目次
 
 
頼宣の幼時大坂挙兵の内報頼宣及尾州義直の軍装総領の庶子庶子の総領頼宣の大纒頼宣先陣を請ふ頼宣茶臼山に上る頼宣戦に会せざるを歎ず頼宣転封の風説駿府政事録頼宣仏の原を習ふ福島正則の属士を招く
 
頼宣大崎長行等の浪人を召抱ふ洛中辻固の割賦間宮久弥を手討にす高井伊織の諫言頼宣伊織死を惜む那波道円頼宣の試刀を諫む那波道円人材登用の法を説く松平忠尚の諫言大高重高の諫言によりて熱田の渡海を罷む
 
頼宣名士を招く横田大学を召抱へむとして果さず臣下の華奢を恥とす鄭芝龍我国に援を請ふ頼宣救援を主張す二男頼純への譲物頼宣遠山某の奸佞を看破す頼宣の奉公病を冒して家中年頭の礼を受く落合伊政の譴責
 
懸軸を購へる士を吟味す家中に上米を命ず頼宣参観に先ち神仏に祈る頼宣、頼純の遅参を怒る望月次左衛門日光社参野陣小屋取鯨船の遊興頼宣の判安藤直治の子千福宇治堀端の堤頼宣の眼力頼宣諸士を愛す
 
町野宇右衛門仕を頼宣に求む頼宣、町野を惜む山中作右衛門千宗左頼宣の愍察領主飲食の心得由井正雪頼宣の名を仮る頼宣謀叛の嫌疑を意とせず老中頼宣を忌む
 
頼宣誓文を日光宝殿に納む幕府の難題明暦の大火頼宣糧米を献ず御機嫌伺の為頼宣登城す頼宣の仁恵水野重良の異議尾張義直に関する嫌疑頼宣義直を諫む細川三斎頼宣を訪ふ頼宣の頓才頼宣の遠慮
 
家康の馬術頼宣の機転小笠原忠政壺胡籙を贈る七山の鹿狩佐渡与助諸士知行召上の評議痴児に亡父の跡を継がしむ戸村十太夫大坂陣今福の戦を説明す宇佐美佐介
 
有田山楊梅を観る長尾一在久野宗俊頼宣善く家老の言を容る頼宣石野伝市を戒む山中信友一番鎗頼宣の剛勇頼宣基盤の図を以て財用を計る井原町の水道
 
偏武の戒堀田九郎右衛門の武功家中陪臣の陣羽織頼宣島原一揆鎮定の困難を察知す島原落城の予想頼宣藤堂氏の領に入る藤堂氏頼宣を監視す久野宗俊の茶の湯武者奉行の任命領国入口の多少
 
頼宣隠居頼宣隠居後大纒を用ゐず頼宣の詩歌頼宣の頓才頼宣の励精人主の好馬大将の一言頼宣浪人を懐附す頼宣公子の柔術稽古を戒む名所奪蹟の保存軍法鞘頼宣本多氏の士を招く人主の為政
 
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南龍言行録
 
 
 

爰有真如隠子者、住江南随無庵之沙弥也、与我累年荆識也、其為壮年、倶仕官、而接眉宇於晨昏、一日来茅斎、茗話之余、我告彼曰、先君南龍院公者、近世英雄殊絶之人主也、済世恵民、勃興儒仏、匡衆技百芸、継絶興廃招士、謙遜而下于人、我嘗聞黄髪鯢歯之人、此公出於襁褓之中、而有渥洼之才、我世祖東照宮鐘愛抜群児之中、老将本多忠勝・榊原康政、与加藤清正・山名禅高・畠山夕庵・佐々木賢永倶語曰、公子常陸介殿者、有凌雲覆世之量、後来必入于大海而起龍門万丈之波濤者也、聴之人皆信服矣、宜乎果然也、一生言行、駭人威世之誉、誠欲為之主也、輔佐三代柳営者五十余年、于翼戴藩屏、靡当家万里長城焉、雖然値昇平世、不芳名於万世者、為遺憾焉、公逝世之後、天下偏惜彼仁恵美才而皆堕涙於峴山之碑、嗚呼一代言行不記焉、仍俾彼随無庵沙弥粗筆記公之一生佳言善行、曰号南龍言行録、蔵之仏座下而拈香拝誦、而尚増懐旧遺愛之涙云爾、

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南龍言行録 巻之一
 
頼宣の幼時

一、東照宮御子達多き中に、紀伊頼宣君には、其御器量天才にして、唯尋常の御生質にて御座なく候処を御覧じつけ、御寵愛浅からず、尾張の義直卿と紀伊頼宣卿とは、天下左右の固なりと思召さるべしと、堅く御遺言たるにより、江戸御旗本・尾張・紀伊は御三人と号し、三家一体の御高家たり、然るに頼宣君五歳六歳の御時より、東照宮の御膝本に御座候て、文武の御物語を聞き給ふ、其頃は佐々木中務大輔賢永・畠山義真入道夕庵・山名豊国入道禅高・山岡道阿弥・三好丹後守・城和泉守・堀丹後守以下、武功の輩、御伽に相詰め、公家には日野大納言輝資入道唯心・水無瀬親興入道一斎、其外南光坊天海・金地院伝長老・林道春御前にありて、公家・武家・文武の事の御咄、扨は貞観政要の講談、四書・史漢の評論・平家物語・太平記・東鑑等、扨は孫子・三略六韜の要語の御咄、朝夕の御慰、太公望・張良・孔明・馬援又は郭子儀・李靖抔の伝、頼義・義家・頼朝公・泰時・時頼の昔語にて、頼宣君御幼少より御耳をうたせられ、文武のことは申すに及ばず、詩歌・茶道・乱舞の道までも、其意味を御伝受し給ふ事なれば、近代無双の明将と、天下にて誉め参らせしも理にて、東照宮天下御一統の後、御歳七十に余らせ給ひ、御他界までも、毎日御馬に召させられ、御鉄炮三発づゝ、御弓は的・巻稈を定めて遊ばされ、武門の御務ありしを、頼宣君御幼少より御覧じ給ひけるゆゑ、武の道、須史も御油断なく、武芸は申すに及ばず、茶道は古田織部正重勝・織田長益入道有楽に御習ひ、能・乱舞は観世黒雪・金春太夫に奥儀を御聞なされしかば、一つとして暗き事なく、御近習の輩にも、士は人の司なり、物に偏るべからず、かたよるは愚人の業なり、

   武士の桜狩して帰るにはやさしく見ゆる花胡箙えびら

此歌の心に身を持つべしと、常々御示なり、

大坂挙兵の内報一、慶長十九年十月朔日に、京都板倉伊賀守勝重方より、大坂の謀叛の由、早馬にて註進す、此日は観世三十郎に、定家の紐解、海士の泣掛り、檜垣の大事習ふ事を、東照宮御自身御教なさるべきに付、御舞台の支度、前宵より松平右衛門大夫正網に仰付けられ、御子様方皆御能の御役人にて、御詰めなされ候、其朝時雨降り、御舞台オープンアクセス NDLJP:9ぬれ申し候を、右衛門大夫下知して拭はせ、板の乾くを待ち候所へ、大坂謀叛の早打到来、其状箱板倉内膳正重昌受取り、窃に御前に出で、人を払ひ申上げ候、上総介忠輝君・尾張宰相義直君・頼宣君・阿鶴君、其外御小姓、皆三の間へ退き申し候処、頼宣君計は、京都よりの註進、内膳申上げ候を心許なく思召し、御差足なされ、御障子のこなたにて、御立聞なされ候に付、大坂御謀叛の次第、内膳申上げ候を、早々御聞なされ候、頼宣及尾州義直の軍装是も残りの御兄弟様より、御勝れなされ候故也、御陣触有之上に、尾張様へは、黒地に白き葵の丸附きたる御旗五本、御まとひは白き御紋附きたる朱の大四半なり、金の笠の御馬印、二ッ曳の御幕を進ぜられ、御用意の為、駿府ヘ立寄り、尾張迄先達て御越なり、頼宣君へは、黒き御紋附きたる白旗七本、中黒の御幕、御馬印は、昔柴田勝家が印見事に思召すとて、金の御幣を進ぜられ、七本の御白旗は、秀忠将軍様と御同意との事なり、尾張様の御母儀於亀殿は、御前へ御出で御所様には御情なき事を遊ばされ候、右兵衛佐殿は御兄にて候に、色品変り候御旗を下され、御弟の常陸介殿へは、江戸将軍様と御同意の七本の白旗を進ぜられ候事、さりとて無は曲に奉存候常陸介殿へ進ぜられ候程ならば、御兄にて候へば、右兵衛佐殿へも下さるべき事にて候と、泣きくどき御恨み申上げられ候へば、権現様御顔色御違ひ、仰せられ候は、武家には総領の庶子・庶子の総領のといぶ事あり、総領の庶子庶子の総領我嫡子岡崎三郎信康生害の後、次男なれば、越前黄門秀康嫡子にあるべき事なれども、同腹の弟なし、秀忠は三男なれども、同腹の弟下野守忠吉ある故に、秀忠を嫡子に立てたり、万一将軍に事ある時は、右兵衛佐には一腹の弟なし、常陸介は一腹の弟於鶴あれば、天下の総領は常陸介の筈なり、右兵衛と常陸は兄弟なれども、格は同じ事にて勝劣なし、此故に慶長十一年八月十一日、義直右兵衛督従四位下、頼宣常陸介従四位下に叙爵たり、同十六年三月、右兵衛も常陸も参議に補任す、是を以て見るに右兵衛・常陸が家に勝劣なし、然れども於鶴を弟に持ち候へば、総領は常陸なり、箇様の分を知らず、女の差出でたる事を申候と御叱なり、後に頼宣公は、尾張の御家と此方とは、牛角にて勝劣なし、然るに皆々尾張の家を請けて、物毎を心得候事、沙汰の限なりと御呵なり、我家は天下の御隠居跡、駿河を相続致候へば、尾張は申すに及ばず、江戸に相替る事無之と心得べしとの御内意なり、

頼宣の大纒一、大坂御陣に、頼宣君大纒は、朱の六幅掛の四半に白き丸なり、頼宣君御物語に、オープンアクセス NDLJP:10権現様御意に、四半折掛に紋附けては、上の横手の方へ紋の上りたるが恰好よし、吾白丸の朱の四半も、白丸殊の外上へ揚げて、紋を書くべき旨、権現様御差図なり、出来して浅間の社にて、四半を張るを見たるに、白丸上へ揚りたるにて、殊の外見事なり、権現様には数々の旗印を御覧なされ、恰好を御鍛錬なり、家中の紺地四半も金の丸も、上へあげて附くべしとの仰なり、其時我持弓筒六組の、白しなひに朱の餅の紋の小旗も、長さ七尺なり、是は権現様十人の御鉄炮頭の白しなひの尺を写したるなり、以来寸尺を違ふべからずとの頼宣君御意なり、御先乗物頭或は軍者の言葉を聞き、足軽のしなひの寸尺、長過ぎたりと申すを、頼宣君御聞き、広の御殿御門番に出でたるを、御出なされ候砌召し候て、御先乗同心のしなひ長過ぎたるといふ者ある由、あれは、権現様十人の御鉄炮組の白しなひの寸尺を写したるなり、権現様御定の寸尺を、長過ぎたりとの評判は、推参なりと御叱なり、

頼宣先陣を請ふ一、大坂御陣、四月末に、二条の御城へ将軍様入らせられ、権現様御相談にて、大坂表御手合御定なり、頼宣君御年十四歳にて、御前へ御出なされ、御先手仰付けられ下され候へと御望なされ候、権現様御機嫌よく、尤なる望なれども、大坂表将軍先手致され候へば御気遣なし、大和・紀伊・和泉・河内の地士共、皆々秀頼へ一味し、寄手の後より懸けらるべくも知れざれば、後陣心元なし、義直と其方と永井右近安西組は後陣に控へ、跡よりの敵を切崩すべしとの上意なり、頼宣君是非なく御退出なり、扨五月七日に大坂へ向ひ、御所様御発向遊ばされ、権現様御跡備、安西組永井右近大夫直勝、押続き尾張様・頼宣君、扨同勢総小荷駄なり、平野堤にて義直公は御下馬なされ、兵糧腰付御遣ひなされ候て緩々と御芝居なされ候に付、常陸介君にも、芝居に御折敷なされ候て、悠々と御座候処に、御徒士小野田長兵衛・豊田文四郎、古老の者なりしが、両人一所に居て、今日御先手にて、必定大合戦有之べきに、箇様にふらめき罷在り、残念の事かなとつぶやきしを、頼宣君御聞き、両人の者申す所、尤に思召候、尾張の備を乗越え、大坂へ御押寄なさるべしと仰せられ候へば、松平八郎右衛門等申候は、功者にて候間、朝比奈惣左衛門に、了簡御尋候へとあり、則惣左衛門を御召、今日先手にて必定鎗合と積る者あり、如何と御尋なされ候、惣左衛門御返答に、今日御合戦はあるまじくと申上ぐる、両人の御徒士の者是を聞き、惣左衛門一代に首二つ三つ捕りたるとて、何の了簡あるべきや、今日先手にてオープンアクセス NDLJP:11第合すべきに残念と申し候、暫くして跡に続きし小荷駄数千疋、義直公・頼宣公御備四五丁脇を、先へと乗越え参り候を、頼宣公御覧なされ、御年十四歳とは申せども、天性発明なる大将なれば、人々に仰せられ候は、小荷駄は合戦勝負に入らざる物なるに、先へと急ぐは、先手軍に勝ちて陣着候より、荷物を急ぎ呼越すと見えたり、必定先手に軍ありて、陣取に附くと見えたりとて、又惣左衛門を御召し、此段仰聞けられ候処に、惣左衛門承り、いや左様にてはあるまじく候、御先手にて御合戦はあるまじくと申す、然る処に赤幌懸けたる武者二騎、義直公の御備へ乗込み、馬上にて何事か申し候と等しく、尾張衆一万計騒ぎ立ちて先へ乗立て行く、彼幌武者真直に乗来るを見れば、山上弥四郎・内藤長助なり、馬に白泡かませ、幌の𢅀いたしも折れ懸り、御備へ乗込み、大御所様上意に候、御合戦初り候、早々御乗附なされ候へ、先刻北見長五郎・間宮五左衛門御使に遣され候、何とて御遅参なされ候やとの上意なりと申上ぐる、頼宣公聞召もあへず、左もこそあらむと思ひつれ、詮なき評定して遅れたり唯急げと御旗を振らせ給ひ、御馬を御乗出し候故、御人数前後一つになりて、田も沼も論ぜず、大坂さして乗出づる、頼宣君御口かわき、御馬上より水をくれよと仰せられける、誰も聞く者なかりしに、黒き単羽織着たる歩行士、馬柄杓に濁水を汲みて差上げ候を、頼宣公御取り、則上り申し候時、彼侍御鎧の草摺を取らへ、私は正木庄兵衛〈正木庄兵衛、後号三浦長門守入道定環と云〉が家人梅原五左衛門と申す者にて候、能く御覚えなされ候へと、両度迄申上ぐる、〈此者後に紀州にて三浦定環御茶差上候砌頼宣君召出され、拝領仕候となり、〉

頼宣茶臼山に上る一、扨茶臼山の下へ御乗附なされ候時、安藤帯刀直次、黒地の折懸に、金の打板の紋の指物にて乗むかひ、殿は何とて遅く御越し候や、面白き事が御座候らひつるに、早々御駈附け、御手柄なされ候はで、残念にて候と申され候、山の上に大御所様御座ならせ候間、御対顔候へと申され候時、御近習の輩、御馬より抱き御下し参らせ候、帯刀もつよく乗り候と見え、汗かき、洗馬の如くに見え申し候、帯刀も馬より下り、頼宣君の御手を引き、茶臼山へ上り申し候、其時大坂城天主の焚くるを見むとて、上下茶臼山へ上らむとするを、板倉内膳正重昌、金の抱半月の赤幌かけ、杖にてたゝき下し候を、其所へ帯刀頼宣君の御手を引き、内膳を呼かけ、常陸介殿なり、そこのき候へと申し候へば、内膳も腰をかゞめて礼いたし候、

