基督者の自由について/第二十三節

 ゆゑに、次の二つの金言は眞である、『善き信仰的なわざは決して善き信仰的な人を造らない、これと反對に、善き信仰的な人が善き信仰的なわざを造る』。『惡しきわざは惡しき人を造らない、これと反對に、惡しき人が惡しきわざを造る』。ゆゑに、何時も、凡てのわざに先立って、人格が善く信仰的でなければならないのである、また善きわざは、信仰的な善き人の後にあるものでありまたかくのごとき人から生ずるものだ。基督が、『悪しき樹は善き実を結ばず、善き樹は悪しき実を結ばず』(マタイ七・十八)と言はれたとほりだ。今や次のことが明らかだ、果は樹を結ばない、同様に、樹は果において成長しない、反對に、樹は果を結び、果は樹において成長するのである。今や果よりも樹が、必然、先に存在するやうに、果が樹を善くも惡しくもしないで、樹が果を善くも惡しくもするやうに、同様に、人間も、善きわざや悪しきわざを爲すに先立って、必然、人格において信仰的であるか、惡しくあるのである。そして彼のわざは彼を善くも悪しくもしないで、彼が善きわざもしくは惡しきわざを造るのである。同様なことを、われらはすべての手工において見るのである。善き家もしくは惡しき家が、善き大工もしくは惡しき大工を造るのではなく、善き大工もしくは惡しき大工が、善き家もしくは惡しき家を造るのである。いかなるわざも棟梁を造らない(棟梁があってそ の後にわざがあるのだ)これと反対に、棟梁次第で、わざもちがってくるわけだ。人間のわざも同様だ、その人が信仰の人か不信仰の人かによって、彼のわざも善きわざともなりもしくは惡しきわざと爲るのである。反對に、人間のわざ如何によって信仰ある人か無い人かはきまらないのである。わざは人を信仰ある人としないやうに、人を義人とするものでない。併し信仰は人を義人たらしめるやうに、同様に信仰は善きわざをも造り出すのである。わざが何人をも義としないで、わざを爲す前に、人間が義であることが必然とするなら、全くの恩寵から、基督及びその言ゆゑに、既に信仰のみが人を義とし人を救ふのに充分なこと、また基督者の祝福のためにはいかなる掟も必要でないことが明白だ。寧ろ、基督者は、凡ての掟から自由だ、また彼が爲すすべてを、全くの自由から、報酬も求めないで、爲すのである、彼は、彼のわざによって、彼の必要もしくは救のために少しも求めないのである。そは彼は、既に、彼の信仰によってまた神の恩寵によって、何物にも缺ることなく、救はれてゐるからだ、寧ろ、その際、只だ神に氣に入らうとするからだ。