基督者の自由について/第二十節

 人間は、内的には、たましひについては、信仰によって十分義とされ、彼が持つべきすべてのものを持ってはゐるが―――此信仰と此十分有ってゐるといふことが來世に至るまで増してゆかねばならないといふことは別として―――それでも、人間は、地上の肉体的生活にとゞまり、彼自身の肉体を支配し、人々と交際しなければならないのである。今や此處にわざが始まる、わざにおいて人間は怠けてゐてはならない。肉體は斷食や徹宵や勞働やあらゆる力強い訓練によって刺戟され練達されなければならない、 かくして内なる人及び信仰に對して肉體が従順になり、同型になり(同化するやうになり)、束縛を受けぬとその性質上爲したがる妨害や反對をしなくなるためだ、内なる人になると、彼のために甚だ多くの善きわざを爲し給ふた基督のゆゑに、彼は神と一致し、喜ばしく樂しくなるのである、また彼のすべての快樂は、自分の方からも、また無報酬で、自由な愛において、神に仕えようとする點に存するのである。そのとき内なる人は、彼の肉において、一つの反對な意志―――世へ仕えへようとし、自己の欲するものを求めようとする―――を見出すのである。信仰は、かくの如き反對な意志の努力を、認容し得るものではない、信仰は、此意志を鎭め此意志を禦ぐため、愉快さうに、此意志の頸を扼する。聖パウロが羅馬書第七章(二十二節以下)において、『我内なる人については、神の意志において快感を有するも、わが肢体(體)においては他の意志を見出す、その意志は、罪を以て(罪の掟を以て)余を捉へんとす』と言ふとほりだ。更に彼は言ふ(コリント前書九・二十七)、『わが體(からだ)を打擲(うちたた)きて之を服従せしむ、他人を教ふる我自身が捨てらるることなからん爲なり』。更に彼はガラテヤ書第五章(二十四節)に言ふ、『キリストに屬する者は肉と共にその情と慾とを十字架につけたり』。