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嘉吉物語
 
夫春の花の樹頭にのほるは、上求菩提の機をすゝめ、秋の月の水庭にしつむは、下他衣生の相を顕、人間有為無常のありさま、因果の道理のかれかたき物也、抑嘉吉元年六月廿四日の事成に、当将軍普広院殿を、赤松殿のやかたへ御申有けり、去程に、山海国土の珍物をとゝのへ、ふるきをやふりて、あたらしくつくり、主殿雑舎申におよはす、前代未聞のありさま、中々申計なし、然所に。あるかたよりひそかに申されけるは、今日将軍の御成は、よきにあらす、赤松の一門ことく日のうちに。御退治あるへきとの御たくみ也けるよし聞えけれは、一門のさわき申にをよはす、去程に。赤松の左馬助殿、ひとま所に立入給ひ、彦二郎御曹司をちかつけ給ひて、おほせられるやうは、抑赤松の一門、代々天下の御用に立、一命をかろんして名を上、四海静謐におさまること、我々か先祖の忠勲によりてなれは、当御代まても、心さしふかき兵とて、御ふちこそ御入なくとも、御対治あるへきとの一御たくみは、あまりに不便きはまりなき事也、そうして此ほとは、一門御かんとうをかうふりて、入道さひの出仕にてなきあひた、此事をこそ明暮侘つるに、思ひもよらす。御成あるへきとの仰なれは、まことに一門一家のよろこひ、この事成とて、有もあらさるもたのしみをなし、喜悦の眉をひらき、案堵のおもひをなし、大慶也し処に、思ひもよらす、一門ことく御対治あるへきとの御所存、中々申に及はす、所詮思ひ出したる事有、善と云もあくと云も、みな是前業よりあからしむる所也、かやうにおもひ立事も因果にてこそ有らん、後の代のためしに名将軍オープンアクセス NDLJP:7の御頸を給て、名を末代にとゝめはやと存するなり、乍去我々か事は庶子の事なり、万事は貴方の御はからひたるへし、よく御思案にて、一門にもひらう、有へしとのたまひけれは、御曹司しはらくは返事もなし、良ありてのち、助殿にむかひてのたまひけるは、仰尤やすき所なし、乍去思ひわけたるかたもなし、一門をたすけんとすれは、三代そうおんの主君の御命をたまはらん事、天命もいかゝなり、きみをかなしみたてまつれは、我一門一家たちまちにほろひぬへし、かなしき哉や、前生の宿因、おしからさるは我命也とのたまひて、あんしわつらひしか、よしちからなし、提婆かあくも観音の慈悲、盤特か愚痴も、文珠の知恵と承はれは、善有はあくあり、すなはち仰にしたかひ申さんとて、御座敷立給びて、御一門の人々に、宇野柏原ならひに喜多野浦上の一族、安積中村弾正をめしよせ給ひて、此事を御たんかう有しに、我もうつたつ兵、数百人ありけれとも、大勢は叶ましとて、物のくして、御座敷に御出ある人々には、先赤松の彦二郎との、同左馬助殿、御内かたには、浦上の四郎、安積中村の弾正、そのほか大かうの兵廿一人御供申て、御前に参る、助殿は右の御手にとりつき給、彦二郎殿は、左の御手にとりつき給ふ、其時御所様、こはそも何事そと仰られしかは、助殿、かまへて御恨有へからすと申され、かたしけなくも、御頸をは安積給はりて、御狩衣の袖につゝみ奉り、大門小門さしかため、彦二郎殿を大将にて、喜多野浦上安積彦五郎をはしめとして、大剛の武者七八十人、御座敷の御供の大名に、切てかゝりけれとも、かねてより、御なさけなききみにてましませは、心をよせす、みなおちゆかせ給ふ、赤松方にも、さすか敵にてもなかりけれは、おひにかし給ふ、時刻うつしてはとて、彦二郎殿左馬助殿、みな御きせなかをぬきおき給ひて、おもての広縁にしき皮しかせ、大門ひらき、うつてむかひなは、腹きらんと仰られて、御一門に、ならひに若党百三十六人、ひとつ座しきになをりて、御曹司助とのをはしめとして、我先に