吉利支丹物語
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吉利支丹物語 目次
【 IA:560】吉利支丹物語卷第上
神武天皇志゛んむてんわうより百八代の御かど後奈良院ごならのゐんの御宇ぎようにあたつて、弘治こうぢ年號のころ、なむばんのあきんどぶねに、はじめて人げんのかたちににて、さながら天狗てんぐとも、見越みこし入道にうだうとも、なのつけられぬ物を一人わたす、よく〳〵たづねきけば、ばてれんといふものなり、先そのかたちを見るに、鼻はなのたかき事栄螺殻さゞゐがらのいぼのなきをすいつけたるににたり、目のおほきなる事は、めがねを二つならべたるがごとし、まなこのうち黃き也、頭かうべちいさく、足手あしてのつめながく、せいのたかさ七志やくあまりありて、色くろく、はなあかく、歯はは馬のはよりながく、あたまのけ鼠ねずみ色にして、額ひたゐのうへにおかべさかづきをふせたるほどの月代さかやきをすり、物いふ事かつてきこえず、聲こゑは梟ふくろのなくににたり、志よ人こぞつて見物みちをせきあへず、面躰めんていのすさまじき事あらてんぐと申とも、かやうにはあるまじきと人みな申あへり、その名をうるがんばてれんといふ、心中にはきりしたんの法門ほうもんをひろめたくぞんぜしかども、先志ばらく日本の人民にんみんの知惠ちゑをはかりみると見えたり、色々さま〴〵南蠻國なんばんこくのめづらしき物を志な〴〵もてきたるとみえし、其ころ津の國のぢう人、高山たかやま飛驒ひだの守、同右近うこんのたゆふ、尊崇そんそうして、すなはち宗躰志うていになる、三好修理大夫みよし志ゆりのたいぶ松永霜臺さうたいとうへ、禮儀れいぎを申させ、日本にとめをく事、
平たいらの朝臣あそん小田の上総かづさの守信長卿のぶながきやう、天下ほしゐまゝに、ふく風のさうもくをなびかしたるがごとく、東夷とうい南蠻なんばん、北狄ほくてき西戎せいじう、こと〴〵くうちほろぼし給ひ、天下平均して、あふみの國安土あづちといふ所に城郭志゛やうくわくを志つらひ、富貴ふつきのよそほひ咸陽宮かんやうきうもかくやらん、ある時御夜ばなしの折ふし、かのうるがんばてれんがうわさをきこしめして、いそぎ見たきよしおほせいださる、すなはち菅谷すげのや九衞門のぜうにおほせつけられ鄕送がうをくりにしてあづちにつく、二三日あつて御れ【 IA:562】いにまかり出る、身にはあびとゝいふものをきたり、此あびとゝ申物は、毛氈もうせんのごとくなる物にて、色はねずみ色なりしが、袖ながくすそはぢかりにして、さながら蝙蝠こうもりのはねをひろげたるににたり、さて御れいにまかり出るに、日ほんごくの大みやう小みやう、地下まち人、きゝつたへ〳〵、祇園ぎおんの會ゑ、山王祭さんわうまつりなどのやうに、見物をしわけられず、すなはち進物しんもつには、鐵砲てつぽう十丁、遠近ゑんきんのめがね、八でうづりを香筥かうばこに入るほどの蚊帳、十五けんにをよぶ志やう〴〵緋ひ、まき物、くすり物、山羊やぎう、ひつじ、刀劔たうけん以下、志ゆ〴〵かずをつくしてささげ奉る、信長公ぎよかんなのめならず、すなはち御やしきを下されて、おびたゞしき寺をたつる、其後げりごりや、りいすばてれんといふものをわたす、日本の通事つうじに、ろれんすといふもの、これは備前びぜんのくにの物也、又がうずもといふもの、志もんといふ物、是は和泉いづみの堺さかひの物也、此ものどもかわる〴〵 談義だんぎをとく、是をゐるまんとなづく、又日本の坊主ばうずの中に落堕らくだして、世にすぎわびたるものをたづねもとめて、金銀をおびたゞしくとらせて、ゐるまんにとりたてゝ、儒釋道をとりくわへて、だんぎを七だんにつくりて、志よ人に敎化けうけす、かれがいひぶんを聞に、なにの奧意おくゐもなく、先神︀道內典を云たてゝ、五だんまではさん〴〵にそしりいひやぶりて、のこる六だん七だんは、をのがほうもんと聞ゆ、
さてもきりしたんがぶつぽうの意趣いしゆをきくに、天地かいびやくの時、でうすとも大あるじとも申佛一たい出現志ゆつげんまし〳〵て、日月をつくり出し、世界せかいをあきらかにして、人畜ちく草木さうもく、森志ん羅萬象ざう、こと〴〵くつくり出せり、せかい國土こんりう有て、人げんをゆたかにすませ、善ぜんをせよとも惡あくをせよともおぼしめさぬ所に、末世にをよぶほど、人のちゑうすくなりて、でうすの御おきてにたがひ、あくしんぶだうの衆生しゆじやうなれば、かりにゐんへるのといふ所、地の下くらき中に、鳥けだものゝかたちをうけて、くるしみをうくる、又をしへにたがはざるしゆじやうをば、はらいぞうと申て、これより天上に安樂あんらく快樂けらく飛行ひぎやう自在じざいの所へむまるゝを、はらいぞうといふ、すべて衆生の機きより八苦く八難なんあり、でうすは、はじめも今も利益りやくに不同なし、たとへばおやの子をまうくるに、あしかれと思ひてそだつるはなし、成人せいじんして、病びやう人も、不孝ふかうの物も、ぬす人もあるがごとし、あながちでうすにあやまりなけれども、衆生の機きまち〳〵なれば、あく人をばふかくにくみ給ふ、でうすの御をしへにたがわぬといふは、こひさんと申て、佛の御まへにまいり、慚愧ざんぎ〈[#「慚愧」は底本では「慚傀」]〉懺悔さんげして、未來みらいのたのしみをいのる、くわりずもと申て、日本の看經かんきんといふがごとく、經をよみ、むねをほと〳〵とたゝく、是はむねに何のおもひもなし、でうす、さんたまるやを、一すぢにあがめ奉るといふ志かたとみえたり、次に天を見あげてゆびをさし上る、是は天上より此界かいをまぼり給ふほどにうやまひ奉るてい、其次にをのれが兩がんをよこになづる、何をみても物にうつり心あるまじゐとの志かた、其次にくちををしへてはだゝきをするとみゆる、くちにていつわり妄語もうご