唐代の文化と天平文化

 
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唐代の文化と天平文化
 
 この度朝日新聞で天平文化に関する講演会を開くについて、私にも一席お話するやうにといふことであります、私はこゝに掲げました通り『唐代の文化と天平文化』といふ題を出しました。実を申しますとこの題について考へましたことは、この講演が初めてゞはありませぬ、二三年前に奈良に仏教美術といふ雑誌がありまして、そこで天平芸術の研究号といふものを出したことがありました時に、私にやはり之と同じ題で話をするやうにといふ向ふからの注文でありました、それでこれと同じやうなことを話して「仏教美術」に筆記してもらつてあります。今日お話いたしますのも大体それと同じ意味でありますけれども、その当時ある部分は大変に粗略にいたしましたところがありますので、今日はなるべくそのときに粗略に話をいたしたところを、少し詳細にお話をして見たいと思ふのであります。

 随分この問題は大きな問題でありまして、単に日本ばかりの問題ではありませぬ。私は一体日本歴史が専門でありませぬ、支那の歴史が専門でありますけれども、支那の方から申しましても、この日本文化といふものがやはり一つの大きな問題でありまして、東洋全体からオープンアクセスNDLJP:155 考へますといふと、支那といふ大きな文化の中心がありまして、その文化が四方に伝播していつて、その周囲の国々の文化をだんひき起しまして、新しい文化を形作らしめるやうになつてをりますことは、恰度西洋におけるギリシヤの文化が欧羅巴の国々に拡がつたと同じやうな形になつてをります。殊にその中で過去――古い時代はもちろんでありますが、近代を通じましても、此日本における天平時代の文化といふものは、支那文化が拡がつて形づくりました周囲の各国文化のうちで最も重要なものであるといふことができると思ひます。それで支那文化の伝播を調べる上については、天平文化を調べるのがよほど必要なことであります、さういふところから私ども大に興味をもつてこの天平文化に関することを考へても見ましたのであります。もちろん単に吾々が日本人である立場から申しましても、日本の文化が支那文化の影響を受けて、どういふ風に芽を出して来たかといふことを考へるのは、よほど興味ある問題でありますところから、そのことも考へないことはありませぬが、ともかく私から申せば、その方は枝葉でありまして、支那文化の伝播といふ方から考へる方がよほど興味があります。殊に支那文化は日本に影響を及ぼしたばかりでなしに、支那の周囲の国々に皆影響を及ぼしてゐるので、その状態がその国々によつてどういふ風に各々できてをるオープンアクセスNDLJP:156 か、どの国が一番巧く支那文化を応用して、自国の文化を創造したかといふことがよほど面白い問題であります。

 文化の中心といふものは単に支那の内部だけにおきましてもだん動いてをります、いつでも同じ地方で文化が栄えてゐるわけでありませぬ、支那におきましても最初北の方の渤海湾の沿岸地方で第一に文化が発達しまして、それからだん南の方に及んで、今日では南の方が文化の中心地になつてをります。この文化の中心がだん移動して行くのは、国境には関係ないのでありまして、支那の内地でもだん文化の中心が移動した以上は、それから国境を越えて、他の国に往つて栄えることもあると思ひます。さういふ関係から日本文化か東洋において、どういふ径路を経て、竟に東洋文化の中心になるか、今日既になりつゝあると思ふのでありますが、それがどういふ径路を経来つて居るかといふことは重要な問題であります。

 また文化についてもう一つの考へ方があります、我邦に於ては昔は支那の学問の影響を受けまして、すべての文化と申しますか、道徳その他のことは古代が非常によくて、だん後になると堕落するものと考へてをりました。然るに近年になつては殊に西洋の文芸復興期以後の考へ方の影響を受けまして、世界は進歩するものだ、すべての民族は進歩するものだといふ風に考へてをりまして、だん後ほどよくなると考へるやうな傾きになつてをります。それはどちらもある点においては各真理でありませう、私ども歴史家と申しますものは、世の中を年代順に縦に見て行くのでありますから、これがもし進歩が停止するといふ風に考へると、ちつとも興味のないものでありますが、しかしそれが果して今日の時代に考へるやうに、必ず進歩するものかどうかといふこともこれも一つの疑問だと思ひます。これまででも私どもは随分支那の歴史をなるべく進歩したものと考へやうとして居るのであります、支那のやうな保守的といはれてゐる国でも進歩してをると考へてをるのであります。また支那のやうな国にもたまにはさういふことを考へた歴史家があります、そのことは後でその人のことに触れることがありまして申しますが、さういふことを考へた歴史家がたまにはあります。それでありますからなるべくさういふ風に考へて見やうと思つたのでありますが、しかし近年になりまして朝鮮において関野博士が楽浪の発掘をされてから以後、今から二千年ほど前の漢代の文化といふものが非常に立派なものであるといふことが分つてから、少しその事に疑ひを持つやうになりました。或はある時代にある種類のものが非常に絶頂に達するオープンアクセスNDLJP:157 まで発達した以上は、そのことについてはその以後の時代にはもうそれより以上発達しないものではないか、それ以後の時代において発達するのは、その発達すべき種類が変つて来るのであつて、その文化の高さのレベルからいつたら、ある時代に絶頂に達したものはそれぎりになるのではないかと考へるやうになりました。これらはいろ考へやうでありまして、今日以後において世界の歴史が統一されて考へられ、世界の文化が統一されて発達するまでは何ともいへない問題であります。しかしともかくさういふ風に、ある時代にはある種類の文化は絶頂に達するものだといふことを考へて見ますことも事実においては必要だらうと思ひます、その点からこの天平文化といふものを見ますとよほど面白いのであります。もちろん日本においても天平時代から平安朝にかけて非常に立派な文化を形造つたのでありますが、それではその後において日本の文化といふものが退歩したかといふと、さうではないので、また後の江戸時代になりまして、相当にまた別の種類の発達をしてをるのであります。でありますが、天平時代に日本が造り上げたところの文化は、近畿地方において造り上げた文化は、その種類のものにおいてはその後の時代にどんなに立派ないろなことをやつて見ても、同じ種類のものにおいては、それ以上できないのではないかといふ考へも起されるほど、天平文化といふものは日本の各時代の文化において、よほど高価なものであるといふことができるのであります、その点はこの天平文化といふものを考へる上においてまづ予じめ考への中へ入れてよいことであらうと思ひます。

