坂本龍馬全集/坂本龍馬先祖美談/其一


其一 須藤加賀守娘おかあ事蹟


土佐の国に昔御案物語といへる書あり、こは今より三百年前彼の帯屋町故山田平左衛門君の先祖山田去暦これきの娘御案おあんといへる女丈夫の物語りを記せる者にて、試みに之を一読するときは、御案等江州佐和山籠城の時に血腥ちなまぐさき敵首を天守に運び、兵士に頼まれ其白歯に御歯黒などを塗り、御歯黒首とて功名の種に之を用ひしといふ話など書き記され、戦国時代の婦女が如何にも雄々しく武勇の気象男子にも劣らざるものありしこと忍ばれていとも珍しき物語本なり。今それとこれと事変れども、維新の豪傑坂本龍馬の先祖に関係ある女流中又御案物語に劣らざる武勇の話ありて、戦国時代の婦女が、愈其精神気象おさおさ男子に譲らざる面目あらはれ出で、且は又豪傑の系統自ら豪傑を出し、所謂将門将を出す古諺理あることを忍ぶべき一場の面白き物語りあり。
元来坂本氏の家筋は藩政の昔は才谷屋と称し、高知城下本町筋の酒屋にて、其大先祖は江州坂本の明智氏に出で、土佐国長岡郡才谷さいたにの里に暫し仮住し、後移りて城下に出で其出身の地名に因みて才谷屋と称せしと言伝へらる。彼の坂本龍馬が後来変名して才谷梅太郎と称し、又同家が代々桔梗紋を用るも明智氏関ママの為とぞ見えし。然るに已頃故あり右の坂本氏の総本家たる本丁旧酒屋たりし坂本源三郎につき、其祖先の系図書類を借り受け之を一覧するに、初代坂本太良五良は江州坂本産とあり、当国に罷越候訳並年月知れ不申と記載あり、明智の系統と申すことは明白には書き記されず。按ずるに江州坂本とは如何なる地なりやを尋ぬるに同国滋賀郡に属し湖水の西南に当り、即ち有名なる比叡山の東麓にして、所謂叡山の坂の元なるより坂本と呼ばれし地なり。大山の坂路の麓を坂本と呼ぶこと諸国に例多し、特に此地は都に近く叡山の搦手からめて口として昔より歴史上名高き所なり。元亀二年織田信長が叡山攻略を企つるや、城を此に築き明智光秀を封じ茲に居らしめたり。光秀は後自ら其本領たる丹波亀山に在城甥十郎光春をして此を守らしむ、天正十年光秀反逆あり山崎の戦敗に及び、光春勇戦して退き大津より坂本を目掛けて二里の間湖水を馬にて泳ぎ渡りしことは猶人口に膾炙かいしやする物語なり。已にして光春は坂本入城の後家族を手刃し、城に火を掛け自殺して果たり。されば坂本城の陥落明智氏の滅亡は天正十年の事にて、其遺臣眷族が浪人して東西に逃げ隠れしも此時の事ならん。
坂本龍馬の大先祖太良五良と申すは、果して明智氏の系統なるや不明なり。江州坂本産にて坂本と名乗るとは尤もならんも、江州の坂本姓が尽く明智の裔なるや否やは猶同国に立ち越して之を穿鑿せんさくせざれば決定し難し。但明智氏は美濃の土岐氏の一族にして、土岐氏は源頼光の後裔なれば紛ふ事なき立派なる清和源氏の系統なり。然らば坂本氏は果して明智姓なりとせば世にも尊き源氏の名流たるや疑ひもなけんか。
偖其太良五良と申す人は、天正十年の後如何なる伝手によりてか兎に角土佐の国に下り、長岡郡才谷里に移り住みし者の如し。当時才谷村の有ママ如何なりしや今知り難きも、天正十六年の長曽我部元親の地検帳を見るに、長岡郡植田村の中佐比谷(才谷)云々合計田地十五町五反卅代とありて、其外精しき記載なし。想ふに当時の才谷は戸口も少く開墾も行渡らず、多くは荒蕪地こうぶちのままに打ち捨て置かれし一閑地なりしならん。偖は坂本氏の先祖は或る関系により此地に卜居し、自ら荒地を開墾し歳入を増し子孫追々に繁昌し、遂に一郷の望族となりしも強ち理りなき事にあらざるぞかし。余は今日才谷亀岩より一宮にかけ長岡土佐両郡に跨る坂本氏は皆此同姓一系の家筋ならんと信ず。此坂本氏の初代太良五良の妻女こそ珍らしき門閥家にて、其同胞が土佐に下りし物語は勇ましくも亦哀れに、余が御案物語に匹敵すべき珍談ありといふは即ち其の事なり。但し此話は従前未だ世上に顕れざりしものにて、余は今回右の坂本氏家本家の旧系図書類披見する際測らずも之を発見せしなり。
扨其物語とは如何にといふに右古系図中に古き包紙におかあ殿事蹟と書きたる一巻あり、之を披き見るに坂本家五代八郎兵衛を宛て元文中真島端斎名義の手紙一通あり、其文左の如し。

