良峯の
衆樹と云人、才学
優長にして平生怒りすくなく、仏神に
帰依したてまつる事無二也けり。此ゆゑに一会の賓客ももゝとせのまじはりをねがひ、多年の朋友はいよ
〳〵懇切の志を
抽んずといへり。此もろき延喜十三年のころ、
石清水八幡宮へまゐりけるをりふし、俄に雨ふりて四方のそらもくらくなりて、よろづいぶせきまゝに、御まへなるたちばなの
木陰にたちよりて、雨天をしのぎけり。此橘木も半に枯れておとろへたれば、
ちはやふるおまへのまへの橘ももろ木もともに老いにけるかな
とよみてしばらくたちやすらひけるに、大ぼさつもあはれにをかしくやおぼしめされけん、半かれたる橘の枝俄にみどりにかへりけり。衆樹も天気晴ければ、再三神前に稽首して罷りかへりけるとぞ。凡そむかしより信をいたす人利益に預らずといふ事なし。土大根さへひとを利する例あり、いはんや人としてこれをおもはざらんや。嗚呼人生信ある事すくなし。胡為ぞ書をよみ理を聞てこれにもとるぞや。たま〳〵かやうの瑞験をきく人、其こゝろざしの不信なるにたくらべて是をあざむき、かへつ【 NDLJP:186】て人心のまことを害す、是すなはち賊なり。更に強窃二盗をいふのみにあらず、各これをはぢてます〳〵ふかくまことをいたすべきなり。世間の人をみるに、おろかにつたなき物にかへつて瑞ある事多し、是何ぞや。其きくところを直に胸中にうけて是を心に判ぜず、恐れ恐るゝ事いたつてふかし。此ゆゑにかみほとけの感応もあり。されど国家君臣の要道にいたりてもちゆるにたらず、身をほろぼしうれへを子孫にのこし、あるひはすこしきに泥んで大をすつ。其外あまたの害ある事は、皆愚盲のしわざなり。信有て聖賢のをしへをたつとび仏神に帰し、ひろく学て自得する人今古すくなし。しからばいかゞせんや。古人のいはく、学に弊あり、不学にまことあり、学に信あり、不学に害ありと云々。このこといたれるかな。
いにしへ高野の山荒れすたれて、すでに六十よねんなりけり。衆木しげりて
蔭くらく、すゞの細みちあとたえて、いづくに堂たふありとも見えざりしを、
持経上人といひし人、はじめてたづねあらためてしゆざうせられけるとかや。堀かはの院御在位の御とき、さんぬる寛治二年正月十五日せんとうにて御遊宴のみぎり、種々の
御談義どもありし時、当時天竺に
正身の
如来しゆつせして、せつほう
利生したまふとうけたまはり及ばんに、おの
〳〵あゆみをはこびかうべをかたぶけたなごころを
合せて、参り給ひなんやといふ一義の出でたりけるに、皆参るべきよしを申さるゝその中に、がうそつたゞふさの卿といひし人、その時は未だ左大弁の宰相にて末座に侍はれけるが、進み出でて申されけるは、人々は皆参るべきのよしを申させ給へども、たゞふさにおいては、参るべしともおばえ候はずと申されければ、諸卿一どうに疑心をなして、各は皆
参るべき
由を申さるゝ中に、御へん一人は参らじと申さるるは其仔細いかやうぞや。その時江帥申されけるは、本朝大そうの間はよのつねの
渡海なれば、おのづからやすく渡る事もさふらひなんず。天ぢくしんたんのさかひ、
流沙葱嶺のけんなん、わたり難うこえがたきみちなり。まづそうれいといふ山は、西北は大雪山につゞきて東南は海くうにそびえいでたり。銀漢にのぞんで日をくらし、白雲をふんで天にのぼる。みちのとうざい八千より、草木もおひず水もなし。雲のうはぎをぬぎさきて、苔のころもゝきぬ山の岩のかどをかゝへつゝ、廿日にこそこえはつなれ。此みねをさがつてにしをてんぢくといひ、ひんがしをしんたんと名づけたり。其中にことにそびえたる山あり。けいはらさいなんとも名づけたり。御みねにのぼりぬれば三千世界の広狭はまなこの前にあらはれ、一ゑんぶたいの遠近は足のしたにあつめたり。又流沙といふ川あり。水を渡りてはかはらを行き、河原をゆきては水をわたる、かやうにする事八ヶ日があひだに、六百三十七度なり。白浪みなぎり落て岩間をうがち、
青淵水まひて木葉をしづむ。昼は劫風ふきたてゝ
砂をとばして雨のごとし。夜は
妖鬼はしり散て火をともす事星に似たり。たとへ
深淵をばわたるとも、妖鬼の
害難はのがれがたし。たとへ
鬼魅の怖畏をば免るとも、水波のへうなんはさりがたし。されば玄し
【 NDLJP:187】やう三ざうも六度まで此道におもむいて命をうしなひ給ひけり。次の
受生の時にこそ、法をばつたへ給ひけれ。しかるを天ぢくにも
震旦にもさふらはず、わがてうの
高野山に
正身の
大師入定しておはします。かゝる霊地をだにも未だ蹈まずして、むなしく年月をおくる身が、たちまち十万よりのけんなんをしのびて、
霊鷲山のみぎりにいたるべしともおぼえさふらはず。天竺の
釈迦如来と吾てうの弘法大師は、そくしん
成仏の
現証これあらたなり。そのゆゑはむかしさがの天わうのおん時、大師
清涼殿にして四
宗の大乗宗のせきとくたちをあつめて、
顕密論談の
法門いたさるゝ事ありけり。
法相宗の
源仁、
三論宗の
道昌、
花厳宗の
道雄、
天台宗の
円澄、
真言宗の
弘法、おの
〳〵我宗の目出度やうを立申されけり。
先法相の
源仁、わが宗には三
時教をたてゝ一さいの
聖教を判ず。三時教といふは、所謂
有空中是なりと云々。三論宗の道昌、我宗には二蔵をたてゝ、一さいの
聖教をしめす。二蔵といつぱ。ぼさつ
蔵声聞蔵是なりと云々。
花厳宗の道雄、我宗には五教をたてゝ一切の
聖教ををしゆ。五教といふは、
小乗教、
始教、
終教、
頓教、
円教これなりと云々。天台宗のゑんてう、我宗には四けう五味をたてゝ一さいの聖教を判ず。四教といふは、蔵、通、別、円、五味は乳、酪、熟、醍、酬是なりと云々。
真言宗の弘法、我宗にはしばらく
事相教相たつといへども、真の
即身成仏の義を立。その時四家の大乗宗の
碩徳達、真言の即身成仏の義を一同にうたがひ申されける。先づ法相宗の源仁難じていはく、それ一代三時の教文を見候に、三
劫成仏の文のみあつて、真言の即身成仏の文なし。いづれの聖教の文を以て即身成仏の義をたてらるゝぞや、其文あらばすみやかに文証をいたされて、
衆会の
疑網をはらされよとぞいはれける。大師答へてのたまはく、誠になんぢらが崇する所の聖教の中には、三劫成仏の文のみあつて、真言の即身成仏の文なし。且々先文証を出さんとて、若人求仏恵通達菩提心父母所生身即証大
学〔覚歟〕位、これをはじめて文証をひきたまふこと其かず繁多なり。源仁かさねていはく、まことに文証をば出されたり。此文のごとくそのむねをえたる人証はたれ人ぞや。大師こたへてのたまはく、とほくは大日
金剛薩埵、ちかくは我身すなはち是也とて、かたじけなくも
龍顔にむかひたてまつり、手に三つ印をにぎり口に仏語をじゆし、心にくわんねんを凝して身にぎゝをそなふ。
生身の
肉身へんじて忽ちに
紫磨わうごんのはだへとなり、かしらに五仏のはうくわんを現じ、光明さう天をてらして日輪のひかりをうばひたまふ。朝廷にはかにかゞやいて、
浄土の
荘厳をあらはす。時にていわう御座をさりて礼をなし、臣下きやうがくして身をまげ、南都六宗の賓地にひざまづいて稽首し、
北嶺四明の客庭上にふして摂足す。成仏ちそくの立派には、だうおう道昌も口をとぢ、ほうしんしきしやうのなんたうには、源仁ゑんてうも舌をまく。つひに四宗きぶくして
門葉くはゝり、一朝はじめて
信仰して
道流をうく。三
密五
智の水四海にみちて
慶垢をあらひ、六
大無碍の月一天にかゞやいて長夜をてらす。されば御在世ののちも
生身ふへんにして、
慈尊の出世をまち、六
情かはらずして
祈念の
法音をきこしめす。此ゆゑに現世のりしやうもたのみあり、
後生のいんだうもうたがひなき御事なりとぞ申
【 NDLJP:188】されける。上皇大きにおどろかせ給ひて、これほどの事いまゝでおぼしめしよられざりつる事こそ、かへす
〴〵もおろかなれとて、やがて明日高野御幸のよし仰下さる。江そつ申されけるは、明日の御かうもあまりそつじにおぼえ候。むかし
釈尊霊鷲山にて御説法ありし
砌に、十六の大こくの諸王達の御幸なりし
規式は、金銀をのべて
宝輿をなし、珠玉をつらねて
冠蓋をかざりたまへり。これすなはち
希有難遭のあゆみをこらして、
帰依かつがうのこゝろざしをいたし給ふ作法なり。いま君の御かうもそれにはたがはせたまふべからず。わがてうの高野の山をば、てんぢくの霊鷲山と
思しめし、弘法大師をば正身のしやかによらいとくわんぜさせたまひて、御かうのぎしきをひきつくろはせたまふべうもや候ふらんと申されたりければ、此義もつともしかるべしとて、日かず三十日を相のべらる。其間に供奉の
公卿殿上人も、
綾羅きんしうをあつめて衣装をとゝのへ、金銀をちりばめて
鞍馬をかざりたまへり。是ぞ高野御幸の初めなりとぞ。
南都諸大寺のたから物一にあらず、種々の霊宝あり。就中こうふくじ
宝蔵の中さま
〴〵の仏像そのほかの重財等あり。その中にまろきはこあり。そのうちに女の髪有、たけ一丈余、其黒き事比類なし。ひすゐをあざむくべし。まことに和漢の中ためしすくなき物なり。是則光明皇后御壮年のころの御ぐしなりとぞ。是を取りてみれば、おそろしき物なり。さらに今やうの髪に似ず。かゝるものもありけるにやと覚え侍る。九百年に及ぶむかしの御すがたも、今みるやうの心地せり。御かたちのやんごとなきありさまは、国史等にくはしければ、今更申に及ばず。観音さつたの御さいたんなればにや、申もおろかなる事なり。しかのみならず、よしのどろ川と云所のおくに、てんの川といふ所に
弁才天あり。此所によしつねの妾白拍子しづかが髪とてあり。長八尺ばかり、是さへいみじくおもひ侍るに、光明皇后の御事ふしぎといふもあまり有り。又此所に七なんがすゝ毛といふ物あり、長五丈ばかり、其
縁起をきけば甚だ
尾籠の事共なり。たゞし此ものは、吉野にかぎらず往々に諸所にありとぞ。
後嵯峨院の御宇、行能卿としすでに七旬におよびて、一子もなし。是已にわが家断絶のもとゐなるにやと、あさ夕かなしまれけれども、如何ともする事なし。寛元元年に清水寺へ七日さんろうありて、此事をいのられけるに、ずいけんあらたにして、不思議の一子を儲けられける。白河の三品経朝卿是なり。此経朝康元年中に生年十三さいにして、大内の番帳をかきまゐらせらる。筆簡妙絶の人なりと云々。そのゝち六十余におよびて、冥途の請におもむいて閻王宮に到られけり。閻魔王此人にめいじて額をかゝしむ。此時七日があひだ気息断え身はあたたかなり。すでに七日をへて蘇生せられけるとなん。同朋とぶらひて且はよろこび且はあやしき思ひをなして、とかくとひかたりたまひけるが、そののちいく程なくして、つひに死去せられけるとぞ。希代の事なり。参議佐理卿は三島明神の神言に【 NDLJP:189】よりて、日本惣鎮守三島大明神といへる額を書き給ひけるとぞ。凡そ上代には、異人権化の僧俗おほし。いかんぞ今澆薄の世なればとて、一人もなく又おとにもきかず、あさましき事どもなり。当代半学の儒士、古来の奇異を聞て、皆いつはりなりと云は、理りにも侍るか、是異人なければなり。されど末代迄品々の霊験をのこしおきたまふうへは、更にうたがふまじき事也。
南帝御くらゐに居させたまひける初めつ方、伊予の国
大館左馬助うぢあきらの許より、世にためしなき程の
逸物なりとて、はいたか一もとたてまつられしを、四条の大納言たかすけ卿にあづけさせたまひて、折々御覧じさせたまひけるに、誠にすぐれたる鷹なり。その比皇居のうへなる山のしげみよりよな
〳〵いでて、からすの声に似て
内裏に響きわたりて鳴を、あやしき鳥にてあらん、諸士に仰せて射させたまひけれども、ところさだめざりければ、かれもこれもかなはずしてやみにけり。ある時かの鷹をふもとの野べにて雉にあはせたまひけるに、きじには目もかけずして、山のかたへそれゆきけるを、さしもかしこうおぼしめす御鷹をとて、行方にむらがり行に、しげみのうちに入りけるを、いかにせんとてまぼり居けるほどに、鶴のおほきさなるくろき鳥を追出して、空にてくみあひともにおちけるを、人々立よりてころしてけり。かたちはからすのごとくにして、右ひだりのつばさをひきのばしてみければ、七尺あまりありけり。いち
物のたかも胸のほどをくはれて、しばし程ありて死にけり。夜な
〳〵なきつるは此鳥にてやありけん、そののちはおともせざりけり。いづれにたゞ事にてはあらじとて、二つの鳥をつかにつきこめて、その上にちひさきやしろをたてゝ、鳥塚といひて今にありけるとぞ。あやしき事にこそ有りつれ。
【 NDLJP:190】
巻第四
往年東奥の住士語ていはく、世に空海の
奇特おほく史伝に載す。悉く天下の貴賤知る所なれば、いまさら述ぶるに不
㆑及。就