 しかし私は今日さういふ総体的の議論をながいたすつもりではありませぬので、なるべく部分々々について、今私が申しました総体的の考への証拠になるべきやうなものゝ材料についてお話をして、その材料に対する興味からして、皆さんが自然にそのことを御自分で研究せらるゝやうになることを希望しますので、そのためにこゝにいろな参考品を持つて参りました。殊に私は彫刻の専門家とか、絵画の専門家といふやうなものでもありませぬので、それらの点にも話は及びますけれども、それは極めて大体を申しまして、ともかく天平文化といふものを総体的に眺め得る材料をこゝに提供したいと思ふ。それについていろの問題に触れることになりますが、第一に考へておきたいと思ふことは先ほども申しましたやうに支那文化といふものは支那をめぐるいろな民族、そのいろな民族の多くは殆んど尽く支那よりも遅く発達した国でありまして、支那文化の影響を受けて、各自分の文化を形造つた国でありますから、その支那をめぐる各民族が各文化を形造つたもので、日本とオープンアクセスNDLJP:158 相類したものがあれば、それと恰度この比較をして考へて見るといふことは、日本文化の値打ちを見る上においてよほど手取り早く分ることだと思ひます、それでさういふことに注意しやうと思ふのであります。支那の国をめぐる国といひましてもいろありますけれども、今日まで多少文化といふものを持ち伝へてゐる国は沢山ありませぬ。西の方にはまづ西蔵がありまして、これは元来その国語の性質などは支那と同一系統のものでありませうけれども、中ごろから文字を採用するのに支那文字をその国の文字に採用せずに、印度の文字を採用しましたところからして、文化が支那と同じやうな径路を辿つて発達しないことになりました、いはば支那の同文の国でなくなりました、元来は国語の性質は同様であるのに、途中から全く異つた文字の国になりました、ともかくそれが現代に続いてをります。それから日本の文化は隋唐以前から支那の文化を受けて居りましたが、その盛んになつたのは唐代からであります。之と似たのは朝鮮であります、朝鮮は殆んど日本と何から何まで同じやうな径路を経て支那の文化を受入れてをるのであります、その国語から申しましても朝鮮語と日本語とは同じ系統の国語であります、それからして支那の文字を用ひまして、一時は全く支那の文字だけで、支那の文章を自分の国の文章として用ひるやうになつたことも大体日本と同じであります。それでこの日本文化を朝鮮の文化に比較して見ると真に興味があり、また支那文化を受け入れた支那をめぐる国々の中で、最も長く文化を相続してをつて、その間に多少特色の異つたところのあることを示してをり、比較研究によほど便利なものでありますから、私の今日のお話も時々朝鮮文化に触れることになります。大体これは全体のお話の前置きであります。

 その文化の本質に至りますと、まづ政治に関することからお話して見たいと思ひます。政治に関すること、これも実は今度の講演会では日本の政治が支那の政治の影響を受けた、殊に天平時代において最も多く受けてをりましたから、その方の専門家にこゝでその講演をして戴きたいと思うたのでありましたが、何か御都合でその専門家の方が、別の問題について話されるやうになつたらしいので、それでまづその遺漏を補ふ意味もあつて、私が柄にもないことでありますけれども少しその方のことを申上げて見たいと思ふ、それだけでも今日お話をすればおしまひになる位の大問題でありますが、今日は極く簡単に話して見ます。

 支那の政治と申しましても大きな話でありますが、大体政治を運用する上において官職といふものが重要なものであります、その官職に関する支那の歴史は随分こみ入つたものであオープンアクセスNDLJP:159 りまして、唐の時代になるまで既に幾多の変遷を経てをります。支那人はよほど古く周代・漢代あたりからしてこの官職に関する事については、いろな実際の官職の外に、又官職に関する理想もありまして、その里想と実際必要上発達してくるところの官職と、その両方から支那の官制即ち職官といふものが発達して来た。一面において実際上の必要からいろ官職ができます、一面においては総体的の理想からかくに官職を制定したがいゝと、両方から考へられました。その総体的の理想から考へましたことも、もう漢代において既にその二つの派がありました、私ども支那の学問を特別にいたすものにはそれを今文派古文派と申します、この二つがありましてその二つが既に官職に関する理想において別々の考へを持つてをりました。それでその内容を申せばなか長いことでありますけれども、ともかくそれらの二つの派で今日素人が見て誰でも気のつくことは官職の数の揃へやうがはつきり異つてをること、それは今文派の官職の揃へ方はすべて三の倍数で揃へてあります、天子の下に三公を立てる、其下に九卿を立てる、それから大夫が二十七、元士が八十一、さういふ風にしまして大体三の倍数で官職を整頓して行きます。この今文派と申しますのは漢学に興味のおありの方は御承知でありませう、礼記王制と申しますのが今文派の理想を書いたものであります。もう一つ古文派と申しますのは、周礼が即ち古文派の理想を書いたのでありまして、これは六の倍数で官職を考へました、大体において政府の組織を天官、地官、春官、夏官、秋官、冬官といふやうに六つに分けて、その各の官に六十官づゝおきまして即ち三百六十官、さういふ理想で造つたのであります。その外に実際の必要上できてくるところの官職があるのであります、それがだん秦の始皇から以後、漢代六朝を経て唐代までに、この二つの理想と、実際上の必要から起るところの官職と、それが組み合つて唐の時代の官制といふものができました。唐の時代の官制の本には-今日でも唐六典といふのがありまして、日本でも唐の官制を摸倣した結果、唐六典は非常に大事な書として研究されたのであります。それで唐代官制は理想と実際との官職が両方から互に組み合つて出来た結果として、自然冗官が沢山できた、理想の方から考へて造つたものと実際上から考へて造つたものと、それが同じやうな仕事を両方でしなければならぬやうなものができました、これは唐の六典を見ると分るのであります。

 ところが唐の時代に既にそのことについて考へのついた政治家がありました、前に申しました支那で世の中は進歩するものだといふ考へをもつた歴史家と申しました、杜佑といふ人オープンアクセスNDLJP:160 が、即ちその政治家であります。この人は名著の通典といふ本を作つてをりますが、その人は唐の中ごろの政治家で、恰度弘法大師が入唐された時代の人でありますから、天平時代の少し後の人でありますが、ともかくこの人は私の考へでは歴史家として史記を作つた漢の司馬遷以後の第一の歴史家であると思ひます。この人の特色ともいふべきは、即ち支那の歴史家に殆ど見ないところの、支那の国がだん進歩するといふことを考へて居たことで、それが通典といふ本の至るところにその考へが現はれてをりますが、多くの人はこの通典といふ本を読んでも、その意味を今日まで殆ど誰も注意してをらなかつたのでありますが、私は先日友人の狩野教授の記念論文集ができました時に、その意味のことを論文として書いておきました。さういふ人で非常に歴史家として偉い人でありますが、政治家としても勝れた考へを持つてをつた人であります。この人が唐の官制を論じたことが通典の中に見えてをります、その通典の中に見えた官制論には、唐の制度には矛盾し、重複して居る官職が沢山あることを明かに認めてをります。それでこの人の申しました大体を申しますと、刑罰の方を掌る、今で申すと司法省に当る官職でありますが、それが二つあります、一つでいゝことであるのに二つある。唐の制度では尚書省、門下省、中書省これが一番主なる官職であります。この尚書省の中に六部を含んでをります、即ち周礼の六官から来ました所の吏部、戸部。礼部兵部、刑部、工部の六部を含んでをります。このほかに唐の制度に九卿がありまして、それは王制の方から来たのであります。それでこの九卿の中に大理寺といふものがありましてこれが司法官、前の六部の中の刑部も司法官、かういふ風に司法に関する官が二つ重複してをります。又工部が尚書省の六部の中にある上に、将作監といふ工作に関するものがあります、これも重複してをります。戸部は内務大蔵を一緒にしたやうな官であります。それが唐代には別に司徒の官があつてこれも重複してをる。礼部これは今日で申せば文部省であります、これもこの礼部のほかに礼儀使といふものがありまして重複してをる。この外にもかふいふ風に重複したものがいろあります。それをこの人が挙げまして、唐の制度はかういふ風に重複して無駄があるから、これを整理する必要があると論じました。当時の人で杜佑の如きいゝ頭を持つた宰相などはなかつたから、この議論は用ひられなかつたのであります。ともかくさういふ議論を唐代に杜佑が出しましたが、これは唐代のことでありますけれども、吾々が天平文化を考へる上について考へておくべきことであります。

