高知県の漢学者、川田瑞穂による楢崎龍女史の坂本龍馬回想録(明治32年)
(二回)
◎吉村(寅太郎)さんには私は逢つた事は有りませぬが、龍馬が常に話して居りました。大和へ行く前に京都の骨董屋で緋威の鎧を百両で買ふ約束をしてあつたそうですが、旗挙の期日が迫つて急に京都を飛出したので、金は払はずに其鎧を着たまゝ戦つて死んださうです。骨董屋は[#「骨董屋は」は底本では「骨菫屋は」]損をしたが苦にもせず結局喜しがつて、私は土州の吉村に百両の鎧をやつたなどと、近処隣に吹聴して居ましたそうな。
◎龍馬は詩は作らなかつたのです。何時か京都の宿屋で主人が扇を出して詩を書いてくれと云ふから一首作つて書いてやると、側で見て居た薩摩の有馬彦十郎が、君の詩には韻字が無いぞと云ふから、ウム詩は志を云ふ也と云ふから韻字なんか要らぬと云ふと又、名前の下へ印を捺かねばいくまいと云ふから、袂の中から坂本と鐫つた見印を出して捺いてやつたさうです。龍馬が笑つて話しました。
◎近藤勇は三十一二の年恰好で顔の四角い様な、眉毛の濃い、色の白い、口は人並より少し大きい奸物らしき男でした。寺田屋のお登勢を捕へて新撰組の定宿と云ふ看板を出せと剛情を云つたのですが、お登勢も中々しツかりした女ですから承知しなかつたのです。あの壬生浪人と云ふのは謂はゞ新撰組の親類の様なもので、清川八郎が頭で、京都の壬生村に本陣が有つたのです。それで当時は此浪人をみぶらふ〳〵と云つて居りました。
◎私の父の墓は京都の裏寺町の章魚薬師の厨子西林寺と云ふ処にあります。お登勢の死んだのは確か明治五年でした。私は東京に居たですから死に目には得逢はなかつたのです、残念ですよ。
◎海援隊の船は横笛丸、いろは丸、夕顔丸、桜島丸の四ツで、龍馬が高杉(晋作)さんに頼まれて下の関で幕府の軍艦と戦つた時乗て居たのは此の桜島丸です。いろは丸は紀州の船と衝突して沈没しましたので、長崎で裁判が有つて償金を出せ、出さぬと大分八釜敷かつたのです。此時分龍馬が隊中の者を連て丸山の茶屋で大騒ぎをして「船を破られた其の償にや金を取らずに国をとる、国を取て蜜柑を喰ふ」と云ふ歌を謡はせたのです。ホヽ可笑しい謡ですねえ……。
◎長州の長府(三吉慎蔵の家なり龍馬等其家に寓す)に居た時分直ぐ向ふに巌流島と云つて仇討の名高い島があるのです、春は桜が咲いて奇麗でしたから皆なと花見に行きました。或晩龍馬と二人でこツそりと小舟にのり、島へ上つて煙火を挙げましたが、戻つて来ると三吉さん等が吃驚して、今方向ふの島で妙な火が出たが何だらうと不思議がつて居りました。岸からは僅か七八丁しか離れて居ないので極々小さい島でした。