有まじきとばかりの志かたと思へり、又夕べには、べんていしやと申て、蠅うちのやうなる物にあかゞねのはりをうへて、つくりためたるあくを、くちのうちにてさんげして、せなかを我とぜんすまる〳〵ととなへて血をたらす事あり、まぼりにはこんたつと申て、でうすのおもかげをうつしたる物をほそがねにてはりくゝませて、ををつけてくびにかくる、珠數じゆずには磔はつけ柱ばしらをおどめにして、むかいのかたへつまぐりて、ぜんすまる〳〵ととなゆるばかり也、又くるすといふ物を肝要かんよふともてあつかふ、べちに楪子ちやつよりふかき事はなきみえたり、さて又寺のもやうをつたへうけ給るに、祕密之間ひみつのまとて、でうすのすがたを物すさまじげにつくり、はつけにかけたる所を見する、是はそも難行なんぎやう苦行くぎやうのすがたを見せて、門徒もんとどもに感淚かんるいをながさせんとのはかりごとゝみえたり、其おくのまは、對面乃間たいめんのまと申て、さんたまるやといふ女ばう、でうすをうみいだして、二さいばかりの子をいだきたるすがたを見する、そのしさいは、でうすと申佛天地のあるじたりといふばかりにて、衆生うたがひをなすべし、佛法ぶつぽう世法せほうのことわりをも聞志るまじきとおぼしめして、さんた丸やの胎内たいないにやどらせ給ひて、せかいにむまれ出給ふ所を見せて、たいめんのまといふ、其おくのまは、さんげ【 IA:564】のまと申て、此あひだのとがあくじどもをばてれんゐるまん宗躰しうていのものどもまで車座ざになをつて、そのまんなかにて、さんげをしわびごとをして、志たたかにはじしめられて後、くだんのべんていしやをもつてばてれんがてづから打て血を出し、ふくさ物をもつてぬぐい、其うでをあらはずして、佛をおがむを大ぎやうといふ、かやうの行をつとむれば、朝夕かけかたちのごとく、でうす守護しゆごし給ふあひだ、身命志んみやうは露ちりほどもおしむべからず、でうすの御法をきく人は、大海︀かいの底そこのこがねをひろひ、一がんの龜かめの浮木ふぼくにあふより猶まれなる事と志たゝかにほめられてまんぞくし、まことに佛になるぞとおもひさだめて、火あぶりになるも、うしざき、車ざき、さかはつけ、かやうのなんにあふが、のぞみのかなふ成佛と心へて、いのちをいとひかなしむものなきとみえたり、あはれなる事共かな、ちえのなきものは、をのれがみゝに聞入、心におもひさだめたる事をば、かつてひるがへす事なし、たとへば二三さいのわらんべが鏡かゝみの裏うちのかたらを見ては、まことのかたちと思ひ、水の中の月をみては、猿猴えんこうが手てにとらんとおもふ、おろかなる心とひとしきもの也、ぐ人はみなかくのごとし、外道げだうの法魔法まほうなるべし、
文祿ぶんろくねんがうの比、ひでよし大こうの御代に、ふらでんといふばてれんをあまたわたす、かの國におひて道心者︀だうしんじやと見えたり、外行げきやうをもつぱらとして、非ひ人乞食こつじきどもをあつめて、兎缼いぐち癩病らいびやう、瘍疔ようちやう〈[#「瘍疔」は底本では「「疒+聽」瘍」]〉、唐瘡たうがさ、腫物しゆもつとう〈[#「腫物」は底本では「瘇物」]〉、掲焉けちゑんにれうぢして、我門徒もんとに引入、息災そくさゐなる乞丐人こつがいにんの、しうていにならむといふ物には一飯︀ぱんをはどこし、中へんの世にすぎわびたる物にはげきやりをさづけて、渡世とせいを心やすくして、其報恩ほうおんにをのがしうていに引入、わかきもの、うぶき物、なまぢゑ、こ才かくさうなる物どもには、伊達道具だてだうぐにてたぶらかし、大みやうとおぼしきには印子ゐんすのじゆず、とをめがね、獻立こんだつそれ〴〵にあひさつしし、因緣ちなみをふかうして、しうていにだみ入る、大坂ざか、堺さかい、長崎ながさき、周防すはうの山口、廣島ひろしま、備前びぜんの岡おか山、姫路ひめぢ、はう〴〵所々に寺をたて、京は五條ほり川一條油あぶらの小路こうじに大寺をたて、愚人ぐにん、雜ざう人、歌舞妓者︀かぶきものども、いづれもさりきらいなくとり入、徒いたづら者︀ものどもあつまりたりと聞えたり、有時ゐるまんどもべつしてしたしき旦那だんなどもといひ合せて、くせ事どももれ聞え、ひでよしたいかう逆鱗げきりんなのめならず、ない〳〵邪法じやほうをひろめ、人みんをたぶらかすよしをきこしめし、さいわい此たび根源こんげんをきつて、日本をはらわるべきにあひきわまる所に、ながさきよりくるまにのせ、耳みゝ鼻はなをそぎ、廿五人のうち、ばてれん六人、ゐるまん八人、同宿どうしゆくしうていども也、洛らく中を引わたされて、すぐに播磨路はりまぢを西海︀道さいかゐだう筑紫つくしまで傳てん馬にのせて、肥前ひぜんのながさきまで引わたさる、路しすがらも、でうすの奇特きどくあるかとて、天を見あげ、山をながむれども、露ほどもきどくなければ、けでんさうなるつらつきして、ながさきにはた物にかけられけり、志ばらく番衆ばんしうありしかども、ほどなくくさりけるを、骨ほね髑髏しやりかふべともをぬすみとり、後後ははつけばしら、やうじ木程づゝけづりとりて、まぼりにかけ、あまつさへのちは賣買うりかいになつて、價あたい高直かうぢきになるとや、