 それは日本で唐の制度をとつて八省を作りました時に、唐の制度を摸倣したのではありまオープンアクセスNDLJP:161 すけれども、唐の制度を鵜呑にしたものではないのであります。太政官がありましてそのほかに八省を作つたので、その八省の中に大体唐の六部を含んでをり、又中書省をも含んでをります。さうして太政官には尚書と門下の両省を含んでをります。かういふ風に日本では唐の制度を取り入れたのでありますが、大体唐の時は尚書、門下、中書この三つの主な機関に分けまして、中書省といふのは天子の秘書官で、今日でいへば内閣と同じ意味のものでありますけれども、これは天子の直接の秘書官でありまして主に詔勅、さういふものを取扱ふところのものであります。門下省と申しますものは、これは当時代議制度はありませぬが、官吏の中で天子の命令即ち中書が起草する命令の不都合だと思ふことを駁論することを許されたところのもので、門下省といふのはその審議の機関であります。それで唐の政治といふものは中書省、門下省とが両方で相談して、中書省は天子の意志を代表し、門下省はそれに対する審議機関で、此の両省で考へを練つてそれがいよ極つたところで尚書省といふ執行官に移します、その尚書省の中の六部が各分担するところの仕事を執り行ふのであります。かういふ風に唐の制度が分けてありましたが、一種の合議政治、貴族的合議政治といつてよろしいか知りませぬが、専制政治のやうでも天子の意志ばかりで行はれるのでありませぬ。それを日本でも太政官八省に移しますときに、太政官には尚書と門下との二つを取入れました。太政官の中に弁官があります、弁官といふのはこれは執行官でありますが、その外の大納言、中納言、少納言といふのが門下省に当りまして、即ち天子の命についていろ審議するところであります。唐の中書省は日本では中務といふものを作りまして、八省の中にあります。つまり唐の六部のほかに、中書省が日本では八省の中へ並んで来たわけでありますから、それで七省になります。処でなぜ八省になつたかと申しますと、日本では唐の戸部を民部と大蔵と二つに分けました、今日でも内務と大蔵と二つに分れてをります如く、唐の戸部に当るところが日本では民部、大蔵の二つになりましたからそれで八省になりましたわけです。かういふのは日本のやり方ですが、これは単に謂なくしてやつたのでなく、日本の歴史によつて分けました。日本の歴史では大蔵といふものは、唐の制度を取入れる前から特別な発達をしてをりましたので、其起原に溯ると、日本の財政は海外交通のため開けて来たのであります。奈良朝以前には大和川の大和、河内の国境に当る辺に船氏といふ船のことを掌る百済帰化人の末孫がをりまして、それが税関の職務をしてをりました、それから淀河の枚方から上の方に河内首といふ支那帰化の税関官吏の人がをります、さうして此の両地で大和オープンアクセスNDLJP:162 へ入る運上を取立てゝをつたのであります。其外に秦氏には長蔵、大蔵の職になつた者があり、漢霊帝の末孫には内蔵、蔵人、椋人になつた者がある、それらが日本の財政官のそもの初めだといつてよろしいので、その方が唐の制度を摸倣する前に既に大蔵といふものゝ形に発達してをりました、それで日本ではその歴史を重んじてこの戸部を二つに分けて民部と大蔵といたしました。日本で八省百官を作つて唐の制度を移しましたについてはなかそこに苦心がありまして、日本の従来の発達と唐の制度とを巧く考へ合せてやりました。太政官の中にある弁官は執行官でありまして、少納言といふが門下の職で、これを太政官の中に含んでをるやうに巧く取入れたのであります、日本の国情に合ふやうにしたのであります、これが全体の官職に関する唐の制度と日本の制度との関係であります。

 そのほかにつきましても偶然ながら杜佑が申しましたやうな、支那の制度の理想と実際から生れて来た重複を努めて省さました。日本には司法官其他が二つづゝできるやうなことはありませぬ、後になると便宜上それが変つて来ますけれども、ともかく最初制度を作りました時は支那のやうに司法官が二つできることもありませぬ、工作の官が二つできることもありませぬ、支那の制度における矛盾と重複とを日本で採用するときに省いたのであります。杜佑は奈良朝以後、平安朝初期の人でありますから、日本で杜佑の論を参酌する筈がありませぬ。日本の政治家が支那の制度を取入れるときによく考へて重複しないやうに巧く取入れた、こゝらが日本の制度を作る苦心の存するところでありまして、おそらく明治年間に西洋の制度を取入れるよりもつと苦心が大きかつたと思ひます。明治年間に西洋の制度を取入れるには、その以前において発達した制度を記した大宝合その他制度に関する本が日本にありまして、明治初年の王政復古の時にそれを再興するやうな傾きがあつて、その古い制度を考へた上に西洋の発達した制度を取りましたから、両方の発達した制度を巧く照し合せる上においてよほど便宜があつたのでありますから、この天平以前において日本の原始制度の上に支那の制度を取入れるよりは苦心が少なかつたといつてもよろしいのであります。天平以前の支那の官職の取入れ方はよほど考へたといふことがこれでわかります。

 これは日本の事蹟ばかり見てをりますと格別ありがた味が分りませぬが、これを朝鮮の制度に比べますと大変よくわかります。朝鮮では我が天平時代は新羅の国が朝鮮をともかく統一した時代に当ります、それから後新羅は二百余年間朝鮮を統一して支配してをりましたが、その間の制度については今日は至つて文献が少なく、日本のやうに制度に関する特別のオープンアクセスNDLJP:163 本も残つてをりませず、たゞ三国史記など朝鮮の古代史のうちに幾らか残つてゐるに過ぎませぬ。或はもつといろの事があつたが、文献が失はれた為わからなくなつたともいはれませうか、今日歴史の上に残つてゐる新羅の制度を見ると、初めから日本に比較にならないほど、唐の制度を取入れる手際が不味いといふことが明かであります。新羅には到底支那の従来の理想の六部のやうなものを全部取入れる考へも出ず、日本の太政官八省のやうな整然たる制度を作り上げる考へも出なかつた。それは今日三国史記即ち朝鮮で一番古い歴史、朝鮮で古い歴史と申しましても、三国史記は藤原の末ごろに書かれたものであります、それに載つてをる制度を見るとお粗末のものでありまして、とても日本の当時のやうな整然たる制度ができなかつた。ところがその次の高麗の時代になつて、恰度日本では藤原時代でありますが、その時以後にできたものがはじめて唐の制度の摸倣をやりました。この摸倣はまるつきりの摸倣で、日本のやうにその国情を考へ、唐の制度の欠点を考へて、巧く抜き差しをする、さういふやうな考へがなしに、殆んど鵜呑に唐の制度を採用したのが高麗の制度であります。それでありますから朝鮮の唐制度の採用の仕方は初めから日本より劣つてをります。新羅の時代のいろいろな仏像、その他発掘物の中には随分芸術的価値の立派なものがあつて、定めし非常に文化が発達してをつたらうと申すものもありますが、その実制度の上において先づよほど日本より劣つてをるといふことが明かであります。唐制の中で新羅の国の摸しましたものは、太政官のやうなところと礼部とそれ位しかありませぬ。その他の官職は日本のやうな整然としてをるものにとても及ばなかつたのであります、いよ高麗になつて唐の制度を摸倣しましたが、しかしそれは全く鵜呑で、日本のやうに自分の国の国情を考へる余地がなかつた、さうして見ると当時の日本の政治家といふものはよほど偉いものであつたといふことがわかる。どういふ人がこれをやりましたか、表面に現はれてをるは大織冠鎌足の子藤原不比等、さういふ人がやつたのでありませう。そのほか支那へ留学した人々がいろ考へたことでありませうが、その当時支那の文化の日本に対する勢力は、今日の西洋文化の日本に対する勢力よりも遥かに盛んであつたと思はれますが、日本でこの制度を考へるときはその支那の燦爛たる文化に魅惑されずに、自国の国情を考へてしたのであります。