㆑中人のために重宝なる事をせさせ給ふ事あり。我住国の内、或山中に塩川といふ所あり。此ところは
渓谷の
幽栖にて、人民四五十屋ばかりあり。凡そ此近隣は海辺へとほく数十里の道をへだてたれば、つねに米穀もとぼし。第一塩を得る事自由ならず。昔大師
廻国ありしとき、此所の人民物語してしか
〴〵の事にて候とてなげきければ、大師是をきかせたまひて、
不便の事也、急ぎ
呪力を以て塩を
涌出せしめ、後世民家のたすけとすべしと仰られて、あたらしく桶をこしらへさせて、谷川の
真中に居ゑ給ひけるに、其日より
彼をけの中へよどみ入る水計、内にて海潮となりて其桶の下流へはすこしもからき味ひちらず、常の水なり。其所の民近隣の人々、此所へ行きて
彼をけの中の水をくんで釜へ入て塩とし、あるひはやきて塩とし、扶けとなす。いまにおいて彼川の桶は大師のつくらせたまふまゝなりといふ。
洪水暴流の折からも、砂石にうづまれずして中流にあり。かやうの奇異は後の世まで人をたすくる
聖術なり。
言語道断言ふべからずと云々。
加㆑之今の世にあしの葉の中に、三寸ばかり間をへだてゝしわのよりたる二所有り。是も大師のたはぶれの御所為なりといへり。
粽をまく人を見給ひて、汝がまく
粽にはくゝりに大小ありて見にくし。よきほどに粽を置てこれへ見すべし。明年より諸国のあしの葉にしるしをつけて置べしと仰られければ、彼もの葉の上に粽をおきてこれほどがよき比におはしますといへば、大師そのところに御つめにて跡をつけたまひて、明年より
蘆の葉に二つのしわあるべし。其しわに此今の爪あとをくらべてみるべし、違ふまじ。此しわの中に粽を置てまくべしと仰られけるとなり。扨其翌年より天下の蘆の葉にしわ有ける。今の蘆の二つのしわは此いはれなりとかや。不思議といふもおろかなり。
扨国々郡々村々まで、大師の御覧なき所はなしと云。寿命は六十余なり。此内御在唐に久しく、いとまあらず。扨国々修行あり。又世に大師御筆跡ほど多きはなし。御作文詩序あまた有り。いかなればかやうに纔六十年の内おほくの作業有事ぞや、まことに不双の権化なりとぞ。高野山碩学の僧、先年ある人にいはく、我山は大師如意宝珠を封じてうづめさせ賜ふ。此ゆゑに後世にいたりて万法滅すれども、当山は弥々繁昌すると云々。其時かたはらに人有りて申けるは、伝教大師は日本無双の権者にて、ことに我山の衰微を好み給ひけるによりて、次第に山門はおとろへ、高野は右の如くに末々ほど繁昌すと云。然共叙岳の衰微は開山の本意也と云伝ふといへば、前の真言僧、それは天台家のへらぬ口にて候べし。如何なる無欲の人なりとも、我が宗の末々栄えて群生を救はんをきらふ事や侍らんと云合ければ、いとをかしく覚え侍る。扨右の塩川の事に付て、つら〳〵案ずるに、和朝は海辺へさまでと【 NDLJP:191】ほき所もなし。此所に塩をもちふる事とぼしからず。夫塩は五味の第一にて、万食に味を添ふ。此ものなくてはかなひがたし、身命をもたもちがたしと云々。まことに我国は小国なれども、万物満足して世界第一の豊家也。漢唐には肉味をほしいまゝにして、汚穢不浄をいまず、虫蛇猛獣の類一として食せずといふ事なし。此のゆゑにより〳〵食毒にあてられ、是が為にいのちをうしなふ輩かぞへがたし。皆悪味のしからしむる所なり。そのうへ塩といふものは、中州にいたりて海辺へ数千里へだてたれば、常にとぼしとみえたり。されど自然の妙有て池塩、石塩、井塩とて此三所より塩を取て五味満足す。是又天地造化の功はかるべからざる事なり。わが国は太古神代より肉味を忌来れり。是併万品そなはりたる豊国なればにや、肉味にあらずして食物とぼしからざるが故なりと云々。
鎌倉右大将頼朝卿平族追討し給ひ、四海漸くやすき思ひをなし、益天子を崇敬ありしかば、後白河院叡感のあまりに、六十六ヶ国の惣追捕使になされけり。これよりして武威さかんになりて、朝廷衰微せり。彼頼朝卿は容貌優美にして、実証分明なりし人なりとぞ。此卿逝去し給し時、いろ〳〵の天変ふしぎあり。鎌倉の海水紅に色かはるとぞ。其御子頼家実朝卿の時もふしぎありとなん。しかれども時代はるかに押うつりたる事なれば、さまでくはしくかきける物も見きたらず。間近くは御当代の曩祖大御所尊氏公御逝去の時、猿沢の池水へんじて紅にみゆ。其外天変地兆一にあらず。先公方御他界まで一として表事あらずと云事なし。是尤国主なれば、自然の徳化天地に徹してふしぎとあるなるべし。常徳院殿の御時は、白日斜陽になりて色赤く光なく、朧なる事三十日とかや云伝ふ。かゝるふしぎの天地にこたふる事、まことにやん事なくおはし侍る。下ざまの人そしりかたぶけ申す事勿体なき事なり。たとへ行跡あしければとて、さみし奉るまじきを、ましてことなる御はからひもなく、尋常にして終らせ給ふ国主の御沙汰、かならず無用の事なりとみえたり。
野相公たかむらは、弘仁帝の御時つかうまつりて、三
木いたり
博学得業の人にて、古今にすくなき歌仙なり。此人一代の詩文和歌
挙げてかぞふべからず、比類なき達人なり。
文華秀麗文粋等の書にもをさをさのせたり。されどおほく世にもれたる作文ありとみえたり。恵林院殿御世に、公家の人々あつめさせ給ひて詩文の御雑談あり。
漢家の
文人はいとめづらしからず。和国の才人の述作に、をかしく奇妙る文やあると問はせ給へば、ある人書きてまゐらせられける。小野篁奉
㆓右大臣三守
㆒書其詞云、
学生小野篁誠恐誠惶謹言
窃以、仁山受㆑塵、滔㆑漢之勢寔峙、智水容㆑露、浴㆑日之潤良流、是以尼夫結㆓交於縲維之生㆒、呂公附㆓嬪於掖庭之士㆒、剛柔之位、不㆑可㆓得而失㆒也。配偶之道、其来尚矣。伝承賢第十二之娘、四徳無双、六行不㆑闕焉。所謂君子之好幸、良人之高媛者也。篁村非㆓馬卿㆒、弾㆑琴未㆑能身、非㆓鳳史㆒吹㆑簫猶拙㆔孤【 NDLJP:192】対㆓寒窓㆒、恨㆓日月之易_㆑過、独臥㆓冷席㆒歎㆓長夜之不明㆒、幸願蒙㆓府君之恩㆒、許㆓倶同穴偕老之義㆒、不㆑耐㆓宵蛾払㆑燭之迷㆒、敢切㆓朝曜□□之務㆒、篁謹言。
是は右大臣三守公のむすめをしたひて、めあはせたまへと願ひて、三守へおくりける文なりとぞ。まことに文字のつゞけやう、故事のうつりはたらきて、金玉のこと葉なり。当座に覚悟して書出さるゝ事、又高名なりとて、此文かきまゐらせし人のもとへ、おほく禄給ひける。
応永よりこのかた、管領三職の人々以ての外に威をまし、四海挙て崇敬する事将軍にまされり。これも御当家前代のうち、あるひは
還俗の国主もあり、あるひは早世の君もあり。赤松がごとき君を弑し奉る逆罪の聞えもあり。その外の事大小となく、公方は耳のよそにきこしめして、万人三職のはからひにて、御家督の口入も取りつくろひけるによりて、おのづから代々に勢を加へ、万卒これにおそるゝ事
虎狼のごとし。就
㆑中去る管領右京大夫勝元は、一家不変の
栄耀人にて、さま
〴〵のもてあそびに財宝をつひやし、
奢侈のきこえもありといへり。平生の
珍膳妙衣は申に及ばず、
客殿屋形の美々しき事
言語道断なりと云々。
此人つねに鯉をこのみて食せられけるに、御家来の大名彼勝元におもねりて、鯉をおくる事かぞへ難し。一日ある人のもとへ勝元を招請して、さま〴〵の料理をつくしてもてなしけり。此奔走にも鯉をつくりて出しけり。相伴の人三四人うや〳〵しく陪膳せり。扨鯉を人々おほく賞翫せられて侍るに、勝元もおなじく一礼をのべられけるが、此鯉はよろしき料理と計ほめて外の言葉はなかりけるを、勝元すゝんで、是は名物と覚え候。さだめて客もてなしのために、使をはせて求められ候とみえたり。人々のほめやう無骨なり。それはおほやう膳部を賞翫するまでの礼也。切角のもてなしに品をいはざる事あるべうもなし。此鯉は淀より遠来の物とみえたり。そのしるしあり。外国の鯉はつくりて酒にひたす時、一両箸に及べば其汁にごれり。淀鯉はしからず、いかほどひたせども汁はうすくしてにごりなし。是名物のしるし也。かさねてもてなしの人あらば、勝元がをしへつる言葉をわすれずしてほめ給ふべしと申されけるとなり。
まことに淀鯉のみにかぎらず、名物は大小となくその徳あるべきものなり。かやうの心をもちて、よろづにこゝろをくばりて味ふべきことと、そのときの陪膳のひとの子、あるひとのもとにてかたり侍る。
源三位入道頼政は、世の人のしるごとく、摂津守頼光より五代の後胤参河守頼つなが孫、兵庫頭仲正が子なり。文武兼備の侍にて、殊更和歌の達者也。其世の人々多く頼政が
風雅を味ひて、門に入る輩あまたありとぞ。一代の
秀歌は家々の日記にしるしたれば、誰もしる所なり。其中ことに
秀吟ときこえ
【 NDLJP:193】し歌は、庭の面はまだかわかぬに夕だちのそらさりげなき月をみるかな。是前代
秀逸の人おほく
褒賞ありし歌なり。されど不幸にして一生の中大国をも得られず、よしなきむねもりのふるまひによりて、三位入道衰老のやいばに命をうしなはれしは、をしき事也といひ伝へたり。東山殿御歌の御稽古には、頼政が風をいみじくおぼして、つね
〴〵彼体を味はせ給うてけるとぞ。前代大乱打つゞき、世の政務思召まゝならねば、人々のふるまひうとましく
味気なくおぼして、東山一庭の月に心をすまし、茶の湯
連歌を友として、世のさかしまを耳のよそに聞しめしけるとぞ。此時
大位小職の人々日々歩行をうながされて御幽栖へとぶらはれ、さま
〴〵の物がたりはじめて、なぐさめ参らせられけるとなん。頼政が
鵺をいたりと申事両度なり。皆射おほせて比類なき名をのこし候。ことに闇夜におよびて目ざすともしらぬ比、かゝる
怪鳥をいたる事、是はそも何を目あてとして仕たるにや、いみじくもおぼつかなくもおもひ入て候と申されければ、義政すこしゑませ給ひて、その事なり、いみじう射
課せ侍る。されど目あてもなきに射たりしなど、不審ある事然るべからず。凡弓法には
天狗、ばけ物、
魔魅の類おそるゝ
手便候。其法ある矢を用ふればあながち目あてによるべからず、つる音にて彼化怪のものおのづから矢に当ると申伝へて候。されど普通の芸にてはかやうの物おそれず。頼政は達人なれば、矢をつがふとひとしく
化鳥を
射課せたりといふ事、手にこたへたりみえたり。目あてにむかひて射る矢の的に当る事、いとめづらしからずと仰られければ、人々も
快喜して、仰せ
勿論の御事にていみじく覚え奉ると申されけるとぞ。かさねて大樹公の仰せに、かやうの事人々もてあつかはれざるがゆゑに、いぶかしく思ひまうけ給ふるなり。人々の所作をゐなかうどのたふとみたるとひとしき事也。あやしみをなすにたらずとの給ひて、後はさま
〴〵世のとりさたになりて、をかしき事どもかたりあひたまうけるとぞ。
京極黄門定家卿は古今に名だかき
歌仙なり。詞花子孫につたへてかうばしく、言葉ます
〳〵しげりて
後裔をおほふ。いま
澆世無味のみぎり、彼高風をあふがんとすれば、いよ
〳〵たかし。愚口に味はんとすれどもくちかなはず。是時代はふれて人あさましくなりもて行くによつてなり。其上
黄門の時世には、
詩序のもてあそびなども人々つたなからずして、
秀作のきこえあまたつたへ侍る。黄門も随分詩作秀逸のほまれありて、叡聞にも達せられ侍るとみえたり。彼卿の
明月記の中にも、往々にのせられ侍る。つねに白氏文集をもてあそびて、居易が
風味をしたひ、人々にもすゝめてよましめられけるとなん。
手跡はよろしからざるといふ事、応永の比の記に
粗見え侍れど、苦しかるまじき事なり。古来より名人の
筆跡あしき人もまゝつたへきゝ侍り。そのうへいま彼卿の筆法をみるに、おほく文字の
品かはりて、さま
〴〵にかゝれ侍る。凡五六品にもわかれてみゆ。今やうの人のさらにおよぶべくもあらず。あしきといへるもゆゑあるべき歟。
就㆑中上根無双の人にて侍るにや、おほく他家の記録
【 NDLJP:194】をみるに、黄門の明月記ほどくはしきはなし。其身は洛に居住して、
別業を九条小倉にいとなみ、つねに彼所へいたりて窮身を山野にたのしまれ侍るよし、くはしく記中に見えたり。一とせ人々詩序につらなり、
当座のほまれありつる句、
見鐘響近松風暮 鳳輦蹤遺草露春
又建仁の比、上皇南山へ御幸ならせたまひしにも、彼卿供奉せられ、発心門のはしらに書付られ侍る詩歌なども記にみえたり。本文にいはく、
建仁元年十月十五日午刻計、著㆓発心門㆒、宿㆓于南無房宅㆒、此道常不㆑具㆓筆硯㆒、又有㆑所㆑思、未㆑書㆓一事㆒。
此門之柱始而書㆓詩一首㆒。〈門之巽角柱閑所也。〉
慧日光前懺㆓罪根㆒ 大悲道上発心門 南山月下結縁力 西刹雲中弔㆓旅魂㆒
いりがたきみのりの門はけふすぎぬいまよりむつの道にかへすな
又南山の御逗留のうち、御狩とやらんの御留守にさぶらひて、
旅亭晩月明 草寝夏風清 遠水茫々処 望郷夢未㆑成
おもかげはわが身はなれず立そひてみやこの月にいまやねぬらん
