坂本龍馬全集/三吉慎蔵日記
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慶応二年丙寅正月元日
一、御内命ヲ以テ当時勢探索ノ為メ、土州藩坂本龍馬ヘ被二差添一出京之義被二仰付一候ニ付、即刻長府出立ニテ馬関ニ至リ、福永専助宅ニ於テ初メテ坂本氏ヘ面会ニ付、印藤聿(長府藩士)ヨリ引合セ、三名一同方今ノ事情懇談、一夜ニシテ足ラズ、翌二日ヨリ同宿シ、協議ノ上至急登京ノ事ニ決シ、出船ノ用意ヲ為ス。
時ニ急便ナク止ムヲ得ズ五日迄滞関ス。
同月六日
一、日切船ヘ乗組ミ同十日出帆ス。風潮不順同十六日神戸ヘ着、直ニ上陸ス。此地ヘ一泊シ入京ノコトヲ計ル。
同月十七日
一、神戸湊川ニハ岡藩(中川氏)ノ警固アリ。神戸ヨリ通船ニテ上坂ス。細川左馬介、寺内新左衛門ハ坂本氏ヘ随行二付同伴ス。
両名モ土佐ノ人ナリ。
同月十八日
一、大坂薩州邸ヘ坂本氏一同到ル。留守居木場伝内ヘ面会シ、事情聞取候処、入京成リ難キ趣ニ由リ、木場氏ヨリ薩藩ノ船印シヲ借受ケ、坂本氏ヲ始メ薩藩人ト仮称シテ入京ノ用意ヲ為ス。夜ニ入リ大坂城代大久保越中守宿所ヘ坂本氏訪問ニ付同行ス。越中守ヨリ内密示談ノ趣ハ、坂本等事ハ探索厳密ニテ目下長州人同行ニテ入京ノ旨相知レ、其沙汰アリ手配リ致シタルニ付早々立退キ候方、然ルベシトノコトニ因リ、坂本氏一同切迫ノ情態ヲ察シ直ニ宿所ニ帰リ、用意ノ短銃ハ坂本氏、本込銃ハ細川氏、拙者ハ寺町地方ニテ手槍ヲ求メ、各々約ヲ定メ速ニ上京ト相決ス。
同月十九日
一、薩州藩士坂本龍馬上下四人ト船宿ヘ達シ、川船印シ相建テ伏見ヘ通船ス。
一、八軒屋ニハ幕府新撰組出張ニテ人別ヲ改ム。
一、八幡淀ノ間ハ淀藩之ヲ固メ、山崎ノ方ハ津藩之ヲ固メ、川中ニハ所々船番所ヲ設ケ往来ヲ改ム。伏見豊後橋辺ハ水口藩ヨリ固ム。右ノ如ク厳重ノ警固ノ処、一同無事ニ伏見船宿寺田屋方ニ著ス。
同月廿日
一、坂本氏及ビ細川、寺内等先達テ入京シ、目今ノ事情探索シ、後レテ拙者ハ上京ノ事ニ約シ三名出立ス。因テ拙者ハ薩藩士ノ都合ニシテ、寺田屋ヘ潜伏シ、京情ノ報ヲ待ツ。
同月廿一日
一、幕府新撰組廻番昼夜厳重人別ヲ改ム。因テ此時ハ二階夜具入レ物置キ等ニ潜ミ其場ヲ避ク。
同月廿二日
一、一橋公宇治ヘ進発用意トシテ伏見市中、戸別調ラベ厳重ニテ進退切迫ノ処、弥ヨ一名潜伏ト見認メヲ受ケシガ、頓テ内達アリテ寺田屋ヘ薩人一名止宿ノ様子ニ付、追々取調ベ候得共不審無レ之者ニ付、差置可レ然トノ由報知ヲ受ケ、益ス寸暇モ油断不ニ二相成一ニ付、用意ノ銃槍臥蓐中ニ蔵シ覚悟ス。
同月廿三夜