腹を切らんと、思ひ切たるいきほひは、ほうわうの羽つかひもかくやとおもひしられたり、然共諸大名は、一人も赤松殿のいきほひにおそれて、うつてにむくへき了簡はなくして、めんの覚悟をこそめされけり、去程に、赤松の一門、かくて有へき事ならす、うつてもなく敵もなし、さらは国へ下るへし、急きみな用意せよとて、御みつから酌をとり、さけをすゝめ給ひて、よろこひの中のなけき、なけきの中のよろこひとて、やかて屋形に火をがけ給へは、さすか薨をならへし、玉の宮殿楼閣も、一度に煙とたちあかりけれは、赤松の一門、都合其勢三百八拾九騎にて、馬をはやめてうち給ふ、先陣は浦上の四郎宗安、二番常陸彦五郎殿、三番は赤松伊予守、四番は赤松大膳大夫殿の御輿、五番には安積、青黄糸の腹まきに、同し毛の五枚甲の緒をしめ、ひやくたんみかきのすねあてに、くり毛なる馬にのり、かたしけなくも、将軍の御頸をさゝけて、笑を含て下りけれは、心なきものともは、あらさてこりの御ありさまや、あれをみよとて、さゝやきわらふもあり、又はあらあさましの御事やとて、涙をなかすものも有、人の心ほとまちなる物はなかりけり、さて一門みな御供申て、六番には彦二郎御曹司、七番は左馬助殿、八番は能登守、九番は喜多野兵庫、十番は中村弾正、都合其勢七百余人、西の洞院をくたりに、馬をオープンアクセス NDLJP:8はやめ、むちをすゝめ給ふほとに、程なく六月廿五日の午の刻に、はりまの国河合の堀殿の城につき給ふ。備前美作の御勢は申におよはす、国々の、大名小名のあつまり給ふ程に、七月廿四日の着到に、三千九百七騎とそしるされける、去間、御所様の御頸をは、安国寺にて御荼毗をめされけり、諸出家数百人御供にて、御たひの儀式おひたゝし、さる程に、赤松の大膳大夫殿、白しやうそくのひたゝれをめされて、三重に床をかきて、金地のにしきのうへに御くひをすへ、御まへにかしこまりて申させ給ふ様は、あかまつの一門、代々天下の御用にたち、むほんのともからをしつめて、ふたこゝろなく、奉公にくらからぬやから也、そのゆへ、一とせ尊氏将軍、都のいくさにうちまけさせ給ひて、此赤松を御たのみありて、御下向ありけれは、三ヶ国の勢を率して、きの山白の城をかまへて、諸国の勢をうけとゝめて、三ヶ年間ふせきたゝかふ、もとより天下にならひなき城なれは、つひにおつる事なし、去程に寄手もちからなく引のきけり、雖然なをも御本意をとけさせ給はんとて、赤松の則村かしそくしなのゝかみ則助、二男ちくせんのかみ定則、三男権律師則祐をはしめとして、都合その勢二千八百余騎にて、都へせめてのほるよし、都に聞えありけれは、こゝやかしこに要害をこしらへて、ふせきたゝかふといへとも、一門かたをならへ、おもてをふらてたゝかひ、十三ヶ所の難所きりしたかへ、なんなく都にせめてのほり、今すてに君となり給ふも、是しかしなから、赤松かくんかうにて候はすや、またそのゝち、徳応三年の事にてあるに、南方の平家おこり、すてに河内国森口と申所に陣をとりて、同国の住人楠木の一門を大将にて、津の国の中島と雀か松原、小野のやとをかこひまはして、都にせめのほり、てんかをうちとらんとせしに、六人の諸大名は、御所様にうらみのしさいありとて、ふせくへき手たてもなし、さて有へきにてあらされは、赤松とふやう、都みたれてかなふましとて、三ヶ国の勢を率して、津の国中島に陣をとりて有しを、一方におひなして、七日七夜昼夜のあひたせめたれは、さすかに心たけかりし平家の勢も、のこりすくなにうちなされて、つひにむほんかなはすして、心よはくも又吉野のをくの、あをねか峰をさして引こもりけり、その時の御恩賞に、馬の飼料にとて、中島を我々に永代たまはりし事、これもつてかくれなし、又そのゝち明徳二年正月一日の事なるに、山名奥州氏