これのみならず、定長入道寂蓮をはりけるにも、黄門悲歎の言葉一段をかゝれ侍る。是また殊勝の事也。
建仁二年七月二十日午刻計、参㆓上左中弁少輔入道逝去之由㆒、其子天王寺之院主申内府云々、未㆓聞及㆒歟。聞㆑之即退出、已依㆑為㆓軽服之身㆒也。浮生無常雖㆑不㆑可㆑驚、今聞㆑之哀慟之思難㆑禁、自㆓幼少之昔㆒、久相馴而既及㆓数十囘㆒、況於㆓和歌之道㆒者、傍輩誰人乎、已以奇異之逸物也。今既帰㆑泉為㆑道可㆑恨、於㆑身可㆑悲云々。
玉きはるよのことわりもたどられず思へばつらし住よしの神
此ほか自記のうち、釈典の図などまで叮嚀にしるしおかれ侍り。いとこまやかなる事、今尤世のかゞみとなれり。いみじきふるまひなり。往歳いつころにや、仙洞参仕の人々おほくあつまりて、酒茶をたのしびて、いろ〳〵の清談はじめられけるついでに、ある人の申されしは、定家卿はよろづにするどのふるまひをせられて、我はわれ人は人なる心ばえありと見えて、其世の人々どもおほくはこゝろよからざる聞えも侍り。その事のよしあしはまさしくしるしたる文も見あたらねば、しれがたく侍れど、今しばらくしりぞいて愚案をめぐらし侍るに、人々のふるまひはいざしらず、定家においてはすげなくしてそひよりもなく、礼義もするどなる事あきらけし。その故は、人としておほくしれる内、一人二人などは中あしききこえもある物なり。是いまの世の人々にもあるべき所なり。定家卿は其ころの人みな下心にあしさまにもおもへりといへり。是黄門のふるまひ足らざるがいたす所なり。いかんぞ【 NDLJP:195】黄門一人に与して、多くの人を悪しといはんや。是正しき証拠なりと申されけり。予其傍にありて申しけるは、尤も理はきこえて侍れど、またさにもあるべからず。其故は唐我朝の間に、昔より至人名士の挺生せるに、其世の人々おほくそしりきらふためし侍るといへり。是外事をそしりていふにあらず、皆その盛徳技芸の、おのれがちからに及ばざる所をにくみてそしれり。其技能を誹れる人ありとて、一概にその一人をあしきともさだめがたし。西天にもかやうのためしあるべけれど、それはいとはかなの間なれば、たづぬるにいとまあらず。もろこしに至て、まさしく唯一不双の孔子をそしれるものもありとみえたり。仲尼は聖人なり。そしれるものは悪賊なり。孔子仁義をいたきて世のさま貧欲攻伐のふるまひになり行をいたみて、彼らにしめさんがために、あまねくくに〴〵をめぐりたまひしを、さまざまにさみして、おのれをしらずなどいひし人もありと云り。此そしり他なし。唯その聖徳のわれにあたはざるをもつて也。仲尼はて給ひてのち、かやうの例おほし。又扁鵲といふ人自然に医の四智を得て、みな人のやまひなさとして年寿長短の未然をきはむるほどの此技能によりて、秦の大医の令李害といふものにころされけるよし、史記にも侍るとかや。此殺害も他事にあらず。彼いみじき芸能のわれにあたはざるをにくみてなり。すべて和漢両朝のあひだ其才芸によりて、あるひはころされあるひは遠つ島へうつされ、あるひは讒せられ侍るためし多く侍るとみえたり。今黄門在世不快の人をはかるに、そしれる事他にあらず、和歌のたくみなるによりてなり。しからば名歌によつてそしらるゝは、定家卿の身においては規模なるべし、いかゞ侍らんやと申ければ、人々さもいはれたりなとさだめあひたまひける。
みづからいみじきとおもへるものがたりも、人おほき中にてははるかにおとれるものなり。予むかしをさなく侍るころ、ある
殿上人のもとへまかり侍るに、あまたの人々よりあひつゝ
詩歌の
褒貶などさだめあひて、いづれもかしこく沙汰せられ侍りけるが、後には例の酒宴になりて、かまびそしくなりけり。これもしばらくしづまりつるまゝに、予申し侍るは、此程めづらしき事を承り侍る。物がたりして、人々に興じさせ侍らん、きゝ給へ。東福寺なにがしの長老がめしつかひける小僧、あるものゝ方へまかり侍るに、亭主たはぶれて、さても美しき御僧に侍る。むかしよりおほくの僧たちを見来たるに、いまだ貴僧のごとくなるよそほひをみず。又俗中にもたぐひなかるべし。是かならず
親父御母儀の間すぐれたる器量なるべし。いみじき御むまれつきにも覚え侍る。御僧はそも御親父の子にて侍るやらん、御母
儀の子にておはするやらん、こまやかにうけたまはりたき事にて侍ると申ければ、小僧申けるは、仰かしこまり候。まことにいやしきむまれつきにて侍れど、今さらせんかたなく侍る。しかるを御褒美にあづかる
条面目とや申さん、又恥辱とや申べけん、いづれにわかちがたく、扨仰られ候御返答申べく侍れど、すこし又うけ給はり度事も侍る。先これをとひ奉りて後申侍るべしとぞ。手
【 NDLJP:196】をうちて、此鳴りたる方は右の手にて侍るやらん、ひだりの手にて候やらん、仰きかされ候へと申ければ、亭主それはふしんも待らぬ事なり。両方の手をうち合ひたるひゞきなり。右の方にも侍らず左の手にても侍らずと申ければ、小僧さればこそ、さきに仰らるも父が子か母が子かと御ふしんあるも、かやうのたぐひなるべし。父母まじはりての子也。ちゝ一人の子にもあらず、母一人の子にも侍らず。かたちの善悪は父母にたづね給へと申侍るまゝ、亭主もはたとつまりて、これはやんごとなき返答也。尤至極の御ことわりなれとて、感じ入てもてなし侍るとかやつたへ承り候とて、語りければ、座中の人々も、をかしき物がたりをもせられ侍るものかなとて、わらひあひ興に入られけり。又かたはらよりある人の申され侍るは、勿論一座の興にて、をさなき人の物がたりにはいみじき事也。されど、かやうの例はいにしへより侍るとみえたり。そのかみ世尊西天に出生まし
〳〵て、おほくの御のりをとかせたまひ
衆生を
済度し給ひければ、彼
外道魔族のともがらひとつにあつまりて、
瞿曇沙弥がふるまひいとにくき事也。いかにもしてめづらしき事をとひかけて、そのこたへにつまりたらば、彼法をやぶらんと議したり。その中にかしこき
外道人すゝみ出て申けるは、よき御はからひ也。それがしにまかせ給へ、やがて彼法をやぶり侍らんとて、いきたる小鳥を壱羽手ににぎり、釈尊の御前にてかの小鳥を手ににぎりつゝさしいだし、此鳥はいきて侍るか御あきらめ候へ、若相違あらば難義を申かけんといひければ、世尊つく
〴〵と御らんじて御返答もなくして、門の口へ出たまひ、しきゐをまたげさせ給ひて、いかに
外道、唯今われは門より外へ出るものか、門より
内へ入る者か、よく工夫して申すべし。若それに相違あらば、大きにわざはひをかうぶり侍るべしと申させたまひければ、さしもかしこき外道なれど、此世尊の御ふるまひを見て、さらにこたへにもおよばで、いづくともなくにげ去り侍るとかや。まへに外道の手をさし出し、鳥は生きたるか死たるかととひ侍るは、
如来もしいきたるとこたへたまはゞ、此鳥を手の
内にてしめころして、是が生て侍るかと世尊をつまらせ申べし。又死したりとこたへ給はゞ、則生ながらさし出し、是が死して候かといづれのみちにも返答あらば、我が方が勝たるべしとおもひはかりてとひ奉る。是外道のたくみ侍るかしこき所也。されど三世
了達の如来なれば、かほどの事いかであぐませたまふべき。終に返答もあそばされず門のしきゐをまたげたまひ、内かそとかととはせたまへば、たちまちおそれてにげ去りけるとかや。外道もし内へ入給ふといはゞ、片足を出して是が内入るかとこたへたまふべし。又外へと申さば、外のかた足をうちへ入させ給ひ、是が外へいづるものかと、御こたへあるべきためなり。これ世尊の御はからひなり。此ふるまひをさとりて逃げたりける外道もいとかしこし。かやうのためし仏書にも侍り。さきの小僧のふるまひも、かゝるためしのはし
〴〵をきゝつゞりて、こたへ侍るにやと申されければ、座中の人々これは
〳〵と
大汗をながし、
感情しばらくやまざりけり。みづからをさなごころにいみじく思ひしものがたりも、いたづらになりて、はづかしくはべれど、またその恥によりて、大きなる徳もうけたまはりまうけ侍
【 NDLJP:197】りし。
あるひとのいへるは、大こくとえびすと対して、あるひは木像をきざみ、あるひは絵にかきて富貴をいのる
本主とせり。世間こぞりて一家一館にこれを安置せずといふことなし。但しえびすの事は其本説もありとみゆれど、大黒といふ事、いづれの比よりいはひそめたりといふ本説たしかに見侍らず。ことわざにいふ説はまち
〳〵なれども、多くはみな
虚説にしてもちゐがたし。此事いぶかしく侍る。そのうへ世にえびす大こくといへば、
蛭子と対するいはれもありけるにやといひ侍るに、又あるひと来りていはく、尤いはれありげに侍る。以往に兼倶が説をうけたまはりしに、大黒といふは、元
大国主のみことなり。
大已貴と
連族にして、むかし天下を経営し給ふ神也。大已貴とおなじく天下をめぐりたまふ時、彼大国主ふくろのやうなる物を身にしたがへて、其中へ旅産をいれて
廻国せらるゝに、その
入物の中の
粮をもちゐつくしぬれば、又自然にみてり。それによりて後世に福神といひてたふとむは此いはれなりと云々。しかうしてそののち、弘法大師彼大国の文字をあらためて、大黒とかきたまひけるといへり。しからば、
蛭子とは本一族たれば、対するいはれなきにあらず。福神とあがめはじめたる、はいづれ世より、誰人の
濫觴といふ事はしらず。大黒と文字をあらためられしは弘法なりといへり。是兼倶が説なりとかや。
又近代民家の町をみるに、僧俗のわかちもみえぬもの、淡島の
本縁をいひ立てすゝめふれてありき侍る。その
利生をきけば、
女人腰下のやまひにかぎりたるやうにのゝしれり。甚以てをかしき事也。されどすこしはその拠もなきにあらず。淡島といふはすくなひこのみこと也といへり。神代医術の御神也。くらまのゆき大明神、五条の天神、あはしまは皆一体の神なるよし分明なり。しからばかならず
女性のこしけにはかぎるべからず。男女諸疾の平復をいのらんにかならず
利益あるべし。ことに末代医術を習はんものは、皆此神を尊崇すべきことなり。
去る永正年中に、山しろの国大住といへる里に藪くすしあり。宿願の事ありて、五条の天神へまうでて通夜しけるが、夢に老翁きたりてつげていはく、皆以神慮にあたはず。但しいまよりのち医の道をいよ〳〵はげみて、第一民俗を不便せば、漸々にして家門さかゆべしと云々。夢覚て御示現あらたなりと思ひ、神託のごとくにつとめければ、益々門葉しげくして、財宝所せばしといへり。是うたがひなき事なり。
中古天下に徳政をいふふしぎの法をたてゝ、我がまゝをふるまひきたれり。その
起りをたづぬれば、世のみだれうちつゞき、
軍産とぼしき故に、かれこれの商人職人の金銀をうばひ、あるひは借りとり
【 NDLJP:198】てそのぬしにかへさず、さればとて此事おとなしからざれば、彼の人のきく所もうとましく思ひて、よりより此法をおこなふ。たとへば、かりたる物はかしぬしのそん、かしたる物はかり主の徳となれり。これを一
国平均の
徳政といへり。我国神代よりこのかたかゝる無理なる法をきかずといへり。此事公方にはしらせ給はず。彼三職のごとき人のふるまひなりといへり。やゝもすれば、これらのともがら
家督をあらそひて、恥にもならぬ事を一家の恥辱なりと号して、唯今まで無二の親しき中も、たちまち
虎狼のこゝろをさしはさみ戦におよぶ。さればとて、その
張本のともがらばかり討死にするにもあらず。それ
〴〵の家の子郎従をひきゐて、おほくる人をそこなはしむ。是ふびんの事なり。およそ武勇人の戦場にのぞみて、高名はいとやすき事といへり。されどかたきながら見しらぬ人也。又主人のためにこそあたならめ。
郎従下部ごときに至て、いまだ一ことのいさかひもせざる人なれば、あたりへさまよひきたる敵も、わが心おくれてうちがたき物也。とかく義ばかりこそおもからめ。その外は皆ふびんの心のみおこりて、おほくはうちはづす事敵も味方もひとし。又戦場にいたりては、いかなる白日晴天も
朦朧とくもりて物のわかちも見えがたく、扨漸々たゝかひつかれ、日もくるればたがひに幕のうちへいりて、けふは
先いきのびたりなど大いきしてやすみ、しばらくこゝろもしづまりぬれば、故郷のちゝはゝ妻子の事を思ひ出し、又唯今夜討もや来るらんと心いそがはしく、いさゝかもゆるがせなる間なしといへり。近比軍に出でし武士かやうの物がたり申侍しが、尤さもあるべき事也。しからば足もとの敵をも、うちはづし見はづし侍ることわりなり。されば大人はおほかたのはぢにはこらへて、たゝかはざるがおとなしく侍るべし。これしかしながら、おほくの家臣
僮僕のためなり。中昔よりさまざまのいくさうちつゞきて、いたましき事のみおほし。其つひえをおぎなふものはたれ人ぞや。皆