一、坂本氏ノミ京師ヨリ来着ニ付キ、兼テ約シ置キタル通リ手当致シ、夜半迄京師ノ様子尚ホ過ル廿一日、桂小五郎西郷トノ談判(薩長両藩和解シテ王政復古ヲ企画スルコト)約決ノ次第、委細坂本氏ヨリ聞取、此上ハ明廿四日出立ニテ入京ノ上、薩邸ニ同道ト談決シタリ。サレバ王道回復ニ至ルベシト一酌ヲ催ホス用意ヲナシ、懇談終リ夜半八ツ時頃ニ至リ、坂本ノ妾二階下ヨリ走リ上リ、店ロヨリ捕縛吏入込ムト告グ。直ニ用意ノ短銃ヲ坂本氏ヘ付シ、拙者ハ手槍ヲ伏セ覚悟ス。此時一士刀ヲ携ヘ両人ノ休所ニ来リ、不審ノ儀有レ之尋問スト案内ナク押入ル。両人誰何シ薩藩ノ止宿ヘ不礼スナト叱レバ、彼レ偽名ナリト云フ。故ニ疑ヒアレバ当所ノ薩邸ヘ引合フベシ、明白ナリト云フニ、彼レ又タ云フ。両人共武器ヲ携ヘ居ルハ如何ト。是レ武士ノ常ナリト答ヘシニ彼レ階下ニ去ル。此機ニ乗ジ楼上ノ建具ヲ一目ニ打除ケ、拙者ハ手槍ヲ構ヘ坂本氏ヲ後ニ立テ必死トナル。忽チ階下ヨリ数人押シ上リ、各々得物ヲ携ヘツ、肥後守ヨリノ上意ニ付キ慎ミ居レト声高ク呼ビ立ツルニ因リ、我レハ薩人ナリ上意ヲ受クベキ者ニ非ズト云フヲ相図ニ、兼テ約セル覚悟ノ通リ、一同銃槍ヲ以テ発打シ突立ツル。彼レニ死傷アリ階下ニ引退ク。其際一名坂本氏ノ左脇ニ来リ刀ヲ以テ拇指ヨリ持銃ニ切リ付ク。坂本氏傷ヲ負フ。此時槍ヲ以テ防ギシモ坂本氏装薬叶ハザル由ヲ告グルニ由リ、此上ハ拙者必死ニ打チ込ント云フヲ坂本氏引止メ、彼レ等退キシ猶予ノ間ニ裡手 ニ下リ、此場ヲ切リ抜ケ去ルベシト云フ。其意ニ任セ直ニ坂本氏ヲ肩ニ掛ケ、裏ロノ物置ヲ切リ抜ケ、両家程ノ戸締リヲ切リ破リ、挨拶シテ小路ニ遁レ出デ、暫時両人トモ意気ヲ休メ夫ヨリ又走ル。途中寺アリ此囲板ヲ飛ビ越ントスルニ、近傍多数探索者アル様子ニ付、路ヲ転ジテ川端ノ材木貯蔵アルヲ見付ケ、其棚ノ上ニ両人トモ密ニ忍ビ込ミ、種々死生ヲ語リ、最早逃路アラズ此処ニテ割腹シ彼レノ手ニ斃ルヲ免ガルニ如カズト云フ。坂本氏曰ク死ハ覚悟ノ事ナレバ君ハ是ヨリ薩邸ニ走附ケヨ、若シ途ニシテ敵人ニ逢ハヾ必死夫レ迄ナリ。僕モ亦タ此所ニテ死センノミト。時既ニ暁ナレバ猶予ムツカシト云フ。其言ニ従ヒ直ニ川端ニテ染血ヲ洗ヒ草鞋ヲ拾フテ旅人ノ容貌ヲ作シ走リ出ヅ。其際市中ノ店頭ニ既ニ戸ヲ開クモノアルヲ以テ、尚ホ心急ギニ弐町余リ行ク。幸ヒニ商人体ノ者ニ逢ヒ薩邸ノアル所ヲ問フニ、是ヨリ先キ一筋道ニテ三丁余リナリト云フ。即チ到ル。留守居大山彦八出迎ヘ、昨夜ノ様子ハ坂本氏ノ妾来リテ注進ス。行違如何ヤト煩念ノ処天幸ナルカナ、此ニ遁レ来ルトハ。今マ坂本氏ハ無事ニ連レ帰ルベシ、三吉氏ハ是ニ止リ居ルベシト云ヒ捨テ、大山氏自ラ船ニ印ヲ建テ、有志両三名ト棹シテ坂本氏ノ潜処ニ到リ、迎ヘテ還ル。