基督教綱要/第一篇 第6章

<基督教綱要

第一篇 第6章

<<創造主なる神に到達するために、導者〈導き手〉および師伝〈聖典〉として聖書が必要である>>

ここをもって、神は、人類に同一の罪責を負わさんとて、おのおののものに、例外なく、被造物のうちに描写されている彼の神威しんい呈示ていじし給うが故に、天にあり又地にありて、すべてのものの眼に注がるる光輝は、人間の忘恩に対して、一切の弁護を十分に奪い去って余りあるとはいえ、なおかつ、我々を正当にこの世界の創造主へ導くところの他のいっそうすぐれたる援助に近づくことが必要である。

【続く】

しかし、やがて族父たちが手づから子孫に伝うべかりしことを、神が、託宣と幻とによって彼らに告示し給うたにもせよ、あるいは人間の働きと服仕とによって暗示し給うたにもせよ、彼らの心情が教理の堅き確実さに印銘され、くて彼らの学びしことが神よりでしものであることを納得し且つるに至ったことだけは疑いない。

【続く】

けだし、しも我々にして、いかに滑らかに人間の精神が神についての忘却へ陥りやすく、如何いかばかりあらゆる種類の迷誤に傾き、如何いかばかり新しくかつ虚構の宗教をしきりに案出することに渇望しているかを考慮せんか、忘却されて亡び、あるいは迷誤のうちに消失し、あるいは人間の僭冒せんぼうによって腐敗せしめざらんがために、天よりの教理のく裁定されることの必要であったことが理解されるであろう。

【続く】

それゆえに、同じ預言者は、もろもろの天は神の栄光をあらわし、蒼穹そうきゅうはその御手みてのわざを示し、昼と夜との秩序づけられた連続は、神の威厳を告げ知らすと述べたところ(詩篇19:1)にて、やがて進んで、「ことば」について挙示している。

【続く】