オープンアクセス NDLJP:12頼宣戦に会せざるを歎ず一、頼宣君は茶臼山へ御上り候へば、権現様は床机に御腰を懸けさせられ、将軍様には敷皮に御座なされ候、其所へ頼宣君御出で候へば、権現様御覧なされ、合戦ありたるに、今になりて参り候や、遅しと仰せられ候、頼宣君取あへず、是を存じ候てこそ、二条の御城にて御先手を望み候に、夫をば御許容なされず、後陣に御置きなされ、遅しとあるは、上意とも存じ奉らずと、御恨仰上げられ候へば、権現様御困りなされ、我等の誤り、其方が道理じやと上意遊ばされ候、頼宣君は、今日手に御合なされず候を無念に思召し、頻に御落涙なされ候を見参らせ、松平右衛門大夫正綱諫め候は、今日御手に合はせられず候とて、左様に御せきなされまじく候、御年若に御座候へば、行末永き御一代の中には、箇様の事に幾度も御逢ひ、御手柄なさるべく候間、御せきなさるまじくと申上げられ候へば、頼宣君御涙を御拭ひ、右衛門をはたと御睨み、やあ右衛門、何を申すぞ、我等十四歳の時が又あるかと仰せられ候へば、権現様益御機嫌よく、常陸介、其詞が鎗なりとの上意にて、御誉め遊ばされ候なり、

一、万治元年戌七月廿四日に、江戸中屋敷御座の間にて、加納五郎左衛門直恒・布施佐五右衛門重紹物語いたし候、頼宣君御前伺公の輩に聞き申し候処、両人も能く覚え候と御挨拶にて、後仰せられ候は、頼宣先年先手致し候はゞ、家中の士ども鎗を合せ、高名いたし候者多くて、其身果て候とも、其子孫残り、家の飾にてあるべきものを、残念の事なりと再三仰せられ候なり、此時頼宣君御物語に、両御所様御前へ諸大名追々に参られ、御勝利の御祝儀を申上げ、且又銘々手前にての働を申上げられ候、其中に畠山夕庵参上致し候へば、権現様御覧なされ、夕庵是へと召させられ、御前近く参り、今日の御勝利、思召の儘の御事、目出たき御儀にて御座候と、御祝儀申上げられ候へば、権現様、夕庵が籠手差し候手を御取なされ、又勝ちたるはとの上意なり、是は関原仰出されけるならむと、頼宣君の御物語なり、

頼宣転封の風説一、大坂落城の年の冬、駿河国に百万石添へ、頼宣君へ御譲渡し、権現様には三島の近所泉頭といふ古城の跡を、御隠居城になさるべしとて御見立あり、江戸より土井大炊頭御使にて、御祝儀を進ぜられ候、其年も暮れ、元和二年になりて、程なく権現様御煩付かせられ終に御他界にて、此事止み候なり、此儀御残多き事なり、権現様今二三年御存生ならば、頼宣君を百万石の大身に致すべきを、残多き事なオープンアクセス NDLJP:13りと、養珠院様ひたと仰せられ候へども、安藤帯刀申しけるは、此方の殿に百万石は過ぎたると計挨拶せしなり、帯刀は詞少く、尤なる申分と、頼宣君御挨拶なり、帯刀名言を、大猷院様御代に至り、諸人感じ候となり、

但し元和元年十二月十四日、権現様三島へ渡御、明十五日吉日たるの間、御隠居所御見立遊ばさるべき旨仰出され、同十五日、三島に出御、三島の西泉頭勝地故、御隠居所と云々、来春御縄張仰付けらるべき旨、未刻、善徳寺に渡御と云々、同九日、江戸将軍様より土井大炊頭参府、御前に出で、泉頭御隠居、珍重思召さるるの旨、御内書被之、御普請等の儀、幕府より仰付らるべく候由言上と云々、 駿府政事録右此趣は駿府政事録に記有之、但し此書は林道春駿府に於ての日記たるを、後藤庄三郎家の記と偽りて、今世に流布せり、道春自筆の書、林大学頭信充、大御所様へ御覧に備へ申さるゝ処、右泉頭へ権現様御隠居所御見立遊ばされたる儀、唯今此書に於て初めて御承知遊ばされたる由、道春自筆記甚だ御賞美遊ばされ、紅葉山の御文庫へ納むるよし伝へ承りぬ、

頼宣仏の原を習ふ一、元和二年正月、織田常真公、江戸へ年頭の御礼として御下りの節、駿府へ御立寄、三四日御滞留、権現様御馳走御能有之候処に、頼宣君へ仏の原をなされ候へ、見物なされたきの旨、常真公御所望なり、頼宣君未だ仏の原御相伝なされず候に付、権現様御残多く思召され、仏の原を御習なされ候様にと上意遊ばされ候、常真公江戸へ御帰なされ候、其正月廿一日に権現様、田中・藤枝へ御鷹野に出御遊ばされ、御留守中に、仏の原習ひ候へと仰置かれ候故、御稽古なされ候、正月廿四日、田中にて権現様御煩付なされ、三日過ぎて、駿府へ御帰城遊ばされ候、その御不例殊の外重き御容体に付、御子様方宇都谷辺迄御迎に御出なされ候、御駕の内より、常陸は仏の原習ひ請け候やと御尋なされ候へば、中々成就仕候と仰上げられ、権現様御意には、御気色御本復次第、仏の原御見物なさるべき旨仰せられ候、其後御気色重らせられ、終に御能も無之、四月十七日御他界なり、頼宣君は是を御残多く思召し、紀州へ御入部、和歌の御宮御建立の後、思召忘れられず、九月十七日臨時の秋祭仰付けられ、毎年御神拝の能怠らず、初二三年の内は、毎度仏の原を抑付けられ候、去程に此九月十七日の御神事能は、御国末々万歳迄も、退転なき筈に御定なされ候と、其後御目付𤍠一郎太夫、其外へも仰渡され候となり、

オープンアクセス NDLJP:14福島正則の属士を招く一、元和五年の秋、福島左衛門大夫正則、流罪に仰付けられ候、其時分秀忠将軍様には、御上洛御在京にて、広島の城受取には、本多美濃守忠政、安藤右京進重長、加藤左馬介嘉明を初として中国・四国の軍兵ども、船手は忍土の瀬戸口、陸路は備後の笠岡より取寄せ候、安藤右京進は京都より下らせ候、其節は六月酷暑の最中なれば、毎晩伏見より尾張・水戸の御両卿御同道にて、頼宣君、淀川へ御舟にて納涼の御遊なり、安藤右京進京都を立ち候日も、淀川へ御三人御すゞみに御越なされ、船三艘もやひにて御酒宴なり、此節伏見の方より、飾立て候川船数十艘下りけるを、広島進発の輩と御覧じ付けられ、舟のもやひを御とかせ、尾張・水戸御両卿の御船を漕退け、飾舟に漕寄せ御覧ずれば、安藤右京進舟なり、頼宣君と見参らせ候に付、右京舷へ罷出で、手を突き申され候ゆゑ、頼宣君仰せられ候は、此度は大儀に候、去ながら広島落去程あるまじく候、追付帰洛待入り候、さて左衛門大夫は、能き士を数多抱へ持ち候間、其内にて覚ある名高き士を抱へ申たく候間、幾人にても肝煎給はり候へと、御頼なされ候、右京進長り存じ候旨御請申され候、其後右京進申されけるは、頼宣卿は当年十八歳にこそ御成なされ候に、能き士をほしきと思召され候御心入は、唯尋常の大将にては御座なく候、権現様勝れて御愛子にて在りしも理なりと、感じ申されけるとなり、

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南龍言行録 巻之二
 
頼宣大崎長行等の浪人を召抱ふ

一、福島左衛門大夫正則御改易にて、其領国安芸・備後闕国になりければ、紀州より浅野但馬守長晟を芸州へ封ぜられ、紀州へは頼宣君を封ぜられ、紀伊中納言と申し奉る、扨広島浪人大崎玄蕃允長行・村上彦右衛門義清・真鍋五郎右衛門貞成三人、紀州へ召抱へられ、其冬三人に御茶下され候、玄蕃には、頼宣君御手前にて下され、彦右衛門・五郎右衛門には、茶堂千賀道円手前にて御茶下さるゝ処に、両人申しけるは、我々共には茶道の手前にて下され候事心外なり、御暇申受くべしと憤りけるを御聞なされ、玄蕃は備後の鞆の城主にて、福島家の家老なり、彦右衛門・五郎右衛門は番頭なり、其分ちはあるべき事なり、いな事を申すものと、御内意を各承り、御尤の御事なりとて静まるなり、

洛中辻固の割賦一、寛永三年〈丙寅〉秋、台徳院様・大猷院様、御父子様共に御上洛遊ばされ、二条の御城へ行幸なり、諸大名辻固、一万石に間口如何程と割付ありて仰渡され、尾張・紀伊・水戸の御三家は、御家老共二条の御城へ出で間制の書付を請取り、紀州よりは安藤帯刀直次・水野淡路守重良、二条の御城にて、辻固の御書付を請取り、伏見へ帰る、頼宣公御前へ出でられ、其段申上げらる、尾張は六十一万石にて有之故、辻固の町間是程、此方は知行高少く候間、是程と申上ぐる、頼宣公御聞なされ、夫は違ひたり、左様に相違の書付受取る物かと仰せられ候、帯刀、少しも違ひ申さず、問割知行高に仕候と申上げらる頼宣君仰せられ候は、帯刀・淡路、共に聞えぬ事を申す物かな、知行高の間割は外の大名の事なり、尾張と我々が家は牛角の格式なり、此故に官位始の叙爵より、少将・中将・参議・中納言に至る迄も同日同刻なり、殊に我家は七本の葵丸の白旗を下され、江戸御旗に全く相違なし、然らば行幸の辻固の間割は、知行高にもよらず、尾張と我家は同辺の筈なりと仰ありしかば、帯刀も道理に詰り、涙をはらと流し、家老も仕り、たわけを尽し候、辻固の間割取直し参るべく候、唯今二条の御城へ参り候とて罷立候を、頼宣君御覧じ、両上様の御前にて極り候書村、如何取直すべきやと仰せられ候へども、帯刀物も申さず、二条へ登城候へば、丑の刻なり、行幸前二三日の事なれば、御老中方も終夜の公事にて、皆々起オープンアクセス NDLJP:16きて居申され候、帯刀参られ候へば、土井大炊頭利勝・青山大蔵大輔幸成よしなり・酒井備後守忠利以下見申され、帯刀殿は、何とて出でられ候とありければ、されば辻固の間割違ひ、紀伊国殿に不審うたれ、道理に詰り又参り候、間割仕直し給はり候へとあり、御老中方、間割の違ひ有之まじくとあれば、帯刀申され候は尾張・紀州の家は同位同格の筈にて、官位共に勝劣なし、此事を打忘れ、他の大名並に知行高の割付の書付受取り、散々叱られ参り候、誠に負ひたる児に、川の浅瀬を教へられたるたとへにて候、早く割直し、尾張同前の書付御渡し候へとあり、御老中皆々申さるゝは、既に両御所様御前にて極り候間、此度は致しがたし重ねての大礼の時に、此方にも心得候と申され候へば帯刀大の眼を怒らし、将軍の屋形へ、天子の行幸程の大礼大儀あるべきや、此時家の格式尾張におとり候へば、生き甲斐なし、是非共間割を仕直し給はれと、思ひ切つたる気色にて、各了簡にて仕直し申す事成り申さず候はゞ、両御所様御前へ、直に罷出で申すべく候、各も出でられ候へとて、両御所様御前へ出で、帯刀段々申上げられ候へば、両御所様、紀伊国の申さるゝ様尤なり、辻固の間割、尾張同前にと仰出され候、帯刀喜悦限りなく、御前を退出せらるゝとて、廊下にて御老中方へ向ひて、望叶ひ候て、大慶これに過ぎず候とて、伏見へ罷帰られ候、辻固の儀、尾州と同前にて、此時尾州・紀州一度に、従二位大納言に昇進し給ふとなり、御老中方も帯刀が気色におどろかれけるとぞ、

間宮久弥を手討にす一、大小姓間宮久弥罪科有之、頼宣君御叱なされ、御鷹野より御帰の時分、御通りなされながら御呵にて、御入候跡にて、久弥恐れて舌振ひ致し候を、殿目しりめに御覧なされ、久弥口をゆがめ嘲り候は、八幡遁さぬと仰せられ、取つて御返しなされ候に、久弥も左の手にて、脇差を鞘ながら御次へなげ、頭をのべ罷出で候と、御腰物にて抜打に、唯一打に御成敗なされ候、山本図書之助替の御腰物を上げ、血刀を受取り参らする、頼宣君御顔色御眼血を注ぎたる如くにて、御近習皆々に向ひて立たせ給ひ、久弥めが不届、我手討にしたるは、道理か非道か、申上げ候へと御意なり、皆皆頭を地に付け、恐れぬ者なく、皆一同に御尤千万と申上ぐる、高井伊織の諫言其中に高井伊織一入は、うけがはぬ顔にて、頭を上げて罷り在り候を御覧じ咎め、すると御立寄、己がつらは、我を尤と思はの貌なり、我が無道か、申上げ候へと、御問詰なされ候へば、伊織承り、久弥罪科勿論に候へば、御成敗の段は、御尤至極に奉存候、然ればオープンアクセス NDLJP:17誰になりとも仰付けられ、御成敗なさるべき御事に候、尤武将の御身にて御座なされ候へば、戦場にて御自身御手を御下し遊ばされ候段、勿論にて候、平生の御時に、御官位は中納言従三位に至り給ふ御身にて、御手討に遊ばされ候事、禁裏へ対し奉り、御無礼御不義これに過ぎず候、唯御武運の末と存じ奉ると申しもあへず、涙をはらと流し、勿体なき御事と申上げ候へば、頼宣君も道理に御詰り、奥へ入らせられて後、伊織を召され、汝が先刻諫め申す処、道理至極せり、自今手討は掔く遊ばされまじくと御誓約有之、夫より御一代に御手討は無之候也、

頼宣伊織死を惜む一、寛永元年〈甲子〉二月廿五日,日光御下向、大桑の御旅館にて、松平久七郎信康と高井伊織と喧嘩にて討果しけるに、頼宣君殊の外をしませ給ひ、主君の為には、身命を捨て、奉公の誠を尽しける者なり、先年間宮久弥を手討せし時の忠節の諫言、世に類稀なる武士なりしを、扨々不便残多き事なりとて、子を〈実は妹なれども、養手に仰付けらる〉御尋ありしに、娘一人ありて男子なければ、花井が子を聟名跡に仰付けられ、高井五郎左衛門と改め、伊織が跡を相続仰付けられける、

私曰、伊織が祖父高井助次郎は、今川氏真の家臣にて、氏真方々流浪の時、随分忠功を致し奉公する、長久手合戦の前に、御家へ御預にて、権現様に御奉公仕る、長久手合戦に手に合ひ申さず、高名無之に付、助次郎殊の外無念がり申し候、権現様御聞遊ばされ、上意には、主君今川氏真へ附随ひ、牢浪の艱難の奉公仕候段、忠節大功勝げて計るべからず、今日手に合ひ候より、氏真への奉公が手がらなりとの上意なり、其助次郎が子助兵衛、其子伊織なり、