一同鬨然愉快ノ声ヲ発ス。爾後門ノ出入ヲ厳守セシメ、急ニ京師西郷大人ノ許ニ報ズ。因テ吉井幸輔乗馬ニテ走セ付ケ尋問ス。具サニ事情ヲ語ル。又西郷大人ヨリ兵士一小隊医師一人差添、坂本氏ノ療治手当方両人守衛ノ為メ差下ス由ニテ来着ス。実ニ此仕向ケノ厚キ言語ニ尽ス能ハズ。夕刻ニ至リ両人共ニ衣服ノ仕向ケ有レ之。然処薩邸ヘ走リ込ミタル段、奉行所ヨリ留守居所ニ礼問ニナリ、両人共ニ可シ二相渡ス一ト申来リ候得共、右様ノ者ハ邸内ニハ無レ之ト申シ切リ候。夫ヨリ人数ノ手配ヲナシ探索更ニ厳ナリ。或ハ京坂ヘ人相書ヲ廻シ頻リニ薩邸ヲ窺ヘドモ、邸内ニハ一小隊兵士ノ守衛アル故、妄ニ手ヲ着クルコト能ハズ。扨寺田屋ニハ変動ノ翌日探索者至リ家内ヲ検シ、遺コシ置キタル銃鎗及ビ書類用金等ヲ拾ヒ揚ゲ、奉行所ニ取帰リ候由。
寺田屋儀モ引合トナリ糾問厳重ナル旨、帰邸ノ後チ告ゲ来ル。
坂本氏ハ追々快方ニテ本月廿九日迄伏見薩邸ニ滞在ス。
二月朔日
一、西郷大人ノ命ニテ両人共上京可レ致トノコトニ付、吉井幸輔乗馬ニテ兵士一小隊ヲ引キ迎ヘトシテ来ル。同夜坂本一同幷ニ妾附添、京師薩邸西郷大人ノ宿処ニ到ル。大人出迎ヒ直ニ居間ニ坐シ事情ヲ語ル。拙者ハ初メテノ面会ナレドモ其懇情親子ノ如シ。又タ一室ヲ設ケ、坂本両人幷妾ドモ三人ノ休処トセラル。
是ヨリ日々時勢ノ動静或ハ諸建白尚ホ西郷大人ノ他人ヘ尋問等ノ件々迄懇諭ヲ受ク。諸有志二三名宛昼夜休所ニ来リ、慰労シテ相語タル。此時小松帯刀、島津伊勢、桂右衛門三名ハ大夫、西郷吉之助ハ中老ノ取扱ナリ。大久保市蔵、岩下左次右衛門、伊地知正治、村田新八、中村半次郎、西郷新吾、大山弥助、内田忠之助、伊集院金次郎、中路権右衛門、野津七左衛門、鈴木武弥、児玉四郎吉、医師木原泰雲等ノ人々日々来話、懇情至ラザルナシ。時ニ薩長和解弥ヨ王政復古ノ為メ、尽力兵備ノ手当ヲナスニ決シ、西郷、小松、桂ヲ始メ、一ト先ヅ帰国ノ事ト定メ、二月廿九日夜京師出立ニ付、坂本両人妾トモ同船ニテ、拙者ハ馬関ヘ坂本ハ鹿児島ヘ同行ストノ事ナリ。依テ附添ヒ同夜伏見ニ着ス。数人ノ有志伏見ニ送リ来ル。三月朔日大坂蔵屋敷ヘ着シ、四日朝川船ニテ下リ薩藩蒸気船三邦丸ニ乗ル。五日朝大坂沖出帆、七日夜馬関ヘ着ス。直ニ通船ニテ拙者ハ上陸シ鶏其他赤間関硯等ヲ購シ、西郷ヲ始メ諸氏ヘ離別ノ寸志トシテ船ニ持参ス。間ナク出船、因テ厚謝シテ別ル。又タ坂本ヘハ他日馬関ニ来ルコトヲ約ス。夫レヨリ拙者揚陸シ、常宮屋六左衛門方ヘ暫時休息ノ内、伊藤九三来訪ス。夜半長府マデ通船ヲ雇ヒ帰ル。
同月八日
一、勝山御殿ヘ出頭、京師ノ事情薩長和親ノ件々君公ニ言上シ、且ツ之ヲ重役ノミニ談ズ。
同月九日