竹園、
椒房、
出世、
坊官、
商人、
村民、
所持のものなり。いにし比より将命
御教書をわがふもの、武家の外おほくは先徳政たりとも不易たるべきのよしを、第一にねがひのぞむとみえたり。たとへば、今度何々品に就て
粉骨をぬきんで御馳走申上は、たとへ徳政の法度これ有といふとも、御下知のむねにまかせて、買得分の田畠並借けす、米銭、しち物、預り状、永地之事一切改動あるべからず。
若相違犯の輩於
㆑有
㆑之者、成敗を加ふべきの状、仍如
㆑件。およそかやうのたぐひおほし、又ある人の申けるは、去る文明の比の徳政に、をかしき事ありしと申つたへたり。其の比三条五条のわたりに、おほくの旅人とまり侍れば、にぎはしかりけり。此折から徳政のふれちかくあるべきとの風聞しけるあひだ、亭主の町人よきついでなり、たからをまうけ侍るべしと
工みて、かの旅人の所持の物をいち
〳〵見て、このわきざししばらくかしたまへ。此つゝみたる物は何にて侍るやらん、くるしからずばかし給へと申けるあひだ、旅客此事たくみていへるとは夢にもしらざれば、やすきほどの御事なり。御用に立ん物は何にてもかし申べしとうけがひける間、おほくの旅民の
所持の具どもに、皆かし給へといふ一こと葉をそへたり。かくのごとくして、一両日もすぎ侍るに、案のごとく、公儀よりのふれなりとて、貝を
【 NDLJP:199】ふきたて鐘をならして、辻々に
徳政の
御法度ありとのゝしりける。そののち彼亭主旅人をあつめて申けるは、さて
〳〵うとましき事をも申かけ侍るものかな。此徳政と申はかたじけなくもうへさまよりの御触也。此下知のこゝろは、何にてもかり侍ると申言葉をかけたる物は皆かりぬしへたまはり、かしたる物は皆ぬしのそんにて、天下のかしかりを平らかにひとしくせさせ給ふ御法なり。されば此ほどかし給へと申物は、皆此はうの物なり。是わたくしならず。則唯今の御ふれこれなりとさもきら
〳〵しく申けるに、旅人は何のわきまへもなく、これはいかなる御ふれぞとばかりいひて、人々目を見あはせ
仰天してとはうにくれて居たり。中にいとこさかしものありて罷いでて申けるは、よし
〳〵たがひにくるしからず、うへさまの御ふれそむき侍らず。かすべしと申したる物は皆そのはうへとりたまへ。但し此ふれにつきていたましく思ひ侍る事あれど、それも是非なし。かりそめに貴殿の御やどをかり侍る事是時節也。今さら此家をかへすべき事に侍らず。さればむかしより久しく所持したまふ家なるべけれど、折あしく惜りあはせ、妻子
所従ひきつれたちのき給はん事
笑止に侍ると申せば、亭主もこれは理不尽の仰にて候とあらそひけれど、とかくわたすまじといへるあひだ、かれこれ大事になりて、
奉行所へうたへ侍るに、家主をめされてにくきふるまひかな、いそぎ立出候べし。厳重の
捌なれば力およばず大かた家をとられて、いづくともしらずのき侍るといひつたへたりとかたり侍し。家主がすこしのよくにふけりて、あさましき目にあひたりとて、その比天下の口にわらはれしと也。
【 NDLJP:199】
巻第五
去る江州一乱の時、浅井のなにがしといへる者、落むしやとなりてひえの山の
雲母坂をくだりて京へおもむき、ふしぎのものにあひたりといへり。老人とみれば、又にはかにわかくなり、若くみれば又
忽然としてしわよりてみゆ。一さい人にして分明ならぬくせものなり。浅井にかたり侍るは、そのはうが家かならず末さかえて貴族の名を得べし。たのもしく覚ゆべし。つゝしみなくば又うれへもあるべしなどいひし間、浅井なにがしちかくよりてかたらんとすれば、立どころにきえ
〴〵となりてうせにけるとぞ。
みだれたる世には、かならず魔障ありといへること有り、かやうのたぐひなるにや。されど此くせ者はよき事を申侍れば、たゞ物にはあらざるべし。
先亡藤原某卿は、近代に名高き
能書也。彼家にても行能以後の名翰也といへり。これによりてかなたこなたよりさま
〴〵の文字をたのみきたりてかゝしむ。ことに額を
書るに妙処ありといへり。凡すこしきの芸あるものも、人これをもてはやすれば、はやその芸を
自負して、人々にとやかくとむつかしく
【 NDLJP:200】やすからぬ事におもはするはつねのならひ也。されどおほかたはいやしき人のする所なり。此藤原卿はしからず。天性心かろき人にて侍りければ、何事によらず人のたのむほどの事すみやかに達せられ、ことに文筆の望みあるもの来れば、それに待給へとて、時をうつさずかゝれ侍る間、
結句人おほく崇敬して、弥々名もたかし。一日或人来りて、
慧日寺といふ三字の額を所望せり。彼卿やすきほどの事なり、それにまちたまへとて、件の三字をならべ書て出されければ、所望の人申けるは、つたへうけ給はりしにまさりて、いとありがたき御ふるまひにも覚え侍る。ことに見申せば、
客殿に御人の声も多くきこえ侍る、はかりたてまつるに
御珍客と覚えて侍る。しかるを今日始めて
御見参に入、ことにむづかしきしなをたのみたてまつる事、
以外の
率爾にも思奉れど、こと人はたのみ奉るに足らず。とかく時うつりまかりすぎ侍る処に、今早速に御筆をそめ下さるゝ事、
言語道断かたじけなき仕合に思奉り畢ぬ。その上此三字は
字画に甲乙御座候。しかるを慧日寺と三字並べさせ給ふに、いづれもひとしく見え侍る事、はゞかりながら古今にためし少く思ひ奉る。是も又
堅額にあそばされば、文字の甲乙もあながちめにも立まじく思ひたてまつれど、それは
勅額の外にはあそばされがたく侍るやうにつたへうけ給はり候。いづれの文字にてもあれ、横さまにならべさせたまふ事いとやすからぬ御事にも思ひ侍ると、さま
〴〵のこと葉をそへて褒美しければ、あるじの卿、それはさも候はめなれど、我らごときものゝ
書字のふるまひいと
面つよき事にも侍る。されど所望のうへといひ、又いやしくも其家なれば、身の
堪否はぜひなく侍る。およそ筆翰妙絶の人は、
字画にきらひなく侍るやうにうけ給り侍る。それぞれの文字は画おほく、その文字は画すくなく、あるひは文字のとりあひあしく、あるひはそれがしが流義にかやうの筆をもちゐ侍るなど、さま
〴〵の秘伝をそへて自負するものあり。是至れる人とや申さん、又つたなきとや申べし。かやうの事、予は取らず。いかほどに姸をとりてつくろひたりとも、其人のたけならでは見え侍らず。とかくむづかしき品を添侍らずして、
器のまゝにやす
〳〵と書たるがよろしかるべし。高野大師の御筆跡をうかゞふに、さま
〴〵の
異体をまじへさせ給ふ中、ことにふるくちぎれたる筆にてあそばしめ給ふとみゆる文字は、猶
筆骨のやんごとなき品あらはれ侍りて、いみじくまねもなりがたく侍る。畢竟文字の大小にかぎらず、器のおよぶほどに書侍るがよしと承り侍る。今慧日寺の文字をならべたるが書にくしといはゞ、もし又明日一峯寺といふ額を望む人あらんに、いかゞはからふべきかと申されければ、まへの所望の人も口をつぐみて、
感涙をながして退出し侍るとなり。
能書の人なればにや、をかしきこたへをもせられ侍ると人々甲ける。在世に多くの額をかき侍るに、皆いみじく人のもてはやし侍る。やんごとなき人なりしとぞ。
先将軍よしたね公は、御こゝろ正直にしてやさしき御生れつきなり。武臣家僕のともがらは申におよばず、公家の人々へも心をくばらせ給ひて、不便せさせおはします。されど乱世の国主たれば、将軍
【 NDLJP:201】の御名ばかりにてよろづ下ざまのともがらはからひて、上意と号して我まゝをふるまふ間、これによりて御科なくして、人の口にかゝらせたまふ事もいさゝか侍りし。このゆゑに武臣のつみを大将軍へうらみて、いよ
〳〵騒動もしづまりがたしとみえたり。近比公方の御ありさま見奉るに、将軍は一ヶ寺の長老にて、武臣は其
塔頭の寺僧のごとし。長老は貴とけれども、寺僧よこたはりて住持をもどき侍りて、我まゝを行ふ
風情なり。或時大納言なにがしをめされて、閑所において御
談笑ありし次でに、仰られけるは、およそ大人は書籍をみるにもとばしからず、天下のひろきをも一瞬に見る事かたからず、よろづ心にかなひて、四海のぬしたれば、おほくの人民日々にいたましき事をうたへきたるに、その事耳に入て不便なれば、まのあたりならねば、あながち身にしみたる哀みもなし。
畢竟我がくるしみにあはざるものは、人のかなしみをしらざる也。われ一とせ政元が事にくるしめるにより、下民のいたはりを思ひなぞらへ侍る。是死を恐るゝにあらねども、ちかく
方人のなき折ふしは、心ばそきものなり。
鰥寡孤独のもの平生ちからなくおもはん事おしはかれり。慈悲の心なきものは、いけるかひなし。いはんや天下をしらんものをや。第一不便を先とすべき物なり。つら
〳〵古今をかんがふるに、泰時、時頼は唯人にあらず。我朝の武賢といはんはかれらがふるまひたるべし。予壮年よりつねに下僕を撫で匹夫を憐れむ心のみあれど、我身さへ心にまかせぬ世なれば、事行かでうち過侍る。いましばし世のさまをうかゞひて、我志をとげまくおもふ事侍れど、月日は逝ぬ、年やうやくかたぶき行ば、終に其思慮を
空しうして、いきどほりを
泉下にとゞむべしと思へり。人々も
当時衰朽の身なれど、みづからを察して心をあきらめらるべし。一日もいけらんうち、身に応じて人を扶助し給べしと、しめやかに御雑談有ければ、彼
亜相もつら
〳〵上意をうけたまはりて、かりぎぬ袖をしぼられ、とかうの返答もなかりしとかや。まことに大樹の身としてかゝる御心ばへ世にありがたき事に侍る。ゐなかへうつらせたまひしのちは、貴賤みなくらきともしびのきえたるやうに思ひ侍り。その折からも人々へ御いとまごひありて、おほせおかれし事は、皆やさしき御ふるまひなりと、今の時まで申出し侍る人おほし。
いにしへ細川武蔵入道常久は、知仁勇の三徳を兼備して、四海第一の勇士なりといへり。いつの比なるにや、
鹿苑院殿月見の御会のむしろに
候して、君にあらっけなきいさめを申されけるに、公方しばらく御ふくりふまし
〳〵て、
御勘気のきこえありければ、頼之も仰のむね至極して、是非なく外国へ
蟄居し、後に入道して常久とは申けるとぞ。其後又
宥助ありて、ふたゝび執事の職に任ずる事諸書のつたへ皆異儀なし。されど此事につき甚だふかき意味ありといへり。そのゆゑは頼之はよしみつ公御幼稚のむかしより、天下の
執権をうけ給はりて四海の骨肉たれば、其威勢日々に重畳して天下の尊卑こと
〴〵くかれが為に
媚をなし、奔走する事なのめならず。しかりといへども、頼之嘗て身の為に驕りをなさ
【 NDLJP:202】ず、
庶民を撫育してます
〳〵忠烈をはげます。このゆゑに公方の御威光は、蛍火のごとくにして、執事の栄光は大陽世界をてらすがごとし。さるによりて執事つら
〳〵思慮をめぐらし、君臣
礼節の
工夫昼夜におこたる事なし。
ある夜深更におよびて、ひそかに御座ちかくしかうして、近習の人々を皆ことごとく退かしめて、御ひざ元まではひよりて、さゝやき申上げられけるは、いま疋夫尺寸の忠義をつくすに、身に取りて過分のいきほひあり。是しかしながら、君恩のおもきがいたす所なり。しかりといへども、伏してこれをおもんみるに、臣として君候の寵遇にあまり、衆輩皆我を尊敬せば、君いましてなきが如し。久しき時は終にみづから身を恥かしめて、そしりを人口に残する時いたるべし。遠くおもんぱかるに、臣たるの道、今尤しばらく偽りて身を恥かしめ、蟄して君の御思慮の深きを諸人にしらしめば、君臣の道熟して節に当るべし。君と偽りはかりて、次であしくあらけなきいさめを申上べし。その時御勘気の美談厳重におほせ下されて、近習外様の大名、高家、頭人、評定以下のものまでも、臣をはづかしめ給へる御よそほひをあきらかにしらしめたまふべしと、君臣合体の佯諾をきはめて、右の御勘気におよぶといふ事、たしかに天龍相国の記物の中にみえたりと云々。事実においてはむかしより今の世までのあひだにためしなかるべし。およそかやうのふるまひは、正成か頼之ならではおよぶまじき事に申あへり。
東福寺の虎関禅師の門弟の中に、いときようなる僧一人侍りて、此人後には碩学のほまれもあるべきと人みな申あへり。ある時
学窓の中にて道家の書の程をねんごろに見侍りて、是ならではと思ふ
気色見えけるを、虎関すき間より見給ひて、よびよせていはく、およそ大きなる学問になさんこゝろざしあらば、必いづれのみちにてもあれ、注解になづみて是に時をうつすべからず。彼是に時うつり行ままに、終に老年におよぶ。先づ
初心のもの注に日を暮さずして、五経、三史、孔孟の
経伝をよみて、大やうその理をあきらめたるにおいては、それよりひろく何にても益ある文をみるべし。それ
〴〵の文の中に、深き意味ありて、師伝をうけずしてはみづから
