坂本龍馬/坂本龍馬手記 イロハ丸航海日記


底本:「坂本龍馬といろは丸事件」、二葉印刷
   2008(平成20)年10月17日

※「イロハ丸航海日記」は海援隊文司であった長岡謙吉が慶応3年4〜5月に筆記したものである。

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本文

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四月廿三日夜危難之後明光丸ニ移り鞆の港ニ上陸ス。時に廿四日朝五ツ時頃也。市太郎、英四郎に命じて士官水夫の宿をとらしむ。独り梅太郎、高柳楠之助のまねきによりて道越町魚屋万蔵の家にいたりて高柳ニ会ス。 但、高柳ハ明光丸頭取 高柳曰此度明光丸ハ於長崎ニ、船の求め方ニ付て急ニ参らねバ数万金にかゝわり候事なれバ、御気毒ながら此度の論議ハ長崎まで御まち被下候や、かく申せバ御うたがひ被成候べけれども申上候事ハ間違あるまじく。梅太郎曰御うたがひ不申上候、とても紀の国を引てにげ候事ハ無之候得バ、御うたがひ申不上候。私方老主人も急用有て上京、夫ニ付て兵器等日を限りて運送仕候事に御座候得バ、船の士官のミ申付てもよろしく候得ども、非常の急用故ニ、私をさしそへ上坂仕候。惣じて此度の義論ハ此処ニて双方士官を出し論じて是非を辨じても宜候得ども、左様致し候得バ必争論難止相成候べし。当時朝廷之御様子及幕府ニもいまだ長州の義かた付不申、其上今年ハ外国人摂海へ定約開港の申立ニも相成、実ニ神州之大事此時にあたりて紀土の争を生じ候バ尤可恐事ニ在之候間、何卒都合宜きよふ仕度候。然レ共私し此儘長崎に帰り唯双方間違より船を失ひしとて、主人の急用をかぎ候事ハ、実に命の在かぎりハ申兼事ニ御座候。此危難ハ是非なき事に御座候得ども、何卒紀州御政府の論土佐重役の論の定まるまでハ、御船明光丸を此港に御止メ可下候哉。昨夜も海上ニて申上候通りニ御座候。此度双方の船共に沈没致し候時ハ御同様ニ上ミの急用をかぎ候事に御座候。高柳が曰あつき御思召難有此度ハ勘定局重役も船ニ乗組在之候得バ、一同申談御返答申上候。当時土佐出崎の御重役ハ何と御申候哉。梅太郎が曰後藤庄次郎ト申候。夫より我士官の宿石井町桝屋清左衛門方ニ帰ル。夕方ニ至りて明光丸士官両人来ル。梅太郎昼ねしたり、小谷耕蔵面会ス。」かの両人曰、高柳の御頼の如ク又急ニ出帆仕度候得バ御論決の処受たまはりたしと申入て帰ル。廿五日朝昨夕の両士来りて吾論決を聞ク。」梅太郎曰紀州侯は別段重キ御家、其上御主人の御急用の御事、私方ニおゐてハもはや沈没して跡なき船ニて在之候。是を大キ成る眼を以て見れバ今日なきものハ仕方なけれども猶存するものハ其用をなす(とも)事世間の道理ニも相叶候べく、此儀ハ後刻彼の道越町魚屋万蔵方まで罷出高柳先生御旅宿まで使さし出候。」両士帰ル夫より魚屋ニ行高柳来ル」高柳曰昨日より暖々相願候事ハ御聞取被下候や」梅太郎曰御尤ニ承候。然ルニ御相談の事ハ誠ニ御和談の御事ニ候得バ、私よりも相願候事有之候。惣じて私の論ハ外ニ無之御同様ニ公論を相尋義のある所に順ひ申度、夫故先生よりも何べんとなく御申直し可遣候。私よりも折返して申上候。其内自然公論ハ出来可申存候。此度の事ハ御船明光丸もともに沈没致候得ば如何被成候哉。御主用をかぎ候のみならず、人命多く失ひ可申候。