右日本のしゆつけ衆は、なんばんの風俗ふうぞくにちがひ、旦那だんなをへつらひ、名利みやうりにふけり、重欲ぢうよくをかまへ、慈悲じひなく慳貪けんどんにして、高座かうざのうへにてはよくを捨すてよといひて、あとより拾ひろはんとの心根、又西方淨土さいはうじやうどは七寶莊嚴しつぽうしやうごんのもそほひ、さいなん瓔珞やうらくのすがた、卅二相さうのかたちをそなへ、飮食おんじき衣服ゑぶくにとぼしき事なく、一つとしてまんぞくせずといふ事なしと、談義だんぎごとにうけ給るが、不審ふしんはれず、その知識ちしきのわづらひ給ふ時は、藥くすりをのみ針はりをたて、灸きうをすゑ、きわめていのちがをしさうに見ゆる時は、これもいつわりやらんときりしたんどもこれをわらふ、げにも鋸のこぎり屑くづもいへばいわるゝと、もつとものいひかんかな、八宗しう九しうのうちにくやむ事おゝし、先出家ににあはぬ公事ずきをし、茶ちやの湯ゆ數奇すき連歌れんが、あるひは亂舞らんぶ、鞠まり、楊弓やうきう、花見さかもり無益むやくの事、學問がくもん疎うとくして、佛法ぶつぽうをとへば、俗人ぞくじんにはるかをとれり、布施ふせとはぬのをほどこすとかけり、女人は業障ごつしやう執着しうじやくふかきもの【 IA:566】なれば、麻あさの緖おのひねりめまで精︀せいをこみうみつむぎ、辛苦志んくしておりいだす物なれば、心ざしをかんじて結緣けちえん濟度さいどのため佛なのめにおぼしめすと、經説きやうせつにあかせり、今の世には金銀にふりかわつて、あたいかうぢきになれり、さりながら知行をももたざる出家は貯たくわへなくして、堂だう伽藍がらんに修理しゆりをくわへ、佛ぜんに佛餉ふつしやう香花かうはなをそなへ、經諭きやうろん聖敎しやうげうをもとめ、弟子でしをはごくみ、時齋のとゝのへなくしては、かへつてほとけのたねをたつといへり、ここをもつて、智者︀ちしやのつくるつみはおほきなれ共地獄ぢごくにをちず、愚者︀ぐしやのつみはすくなけれどもぢごくにおつるといふ事、聖せい人のごなり、又きりしたんのものどもが無欲むよくにして、だんなをへつらはざる事きどくにあらず、なんばん國わうよりまい年くろふね、がりうたにおほせつけ、寺々へはぶきあてられ、すでに心ざしふかきしうてい共までかて粮をあておこなわるゝ時は、むよく賢けん人にみゆる事きどくにあらず、その上牛うし馬むま豚ぶた鶏にわとり以下の肉食にくじき朝夕にくらいて、畜生ちくしやうの行儀ぎやうぎをうらやみて、おほかたはくらい物をあぢわへて、しうていになるものどもおほしときゝつたへし、
一元和元年のころ、大ざかにおひて、きりしたんのほう繁︀昌はんじやうして、武士ぶし町人諸︀浪志よらう人ども門前もんぜんに市いちをなす、有とき大みやうの後室六旬りくしゆんにあまらせ給ふが、しきりにきりしたんのほうをすすむるによつて、何ともよんどころなくして、こうしつのいはく、われはこれ七しゆんにをよびて、榮花ゑいぐわ榮耀ゑようののぞみなし、なににとぼしき事なく、たゞあけてもくれても後生一すぢ也、せんずるところは佛になりたきのぞみばかりなり、今日にゐたるまでぶつぽうのたてわけをしらず、南無阿彌陀佛と申せば、西方淨土さいはうじやうどにおもむき、妙法蓮花經と申せば、寂光土じやくくわうどにおもむくとばかり心へて餘念よねんをしらず、てにとるほどに佛道あきらかなる事あらば、何宗なにしうにはよるべからず、しうていをかへ候はん物をとの給ふ、ゐるまん聞て、女ばうは蕩たらしやすき物と心へて、中々の御事、でうすの佛法はたちどころにはらいぞうと申て、天上の快樂けらく金色に身をかゞやかし、寒熱かんねつの差別しやべつなく、おろがんと申て、日ぽんの樂がくなどのやうにふきならしてあそびたはぶれ給ふ所なり、釋迦志やかとやらん阿彌陀あみだとやらんが、何とて佛になすべきや、志やかはこれ天竺てんぢくの上ぼん大わうが子なり、おやに勘當かんだうせられて、だんどくせんにかゞみゐて、くちにまかせて衆生をまよはす、あみだといふも法藏比丘ほうざうびくといひて人げん也、でうすと申は、天地かいびやくの佛也、きのふやけふの志やかゞほうにとらかさるゝは、きつねにばかされたるがごとし、志かしながら、くちのよきまゝに三國のぐ人どもをまよはしたると見えたり、こうしつのいはく、我はこれ女の身なれば、何のしやべつもしらず、その方のいひぶんもくちばかりにて、まことしくも思はれず、所詮志よせんはきりしたんのうりの一の物しりたるゐるまんをすぐりて御いだし候へ、此はうよりもしやかのぶつぽうをまなびたる人をたづねもとめて出すべし、法門ほうもんにいひかつたる人のかたへなるべしと仰せける、ゐるまん聞て、それこそのぞむ所なれ、いつにても御左右さうしだいに、まいるべきとかたくやくそくして、ゐるまんはまかり歸りける、こうしつのいはく、禪ぜん淨土じやうどの長老ちやうらうをよびたりとも、きりしたんが法は、神︀たう、內典ないでん外典げでんうちやぶりて、よこしまをいふと聞えたり、こゝに伯翁居士と申て、出家まさりの人ありときく、これをむかひにつかはして、問答もんだうせさせみんとて、飛脚ひきやくを京へさしのぼらせらる、抑此はくおうこじと申だう人は、上京のかたはらにかすかなる庵室あんしつをむすび、身にはあさの衣かみぎぬ、ふゆはかみのふすま、二時の飯︀はんの菜さいには焼鹽やきしほばかり物さびたるていなり、ちう夜見臺けんだいにむかひて、ないでんげでんに目をまじろまず、若年よりぶつほうにかたぶひて、南都︀におひては、唯識論ゆいしきろんの講說かうぜつをきゝ、三井寺にしては、倶舍論くしやろん、なかんづく世間品せけんぼんを聞て、三千世かいはたな心のうちにあり、えんりやく寺に登山とうざんしては、玄義げんぎ、文句もんぐ、止觀志くわん、首楞嚴志ゆれうごん、戒經以下、十二年住山ぢうせんしてこれをたもち、むらさき野にのぞんては、碧嚴へきがんをきゝ、妙心めうしん寺にしたひ宗鏡錄しゆきやうろく、惠能ゑのふ壇經だんぎやう、五さんにおひて東坡とうば山谷さんこく【 