 これが大体の官制でありますが、そのほかに唐の制度を摸做して日本でいろのものを立てました、それは律、令、格、式であります。これは唐の制度を組立てる全体の法令でありますが、今日では唐律だけは満足に残つてをりますが、唐令、唐格、唐式は殆どなくなりまオープンアクセスNDLJP:164 して、僅かに残闕が世の中にあるばかりであります。律といふのは今日の日本でいへば六法であります、幸に唐律は全部残つてをりますが、日本がそれに摸倣して作つたところの日本の律はそれは大方なくなりまして、今日残つてゐるのは四つしかありませぬ、名例、衛禁、職制、賊盗、これも全部は残つてをりませぬがこの四つだけは幾分残つてをります。名例律は法律用語の定義を定めたのであります、そのほかは一部分一部分の法律であります。今日残つてをるところの日本律と唐律とを比較しますと、日本律は唐律を採用して、あるものは殆ど文句までまるで同じでありますが、それでもその間に大変斟酌を加へまして、例へば一番重い罪を支那では十悪と申します、日本ではそれを二つ省いて八虐としました、さういふ風で大体から申しますと日本律は唐律に比較して罪の科しやうが軽減されてをります。支那に必要であつたが日本には必要でないことは律に除いてあります、法律などを定めるにおきましても、よほど日本の国情を斟酌してやつたといふことがわかります。しかしまた日本で向ふのものを殆どそのまゝとつたところも随分ありますが、そのとり方の苦心、短い間にそれだけのものを考へて拵へる苦心がわかります。

 その次に合でありますが、令は日本には幸ひに一部分残闕してをりますけれども大部分が残つてをります。ところが唐の令は殆ど今日はなくなつてをります、全くなくなつてゐるといつてもよろしいのであります、ところが幸に一部分を私がフランスで発見しましたので手づから写して参りました。令の中に公式合といふものがありまして、これが規定の文書に関する式を現はしたもので、つまり詔勅命令其他の文書の式でありますが、その部分が残つてあつたので写して来ました。それは支那の敦煌から発掘したのでありますが、それをフランスの国民図書館に蔵してをります。それを私は写真に撮らうと思うたのでありますが、既に裏うちをして肝心の令の方へ紙を貼つてあつた、その反対の面に紙を貼ればいゝのに令の方に貼つてあつた。それで仕方なしに一生懸命眺め透して写しとりましたが、幸に公式令のところであつたので、日本へ帰つてから大宝令の公式令に比較して見ましたが、日本では太政官八省になつてをり、支那では尚書省の六部その他の官職でありますので、文書を往復する官署の名は違ふが、文書をやり取りする方法、それは全く支那の真似をして居りますので、公式に関する文書は殆ど同じであります。私が紙を貼つた下の見えない字を一生懸命読んだのでありますから、写し違ひが二三字ありましたが、日本の令を調べて見ると、其の誤字を日本の令で直せるくらゐである、それくらゐ日本の令と唐令といふものは一致してをりましオープンアクセスNDLJP:165 た。しかしこれも日本の方は大体国情から考へましてすべてが簡単になつてをります、往復文書は大した差はありませぬが、唐の辞令書は中書、門下、尚書この三省を経て手続きがなか面倒であり、その辞令書が長い文句で書いてありますが、日本では尚書門下を一つの太政官で取扱ふから大変辞令が簡単になります、今日でもそのやり方が残つてをりまして、辞令はすべて内閣で取扱ひます。日本は太政官の簡単なやり方が残つてをつて、唐のやうに中書から門下に移し、それから尚書に移すといふ手続きが省かれてゐる、さういふことが日本の令の特色であることがわかる。幸ひフランスに僅かの断片がありましたので日本の令といふものは、どういふ風に唐令を取入れたかといふことを知ることができた。

 それから格であります、格は散頒刑部格といふものがやはりフランスの図書館にあるものを写した、それはロトグラフで写して来てをります。大体唐の時に重大な法令は、律令にあるので、今の日本でいへば、憲法其外六法全書にあるやうな者が律令にあるのでありますが、そのほか細かい臨時の伺、指令のやうな規定は即ち格でありまして、格といふのは実行に役に立つところの規程でありますが、散頒刑部格とありますのは六部のうちの刑部の格で、さうしてこの格には留司格と散頒格といふものと二通りあります。留司格と申しますのはその取扱ひをする役所に留めておく格を留司格、一般の必得のため布告する格は散頒格であります、私が写して来たのは即ち刑部に関する散頒格であります。日本にも三代格といふものがあります、その三代格にこの唐の時の格を比較して見ると著しく違ふのは、日本の格は非常に簡単で細かい規定などが割合にない、唐の格は非常に複雑であることである。それは日本のことを善く解釈しますれば、日本は唐ほど役人でも人民でも悪賢くなかつた、法律を潜るやうなことを日本人はしなかつたから、日本ではさういふ綿密な格を造る必要がなかつたといふことであります。また一面からこれを悪く考へて見ますと、律令といふやうな難しい制度を唐から真似はいたしましたが、実際の当時の日本の事情が唐の当時のそんな細かい規定までを必要とするほど進歩してはゐなかつた、といふ風に考へることも出来るのであります。兎も角唐のものに比較して日本の方は至つて簡単であつたのであります。

 式につきましては、日本では延喜式といふものがあります、唐式は敦煌から発掘されて支那の羅振玉氏が出版した水部式だけが残つて居つてその他はありません、これは河川とか水利に関するものであります。私がフランスに行くまでは、律令格式の中で水部式が敦煌から出たといふことは知れてをりましたが、他の律令や格はありませんでした。所が幸ひ私がフオープンアクセスNDLJP:166 ランスで調べた結果、令も格も皆出て来ましたのみならず、律の断片もありましたが、これは今日世に伝はつてをる唐律と全く変りがありません。日本の律令格式のやり方は唐のを真似たものであるといふことは前から分つて居りましたが、日本が支那の制度を摸做する上に如何に慎重なる態度を以てしたかといふことが、此等の実物の比較によつて判るやうになりました。