解しがたき所あらば、その処はうかゞふべし。大かたの事のしれがたき所はすておきて、先へゆけば其理つひにはとけぬべし。かならずこゝもとの詩文のはしのすこしきをあぢはひて、それに時刻をうつせば、大なる道なりがたし。大功は細きんをかへりみずといふことわざをわするべからず。此文の中のそこ
〳〵には
解しがたき所あり、かの詩文のいづれのことばはおぼつかなしとて、日をくらすべからず。文をおほくみれば、おのづからひとりしらるべき事也。始めより一枚二枚のふみにても、のこらず
見解せんとする事なりがたかるべし。功をつもればおのづからことわり分明なりと申されけるとなり。ひろく名をあらはす人は、各別の意味ある事にぞ。
【 NDLJP:203】
むかしの武士のかける文は、いさゝかの事にもやさしく、文言がちにて義理をこめてかきたりとみゆ。今の世の文はしからず、多くはわらはべのふるまひのやうに覚え侍る。一とせみづからひそかに東国へおもむき侍り、
筥根権現にまうでて来由をたづね侍ると、弘法大師四体の経文、たかむらが書など侍り。其の中に曽我の五郎時むねが在世に、当社の近辺失火におよびける折から、とぶらひ越たる文とて侍る。
その文にいはく、
夜前之隣火忽消訖、貴寺安全之悦、千万々々、委曲期㆓面謁㆒而已。
此事ばかり一紙に書て名乗をかけり。外の言葉をまじへざるは、尤しかるべきふるまひなりと覚え侍る。扨彼山はいと長々しき坂のみありて、かちより行くにかなひがたし。おほく人夫をやとひて往還の人路をしのぐ。予微僕して此小路に草臥侍るまゝ、此わたりの人三四人やとひ出して、これらをちからとして坂道をよぎれり。道すがら夫は何ものぞ、此近所の農人かと思ひ侍れば、さにあらず、御はづかしながら、皆当社職のものにて侍れど、社はむかしより衰微して、神職のものは子孫はびこり申間、田畠の所務ばかりにてはくらしがたく侍るにより、往来の夫力になりて渡世つかまつり侍ると申ける間、いとかなしかりき。それよりかちより行て、かの夫をなだめ侍る。乱世つゞきたれば、当社にかぎらず世皆かくのごとし。我国にむまるゝもの第一神社を崇敬する事をわするべからず。又先年田舎にて楠が文なりといひて、書とめたるを見侍り。
急投㆓飛戟㆒述㆓思懐㆒候訖。然者頃尊氏直義起㆓鎮西㆒発㆓蘇軍卒㆒、羣勇三十万騎而、分㆓列於海陸二道㆒、近日責上之風声流聞矣。於㆓事実㆒者天下之大変不㆑可㆑延㆑時、因㆑之馳㆓向于兵庫㆒、可㆓防戦㆒之旨、勅宣太以急也。正成情傾㆓軍慮㆒計㆑之、官軍微卒而何豈当㆓大敵㆒哉。依㆘屢雖㆓諫奏㆒、君曽而無㆗御許容㆖、空垂㆓涙痕㆒、今日発㆓京師㆒、赴㆓戦場㆒畢。嗚呼懸㆓命養由之矢前㆒、比㆓義紀信之忠㆒、欲㆑致㆓戦死㆒之条無㆓他事㆒、亦又元弘中自㆓
天子㆒
御勅与㆑之、愛染明王為㆓子孫武運㆒、宜㆑安㆓置貴院㆒、路次迎仏之僧一人、到㆓于兵庫㆒、而可㆑被㆓差越㆒候。委曲期㆓其節㆒、可㆓浜説㆒者、謹言。
是は正成京より兵庫へ下りし比、菩提所の坊主のもとへ送りたる文とみえたり。此外の物どもしるすにいとまあらず。いとやさしきこと葉なるべし。
後観音院左大臣実宣公は、
利口無双の人にておはしけり。毎度をかしき雑談のみ申さるゝによりて、会合の人々も興を増して、いさゝかの事にも請待して侍る。去る比、ある亭へまかられ侍るに、其座
【 NDLJP:204】に一
向嫡流之僧堂々と座せり。左府の入来をみてしばらく座をくだりて、
慇懃の法を謝して侍りけるに、左府今日の参会たま
〳〵也。折から乱世うちつゞきて、我輩つねにせぐくまり侍れば、退屈申計なし。唯今は無礼講のむかしをうつして、やすく対談申べしとて、
平臥のさまにておはしければ、彼僧もくつろいで侍る。左府のいはく、昔より今にいたるまで、おほくの
止事なき品々もほろびうせて、跡かたなきもまた侍れど、仏法のみさかんして、いかなる
横逆のものも、おそろしくいさめる心をしづむるには、仏道なり。まことに此国にかなひたる道にや、末ほど繁昌せり。たとへ一宿の旅人にも先
宗門はいかやうの法をねがふなどといひてとがむ。いはんや外国のもの他しよにすみ侍るには、いよいよ吟味せるとみえたり。扨々やんごとなき事に侍る。ことに御僧の
法流は事すくなくして、卑賤を度するに道ちかく覚え侍るなど
挨拶ありければ、彼の僧まことにおろかなる宗門にて侍れど、末世の人の
無機根なるには
相応して侍ると覚え候。すべて仏家には道ひろく事おほくすゝめたるは、
濁世にはかなひがたく、名のみこと
〴〵しくて
悟道の人すくなし。我
宗は
法然の支派にてよろづ愚にかへりてまことをすゝめしむ。
弥陀一仏の外神といふも仏と申も、しんらまんざうおしなべて雑行と観じ、
雑修と号して余行をきらふ。今
人界へ生をうけ侍るは、
如来恩徳なり。此故に人生をうくれば
後世成仏勿論なり。されば在世に申念仏、おほくは
報恩謝徳にして、あながち未来のためにもあらず。今如来の恩救報じがたきのみをなげく、なんぞ其あまりの品をもちゐん。念仏に
万象をこめたまへば、雨ふらばふれ風ふかばふけ。此念仏をさへ申せば、外に味なし、おそるゝ所もなし、あやしむ事もなしとすゝめ侍ると、一流のしなをつまびらかにして義をつくされけり。
左府微笑して、まことに
弁語分明にして、
勧化殊勝の事に覚え侍る。みづからも此一宗に心をよせ侍れど、世々
相続の
宗門なれば、今さら受法せんも事あたらしく、且は親族の所存もはかりがたし。しばらくやみ侍る。扨万法を念仏にこめ、
余行をきらひておそるゝ事なしと承るに、いさゝか不審あり。品によりていかにもおそるゝ事も侍るべしやとのたまへば、彼僧何をかおそれ何をかおぢ侍らん。念仏にこめ候物をと申されければ、又左府の申されけるは、いや
〳〵しからず、いつぞや門前を通り侍りてみれば、寺のうしとらを恐れて
在家のごとくにかきて侍る。是則
鬼神明霊のたゝりをおそれてしかある事也。すでに世間にひとしくかき用ふる
鬼門は
雑行なるを、是計をもちゐらるゝは私なり。雑行雑修のことわり立がたしと申されければ、かの僧もことばなくして、外をかへりみて他のうはさを申されける。座中の体をかしく侍りし。
此左府一とせの夏、妙法院の
招請によりてまゐり侍られけるに、其座にやん事なき人四五人もおはして、
連歌囲碁などなぐさみ給ひける。その日あしたよりいとあつくしてたへがたければ、人々なぐさみのしなもとりおきて、後には只物語のみになりけり。日中に少しかたぶきて、
乾の山頂より雲おこ
【 NDLJP:205】り出て、すでに四方の空くらくなり、いなびかりしきりにして、いかづちのこゑおびたゞし。後には
闇夜のごとくに成りていぶせくおそろしかりければ、人々興さめて、四方をながめたるよりほかはなし。
他所より御見まひなど人はしかゝるほどにて、そこ
〳〵へおちたり、こなたへもおちたるなり、此御所にはかはる御事もなきかといひて、下部やうの者もしばらくさわぎもしづまらず。天やうやくはれたるまゝに、
御門主庄客おしなべて、さて
〳〵今日の夕雨いかづちのおそろしさは、近年ためしなき御事にて侍ると雑談ありしに、ある人末席より出て申されけるは、そも
〳〵いかづちと云事、さまざまの説おほく一決いたしがたきよしに侍る。あるひは天地の
陽火はなはだしきがゆるに、自然と雲気
湧出してとゞろき、あるひは金を焼て水中に入れ侍るごとくといひ、雷神はいづれの世にはじまり、
稲光は東王公が
所為なり。あるひは仏家にさま
〴〵の説を立て、又あるひは中天にけだ物ありて、
陽火におどろきおつると云々。かくのごとくさま
〴〵の説あり。
畢竟いづれにてもあれ実は火なり。おちたる所をみれど、ちやうちん鞠の勢なる火の
転びはしるのみにて、外はみえず唯くらき計也。そのうへ天地自然の
猛火なれば、えんせうの薫りのごとくして、こげたる物のにほひなり。
陽火たかぶりて水すくなきゆゑに、其平を得ずして鳴る。鳴る時に中天のけだものおどろきて雲間よりふみはづしおちたるとみえたり。此説さもあるべきと申ける人ありしに、かたはらより又人出で、
天地極火の説聞えたれども、けだものなりといふ事
得心なりがたし。いかにたけき獣なりとて、火の中に住むべきやうやある。そのうへ
屋舎樹木へおちてなに
〳〵の物をつかみたるといふは非なるべし。極火盛なるがゆゑに、此火にふれたるものつかみさがしたるやうに、恐ろしくみゆるなるべしと申されければ、此義げにもなるべしやなど、さだめありけるに、左府申させ給ふは、いかづちの事にかぎらず、かやうの類の目に見えぬものは、
先むかしよりあるものなりと計こゝろえ侍るべし。さま
〴〵のことわりをそへたらんに、たれか此批判をわくべき。これも一説也、かれも一説也と見て、実はきはまらざる物也。すべて何によらず、説々多き事は其実体しれがたきが故に、さある事なり。
猛火の中にけだものあるまじとも申がたかるべし。つたへきく肥前の国いづれの山とやらんに
熱泉ありといへり。此湯のあつき事たとふべき物なし。大魚をくさりにてつなぎ、彼湯に入て引上るに、その魚骨肉のわかちもなく
飴の如くに解くるといふ。あつき程は是にて了簡すべし。彼
無間の釜の湯も人を解き侍るとはうけたまはらず。しかるを此熱湯の上に、ほたるのごとくなる虫ありてうかびありくと云。是外の虫いかでか彼熱泉にすむべきなれど、又其熱泉より湧出る無分別の虫もあればぜひなし。いかづちをけだものなりといふも、一概にいなとも申されまじ。天地
極火のあつき中にも、
嗚呼のけだものありて住まばせんかたなし。かやうのみえぬ所のあらそひは、おほかた弁口のたくみなる人の方へ、理も付もの也と申されければ、をかしき事をものたふなど、人々
興じたまふとなり。
【 NDLJP:206】
高武蔵守師直が婬欲為盤なる事をと〳〵書きしろして世に伝へたれ此外の不義はかりがたしとみえたり。ちか比ある武士、年久しく所持して侍るをかしき草子なりとて見せ侍り。その中には、師直が一生の婬事のしなを挙げて、同じく其女を記しとゞめたる物なり。始終見侍るに、世にいへる事は十の物二三ばかりなるべし。中々かたはらいたくにくきふるまひ言葉にいひつくしがたし。当代いささか遠慮の人々もあれば、其姓名をしるし其しなをあらはしがたき事も侍る。就中にくきふるまひなりと覚えしは、彼もろなほが家僕おほき中に、うつくし女房とつれたりしさぶらひをえり出し、その女房共のかたちをみんために、年五十ばかりなる女房したゝめ、もろなほ室家のきげんよろしき女房也と号して、かれらが方へ、何となくわたくしのとぶらひのやうにして、折々つかはしければ、なじかはほんそうせざるべき。主君御出頭の上らふの御とぶらひなりとて、やがておくの間へ請じ入れ、あるじの女房よそほひをかざりつゝ出てもてなし侍る。かくのごとくして彼よき女房の数を見つくし、もろなほに申ける間、師直よろこび、その後一両月をすぎてかれらが許へいひつかはしけるは、執事さまの御奥よりたれがし〳〵の内室に御用の事有り、はや〳〵まゐられて御目見えいたされよと、右の老女をつかはしける間、何の御用にて侍るやらん、かしこまり候と、いづれも御請を申て、皆師直が方へ祗候したり。けふはれがましき御目みえなりとて、われおとらじとかざり出たれば、彼周の褒姒、秦の花陽、漢の李夫人、昭君、貴妃がごときの美女、今爰に再現せるとあやしまれける。人々まばゆくして、彼女房どもの容貌を二目と見るともがらもなし。やゝありて、奥より申出侍るは、唯今大勢にて奥へ御目見えあるべき事しかるべからず。うへにも一人づつめしいだせと、御諚意ある間、いづれの御かたにても、まづ一人まゐらせたまへとて、かの女房の中ひとりをともなひ、奥の座敷へとほりける時に、師直奥と口との間に一間をかこひかくれ居て、彼女房の足おと聞とひとしくたちいでとらへて返し、あるひはけさうじなど尾籠をつくして、理不尽のふるまひなれば、女房どもゝ是非なく心ならずして、師直が所存にしたがひけり。かくのごとくして、おほくの女房とたはぶれつゝ、かへしけるとぞ。その時のさまさこそは物ぐるはしくことやうにも侍るべしと、かたはらいたく覚え侍る。女房どもかへり侍れど、かゝる事いひあかすべきにもあらねば、けふは御機嫌よろしといひつるまでにてやみにけり。その後は切々御めしあるといひてよびよせけるとぞ。唯此事をもらすべきにもあらねど、天しり地知り汝知り我しれりといふ本文あれば、なじかは四知をはづるべき。自然としてかの女房の夫ども聞つけ、何となくよりあつまりて議定しけるは、そも〳〵主君として臣を撫で、下として上に忠節を尽す事、古来人生の大倫なり。その間にしなありて、あるひはすこしきの扶助に身をかへ、あるひは大なる禄に命をうり、繁々のしなありといへども、その一命をたてまつる所の義は一なり。是によりて、いさゝかの騒乱にもいちはやく命を主君の前程にうしなひ、名を武口にとゞめん事を思へり。うちつゞき軍戦かまびそしく、人々胸をひやし侍る折からなるに、主従のへだてありと【 NDLJP:207】て、かゝるふるまひ狂人にもおとれり。そのうへ現当二世かけてちぎれる女房を、やみ〳〵ととられ侍りては武名乞食にもおとりて覚え侍る。人々はいかにはからひ給ふ。われ〳〵においては不日におしよせ腹きらせんと存ずる。すみやかに群議決し給ふべしとて、かたはらよりいきまきてのゝしるまま、一座のともがら尤と同じて、すでにおしよせんとざゝめきけるその中より、ある武勇者すゝみ出て申けるは、人々の奮激ことわり至極たり。されどいましばらく慮りみじかし。そのゆゑは此座中の人々の俸禄の甲乙ありといへども、皆主君奉公のともがら也。家人の妻子をやしなひ家僕をめしつかひて、主人に託して威を世上にふるふ事、しかしながら主君の恩沢にして禄のいたす所なり。妻子家僕は我が物なりといへど、其実は主人の扶助なり。しからば我らが女房は本主人のやつこにして、当時あづかりたりと了簡し、御用の折々は貢役勤仕と心得て侍れば、いさゝかうらみなし。かならずわが者と思ひとりたる心より、さま〴〵のわざはひいきどほりもおこる物なり。予がみにくき女房は、おのおのの内室以前よりめさるゝ事たび〳〵なれど、この料簡をくはへ侍れば、うらみさらになしとまうしければ、座中の奮激いたづらになりて、さて〳〵かはりたる思慮かな。かやうのはからひは今日決しがたし。しばらく後日を侍つべしといひて、果ては大きなるわらひになりて、人々立ちわかれければ、あへて一揆がましき沙汰もなかりけるとなり。まことに悟道のあきらめなるべしと、同朋わらひしとなり。