清、これむほんを思ひたち、都をくつかへさんとて、おゝくの勢をあつめて、八幡山に陣をとり、すてに都にうつてのほりけり、さるほとに、都のさわぎ申にをよはす、さて御所様の御勢には、先一色左京大夫殿五百余騎にて、三条おもてにひかへらる、去程に、小林二百余騎にて、きつさきをそろへて、おもてをふらす切てかゝりけれは、一色殿の勢も、こゝをせんとゝたゝかひけれとも、さすか小林名人なれは、御所かたの御勢をや、俄に九十余騎打とりて、いきほひいさみてありけれは、小林にひるみて、はせむかふものもなかりける所に、あかまつか勢、東寺のよつみかとにひかへて有しか、小林なれはとて、いかほとの事か有へきとて、赤松か手勢わつかに三百騎たらすして、小林かひかへたる陣へきつてかゝり、半時計おふつかへしつたゝかひけり、去程に、又一色とのゝ勢もいきおひをなし、とつてかへして切てかゝりけり、あまりにせめたてられて、名人の小林も、多勢に無勢オープンアクセス NDLJP:9かなはねは、かくるも引も時にこそよれとて、西の朱雀の観音の町まへまて引のきけり、然共いきをくれすおつかけゝれは、小林いまはかなはしと思ひて、むらさきの糸のよろひをぬひて、さいこのいくさなりとて、君よりはしめて十二代つたはりたる黒皮のよろひをきて、同毛の五枚かふとの緒をしめ、四尺八寸の長刀、くきなかにとりのへ、大勢の中にわつて入、抑奥州の御内に、小林上野守なり、けふのいくさのさきかけ也、敵にふそくはよもあらし我とおもはんものあらは、いさやくまんと名乗もあへす、大勢の中へきつて入、さんにたゝかひけり、おかりといへとも、小林運のきいめにや、敵の中より矢一すし来りて、小林か左のまなこをいぬきけれは、たけき心もよはと成て、終にむなしくなりにけり、一門みなみなちからをおとしける事、申に及はす、弟の三郎も小次郎も、みなはらをきりけり、奥州も一日のうちに、天下をうちとらんと、いきほひをなし給しかと、諸方のあひつたかひて、たのみたまひし小林もうたれけれは、心すこくも、たゝ一人御目害ありけるに、御かいしやくさへなくて、内野の露ときえ給ひし事も、是赤松かくんかうにて候はすや、そのゝちまた、和泉の国御退治のとき、先陣を給て、分国の勢をあつめてむかひけるに、駒のあしたち難儀にて、衛門の大夫秀則をさきとして、天下の御勢七百余人うたれ、それのみならす、惣して天下の御大事に、くんかうをいたす事、たひにおよへり、かやうの御感こそ、御代替には御わすれありとも、よしなき大夫か申事に御つき有て、とかもなき我々か一族を、御うしなひあり、ゆへもなく若党をきつてすてられ、あまさへ我らを御対治あるへきとの御たくみにより、現在にそのむくひありて、我々か若党の手にかゝり給ふ事、しかしなから、御先祖の御起請に、赤松絶は、我もたえんと、七枚あそはして、八幡と御所様と我々か家とに御おき有なから、それを御わすれにて、かやうの事をおほしめしたち候ゆへかとおほゑて候、さりなから、今度の事は、さらさら入道夢にもそんし申さす候、さためて京都よりも、討手むかひなは、入道も腹切て、みつ勢川しての山にては御とも申へし、もしまた命すこしもなからへ候はゝ、御菩提をはねん比にとふらひ申へしとて、御かりきぬにつゝみたる御頸をひきあをのけて、三度礼し給へは、座中にまします人々も、けにことはりの御事也とて、みなひたゝれの袖をそしほられける、かくてあるへき事ならねは、栴檀くわりんの木をもつて、御輿をつくり、助殿は後、彦四郎殿は御前にて、手すから御こしをかき給ふ、入道殿もわきこしにまいられけれは、其外の一族百余人、若党千人はかり御ともにて、御荼毘ありけり、怨をは恩にてほうするとかや、孝養真実報恩者とゝかれけるとかや、されは涙もさらにとゝまらす、なをも入道