 以上は政治に関することでありますが、その他については先づ第一に文学のことを申上げて見たいと思ひます。唐の文学を日本に輸入するについては、第一必要なことは書籍の輸入でありました。唐から輸入された書籍につきましては日本国見在書目録といふ本がありますが、これは天平より百六七十年後即ち宇多天皇の寛平年間に書かれたもので、その当時日本に現在してゐた所の支那の書籍目録であります。それに載つて居る書籍が大部分天平時代に既に輸入されて居つたかどうかといふことは疑問でありまして、天平時代の人が果してどれだけ支那の本を見て居つたかと申しますと、若し日本国見在書目のやうなものが、天平時代に出来て居れば世話がないのでありますが、これは不幸にして纒つた目録がありません。それ故色々な材料から、天平時代までに輸入された支那書籍の目録を抜き出して、直接には天平時代の人がどれだけの書籍を知つて居つたかといふことを知り、又此等の書籍と後の日本国見在書目とを対照して、間接に天平時代に読まれたらしく思はるゝ書籍の概況を推想する外に方法がありません。その内で第一に注意さるゝのは、天平時代の政治家で又学者である所の吉備真備が持つて来たといふ本があります。続日本紀によると天平七年に吉備公が唐から帰つた時、唐礼一百三十巻、大衍暦経一巻、大衍暦立成十二巻、楽書要録十巻を献じたとあります。唐礼一百三十巻とあるは、唐の高宗の永徽礼であるらしいので、又大衍暦といふのは、有名な唐僧一行の新しく造つた暦の本であります。楽書要録も此時に持つて帰つて居りますが、此本は後に支那には絶えてしまつて、其の残闕本が日本にのみ伝はりました。それで支那の或る学者は楽書要録は日本人が偽造したものだなどゝいつてゐますが、それは確に誤りです。それからまた続日本紀には載つて居りませぬが、吉備公は東観漢紀一百四十三巻をも持つて帰られたことが日本国見在書目録に出てをります。それに吉備公は三史五経、名、刑、算術、陰陽、暦道、天文、漏刻、漢音、書道、秘術、雑占、一十三道を伝へ学ばれたと扶桑略記にありますから、此等諸道の本を自ら持ち帰へられたか、或は其以前に輸入しオープンアクセスNDLJP:167 て居つたのでありませうか、惜しいことには其の目録がありません。第二に注意すべきは聖武天皇の宸翰雑集といふ本が正倉院に尊蔵されて居りますが、それは聖武天皇がその当時御覧になつた支那の本の中から、大部分は仏教に関する詩文を御手づから抄写せられたものであります。これは佐々木信綱博士が先年出版になりましたが、それを見ますと、六種ほどの本の中で三種ほどは日本国見在書目録にありますが、あとの三種はその中にない本であります。さうして見まするといふと、日本国見在書目録の時代には既に無かつたやうな本を天平時代の人は見て居つたといふことが判ります、随つて大体平安朝に劣らぬ程、天平時代にも支那の本が豊富にあつたらしく想像されるのであります。第三に注意すべきことは、どなたも御承知の日本書紀は奈良朝に出来た漢文の日本歴史でありますが、その本には支那の本を沢山引いてある、中にははつきりと書名を挙げて引いてある処もあります。即ち神功皇后紀に晋起居注といふ本を引いて居りますが、これは今日支那にもなければ、日本でも無くなつてゐます、しかし見在書目には載つて居りますから、此本は日本書紀を編纂した天平以前から見在書目の時代まで現存してゐた証拠であります。その外日本書紀は、日本の歴史を書くのに、その文章を漢文で美しく書かうといふので、支那の天子の詔勅をそのまゝ丸抜きにして日本の詔勅として書いた処などあります。後世の史論から申すと日本書紀の此の態度は事実に遠く、後から支那の歴史の文を借りて、文章を飾るために書いたのであるといつて排斥されませうが、文化の方から考へますると、日本の歴史を文飾するために用ひらるゝ丈のいろな支那書籍を、奈良朝時代に持つてゐたといふ証拠にもなります。当時既に豊富に支那のいろな本を持つて居つて、日本書紀を編纂した人々はいろな支那の材料を読みこなして、どの辺に詔勅に使ふに都合のよい文句があるかといふことを知つて居つて、それを採用したといふことが判ります。かくの如く和銅養老年間頃、日本書紀を編纂した時には既に支那の本を豊富に持つて居つたのであります、此の外にも奈良朝の書籍やら文章で、其の引用文を調べたら同様の結果を得られる者がありませう。第四には佐々木博士が聖武天皇宸翰雑集と同時に発刊した、南京遺文といふものがありますが、それはやはり正倉院に在る奈良朝の古文書其他を集めて一冊とされたものであります。其中に天平二十年六月十日、更可請章疏等として仏書並に漢籍の目録が挙げてありますが、其全文は大日本古文書第三巻に出て居ります。其の漢籍の中、半分位は見在書目録にある本であります、またそれになければ支那の正史の中の書目、即ち隋書経籍志とか旧唐書経籍志又は新唐書芸文志とかに載つて居オープンアクセスNDLJP:168 る本であります。(附記を参看せられたし)

 之によつて推想しますと当時の唐の主なる本は天平時代に既に我邦にあつたのでありまして、見仕書目録の時代と大した相違はなかつたらしく、又見在書目録に出てゐない本で天平時代にあつたと思はれる本もあるのであります。仏教の書籍は別といたしまして、当時日本ほど支那の本を沢山持つてゐた国は、支那を繞る他の国々において見ることが出来なかつたのでありませう。又仏教の本に致しましても、続日本紀に吉備公と同時に入唐した僧玄昉が五千余巻の仏書を携へて帰つたことが記してある。五千余巻といへば殆んど当時の一切経全部であつたと思ひます。当時の日本の学者並びに僧侶が支那の知識を得るために、どれだけ支那の書を利用したかといふことがこれでも分ります。猶又これ等の材料から、当時の人々が如何に漢文なり詩なりを自由に扱ひ得たかといふことに就て更に考へて見ませう。

 続日本紀といふ本は当今の官報のやうな材料を日記体に並べたものでありますが、奈良朝、天平時代を中心としてその時代のいろの文献を含んでをります。詔勅などは歴代のものが皆な含まれてをりまして、それが全部漢文で書いてあります。或は有名な人が書いた文章などがありますが、それが頗る美文に出来て居りまして、当時如何に漢文を巧みに作り得たかといふ標準になるのであります。その中に宝亀元年吉備大臣が作つた骸骨を乞ふ啓があります、孝謙天皇が崩御になつて光仁天皇がまだ皇太子で御位に即かれなかつた間のことでありますが、四六文で美事に書いてあります。宝亀三年にまた文屋大市といふ人がやはり骸骨を乞ふ表を奉つてをります、私はこれはやはり吉備公が書いたものだと思ひます。何んとなれば文屋大市といふ人はこれは天武天皇の系統の人でありまして、当時既に姓を賜つて人臣となつてゐた人でありますが、孝謙天皇崩御の後、皇嗣の候補者の一人であり、殊に吉備公が此人を天子にしようといふ意見を出したほどで、吉備公に関係の深い人ですから、これも吉備公が作つたものだと思ひます、これもなか立派な漢文で書いてあります。その外公の奏議には、唐で安禄山の乱の時、太宰府の防備に関する者などがありまして、公の籌略と共に其の文才をも見るべきものがあります。かやうに当時の学者の第一人者である吉備公の文はともかく二三だけ発見されたが、その出来栄の上手な所から見ると、その当時の人々がどれだけ漢文を作り得たかといふ実例が、我々の頭にはつきり分るのであります。

 その外に我々がその前後の人の漢文の中で最も感心するのは古事記を奉るの表であります、これは太安万呂といふ人の作で、和銅五年のことでありますから、吉備公よりづつと以オープンアクセスNDLJP:169 前のことであります。これがやはり四六文で書いてありますが、その中に日本の故事が沢山使つてあります、支那の故事を使つて漢文を書くのは比較的楽でありますが、この人が日本の神代以来の典故を盛んに使つてある手際には実に敬服に堪へません。これ等のことから推して当時の人々の漢文に対する技倆を窺ひ知ることが出来ます。これを他の国に比較して見まするといふと、当時朝鮮にはどれだけ漢文を書き得た人があつたかといふと、現存して居る者には我邦に比較し得べきものはありません。但し強首、薛聡、金大問など有名な人が作つた漢文があるといふことでありますが、今日では既にそれ等の文献も多くはなくなつて、其のたま残つて居る者も真偽不明であるために、之を証明すべき物がありません。