IA:568】文選もんぜんとう、又三輪りうの神︀たうをおこなひ、淨土門もんに入ては選擇せんぢやく集、二僧︀祇さうぎ以下萬ぼう一如なる所を坐禪ざぜん工夫くふうして、香のけぶりに身をふすべ、仙人にひとしからむや、辨說べんぜつは富留那ふるなをもあざむくべきびく比丘也、かゝる所に大坂よりほうもんのやうを申て、ひきやくたうらいす、志ばらく志あんしてひ判はん者︀じやもなきに諍論さうろんする事いかゞ有へきなれども、女儀によぎといひ、又はきりしたんのやつばらざうにんぐにんにたいし、ほしゐまゝに魔法をはき出すでう、はぢをあたえんと思ひて、伏ふし見よりはやぶねをとはせて、大坂のやかたに付給ふ、こうしつなのめによろこび給て、すなわちきりしたんが寺へ使者︀ししやをたてゝいわく、がくもん広博くわうはくにしてべんぜつあきらかなるゐるまんこれへ入御候へ、やくそくのごとく、ぶつぼうの勝劣せうれつをきかんと侍り給ふ、時に巴毗弇はびあんと申て、いにしへ禪坊主ばうずおちと見えて、まなこのうちくる〳〵として、水のながるゝごとくべんこうとゞこほる事なし、年は五十ばかり、はくおうは六十四五、ふるまひいぜんにはくおうと式代しきだいしてよも山の雜談ざうたん會釋ゑしやくす、すでにその日くれて、蠟燭らうそく[「らうそく」は底本では「らつそく」]をてんじ、ほうもんにとりむすぶといへり、聽聞ちやうもん衆一二百人ばかり、ふすましやうじひとへへだてゝしわぶきをもせず、しづまりかへつてきゝゐたり、やゝあつてきやうばこをとり出て、法華經ほけきやう、金剛經こんがうきやう、三部經ぶきやう以下をならべをく、はくおうこれをみて、いや〳〵 釋門志やくもんの談義だんぎめづらしからず、日ぽんの知識ちしきだちにちなみてあさ夕これをきく、たゞでうすの萬ぼうばかりをとき給へとうちまげられて、きやうばこにおさむる、これは經文きやうもんをよみたてゝ、あしく義理ぎりを付て、かたはしやぶりすてんためなり、さてざしきにくわしの入たるぢうばこあり、これをたとへてゐるまんがいはく、此ぢうばこは指さしてあるべさか、不慮ふりよに出きたる物かととふ、はくおうこたへていはく、大工くがさゝで虛空こくうよりふりわく物にてはこれなしといふ、ゐるまんがいはく、その合點がつてんをもつてよくしるへし、でうすと申奉る佛は、天地ひらけはじまりたる佛也、そのかみは空々くう〳〵茫々ばうばうとして一物もつもなき所に、志ん羅萬象ざう人畜にんちく草木さうもく日月、こと〴〵くつくりいだされ、世界せかい建立こんりうと云々、その作者さくしやをたつとまずして、二千年三千年このかたのしやかみだをねんじてなにのたよりにせんや、そのうへしやかの經說きやうせつは、みな無むの見けんなり、でうすの萬法まんぼうはみな有うの見けんなり、志かるにぜんをいとなみでうすの御おきてにたがはざるものをばはらいぞうと申て、たのしみをきわめ、安樂あんらくに住ぢうす、あく人をばゐんへるのと申て、かなしみのきわまりたる所へおとさるゝ、そのいにしへは、悪あくも善ぜんも苦くも樂らくもなきを、末世にをよぶ程衆生の氣智ひずみすなをならざるによつてはらいぞういんへるのをつくりをき給ふ、日ぽんの諸︀神︀諸︀佛といふは、そのいにしへはみな人げんなり、伊勢太神︀宮は伊ざなぎいざなみが子、出雲の國につりあま人の子なり、八まん大ぼさつといふも、應神︀天皇おうじんてんわうこれ人げんなり、衆生のはかなきはみなかたわらをねがひ、正法ぼうをかつてしらざるゆへなり、かるがゆへに、でうすの御かたち人げんにまみえて利益りやくせんとおぼしめして、さんたまるやと申美女の胎内たいないにやどらせ、金剛こんがう堅固けんごの御相好すがたをあらはしまし〳〵て、人げんの所望しよまうをかなえたまふなり、なんばん國は大ごくにして、日本五百千あわせてもきう牛が一もうたり、國王の勅諚ちよくぢやうにいはく、日本の人みんども、でうすの正ぼうをしらずんばふびんの事なりとおぼしめして、蒼海︀萬里さうかいばんりをしのぎ、此國にわたさるゝといふ、はくおうつぶさにきゝて、それよりして、でうすの佛ぽうの奥意おくゐはなきかととふ、ゐるまんこたへていはく、でうすのまんぼうのひろき事は、廣大無邊くわうだいむへんにして、人げんのちゑにをよびがたし、經諭きやうろん山山おほし、はくおうがいはく、難なんをうつべしつゝしんできゝ給へ、でうすといふは、天地開闢かいびやくの佛とうけ給はる、さだめてなんばんにはさやうにこそ思ひつらめ、唐たう天竺ぢく我朝てうには、天神︀七代地神︀五代、日本紀ぎにも漢書かんじよにもあさ夕これを見るなり、でうすといふ事ははじめて是をきく也、天地かいびやくの佛にてはあるべからず、とかく天地かいびやくよりの鬼にて有べし、第一に、志んらまんざう人ちくさうもく日月こと〴〵くつくりたまふといふたわ事をばさしおひて、先人げんをつくりてなにのために入申や、そのいはれをよく聞ん、能特のふどくのなき事【 IA:570】はよもあらじ、たゞしかい鳥のごとくになぐさみ物になるか、又ぬし一人さびしさに話はなし伽とぎにつくりおけるか、くすり物になるか、ふしんはれやらず、ざしきのぢうばこは、くわしを入、さかな物をいれんたののうつわ物なり、もろ〳〵のしよだうぐに、のふどくなき物はなし、鑵子くわんすはちやをのまんため、火ばしはおきをはさまんがため、それ〴〵ののうどくをもたせたり、人げんにもでうすのためにのふどくなき事はあるまじ、此返たうをきかんといへども、よも山の事にいひまぎらして、すみやかにへんたうなし、第二のふしんに、人げんをつくりたるがまことならば、一てん四かいの人げん、又は佛ぽうをも一さくにつくり給はで、數千萬里すせんばんりをしのぎ、此小國までほうをひろめにきたり給ふは、神通じんづうのなきどんなる佛也、第三に、でうすをはた物にかけ、ある時はいばらからたちの中へおひこめられて、なふ亂らん逼迫ひつはくにあわせたるよし、七段だんの談義だんぎのうちにとくときく、かやうのむほん人をつくりをかるゝ事むふんべつあさましき事也、第四に誰たれかやとふともなきに、人げんをつくりて、はらいぞういんへるのといふ地獄ぢごく極樂ごくらくをつくり、あげつおろひつすいきやう人なり、人げんは貴たかきもいやしきも、