那波道円頼宣の試刀を諫む一、市山甚右衛門清長宅にて、御自身御ためし物なされ、御腰物腰帯と異名のある、備前長光の御刀にて、立袈装を御切なされ候、水も溜らず切れつゝ、其儘にて立ちたるを、柄にて御突きなされ候へば、二ツになり倒れ申し候、御前上下一同に瞳と感じ申し候、頼宣君御機嫌にて、那波道円に御向ひなされ、異国にも箇様の利劔ありしやと御尋なされ候、道図、中々異国にも利劒数多く御座候と申上ぐる、頼宣君重ねて、箇様に手づまきゝて、人を切るに妙を得たるは、異国にもありやと御尋候へば、遣円申上げ候は、人を能く切り候者、異国にも御座候と申上ぐる、頼宣君、夫は何と名を申したるぞと御尋あり、道円承り、夏桀王・殷紂王と申す悪王にて候、人を害し我が慰に致し候大悪人にて候、総じて人を害し殺生を慰にいたし候は、禽獣オープンアクセス NDLJP:18の業にて、人間にては無之候、扨罪人を切り候は、異国にても屠者と申し候て、穢多の業にて候と申上ぐる、頼宣君御顔色御変り、御城へ御帰なされ、夜に入り候て、道円を召し候て、汝が申す処道理至極せり、向後自身のためし物、堅くすまじきと仰せられ候で、道円が忠言を、浅からず御感じなされけるとぞ、

那波道円人材登用の法を説く一、或時大高源右衛門重高御意に背き、御前へ召し、強く御叱なされ、我不仕合にて、能き人を持ちたぬ故、何事も間のぬくる事多し、兎角人がなきと御悔み候を、那波道円奉はりて、御自身目暗にて、人を御見知り候はぬ故なり、外様・新参・古参を論ぜず、人を御見立なされ候はゞ、智者も勇士も、いか程も可之候、此御家に人がなしと仰せられ候は、御目がねの明かざる故なりと申し候を、御座の間にて御聞なされ、尤至極々々と、再三御感なされ候て、御悔の御様子にてありしとなり、

松平忠尚の諫言一、江戸御参勤の時、勢州松坂より御渡海有之時、大風大波にて御渡海なりがたく、諸人色々と御留め申し候へども、頼宣君是非御渡海と有之時、番頭松平三郎兵衛忠尚罷出で、御諫言申上ぐるといへども、御承引なし、御渡海に極り候はゞ、弓矢八幡も御照覧候へ、腹十文字に切り申すべしと申上げ候へば、頼宣君も御了簡なされ、御渡海を御止めなされ、桑名へ御廻り、熱田へ御渡海にて御下向なされ候処、池鯉鮒にて松平三郎兵衛御迎に罷出で候を御覧なされ、何とて御先へ参り候やと御尋なり、三郎兵衛申上げ候は、松坂にて御渡海を達て留め参らせ、某も陸を御供致し廻り候へば、此三郎兵衛が大風波を恐れ、御渡海を留め申し候に当り候と存じ、鯨舟に乗り、昨日の大風波に、松坂より三州吉田へ渡り、是迄御迎に出で申し候、殿様の御渡海を留め申し、某渡海仕らずば、男は立ち申すまじくと存じ、大風大波を凌ぎ渡海仕り候と申上げ候へば、聞く人驚き感ぜぬ者なし、頼宣君には、兎角の御挨拶なく御通りなり、後日に潜に御腰物を御手づから下され、其上御料理、御手前にて御茶下され候、御内意には、箇様の事を、大きに御感なされ候ては、外の者是に傚ひて、不慮に犬死致し、士を殺す事これあるべしとの御遠慮なり、深き御思案なり、

大高重高の諫言によりて熱田の渡海を罷む一、此後江戸より御登り、其時大風にて吉田の御渡海叶はず、熱田の宮に御着なさ候へども、風波強く、中々御渡海叶はず、御船出し候事罷成らずと申すに付、年寄中以下色々申上げ候へども、是非々々御召なさるべく候、是程の波風に、船の出オープンアクセス NDLJP:19ぬといふ事あるべきやと、御怒なされ候、三浦長門守為時は、御次の間にて大高源右衛門重高を呼び、其方何卒申上げ候て、留め申され候へとあり、大高申し候は、各御申上候て御承引なく候を、我々の分として、何として申上げらるべきやといへども、達て申上げ候へとの事にて、大高は御前へ出で候へば、源右衛門が顔は、何やらむいふべきつらなり、何と申しても、出船は留らぬと仰せられ候時、大高申上げ候は、御召船の出されぬと申す事にては御座なく候、御座船は丈夫の事、其上水主は勝れ申し候、何たる波風にも、気遣は御座なく候へども、御座船出で候とも、御供船宜しからず、水主も勝れ申さず候故、御供船出しがたく候と申す事にて御座候と申上ぐる、頼宣君仰せられ候は、左候はゞ、我乗替の船と、尾張殿より馳走に出され候丈夫なる関船に、士共計乗せて出船せよ、軽き輩は是に残し置き候へと御意なり、大高申上げ候は、大身歴々御供にて渡海仕り候に、外様軽き者共、船悪しくとて、残り候者一人も御座あるまじく、たとへ海上に沈み死し候とも、殿様御渡海なされ候に、渡風悪しくとて残り候ては、男は相立つまじく候、左候へば是は罷成るまじく候と申上ぐる、頼宣君仰せられ候は、左候はゞ能き船に、直参の士大身小身残らず乗せて供させ、家中又者・雑人は宮に残し候へと仰せられ候、大高大音揚げて、御意にても、是は猶成り申すまじく候、主人々々が此大風大波に船出し、殿の御供致し渡海仕り候に、又者・雑人とて、紀州の水を飲み候者ども、皆剛の者共にて候へば、一人も宮に残り申すまじく候、破船になるとも乗り候て、主の供致し、皆々海中にて相果て申すべく候へば、是は猶以て成り申さぬ事と申上ぐる、其時御機嫌直り、実に汝が申す如く、我家中の士共、又者・雑人迄も、おくれたる者はあるまじく候、左候へば此波風にて、人数損じては勿体なし、佐屋へ廻り、川船にて下り候はんと御意にて、御渡海はなされず候て、佐屋へ御廻りなされ候、総て人の諫言を能く御聞入れ御用ひなされ候事、漢の高祖、唐の太宗にもおとらせ給はず、常常御意に、智臣勇士を用ふるに、其申す言を聞き、我用に立て候へば、家中総人数の智慮分別は、我一人の分別となるなりと、常々仰せられき、

オープンアクセス NDLJP:20
 
南龍言行録 巻之三
 
頼宣名士を招く

一、紀伊頼宣君は、権現様御前に常々御座なされ、権現様勇士智臣を御寵愛なされ候て、他所のもの又は浪人までも、御音信に、御小袖・御金・御酒・御茶下され、御懇意の段を御見及びなされ、大功を立つるは、能き人を持たずして叶はざる事と思召し、他の家中の覚えあり、名高きものをも、縁をもつて御音信なされ、若他所より使者なども参り候へば、御前へ召出され候て、中々御念頃ねんごろなり、去程に大崎玄蕃・村上彦右衛門・真鍋五郎右衛門・水野四郎右衛門・同小右衛門・河村内匠・田中立蕃・玉上玄蕃・千本権右衛門・赤垣周防・大山修理・小鶴五郎左衛門・渡辺安芸・関根織部・喜多村孫之丞・堀田右馬之允・藪三左衛門など、名ある士どもを召出され候事、あげて数ふべからず、中国ものには、三刀谷監物・野尻杢之助・関東もの・五畿内・北国・四国の名士ども召抱へられ候事尤多し、此時分は天正・文禄年中、方々の兵乱に名をあらはし候輩際限なし、高浜弾正・日野隆喜などは奥ものなり、皆覚えの兵どもなり、此節大坂両陣の稼手・首尾抔は申立になる事にてはなし、平塚五郎兵衛・山田八右衛門・中村五郎兵衛・中川権右衛門・水巻左次右衛門・塩川信濃・村瀬作右衛門・宇佐美造酒之介・斎藤加右衛門など、皆大坂御陣にも、手柄高名ありけれども、さしておぼえ申立にては、罷り出でられず候、中川・水巻・塩川などは、能書とあることにて召かゝへられ候、唯頼宣君には、おぼえある士、または筋目の武士をいかほども召かゝへられ候て、御懇に召仕はれ候故、皆身命を捨て御用に立たんと、はげみけるなり、

横田大学を召抱へむとして果さず一、関東ものに横田大学は、権現様御懇意の兵なり、元来一城の主なり、歿落して上杉景勝に奉公して、関ケ原御陣起り候時分に、伊奈図書御使にて、此度沼田を退き、奥州へ御働きなされ候間、手合仕り候へと、上杉家の士どもに、御内意仰せ通ぜられ候へば、山上道及〈一代に首供養三度仕たるなり〉・上泉主水・横田大学・宇佐美民部・主生刑部左衛門〈此輩は皆浪人にて御起り候と上杉へ加はる、横田・壬生は前方より奉公人なり〉・前田慶次郎〈加賀大納言利家の従弟なり〉方伊豆守〈初は小田切加兵衛、元来家藤公卿諸代、長久手合戦十四人の衆なり〉・岡左内を初、二十人余り、御書を下され候、いづれも権現様御書を頂戴いたし候へども、景勝手に属しながら、侍たるものゝ後くらく、裏切などはオープンアクセス NDLJP:21罷成らず候とて、御請申上げず候、其後景勝小身になり、米沢へ引越され、大半浪人しけれども、右御書の御請申上げざる輩、御旗本へ御奉公を望み候へども、召出されず候、されども大坂御陣と有之時、此浪人の輩、大坂へ駈籠り候やと思召させられ候が、権現様には南光坊大僧正〈慈眼大師と諡し天海僧正と号す〉へ、上杉家浪人の山上道及・横田大学・宇佐美民部・友町大膳は何方に居り候やと御尋なされ候、僧正申上げられ候は、山上は病気仕り候、横田は出羽へ下り居り申し候、宇佐美は中気にて、本国越後に引込み罷在候、友町〈後に上州高崎にて、安藤右京進重良方へ浪人分にて出づる〉をば存ぜず候と申上げらる、権現様上意には、何れも此輩は勇士、名高きものどもにて、江戸将軍へ奉公させても、尤なるものどもなりとの上意を、頼宣君御幼年にて御聞置なされ、大坂御陣すむで、板坂卜斎を召し、横田大学を召かゝへられたき思召の間、伊達正宗は奥州衆にて候間、大学手前のこと聞き候へと仰付けられ候、卜斎申上げ候は、政宗事は、それ程こゝろ安く御座なく候、柳生但馬は、政宗と無二に心やすく候間、但馬に尋ねさせ候はむとて、其段申通じ候へば、政宗返答せらるゝは、横田事は戦場にて人も存じたるものなり、一万石計にて堪忍いたし候はゞ、我等も惜しく候へども、中々夫にては合点仕るまじく候、おぼえの場はかさのある兵にて、千五百や二千の大将になり、度々合戦の勝負いたし、他の城をせめ候ことも、野合の合戦も、数十度の手がら有之ものに候、去ながら一代の中、鎗を合せ、高名はいたさず候と、つねづね申し候、小瀬美濃守・安田上総・鮎川与五郎・宇佐美民部・友町大膳抔が、手勢に先達つて、自身鎗をつき、高名投付いたし、度々手をおろし候事、一切我等は同心に存ぜず候、外の衆は他人にて候へば得申さず候我等妻の兄にて候ゆゑ、宇佐美民部には節々其段申し、自分のかせぎをいたし候事、太刀打にあらずと申し候、我等若き時に、歩行武者を一人鎗にて突ふせ、家人に首を捕らせ申し候て、我等は先へ乗抜け参り候事、一度御座候、是も今おもへば、大将物主のいらざること仕り候と、後悔に存じ候と申し候を、我等家人大条尾張・桑折点了聞きてかたり申し候、大学は、かさある武士にて候と、政宗語られ候を、柳生但馬、卜斎へ申され候、卜斎すなはち頼宣君へ此段申上げ候、此時常陸介殿と申して、十四歳にて御座候へども、御器量の御素性ゆる、御聞届なされ、大学を何とぞ御かゝへなされたきよし、其方才覚相談いたし候へと、御相談あるを、安藤帯刀立聞き候て、何事を卜斎が御相オープンアクセス NDLJP:22手になり、御相談候やと申され候、頼宣君、何とぞ横田大学をかゝへたくおもひ、卜斎に相談候と仰せられ候へば、帯刀叱り声にて、何知行がありて、侍を御望み候や、ならぬと申され候て、奥へ通られ候に付、横田を御抱へなされ候事叶はずとて、後々まで御残念に思召され候よし、十四歳にて箇様の事は、中々凡人とは見えず候よし、此段板坂卜斎直語を、中井太郎兵衛・布施三説聞き候て、人にかたられ候、大学は大将の器量あるを御聞き、他に異なる御所望に思召し候よし、彼宇佐美造酒之助を御家へ召出され候のち、橋本にて御目見仕り候砌、其方伯母聟大学は、すぐれたる剛のものと聞及び候、其方は対面したるかと御尋なり、造酒之助承り、一族故節々逢ひ申し候青木新兵衛は逢ひ申し候かと御たづねなり、関ヶ原前、会津籠り候には逢ひ申し候、拙者十一二歳ゆゑ、しかとおぼえ申さず候と申上げ候へば、已前此方へかゝへ候はむとよび候へども、半之丞といふ子にはなれ深く愁歎して、剃髪して芳斎と名をかへ、京都黒谷に引こみ、此方へ来らず、〈青木芳斎後に加賀へ出で、其子孫加賀にあり、新兵衛といふ、〉永井善左衛門は三河譜代故に、かゝへむと才覚せしうちに、将軍様へ帰参候、これは海野兵左衛門が伯母聟なり、其砌は能きものも世間に多かりしと、頼宣君仰せられ、唯名士・勇士を御このみの御心、ふかくましけるとなり、

臣下の華奢を恥とす一、頼宣君砂の丸馬場にて、御馬をめしけるに、其節時雨降来り候ゆゑ、西の出櫓へ御入り、雨の晴間を御待なされ候、其内堀のかたの矢間より百間長屋の前の海道を通り候往還を、御見物御座なされ候処に、青柳伝三郎といふ御小姓、竪純子の袴くりもゝたちにて、羅紗の雨羽織・数寄屋足袋・高木履に、下人に長柄のからかささゝせ通りける、其跡より藪三左衛門通りけるに、跳にて、かへしもゝ立、木綿羽織に手笠さし、歩行のもの十二三人、真黒につれ通りけるを御覧なされ、御近習衆へ仰聞けられ候は、三左衛門は、細川越中守に幼少よりつかひ立てられ、見ならひ聞きならひ候ゆゑ、あの甲斐々々しきを見よ、二千石取りて居る身が、跳にて綿綿羽織、手笠をさし、歩行のものは、鬼の子のやうなるを大勢つれて通りたる利発さよ、あれこそ武士なれ、小切米の伝三郎めは、くゝり股立・数寄屋足袋・高木履、長柄のからかささしかけさせ、さて鈍なるしかた、下人の善悪にて、遣立て候主の賢愚が知るゝと聞けば、青木めがしかたは、我恥なりとおほせられけるとぞ、其後伝三郎は、盆のおどりの場にて、喧嘩して立退きしとなり、