 次に考へられることは詩でありますが、我邦当時の詩を集めたものに懐風藻といふ本が出来て居りまして、其の序文も四六の名文でありますが、その中に奈良朝時代の人々の詩が百二十首ほどありまして、多くは当時流行の五言古詩でありますが、中には七言の詩もあります。弘文天皇、大津皇子は勿論、鎌足の子孫の史とか字合とかいふやうな人も其の作家の一人であります、それ等は初唐の詩と殆んど同じやうな風調であります。これも朝鮮の方に較べ得るものがあるかといふと、文献を失つて不明なためかも知れませんが、殆んどありません。朝鮮には今から五百年ほど前に東文選といふ本が出来て、古い詩文が出てをりますが、日本の天平以前に当る時代の詩がたゞ一首だけ載つて居ります、而も作者の名は知れませぬ。唐時代の人の詩も幾らかありますが、多くは平安朝の菅公頃の時代の人々の詩のみで、それ以前のものは殆どありません、無いからといつて作らなかつたと速断する訳には行きませんが、兎も角日本では百二十首もあつたのに、朝鮮では一首より無かつたといふことは実際朝鮮には、あまり詩人が無かつたのでないかとも思はれるのであります。これで当時の我邦の文化は朝鮮に比して、優つても劣らなかつたといふことが断言出来ると思ひます。この懐風藻の百二十首の中には、阿部仲麻呂が唐から日本へ帰らうとした時に作つた、有名な五言詩は入つて居りません。

 それからまた或はこれは支那本国と比較することは無理でありませうが、支那以外の国と比較して我邦の偉かつたことは、日本の国語で文章や歌を作つたことであります。歌では日本書紀や古事記などにも載つたものもありますが、当時の歌を集めたものは万葉集であります、これなどは殆ど朝鮮に比較するものが無いといつてよい位であります。尤も新羅時代の朝鮮語の歌らしいものが全く無かつたかといふとさうでもありません、三国遺事といふ本にオープンアクセスNDLJP:170 五六首遺つて居ります、けれども今日ではこれを読むことさへ既に困難であります、我亦お万葉集のやうに二十巻も遺つてゐるものはありません。其外日本では当時国語の文章がありまして、乃ち続日本紀などに載つて居る宣命などがそれで、雄大荘厳を極めた者でありますが、朝鮮ではどうでありますか。朝鮮の国語で書いた文章は全くなかつたかといふと必ずさうでもありません、今日京城の総督府博物館に慶州地方から発掘した天宝十七年の葛項寺石塔記といふ碑文があります、それが当時朝鮮語で書いたかと思はれるものであります。又今日では実物はもうありませんが、対馬に朝鮮の鐘が渡つて来たことがありまして、八幡宮の中にありました、その鐘の銘の拓本が伝はつて居りますが、それがやはり新羅時代の朝鮮語で書いたらしい文でありまして、この二つが残つてをります当時の新羅の国語で書いた文章であつたに違ひありません。しかしこれは日本ならば法隆寺の金堂の薬師三尊の光背銘位の程度のものでありまして、到底日本ほど自分の国語を以て、歌なり文なり、雄篇大作をするといふほどには至らなかつたものと考へられます。この点即ち国語の独立は日本国民の最も大きな仕事の一つであります。支那の文学を受け入れて支那と同じやうに文なり詩なりを作る上において、又日本固有の文なり歌なりを盛んに作つた事に於て、両つながら当時の日本人が他国民に優れた非常な能力を持つて居た証拠であらうと思ひます。

 又その頃から既に漢文を読むのに、日本読みにすることが行はれまして、吉備公などは五十音を作つたといふ言伝さへあります、ともかく当時漢文を日本の国語の法で訓読することが盛んに行はれたので、送り仮名のやうなものが、当時既に出来て居りました。漢文を読むについてオコト点とか、送り仮名などは平安朝になつて始めて現はれたといふ説がありますけれども、私はどうしても奈良朝時代からあつたものだと信じて居りましたが、近年になつて尊勝院の聖語蔵にあつた多くの仏経が調べられた結果、当時から既に訓読ものがあつたことが明かになりました。支那の文章なり詩を読むについて、日本読みにするといふことは、当時支那の文学に対して日本人の理解力を増す上において非常な力があつたことゝ考へます、それは当時の文化に余程大きな影響があつたものでありませう。当時新羅の方にも日本の仮名のやうなものが発達して、即ち吏吐が新羅の薛聡によつて作られたといふ伝説がありますが、その訓読の仕方は日本と異つてをつて、支那語の文法をくづさない訓読をしたものであります。これに反しまして日本ではなるべく日本風に理解するやうに、訓読したといふことは、これは当時日本の文化を支那の文化より独立させるといふことについて、余程重オープンアクセスNDLJP:171 要なことであつたと思はれるのであります。

 芸術のことにつきましては、これは私の専門外のことでありまして、十分な自信を持つて申上げることは出来ませんが、幸に今日は専門家の関野博士も御出になつて居られますから、思ひついたことだけを申上げて御批判を願ひたいと思ふのであります。第一に彫刻のことについて申して見たいと思ひます。彫刻のことはこの天平時代、奈良朝にかけて非常な発達をしたのでありまして、私が申上げたいのは天平時代の彫刻と、朝鮮の当時の彫刻を比較して見たいのであります。茲には多少似寄つた種類のものを並べたのでありますが、朝鮮では慶州の石窟菴といふ処に沢山な彫刻がありまして、それが皆な優秀なものであります、この石窟菴の彫刻は、従来の批評家の説では支那の彫刻が既に朝鮮に輸入されてから一種の発達をして、朝鮮の特色を現はしたものであると言はれて居つたやうであります。それを当時の唐時代の日本彫刻に比較して見ますると、石窟菴の彫刻と同種の題材を取りました日本の東大寺の三月堂及び戒壇堂の四天王、興福寺の釈迦十大弟子などを比べて見て、一見して気のつくことは、日本の彫刻が大体からいつて大変写生味を帯びて居つて、余程実際の人物に近くなつてゐるといふこと、それから日本の彫刻には、日本固有の伝統的な一種の技術があつて、その特色を表はしてゐるのではないかといふことであります。三月堂などにあるものは、殆どさうであると断定し得る位でありまして、その面相などを見ると頗る写生味を帯びてゐる、そしてその全体の姿勢を見ると、何処となく日本で従来伝へ来つた埴輪の土偶の形式に似通つてゐることを見出し得るだらうと思ひます。それで天平時代の日本の芸術は非常に発達して居つて、写生的技倆を持つて居り、それに古くからの伝統、埴輪式のものが多少加味されて居つたのではないかと思はれます。即ちそれが日本の地方色を帯びた特色を現はしてゐることゝ、当時支那の唐時代の彫刻などが写生味を帯びて来た、その発達の程度を日本に取入れて、それと同様な程度にまで進んで行かうとした努力を示すものではないかと思ひます。処が石窟菴の方の彫刻は余程それと趣きを異にして居つて、その姿勢なり顔付なりが総て写生味が少ない。姿勢に就いても、これに似たものを考へると、支那では六朝時代からあつたもの、即ち龍門の彫刻(附記を参看すべし)とか、又関野博士が発見されました天龍山石窟にある石仏(附記を参看すべし)などの中、六朝時代の特徴ともいふべき一種の姿勢、即ち身体がフワリと動いて居るやうな流動式の姿勢とも申しませうか、一種の姿勢があオープンアクセスNDLJP:172 ります、それに共通点があるやうであります。それが又絵画の上にも現はれて居りますので、例へば顧凱之の女史箴の巻中にあります人物、其外曩きに日本へ一度来たことがありましたが、買手がないので持つて帰つた闇立本の帝王図巻の人物の姿勢がやはり流動式姿勢を持つてゐます。さうして見ると六朝から唐の初めまでに伝統的に相続した所の絵画彫刻の風格を、朝鮮では石窟菴時代まで依然伝へて居つて、そのやうな形が彫刻の上に現はれて居るのであらうかと考へます。日本贔負の考へから申しますといふと、日本では既に天平時代に隋、唐時代の絵画、彫刻に写生味を加へ、しかもその間に埴輪以来の伝統をとり入れて固有の特色を発揮したに拘らず、朝鮮の彫刻は猶六朝時代の形式を鵜呑にして、日本ほど発達しなかつたものと思はれるのであります。

