和気清麻呂為勅使参宇佐宮事被書絵詞
こゝにゑあり
さてよろつの事、御門の御やうにて、御ゆきし給おりは、こしをおなしやうにつくりて、さきにもたてす、しりへにもたゝす、おなしやうにならへてなむわたり給ける、すみところはゆ気の宮となむつけたりける、つかさ〳〵みなわかれて、御門の御すみかとおなしやうなり、節会除目叙任のおりなとは、くちいれしといひしかとも、御かたはらにまいりて、ほしきまゝに申なし、ある時は我すみかにて、おこなうときもあり、女帝におはしませは、時の人いみしき事ともをなむ申あひけり、
こゝにゑあり
かゝるほとに、ゑみの大臣世のなかをそねみて、まいらぬおりかちにのみなれは、御門はらたち給て、あつけられし本マヽせして 、おほやけたからともみなとりかへされけれは、つかひをうたむとすれは、ころすへき宣旨くたされぬ、ゑみの大臣このよしをきゝて、我はひんかしくにゝゆきて、いくさをおこして、あしきことをおきてんと思て、あふみのかたににけていにけり、御門このよしをきこしめして、かねて人をつかはして、勢多の橋をやかれぬ、大臣これをきゝて、そなたへはえいかて、あさつのかたから、船にてにくるほとに、おくのこほりより、いくさとも船にのせて、むかへたゝかはれけれは、ゑみの大臣ころされて、くひとられぬ、そのころゆ気の法皇のおほえ、すへてならふ人なし、すこしもひんなしとおもふ人をは、御門にあしさまに申をこなへは、時の人こほりをふむやうに思たり、
下巻かゝるほとに、この法皇まことのくらひにつかむの心いてきぬるカて 、御門によきひまをはからひて申やう、をのれをまことにあいし給心ふかくは、位をゆつり給てんや、さてなむまことにおほすとはしるへきと申けれは、いかにも〳〵のたまはせんにしたかふへき、たゝ〳〵この国は神の代より、そうつたはりて、くらゐにはゐる事也、それをやふりて、そこをすへは、いかなる事かいてこむと思なむおそろしき、されはまつかう〳〵なむおもふと、宇佐宮に申て、おほせにしたかひて、位もゆつりきこえむとありけれは、いとよきこと、すみやかに申されよ、それそけにこゝろやすかるへきと申けれは、たれをつかひにすへきと、おほせらるれは、和気清麻呂をめして、宇佐宮にまいらせ給、そのほと法皇、御かたはらちかくさふらひて、おほせらるゝ事をおほつかなかりてうけ給はる、御門、きよまろをめして仰らるゝやう、此国は神代より御のちをつきつゝ、位にはすへ給、それにこの法皇、心はえもかしこく、国のまつりこともいとよくしろし、ことにふれておもひのまゝにふるまへは、これにゆつらむとなむ思たまへる、このよしをきこしめして、たいらけくかしこく、この仰をうけ給はるへし、さてのちになむ、くらゐをはゆつるへきとなむ、おほせられける、清麻呂うけ給て、御前をたちいてゝまかりいつるほとに、法皇人もなき所に、清麻呂をよひいれていふや【 NDLJP:16】う、そこにこの使を申なすやうは、をのれかする也、宇佐に参て、このよしを申なして奏すへし、思のことくに位につきなは、太政大臣になして、国のまつりことをすへおこなはすへし、もしほいならす申なしたらは、おもきつみにあてゝ、いのちをもうしなひてんといひて、いよ〳〵おそろしけなるかほをいからかして、目を見くるへかして、たちにてをかけて、こしをなむゆすりあけゝる、されは清麻呂いらふるやう、よし御覧せよ、たゝおほしめさむまゝに、かへりまいりて申さふらはんといひて、宮をはいてにける、
こゝにゑあり