豊永左兵衛殿

 九州豊前国宇佐郡蓮台寺の麓より来る

おか阿どの
小笠原源忠頼

大和国吉野之住須藤加賀守殿の娘なり、乱世の時土佐の国へ落給ふが道迄敵六人追掛即ち勝負之由、おかあ殿少し薄手をおはれ敵に待てといふ言葉をかけ、左の小袖を引きちぎり鉢巻にあて又戦ひ終に六人を切留め、夫より土佐の豊永に落ち給ふ。土佐にて合宿と見えたり。
尤も弟一人妹一人つれて被落由、弟は須江村すえむらに有付き跡有之哉不存候。妹は才谷へ被嫁之由是即ち貴様御先祖に可有御座候云々、未御意候得共、ケ様の事は聞度物にて御座候故云々、伝聞のまま記進申候。今年八十三に相成候故手ふるひ見わけがたく可有御座候。

十一月十二日
真 島 端 斎
才谷屋八郎兵衛殿

即ち此文意によれば坂本家の先祖太良五良の妻女は、大和国吉野須藤加賀守の妹娘にて、右の話に見えたる女丈夫おかあ殿の実妹なり。おかあ殿は豊前宇佐郡より来れる小笠原忠頼、土佐にて姓名を改めたる豊永左兵衛の妻女となりし者の如し。
抑戦国の頃我日本に於て武家の婦人其気象雄々しく、男子に劣らぬ勇気の振る舞ある其例いと多し。天正の昔加賀前田家の家老奥村永富が三百騎を以て能登末森城に立寄り、佐々成政三千の兵を支へし時、奥村が妻たすき掛にて薙刀をつき、兵糧を運び城兵を励まして遂に寄手を破りしは有名の物語なり。其の外大名大臣の奥方が一家の末期に際し、笑ふて懐剣ののんどに貫き夫に殉ずる悲惨の物語は挙げ尽されぬ程の事あり。武田勝頼夫人が天目山にて夫に殉じ、柴田勝家夫人が北の荘城中にて又夫に殉ぜる事等、殊に歴史上有名の悲劇なり。此の如き武士道、死を軽んじ義を重んずる節義武勇の習慣が婦女子にまでも及ぶ事実は、古今東西我日本を除きて殆んど他に比類なき事なり。さても須藤の娘おかあ殿は如何なる一家没落の事情ありけん、今は其由を尋ぬる甲斐なきも、定めて戦国争闘の習ひとて一城一家廃滅の悲運に際会し、兎にも角にも妙齢美人の身を以て、年歯も行かぬ一人の妹一人の弟を引き連れて、心ならずも住み馴し花の都の吉野の旧里を忍び出で、いづくを指さすともなく宙有ちううの旅の空に立ち出でて、一樹一河の縁を尋ねて心細くも落ち行く有様はげに一部の悲劇なりとや申すべけん。
然るに当時戦国の習とて凡そ落人の通過することあれば、村の百姓野武士は群れ集まりて、其金銀武器類をかすめ取るを例としたることなれば、此時も定めて若干そこばく野武士が其目的を以て、好餌を追ふて来り脅かしたるものこれありしならん。然れど若此場合に当り、尋常へん々たる白面女子なりせばたちどころに其魚肉となるは疑ひなけんも、そこは流石に武士の娘なり。おかあ殿はちつとも騒がず、二人の弟妹を後に隠し少し待てと掛声し、甲斐々々しく振袖を引ちぎりて鉢巻となし、懐中に隠し持たる一刀引抜きて立向ひし光景は如何なりけん、其勇壮の姿絵にも見るべき光景にてげに古の巴御前板額女の武者振もよもや之に過ぎざりしならん。
偖も六人の敵兵共屈強六尺の大男にて、何とて不甲斐なき唯一人の手弱女たをやめに切り立てられ、枕を竝べて一刀の下に横死す、何ぞ其死様の見苦しきや。かくておかあ殿は不思議にも危難を免れ、所謂いはゆる虎の尾をみ毒蛇の日をのがれたる心地にてこゝを落ち行き、如何なる奇しきえにしによりてけん天さかる此ひなの地に来りて、遂に此土佐国長岡の深山里に安着なしぬ。然しておかあ殿の妹女は其事跡を知らざるも亦同胞の血を分ちしものとて、定めて其人格器量もとより尋常婦女子に卓越せしものありしこと疑ひなけん。然して其妹女こそ正しく坂本家の初代たる江州坂本村より土佐才谷の里に移住せる、坂本太良五良の妻女たりしは実に不思議の奇縁と申すべし。げにも其十代の子孫たる坂本龍馬が才気卓落として一世の傑物たりしも亦偶然にあらずとやいはん。
さても山田去暦の女阿案の物語は久しく世上に流伝し、今や歴史研究家として其名を知らざるなし。然して坂本氏の祖先の同胞須藤の娘おかあの事蹟は、久しく同家の系図箱に秘め置きし為め、今日まで世に聞えざりしは遺憾の至りにたえず。然れど坂本氏は今や昔日の全盛にあらずと雖も祖伝は系書は敬重して之を保存し、殊に真島氏の書翰の如き煤色模糊たる古ちょ紙が、辛ふじて蠹魚とぎよの飼を免がれて今日に伝はりしは、不思議の幸運なりといふを得べし。
余は坂本家の先祖が江州坂本より来りたりとの説は信ずるも、其の果して明智氏にして源氏なりとの説は猶研究の余地あるべしと信ず。但何にせよ江州出身の武家にして、然して其初代の妻女は大和の名族須藤加賀守の娘たりしとの事実は、明かに之を証するを得たり、是れ以て龍馬伝の一補遺となすに足るべし。