殿は、まことに御なけき深くして、せんたんたき木につみこめ奉る所にて、涙をなかし申されけるやうは、あさましの御事や、都にて御いたはりありて、御他界はあるならは、国々の大名たちにあふかれて、貴賤上下御ともにまいりなは、さもいみしく御入あるへきに、我々か一門はかり御とも申、御頸はかりを爰にて御けうやう申、すかたは都にとゝまり給ふ事、いたはしきかな、かなしきかなや、よく一念い御うらみあるとも、二念を御つきなく、現在の御かたき我々計とおほしめし候はて、過去の因果ほうへんオープンアクセス NDLJP:10のためしとおほしめし、あくしんひるかへして、一仏浄上の縁と成、おなしく仏果にいたり給ふへし、すてに観見法界なれは、見仏聞法の徳、なとかなからん、草木国土悉皆成仏ときく時は、いつれの輩か、仏果にいたらさらんや、けにたのもしき御事なり、せん世の業因にて、今はかくのことく御入候とも、来世にては、仏果にいたり給へとそ申されけるさるほとに、都よりは山名修理大夫殿大将にて、細川讃州その外諸大名、都をうつたつて、赤松たいしのために下給ふ、あかまつ方にも、おもひさためたる事なれは、今さらさわくへき事にもあらすとて、書写坂本にましけるか、あまりに平要害なれはとて、木の山白はたの城をこしらへて、乱杭さかも木くるまひしをうゑたて、ほりよこほり重々にこしらへて、まことにおひたゝしきふせいなり、さるほとに、あか松かた、あなたこなたへ、勢つかひせられけり、但馬へは、赤松龍門寺殿を大将にて、上原備後守をあひそへ、都合そのせい一千余騎をさしつかはす、又一谷口蟹坂へは、常陸の彦五郎殿大将にて、都合その勢八百余騎さしつかはす、丹波の三草口へは、能登守殿国祐を大将にて、五百余騎さしつかはす、その外口々つまりに関をすへ、要害をこしらへて、よせくる敵をまちかけたり、さるほとに、京勢細川讃州、伊予のかうの殿、あきの武田殿、その外の御勢八万三千八百余騎にて、八月十二日、すてに一谷口まてつき給ふ、本よりおもひさためたる事なれは、あかまつ方には、常陸の彦五郎殿を大将にて、こゝをせんとゝふせきたゝかひけれは、よせての勢七十三きうたれて、蟹坂をはひきしりそき、人丸塚に陣をとる、赤松方には、わつかに人八騎うたれけり、さる程に此よしを書写坂本におはします、大膳大夫殿にちうしん申されけれは、入道殿申されけるやうは、いさや一党達、京勢我々をたいちのために下たれとも、さしたる事はよもあらし、いはらの御所を御供申、よせくる勢をけやふり、すくに都へうつてのほるへしとのたまひて、やかて着到をつけ給へは、都合その勢二万七千余騎にて、坂本をうちたちて、明石蟹坂につき給ふ、去程に、坂本の御勢をまたすして、浦上四郎中村弾正、夜まきれに、敵の城にきつていりけり、天命にてや有けん、ともうちをして、赤松方の勢三十八騎うたれけり、此事をやかて赤松大膳大夫殿にちうしん申けれは、おほきに腹をたて、やかて人丸塚におしよせて、七重八重にとりまはし、一度に時をつくりけるは、帝釈修羅のたゝかひも、かくやと思ひしられたり、さるほとに、細川のさぬきのかみ、伊予のかうの殿、あきの国の武田との、こゝをせんとゝたゝかひ、けふあかまつかたの勢も、こゝをせんとゝたゝかふて、せめけるほとに、京方の勢三百余騎うつとりけり、あかまつかたにも二百余騎うたれけり、しかりといへとも、赤松方は大勢とはいひ、能兵ともなれは、いきをくれすせめけるほとに、京勢かなはすして、すてに腹をきらんとし給ひしか、よ​本マヽ​​きよ​​ ​うしともにてましませは、細川さぬきのかみ、あきの武田殿、伊予のかうの殿申されけるは、上意なれはかなはす、一色これまてまかり下たりといへとも、さらわたくしのいこんなし、御免あらは降参申、随分忠節をいたすへしと、いろこんはう有けれは、赤松運のきはめにてや有けん、手に入たる敵をさしおきて、降参の上は、まつ陣をひけやとて、又蟹坂へひきのきて、いくさの僉儀をせられげるところに、天命のかオープンアクセス