オープンアクセス NDLJP:23一、本朝後光明院の御宇〈頼宣君四十歳の御時なり〉正保元年は、大明思宗皇帝崇禎十七年にあたる、前より大明のまつりごとおとろへ候て、諸国みだれ、陝西の李自成・張憲忠、また河西の李岩抔、前々より謀叛し、西安府を攻やぶり、それより北京皇城へ攻め入りしかば、防戦かなはず、天子思宗皇帝も、三月十九日に梅山といふ処にて、みづからくびれて崩御し給ひしかば、大明大きにみだれて、南京の守護史可法は、御一家福王を取り奉り、南京へ入れたてまつりて、天子とあふぎ、遼東の呉三桂韃靼へゆき、十万の加勢を受け、山海関より攻め入り、四月廿九日に北京を取こみ、李自成はうちまけて陝西へおち行くを、呉三桂追討にうち行く、その跡にて韃靼の加勢逆心し、北京のみやこを攻めとり、大清の世とあらため、韃靼数万南京へ攻入り、福王をいけ取り、史可法は討死し、鄭芝龍我国に援を請ふ大明いよかはれば、福建の鄭芝龍は、天子の御一門唐王を天子に取立たてまつり、韃靼とたゝかひ勝負あり、されども大敵ゆゑ、鄭芝龍が下司の崔芝といふもの謀にて、商人の林高といふものを使にて、長崎へさし越し、日本の加勢を乞ひ候へども、大猷院様、虚実を御うたがひなされ御許容なし、翌年正保二年〈大明隆武二年、大清の順治二年、崇福十七年に終る〉に、鄭芝龍が書簡を日本へさし越し、天子唐王の勅使に、黄真卿といふ官人、貢物をもたせ、大明国を出しけるに、難風にあひ、船破損する故、小船にて貢物ならびに鄭芝龍が書簡を長崎までさし越す、段段道理をのべ、さま日本の加勢を乞ふ、よつて大猷院様も御三家方はじめ、溜詰老中・諸大名を召させられ、大明国よりの、むねをおほせ聞けられ、御相談まちまちなり、御無用と申すやからもあり、また異国より日本へ加勢を乞ふこと、本朝の面目なれば、御加勢もつともといふもあり、御三人御相談候時、頼宣君仰せられ候は、中華〈大明なり〉より加勢を乞ひ候こと、頼宣救援を主張す本朝の御威光、四海の光輝なれば、諸浪人を、御あつめ候はゞ、数十万可有之候はんや、夫に西国・中国の大名・小名をさしくはへられ、然るべく候、扨公方の御身よりのもの、西国にては我等一人にて御座候間、総大将に仰付けられ候はゞ、大慶是に過ぐべからず存じ奉るべく候、大軍を引率し、大明へ攻入り、日本の手なみを見せ申すべしと、御老中まで御願望の事仰入れらる、扨紀州へも陣用意仰越さる、真鍋真入斎宗白は、以前朝鮮征伐の時、大明勢と度々合戦せし覚あれば、御供に召つれらるべくとのことなり、真入は秀吉公の御代に、朝鮮国へわたり、数年大明勢と戦ひ、屍を異国に留めぬこと、残念に存じ候オープンアクセス NDLJP:24処、珍しきさたを承り候、年より候へども、御出馬の御供いたし、老の波をおこし、異国にて討死仕るべきこと、老後のおもひ出にて御座候、と申上げしかば、頼宣君御機嫌なり、しかれども御加勢のことやめになり候なり、

二男頼純への譲物一、頼宣君御次男左京大夫頼純君へ、天下の名物大坂肩衝・寧一山の一行ものゝ御かけ物、その外武具には、竹中が一ノ谷の甲をはじめて、名物ども多く御譲りなされ候、渡辺若狭守直綱申上げ候は、権現様より遣せられ候天下の名物どもは、御嫡家に御譲なさるべき事と、世上にても申し、尤の批判と存じ候、御庶子に此御重宝、御持武具は格別、茶の湯道具は御出しなさるべき御客衆も無御座候と申上ぐる、頼宣君御笑ひなされ、左京少身なれば、以来中納言殿へ金銀合力無心申すにて可之候、此時唯所望もなりがたし、此名物の道具を質物に入れ、金銀をかり候はば、総領の家へもどり、左京手まへのたしになるべくとおもひ、不相応の道具なれども、ゆづり候と仰せられ、御わらひなされ候よし、是等も御尤なる御事なり、

私曰、寧一山の一行ものゝ御県物は、古田織部所持なり、是は東照宮様より、御手づから拝領なり、竹中が一ノ谷の甲は、濃州菩提の城主、竹中牟兵衛重治所持の名物なり、

頼宣遠山某の奸佞を看破す一、遠山の某は、筋目と申し、智才と申し、何役仰村けられ候ても、器量ある人品なりと、蘆川十休執なし申上ぐる、頼宣君御取合なし、三度目に仰せられ候は、我前へ出て物いふ程の輩、遠山をほめぬはなし、皆々能き奉公人と誉むるなり、十休よくこゝろ得候へ、世の人に普くほめらるゝ人、普く悪まるゝ人は、一癖ある大悪人なり、釈迦・老子さへ人に或はほめられ、或は悪まれしなり、世間の人に一ぺむにほめらるゝ遠山は、軽薄諂の大佞者なり、忠義の人にあらず、或はそしられ、或はほめらるゝに、よき者あるものなり、孔子の、衆の悪むも必らず察し、衆のよみするも必らず察すと、或は其衆阿党比周して好することあり、或は其人独り立ちて不祥にして悪まるゝことあり、毀誉ともに察すべしとあれば、たぶらかされて能き人とおもひ、悪人とおもふべからず、是大将の心を附くべき所なりと抑せられき、

〔本条拠一本補〕

一、公方大猷院様の御時、御三家を御召し、御茶の会あり、上意には各天下の守りにて居られ候故、箇様に泰平の代にて、頼もしく思召すよし仰せられければ、尾張オープンアクセス NDLJP:25義直卿御返事に、我の儀は、御草履を取り候ても、御奉公無二と志し候と御申候、頼宣卿御申上候は、我等儀は、何様にも御草履を取り、御奉公は成り申すまじく候、頼宣の奉公何事にても出来候はゞ、一方の御固にて人数を下知し、一廉の御奉公は申上ぐべく候と仰上げられければ、公方様にも御感心の御色顕れ、天下の称美となり、間ふ人毎に、頼宣君を恐れぬはなしとぞ、

病を冒して家中年頭の礼を受く一、或時頼宣君御病気にて、年頭の御礼を一度に御請なされがたく、長袴は元日、半袴は二日に御請然るべしと、年寄中申上げられ候に付、頼宣君仰せらるゝは、侍に上下の差別いたすべからず、長袴・半袴共に、元日に皆出仕させ、一人々々の礼を請け候こと、病後なりがたし、総礼にして請け候と、諸士に申聞け候へと仰せられ候によつて、元日に残らず出仕せしに、すなはち御出あつて、中の間より表まで御廻り、礼を御請なされ候ゆゑ半袴のともがら、ありがたがりけるとなり、

落合伊政の譴責一、頼宣君には、総じて御吟味強く有之候、落合十兵衛伊政、秋より大和柿をたくはへ置く様を鍛錬し、冬をすぎ、春に至りて、唯八九月頃の柿の如くなるを台に積み、粉川屋敷へ御持参し、桑山次郎右衛門亮政を以て進上せし所に、頼宣君御覧なされ、一切御称美なく、十兵衛などは番頭を申付くれば、軍用のしなに心をつくし、組子をなづけ、人馬をもちつめて、只今にも急用に立てべき心懸、さては国境へ人数を出し、所の道筋、諸事万端に武道の心懸こそあるべきに、此柿にこゝろをつくし、我にくれむと精を出すこと、何の用ぞ、箇様のことは、代官さては庄屋などのいたすことなり、攀遅が稼を学ばむと問ひければ、孔子の老圃にしかずと恥づかしめ、小人なりと誡め給ひき、我家の番頭をもするものゝ、こゝろ懸くる所ちがひたると、さむ御叱り、此柿を披露したる桑山も、同じ穴の狐なり、たしなみ候へと御意にて、桑山・落合赤面して、罷立ちけるとなり、

オープンアクセス NDLJP:26
 
南龍言行録 巻之四
 

懸軸を購へる士を吟味す一、頼宣君の御家臣に、三百石を領する何某といふ士、代金三両を出し、懸物を求めけるを御聞なされ、無用の費をいたす事とて、村上与兵衛道幸を召し、此段目付共に申渡し、吟味せよと仰せらる、与兵衛則目付中を呼び、御意の趣申聞けるゆゑ、御目付中穿鑿するに必定なり、名前又懸物の様子も申上ぐる、頼宣君重ねて人馬・兵具・武道の嗜は、有るか無きかと御尋なり、御目付中吟味致し候へば、馬も常よりは能き馬を持ち、物具・下人丈夫に持ち、武具の心懸能き事大方ならず、是を書付け差上げ候へば、頼宣君、御気色和らぎ給ひ、武道の心懸さへあれば、其上に懸軸・茶の湯の慰もあしからぬ事なり、又他国の客も来るに、床に何も懸けず、たとひ懸くとも、三社の託宣様の物も懸けられぬものなり、ひとつは家中の外聞なれば墨蹟・絵賛の物求めたるも苦しからず候、去ながら過ぎぬ様ににと御意にて、事済みしとなり、

家中に上米を命ず一、頼宣君、御勝手御不如意にて、御家中知行四ッ物成の上を御借なされ候時、倹約仕るべしと仰出され候へども、馬の減少の沙汰もなく、諸士迷惑仕り候間、人馬減少の儀仰出され候へと、奉行中申上げらる、頼宣君仰せらるゝは、人馬其儘持詰めさすべし、人馬減少候共、出目にて己が内証の奢を面々仕るべき事、鏡に写るが如し、四ッ物成の上を差上げ人馬持ち候へば、奮りたくとも相成らざる事なりと仰せられ候、三年目に御赦免なさるべき旨仰せられ候時、今二三年其儘召上られ候はゞ、御勝手に能く候と、奉行中申上けられ候、頼宣君仰には、定りたる所、少も違ふべからず、其仔細は、明日にも若合戦に及ぶ時は、士・足軽迄も一命を軽むじ働き候へば、手柄次第に褒美加恩あるべしと下知するに、諸人承り、上米三年にて御免なし下さるべしとの御約束も偽なれば、又是も偽ならむと、諸人存じ候ては、下知も聞かず、一大事を取失ふ所なり、偽をいふは天道に背くなり、夏冬の時節、紅葉黄葉の次第、天に偽なし、天が下に生るゝ人論、何ぞ天道に背かむやと仰せられ、上米御免ありけるとぞ、

頼宣参観に先ち神仏に祈る一、頼宣君江戸御参勤にて、御立なさるべき前日、菊村八幡宮・日前宮・伊太新曽・紀オープンアクセス NDLJP:27三井寺・玉津島・矢の宮・岡の宮などへ御参詣ありけるに路次にて御供に参り候吉見喜左衛門申上ぐるは、殿様には御信心になられ御座候と下々申し候、明日江戸へ御立遊ばされ候に、方々仏神へ御参詣なられ候事扨々御信心なりと、我々も存じ奉り候と申上ぐる、頼宣君仰には、汝等江戸へ下る時、諸人に暇乞には廻らざるかと御尋なり、吉見承り、いかにも暇乞に廻り候と申上ぐる、頼宣君仰には、我城下の仏神へ廻るも同じ事なり、国の守護は、此頼宣に上より仰付けられ、士農工商並に僧俗ともに、勧善懲悪の仕置を致し、国家安全を専らとす、社稷を守る国中の神仏は、亦国土を守り給ふ道なれば、頼宣は公方へ参覲の為、明日江戸へ罷立ち候間、諸寺諸社の仏神達へ、国中に風雨水火の災これなき様に守り給へ、来年罷登り申すべく候、御暇乞に参詣仕り候との事なり、信心にてあるべき様なしと仰せられけるとぞ、

頼宣、頼純の遅参を怒る一、紀州新吹上の砂山を平げ、平地となし、諸士の屋敷割を仰付けられ候、初御次男左京大夫頼純君を御同道、和歌浦へ御越の序、新吹上の地を御見分あり、高松へ取付の松原にて、御駕を立てられ、屋敷割の御見分あり、其日和歌浦にて、終日御遊興の筈にて、昼前より女中十余人、御跡より参るべき旨仰付けおかれ候て、其朝早早御出にて、左京公も御遅参にて、御跡より急ぎ御越ありて、只今間鍋五郎右衛門が屋敷を御出で候所、奥方支配の役人承り違ひ女中同道にて関戸辺へ掛り、西の方を和歌の方へ通る時、頼宣君御覧なられ、御機嫌宜しからずして、左京公には夫より御帰あるべしとの御使に、望月次左衛門望月次左衛門を御召の馬に乗せ、左京公此方へ向ひて御越なられ候を、留めに遣され候、左京公には頓智発明の御事故、西の海道の女中乗物を見給ひ、早御遠慮なされ、御駕を御止めなされ、御思案ある所へ、頼宣君御駕前より望月が早馬にて乗来るを御覧なされ、早御推量ありて、跡へ御引返し御帰宅ありける、其所へ望月乗付け、御帰なされ候へとの御意は、和歌へ御供なされ候へとの事と思召し、又引返し越させ給ふ、頼宣君御覧なされ、初左京に、夫より帰宅せよとの口上を、左京が心得て帰る所へ申聞かするゆゑ、此方へ帰り候へとの事かとて、又此方へ参り候、あれ留め候へと御意に付、朝倉重左衛門・丹羽七兵衛、彼是三人追々に留に遣され候ゆゑ、左京公には、又和歌山の方へ御帰なり、其時望月を御叱なされ、左京に此方へ参るべからず、夫より帰れとの使を受け、左京がオープンアクセス NDLJP:28帰る所へ申渡す故、左京聞違ひて、此方へ参りたるなり、望月め、あれほど機転なく、鈍には生れ付きたるや夫に付、使番は大事の物なり、昔より天下の将軍も、事を欠くは使番なりと申伝へしは尤なり、一往二往にて使番は申付けがたく候と、再三仰聞けられける、遊山翫水の中にも、文武の道、暫も忘れ給ふ事なしと、聞く人感じあへりぬ、

日光社参野陣小屋取一、一年公方様日光山へ御参詣遊ばされけるに、御三家方残らず御供なり頼宣君には大桑に御宿陣なり、宿中狭くして、野陣に小屋を御かけ、紀州の総人数宿せし時に、水野監物忠吉乗廻し諸大名の助鋪を見廻り帰りて、日光山の御宿坊にて申されけるは、年来紀州を奥深く存じ候に、大桑の小屋取を見て、紀州には人なしと初めて見さげ候、小屋取の法に違ひたる事不案内なる事共なりと嘲り笑ふを、土屋忠兵衛聞きて、後日に此段加納五郎右衛門直恒に語る、直恒是を申上げ候へば、頼宣君からと御笑ひ、監物甲州流の軍法を習ひ種々の口才を申しけるかな、監物己が小家中の助鋪取を、我五十万石余の小屋にあつるは、天地の違なり、井の中の蛙が大海をしらず、管を以て天を伺ふたとへなりと、大きに笑はせ給ひけり、此旨を忠兵衛聞きて、又監物に申しければ、監物却て恥ぢ申されけるとなり、

鯨船の遊興一紀州田辺湯崎の御構の前にて、四五百艘の鯨舟を集め、其手の相符あひしるしを定め、小旗を銘々思ひに拵へ、貝を吹いて相図を定め、日々夜々鯨を見る度に、船をはせ引きて、さながら船軍に異ならず此段詳に江戸へ聞え、御老中方何れも紀州よりの御城付に向ひて、大納言殿には湯崎といふ所にて、船軍の鍛錬ならしをし給ふと上聞に達し候、此事如何と相尋ねられ候、御城付早速御年寄・御用人中へ相達しければ、二ッ印の早飛脚にて、湯崎へ斯くと申来り候に付、早速頼宣君御披見に入れ、此事如何と評定ある時に、三浦長門守為時・渡辺若狭守直納、何れも一同に、兎角鯨舟の御遊興は、御停止御尤と申上げ候、頼宣君仰には、此度江戸の註進にて、此遊を停止せば、是船軍の稽古ならしといふべき、停めずして船遊して、又各あらば、船軍の稽古にはあらずと、いひ分して済むべき事なり、少しも止むべからずと仰せられける所へ、和歌山より加納五郎右衛門参着せしかば、江戸よりの旨を仰聞けられける、五郎右衛門がいはく、鯨突きの御遊、曽て御止あるべからず、御止あらば、却て船軍の御ならしをなされたるになるべし、相替らず前の通なさるべしオープンアクセス NDLJP:29と申上げられ候へば、頼宣君の思召と一途にて、弥鯨船の御遊ありけれども公儀よりも別条なかりき、