江州高島郡二尊寺といふ寺に、
赤松律師が兵書のうつしなりとて、巻物侍り。その中にむかし九郎判官義経、くらま山にて天狗より
相伝せられ侍るといひて、
兵法口舌気といふ事しるし侍り。則一つ書にして、
一早朝に小便をするに心を付侍るべし。沫のたつは吉事なるべし。沫不㆑立日は深く用心すべし。
一他方へゆくに、湯、茶、酒をのみて出づべし。其時何にてものみたる物順にめぐるは吉事にたちてよろし。逆にめぐらば出づべからずと云々。
一食の湯に我影のうつらざる時は可㆑忌。
一鼻のさきに、羽たてに筋あるはいむ事也。青色なるは我を害せんとする人ありとしるべし。むらさき色は毒をかはんとするとしるべし。
一手のうちにつばきを吐て見るに、沫たゝばよし、不㆑立はあしきと知るべし。
一目のうちに竪さまに筋あるに吉凶あり。目かしらにあるはよろこびなり。目尻にある時は三日の中に大事にあふべきと知るべし。
一手のうちむら〳〵とあかくなる事あり。是はけがれたるとおもひて身をあらためて、まりし尊天を念ずべしと云々。
【 NDLJP:208】一手の中とありのとわたりとかゆくなりたらば、大事ありと知べし。但し右の手の中かゆくば吉也。
一耳俄に鳴る事あり。子寅辰巳午申の時ならば吉事なり。丑卯未酉戌亥の時はあしゝ。
一おとがひと手の脈を一度にうかゞふに、和合して同じやうにうつは吉、ちがひたるはいむべし。是を生死両舌の気といへり。
一行道の先を、いたちの横へとほる事あり。ひだりへとほらばくるしからず。右へ通らば其道ゆくべからず。
右の分ひらがなにてしるし置けり。是は武家によらず、すべて重宝とみゆればしるし侍るもの也
建武以後軍戦うちつゞき、武士立身の最中なれど、此
砌武芸の達人天下にとぼしきいはれはいかにと了簡するに、
博奕ゆゑとぞきこえ侍る。群卒
帷幕の中のなぐさみは、大将より下つかた、
与力足軽〈[#ルビ「よりき」は底本では「よきり」]〉の者どもにいたるまで彼博奕をこのみて、あるひは一たてに五貫十貫
沙金五両十両をたてつゞけ侍る間、山をあざむくほどの金銀も、暫時のほどに
負侍る者、後は博用のたからも懸けて、あるひは
武具馬具の品こと
〴〵くとられておもはぬ辛労しけるもありといひつたふ。畠山某が手のもの、ある戦場へむかひけるに、甲ばかり著て
直肌の武者もあり、よろひ著ながら、
太刀甲に
払底したるものもあり。中下の士卒の出立は、大かた不具にことやうなり。されどその時の高名おほくは彼不具の者にありといへり。是博奕にうち入て
困窮至極の仕合なれば、此度一定必死とこゝろえ、此所をすゝがんとの一心によりてなるべし。中昔徳政といふその起り、おほくは彼たはふれが本元なりといひ侍る。応仁文明の比の博奕には、人もさかしくなりけるにや、武具馬具に不具はなし。はじめのほどは金銀もたてつれど、次第に一銭の所持もなくなり侍れば、京の町人のたれがしが土蔵をいま博奕のたて物にする人も有り、寺僧
神主の蔵などを立てたる者もありけると也。勝たる時は
蔵代いか程とつもりて金銀をうけとり、又負たる時はいつ
〳〵の夜、彼蔵々のたからをうばひて遣すべしとさだめあひたるほどに、後は其座に銭といふものは一銭もなくて、唯言葉のみにて勝負をしけるといひつたへたり。是則二六時中の慰みなり。末代といひながらかゝるふるまひも有る事にや、をかしといふも余りあり。かやうのたはぶれに心おくれて、第一の家業をわすれ、ほれ
〴〵として人にあざむかれ、疲のうへのつかれとなりて、前後忘却の
為体あさましかりしふるまひなり。
【 NDLJP:209】
巻第六
去延徳初元の比ほひ、或武辺のさぶらひ匹夫よりはたらきいでて、十余年が程に半国の領する身となりければ、家門さかえ所従馬牛にとぼしからず。彼のもろこしの陳渉がふるまひも及ばずながら彷彿せり。此もの昔より、父母孝養の志ふかく侍りしが、不幸にして子の富貴をまたで二親ともに果てたりけり。当時は唯姉一人のみ存生せり者ば、此姉を両親とあがめて朝夕の心づかひおこたらず、増々奔走をつくしけり。衣食居所のいみじさは、公方大人にひとしくもてなして、猶々これにも不足なりとおもひとりて、いよ〳〵崇孝深切の思慮をめぐらしけり。一日独言で申侍るは、我親に孝の思慮ふかく侍れど、不運にして困窮のいにしへ二親死去せり。今姉ならでは兄弟もなし。衣服、食物、居所のいみじきも身に応じてめづらしからず。つら〳〵はかるに、人性のたのしび恋慕にしかず。我むかしよりの苦楽のなかに、此一道ほどあかざる物はなし。我身は男なれば、此一事おもふまゝなり。姉は女性なれば心のまゝならず、明暮さぞや心にかけらるべし。このたのしびを何とぞあたへたき事なりと一義を決し、家来の内年若く無病にして、気根無双の強士を一人えらび出して、しばらく按摩といふ事をならはせけり。ある時此ものをよびて申侍るは、汝あながち按摩を琢磨せずともくるしからず、唯大やうをこゝろえてあねがもとに朝夕仕へて、いひしまゝをそむくべからず。常に持病と称する間看護のために付置もの也。相かまへてはだへ肥痩をうかゞひて、若、病疲きざすべきしなあらば、その時は此方へ申べし。向来予が扶助にてつかふる主人はあねなりと思ふべしと、庭訓をふくめければ、委細畏り奉る。忠勤の守るうへは、いかやうにも御掟にしたがひたてまつると申間、扨はうれしき事也、あなかしこ、此事人にもらすなといひふくめて、あねがもとへつかはしけり。扨ちかくよりてかやう〳〵の仰にてまゐり侍る間、いかやうの御事なりとも仰下さるべしと、つゝしんで口上しければ、あね立いでて、扨々心を付られたまはる事古今ためしすくなし。折から此程持病きざしてなやめり。ちかくまゐりてさすりてたべと申ける間、いひしまゝに立ちよりて、経絡を按摩し侍れば、病すみやかにいえたりとよろこびたり。あしたより夕べにいたるまでつかへける。はじめの程はかの姉も慇懃がましくふるまひしが、後は不礼の為体にて、こゝをもさすれとかしこをもなでよといひて、終に彼男をはだかになして、我ふところの中へ入れけり。按摩師もいぶせくめいわくながら、ぜひもなくふところの内へ入りたれど、とし五十有余の痩女なれば、いづくも皺たゝみ骨たかくしていとこのましからず。漸く有て休息仕度よしにて罷出、閑所へかへりて大息ついで難儀の為体なりしに、又めしよせらるゝといひて使来りければ、しぶ〳〵ながらまゐりて、その役をつとめけるが、年月かさなりければ、さしも無病の強力者もよろ〳〵とかじけて、楚人のむかしも思ひ出でられ侍る程なり。今【 NDLJP:210】はもはや御奉公御赦免下され候へと、強而愁訴におよびければ、さほど用事に立がたきほどならば、向来よく衛生の工夫をしてすこやかにならん時、又つかへ侍るべしといひて、いとまをつかひけるとぞ。ふしぎなりし孝行也。按摩師も後は朋友にあかして申けるは、さて〳〵此月ごろの難義いふべからず。合戦のはたらきに心をつくさば、子孫のためとも申すべし。あいなきもてなしにあひて、ためしなき奉公もしつる物かなと、懺悔しけるとぞ。
むかし
宗祇法師廻国して、和朝こと
〴〵く歴覧し、名所
旧蹟にいたりては、
腰折歌、
連歌の
発句などあぢはひけるときこえ侍る。此法師すべて風流のざれ物にて、発句などに文字おほく書きて、人に心えず思はする
短尺世におほく侍る。此ほどある人の見せ侍る短尺の句に、
日光山をてらするさくらかな
又
二十五日は天神のまつりかな
これらの句よくきこえて侍れど、不堪の人さしあたりて、いとわきまへがたく思ひ侍ることありといへるはことわりなり。
又彼法師が書ける反故の中に、するがの国三穂の松原にいたりて、そのわたりの人にたづね侍るに、此所の松は生ひいで侍るより、大木の後までいさゝかゆがみたる木はなし。皆すぐにたてり。是則名物なりといひしが、まことの林の松どもおほくすなほなり。又伊勢の国に、いそ山といへるむらあり。そのわたりに松のはやしあり。此所の木は生ひ立よりすぐなるはなし。土の上一寸ばかりの比より、大小にいたりて皆風流に曲折ありていと興ありといへり。是則当所の名物なりとかや。いづれも曲直ともわざとならずして、いとえならぬ松にて侍る。すべてむかしより、名物は草木にかきらず、皆やんごとなく覚え侍るとしるしけり。
ちかき比東国の武士、あるやんごとなき歌人のもとへまゐりて、ゐなかめきたる物語などいひ出侍るに、あるじもあづまの名所はいにしへより歌にもおほくよみ侍れば、いとなつかしといひて、たがひにかたりあひて興じられけり。その折ふし、彼ものゝふはゞかりおほき所望にも思ひ奉れど、伊勢物語と申は、我国の草子にてやんごとなきしなおほくしるして侍り。唯よみたるばかりにてはこゝろえがたく侍り。東国にてはかやうのことわり釈してきかすべき人も侍らず。あはれ御いとまの折々御釈ありてきかさせたまはゞ、いとありがたくも思ひたてまつるべしなど、かきくどきて申侍るに、あるじの歌人もいなびがたくて、やすきほどの事なり、いつ〳〵の日とぶらひたまへと約せられければ、いとかたじけなくも思ひたてまつるとて、かへり侍りしが、約束したる日になりて、あしたよりきたりて【 NDLJP:211】侍るに、あるじいでてかたのごとくもてなしなどせられて、ときうつりければ、やうやくひるのまへよりよみはじめて、ことわり分明に釈せられければ、ゐなか人もかうべをかたむけて、よねんなく見え侍る、とてもの御事に、終日きかさせたまへ、ものゝふはかさねての約かねてさだめがたく侍るとのぞみけるまゝ、あるじもぜひなくいひしにしたがひて、申の刻ばかりにいたるまで、座もたゝずしてよみつゞけられければ、口もかわきいきもつきぐるしかりけるによりて、けふはこれまでなり、大やういひほどき侍るといひてやみたまふに、彼ぶしまことに御窮屈のほど察し奉る。今日はわりなき望みをも仕るものかな。さても業平と申人は、きゝしにまさりておとなしからぬふるまひにも侍る。かやうの尾籠をつくされけるに、その世の人々は、何として此人をいましめたまはずや。但しいづれもおなじ尾籠の世なるにや、いと心えがたき事に思ひ奉る。しかれどもさいはひの人なるにや、天下の人々にもゆるされ、後々まで其悪性をいみじく記せり。是唯人にはあらざるべし。若今の世に生れ出侍らば、よも安穏にては置侍らじ。向来女子などにみせまじき物は此草子なり。人々さまにもかゝるあしきふるまひをば、よきほどに好ませたまへ、今はゆるしげなし、かさねては聞侍るによしなしといひて立出侍りしが、つひにまうでこざりけるとぞ、まことにをかしき事に侍る。
ちかき比、
藤黄門なにがしの申され侍るは、近代畿内隣国の大乱つゞきて世の中おだやかならず。されど
仏説といふはたふときものとみえたり。おとゝしの
夏中より、城北なにがしの寺に、住僧説法をはじめて、諸人にすゝめ侍るに、此僧
弁舌人にすぐれ博学大智にして、火をも水にいおほするほどの説僧なれば、
都下こぞりあつまり、ゆう