御船ハ長崎へ御廻しニ相成候へバ一両日おくれながらも御主用ハ相達可申、私義ハ要用を被命船を海に沈ミしと斗ニてハ、とても此儘ニは居られ申間敷、然ルニ双方の士官の当番水夫小頭の面々ニは、長崎ニて義論致候へバ航海者の集り候処ニて則公論(然)の是非相顕れ可申候へ共、私之一身実に困窮仕候へバ猶一ト事御頼申上候。故ハ此度出崎仕候事も主人より被命候用物を相辨候中に手間どれ可申無余義所御憐察被遊紀伊侯の御金借用仕度。然れバ御便船相願出崎の上、機械早速相求メ主用相達し可申、此義相叶候へバ私においても日数少々おくれながらも、用向事足り御同様一ト安心仕候。何卒御重役ニ宜御願可遣候。其上ニて双方士官を集めて徐々論じ、公法をてらし私方曲なれバ自然ウらむところ無之、若し又貴方曲なれバ公法におゐても其所置可之奉存候。上許相願候を約し申せば両船の危難に明光丸が残りたれバ此御船をして半バ御わかち被下候ても、可然かと相願候事ニ御座候。上ニ申候金ハわづかに壱万金余の事ニて御座候。此儀相叶候事なれバ御便船相願出崎仕度、此儀も相不叶猶御船を此処に御止メ置キ無之候時ハも早御相談ニは預り申間敷候。此儀御重役へも御達可申遣候様奉願候。高柳が曰、御論御尤よく承候得ども、何分道中の事御返答申上兼候得バ、猶重役のものども上陸いたし候得バ、早々申達べく、其上又御面会も申上候。梅太郎曰、間違ぬよふ此儀宜御達可遣候。夫より又右桝屋へ帰る。
同廿五日夜五ツ時頃高柳楠之助が家来来ル。則魚屋万蔵方ニ行て高柳と面会ス。時ニ士官岡本覚十郎、成瀬国助側ニ在ル。楠之助曰、先刻御申の儀ハ夫々重役のものニも申達候処、甚ダ御尤の御事と申居候へども、只今ハ何分道中の事、其上金持合不申無余儀御断申上候。此義ハ長崎表ニてハ奉行所ニも相達し、又此地ニ公儀御役人御出も相頼べく哉。然ニ此船行合の事ハ夫ニも及申まじく候。梅太郎曰、唯今御申の事ハ私申上候事能御聞分相成候哉、今又新たに申上べく候。諸君ニも御主君の御用向、私も主君の用向ニ而御座候。猶此危難も御同意之御事ニ御座候処、諸君ハ日数ハ少しおくれながらも上々の御用相達し申候。私ハ此まゝニて出崎仕候得バ両国之重役立合、其上ニて議論相定り候得バ、日数も相掛り主人の急用ニ付而私ニ命候事は無易の事と相成申候。共に危難に合候事なれバ、今幸ニ諸君の御船ハなんなく在之候事ニ候得バ、其御船ニ而小弟の危難御すくひ被遣候御心積ニて上に申壱万余金を御貸被下候時ハ臣下之君を思ふ情御察し可下候。□□にて御座候。諸国とも臣の君を思ひ子の父を思ふハ同じ御事ニ御座候。」高柳及両士官とも気の毒なる顔色に而言葉もともにして曰実ニ御尤の御事ニ御座候。先刻承り候□此処ニて金特出候事と存候。其儀なれバ早々重役の者ニ申達、然ニ壱万金と申てハ正金ニ而ハ余程六ヶ敷ク、品ものニて御取被下候哉。」梅太郎曰御重役此儀御聞取被下候時ハ右よふの事ハ会計方の者、差出可申候。惣じて金の事を彼是申ハ実ニ御同よフニいやな事ニて御座候。」高柳曰、其通ニ而御座候。」梅太郎曰其儀もしいてハ頼不申上候。諸君の小弟を御憐ミ被遣候事ハ御談じ中にも能分り申候。夫計ニても私ハ十分難有奉存候。」是より先、紙ニ包し金を楠之助が懐中より出し気の毒げにして重役より心付とて持出しものあり。」梅太郎曰、御重役の御心付の金子難有候得共私荷物ハ皆失ない候得共、たま/\会計役□□□を取出しけれバ、当時差かゝり金入用無之候。万々御礼申上候間先此金高柳君御預り可下候」と申事再三ニ及で、高柳又懐ニ納ム。」