頼宣の判一、山崎普明院とて、暦道の名師にて、また判の占の妙を得たる者あり、其頃紀州より京へ御使に上る者あり、御家老・番頭などの判に、頼宣君の御判を取まぜ、持たせ遣し見せければ、普明院がいはく、此判は出家ならば、大僧正か国師の判、俗ならば貴人の居ゑたる判なり、然れども殊の外貧なる判なりと占ひける、かの御使京都より帰り、此段申上げ、殿様の御判を、貧なる判と占ひたるは、相違なりと笑ふを、頼宣君の仰には、占ひは上手なり、此判は手習小野木長十郎に写させ、直判にてなし、又貧なる判と占ふ事、猶以て占のあたりたるなり、我身東照宮様の御子にて、数ヶ国をも領すべき身が、わづか六十万石足らずの禄にて居るは貧なる所なり、普明院は占の人かなと仰せられければ、聞く人感心仕り候となり、

一、江戸赤坂御中屋敷へ、玉川の水を、埋樋にてとらせける、水おもふやうに来らず、奉行役色々と仕けれども、水性よわく来らざりければ、頼宣君聞召し、御好にて、樋を曲尺にて余してつがせられければ、水殊の外快く来りける、其図左の如し、

〈[#図は省略]〉 此所にて五六寸余してつぐ故、水せきかへりて、殊の外流れ来りけるなり、是水に勢を付けたるものなり、

安藤直治の子千福一、安藤飛騨守直治は、父帯刀直次に替りなき名臣なりしが、不幸にして早く病死いたし、其子千福丸は、幼少にて漸く成長しける故、御仕置を見習ひ候へとありける砌、御近習の面々を召し、千福が素性は、一手の大将にもなり、我家の仕置をも、父祖の跡をも継ぐべき者と、世上にてはさたするか、又何と申すぞと御尋ありければ、千福生立ち、一廉の御用に立つべき者と、沙汰仕り候と申上げ候、其時頼宣君御手を合せられ、天を御拝あり、扨々我冥鑒に叶ひ、千福左様に生立ちけるか、家老の子孫愚にては、我手足を失ひたる同前なり、千福が能く生立てば、我仕合なりと、御喜悦少からず候なり、

宇治堀端の堤一、宇治の元寺町御厩前より、小笠原与左衛門屋敷迄の土手堤に、並木の松あり、元オープンアクセス NDLJP:30は浅野幸長取立てられしを、其後頼宣君御入国以後、弥高く築上げられ、竹垣をいたし、犬をも土手へ上げざる様に仰付けらる、此土手は頼宣君御工夫ありしなり、江戸にて和歌山の絵図を、立花左近将監宗茂・真田伊豆守信幸二人の老大将に御見せなされ、要害の御意見御尋ありける、両将共に此堀端には土手をなされ候へと申されければ、頼宣君聞召し、我等が工夫を仕当てたりと、御満足ありしなり、是を聞置きたる歴々の老人語りける、近年は町人共、此堤を下され候はゞ、掘平げ、其跡を町家にいたし、借宅に仕るべしと願を上げ候が、誰か昔の事を聞置きたる老人歴々聞きて、此堤はわけあり、崩すべからずとて、其事止みけるとぞ、然れども近年は、竹垣をも取り、土手の上に幾筋も道を付け、川への通り道になり、堤も次第に崩れけるを見て、昔の事知りたる老人は、時移り事替り行く事を、涙流して歎きけるとぞ、

頼宣の眼力一、頼宣君御幼少より、御眼力世に勝れさせ、一度御覧候人をば、五年十年後にも御覚なされ候輩、紀州にても、他国にても、幾人といふ数なし、又間者・忍びの者を能く御見知なされ、路次にても、御能見物数百人の中にても、御見咎なされ、御穿鑿あるに、果して御国を伺ふ忍びの者・物聞の輩なり、又女中を京・大坂にて召抱へられ候に、国大名へ奉公に行きて戻りたるを選み召置かれ、国々の様子を御尋問なされ候、二六時中御心を付けられ、一度公儀へ大切の御奉公をなされ、御忠功を御励み給はむとの御忠義の御心懸、懈り給ふ事なしといへり、

頼宣諸士を愛す一、頼宣君平生万人を御なづけ給はむ事を第一に思召し、たとへ五節句・朔望の出仕にも、先御近習の人を御廻し、御広間其外の御座敷、大勢出仕充満したる末座、人陰に、誰々詰居り候とある事を御聞なされ候て、扨御出なされ、静に諸人へ御礼を請けさせ、その時分相応の仰あり、多勢群集の中、末座人陰に居る者の名を御呼び、其身相応の御意ありしに依て、末々の輩迄、御目見を仕り候事を歓び、人陰に居候ても、殿様にはよく御覧なされ候と心得、出仕日には貴賤群集をなす、奥方に御座なされ候時、表使の女中、表よりの左右を請け、御士衆出仕と申上ぐるを聞召し、御袴を召され、御出有之御礼を御請なされ候、或時女中衆、表へ士共出仕致し居り候と申上ぐるを、殊の外御叱なされ、果報の善悪にて、大身・小身となり、主となり、家人となれども、何れも名ある歴々の侍、源・平・藤橘を初、氏姓正しき輩なり、オープンアクセス NDLJP:31向後侍衆と申すべしと、御教なされけるとぞ、


 
南龍言行録 巻之五
 
町野宇右衛門仕を頼宣に求む

一、町野宇右衛門は、肥後の国主佐々陸奥守成政が家人なり、天正十五年八月、肥後の山鹿の有動大隅と、隈府の隈部但馬一揆を起し、国中大半一味し大乱にて、成政方々へ出馬せられ、合戦止む事なし、就中八月十二日、成政出陣の留守にて、阿蘇大宮司一門・満永・今牛・田尻・長野・下田・市ヶ下、関・柏・片田・丸津・森・内野・小鴨等四万ばかり一揆おこし、成政居城隈本へ取懸け、三の丸・二の丸まで攻取り候、十二日曙より未の刻まで、六度鎗御座候、道外次右衛門・遠藤助右衛門・阿波鳴戸之助・伊藤平楽寺・岡田庄五郎・大木織部・小谷又右衛門・宇佐美民部、右の鎗仕り候、或は一度・二度・三度・四度・五度鎗合せ候うち、道外次右衛門・宇佐美民部は六度ながら鎗をつかまつり候に付、成政大に褒美し、感状をくれ申され候、右町野宇右衛門此時十四歳にて、もぎつけの首二ッ取り申し候、成政、ことの外感じ申され候、成政切腹の後、木村伊勢守ところへ、小姓にて奉公に出づ、伊勢守寵愛浅からず、天正十八オープンアクセス NDLJP:32年の秋、伊勢守は六十万石にて、奥州葛西へ入部のところ、佐沼より一揆おこり、国中大にみだれし砌、町野十八歳にて、中々比類なきはたらきなり、翌年の秋、九の戸城攻の砌は、蒲生氏郷手先にて、又宇右衛門つよきはたらきあり、伊勢守御勘当にて、所領召しあげられ候砌、浪人いたし、方々渡り奉公して、主人にかまはれ、ひさびさ浪人にて在京なり、寛永のはじめ、先主のかまひわびごと済み、紀州を望み、真鍋五郎右衛門貞成かたへ来る、知行七百石、鉄炮あし軽三十人にて召し出され候へと、真鍋肝煎にて、葦川甚五兵衛をもつて申上ぐる、頼宣君きこし召され、内々聞及びたる兵士なり、早々召しかゝゆべしとありしを、安藤帯刀直次・彦坂九兵衛光正申し候は、御家の御作法にて、はじめより物頭に仰付けられず候間、先七百石にて出し、以来足軽御預けなさるべしと申上げられ候、宇右衛門は正直なる武士にて、真鍋に向ひて、唯今は松平隠岐守定勝・藤堂大学頭高次よりも召かゝへらるべしと、肝煎御座候、されども御家柄を大望に出で参り候間、なにとぞ直に足軽預り申したしとあり、足軽のことにて、久々埓あかず、しかる内、松平土佐守忠重かたに居り候樫井内蔵允と、備前の新太郎光政家人の井尻是非之助かたより、真鍋かたへ状をさし越し、町野が奥州妙の城、九の戸にてのはたらきを、委細書状にて申越し候、其状を、真鍋すなはち頼宣君の御覧に入れ、何とぞ町野を召かゝへらるべしとあれども、足軽のことにて埓明き申さず、宇右衛門まうし候には、御家先約にても、我等むねに入らず候へば、まかりならずとて、宇右衛門は紀州を引はらひ、大坂まで出で候、二三日すぎて、藤堂大学頭かたへ、千石に足軽三十人にてあり付き候よし、宇右衛門状を、真鍋方へさし越し候なり、

一、一年ほどすぎて、宇右衛門が武功の証拠状を、樫井内蔵助・井尻是非之助かたより申越し候を、真鍋かたへ、もらひに越し申し候、京極若狭守忠高内関沢半左衛門も、宇右衛門がはたらきの証文を、和州新庄の桑山左衛門佐家老の足達兵庫かたまで越し候を、足達方より、紀州小笠原次右衛門方までとゞけ候、次右衛門、すなはち真鍋かたへとゞくる、これをも宇右衛門うけたまはりおよび、津より真鍋方へ、もらひに越し候、実は藤堂大学頭内意のよしなり、町野が飛脚をば、真鍋かたにおきて、頼宣、町野を惜む葦川甚五兵衛かたへ、町野がはたらきの証文ども取にこし候間、三通ともに御返し給はるべく候、宇右衛門かたへ遣し申すべくと申遣す、甚五兵衛すなはオープンアクセス NDLJP:33ち其段を、頼宣君の御聞に達し候へば、仰せられ候は、町野がこと、かゝへたく思ひつれども、足軽の事にてとゝのはず、近頃残念に思ひ候、一代のうちには、何とぞ町野をかゝへ申すべき念願に候間、其時のために、三通とも証文は、かけ硯にをさめ置き候、真鍋かたへ遣すこと罷りならずと仰せられ候、甚五兵衛も、名士勇士を御すきなされ候御こゝろ入を感じ奉り候、すなはち真鍋かたへ申聞け候へば、真鍋も感涙にむせび候、左候はゞ其趣委細かきつけ、我等名付にして、状をたまはり候へ、町野かたへ遣すべしとあり、甚五兵衛思案して、その段もわたくしになりがたしとて、御内意をうかゞひ、事済み候故、頼宣君仰のおもむきを状にしたゝめ、真鍋宛所名前にて甚五兵衛つかはし候に付、其状を飛脚にわたし、勢州津へもどし候、宇右衛門も頼宣君の御意をかたじけなく存じ奉り、おぼえずして落涙いたし候、大学頭殿前へ葦川が状を出し候へば、大学殿披見せられ、樫井内蔵允・井尻・関沢が証文も入らず、此章川が書状、紀伊大納言殿の御詞は、町野が武辺の第一の規模なりと申されけるよし、大学殿家老藤堂采女にむかつて、紀伊殿はこはものにて候、何としても名大将に候、隣国なれば、明日にも事出来せば、むづかしき人なりと申されけるよしなり、

山中作右衛門一、或時頼宣君御登城の砌、山中作右衛門友俊、御目見に罷出で候を、御通りがけに、山中と御ことばを懸けられ候を、作右衛門は、つねの御ことばと存じ候て、かしらを下げ、御礼いたし候へば、御式堂の所よりまた名を御よび、参り候へとの仰なりしを、御小姓申しつぎ候に付、作右衛門其儘座をたちて、小走り致しまゐり候へば、はや御駕籠に召し、御門へ御出に付、作右衛門はたしにて御白洲へ飛下り、御駕へ追付き候へば、御顔を出され、作右衛門わきざしばかりにて、かけ付け候を御覧なされ、山中刃さしてまゐれと仰せられ、作右衛門かけもどりながら、仇持ち候との御心附にて、かたなをさしまゐり候へとの御意、ありがたしと申ながら、かたなを取りてさし、清水谷にて追付き奉り、麴町二丁目迄御駕につきまゐり、夫より御いとま下され候て、御中屋敷へもどり申候、若侍五人御附御戻しなされ候、その内御上屋敷前にて、山中の家人十人ばかり、持鎗ともにかけ付く、夫より五人の衆をぼもどし、作右衛門は、御中屋敷へかへり候、箇様に御こゝろ付けたるゆゑ、請人こゝろがけも尤深し、其後作右衛門に御たづねなされ候は、汝が古主織田常真、オープンアクセス NDLJP:34ぎをんのまつり見物に出でられしに、佐々木梅心・生田長兵衛、常真の供にて近習せし作法、なか見事なり、ことに十八九歳の小姓が、常真の刀をもち、左の後に詰めたりしが、其かたなの持ちやう、さて見事なる故、後々までも、尾張殿とは申出したりしとのおほせなりき、

其かたなの持ち様、如何様にて御座候やと、うかゞひ奉り候へと、松下左五之丞に皆々申しけれども、此左五之丞遠慮してたづね奉らず、残多きことなり、

千宗左一、頼宣君御智勇あくまで長じさせ給ふにより、御一言にて人のこゝろを感動させ、かたじけなきこゝろ、骨髄に徹するやうにあること度々なり、或時尾張大納言義直卿・水戸中納言頼房卿御同道にて、不図御見舞、ゆる御咄し、その序に、御両殿仰せられ候は、松の台は天下の名物にて、権現様より御直に御拝領とうけたまはり、終に見申さず候間、御一覧いたしたくと、御所望ありければ、頼宣君、やすき御事と御受なされ、大事の道具を座上にて見せ候はむも、不骨に候へば茶の湯にて御目に懸くべしとて、俄に御書院にて御茶会あり、千宗左まかり出で、松の台にて御茶を点じ候、扨御会すむで頼宣君仰せられ候は、此茶道は、天下中興の名人千利休が曽孫にて、名は千宗左と申候、もちろん茶道の達人にて候、御両所も御見知り下され候へ、茶道にては天下の名家にて候と仰せられ候へば、御両殿にも、承り及び候、仰の如く茶道にては、天下無双の名家にて、はじめて逢ひ申したりとの仰を蒙りて、宗左一座の面目、かたじけなき次第、身に余り、なみだを留めかね候て、退座仕り候、

頼宣の愍察一、頼宣君岩手へ御越の砌、さる若きもの御供にて、御駕の先へ立てられ、脚半・わらぢのはきやうあしく、御駕のうちより御覧、御わらひなされ候へば、吉見喜左衛門声をかけ、脚半・わらぢのはきやうあしく候、不心懸なる次第と叱りければ、頼宣君御気色かはり、やああのものは、先祖代々城主大身なりき、其子孫にてわらぢ歩行立の奉公仕りたることなければ不調法なるはずなり、さりながら大将も下り立ちて下知することあれば、わらぢをはきつけたるがよしとおほせければ、彼若者、かたじけなきこと身にあまり、感涙しけるとかや二代目菅沼九兵衛、その時は御膳番にて、御駕のわきに御供して、此おほせをうけ給はりて、後々まで物語せしなり、九兵衛は、其時は九右衛門と申せし時なり、

オープンアクセス NDLJP:35領主飲食の心得一、頼宣君おほせに、国主の身にては、一門兄弟のかたにても、むざと料理を食し、湯水を飲むべからず、兄弟の中にても、毒を飼ふことあり、かならず其用心第一なり、兄弟母別なれば、たとへ兄に毒害のこゝろはなけれども、弟のはゝの所為にて、毒がいする事あり、朝晩の食物も、その用心肝要なり、弟のかたへ振舞などに行きては、猶もつて毒の気遣ひ肝要なり、女は貴賤ともにつたなきものにて、後後の吟味もなく、毒をかふものなり、こゝろえべきことの第一なり、此故に国主は外は申すに及ばず、兄弟のかたにても、むざと飲食いたすべからず、大将の一大事のこゝろがけなりと、度々仰せられけるなり、