〳〵として
聴聞しけり。
法談のさし口
仏語を二十字ばかり挙げて、それより
他宗のいづれの語は我宗の何の所にあたれりと、
自他配当の理を
攻め、此間にさまざまの譬をまじへて、畢竟はまぼろしの世なれば、身をのどかにおもはずして金銀財宝をすて、仏事にくやうし、他の世事をおもふ事なかれとて、いさめ侍るまゝ、にぎはしき町人職者
止事なき人の老母まで、分限相応に毎年あつめたるたからを寺へ送り、此錦は今の世にまれなる物に侍る、御寺へ寄附したてまつる、
幡天蓋にせさせたまはれといふもあり、あるひは来る何月いづれの日は其父の年忌にあたり侍る、二三夜の御仏事をいとなみたてまつらんとおもひ侍れど、又ゆくすゑに年忌もまれに侍れば、七ヶ日御説法せさせ下さるべしといひて、おもひ
〳〵に財宝をなげうち侍れば、後は威勢くらべのやうになりて、仏法はよそになり行ける。まことに一家仁人ありて一国仁をおこし、一人
貪戻にして一国乱をおこすといへる聖言にもるゝ事なく、一人のわざ世の人におよぼす段至極たれば、此寺へはこびおくる物山の如くにして、むかしの貧僧いつしか
珍膳妙衣に飽きけり。いにしへ
夢窓国師を貴族たちのたふとび給ひしも、かくやとあやしむばかりなり。然るに天性彼僧大欲のきこえありて、人人にはいさぎよくすゝめ、涙をながさしめてもて運ぶ所のたからをひろひ集めて金銀にかへ、
聚歛の
【 NDLJP:212】心
汲々として土蔵につみかさねたれば、
寺僧役者等にいたるまで、いさゝかほどこしもせず。このふるまひをつたへきく者は、あなたふとや、
施物をおろそかにせさせ給はぬ事、ふかきいはれもあるべし。さあるを上人の御袖の下にて、いのちをつなぐ寺僧小童が分として、口のさがなきふるまひ、ひとへに樹木の鳥のその枝をふみ枯するがごとしといひて、いよ
〳〵たふとみけるとぞ。ある夜
法談のまぎれに、いかなるもののしわざなるにや、柱に、
後のためたからをまけとすゝめつゝ跡よりひろふ僧のかしこさ
といふ歌をつけ侍るに、住僧もいさゝかこゝろにやかゝりけん、其後は法談もやめ隠居と号して、寺を後住にわたし侍るとかたられき。
いにしへ
元興寺の
明詮といへる
名知識は、三十有余の
晩年よりつとめて朝夕おこたりなかりければ、後は比類もなき
碩学にいたりて、慈恵僧正とも法問せられ侍り。仏家の文こと
〴〵くあきらめられけるとぞ。
そのむかしある殿閣の軒の下にて、雨やどりせられける に、やのむねよりあつまり、軒よりおつる雫にて、下の石くぼみて侍るをみてさとられ侍るは、雨水といふ物よろづにあたりて砕くる、やはらかなる物なり。されば功をつめば、此雫にてかたき石をもくぼめしむ。我おろかなりといふとも、まめやかに勤めば、などかはいたらざるべきとおもひとり、此こころおこたらずして、終に其名を四海にひろめたまへりとぞ。又むかしくすの木正成、春日の御やしろにまうでて、東大寺のうちのこらず見まはり侍るに、鐘楼のもとにかしこくみゆる人おほくあつまりゐて、此かねは、日本第一の大がねなり。三十人計りしておしたらんに、いさゝかうごく事もありなんやといへるに、又かたはらより一人すゝみいでて、仰のごとく三十人ばかりのちからならでは中々うごくまじ。されどみづからは工夫をもつて、一人して一日の中にはうごかし侍らんと申侍るを、そこになみゐたるもの大きにあざむきわらひて、いつもかやうのかしこがほなることをのたまへど、つひにその手もとをいまだ見申さずと申侍れば、かの一人重ねて申けるは、仰尤の事なれど、遂に御所望もなき大事をかろ〴〵しく、こなたよりいかでかあらはすべき。まことふしぎにおもひたまはゞ、明日にてもこれへつれだち侍りて、みづからが申す如くにして、此かねうごきたらば、みづから所望のたからをこなたへたまはるべし。又もしうごかしえずば、御のぞみにしたがひて、いかやうの物もたてまつらんものをといきまきて、後はたがひにこと葉あらくなりて、僉議も決せざれば、正成もひさしく居るによしなし、一人工夫してうごかさんといふ所至極たり、おほかたさとり侍り、いみじき思慮かなとほめてかへりける。めしつかふものいとこゝろえずながら、宿所にかへりて、さて悟らせ給ふ御ふるまひはいかやうの御事に侍るや、うけたまはりたく思ひ奉ると申けるに、まさしげ申けるは、いとやすき事なり、かさねて参るべし、【 NDLJP:213】こゝろみて見せんといひて、四五日すぎてひそかに彼やつこどもをめしつれて、東大寺のしゆろうのもとにいたりて、僕の中一人ちからつよきものをえりいだし、高さ二尺ばかりの箱をとりよせ、かねの下におきて、彼うへにのぼりて、なんぢ此かねをおすべし、つよくおすべからず。いつもおなじころにおしては休み、おしてはやすみ侍るべし。その程をたがへず手のひらを鐘につけて、えいといひてはおし、えいといひてはおし侍るべし。かならずうごかずとてたいくつせず、いつも甲乙なく押べしといひをしへて、巳の刻ばかりより押いだして、申の刻計までおこたる事なかりけり。されどかねもうごくことなかりしに、正成今すこしの程おせよと下知しけるに、龍頭のほどきり〳〵となりければ、さればこそと思ひ侍るうちに、すこしづつ動きいでて、ゆら〳〵とし侍れば、やつこどもきもをけし、さて〳〵おくふかき御はからひかなとて、かんるゐをながし侍るとぞ。是正成が例のふかき慮り也。
さればすみやかにうごかさんとすれば、三十人ばかりのちからにもおよばざるかね、一人のちからをもつて、功をつもればうごく事、三十人にもまされり。是懈怠なく篤実よりおこりてしるなり。か様の事つたへきゝ侍るに、其実否はしらねども、関東勢の大軍をわづかの手の者にてあひしらひ侍るは、ふかき慮なるべし。
むかし古き文をよみ侍りけるに、その中にいはく、いにしへ白河院御在世のみぎり、法勝寺にて御願の御経くやうあそばさるべしとて、吉日をえらばせたまひて、既に来るいつの日は当日なり、御だうし寺僧著座の公卿その外の役人等たれ〳〵と、兼て御さだめまし〳〵けり。さてその日になりてあかつきがたより雨そゝぎて、路次の程難渋におよびければ、此日しかるべからずとて、御法事やみにけり。さて又その日より、四五日もほどすぎて、いつの日よろしかるべしなどさだめさせたまひて、まへの如くその御仏事の役々をきはめさせ給へば、人々も用意し給ひけるに、又其日も宵より雨天なりけり。かくのごとくして、すでに両日ともに御供養はやみにけり。又其後御日さだめありければ、又雨ふりける事両三度におよびけるとなり。院大きに逆鱗いまして、憎き事なり如何せんとの勅諚ありつれど、誰人におほせて罪すべき事ならねば、公卿僉議もいたづらになりて、事行ざりけり。いよ〳〵はらだたせたまひて、つひに其の雨をうつはものに入れて禁獄せしめ給ひて、きびしく番をつけさせたまふとなん。此事いとをかしく愚かにもきこえけれど、尤御道理至極也と申す人もありとかや。そのいはれは、大人小人によらず、一旦のいかりには、親子の差別もなく、朋友の信もなし。唯心気のみさかのぼりて、主君の命をもわすれ、人のいさめをもきゝいれざること、高貴卑賤をわかたず、世間みな一同也。唯其人のたかきといやしきとによりて、あるひは身をかへりみて其怒りをおもてへうつさず、胸のほどにこめてしばらく時をうつせば、すなはちいかりもやみて事なきものなり。されど是は大や【 NDLJP:214】うたかき人のふるまひなりとみえたり。又僕童下賤のともがらは、至ておろかなれば、その事にこらへ難くして、いかりをそのおもてへうつして、はてはさまあしくなるをもかへりみず、仁義といふ事もしらねば、まして法礼をもわきまへず、唯一遍の我意のみにて、心のまゝに口外へいだす。そのしのぶとしのばざるとは、大方尊卑によるとみえたり。必ずつねに物さかしく、学窓にこもりて文義を自負する人などに、身のわきまへをしらぬ事おほし。されどいたりて害ならぬ事には、あながちとがめずもありなんや。皆人つねにやんごとなくみゆるも、時により折にふれては、いかりなくんばあるべからず。前にいへる院の御ふるまひの如きは、尤やさしくおほやけに思ひたてまつる。一天の御あるじとして、万人のうへに仰がれさせたまふ御身の、たれをはぢてか御堪忍あり、たれに恐れてか御つつしみあるべきや。但しかくいへば、天子大人はあしき御ふるまひありても、くるしからぬにやと言ふ人も有るべけれど、それは事により品によるべし。雨ごときの物をおしこめさせ給ふ御こゝろは、いとやさしくおぼしたてまつる。又ある人一日雨中のつれ〴〵物わびしとて、予がもとへまうできたりてかたられしは、うへがたの御ふるまひ上らふめさせたまひて、よろづおろ〳〵しくわたらせたまひつる世が、むかしわがてう王道の最中也。よりともきやうのはて給ひて後、承久にみかど御むほんおこさせ給へども、事ゆかで終に遠つ島へうつさせ給へり。これ北条があくまで武権にほこり、朝憲をさみしたてまつりしによりてなり。されどいますこしは、時節をはからはせ給はぬ御事口惜くも思ひ奉る。天子の御身としていやしき武芸をもてあそび給ひ、おほやけならぬ御ふるまひ、人々もかたぶけたてまつりけるとぞ。此事世にふりて人ごとにしる所なれど、つれ〴〵なれば申侍る。むかし後鳥羽院建久八年に、御くらゐを一のみや土御門院にゆづりたてまつり給ふ、是則後にあはの院と申せし御事也。そののちまた建暦元年に一院の御二のみや順徳院に御譲国あり、これは一院の御愛子にてわたらせ給ふ。そのゝち十一年をへて、承久三年に当今にはかに御くらゐをすべらせたまひて、御子に譲りまゐらせ給ふ、よつて新院とぞ申ける。土御門の院をば中院と申奉る。一院と新院と御心をひとつにして思召けるは、頼とも兵権をとりて、天下をしづめしかば、法皇も御ちからおよばせたまはでやみ給ひぬ。又其子ども皆ほろびぬ。今は左京大夫よしとき家人としておほせにもしたがはず、むねんのいたりこの事なり。すでに王法のつきぬるにこそと思召たちて、くわんとうをほろぼさるべきになりぬ。其時中院のおほせに、是は時いたらぬ事なり、あしき御はからひかなと、ずゐぶんいさめ申させたまひけれども、つひにかなはせたまはず。ひし〳〵とおぼしめしたちて、諸こくのぐんぜいをめされける。畿内きんごく皆馳参る。近習の月卿雲客も興あることにいさみあへり。すでに同五月十五日、くわんとうの代官伊賀のはんぐわん藤原の光季〈武蔵守秀郷後胤伊賀守朝光子〉うたれけり。民部少輔大江親広法印〈法名蓮頭大膳大夫広元子〉これも関東の代官として在京したりけるを、院へめされてまゐりける程に、くわんとうへも、さりぬべきさぶらひどものかたへ、よし時うつべきよし院宣をなし下さる。かまくらにこの【 NDLJP:215】事きこえて、二位の尼よし時くわんとうへさるべきさぶらひをよびて、三代将軍の恩をわすれずば、此たび忠をいたすべきむねを触らる。侍ども一とうに、故殿のあとをむなしくなさん事いかでかなげかざるべき。今度においては身命をすて合戦をいたすべしと申す。さては時刻をのべて、あしかるべしとて、五月二日より当座の勢をさしのぼせけり。東海道へは義時がちやくしむさしのかみ泰時、北陸道は二男遠江守朝時、東山道は義時が舎弟相模守時ふさ、三手に二十万八千余騎にて攻のぼせ、近江国にて一手になりて、六月十三日宇治瀬田より京へ入る。都には院の近習の人々、西国畿内の勢を以て防がせらる。宇治へは甲斐宰相中将大将軍にて発向す。されども泰時大勢にて佐々木四郎左衛門尉源信綱先陣として、河をわたりて合戦するほどに、同十四日に京方やぶれてちり〴〵に成り、敵対におよばず、あるひはうたれあるひはおちうせぬ。同十六日泰時入洛せり。おなじき七月十三日、一院をば隠岐の国へうつしたてまつる。同二十日新院をば佐渡の国へ遷したてまつる。扨中院は此事に御同心なくして、いさめ申させ給ひけれとて、みやこにとゞめたてまつりけるを、一院かくならせたまふうへは、一人とゞまるべきにあらずとて、閏十月十日、中院あはの国へくだらせ給ひけり。もつともかしこき御事なり。かくのごときの賢王にておはしましければにや、この御末の君、後には御位にまし〳〵けるこそ、いみじけれ。およそ延喜天暦のみかどをこそ、聖代とも申つたへ侍れど、土御門院はそれにもなほまさらせたまふと思ひたてまつる。かゝるかしこき御ふるまひ、わがてうにためしなき御事也。その御むくいいみじくて、此みかどの御ながれすゑ〴〵まで御位をふませ給ふとぞ。又よしときが事をにくませたまふも、御ことわりとは申すべけれど、此一乱も白拍子亀ぎくがさゝへ申たるより、事おこるといへり。そのうへかのよし時も、たゞ人にはあらず。軍勢をわけてのぼせける時、舎弟時ふさは仰かしこまり候とて、あとをもみかへらずいさみすゝんでのぼり侍る。嫡子泰時もおなじく父が命をかうぶりて進発せられけるが、礼義あつく思慮ふかき人なればにや、道のほど五六里もうちたちて引かへし、いま一たびうかゞひ申たき御事はべりて、罷かへり申なり。いそぎ出させたまへと申されて、其身は庭上にたちてぞ居られける。よし時何事にかとおどろきて、いそぎたちいで対面ありしに、泰時御らんじて申されけるは、今度の御合戦は、一大事の御事也。よく再三御思慮あそばさるべし。御てきと申は、一天の君なり。たとひ御ふるまひあしければとて、下として敵対したてまつる事、一のとがあり。そのうへもし官軍にさきだちて、忝くも御鳳輦を進めさせ給はゞ、それとてもおそれず、射たてまつるべきや、此事愚慮に落著つかまつらざるによりて、道よりかへりうかがひ申所なりとて、しほ〳〵とせられければ、義時大きに感悦して、よくも申されけり、わが子ながらかやうのふるまひよのつねのおよぶべきにあらず、その事なり、もし官軍にさきだちて御鳳輦をむけさせ給はゞ、それこそ当家運命のつきぬる所なり。相かまへて弓矢をきりすて太刀ををり甲をぬいで、いかやうとも御心のまゝに身をまかせたてまつるべし。もし又官軍ばかりさしむけらるゝに【 NDLJP:216】おいては、一日も早くもみおとし、すゝんで入洛あるべし、これまで也、倉卒うらたちたまへと申されて、奥へ入られける間、泰時いまは心にかゝる事なし、いさめや人々とて、夜を日についで上洛せられけるに、はか〴〵しからぬ官軍、少々さしむけられける間、不日にもみおとし、本意をとげられけると也。