一、命ニ依リ長府出立、山ロニ到ル。十四日宗家君前ニ召出サレ左ノ達書ノ通リ賜モノヲ拝ス。
新身刀一振
長府 三 吉 慎 蔵
右先達テ時情探索トシテ薩 藩坂本龍馬同道京摂間ヘ罷登、種々苦辛之折柄於二伏見一不慮之儀致二出来一其砌別而艱難ヲ経、龍馬トモ相扶罷帰上国之模様委細ニ及二于報知一不二容易一遂二苦労一神妙之事ニ候。依テ右之通拝領被二仰付一候事。
同月十五日
一、山口御用相済ミ出立、十六日帰府ス。十九日勝山御殿ニ御用召、左ノ通御賞賜ヲ蒙ル。
三吉慎蔵ヘ申渡覚
其方儀、当正月御内用ニ付、京師ヘ被二差登一候途中、於二伏見宿一危難有レ之候処、遂二其節一候段被二聞召一不レ辱二御家名一全、兼而武門之嗜宜奇特之至被二思召一候。依テ御蔵米弐拾石被二増下一都合六拾石被二仰付一旨候、以上。
一、龍馬妾ヲ携ヘ薩州ヨリ馬関ニ来ルヤ、伊藤九三方ヲ寄留処ト定メ、妾ヲ同家ニ留メテ、竊カニ東西ニ奔走シ時勢ヲ慮リ国事ヲ勤ム。往来必ズ関ニ滞リ、福原、福田、品川、熊野、梶山等ノ諸子ヲ勧誘シ、且ツ長防ノ国難ヲ解キ、君民勤王ノ素志ヲ遂ゲシメンコトヲ図ル。藩主之ヲ嘉ミシテ短刀(備前吉光)ヲ恵贈シ、且ツ臨時ノ費用ヲ扶クルコトアリ。其海援隊ヲ長崎ニ組織スルニ当リテハ、有志等往テ懇論ヲ受ルモノアリシ。龍馬又タ慎蔵ノ宅ニ留滞アリ寄書数通載セテ別冊トス。其徒石川清之助亦夕屢バ来藩周旋スル所多シ。其手翰モ別録ニアリ。我ガ藩士ノ龍馬ニ交ルハ印藤聿ヲ最初トス。
一、慶応三年丁卯十一月十五日、京都瓦町四条上ル近新ト云フ家ニ龍馬、清之助及ビ、関直次郎 止宿ノ処、夜四ツ時過ギ賊三人虚ニ乗ジ、不意ニ切込ミ殺害ス。龍馬ハ同夜死シ、清之助ハ十七日ニ死シ、直次郎ハ十六日ニ死ス。
右ニ付長崎ナル海援隊ヨリ浦田軍次郎飛報トシテ十二月二日馬関来着、事ヲ告ゲテ直チニ帰府ス。此報ヲ得テ即時馬関伊藤九三方ニ到リ、有志ニ報知シ、談合ノ上、変事ヲ坂本ノ妾於良ヘ諭示ス。此時ニ当リ同志ノ長崎ニ滞ルモノ挙テ上京ヲ計レリ。
一、妾於良ハ遺言ニ因リ十二月十五日慎蔵宅ニ引受ケ同居ス。就テハ藩主其情ヲ憐ミ扶助米アリ。且ツ於良ノ妹(キンメイ)事兼テ龍馬ノ内意ニテ菅野覚兵衛ヘ娶ハスベキノ約アリ。故ニ同女モ姉ト共ニ同居セシム。
一、明治元年戊辰
王政復古。正月五日、中島作太郎来藩訪問ニ預ル。時ニ他出シテ面話ヲ得ズ。一書ヲ遺コシテ馬関ニ到リ泊ス。翌日出関会話ス。
一、海援隊ノ諸士協議ノ上、土州ヘ於良引取ノ事ニ決シ、終ニ馬関ヨリ土佐ナル坂本姉ノ住処ニ護送ス。時ニ明治元年三月ナリ。
一、龍馬ノ遺物トシテ正宗ノ刀ヲ受ク。中島氏ヨリ之ヲ贈ルナリ。
一、後藤氏ヨリモ謝儀トシテ、土佐国産ノ美紙ヲ贈ルヲ受ク。