梅太郎又曰御三人の御思召の程万々難有御同意被遣候ても又御重役の御承知不相成事も在之候へバ決而私よりの御頼の筋ハ成就仕候事を御心配被遣まじく、只私より申上候義理情実能御達可遣候。」高柳の両士曰、□□御同意申ても何分重役の者之心中ハ難計候。然れバ早々宿にかへり又船ニも行詮義仕候。しばらく御待可遣候。」梅太郎曰御尤の御事ニ御座候。惣じて近年亡命致候人諸国ニ不少候故ハ、下情上ニ連兼候所よりの事ニ御座候。」三士曰御申通ニ御座候。夫より三士宿ニかへる。我又桝屋清左衛門が宿ニかへる。
廿六日朝六ッ時前頃、又高柳の使来ル。則魚屋万蔵が家に行、高柳、岡本在り。高柳曰、御頼の事件ハ逐々重役ニ申聞候処、実御尤の御事と一同申居候。然ニ重役も何分長崎ハ不案内之事故、万一金の立のニも相成候得バ、品々手ニ入可申かと申居候故、何分成たけの御世話を申候間、其通り御聞取可下候。」梅太郎曰実ニ御尤の御事御志し万々難有奉存候。若御世話被遣候事なれバ、長崎著岸の上、日数五日の間ニ御求被成御渡し可遣候。其求候品ハ私方ニて何々の品何処ニ在之品相求申度と申入候間、早々御求可遣候様相願度候。」高柳曰何分長崎ハ一同不案内ニ候へば何共申上兼候。
是ハ長崎ニおいてあなた御求被成候と而、異人に引合御付被成候得ば紀州其請人ニ相立可申、此義いかが御座候也。梅太郎曰、御尤の事ながら、私相求候程なれバ、決して御頼ハ不申上候。」高柳、岡本曰実ニ御気の毒ニ御座候得ども何分重役ども長崎不案内ゆへ、此処ニ而御定約申兼候。梅太郎曰私相預候事ハ私手ニ入度存候品を紀州様の御手より借用仕度との事ニ御座候間其後不相叶バ夫でよろしく候間、猶出来ねバ出来ぬと御重役の御伝声承度奉存候。其上私昨日より御一所ニ御咄致候事件を書留候間、御覧ニ入度、如此致し候□ワねバ後日ニ至りて御同よふ骨折候事ニ、間違も出来□可申カ、何レ人情ハ身勝手ニ筆とりひとのなれバ、御覧之上御書入奉願度候。高柳曰、御尤の事ニ候。今一おふ重役のものニ申聞候間、御まち可遣候。」梅太郎曰、難有奉存候。」夫高柳、岡本、成瀬、国助等甚ダ我を憐む事面外ニあらわれ、我又気の毒ニ不絶。是より先キ此度御船の御重役ハ何と御申候也と相尋候時、高柳曰茂田市治郎とて勘定奉行御座候。是より又吾宿所に帰。

 上件四月廿四日上陸より此所に至ル迄認候処を其儘勘定組頭清水半左衛門、高柳楠之助、成瀬国助の前ニ而読上候へバ、廿五日夜のところを高柳の正ニよりて改ム。  其余間違なしと同心ス。時ニ廿六日四ツ半時頃なり。
廿六日四ツ時頃高柳使ひ来り、則彼の魚屋ニ至ル。成瀬国助壱人此家に止ル。」国助曰、御頼之趣重役の面々一同御尤の御事と存候ニ付而は、勘定組頭清水半左衛門御目に掛り度候間、御役名御為聞被遣度候。梅太郎則海援隊長之名札相渡ス。夫より福禅寺客殿に至ル。」清水半左衛門及高柳楠之助在り。」両人曰御頼のおもむき御尤に御座候へ共、何分長崎ニては正金都合悪く其壱万余金ハ品物ニて御取被下ずや。梅太郎曰、此度御助下候得バ、双方会計の者をさし出し相談為仕候。」清水曰、此儀ハ右品物ハ何卒先生もともに御周旋可遣、又紀州の長崎用達ハ少々故障在之用向申付がたく候得バ、土佐の御用達に先生より御命じ可下候也。此儀御聞取可遣候。候へバ其品物は紀州に買求メ可申奉存候。」梅太郎曰御尤に御座候得ども、私儀船を失ひしさへ唯にハ申分ケ難立候処を又出崎の上彼是と周旋仕り御求め被下候事を相願候ハ、実ニいやにて御座候。