四苦志く八くのなきもの一人もなし、さやうの事をうらみて、はた物にはかけつらん、とかく鬼とは見えたり、ゐるまん志ばしくちをとぢてゐたりけるが、やゝ有て申やう、でうす此せかい大あるじのてがらには、天照せう太神︀、春日かすが八幡まんの寶殿ほうでんへあがりて、糞小便ふんせうべんをしたりともばちあたるまじきをもつて根本こんぼんの佛としるへし、はくおう聞て、にくゐやつめが廣言くわうげんかな、さらば用捨ようしやもなくつらのかわをめがんと思ひ、ひざをなをし、はびあんよくきけ、三しやの大床ゆかほうでんへあがりて、ふんせうべんをしてもばちあたらぬをてがらといふ、牛馬ちくしやうのたぐひにばちのあたりたるためしなし、又なんぢらがもちいる佛、鳥類︀てうるい畜類︀ちくるいとも、いさゝか物のかず共おもはず、かの物ずき人だましのでうす、てゝなし子をうみたるさんたまるやいだし候へ、頭あたまより脛すねまで箱はこをひりかけて、足あしにてふみにじりてみん、たち所にたうばちあたらば、一門もん眷屬けんぞくしうていになるべし、又これこそ正身のでうすよと、虛空こくうをとなへてありく程にこそ、なくともさまざまの奇特きどく殊勝しゆせうなる事ども、あまねく他宗たしうもかんずる事共あらば、外道げだうなりとも不思議ふしぎとおもふべきに、をのかしうていの愚癡ぐち無智むちちくしやう同然どうぜんの物共の內にて、遠国おんごくのしれぬ事をことばに花をさかせ、七だんのだんぎにたわごとをつくり、おほくのものを魔道まだうへはむる事ふびんの事かなと、はくおうこじにたゝみかけられて、はびあんは桃を銜くゝみたるやうにて、くちのうちにてつぶやき、いぬのにげぼえとやらん、かたくちものゝまへにて何をいひてもせんなしと、むかだちにしてぞ歸ける、其後はこうしつへすゝむるものぞなかりけり、
吉利支丹物語卷第上終
そうじて倶捨ろんをみるに、此世界せかい國土こくど人間げん、ともにいつはじまりたるといふ事なし、神︀佛のつくりいだせるといふさたなし、又未來みらい永々やう〳〵をへてもつくるといふ事なし、百年に一年づゝ定命ぢやうみやうおとりて、十さいの翁おきなとなる、それより又一年づゝまして、八十三萬年の時分まであがりて、又百年の時分までおとりて、彌勒みろくの出世しゆつせあり、釋迦まで九佛め也、そのごとく二十一佛しゆつせし給ふて世界せかい滅めつすといへり、層︀塔建立さうたうこんりうと申て、せかいあたらしくなれども、衆生不增不減ふぞうふげんしてつくる事なし、一佛しゆつせのあびだ、忉利天たうりてんの四千年、此せかいの五十六おく七千萬ざい也、人げんは無始刧ごうより今まで流轉るてんする事は、因果ゐんぐわ車輪しやりんのごとし、石に火の性あるがごとく、人げんも佛になる性をそなへもちけれども、心へそこない顚倒てんだう迷冥めいめうして、貪慾とんよくふかければ餓鬼道がきだう、【 IA:572】愚癡ぐちさかんなれば畜生道ちくしやうだう、瞋恚志んいさかんなれば修羅しゆら地獄道ぢごくだうにおつる、その苦患くげんつきて又有相うさう世かい人ちくの胎内たいないをかんじて、めんめんの相好さごうによつて佛だうをとぐるもあり、惡あくだうへひかるゝもありと云々、
一、後生をねがひ佛だうをとげんと思ふに、眞しん草さう行ぎやうの三つのしなあり、法に二法なしと申せ共、
一、ざう人ぐにんのやからには、南無阿彌陀佛と行住ぎやうぢう坐臥ざぐわにおこたらず、其うへにおひてぜんあくをおもひはかりて、正ぢき正路をほんとし、人のにくみをうけず、善根ぜんごん慈悲じひをもつぱらにして、一しんふらんに彌陀如來みだによらい西方淨土さいはうじやうどへすくいとらせ給へとうたがいなきやうに敎化けうけするを、もろ〳〵の一文もん無知むちのざう人にすゝむる次第也、妙法蓮花の五じの題目だいもくをとなゆる人も、ほけきやう八軸ぢくのうちに、始覺本覺のさとり、大乘ぜう圓頓ゑんどんありがたき事、此御きやうにましたる事は有るまじとうけ給り候へども、一もんふつうなれぼ、めうほうれんげきやうとあさ夕となへて、寂光ぢやくくわう淨土じやうどへむまれて、不退轉ふたいてんのくらゐにあんざせよとけうけする物也、
一、中智のくらゐにけうけの次第は、先日ぽんは神︀こくなるによつて、諸︀神︀志よ佛志んじ奉り、べつしては伊勢かすが八まん三しやの託宣たくせんのむねをとくしんして、あしたには天下泰平たいへい國土こくど安穏あんおんしゆ人愛敬あいきやうといのる、和光同塵わくわうどうじんは結緣けちえんのはじめ、八相さう成道じやうだうは利物りもつのおはりと申て、かならず臨終りんじうのみぎりにみちびき給ふ、神︀と佛は水波のへだてなればなり、夕べには無常むじやうを觀くわんじて、人げん五十年といひながら、あすをもしらず、一心のうへよりいろ〳〵のあくしん妄想もうざううつりやすき物なれば、境界きやうがひにひかれぬやうに、わが一心のたづなをはなさず、又せけんをわたらんとおもふには、仁義禮智信をまぼり、內證せうには菩提心ぼだひしんをふくみ給ふべし、金銀をいかほどたくわへても、夢にかねをひろうがごとし、志かりといへども、よくをこと〴〵くすてよといふにはあらず、よこしまむりむたひをいましむる也、
一、上智の人出離しゆつりをとげんとおもふとりおこないは、釋迦一代の藏經ざうきやうは、迷まよひと悟さとりの二つをときわけ給ふ、一心のうへよりさとり、一心のうへよりまよふ物なれば、人だのみをし、佛だのみをしてなる佛にはあらず、たゞわれにそなわりもちたる佛をみがき出さゞれぼ、みらいやう〳〵をへても佛にはなりがたし、たとへば、水晶すいしやうの石にひかりありといへども、こんがうじやうをもつてすりみがゝざれば玉にならず、たとへば鏡かゞみといふものは、無念むねんなる物なれば、うかぶかたちをとめず、人げんも本心はかゞみにもおとらず、あきらかなる物なれども、うかぶきやうがひをとめてよろづき、とんよくがまんにまよふ、禪家に萬ぼうとともだつてともたらずといふも、ばん〴〵のきやうがいにひかれぬといふぎりなり、天台だいの一念ねん三千の相さうといふも、一心のうへに三千のまよひあるといふ事を肝腎かんじんとす、かつて凡夫ぼんぶのうへにさたする事にあらず、されども知識ちしきにあひてさとる人はあまたあれども、ひらくる人まれ也、かたわぐるまのごとし、
