古写本日本書紀に就きて

 
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古写本日本書紀に就きて
 
 大阪毎日新聞社にて複製せられたる日本書紀古写本が、本邦の史籍として、古典としての本質に於て貴重すべきことは、黒板博士の解題に述べらるべければ、門外漢なる余が言を俟たざるべし。余は別に他の方面より視て、其の意外なる点に貴重なる資料たるべき者あることを述べんとす。

 其一は訓読の精確なることなり。余は固より本書を通読して、尽く其例証を挙ぐるに暇あらざれば、嘗て少しく研究せし聖徳太子の憲法十七条に就て、其一二を摘出するに止むべし。憲法十七条の第一条

 或不君父。乍違于隣里

此の二句中の『乍』字に岩崎本、河村秀根集解本は『又』『マタ』『アルヰハ』の三訓を施せり。図書寮本、寛文刻本、飯田武郷通釈本、並びに『マタ』と訓ぜるは、いづれも古訓中の一を残したるなり。しかるに谷川士清の通証に傍訓として『マタ』『アルヒハ』の二訓を採りたるは可なるも、『増韻猝也』と注したるは誤れり。乍を訓読して『タチマチ』とするは、即ち増韻に忽オープンアクセスNDLJP:150 也猝也甫然也といへるに当れども、『マタ』『アルヰハ』の義に当つべからず、玄応の一切経音義巻十一、〈摂大乗論第五巻〉巻二十五、〈阿毗達磨順正理論第三十巻〉に乍仕嫁切。蒼頡篇乍両辞也とあるこそ、『マタ』『アルヰハ』の訓読に相当せる者といふべけれ。〈慧林音義巻三十二、未曽有因縁経上巻にも同じく蒼韻篇を引きたり。但し阮元の経籍纂詁に玄応音義を引きて巻十七とせるは誤れり。〉尤も乍を猝と訓ずるも古くより之あり、広雅釈言に乍暫也とあり、王念孫は其典拠として、左伝の定公八年、桓子昨謂林楚の杜預注に咋暫也とあり、公羊伝の僖公三十三年詐戦不日の何休解話に詐卒也とあるを引き、昨詐ともに乍と同じとしたるが、杜預は又左伝僖公三十三年、婦人暫而免諸国に注して暫猶卒也といへれば、定八年の昨字に注せる暫も卒の義なるべく、皆『タチマチ』と訓ずべきも、十七憲法は上句の或字に対して用ひたれば、古訓の『マタ』『アルヰハ』といへる方正しかるべし。是れ古人訓読の苟もせざりし証例の一なり。〈久米邦武博士の上宮太子実録には乍にチの送り仮名を付したり。やはり古訓を考へずして『タチマチ』と読みたるならん。〉又第五条に

 絶餐棄

を訓じて『アチハヒノムサボリヲタチ、タカラノホシミヲステ』とよみしこと、極めて意を用ひたり。餐は左伝の文公十八年の伝、饕餮の杜注に貪財為饗、貪食為餐とあれば、『アチハヒノムサホリ』と訓ずること、極めて其義にかなへり。欲は孟子趙注に尽心章の寡欲の欲を利欲とし、周易集解損卦に虞翻注を引て坤陰吝嗇為欲とあれば、『タカラノホシミ』と訓ずるも、いはれなきに非ず。但だ谷川士清が曲礼の疏に心所貪愛為欲といへるを引けるは、切当なりといふべからざるが如し。

同じ条に

 聴讞

の識を岩崎本に『コトワリマウス』と訓じたるは、礼記文王世子鄭注の讞之言白也といひ、漢書景帝紀〈中五年〉顔師古注に識平議也といひ、説文に議皇也といひ、切韻又は唐韻に、議獄、正獄といへるなどに拠りたるべく、同本の一条兼良が訓に識を聴くとしたるさへ当らざるに、寛文本に『イカリユルす』と訓ぜるなど、何の謂なるを知らず。飯田氏は写本の訓に『ウタヘヲユルクス』と訓るはよろしからずといへるは可なれども、是も『コトワリを聴く』と訓めるはいかゞあらん。谷川士清の訓が岩崎本に同じきは可なれども、其注に正韻讞議罪也とあるは、康熙字典に広韻、集韻、韻会、正韻を併せ引きたる中、最後の正韻のみを挙げて、他を遺したるさへ心得ぬに、其後河村の集解、飯田の通釈、皆之を踏襲せるは、更に笑ふべし。