宇佐へまいるあひたに、みちすからも法皇のかたらひつるやうに申すへきよしを思つゝなむまいりける、まいりつきて、たてまつらるゝ神宝御前にすへならへて、事のよしを申あひたにそらはれ雲なかりつるに、にはかにくろき雲、御殿のうへにおりくたりてひろこりけれは、やみの夜のやうにて、いかつちなりてひらめきて、かしらのうへにおちかゝるやうにて、志ぬるやうにおほえけれは、神前にうつふしふしたり、かねて思つる本意みなたかひぬ、たすけ給へと手をするよりほかの事なし、しはしはかりひたゐをつちにつけたるをもたけて、御殿のうへを見あけたれは、御殿のうへにあたりて、五六丈の五色のひかりあり、ほのをのやうにかみさまにひらめきあかる、せむかたなくおそろし、しはしありて、宮きねにつきて仰らるゝやう、この国はあまくたりの神の御代より、当時にいたるまて、御そうのくらゐにはつく物也、ゆくすゑまてもさらにあらたまる事なく、つきつヽ位にはゐたまふへし、しかるをこのぬす人法しを、そくのつかさになしあくるたに、いまた例なし、いかにいはむや、位にはいかてかつくへきそ、しかあらは天地はたひらかにてありなむや、すみやかに帰まいりて、このよしを奏すへし、このことをうけ給て、はふ〳〵みやしろをいつるほとに、そらうらゝかにはれぬ、
こゝにゑあり
いつしかうちにまいりて、この事を申さむと思て、夜をひるになしてまいる、法皇は清麻呂か参ほとを、心もとなんても、かへりた本マヽる にまいるなは、位にかならすつくへきそと、ことはをはなちていひけれは、かならすの事と、世の人も思て、かうへをかたふけてなむまとひける、清麻呂まいりぬと人申けれは、こゝのへの宮の中のゝしりて、みな御門の御かたはらに、法皇倚子をならへていたり、清麻呂をちかくめしよす、いかゝありつると御門とはしめ給、清麻呂はしめより、ありのまゝの事を、ひとつもおとさす申、御門きこしめして、ほいなしとおほしめす事かきりなし、法皇は目を血めにみなして、おもてをあをうなし、あかくなし、いきつきうつくみて、この清麻呂は、えもいはぬゝす人也、人にかたらはされて、そら事を奏する也、さらにさる事あるへからす、この事によりて、おもきつみにあてむと奏けれは、けにいとひんなし、すみやかにそこの心也とゆるされけれは、からめよせて、よをろすちをたちて、伊予国になかしつかはしつ、清麻呂なかされて、かなしかりけるまゝに、宇佐宮の御かたにむかひて、手をすりて申さく、仰のまゝにまいりて奏したりとて、かゝるかなしきつみにな【 NDLJP:17】むあたりたる、大菩薩たすけ給へとて、こゑをはなちてなきけれは、にはかに詫宣し給はく、清麻呂あやまちたることもなし、よこさまにぬす人のためにつみせられたる也、すみやかにこれよりむかへつかはせと仰られけれは、宇佐宮より人きて、むかへてなんいてまいりける、よろこひまいらんとてたちけれは、よをろもとのことくつかれにけり、宮にまいりつきたりけれは、いまことゝもなをりなむと仰たまひけれは、宮になんさふらひける、
こゝにゑあり
かくて御門は、清麻呂をつみし給てのち、いくはくもなくてうせ給ぬ、位につくへきみこ (親王)たちもおはせさりけれは、大納言白壁のおほきみそ、にはかに位につけられにける、さて弓削法皇をは、しもつけのくにゝなかしつかはしつ、よにあひて人のためにあしかりけれは、ゆゝしけにてなんゐていきける、しもつけのくにゝゆきつきて、いくはくもなくてしにけり、清麻呂をはめしかへして、本官位にかへりなし、したひにつかさ位まさりにけり、それより御門の位につき給はしめに、宇佐宮の使には、清麻呂かそうをなむたてまつらせ給ける、そのゝち女帝はたえて、いまはくらゐにつき給はす、
私云此絵昔後白河院御宇被納蓮華王院宝蔵相公顕雅卿為弁官之時依奉当蔵事之次被写置此詞矣〈宝治年中云々〉
この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。