 その外絵画について見ましても、六朝から唐の時代の間には支那でもいろと変遷をして居りまして、六朝時代の画は闇立本までが、一つの時期を為して居ります。その後有名な呉道子といふ人が出て、画風が一変して白描の画風が流行した、即ち一種の筆意を持たした墨の使ひ方をした、これが重なる一つの変化であります。それからもう一つは張萱、周昉といふこの二人が開元天宝時代に興りまして、非常に肉感的な写生風の絵を描きました、これがまたその当時の流行になりまして、それ以後の絵は美人などを描きますと肉付の豊かな美人を描くやうになりました。天平時代はちやうど呉道子の時代から周昉、張萱の時代に亘るのでありますが、既に唐のさういふ最近の画風の感化を受けてをつたといふことが感ぜられます。六朝式の絵といふもの、即ち閣立本風の絵は、日本では法隆寺の玉虫の厨子の扉とかさういふ古いものに多くあり、呉道子のやうな絵は正倉院の麻布に描いてある菩薩の絵、あれなどが呉道子の風の絵であらうと思ひます。支那にも確かなものがありませんので、比較することは困難でありますが、農林大臣の山本悌二郎氏が所有してをられる呉道子の送子天王像巻といふのがありますが、それが宋の頃の摸本だと言はれて居るのでありますが、その呉道子の画と較べて見ますると、麻布の絵の面貌などの描き方は余程共通した点がありまして、日本には既にその当時呉道子風の絵が伝はつて居つたことが判ります。周防の方は本社の上野さんが持つて居られる美人の琴を聴いてゐる画が、明の仇英の墓本で余程よく周昉の風神を伝へたものだと思ひます。張萱の画はボストンの博物館に宋の徽宗の摹本がありまして、これは唐の原本そのまゝだといはれて居りまして、これを見ますると薬師寺の吉祥天図、正倉院の屏風画の樹下美人、又は法華寺の来迎仏の屏風などは周防、張萱等の写生派とオープンアクセスNDLJP:173 美人画の風を日本で受けて居た証拠だと思ひます。其の時代も殆んど天平時代と同時であるが、画風の影響が日本に来たことが非常に早かつたもので、向ふで流行するといふと直ぐに日本へ伝はつた、如何に当時文化の関係が敏速であつたかといふことが判ります。恐らく当時日本の奈良の都といふものは、唐の進歩した地方、長安、洛陽、揚州などの地方と殆んど同じやうな程度の文化を有して居る程、進歩して居つたものと見えます。

 書の方につきましては、こゝに先づ欧陽通の書いた道因法師の碑文を出して、一の標準と致しましたが、又欧陽通が晩年に書いたもので高句麗の泉男生の墓誌があります、泉男生は高句麗から唐へ降つて唐で死んだ人でありまして、その墓誌は最近洛陽で発掘されたのであります。欧陽通は父の欧陽詢の風を承けた唐の初の書の大家でありますが、不思議なことにはこの人の書に酷似した書が日本にあります、支那人に見せますと欧陽通の字だといつて、日本人が書いたものとは信じません。なくなられた御影の小川為次郎さんが持つて居られた金剛場陀羅尼経といふのがそれでありまして、それには丙戌の歳といふ干支が書いてあります、丁度朱鳥元年に当るのであります、川内国志貴評内知識為七世父母及一切衆生云々とありまして教化僧宝林と奥書にあります。之は日本で書いたものに相違ないのであります。さうすると欧陽通が日本に来る筈がないから日本人の書いたものであることが判る、しかしそれが如何にもよく欧陽通に似て居りまして、誰でも名前を隠して見せると欧陽通の書だと思ひます。又それと同一人の書いたものではないかと思ふ書が日本の金石文にあります、即ち朱鳥元年のものでありますが、長谷寺の千体仏の下の銘がそれでありまして、両方を較べて見まするとその書体が殆んど同じであります。兎も角日本では右の金剛陀羅尼経と長谷寺千体仏の二つだけではありますが、欧陽通そのまゝの文字があるのであります。道因法師の碑を書いたのは、泉男生墓誌よりも十六年前で、金剛場陀羅尼経と長谷寺千体仏とは泉男生墓誌より七年後であります、即ち殆んど欧陽通と同じ時代の人が書いたのでありますが、既に当時欧陽通そのまゝの書風を書いた人が我邦にあつたといふことは、如何にその時代の人々が支那の文化を受け入れるのに敏感であつたかといふことが判ります。

 又欧陽通の父欧陽詢の書風を余程うまく書いたものに、やはり故の御影の小川さんの所蔵で華厳音義といふものが二巻ありますが、これは多分、原は東大寺あたりにあつたのでありませうが、昔浄土宗の管長をして居られた養鸕徹定といふ有名な高僧がもつてゐられたものでありまして、それが後に西本願寺に入り、西本願寺の売立の時に小川さんが買はれたのでオープンアクセスNDLJP:174 あります。其の書風は欧陽詢の文字と同じでありまして、支那人に見せると余りよく似てゐるのでビックリするほどであります。しかし此の音義の中には日本語が入つて居りますので、どうしても日本で書いたこと疑ひなきものであります。これ等は当時の有名な支那の書家の書風を日本人が如何によく習つて書いたかといふ二三の例でありますが、この外に高野山に文館詞林といふものがあり、巻物で十二巻ほどになつてゐます、その内の一巻に唐の有名な書家の褚遂良によく似た字があります。これは嵯峨天皇の朝に写したのであります、奈良朝時代ではありませんが、平安朝の極く早い時で奈良朝に近い頃であります。これなどは従来人が余り注意して見なかつたのでありますが、近年発見されたものであります。又弘法大師の灌頂記、風信帖は顔真卿の書に似て居りまして、大師はよく唐の当時の新しい書風を学ばれ、よく書かれたものと見えます。それから以後に唐では柳公権といふ人が出ましたが、この人の書だけは日本で学んだ人がないだらうと思つて居りました所、やはり高野山に金光明最勝王経二巻がありまして、普通の写経よりは密行細字に書いたものがありますが、之は殆んど柳公権そのまゝの書風であります。

 かくの如く天平時代並びにそれにつゞく平安朝初期におきましては、唐代の有名な人の書風が日本に渡つて来て、これを学んだ人があるのみならず、その書風を移すことが早かつたといふこと、ある書風が興つて二三十年経ぬ間に、その人の生存中に既にその書風を実によく学んだといふことは、恐らく当時の日本人が支那の学問を学んだ速度といふものは、徳川時代の人々が支那の学問を学んだよりも遥かに速い速度において、支那の文化をうまく受け入れて居つたことを示すのであります。天平時代は今日と異ひまして、航海も随分困難でありました、安倍仲麿が唐から日本に帰らうとして難船して安南へ漂流し、日本に帰ることが出来ず、復た唐に帰つて死んだといふやうに、又鑑真和尚が日本へ渡らうとして非常の艱苦をされたやうに、頗る交通が不便であつたのであります、それにも拘らず支那文化を利用することが如何にも敏速であつたといふことはこれで立証出来るのであります。これは或は日本の当時の貴族達の間だけであつたかも知れませんが、日本において最高の教育を受けた人、最高の教養を持つた人が、支那の最高の教育を受けた人、最高の教養を持つた人と殆んど同等の程度にあつたから、支那のものを早く日本に移すといふ点において便宜があり、また移すだけの実力を持つて居つたといふことにならうと思ふのであります。さういふことがいろな事実において現はれてゐるのでありまして、このことを私は皆さんに一応お話しオープンアクセスNDLJP:175 て、また皆さんのそれの御研究の御参考に供したいと思ふのであります。