NDLJP:11れさるにや、赤松方にいろの物いひこといてきつゝ、但馬口へ山名殿大将にて京勢三万騎はかりむかはれしか、赤松方うちまけて、龍門寺殿い腹をきり給ふ、上原備後守もうたれて、京勢国中へせめ入よしきこえしかは、うしろをつゝまれてはかなふましとて、手に入たる敵をうちすてゝ、又坂本へ引しりそき給ふ、去程に赤松勢、ここやかしこにおち行つゝ、手勢わつかになりしかは、坂本をうちすてて、みな木の山の城にそたてこもられける、さるほとに、京勢夜を日につきてつゝく程に、追手讃州のせいと、からめ手山名殿の勢とひとつになりて、もみあはせ、木の山の城を取まはして、息をくれす、せめたゝかふ、本より名城なりしを、いよこしらへたりけれは、すこしもさはかす、ふせきたゝかひけるほとに、おつへきやうこそなかりけれ、かゝりける所に、城のうちには運命のつきたるにや、赤松伊予のかみ、同ひたちの彦五郎との、三百騎にて、京方へうらかへり給ふ、是すなはちかやうのたくみを、天下の御敵になりまいらせ侍らん事をかなしみて、かくのことく降参ありとそ聞えける、しかる間、あかまつ勢おもふよう、一番に御はらめさるへき御一門さへ、御うらかへり有は、いか様こゝろ元なしとて、みなかくれしのひておちけるほとに、城には御勢のこりすくなくなりにけり、さるほとにあかまつとの、今はかなはしとおほしめして、御曹司彦二郎殿をちかつけて仰あるやうは、かく有へき事はおもひさためたる事なれとも、いまさらのやうにこそおほゆれ、此城たゝいまおつへきならは、大勢せめ入て、雑兵の手にかゝらんもくちおしけれは、それかしは心しつかに腹をきるへし、汝は是より伊勢の国へ下りて、国司をたのみ侍へし、ちうおんのものなりしうへ、又内縁といひ、よもみはなさしとおもふなり、さりなから、たのまれさる物ならは、熊野のおくにおちゆきて、よからんする出家をたのみ、もとゆひきりあのひて、世をまつへしと申されしかは、彦二郎殿聞給て、なみたをなかし申さるゝやうは、仰はもつとも去事にて侍れとも、天神七代地神五代のはしめより、今にいたるまて、親子のわかれをは、かなしむならひとこそうけたまはれ、いかにいはんや、弓矢とりの身として、親をみすてゝ、わか身をたすからんと思ふ事、まつたくもつて有へかすと申さる、その時入道殿は、涙をおさへてかさねての給ふやう、何事もうやまはゝ、したかへと申たとへあり、なんちたとひ我と一所に腹をきりたりとも、親子は一世のちきりなれは、又むまれあふこともなきとこそきけ、今入道か命をそむく物ならは、我よみちのさはりと成て、こゝろうかるへし、汝はわかきものなれは、あとにとゝまりて、我かこ世をもとふらひ、又は自然の代をもまち侍るへし、けに入道かいふ事をきかぬ物ならは、弓矢八幡も御照覧候へ、二せまての勘当そとのたまひしかは、其時彦二郎殿、此うへはちからなし、ともかくも仰にしたかひ侍へし、さらは御最後の御さかつきをたまはらんと申されしかは、すなはち安積御酌に参りつゝ、たかひにさかつきをさしかはし、御いとまこひを申されて、御曹司はなく御前立給ひけり、さる程に彦二郎殿は、こゝふの兵六十人はかりめしくして、よにまきれ、敵の大勢にてとりまはしたる中をとをらせ給ふに、彦二郎殿も左馬助殿も、兵法をきはめられし威徳によつて、なんなくおちられけり、さて室の津にいたりて、ふねにのり、オープンアクセス