此一事を以てみれば、よし時父子も唯人にはあらず、たぐひなきふるまひ也。さればそのむくいにや、子孫にかしこき人のみむまれ出でつゝ、九代までめでたかりけるを、高時といふいたづらもの世世相続の家をほろぼし、身を一生の不覚にはづかしめ、名を後の代の人口にけがさるゝ事、是すなはち時也。口をしきふるまひかなと思ひ侍る。此事わたくしならず、ふるき文にしるしたれば、人みなしる所也と申侍りき。
ある人のいはく、むかし
光明峰寺関白道家公
円爾大禅師に
帰依せさせたまひて、東福寺御こんりふありしころ、
番匠役人その外此いたなるに入るべきほどの入数をあしもつめさせそれ
〴〵のものは何ほどのあたひにて成就すべきにやと、しな
〴〵の事とひはからはせ給ひて、かれらがつもりける金銀の数に一ばいしてたまはりけると申つたへたり。これによりて、彼寺のいとなみにかゝはるほどのもの、其身は申におよばず、妻子親族等まで、にぎ
〳〵しくよろこびあへる事かぎりなしといへり。しかうして事をはりて貴賤たふとみけるによりて、いまの世にいたるまで、はんじやうして火難なし。凡仏道をねがひ一宇を
建立せんと思ふ人は、まづかねてこゝろえて、かやうのためしを工夫すべき事なり。あたひをすくなくして、仏閣をいみじくせんとならば、先こんりふは
無益なりといへり。両雄相ねたむ世のならひなれば、それ
〴〵の造作をたれ
〴〵はいか程にしてん、あたひはいかほどといひて、こと人にはからはせんに、たとへまのあたりの損亡有としりながらも、人にまけじとのゝしるあひだ、あたひは次第にすくなくして、はては
偽り、そのいとなむところはおろそかにして、遂に心からの辛苦におよびて、胸にほのほをたく、これによりてそのほのほはたして仏閣にかゝる。これ番匠人夫のともがら心からのくるしみなりといへど、まことは其願主のふるまひよからざるがゆゑなりとぞ。さればとて
彼等にうち任せてあたひをとらせなば、いかほどの望みをか、たくみて申すべしと云人もあるべけれど、さはあるまじき事也。勿論人情あきたらぬ世のならひなれば、人々むさぼりたるがうへにも、貨財をねがふはよのつねなり。されど又人性のもとは善なりといへる金言もあり。うちまかせたる事に、わたくしはなりがたきものなり。さればそのいとなみのはじめより、それ
〴〵の役人に正直のきこえあるものを
尋ねあつめて、
彼等によくしめしてはからはせたらんに、いかでか疎略するものあらんや。なまじひにその事したり顔に、たばかられじとふるまへど、まことはしらぬが本なれば、つひにはかられぬべし。総てはからざる火難にたび
〳〵あへるときこゆ寺舎は、皆人夫
【 NDLJP:217】工商のいきどほりなりとみえたる。
俗家をつくるは、又いさゝかことなるはからひもあるとみえたれども、おほやう寺舎こんりふの心えをもちたるが宜しかるべきといへり。後の世に寺社こんりふの願ある
人は、
峰殿の御ふるまひを
忘るべからずといへり。此事はかなき雑談なれど、むかしよりおほくあなたこなたのがらんはやけほろぶるにも、かの寺は一
炬のわざはひなしといひつたふる事侍れば、さもあることにや。此峰殿はいにしへよりひと
〴〵ほめ奉りし御事なり。御子もあまたまします御中に、御ちやくしは九条殿関白教実公、御二男二条殿関白良実公、御三男は一条殿関白実経公にておはします。
一条殿最末にておはせども、御器用なりと大殿見まゐらせ給ひて、御嫡流たるべき由御おき文をそへられ、一流の御文書等のこらず一紙にゆづらせ給ひをはんぬ。しかうして三流の御中に、今の世までも一条殿家には、御才学もすぐれておはせば、大殿の御ゆづりもかしこく覚え侍るなど、ふるき文にもしるし侍る。
万里小路藤房卿はいとけなきよりおほくの文ども明らめ給ひて、うへの御ためには又なき重臣にておはしけるが、一とせのいさめをもちゐさせ給はざりしかば、藤房ももはや浮世の望をたちて、ひそかに家を出でられ
行方しらずなり給ひけるが、終に堅固にして、
遯の道をたもちてをはられ侍けりとぞ。其むかしいとけなき時よりいとかしこくよろしき人なればにや、人々もほめられたりとぞ。十歳の春、うへより人々へ、年のはじめの祝詠つかまつり侍るべしとおほせ下されけるに、あるひは金玉のこと葉をはき、あるひは
幽妙をつくして、人々詩歌をつかうまつられけるに、藤房も十歳なれば、はかばかしく
上にもきこしめされざりつるに、詩つくりたてまつられたりけるとぞ。
春来品物都青容 木母花開香正濃 今日太平三朝旦 家々酔賞更飛鍾
此詩をかきてしか〴〵の事よろしく奏せられければ、龍顔ことにうるはしき御事に侍りて、此をさなものよろしくつとめしむべしなど、父卿へ仰せくだされ侍りけるとぞ。世に名を知らるべき人は、かりそめの事にも唯ならず覚え侍る。此藤房卿遁世の後、あなたこなたに隠れて、上古の隠士の風をあぢはひ給ひける。あなたこなたにてみたりしなどいひて、さま〴〵の説をいふ人もあれど、皆はかりていへるものなりとぞ。およそよき人はのち〳〵にいたりて、多くあやしき事どもしるしそへて賞美せる事おほし。先年ある人のもとにて、藤房をほめける巻物をみせ侍るに、其中みなあやしき褒美のみにて、彼卿のためには面目ならぬ事ども有り。彼卿の徳をしらぬ人のかける物にや。
むかししら河の院の御時、人々に
清談あるべしと
勅諚なされけるに、あるひと申されけるは、むかし秦の始皇
泰山封禅のまつりをせられけるとき、雨を松樹のもとにいとはれけるに、松俄に大木となり
【 NDLJP:218】て雨をもらさずと云々。此時の褒賞に、大夫に被
㆑成けり。則五大夫と云て、是より我朝までにいひつたへて、松を大夫とよばるゝ事いみじき事なりと語られけるとなん。此事ふりて今めづらしからざれども、
非情を
極官に任ぜしめらるゝ事を
語り合て興じ給ふけるとぞ。
〈秦の大夫は、則三公也。常に心得る諸大夫に非ず。此方にて云、左右大臣の類なりと云。〉此時江帥はいまだをさなくておはしけるが、折ふし列座せられて、此事をきゝて申されけるは、大夫の松、和漢両朝の間古今未曽有の重職たれど、又大きなるかきん也。其故は、上三皇五帝三王の御世か、又は周公孔孟如きの聖人に賞せられたりといはゞ、たとへ枝はびこらずとして雨を洩すとも、又三公の大夫にのぼらずとも、めでたき後世の規模たりともいふべし。何ぞや、桀紂に倍せる悪王に賞せられたるを面目といふべきや。是則始皇の宣によりて、万年の宝樹たちまち枝朽ち葉しぼみ、其名又万世に汚さること其恥いふべからず。只色かへぬ万年枝など云ては、賞すべき事也。予はかやうの雑談に興せず、便なき説也と、臂をはり目を瞋らかして放言せられたると也。〈此事良基闕白殿御日記にあり。〉尤江帥の説のごとく、的当のことわり分明なりとて、後まで人口に有ていみじく覚え侍りける。大方悪人に褒賞せられたるより、善人にわらはれたるが高運也とみえたり。かやうの事めづらしからねど、諸事の工夫に便りありてよき手本也と云々。当代和朝の風滔々と零落し、人僻み我曲れり。かゝる世の不義の栄人に押て賞せられける人おほくみえ侍る。さやうの人は、工夫を増して大夫官を了簡あるべき事専用なり。
先公方御酒宴の後、或利口の近習者、戯に物語申けるは、源判官義経は古今第一の
頓智連哲人にて、貴賤老少皆知る所にて御座候。一とせ吉野
県をしのび通られけるとき、或民屋のまへにわらはべあまたあそびたはぶれける中に、十歳あまりのわらは、三四歳なる子を負うてあそばしめけるが、彼負はれける子も負へる童も、互に
伯父々々と云てければ、九郎判官此事をきかれて
莞爾としてわらひて、嗚呼不義のやつばら哉といひて過給ひけり。人々心得ず思計にてとほりけるが、武蔵坊弁慶は此事を心得ずながら、故ある事にやと思ひ、ふかく案じ煩ひ侍れども、終に其
刻得心なりがたかりけるとなん。扨其日もくるゝまゝに、旅屋を借りて宿し、終夜これを案じ、漸工夫ほどけて独言にいはく、ああ判官義経君は百世にも超たる
頓智の
御生得たり。然といへども、当時不幸不運にしてかゝるあさましき御有様、口をしく勿体なき事也。吾工夫君に不
㆑及
事はるかなりとて、其後は同朋共にかたりて、互に感じ興じけるとなん。
彼たがひにをぢ〳〵と云事を思案するに、仮へば夫婦の中に男女二人の子ありて、其男子は母親に通じて男子一人をうみ、又女子は其ちゝに通じて男子一人を生む。其父と娘と嫁してうむ子と、其母と男子と嫁してうむ子と、二人を一所へ寄ていふ時は、則両方共にをぢ〳〵也。〈猶能々分別すれば、其断分明なり。〉右にあそびて、たがひにをぢ〳〵といへる二人の子は、如斯の類なりと云々。
【 NDLJP:219】かやうのむつかしき工夫をも、指当りて速に自得せらるゝ事、当意即妙の利根なれども、其身の奢侈悪粧の事は曽てみえざりけるにや、人のいさのをも承引せられず、身の工夫もうすかりけるとみえて、終には身を東奥の夷にたぐへて、骸を衣川のいさごにうづまるゝ事、口をしき事なりと、語り申けるとなん。
山名金吾入道宗全、いにし大乱のころほひ或大臣家に参りて、当代乱世にて諸人これに苦しむなど、さま
〴〵ものがたりして侍りける折ふし、亭の大臣ふるきれいをひき給ひて、さま
〴〵かしこく申されけるに、宗全たけくいさめる者なれば、臆したる気色もなく申侍るは、君のおほせ事、一往はきこえ侍れど、あながちそれに乗じて、例をひかせらるゝ事しかるべからず。およそ例といふ文字をば、
向後は時といふ文字にかへて御心えあるべし。それ一切の事はむかしの例にまかせて、何々を決行あるといふ事、此宗全も少しはしる所也。雲のうへの御さたも、伏してかんがふるに、
勿論なるべし。夫和国神代より、天位相つゞきたる所の貴をいはゞ、建武元弘より当代までは、皆法をたゞしあらたむべき事なり。乍
㆑憚君公もし礼節をつとめらるゝに、いにしへ
大極殿のそこ
〳〵にて、何の法礼ありといふ例を用ゐば、後代其殿ほろびたるにいたりては、是非なく又別殿にて行はるべき事也。又其別殿も時ありて若後代亡失せば、いたづらになるべきが、凢そ例と云は其時が例也。大法不易政道は例を引て宜しかるべし。其外の事いさゝかにも例をひかるゝ事心えず。一概に例になづみて時をしられざるゆゑに、あるひは
衰微して門家とぼしく、あるひは官位のみ競望して其智節をいはず。如此して終に武家に恥かしめれて、天下うばはれ、
媚をなす。若しひて古来の例の文字を今沙汰せば、宗全ごときの匹夫、君に対して如
㆑此同輩の談をのべ侍らんや。是はそも古来いづれの代の例ぞや。是則時なるべし。我今いふ所おそれおほしといへども、又併後世に、われより
増悪のものもなきにはあるべからす。其時の
体によらば、其者にも過分のこびをなさるゝにてあるべし。いまよりのちは、ゆめ
〳〵以てこゝろなきえびすにむかひて、我方の例をのたまふべからず。もし時をしり給はゞ、身不肖なりといへども、宗全がはたらきを以て、尊主君公皆
扶持したてまつるべしと、苦々しく申ければ、彼大臣も閉口ありて、はじめ興ありつる物がたりも、皆いたづらに成けるとぞ、つたへきゝ侍し。是か非か。
本文にいはく
天文二十一年十一月日
藤某判