男児の心中御察し可下候。扨又御頼申上候事を是非に御聞とゞけ可遣候とは不申上候。此義は唯私が主君を想ひ急用相ととのへ度心を尽し候事ニ御座候。御世話被下兼候へバ、其通り仰被聞候へ、然レバ此まゝ御別れ申ても私しは私の分を尽したりと申ものに御座候。御後より長崎へ罷出先生方よりは土佐に御掛合被成候とも、又長崎重役のものへ御引合被成候とも、其御手順ハ御心のまゝに御座候。」清水、高柳、成瀬共に曰、御尤の御事に候、後も御身ニなり変り候て、勘定奉行ニも申聞候間、しばらく御待可下候。事成就仕候後も、俗事の者彼の魚屋まで遣し候間、御船の俗事方と御引合セ申度候。」梅太郎曰早速さし出し申候。」夫より又桝屋の旅宿に帰ル。
  (附箋)廿六日夜五ツ半時頃成瀬国助及俗事役壱人来リ」成瀬曰御頼ミ金ハ御用立可申様重役共より申被聞候。然レバ乍失敬
御さし出しの案紙認候間、御覧可遣候。」梅太郎曰、拝見可仕候。」其文ニ曰云々。国に難帰甚難渋仕候間、此度船の事にかゝはらず長崎におゐて返済し期限相立御かし下し可遣云々。梅太郎曰、返済之期限相立候事ハ出来申間敷候。其故ハ私しハ主人の要物を失ひ、其上船も如此相成候事ニ御座候。私事罪ある身ニ在之候。もし返金期限相立候得バ必□ニて御座候。」国助曰、夫は長崎ニ而御国御重役も在し事に候。」梅太郎曰、重役に云程なれバ御頼不申候。」国助曰、惣じて物をかすに期限なしと云事ハある間敷候。梅太郎曰此度の事は私の船は如此、御船は幸ひに残りし後も、夫を半御わかち被成候御心ニて御すくひ被成ずやと申事に候。其期限は相立不申とても彼船の義論、長崎ニて仕候時ハ拝借仕候金の分離は致候事ニ而御座候。」国助色を正して曰、夫ハ昨日以来の御論と意味変り候。兼而承候処は船の事ニかゝわらずして金御借用被成候御事と存候。」梅太郎曰すこしも意味かわり候事無之候。先ヅ昨日より御談仕候所を認め候て先刻御覧ニもいれ候書取御覧可成候」ト云ながらイロハ丸日記付録を出ス。」国助曰其儀なれバと一度帰り相談仕候。」梅太郎曰、よろしく御頼申上候。

上方六日より此所までハ高柳楠之助及岡本万助が少し共読ミて改正ス。
廿七日朝五ツ前高柳使来ル。」魚屋ニ至ル。」梅太郎曰、昨夜成瀬兄御出難有候。扨又昨夜御談申上候所、及廿六日より御面談仕候所を、又書認候間、御覧可遣とて、航海日記付録を指出す。高柳曰拝見仕候、相違無之候。」梅太郎曰、金拝借仕候処は御同様君を思ひ急用事かき不申よふに御憐察被遣度との御相談ニ候所、返済の期限相立申べしとの御事ニ候。長崎ニおゐて返済之期限相立候時は必ず請人御入用ニ可之候。其請人とては土佐重役之者に可之候哉。重役のものに申或は請人相立候程なれバ何ぞ紀伊侯の御手をあをぎ可申候。異人ニ借受候事いと安き事ニ候。」高柳曰御返済之期限相立不申時ハ国本へ御借申名が無之候間、是非に不及御断申候。」梅太郎曰、夫で強てハ申不上候。然バ今日御出帆可成、御願申上候ハ土佐商会之会計の者在之候。此者ハ私し兼而召つれ候人ニてハ無之候へ共、荷を失ひし事故此者早々長崎帰し申度、高柳御受申候。」然バ出帆仕候。」御心次第ニ而御座候。是より破談ニ相成宿処ニ帰る。
(附箋)十七日認候品を共に読たりし時、高柳楠之助曰長崎用達ハ少し故障在之と申上候。是ハ内〻の御咄しニて在之候まで表立候「故障とまでハ無之候御聞置可遣候」梅太郎曰承知仕候。
右いろは丸始末事件ニ付而、慶応三年八月長崎表ニ於テ坂本龍馬ヨリ受領。