元和年がうの比、肥後の國より坊主一人駿河するがへまかり上、御年より衆まで言上申ていはく、肥後の國にきりしたんの寺なたると申て、小西津の守が尊崇そんそうせし寺にて御座候、それがしに難題なんだいを申かけついほう仕候、わたくしもいるまんと申て、だんぎをもいたし候意趣いしゆは、なんばんの國王日ほんをしたがへんてだてに、佛法をひろめんため、ばてれんをあまたさしこし、かの國のうち五かこく十ケ國の所りやうを日本の入用にをしむけ、まい年あきないぶねとかこつけて、いとまき物しな〴〵をわたす、京ゐ中の寺々配分はいぶんして、まかないとぼしからず、又日ほんよりは當年は何なん百なん十人しうていにすゝめ入たるといふ大帳をつくり、なんばんへわたす、弓矢のたゝかひなく國をとるはかりごとなり、まのあたりのべすばん、るすん、かの國より守護しゆごをすへ、三年がわり所務しよむを運送うんそうせしむ、ほうをひろめんはかりごと也、それがしがあひてをさう〳〵肥後へよびにつかはされ候へ、御前におひて對決たいけつをとげ、志゛ぜん拙者︀虛言きよごんを申さば、うしざきになり其車ざきになりとも御おこなひなされ候へ、あひてのまいる間は牢舍ろうしやに仰せつけらるべしと、とゞこほ【 IA:574】る事なく申上ければ、上意にきこしめし、ちうせつのものかなと御氣色きしよくよげにみえさせ給ふ、すなはち加藤肥後守におほせわたされ、訴人のあひてをめし上せらるゝ所に、雙方さうほうたいけついたし、めいさいに白狀仕、國をとらんとのはかりごとにきわまれり、それよりして、ふかくにくみおぼしめして、寺々發向はつかうせられ、宗躰しうていのもの共には、此たびころびたらんものは志さいなし、もしあひのこるものこれあらば、すみやかに御成敗せいばいにをよぶへきむね、かたく御ふれの事、
右洛らく中の町人うらや、かしや、あまめうしんへんどへんない、こと〴〵くせんさく仕といへども、內心わだかまつてそらころびするものこれおほし、其ときの所司代板倉いたくら伊賀守勝重かつしげしゆ〴〵けいりやくをめぐらされけれ共、畜生ちくしやう正ぢきのやつばらなれば、一たび聞入てひるがへす事なし、いのちを露ほどもおしまざれば、さながらに後生ごしやう事といへば、掏摸すり强盗がうたうの罪科ざいくわにもおこなはれず、いかゞはせんとあんじわづらひ給ふ所に、江戶より大久保さがみの守御奉行として、らく中大坂、さかへ、なら、きゝつけ次第俵たわらにいれ給ふ、たわら二まいにまき、五ところゆいにして、くびばかりいだしけれは、さながらみの蟲のごとし、先京中のもの共は、四でう五條のかはらにさんつみにして、五十石卅石つつみかさね、おうぢうばのたぐひはひしとならべをかれたり、見物のものは、京中をうちふるうたりと見えたり、あさよりひる時分までは、口くち器量ぎりやうにして、ぜんすまる〳〵ととなへて、あひ〳〵に申やう、さてもありがたの御事や、內々ない〳〵はかやうの大なんにあひ、でうすさまの御たすけにあづかり、はらいぞうへむまれて、樂らく活くわつ計けいに欲ほしい飢ひもじなる事もなく、瓔珞やうらくをさげてゐると、どみんご、御示おしめしごとに聽聞ちやうもんす、はや〳〵うち御ころし候へと人ごとにつぶやきける、むまのこくも過、ひつじのかしらになる時分に、一人が申やうは、いざみなころぶまひか、後生はみてこぬ事なればおつての事、とかくひだるうてめがまひさう也、其うへ此中のだんぎごとに、大なんにあふときは、百味みの飮食おんじきをあたへ、天てんの上へひきあげ給ふよしうけ給り候へども、けふは煎餠せんべいを一まい飴あめを一ぽんくるゝ物なし、夕べくうたるまゝなれば、むしがこみあげ、むねがしわるといふ、又したづみになりたる物の申やう、うへよりをしつけられ、もちおもりがして、息いきがきるゝ、義理ぎりも外聞ぐわいぶんも思はれず、いざころべと異口同音いくどうおんに申ければ、なぐれくちになつて河原うちは時のこゑをあげてわらいけり、さてざうしき衆町々へ人をはしらかし、うけ人てがたをさせ、みなをのが家々に歸る所に、あとに五六十人のこりてひけう〳〵とのゝしりければ、せう〳〵のはぢにこそうそもふかるれ、これよりしてはめん〳〵さばき、後生はねずみいたちに生るゝ共かまいなしと、うちわくづれに成てかへりける、さてざうしき衆あとにのこるやつばらをにくみ、たき木を四五だとりよせ見せて、夕さりは夜どをしに、八瀨やせ、大原はら、岩倉いわくら、長谷ながたに、静原しづはら、花園ぞのより、しばわり木二三百だ來べし、あすのあかつきは、山のごとくつみあげて、一どに火あぶりにしてくれんといふをきゝて、大驚顚けでんをしてふるい〳〵、ざうしきのかしら、松尾松むらおぎ野いがらしをよびていふやう、一たんのぎりにこそは今までこたへて候へ、はやくころばせて下され候へと、いろ〳〵くどきつれて申によつて、わらい〳〵たわらより出されけるとかや、