 其外第三条に

オープンアクセスNDLJP:151  地欲覆天

を岩崎本に『ツチ、アメヲオホハントホツスルトキハ』と訓めるが正しきを、後の諸本、皆『天ヲ覆サント欲スルトキハ』と訓めり、〈図書寮本は覆字に訓なし。久米氏も明らかならず。〉此等は見易き誤りなるが、第八条の

 公事靡監

を『オホヤケワザイトナシ』と訓めるはいかなる拠りどころあるにか。元来靡塩の字は毛詩の唐風鴇羽、小雅四牡に出て、後世の清原氏などの明経家の点にては『王事ナシモロイコト』と訓むが常なるに、この訓の然らざるは、其由を知る能はず。又第十条に

 絶忿棄

を『忿コヽロノイカリヲ絶チオモヘリノイカリヲ棄テ』とよみ、或は瞋を『オモミイカリ』とよみしなども、〈図書寮本には又『オモテノイカリ』とも訓じたり〉いかなる典拠ありてか、今見るかぎりの支那の古き小学書どもにては、かく訓ずべき故明かならず。されどもかゝる靡盬、忿瞋等の字の古訓は見存小学書に典拠なしとて、一概に非とすべからず。乍字の『マタ』『アルヰハ』の訓も、一切経音義に蒼頡篇を引きたるが残らざらんには、亦誤訓とせられずとも限らざるべきをや。飯田氏が第七条の

 国家永久

の古訓に永久を『トコメツラ』とあるを非とせしなども、軽々しくは従ひ難し。

 又此の憲法に『善』を訓じて『ホマレ』とし『忠』を訓じて『イサヲシキ』とせるなども、我邦の古代思想を窺ひ知る便りとなるべく、等閑には看過すべからざるなり。

 其二は措辞の典拠あることなり。此事に就きては、谷川氏の通証、河村氏の集解、殊に力を用ゐて挙示し、十の七八は之を得たれば、更に言ふべき要なき程なれど、第七条に

 賢哲任官。頌音則起。姦者有官。禍乱則繁

とあるを、久米博士は『任官は在官か、有官も在官に作るべし、当時の文は有在を同用す、原本は在有を互用したるならん』と速断したるが任官は上の『人各有任。掌宜濫。』〈久米氏は寛文本の誤読を襲て、『人各有任掌』にて句したり。〉を承けて、通証にもいふ如く、尚書の咸有一徳の『任官惟賢材』の出典に本つきたれば、任を在に改むべからず。『有官』の二字も尚書の周官に二処までも出でたれば有を在と同用とするは軽断に過ぎたり。やはり古訓に『賢哲サカシヒト官ニヨザス』『姦者カタマシキヒト官ヲタモツ』とよめるに従ふべし。凡そ古書を読むには十分なる徴拠を経ずして、漫りに近世学者の臆説に従ふべからざること、これを以ても知るべきなり。

オープンアクセスNDLJP:152 又第十五条に

 五百之乃今遇賢。千載以難一聖

岩崎本の訓によれば『イホトキニテイマシイマサカシキヒトニアフ、チトセニテモヒトリノヒシリヲマツコトカタシ』とよむべく、五百を千載に対したれば、このまゝにて文を成せるなり。然るに岩崎本の一条兼良校字に已に五百之の下に後字を加へ、今を令に作れる異本あることを示したるが、法隆寺に伝ふる木板は、弘安八年の刻にて、岩崎本の原文に同じく、図書寮本、寛文本も今を令に作れども五百之は尚を古本の如くなるに、通証、集解並びに聖徳太子伝暦及び拾芥抄に拠て五百歳之後と改め、飯田氏も之に従ひ、久米氏に至りては、更に乃字を删り、今を令に作れり。かくては原文の対偶を破りて、太子の麗藻を無視せるも心なきわざならずや。又其の出典に就きても、通証に取孟子之意といへるにて已に足れるに、久米氏は孟子に、五百歳而有王者興とあれど五百歳にて賢に遇ひ千載にして聖を待つの出所を知らずといへり。孟子の公孫丑章句下に五百年必有王者興といひ尽心の末章趙注に五百歳聖人一出。天道之常也などあるを荘子の斉物論に万世之後。而遇其解。是旦暮遇之也といへるなどに思ひ合せて新たに美辞を鎔鋳せられしなるべし。必ずしも出典の成語をそのまゝに用ひられざりしは、太子の文才いみじかりし証とも看るべからずや。

 憲法十七条のみに就きても古本の佳処はかくの如く多ければ其の全書を通じて学問上に資益あることあげて数ふべからざることを知るべし。聊か其一端を挙げて読者の参攷に供するのみ。

(昭和二年四月大阪毎日新聞社発行影印古写日本書紀跋文)

 
 

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