NDLJP:12堺のうらにあかりつく、それよりも伊勢の国にくたりて、国司をたのみ給ふ処に、いつしかこゝろかはり給て、なさけなくも、国司は手勢三百騎はかりにて、彦二郎殿のおはします所へ押よせられけり、その時彦二郎殿は、たのみてきたるかひもなく、うらかへり給ふこそくちをしけれ、さらはさいこの一合戦して、こゝろよく腹をきるへしとて出たち給ふを、御ともの人々申すやう、御最後の出たちは、尤さる事にて御座候へ共、もし自然いふかひなき雑ひやうの手に御かゝり候なは、くちおしかるへし、たゝすみやかに、御腹めされてしかるへしと、いさめ侍けれは、けにけに是もことはりなりとて、年十九と申に、つひに御腹めされけり、御さいこの御時、一首の歌に

  たのむ木のかけに嵐のふきくれはまつのみとりもちりはてにけり

また御ふみをあそばして、菊童丸に給はりて、室の津に御手をかけ給ける、おもひ人のかたへ遣し給ふ、さてゆみやとる家にむまれぬれは、かく有へきこととはおもひさためたる事にて候へ共、いまさら御なこりおしうこそ候へとあそはして、おくに一首のうた有

  ちりはつる松のみとりの木末より花のすかたをおもひこそやれ

とあそはしてつかはされけれは、おもひ人、此御ふみを見て、さめとなきかなしみつゝ、いたはしや、なさけとひとしきみとりのかみをそりおとし、しはしはおこなひ侍りしか、我なから世になからへは、もし秋風にふきかへされて、葛の葉のうらめしき身ともなりなは、草のかけにて、なき人の見給はんこともはつかしかるへきとて、年十七と申には、室の入江に身をなけて、つひにはかなくなりにけり、その時一首のうたをよまれけり、

  うきことのまさりもやせん世にすまはいのちのありてなにゝかはせん

扨も赤松殿は、御曹司のおち給ひし時、その御うしろかけを見おくりて、しはしはたゝすみ給ひしかとも、つひに大勢の中へまきれ入給へは、さすか親子のわかれをかなしみつゝ、御袖をかほにおしあてゝ、なみたにむせひ給ひけり、そのゝち安積をめされて、城のうちの体は、いかやうに有候とゝひ給へは、あつみ申やう、城中には御勢もなく候、いまは御はらめされ候へしと申けれは、入道殿、さては心得たりとて、先東にむきて手をあはせ、伊勢天照大神へ御いとまこひを申されけり、さて又やはた山のかたを礼し給て、南無八幡大菩薩、入道にたゝ今腹をきりすまさせ給へと、きせいをなし、又西にむかひて、南無や西方極楽世界の弥陀修覚、われらたとひ極重の悪人なりとも、弥陀は超世のちかひおはしませは、かならす我等を安養世界にむかへさせ給へと、たなこゝろをあはせて、ふかくきせいをなし、御とし六十一と申には、つゐに御腹をめされけり、むねとの御一門六十九人、おなし座敷になみいて、みな腹をきられけり、さる程に、安積は此人々のしかいともを、とりひそめてのち、城中に火をかけて、腹をきらんとしたりしか、何とかおもひけん、こさくらおとしのよろひをきて、おなし毛の五まいの甲の緒をしめ、八尺あまりのしらえの長刀つゑにつき、みなみむきやの勢楼にあかり、大音あけて申やう、是は赤松とのゝ御内に、安積と申て、かたしけなくも、普広院とのゝ御くひをたまはりたるものにて候か、今まていのちなからへて、たひオープンアクセス NDLJP:13のかせんに、敵にうしろをみせす、高名仕り候也、よせ手の中に、大剛のつはもの我とおもはん人あらは、いさやよせ合、せうふを決せんと、たからかに名乗けれは、山名修理大夫殿の御内、村の助影安といへる兵、五人はりの弓に、矢をつかふてすゝみ出、安積殿のあまりに人もなけにのゝしり給ふに、ほそやづかにて侍れとも、矢一すしまいらせんとて、十三そく三ふせよつひき兵とはなちけり、安積かもちたるなきなたの石つきの上、三寸はかりをいとをして、あまる矢か、矢倉のふせきいたに、篦中すきてそいたてける、安積こゝろにおもふやう、いやかやうのものに、矢一すしにていころされん事は