右はじめのほどは、一文もん不通ふつうの物ども悪魔あくま外道げだうのほうを聞てまことぞとおもふものふびんの事かなと御なふじうをたれさせ、ころびしたびに御ゆうめんなさるゝ所に、なんばんへもれ聞えて、又ほうのたてばをかへて、いくたびころびても、宗躰しうていの本意ほんいさへたがはずはくるしかるまじといひつたへ、一人にゐんす一ふんあて、ひそかに是をくばる、此事又訴人出て、いよ〳〵國をかたぶくべきてだてあらはれ、ふかくにくみおぼしめして、日本國の守護しゆご地頭とう代官くわんとうに仰付られ、里々うら〳〵、山が山が、嶋々のこる所なく、昨日けふむまれたるあか子まで、それ〴〵のだんな寺よりせう文にのせ、子々孫々志ゝそん〳〵當寺のだんなにまぎれ御座なし、もし此うち一人なり共きりしたんの宗旨しうし御座候はゞ、寺のぎは御闕所けつしよなされ、ばうずはいかやうにも御せいばいたるべしと、かたく書物を仕りさゝげ奉る、町【 IA:576】人は町の年寄としより月行事、村々は庄屋しやうやおも百姓、武士ぶしは物がしら、年ごとに御あらためもるゝ事なく、あまつさへ諸︀國の在々ざい〳〵にそくたくの高札ありといへども、やゝもすれば十人廿人づゝさがし出されて、火あぶり、さかはつけ、水つけ、さま〴〵の御せいばい今にたへざる御事は、ふ志んはれがたしと云々、
寬永十四年十一月中旬の比、島原天草しまばらあまくさ一揆しきりにおこして、くしのはを引がごとく、早飛脚はやびきやく早傳馬はやでんまの行ちがふ事夜る日るのさかひなし、その濫觴らんじやうを尋ぬるに、松倉長門守拜領はいりやうの地也、六萬石あておこなわるゝ所に、私検地わたくしけんちして高拾貳萬石を物成五つ六つにして、むたいにむさぶりとる、百姓ども年々のつかれによつて、當ねんはうるべき子も牛馬もなし、なにをもつて身命しんみやうをつなぐべきや、とても餓死がしにをよばんより、一揆をおこし末代までの後記こうきにとヾむべきと、天の四郞といふものを大將にして、すなはちきりしたんのだんぎをとかせ、しうていを一途にきわむる、もし異議いぎいふものあればきつてすて、腰指こしざし笠標かさしるし守まぼりに、くるすといふ物を仕りける、すなはちながとの守在江戶のるすをうかがい、城しろ下は申にをよばす、二三里四方放火せしめ、ひやうらう、みそ、しほ、たまくすり以下、でうぶによういして、しまばらの古城ふるじろを夜る日る普請ふしんをくわだつる、そうじて此しろと申は、ひがしはあらうみ、西はぬま、しほのさしひきあつて馬のひづめもたゝず、南北なんぼくがんせきそびへたり、たて十八町、よこ十ちやうばかり、中にからぼり、三重にほりとをし、山のこしをほつて、鐵炮狹間てつぽうざまをあけ、本丸に小殿主こでんしゆをあげだし、やぐらだし、塀︀へい逆茂さかも木かいだて、二のまる三の丸までおもふづにこしらへ、たてこもる人數は、さうひやう三萬四五千にをよべり、中にも下針さげばりをも射いる程の弓四五百ちやう、志ゝうさぎのはしり物、そらとぶ鳥をはづさゞるほどのてつぽう八百からばかり、又土手どてにひつそへて、どう木石弓共きつてをとすたくみ、女ばうどものやく〳〵には、砂すなをいりて大杓子しやくしにてすくいかくる、煮︀にゑ湯ゆをわかしてかくるもあり、まりほどづゝのいしをなぐるも、それ〴〵のやくしやづけをしたり、御上使に板倉內膳正、石谷十藏介、かさねて御奉行に松平伊豆守、つくし大名には、細川越中守、黒田右衞門佐、鍋嶋信濃守、有馬玄蕃允、橘飛驒守、寺澤兵庫頭、小笠原右近大夫、侍大將水野日向守、戶田左衞門督、その外は志るすにをよばず、其一ぞなへひとぞなへ、芝手をつき、さかも木をゆい、さくを付、井樓せいろうをあげ、しよりを千鳥どり掛かけに竹たばもつたて、かめのこう、ミツカ子水銀ぼり、八重はたへにとりまき、海︀手はかいだて、めくらぶね大せんをからくみ、やぐらをあげ、いし火や大づつなりやむまもなし、まことに鳥ならではかけりがたし、日るは足輕あしがるてつぽうのものをいだして、雨のふるほどはなしけれ共、すこしもひるまず、しろの內よりは、山のこしをほりうがち、てつぽうざまを三だんにあけ、さかをとしにうつ、しろへのみち、大手からめてに二すぢ有といへども、ほそみち岩づたひなれば、一きうちにしてさうなうへいじたまではおもひもよらず、夜るはさる火車火をいだして、蟻ありのはうまでもみすかし、日々夜々よせての人數そんずるばかり也、しろはがんせきけんなんにして、塔たうの九輪くりんのうへをながむるがごとし、何ともせめあぐんて、日々談合だんがう一途にきわまらざる所に、江戶よりの御注進ちうしんにいはく、さつそくせめて人數そこなふべからず、一揆ふぜいけんそをかまへいかほどありといふとも物の數ならず、あひかまへてせむべからずとおい〳〵にはやびきやくかさなれり、諸︀大名衆御上使の陣屋にあつまりたまひて、評定ひやうぢやうにいはく、そうじて此こしろ、たとひ巌窟がんくつ石壁せきへきにして、くろがねのあみ二重三へにはるといふとも、蚊虻あつまつて雷いかづちをなすににたり、一ときぜめにしてふみちらさん事あんのうちなりといへども、百姓穢多ゑつた、乞食こつじきのたぐひに諸︀侍しよさふらいどもをうたせてはふびんの事也、いかゞはあらん、せんする所は、すねんのたくわへもなく、にわかにたてこもりたる物なれば、ひやうらうか玉ぐすりかつきざる事はよもあらじ、其上御おきてといひ、かた〴〵もつて先一ケ月もゆるがせにすべしとだんがうきわまる所に、鍋嶋信濃守てさきへ夜うちを打、內々おもひまうけたる事なれば、えたりやかしこしとひつつゝんで、百四五十くびをとり、いけどり二三十人からめ【 