坂本龍馬の手紙/慶応3年4月28日付菅野覚兵衛・高松太郎宛
拝啓。然に大極丸は後藤庄次郎引受くれ申候。そして小弟をして海援長と致し、諸君其まゝ御修業被成候よふ、つがふ付呉候。是西郷吉が老侯にとき候所と存候。福岡藤次郎此儀お国より以て承り申候。然に此度土州イロハ丸かり受候て、大坂まで急に送り申候所、不計も四月廿三日夜十一時頃、備後鞆の近方、箱の岬と申所にて、紀州の船直横より乗かけられ、吾船は沈没致し、又是より長崎へ帰り申候。何れ血を不見ばなるまいと存居候。其後の応接書は西郷まで送りしなれば、早々御覧可被成候。航海日記写書送り申候間、御覧可被成候。此航海日記と長崎にて議論すみ候までは、他人には見せぬ方が宜と存候。西郷に送りし応接書は早〻天下の耳に入候得ば、自然一戦争致候時、他人以て我も尤と存くれ候。惣じて紀州人は我々共及便船人をして、荷物も何にも失しものを、唯鞆の港になげあげ主用あり急ぐとて長崎に出候。鞆の港に居合せよと申事ならん。実に怨み報ぜざるべからず。
早々頓首。
四月二十八日 才谷 龍
菅野覚兵衛様
多賀松太郎様
追而船代の外二千金かりし所、是は必代金御周旋にて御下被成るよふ御頼み申候。
別紙ハ航海日記、応接一冊を西郷ニ送らんと記せしが猶思ふに諸君御覧の後、早々西、小松などの本ニ御廻、付てハ、石川清の助などにも御見せ奉願候。又だきにて御一見の後、御とゞおき被成候てハ、不安候間、御らん後、西郷あたりニ早〻御見せ可被下候。実ハ一戦仕りと存候間、天下の人ニよく為知て置度存候。早々。
四月廿八日 龍
菅野様
多賀様