、くちをしき事なるへしとて、矢くらより下にとんており、大勢の中へわつていり、件の影安をめにかけて、おめきさけんてきつてまはる、本より安積は一騎当千の兵なれは、四かく八ほう、八はなかた十文字にきりまはり、きつておとす程に、手にたつものそなかりけり、やにはに敵十三騎きつておとしけり、去程に影安、いせんあたや射つる事を、むねんにおもひけれは、安積なれはとて、鬼神にてもあらしと、馬より下にとんており、安積とのいさやくまんとて、六尺あまりの大たちを、まつかうにさしかさしかゝりけり、安積につことわらひ、我等もさこそ存すれは、いさやせうふをすへしとて、くたんの大なきなたを小わきにかいこんて、おとりかゝる、影安も大たちにてたかひに剛の兵なれい、半時はかりたゝかひしか、さらに勝負はみえさりけり、安積心におもふやう、いせん影安かいたりし矢にあたりなは、さこそくちおしかるへきを、かくてわたり合たる事のうれしさよと、よろこひつゝ、大長刀をくきなかにとりのへて、まつかうを丁とうちけれは、影安か運命のきはめにてやありけん、きつさきほそくひにあたりて、廿七と申には、安積が手にかゝりてうたれけり、弟の平三影光、兄をうたせてくちをしく思ひけれは、安積にきつてかゝる、安積につことわらひ、あらやさしの影光や、侍のならひとて、兄をうたせて、身をすてんとおもふ心さしこそあはれなれ、さりなから、手にたるましき事のむさんよ、おなしくはいのちをなからへて、兄の後生をとふらひ給へかしといひけれは、いよ影光はらをたて、いかりをなしてかゝりけるを、なさけなくも安積殿、長うち物をすてさまに、とつてひきよせ、わたかみつかんて、ひたりのわきにかいこんて、しや頸ねちきりすてゝけり、是をみてみなかなはしとやおもひけん、城のふもとまて引しりそきけり、さる程に、安積い本の城にかへりて、御かたの勢をあつめけるに、わつかに百人にもたらす、うちなされけり、安積此うへはみなおもひにおち行て、世をすくし給ふへし、我々事は、入道殿のさためて死出の山三途の川にてまち給ふへけれは、いそきをつゝき奉るへしとて、入道殿の御しかいにとりつきて、南無や西方極楽世界の弥陀善逝、すてに我等ははかい無慚の凡夫なれは、かねて後生の善をいとなむ事なし、其うへ弓矢の家に生れぬれは、いつも殺生をのみ事とせり、かなしきかなや、さりなから弥陀方便の御ちかひをあふき奉れは、摂取不捨の本誓、不取正覚の悲願、たのもしきかな、たとひ極重悪人也とも、せいく​わんカ​​にて​​ ​むなしからすんは、罪障のまよひの雲をふきはらつて、真如の月の影をやとし給へつゝ、ちかくはふたらく山の大悲観音、とをくは西方極楽世界の弥陀如来、われらをむかへ給へと、オープンアクセス NDLJP:14ねんくわんしてのち、抑赤松殿の御内に、安積とてたひのかせんに、高名したる兵の、たゝ今腹をきるをみおきて、心あらん侍者のちの手本にせよといふもあへす、腹十もんしにかきゝり、腹わたをつかみ出し、矢くらの下へなけおとしけり、しかれとも、大剛のものなれは、いまた死なす、又本の城へかへり、入道殿の御座ありし所に火をかけ、入道殿の御跡をまくらとして、みつからとゝめをさして、やけ死にけり、そのゝち城中のこる所なく火をかけて、雑兵はみな落行けり、其時山名右馬頭とのゝ郎等とも、炎の中へはしり入て、入道殿の御くひと、安積かくひとり侍るよしきこえしかとも、誠の頸にて有かなきかを人しらさりけり、さるほとに、赤松左馬助殿は、水田の城に御入有よし聞えけり、天下の御敵となる助殿にてこそあれとて、京勢はやかて水田の城へをしよせけり、左馬助殿は申に及す、浦上四郎喜多野兵庫をさきとして、一騎当千の兵十人はかり有けるか、すこしもさわくけしきなく、さかもりしてそゐたりける、かくてはかなふましとて、京勢の中よりも、石見勢七百余騎、おめきさけんてかゝりけるか、すてに一二の木戸をうちやふり、三の木戸まて面もふらす切ていりけり、城にはもとより覚悟のまへなれは、左馬助殿大将にて、浦上四郎喜多野兵庫まつさきにすゝんて、究竟の兵一度にきつて出、けふいはみせわ大勢とは申とも、かないすして人数あまたうたせつゝ、三町はかり引ありそき、大息ついて居たりけり、石見の弾正近宗、石見守の御前に参りて、此城と申は尊氏将軍の御こもりありし時、かたしけなくも天照大神を勧請し給へは、つねの城にはかはるへし、その上天下に弓取おほしといへとも、此ものともはすくれたる名人とものあつまりたれは、平城なりとも、率爾にはおつへからすと申て、いろの調儀していたりける所に、左馬助殿、尊氏将軍よりたまはつたる龍よろひを着し、同し毛の五枚甲の緒をしめ、打て出下知し給ふやふ、唯今さいこの太刀うちなれは、めん敵にうしろを見せす、こゝをせんとゝあひたゝかうへしとありしかは、浦上四郎喜多野兵庫、その外くつきやうの兵六十人はかり、かけ出てきつてまはるに、おもてむくへきやうなき、助殿の手にかけて、十三騎うち給ふ、浦上四郎か手にかけて十三騎、喜多野兵庫も十六騎うちとりけり、其外の人々も、二三人つゝうつほとに、矢庭に百騎はかりうたれしか、さしもにたけき石見守殿も、あきれてこそはゐ給ひけれ、近宗申やう、かくるも引もおりにより候へは、ひとまつ御ひきにて、人馬のいきをつかせらるへしと有けれは、すなはちはるかの山の麓まて引のき給ふ、近宗は雑兵よりもあとに引さかつて、下知をしつゝうちけるを、左馬助殿み給ひて、三人はりに十三束三伏とつてうちつかひ、よつひきしほりはなたれけれは、近宗かおめとひかへたるむないたを、つゝといとをし、同しき郎等源兵衛かきたる甲の吹返しを、いとをして、あまる矢か楯にたちければ、人々きもをけし、みなちりにそなりにける、大剛の近宗もたゝ矢一すしにて、草葉の露ときえにけり、さる程に左馬助殿い、手に立てきもなかりけれは、其れよりもつくしの松田とのをたのみておち行、又それより高麗国にわたり給て、清水の将軍とあふかれ給ひしかとも、ひたち殿を世にたて申さはやとて、また日本にかへり給ふ、錐ふくろに脱するならひなれは、つゝむとすオープンアクセス NDLJP:15れと、此事京都にきこえしかは、やかて討手をさしむけられしほとに、河内国太子にてつひに腹をそきられける、抑木の山白旗の城は、天下ふそふの名城なりといへとも、主の運命つきぬれは、つひにあへなくおちにけり、さて山名右馬頭殿は、赤松入道のくひと、安積か頸とをとつてのほられけり、あまたの軍勢ともをはうたせ給ひしかとも、上洛のいきほひはるいもなし、さて頸実検あつてのち、則五条河原にかけらるへしとありしかば、諸大名達のひやうちやうには、すてに天下の御敵なるを、河原にかけられん事しかるへからすとて、三条の西の洞院に、栴檀の木をほりたてゝ、獄門の形をつくり、一の木には赤松入道のくひ、二の木には安積かくひをそかけられけり、さて左のかたは京極殿、右の方は六角殿のたまはりにて、大名小名着到をつけて、都合一万三千騎、番をおきて頸のけいこをし給ふは、誠に前代未聞の有様也、此物語をみきかん人は、真実のおもひをして、奉公を仕るへし、就中普広院殿は、地蔵菩薩の化身にてましける故に、善悪ともはけしき将軍にて、おはしましける、むかしより天下に弓取おほしといへとも、此赤松ほとのたけき人は、たくひなかりしとそ聞えける、

  右壱巻以大学本再校了

   明治三十五年一月              近藤圭造

 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。