由井正雪頼宣の名を仮る一、慶長四年卯四月廿日、大猷院様御他界、その七月江戸において、浪人由比正雪叛逆のくはだて、紀伊大納言公の仰と称し、御判鑑を似せ、謀書をしたゝめ、浪人丸橋忠弥・芝原又左衛門以下数百人徒党し、御鉄炮蔵奉行河原十郎兵衛是にくみし、其節うづみ火にて遠方より火を指し、徒党入は舟にて沖へおし出し候と、鉄炮のくすりに火を入れて、江戸中を一烟に、焦土となさんとたくみ候処、徒党人の内にて林理右衛門・奥村八左衛門・同七郎左衛門こゝろがはりいたし、松平伊豆守信綱・大沢右近大夫景清へ訴へ、逆心露顕し、丸橋忠弥・芝原又左衛門を始め、徒党等大かた召とられ、大将由比正雪は、駿府宮の町梅屋太郎左衛門かたにて自害しける、さて紀伊大納言公の御直判の御書数通、浪人ども方より公儀へ出しければ、御老中いづれも、是は一大事のおこりけるとて、皆昼夜の相談密談あつて、兎角紀伊殿を御城へ呼び奉り、此状ども見せまゐらせ候はゞ、実否知れ申すべく候間、其様子あしく候はゞ、直に御城にて紀殿を捕へ奉るべくとて、屈強の兵ども数十人、御城便宜のところにかくし置き、御登城を待ちける処、尾張中納言光友卿・水戸中納言頼房卿御登城に付、御老中いづれも、紀伊殿隠謀にて、浪人どもに遣され候直判の状数通を御目にかけ、いかゞあるべきと、かたづを呑むで申達せられければ、尾張殿には、紀伊殿何条大事をおもひたち給ふに、浪人の力をたのまるべきや、是すなはち謀書にてあるべしと仰せられ、水戸殿にも、此状は必定謀書にてあるべしと、仰せられ候へども、上下只思案にあたはず、手にあせをにぎる、頼宣君御登城なされ、御着座ありしかば、井伊掃部頭直孝・酒井讃岐守忠勝・松平伊豆守信綱、此度諸浪人叛逆隠謀の次第申逹し候処、阿部豊後守、件の書状数通を披露しけるに、大オープンアクセス NDLJP:36納言殿判形顕然たり、頼宣謀叛の嫌疑を意とせず頼宣君彼状ども残らず御披見あり、御顔色打解け仰せられ候は、さて目出たき御事にて御座候、もはや御気遣無之候、其仔細は、彼の徒党人等、外様の大名の判を似せ、謀書いたし候はゞ、三代の御恩を忘れ、気ちがひ候もの、逆心をくはだて候よと、御うたがひも御座あるべきが、我等判を似せ、逆心とたばかり候上は、上の御気遣は少しも御座なく候、さ候はゞ、無事に相済み申し候、御幼少の公方様にて、御うたがひも御座候へば、わたくし只今国をさし上げ、思召次第に罷なるべく候、左候へば、すこしも御気遣御座なく候、さて天下安全のもとゐ、目出たき御事と、御喜悦の色見え、御挨拶仰せられければ、尾張・水戸御両卿も御老中も、一同に感じ申され候、且は大納言殿の忠義真実を感じ、智勇剛強の雄弁をほめぬものなし、古今絶類の名将と、上下舌をふるひける、讃岐守・豊後守・伊豆守をはじめ、仰の如く紀伊殿何しに御叛逆のくはたてをなさるべく候や、御判形を似せ申す段、一入重罪の輩にて候、皆刑罪に申付くべく候とある所、頼宣君、左候はゞ、其中に慥に見え候年壮のもの四五人は、たすけおかれ候へと仰せらるる、是はかさねて御吟味御せんさくのためなり、是にて天下の諸人、いよ紀伊殿の御智恵を感じける、御三卿退出なされ、御老中も皆、御城中の口より退出す、老中頼宣を忌む先へ井伊掃部頭、跡酒井讃岐守・阿部豊後守・松平伊豆守同道にて出でられけるが、讃岐守は跡より、掃部殿、唯今の紀伊殿の挨拶御聞き候やと申されければ、掃部頭たち留り振かへり、あれにてこわがることにて候と申されける、この時の次第、天下の貴賤、頼宣君を感ぜぬものはなかりき、

一、頼宣君は百姓・町人・出家・山伏にも、内々御懇意をなしおかれ、其輩国々にありしかば、めづらしき事を、かならず早く御聞あり、正雪隠謀の儀、御判を謀書いたし候事も、駿河狐ヶ崎辺の真言坊主に御懇のものあり、七日前に吉見喜左衛門かたへまゐり、渡辺若狭守直綱に、直談に註進仕りけるゆゑ、前方に御聞なされける、一国の大将は、国々にかやうのものを拵へ置き候様に、いたすべき事なりとかや、

オープンアクセス NDLJP:37
 
南龍言行録 巻之六
 

頼宣誓文を日光宝殿に納む一、大猷院殿御他界の砌、頼宣君熊野牛王の裏に起証文を御書き、御血判なされ、黒ぬりの箱に納め、日光御宝殿にひそかに納められ、当公方様へ対し奉り、未来までも不忠不義なさるまじくとの御文言なり、是を誰も知る者なし、万治二年の春の頃、日光社僧中、松平伊豆守信綱にふと物語ありしかば土聞に違し、御老中相談にて、日光より江戸へ取出し披見あり、公方様へ対し、不忠不義仕るまじくとの御誓約御起請文なりければ、公文様も申すに及ばず、御老中も、扨々大納言殿箇様の御心入にて候を、今迄疑ひ申し候て気遣仕り候、古今無類の御忠節にて候と感じ奉り、其年在江戸十年目に、御帰国の御暇を進らせられけるなり

幕府の難題一、大猷院機御代、慶安三年の春、頼宣君御在国の所、尾張大納言義直君、御気色大事に及び候由、公義まりも申来る、内々は四月の末に江戸御参勤の筈に候へども、尾張殿御気分御心元なく候に村、三月に御参勤ありたきと仰遣され、江戸へ御下り候処に、遠州見付へ奉書到来、尾張殿所労強気に候間、縦ひ路次迄御出で候とも、紀州へ御帰り、兼て仰出され候通り、四月末に御参勤あるべしとの上意なり、是により見付より御帰国可有之処に、公方様御出頭人中根壱岐守自筆にて、早々江戸へ御下りなさるべしとの、公方様御内意なりと申来る、奉書の趣と壱岐守書中と格別の事故、御相談にて三一日見付に御滞留なり、御密談の処、渡辺若狭守直綱申し候は、是は御進退大事の儀にて候上よりの御難題と存じ候さりながら我等存じ候は、中根壱岐守自筆の書面は内証なり、奉書は天下の大法なり、奉書を用ひず、内証につき御参勤候は、御越度とならるべく候、唯公道の奉書にまかせ、御帰国なされ候へとありしかば、頼宣君尤と御得心にて、紀州へ御帰なされ候、此段衆議区々なりしかども、若狭守諫言を御聞入れ、紀州へ御帰り候段、御旗本にても、内々感じけるとなり、後に承り候へば、此時壱岐守内意に御したがひ、御参府候はゞ、必定御大事になるべき御様子なりとぞ、

明暦の大火頼宣糧米を献ず一、明暦三年酊正月十八日、江戸大火事、同十九日、御城炎上、厳有院様にも西御丸へ御移なさる、其刻紀州より御扶持米三千石、舟にて品川へ着岸、御献上あるべきオープンアクセス NDLJP:38旨、渡辺又右衛門を以て松平伊豆守まで申上げ候、此とき紀伊国殿逆心にて放火と申す沙汰専らにて、公方様も御気遣に有之候へども、糧米御献上の御願仰上げられ候に付、上下安堵仕り候よしなり、

御機嫌伺の為頼宣登城す一、右御城炎上の節、公方様御機嫌御伺として、御屋敷より御上屋敷へ御越候に、頼宣君御上下に御ゑり綿常の通りにて御越、尾張殿へ御入なされ候、義直君には皮の御羽織に御立付にて、御中門の内に牀机に御座なされ、御鎧甲も笈に入れ候を御中門に負はせ、中々いかめしき御様子の所へ、頼宣君御上下御ゑり綿にて御入候へば、殊の外に見えけるとなり、義直君にも、公方様御機嫌御伺なさるべきとて、則頼宣君と御同道にて御出の刻、義直君の御玄関へ御上り加納九十郎・原佐阿弥を召して、御上下御小袖をぬかせられ候へば、下に革羽織御立付を召し、御入候を、義直君御家中衆見申され候て、扨もと感ぜぬ者なし、義直君御同道にて吹上口の御門へさして御越、御天守最中と焼け申し候を義直君にも、只事とは思召されざる御様子にて、是はいかなる事にて候やと御疑しき御あり様にて候に、頼宣君には、御天守を御見上げなされ、此天守御作事候て、久しくなり候間、御建直しなるべき時節なり、炎上も苦しからずと御物語にて、御門前へ御越候はむとなされ候に、御堀端に公儀の御物頭弓鉄炮にて立堅め、御通りを押へんとの様子に見え候時、原田市十郎・牧野伝左衛門御先へ立たむと参り候処、苦しからずとて、大音にて御呵なされ候、其御気色御眼の光、あたりを払つてすさまじかりけるに、公儀の御物頭衆も其御勢に恐れて、皆畏れて一言申すものもなかりける、市十郎・伝左衛門御先へ立ち候体、悪しくは無之候へども、公儀の御物頭衆、御両卿を通し申すまじき体を早く御見察にて、原田・牧野を大音にて御呵候御勢を以て、御威光を御見せなさるべき御謀なりとかや、

頼宣の仁恵一、寛永年中御在国の砌、頼宣君松江の庄へ御鷹野に御越候て、御帰の時、泰の藤平が前に御舟着、御上りなされ候、其時分春き候麦を筵に干し、前へわづかに通路明けおきたるを御覧なされ、町人・百姓の年中の糧を干したり、従者に踏ますべからずと、再三御制止なされ候ゆゑ、御目付野本弥太夫以下其旨を下知して、一人並に通り、終に少しも麦を踏まざりければ、町人・百姓手を合せ、御慈悲御仁恵忝く存じ奉り候、御目付共此御仁恵を聞きて、たまられ申すまじくとて、御城へ御供いたさオープンアクセス NDLJP:39れ候とて、御家老列座の所にて右の段申達す、百姓・町人忝がり候所を申達し候へば、御家老何れも感じられ候に、水野重良の異議水野淡路守重良一人は更に感ぜず、今日殿の御仕かた、我等同心に存ぜす候、左様の細なる事御申候故、下々のやつばらが殿の内甲を見て、馬鹿にいたし候、国主の御通りならば、麦を取入れ砂を盛り水を溜め馳走申すべき所、なんぞや麦を干して御通り道の障となる事、言語道断なり、夫を左様に痛はり候段、我等は尤とは存ぜず候、国主の御慈悲は、左様の事にてはあるべからず、夫はむざと仕たる御仕かたなりと申され候を、御目付共則御聞に達し候へば、頼宣君聞召され、淡路守申す所、一々道理至極せりと仰せられける、御僉議ありて、夫より五日めに、漆惣中水主米を御免なされけり、君も君たり臣も臣たりと、皆感じけりとぞ、

〔本条拠一本補〕

尾張義直に関する嫌疑一、寛永十一年甲戌の夏、大猷院様御上洛の節、尾張大納言殿へ仰せられ候は、江戸へ帰り候時、名古屋城に御立寄、御休足成さるべくと仰出され候尾張様御満足にて、俄に御成の御殿御作事、夜を日に継ぎて仰付けられ候、其時江州佐和山城にて、公方様思召に叶はざる品有之候て、御用心の御思案、井伊掃部頭直孝に於ても、既に身上滅却あるべき様子の所に、直孝の仕形よく思召され、直ぐ事済む箇様の事にて、公方家にも御思案出来、京より江戸へ御帰候砌、最早名古屋へ御成なられまじきかと仰出され、尾張様には数日の御用意もいたづらになり、天下の外聞を失ひ、尾張は立たぬと思詰め給ふ、頼宣君に御私語には、此度の儀、天下の外聞恥辱をかき候間、尾張に籠城いたし、安否を極め申すべしと御申候、其年は尾張様御参府の筈、頼宣君は京より御帰国の筈なり、頼宣君は、尾張殿御心底を聞召され、御涙をはらと御流し、勿体なき思召立ちにて候御自分と我等は、天下の固めに、権現様御遺言なされ候に、左様の思召立ち、中々道理にそむき申し候、頼宣義直を諫む名古屋御成の止み候も、定めて佐和山の事より御用心と聞え候、只何とぞ江戸へ供奉なされ、御尤たるべくと御諫なされ候へども、尾張様には兎角尾州に御引籠り、御一戦に思究め候との事なり、頼宣君聞召され、必定思召極め候はゞ、御籠城の御手立然るべからず、縦ひ御籠城候とも、尾州一国にて日本六十五箇国御引受、御利運あるべき哉、兎角御謀叛に極められ候はゞ、なされ様可有之下下の諺に、毒をくらオープンアクセス NDLJP:40はゞ皿を䑛れと申す、思召立つ程ならば、大功を顕され候様になさるべく候、公方家尾張を御通過候時分、名古屋より総人数を御つれ、追討になされ候へ、其時我等は勢州より吉田へ乗渡し、御自分と力を合せ、追打に致し候はゞ、今切・白須賀近辺にては、公方を討止め申すべく候、在京の帰り足、上下油断の旗本勢、何万候とも、手足にもかゝり申すまじく候、不意を追討たれ候はゞ、一挙に大功を立て、天下の落去、一日に定るべし、若致損じ打負け候はゞ、御自分と我等と討死を遂げ、枕を並申べすべく候、然るに名古屋に籠城に巻詰められ、詰腹切り給はむ事は、末代迄の恥なりと、御眼をいからし、座を扣きて仰せられければ尾張様も道理に詰められ、しほと成られ、尤至極に存じ候、我等は当人にて、滅亡是非なく候、咎もなき貴殿をやみと打死させ、両家をつぶし、権現様御遺言を、水には仕るまじく候、堅く思止るとありければ、頼宣君も御喜悦浅からず公方様には江戸へ御帰城、頼宣君には紀州へ御帰国、尾張様には名古屋へ御帰城皆程過ぎて江戸へ御参府、御登城御目見候へば、大猷院様御気色変り、尾張には参勤延引あるべき歟に聞き候に、はやく下り申され候、若延引ならば、鳴海口迄直に迎に参るべしと思ひ候ひつると、上意なりけるとぞ、

細川三斎頼宣を訪ふ一、頼宣君御若年の砌は、立花左近将監宗茂・細川宰相忠興入道三斎・真田伊豆守信幸・伊達中納言政宗と、節々御参会なり、或時細川三斎御暇下され、西国へ下られける前、渡辺一角直綱に申され候は、紀州公には、虚堂の墨跡・不動軒の御懸物は、天下の名物にて、権現様より御拝領と承り及び候、内々拝見仕たき念願にて打過ぎ申し候、此たび帰国仕り、年老至極の身、再び参府も不定に存候、哀れ此度彼墨跡拝見仕たくと申聞けられ候、一角帰り候て、此旨申上げ候へば、安き事と仰せられ、日限を極め、三斎を御数寄屋へ御招請なり、虚堂の墨跡は御懸なく、清拙正念の墨跡を御懸なされ、御茶の湯あり、頼宣君御手前にて御茶を点ぜらる、其時三斎へ、頼宣君仰せらるゝは、虚堂の墨跡御所望に付、安き御事と申し候、今日申受け候へども、其懸軸は、此方へは持参致さず候、其段申し候はゞ御出あるまじきと存じ、虚堂を御目に懸くべしとは偽り申し候、近頃残念に候と仰せられければ、三斎も思召忝く、重ねて拝見仕るべしと申され候、御書院にて御対話緩々と有之、三斎帰られ候時、渡辺一角に、彼虚堂の墨跡を御持たせ出され候、一角は黒書院と白書院の間、廊オープンアクセス NDLJP:41下杉戸の際にて彼御懸軸を箱より取出し、箱の蓋をあふのけ、其上に置きて畏つて待居り、三斎通り給ふ時に、頼宣君よりの御口上のしな申出づると、三斎もつくばひ申さる、一角申し候は、先日の御口上に、此懸物御覧なされたく候、御年寄られ、重ねての御参府も不定に思召し候との御詞を、いましく存ぜられ、重ねて幾度も御参府候様に祝入り、態と懸物を御目に掛けられず候、追付御息災にて御参府の節、御目に懸くべしと存じ、此の如く仕り候へども、御覧の御望にて候へば、書院に掛け、先々御目に懸くべき由申され、是へ持ち候と申し候へば、三斎も辱き事身に余り、感に堪へ申され、若き御身にて箇様の御心入は、御礼とかく申上げられず候、御賢慮のごとく幾度も参府致すべく候、其節重ねて御懸軸拝見仕るべしとて、取つて戴き帰られ候なり、翌年三斎参府致され候節、彼虚堂を御懸け、三斎を御招請にて、御茶の湯ありてけるとなり、