 兎も角天平時代に日本が持つて居つた文化は、殆んど全部支那文化の輸入であつたといたしましても、当時他の国々が真似の出来ないやうなことを当時の人々は成し遂げたのでありますのみならず、その外に日本人は日本の国語を持つて居りまして、日本語の文学をも作り得ましたことがまた非常にえらいことであります、私はざつと此等に関する概論だけを申上げたのであります。

附記

 大日本古文書巻三並に南京遺文に見えた天平二十年六月十日の「更可請章疏等」に出でたる外典書中、余が査出した処では、日本国見在書目録、及び隋書経籍志、旧唐書経籍志、新唐書芸文志、其他に載つて居る者と、載つて居らぬ者とは、左に注記する如くである。今便宜上、日本国見在書日録を見と注し、隋書経籍志を隋と注し、旧唐書経籍志を旧と注し、新唐書芸文志を新と注し、其他は具さに書名を注す。

経典釈文廿一巻一帙   見(卅巻) 旧(卅巻) 新(卅巻)

新修本草二帙廿巻    見(同) 旧(廿一巻) 新(廿一巻)

太宗文皇帝集四十巻   見(卅巻) 旧(卅巻) 新(同)

群英集廿一巻

許敬宗集十巻    見(廿巻) 旧(六十巻) 新(八十巻)

天文要集十巻    見(一巻、又四十三巻) 隋(四十巻、又四巻、又三巻) 新(四十巻)

職官要録卅巻    見(同) 隋(同) 旧(同) 新(卅六巻)

庾信集廿巻     見(同) 隋(廿一巻) 旧(同) 新(同)

政論六巻      見(五巻) 隋(同) 旧(五巻) 新(同) 群書治要

明皇論一巻

帝暦並史記目録一巻

君臣抗要抄七巻   大日本古文書抗に注して機とす

瑞表録一巻

慶瑞表一巻

オープンアクセスNDLJP:176 帝徳録一巻      見(二巻) 文鏡秘府論

帝徳頌一巻

譲官表一巻

聖賢六巻

鈞天之楽一巻

十二戒一巻      見、新(並有軍戒三巻)

安国兵法一巻     見(三巻)

軍論斗中記一巻    隋(五行家有斗中孤虚図又注引梁録周易斗中八卦絶命図周易斗中八卦推遊年図)

文軌一巻       見(十巻)

要覧一巻       見(同) 隋(十巻) 旧(五巻) 新(五巻)

玉歴二巻       見(五行家有赤松子玉暦二巻)

上金海表一巻     見(兵家有金海卅七巻) 隋(兵家金海卅巻) 旧(兵家金海四十七巻) 新(兵家金海四十七巻)

治癰疽方一巻     見(七巻) 隋(癰疽論方一巻)

石論三巻       隋(一巻)

古今冠冕図一巻

冬林一巻

黄帝針経一巻     見(十巻) 隋(九巻) 旧(十巻) 新(十巻)

薬方三巻       隋(四十巻秦承祖二巻徐文伯撰五巻徐嗣伯撰二十一巻徐弁卿撰五十七巻後斉李思祖撰) 旧(十七巻秦承祖撰) 新(四十巻秦承祖撰)

天文要集歳星占一巻

彗孛占一巻      見(同) 隋(同)

天官目録中外官簿分一巻

黄帝太一天目経二巻  見(三巻) 隋(黄帝太一兵歴一巻、太一兵書一十一巻) 旧、新(並太一兵法一巻)

内宮上占一巻     見(天文録石氏中宮占三巻上中下)

オープンアクセスNDLJP:177 石氏星官簿讃一巻   見(石氏星経簿讃二巻) 隋(石氏星経簿讃一巻、又注梁有星官簿讃十三巻) 旧、新(並石氏星経簿讃一巻)

太一決口第一巻    見(太一口決一巻)

傅讃星経一巻

簿讃一巻       見(二巻又三巻)

九宮二巻       一推九宮法 隋(九宮推法一巻)一遁甲要 隋(逓甲要一巻)

又南京遺文には別に左の二書を抄録せる処あり。

 文字弁嫌      隋、旧、新(並一巻)

 通俗文伏処   見、隋(服虔一巻)

附記

シヤバンヌ氏龍門其他図録中

No.291,292,293,294,295,296,

及び

No.566,569,589,590,610,613,

を看るべし。

附記

田中、外村両氏「天龍山石窟」中

二十、二十一、二十二、二十三等を看るべし。

(昭和三年三月大阪朝日会館講演、同年十月五日発行「天平の文化」所載)


続記

新出東洋文庫論叢第十一石田茂作君著「〈写経より見たる〉奈良朝仏教の研究」を閱するに、附記の大日本古文書所出書目を補ふべき者がある。因て一二改訂を加へて左に記す。

白虎通一帙十五巻  見(同) 隋(六巻) 旧(六巻) 新(六巻)

離騒三帙帙別十六巻 見(楚辞十六巻離騒十巻) 隋(楚辞十二巻又三巻) 旧(楚詞十六巻又十巻)新(楚辞十六巻又十巻)

方言五巻  見(十巻〈論語家〉) 隋(十三巻〈論語〉) 旧(別国方言十三巻〈小学〉) 新(別国方言十三巻〈小学〉

オープンアクセスNDLJP:178 論語廿巻  見(十巻)隋(十巻)旧(十巻)新(十巻)

三礼儀宗三帙帙別十巻〈目録儀皆作義〉 見(廿巻) 隋(三十巻) 旧(三十巻) 新(三十巻)

新儀一帙十巻  見(卅巻〈儀注家〉) 隋(三十巻〈儀注〉) 旧(雑儀三十巻) 新(三十巻)〈隋志、新唐志 並に鮑泉とす、旧志に鮑㫤に作り書名を雑儀に作るは皆誤である〉

漢書

晋書    以上二書は習見の書であるから注するに及ばぬ

文選音義七巻又三巻  見(十巻李善撰又十巻釈道淹撰) 旧(十巻釈道流撰) 新(十巻僧道淹撰) 〈新志に公孫羅文選音義十巻を載するもこれは文選音決の誤である〉

文選上帙九巻下帙五巻  これも注するに及ばぬ

孝経一巻  〈これは東大寺献物帳に出て居るのであるが古文孝経か鄭注本か御注本か明らかでない〉

列女伝   見(十五巻曹大家注) 隋(十五巻曹大家注又七巻趙母注) 新(十五巻曹大家注)

典言四巻  見(同後魏人李叔撰) 隋(同後魏人李叔撰又四巻後斉中書郎荀士遜等撰〈雑家〉) 旧(同李若等撰〈儒家〉) 新(同李穆叔〈儒家〉

書法一巻  隋(古今八体六文書法一巻)

神符経一巻  見(三甲神符経一巻) 新(老子神符易一巻)

陰陽書  見(大唐陰陽書五十一巻新撰陰陽書五十巻呂才撰) 旧(陰陽書五十巻呂才撰新撰陰陽書三十巻王粲撰) 新(王璨新撰陰陽書三十巻呂才陰陽書五十三巻)

(昭和五年九月廿六日記)

 
 

この著作物は、1934年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。