IA:578】とる、のこる二百人あまり、はう〳〵しろへにげのぼる、さて死人どものはらをあけてみれば、海︀草かいさう、木のは、靑むぎなどをくらひて、めしのあるはらは一人もなし、さてはひやうらうなきと心へて、寬永十五年正月二十七日の夜はんより、總攻そうぜめせんと諸︀陣志よぢんへあひふれ、一ばん貝にめしくい、二ばんめに身ごしらへをし、三ばんがいを相圖あいづにこしざしあひしるし、大かたは素肌すはだ、ざうひやうは藁わらにて甲かぶとをくみてかつぎ、あつ鳥むらすゞめのごとく、へいさかも木がんせきひしをまきたる所ともいはずのりこえ、はねこえ、我おとらじと二の丸につく、かなはじとや思ひけん、門をひらき、やりふすまをつくりてこみ入こみいだし、二三ど火花をちらしけるが、つけいれにさゝれて、かたはしくびをとられ、つめの丸へつぽむ所に、火やを雨のふるごとく八ぱうよりいこめば、身のをき所なさにこみ出るを、串刺くしざし、胴切どうぎり、追打おいうち、二時ばかりのうちに落居らつきよして、死がい山のごとし、諸︀手へとらるゝくびかずをしるすに一萬五六千、やけじにきりすてになるもの、女わらんべ、都︀合四萬あまり、よせてもをびたゞしくそんじて、あはれはこれにとゞめたり、大みやう小みやうによらず、こんどのはたらき自身手をくだかれ、人數のやりくばりの見事、いづれをそれとわけてほめがたし、むかし物がたりにも、かほど人のほろびたる、聞もをよばざる御事也、
松くらぶんごの守と申は、いにしへ大和やまとの國つゝ井順慶じゆんけい家老一ぶんの人也、一しんかい〴〵しく、すどのてがら拔群ばつくんにして、忠節︀ちうせつよにかくれなかりしゆへ、嶋ばらをはいりやうして、たのしみをきわめ、年老つもつて他界たかひにをよべり、そのちやくし松倉長門ながとの守にあとしきつゝがなふ仰付られ、有がたき事あげてかぞふべからず、江戶にひしとあひつめ、出仕にうとき事なし、ある時てつぽうの者︀の中にこ才かくさうなるものを見たてゝ、萬事をかれ一人にまかせ、國のしをきの事は申にをよばす、譜代相傳ふだいさうでんの家の子まで、みなをのが下知にしたがはしむ、かの男が藝能げいのふには、利潤りじゆん賣買ばいばい世智辨せちべんなる事ばかりを明ても暮てもみつだんす、あんのごとくいく程なきにさうろん出來して、馬上四十四五きとりのき、みな新座ものになりかわるそれより猶出頭しゆつとうまさりて、一人當千たうせんのおもひなし、かげにてはくやむ事ありしかども、目めをひき袖をひかへて、よろづにかまふ物一人もなきとあひきこゆ、かやうの者︀魔となつて、家のほろぶるずいさう也、
大人小身によらず、人をめしつかふにしな〴〵あり、智慧ちゑのふかきしゆ人のめしつかはるゝは、家に久しさものをば正宗貞宗さだむね、新座をばあら身の物きれ、小身ものをば孫まご六正常まさつねが小がたななどのやうに祕藏ひざうしてめしつかわるれば、一人もうらむるものなし、かたじけなきおもひ入はるかにちがふ物也、いづれをとりわけて御きに入たるといふ色わけをみせ給はず、わが子のごとくめん〳〵のげいぶりを見わけ、それ〴〵にめしつかわれ、一ぱうを聞て下知なく、志゛ひをふかう、なさけをあつう、ふだん心やすきやつにおこなひをなし給へば、萬事にはぢてぎやうぎをたしなみ、法度はつとをもちい、ばさらにふけらず、上をまねぶ下とかや、しぜんの城攻しろぜめ、合戰かつせんありし時は、一あしもしりぞかせず、主人のざいにつき、時に敵てきをとりひしがんと心がくるは、つね〴〵 の御なさけをかんずるゆへなり、さあるときんば、一人もくずにならざるのもとひなり、
一、かしこくして中智の人をめしつかわるゝは、人のきようぶきようを見すかし、家につたわり勲功くんこうをつみたるやからをも、すこしのなんをあらためて、ふる身のかたなにやきばのなきやうにすてをかるれば、其身もをのづからひげして、よろづにつゝしみをなす、又昨日けふ出たるものなり共、萬事にはかをやり、こうせきたゞしく、才かく人にぬきんでたる者︀と見こめては、內外のしゆつとうかたをならべざるやうに、かれ一人にきわまつて、いかやうの事ありとても、しゆ人のみゝへわきよりうつたふる事かつてならざれば、本座新座共にかのしゆつとう人をうやまふて門前に市をなす、又我にしたしきものには、心をうちとけてちなみをなす、我にうとき者︀には、折めきりめに殿の御意とがうしてあてつかひにめしつかふ、瞋恚しんいのほのおむねをこがすといへどもかなはざれば、おもてむきをなだらかにす、大身ほど正直【 IA:580】なる物なれば、げに〴〵しく申なせば、わきのめいわくはしろしめさず、もろ〳〵のしゆつとう人の中にも、よきみちへふんべつのふかきもあり、又しゆ人のきにさへいれば、萬事はいらざる事と思ひさだむるやから世におほし、たゞ人をめしつかふは、石かけをつむがごとし、大石はつみいし、小いしはつめ石、主人のめしつかわれやうによつて、一ぶんの才かくふんべつなき物はあるまじ、松倉長門守も、りはつもかたのごとく、さすがにゆうちやうなりし人なるに、あくぎやくものをもつぱらに國のしをき、內外のさいばんほめたる者︀なかりければ、あんのごとく、ながよの守を引たをしける、
抑この御代に、きりしたんのしうていをこんげんをきつてはらわれたまふ、まことにもつて佛神︀薩埵さつたの御裁斷さいだんかと、あまねくありがたき御事、須彌山しゆみせんすこぶるひきし、蒼海︀さうかいかへつてあさし、なににたとへて申上むや、ゆへいかにとなれば、日本は神︀國といひながら、ぶつぽう流布るふの地、三國でんらいして、王法わうぼう、神︀たう、ぶつだう、鼎かなへのあしのごとし、ひとつかけぬれば、日月も地にをち、あん夜にともし火をうしなふがごとくなるに、異國いこくのゑびすきたり、魔法まほうをひろめ、佛神︀をないがしろにやぶりすて、日ほんを魔界まかいとなさん事、なげかしいかな、くちをしいかなと、智あるものはあさ夕にこれをわびなげく所に、寸土尺地も手足をためさせず、斷滅だんめつにをよび、六十餘州の大小の神︀祇、三世のしよ佛、こと〴〵くよろこびおぼしめして、天下たいへい國土ど安穏あんおん、御代長久ちやうきう、萬刧ごうまん年、未來みらい際さいのあひだ守護しゆごをくわへ、ばんみん君臣のとくをいたゞき、延喜聖代の御世とも申べき者︀哉
寬永十六〈己卯〉稔八月吉祥︀日
吉利支丹物語卷第下終