頼宣の頓才一、或時御老中方御城附に申され候は、権現様より御拝領なされ候、虚堂の墨跡拝見仕りたくとの所望に付、日限御極め、御中屋敷へ御招請あり、中くゞりへ、御名代三浦長門守為時迎に出でられ候、扨御老中御数寄屋へ入り給ひ、頼宣君にも御数寄屋へ御出なさるべしとて、黒書院迄御出なされ候へば、彼虚堂の墨跡は、箱より出し違棚にあり、頼宣君御驚きなされ、御道具奉行鴨居善兵衛・千宗左を召し、何とて虚堂の墨跡は掛けぬぞと散々御叱にて、善兵衛・宗左も取違ひ、外の御懸物を掛けたれば、今更仕方なし、頼宣君則渡辺若狭守直綱御使にて、御老中方へ仰せらるるは、御所望の墨跡は、権現様より御手づから拝領仕り候へば、初より掛け候事勿体なく存じ候、何れも御出後、大納言殿自身に掛けられ候はん為め、未だ掛け申さず候、然れども何れも御出に、素床に致置き候段如何と存じ、外の懸物を掛置き候、唯今大納言殿自身掛けらるべく候と、若狭守申達し候へば、御老中何れも一同に、御尤千万と申され候、若狭守は、茶道参り、床の懸物はづし候へと申す時に、千宗左矢筈竹を持参、床の懸物はづし候と、頼宣君、左に虚堂の墨跡、右に矢筈竹を御持出、御自身御床へ御掛なされ候、其頓智発明、古今無類の事なりと、聞く人皆感ぜぬものなかりきとかや、

頼宣の遠慮一、頼宣君御隠居なさるべき五六年前、酒井讃岐守入道空印、御城附に向ひて申されけるは、大納言公には小堀遠州作の石灯籠御所持と承り候、拝見仕りたくとのオープンアクセス NDLJP:42事、御城附帰りて其段申上げ候へば、甚だ御機嫌にて夫より御庭の模様作りかへ候へと、公儀の御庭作山本道勺・鎌田庭雲御呼び、御庭の作り直しあり、御庭出来、石灯籠を立つる日、千宗左病気にて出でず、千賀道円も差合有之出でず、道勺・庭雲石灯籠を見て、火袋の日形月形の窻せまし、当世に逢ひ申さず候、広げ候はゞ然るべしとあり、承りの役人蔭山宇右衛門聞きて、大工数人呼寄せ、火袋の窻を、道勺・庭雲差図の通彫り広げて、石灯籠を立て帰る、其晩に石灯籠建て候段、宇右衛門申上げける故、頼宣君御出で御覧なされ候に、火袋の窻彫り広げ候を御見付、大きに御驚き、是は何たる事を致し候やと御尋あり、蔭山承り、道勺・庭雲が差図にて候と申上ぐる、大に御気色変り、奉行は何の為ぞ、彼等が申すとて、此方へ伺はず、太事の石灯籠疵付け候へば、最早役に立たぬ拾り物なり扨々情なき事かな、遠州差図の窻を、道勺・庭雲彫り広げ候事、不届不調法、申すも愚なり、空印約束はしたり、何とすべきと御叱、宇右衛門め、己何の為ぞと、既に御腰物に御手を掛けられ候へば、宇右衛門二十間程飛しさり、頭を地に付け、赤面して罷在り候を、頼宣君御目を塞ぎ暫く御立なされ、加納五郎右衛門直恒を召し、扨々大事の道具に、疵を付け捨てたり、我此前御上洛供奉の時、小堀遠州に此石灯籠を頼み候時、物は二つあるが吉しと思ひ、其時二っ頼み、一っは此地へ下し、唯今捨たり候灯籠なり、今一つの灯籠は、紀州粉川の別業竹籔の中に、蘚を付け旧ばさむと思ひ、入れ置きたり、取寄せて、此度の空印を呼び候間に合ふべきかと御相談なり、五郎右衛門承り、扨々遠き御思慮にて、二っ仰付け置かれ候物かな、鯨船の水主を押切らせ候はゞ、成程間に合ひ申すべしとて、即時に早道の飛脚を以て紀州へ申遣す、鯨船に彼石灯籠を積み、水主を選び、昼夜の境もなく押しける程に、海上も風波おだやかにて、石灯籠恙なく八丁堀に着岸すと、千宗左を遣され、車に積み御中屋敷へ取寄せ御覧あるに、廿年余林の中にて、雨露に打たれ旧びし事、千年を経たるが如し、則御庭に立てたるに、前の石灯籠は物の数にもなし、御機嫌浅からず、長門守・若狭守・五郎右衛門・佐五右衛門・千宗左・千賀道味迄も、頼宣君の御智恵、遠き御思案を感じ奉りける、斯くて空印を御招きなされ候へば、此石灯籠を見申され、其珍らしきを深く感ぜられ、御茶も一入興ありけるとぞ、

オープンアクセス NDLJP:43
 
南龍言行録 巻之七
 
一、或時宇治の馬場にて、頼宣君御馬を召しけるに、駈の中にて、御頭巾を風にて吹落すを、中にて御取り、又鞍に御直り、すぐに駈けさせ召しけるを、御供の上下皆一同に感じける、其日は松野宗太郎は出でず、其三日目に、又馬場へ御出の時、吉見喜左衛門、宗太郎に向ひ、先日御馬を召し候に、駈の中にて御早業、其方に見せ申したく候、扨々奇妙なる事共なりと語り聞かせければ、惣太郎聞きて、殿様未だ御馬前方に御座なされ候、随分能く召し候へども、御鍛練まだ足り申さず候と申しければ、頼宣君聞召し、御気色かはり、惣太郎に、其訳御尋なされ候、惣太郎申上げられ候は、家康の馬術権現様は、海道一二番の御馬上の御名人にて渡らせ給ふに、小田原御陣の時、秀吉公の御先手として、惣ヶ原を御押なされ候、丹羽宰相長重〈二代目五郎左衛門〉・長谷川侍従秀一〈藤五郎〉・堀左衛門秀政、日金越を小田原へ押寄せ、峯筋を通りけるとて、谷際を見おろすに、家康公御押なされ候御旗・御馬幟を見て、皆々推前を見物致し候、爰に一つの谷川に細橋あり、御人数此橋へ行掛り、渡る事叶はず、橋の上下を皆寄にして越ける、権現様には、御馬にて橋爪へ御着遊ばされ候、山の上にては、三人の大将達見付け、家康卿は隠なき馬の上手なり、細橋を渡らるゝを見物せよと、見物する所に、橋爪にて御馬より下りさせ給ひ、御馬は橋より二十間計上の方を、舎人四五人にて牽渡す、権現様は御歩行者に負はれさせ給ひて、橋を御渡り遊ばされ候、山の上にて三大将の軍兵共、皆大に笑ひて、家康は馬の名人なるが、あの小橋を越す事ならず、人に負はれて渡りけると、どよみ笑ひけるを、三人の大将は是を制し、大に感じ、家康卿は、あれ程馬の名人とは知らず、馬上の功者は、危き事は曽てせぬ者なり、殊に陣前身をかばひ、あぶなき事仕給はぬは、近代の功者なりと感じ入り誉め申され候、是にて考へ候に、殿様ひたと危き早業をなされ候は、馬不功者と申す物にて候と申しければ、頼宣君も大に御感ありて、御近習を召し、其趣を書付けさせ、御掛硯に納められけるとぞ、

頼宣の機転一、上野台徒の僧中御見廻り候其前に、御旗本衆御出、御吸物の支度仕り候内、其御客は退出、其跡へ上野僧中参られ、御吸物とある時、初に調味したる魚類の御吸オープンアクセス NDLJP:44物を出す、頼宣君蓋を御取なされ候へば魚類なり、則ち蓋をなされ候て、僧衆へ仰せられ候は、庭前に茸出生し候を料理に出し候、尤苦しからずと、医師も申し候へども、食ひ候事入らざる事に候、はや小姓共其吸物を取り候へと仰せられ候故、引き候て、其跡より精進の御吸物出で候て、事済み候なり、其御機転、少事といふとも、及ぶ所にあらず、

小笠原忠政壺胡籙を贈る一、頼宣君御約束にて、小笠原右近大夫忠政より壺胡籙・矢縨抔箱に入れ、封印して進上せられ、其時の使者は、渋多見与左衛門といふ者なり、早天に御玄関へ参り候、当番の番頭渥美源五郎出合ひ候、大納言殿夜前長座致され、未だ体み居られ候間、目覚め候て御口上申聞かせ、御道具見せ申すべく候、先御使者は御帰り候へとて、与左衛門を帰し、其日四ッ時分に、源五郎其段を、奥の番関茂兵衛を以て達し、彼道具は受取り置き候と申上ぐる、茂兵衛表使の女中を以て、此段申上げ候へば、右近殿使者を通し候へ、御対面あるべしと仰出され候、此旨、茂兵衛、渥美に申聞け候へば、源五郎申し候は、先に申上げ候通、右近殿使者、今朝戻し申候と申候、茂兵衛又表使の女中に、其段申達し候へば、又仰に、右近殿使者書院へ通し候へとなり、源五郎不思議に思ひ、先刻度々申上げ候通、使者は今朝帰し候と申上ぐる、また仰に、使者を通し候へと仰出さる、源五郎は、茂兵衛取次の仕様あしき放なりと、既に相論する所に、布施佐五右衛門重紹居けるが、目を睡り思案し、源五郎に向ひて、扨扨御念頃の御思案にて候物かな、凡夫の及ぶ事にてなし、御仔細は右近大夫殿秘密の道具なれば、使者を呼付け、其目の前にて、箱の封印を御切なさるべき為に、使者通し候へと、数度の御意なり、早々右近殿へ使者を呼びに遣し、然るべしとあり、源五郎も肝をつぶし、早道の者遣し、早々呼越し候、右近殿使者渋多見与左衛門早早参り候に付、其段申上げ候へば、黒書院へ通し対面なされ候、使者の目前にて、箱に付き候右近殿封印を御切り、其封を使者に御渡し、扨道具御一覧なされ、又箱に御納め御封印にて、使者に御渡し、使者帰り申し候、源五郎あきれ果て、手を拍つて、扨々殿様の御高案は、我等如きの凡夫の及ぶ所にてなし、佐五右事は、幼少より御奉公申上げられ候故なり、中々此智恵も及ぶ所にては無之と申しけるとなり、

七山の鹿狩一、頼宣君御若年の時分、七山御鹿狩なされ、御家老大身小身残らず御供なり、御取なされ候雉子・鴈・鴨御料理になされ、皆々下さるべき処、大崎玄蕃允長行父子オープンアクセス NDLJP:45村上彦右衛門義清・真鍋五郎右衛門貞成・九鬼四郎兵衛広高・数三左衛門・大藪新右衛門・安藤忠兵衛を始め、御譜代新参の老幼の輩は、皆腰付の飯を取出し、御吸物頂戴仕り候、安藤帯刀・水野淡路守久久三郎左衛門・三浦長門守には、御料理下され候、渡辺一学・牧野金弥をはじめ、御小姓の大身は、面々弁当食籠を持たせ遣すを、頼宣君兼ねて察し、一里計の道筋張番御置き、弁当食籠を押へて、一つも通し申さず候、是を知らず、若き大身の面々、御吸物出で候前に、弁当食籠を尋ね候へども、曽て見え申さず候故、皆飢ゑ疲れけるとなり、以来こらしめのため御尤なる事と、諸人感じ申し候となり、

佐渡与助一、近年岩手にて、頼宣君川狩の御遊の時、若者共水を游ぎ候に、佐渡与助水練不調法にて、沈まむとする事度々なり、水野十太夫小船に乗りて在りしが、与助叶はずば、船に取付けと申し候を、頼宣君聞召され、十太夫のたはけめ、士に左様の事申すものか、ならずば取付けと申すは侍たる者が死ぬるといふとも、舟に取付くべきか、たはけたる事を申し、惜しき士一人殺し申すべきぞや、同じ言葉にても、与助船に取付きて休み候へと申すべき事を、十太夫のたはけめと仰せられける、御吟味の段、委細なる事どもなり、

諸士知行召上の評議一、今村小兵衛といふ算勘の者、御勝手の為、御家中諸士知行の内を召上げらるべしと考へ申上ぐる、御家老・番頭・奉行を初、御僉議有之、御意には、さのみ是にて諸士勝手痛み申すまじくと、小兵衛申上げ候、如何ぞと御尋なり、三浦長門守を始、尤と申上げ、大方相極る所へ、加納五郎左衛門罷出で候、頼宣君仰に、箇様々々の事を言付くべしと思ひ、年寄共も尤と申し候間、是に極るべしと仰出さる、五郎左衛門頭を振つて、中々勿体なき事にて候、必々御無用に遊ばさるべしと止め申し候、頼宣君仰せられ候は、何と可有之哉と、又御尋なり、長門守承り、小兵衛申上げ候様になされ、御尤と申上げ候、其時五郎左衛門、長門守に向ひて、其方真実御尤と存じ奉り候や、誓文を立て候へと申し候、長門守赤面し無言にて、御一座鎮まりかへれば、早御賢察なされ、重ねて僉議すべしと仰せられ、奥へ入らせられ、御使を以て、此度の儀、下々迷惑仕るべく候間、御止めなされ候と仰出され候、翌日加納五郎左衛門直恒を召し、其方申す事尤至極に付、此度の儀止めにするなり、扨其方へ異見する事あり、いかに道理を申すとも、我口まねをもする家の大身をば、昨日のオープンアクセス NDLJP:46様に、顔の皮をむく様なる事をば、申さゞる物なりと仰せられける、

痴児に亡父の跡を継がしむ一、坂口小兵衛は方口にて、度々の手柄高名あり、浅野弾正少弼長政家にて、小田原陣の時、忍・岩槻にて、亀田大隅と立合ひ働あり、福島掃部方にては、駿府御城大手日にて、主の仇を討つ、箇様の事どもに付、頼宣君四百石にて召抱へられ、紀州にて病死、其段御聞に達し、跡目相違なく、源之助に下さる御家老何れも、源之助は大たはけにて罷在り、中々御奉公なり申すものにては御座なく候間、知行御減し遣され候様にと申上ぐる、頼宣君仰には、源之助が生れ付は、吾もよく知りて、父の跡目相違なくくれたり、家中広ければ、たはけたる子持ちたる者多からん、源之助へ知行減しくれ候はゞ、家中の上下たはけたる子持ちたる者是を見て、最早行末知れた、奉公しても一代切、頼母しくなしと、心をはなし候はむ事必定なり、たはけたる源之助に、稲違なく亡父が跡をくれ候ては、総家中のたはけたる子持ちたるもの、辱く頼もしき事かなと思ひ、是にては一命を捨て奉公せんと思付くべし其段を思へば、小兵衛が跡相違なく、くれ纔の事にて、諸人に思付かるゝ所、大きなる徳分なり、跡目を減じ、わづかの得分を取り、諸人に思ひ放されば、大きなる損なりと仰せられけるとぞ、

戸村十太夫大坂陣今福の戦を説明す一、万治二年四月、松平出羽守直政御執次にて、佐竹右京大夫義宣秋田少将の家老戸村十太夫を、頼宣君御中屋敷へ召寄せられ、御前にて、大坂冬御陣今福口にて、佐竹義宣と木村長門守重成・後藤又兵衛年房と、一戦の次第を御聞なされ、並に両御所様より、十太夫に下され候御感状を御拝見なされ、鳴野・今福の絵図を戸村に御見せ、合戦の次第御尋なされ候絵図の書付をば、宇佐美佐介読之、戸村物語を仕る、初は御感状を御書院の上座にて、机の上にて御拝見なされ、扨日も晩景に及び、御座中暗くなり候に付、絵図の書付見えかね候故御縁近くへ絵図を出し、明りを請けて書付を読む、戸村物語申上げ、事済み候時、十太夫は椽側末座にしさりける、頼宣君、敷居より二間計も上座へ、御しさり候て御座なされ候時に、戸村最早退出仕り候とて、御暇申上げ候、頼宣君仰に、老人の長座退屈仕るべく候菅沼九兵衛・蘆川甚五兵衛を御呼び、十太夫に酒を出せと仰付けられ、扨御感状を御返しある時に、御書院真中、初の御座敷に御感状有之、唯今の御座迄は三間計あり、御小姓・近習、皆戸村後に廻り詰め候て物語を聞きて罷在り、かの御感状取次人無之、御腰物持オープンアクセス NDLJP:47ちて松下佐五兵衛一人罷在り候、宇佐美佐介宇佐美佐介罷立ちて、御感状を取次ぎ、御前へ差上げ候、戸村かたへ御返し遣され候はゞ、取次申すべしと存じ、御前近く畏り罷在り候へば、御感状を御手にもたせられ、いかに十太夫、知行又は財宝を子孫に譲り候ものは、世に多く候、箇様の御感状を取り、子孫に譲り、宝とせさする人は中々稀なり、其方は弓矢の冥加の士なりと、再三の中に、佐助面を両度御覧なされ候ゆゑ、佐介も心にいかゞと存じ立退き、鑰ゐろりの間の板戸の外へ出で、手を付き畏り居り候へば、菅沼九兵衛を召し、御感状を御渡し、戸村に御返し遣され候、十太夫も退出仕り、翌朝加納五郎左衛門・布施佐五右衛門奉はり、佐介を呼び、頼宣君仰として申渡しけるは、昨日佐竹殿家老戸村十太夫召出され、両御所様御感状御拝見事済み、御返しなさるべき時分、初御拝見の座より、御前迄の御感状執差上げ候段、勿論尤に思召し候、御前より戸村方へ御返しなされ候取次は、年若きもの不相応に思召され、殊に両御所様御感状にて候へば、番頭より下にては如何と思召し候故、其方面を両度御覧なされ候に、心得立退き候故、菅沼九兵衛を召し、御感状御渡し、首尾残る所なく候、其段心得立退き候段、奇特に思召され候、向後も万事心掛け嗜み、油断なく御奉公申すべく候、依之御褒美下され候とて、御召の御紋付の時服を下され候、五郎左衛門・佐五右衛門申し候は、昨日の次第、中々御誉なされ候間、能く向後心得申すべく候、名将に御奉公申上げ候は、唯大かたに心を付け候てはならざる事なり、不心懸なれば、御見限を蒙るものなり、先以てきのふの首尾は一段の儀なりと、誉め申しけるとなり、

オープンアクセス NDLJP:48
 
南龍言行録 巻之八
 
有田山楊梅を観る

一、有田郡広の御殿に、頼宣君御逗留の時、楊梅さかんに付、女中衆・御近習御ともにて、有田山へ御越しなされ候、御先乗長尾与六右衛門勝年は、御供沙汰なく候故、番所御門前へ罷出で、御出の節、御目見仕り候へば、御覧なされ、長尾当番かとの仰なり、与六右衛門かしらを下げ、御礼申上げ候へば、頼宣君仰には、楊梅の熟し、さかりの由、郡代註進申すに付、山へ来りたり、其方も召つれむずれども、今日などの遊山翫水の節は、女や、小姓・医師・詩歌のともがらを伽につれる故、其方はつれ申さず候、其方は、又つれる時節があるぞ、馬の足のはやき所へは、その方などを一番につれねばならぬなり、今日はさみしくとも、留守をせよと仰せられ、御通なされ候へば、長尾はあまりかたじけなき御意なりとて、その夜感涙数度に及びける、

長尾一在一、右与六右衛門が父長尾勘兵衛一在は、芸州東城の城主長尾隼人佐一勝が末子なり、〈はじめ山崎久之丞、代々芸州高岡の城主、一万六千石を領す、先祖は佐々木四郎高綱なり、〉隼人は侍の内の人参なりと、権現様御ほめに逢ひたるさむらひ大将なり、子の勘兵衛は、岐阜攻めにも手に合ひ、島原一揆の節、上使御馳走にて、西外記丸・竹走丸といふ関船まゐり候節、市川甚右衛門清長とおなじく、西国へまゐりて手に合ひ、夫より前かた、勘兵衛を御使番に仰付けられ、病気にて、歩行にて御駕の御供なりかね、御使番御免のねがひを申あげ候へども、二三年も御ゆるしなされず、達てねがひ候へば、水野淡路守奉りにて仰渡され候は、病気ゆゑ願の通、御役御免なされ候へども、御使番の指物は御免なく候と御意なり、諸人御意を感じ奉り候、其以後病気にて、御目見にも出で申さず候処、勘兵衛子の久三郎、御城に御番にてまかり在り候、御通りなされ候とて、いかに久三郎、其方が父勘兵衛気色いかゞと、御たづねなされ候、久三郎かしらを畳につけ、老父儀、病気しか御座なく、それ故御目見にも得罷出でず、迷惑仕り候と申上ぐる、頼宣君御機嫌よく、勘兵衛も、先年島原の様なるいそがしきこと出来候はゞ、気色もすきとよく罷なるべく候へ、得たる事には気相もよくなるものなりと仰せられ、御通なされ候久三郎罷帰り、父に申聞え候へば、君の仰を忝がり、或オープンアクセス NDLJP:49涙いたしけるとなり、

久野宗俊一、以前高野由学侶行人公事の節、安藤右京進上使に高野山へまゐられ候、ことの外騒動にて、大かた高野攻めらるべきかと風聞のみぎり、安藤帯刀美清は在所田辺に在城しけるを、夜通しに召よせられ、三浦長門守・渡辺若狭守・加納五郎左衛門召あつめられ、毎日御相談ありしに、久野丹波守には、一言も仰合されず候故、丹波守大に憤り、田辺より帯刀をば召よせられ、昼夜の御密談あるに、我等には御一言も仰聞けられず候、曲なき御仕方にて候間、何事ぞ出来候はゞ、一番に高野へ取かけ申すべくと、次物見だむ置きて支度せられける、然れども其御沙汰にも及ばれず、事しづまりける、後日に至り、頼宣君仰に、丹波守、其方は何にてもいたしかねまじきもの、独たち仕るべく候とおもひ候故、何事も申合はず候、帯刀事は、御旗本より御目がねをもつて、御附下され候故、何事も能き上にもよかれかしとおもひ、此度の事も、いろ指南せしなり、其方はわれが差図に及ばず、いたすべき所は致すべきと存じ候に村、一言も申聞けずと仰せられ候へば、丹波守もかたじけなき次第なりと、頼宣君の思召を感じられけるとぞ、

頼宣善く家老の言を容る一、大雪の降りける時、広原冬野村鴈・鴨多きよし、鳥見のもの註進申すに付、俄に御出なされ候、久野和泉守は、其時三郎左衛門と申せし時、頼宣君御供に大かた召つれられ、毛綿番鳥股引にて出で候雪風甚だしく、前後東西も見えかね申すほどに降りけるゆゑ、中の島総福寺のゑんに御駕をあげ、雪の晴間をまち候へども、雪はしきりに降りければ、御供の面々、寺の庭に並居たる輩、頭上も一身もわたをいたゞきたる如くに相成つて、上下こゞえける時、久野三郎左衛門御駕の側へ参り、風寒大雪にて、御機嫌にさわり申すべく候、下々も、ことの外つかれ申し候間、今日は御城へ入らせられ、明日のことに遊ばされべくやと申上げ候へば、三郎左衛門申す通り尤なり、帰るべしと仰せられ、中の島より御帰なされ候、三郎左衛門宅は吹上なれば、御暇下され、塩道の浜より帰宅なり頼宣君はおやけ堤へ御かゝり、御帰なされ候へば、冬そらのならひ、雪もやみ空もはれ風もやみ、晴気になりしかば、吉野喜左衛門、今日冬野村へ御越なされ候はゞ、御物数あるべきに、残念と繰返し申しければ、聞召し、追付天気よく候はむやと、われも思ひけれども、三郎左衛門おもひより諫め候間、帰り候なり、家老の申すことは、主君もよく聞入れオープンアクセス NDLJP:50候物と、下々にもしらせ置き候へば、何事ぞある時は、家老の下知がきくものなり、其得分は、鴈・鴨百千取つたるよりは大切なりと、仰せられける、

頼宣石野伝市を戒む一、石野伝市、頼宣君の御供先にて、姉川御合戦の御物語をうけたまはり、朝倉孫三郎義景が家人武者二騎、権現様を目がけ乗込み来り、切つてかゝり候、御側に加藤喜助・天野三郎兵衛能在りて抜合はせ、二騎の敵を切り留むる、其首の口のうちに、一足無間地獄と書きたる札を含みたり、扨もつよき兵にて候と、御物語なり、其輩は朝倉が近習・歴々にてこれあるべしと、伝市申し候へば、頼宣君俄に御気色かはり、やあ伝市承はれ、大剛は近習・外様・歴々・下々によるべからず、近習ばかり大剛があるべき仔細なし、若其方が今の言葉を、若きものどもが聞咎めかけ候はば、何と返答すべき、卒爾なることいふべからずと御呵なり、

山中信友一番鎗一、先年島原一揆の時、二月廿一日の夜、城より三千余にて出づる、黒田右衛門佐忠之陣へ夜打するに、其夜の廻り番岩神角之助・尼子八郎兵衛なり、〈此両人は松平伊豆守信綱の家人なり、〉 山中作右衛門信友行逢ふと鎗を合はす、作右衛門十文字の鎗を一番に打入り、敵一人突たほし、角之助見けるかと言葉をかける、岩神見たりといふと、山中先じやと言葉をかけ、岩神も鎗うち入れ、一人鎗付け、山中にことばをかくる、作右衛門・角之助、鎗は大方一度に合ひしかども、山中に言葉をかけ、先と言断らるゝ間、兎角山中一番館と、何かたともなく披露するなり、此後御暇にて御帰国の砌、例の通り御家中残らず、御迎に田井瀬まで出づる、九州へ参り、手に合ひたるものは、それぞれに御言葉かゝる、山中は新参もの、ことに其以前勢州郡奉行するゆゑ、御見知りなされず、御詞かゝらず、御帰国、十日ばかり過ぎて、牧野金弥承りにて、作右衛門を二の丸へ召す、是は其日御旗の虫ばしにて、二の丸へ御上りなされたるなり、作右衛門遅参いたし、御玄関前にて御目見仕る、御城山の坂を御供に召つれられ、島原夜打の次第を御たづね、其方一番館にてありしと御聞候と仰なり、作右衛門うけたまはり、岩神角之助と拙者と、鎗は一度に打込み勝劣はさのみ御座なくと申上ぐる、御豪所門にて作右衛門は残る、公御門の内へ一足御ふみ込なされ候に付、先程も申す通り、岩神より其方鎗は早く候ひつるよし、一番鎗にて候と仰せ候、作右衛門、まつたく私一番鎗にては御座なく候、一番館との御返事は、得申上げまじくと申上げ候へば、君立帰らせ給ひ、先といひし言葉があるにと、御にらめオープンアクセス NDLJP:51なされ候、後日に御物頭に山中はいなことを卑下いたし候、鎗は一度に合ひ候ひても、先と言葉あるうへは、一番鎗に極り候との仰なり、

私にいはく、作右衛門事、先日江戸より御帰城の節、御詞かゝらざることを如何と、作右衛門思ふべきかと思召し、二の丸へまゐり、御目見仕り候へば、御意には、先日帰国の時分、見わすれ言葉をかけず候、其後も呼びて島原のこと、たづぬべきとおもひしかども、今日は、権現様より下され候御はたの虫ばしの節に候ゆゑ、わざと祝ひて、今日呼び候とおほせなり、その夜討は二月廿二日の夜、江戸へは廿六日にしれ申し候、廿八日織登城の節、諸大名がた御旗本中まで、君御通にさしつどひ、山中作右衛門一番館いたし、さぞ御機嫌におぼしめさるべしと、方々より御よろこび申上げ候故、頼宣君、ことの外御機嫌に思召され候となり、

頼宣の剛勇一、此以前頼宣君へ逸物の犬をひかせ、進上するものあり、かねて御聞およびなされ候故、御庭へ引入れさせ、御覧なされ候へば、あらき犬ゆゑ、元の主が、犬引の宰領の歩者つきて御庭へ出づる、御縁に御立なされ、これへ引きてまのれと仰せられ、縁へ引付け候歩者、此方の御小姓衆にむかひ、此犬ことの外あらく候と申すを御かまひなく、縁はなにて、此犬は猟きゝにてあるべし、よきつらがまひなると、御足にて犬の顔を御なで候へば、其犬大きにおめきて、御足にかみ付き候を、御あしを直に犬の喉へふみこみ給ふ、犬は喉へ御あしをふみこまれ、さむほえて、尾をしきてにげのく、是より彼犬、君を見ては恐れて、いつも尾をしきたるなり、此時御足を御引き候はゞ、かみきり申すべきを、直に犬の口より喉へふみこみ給ふ、其早業御剛強たとへむかたなし、御年若の時、伊達政宗御出あられ、大に酒宴して御帰り候を、御座ながら御暇乞ありしを、政宗立帰り、此政宗はどのものを、御座ながら御暇乞は曲なく候、御立なされ御送り候へと、頼宣君の御手を取つて引立て申され候、頼宣君、政宗の足を取り給ひ、一間ほど御投なされ候、政宗どうとなげられ、大笑いたされ帰られしとなり、また或時大鹿狩の時、手負ひ猪かけ来り候を、御鉄炮にて御打ち候立消いたし候と、猪直にかゝり候所を、御鉄炮を猪の股合へ入れ、御うしろへぞくび投になされ候、かやうの早業、いか程もあり候ひつるよしなり、

オープンアクセス NDLJP:52頼宣基盤の図を以て財用を計る一、宮地久右衛門は九郎太郎と申せし時より、鉄炮を鍛練し、算勘妙を得、智才抜群の器量を御覧じ、御出し奉行職に仰付けられ候、頼宣君御工夫を以て、碁盤の図と申す絵図をなされ、五色・七色に彩色、御領に納米の総高をあげ、を四ッ五ッ六ッ七ッときはめ、第一御家中知行扶持方米、第二江戸御参勤上下の入用銀、第三在江戸中の入用金、第四所々御普請作事、第五御武具御馬の入用、第六御台所入用、第七御鷹野・御能・御宿鷹野、かやうのしなをわけ、御普請御作事あるべき時は、外の入用減じ、又御加増御金下され候年は、また御普請御作事をやめ、あなたこなたと入合せ、融通せし故、御勝手に増減の手品有之、総じての御身体すわりて、御勝手に御つまりなされ候事かつてなく、御一代御自由に御座候事、御工夫の基盤つもりの故なりと、久右衛門入道、むかし物語いたしけるとかや、

井原町の水道一、井原町の北より西の海道まで、大水道を仰付けられ大かた首尾いたし候時分、御在江戸より宇佐美佐介を召して、江戸へまかりくだり候、御普請奉行加納角兵衛・佐野平蔵は佐介をまねき、大水道首尾よく出来仕る次第を見せ、江戸にて御たづねあらば、申上ぐべしと申含めしかば、佐介江戸に着きて御前へ出でけるに、御家中大小の事ども御たづねの時、はたして大水道のこと御たづね、佐介見及び候通り、角兵衛・平蔵申し候通り申上ぐる、その時佐介に仰きけられ候は、大水道出来に付、柴薪の船送よく、さぞ新吹上の上下よろこび候はんと仰せられさて汝は獅子といふ獣を知りたるか、此獅子は獣の王にて、一度鳴きては、その声の聞ゆる所まで、をのゝきおそるときけば獅子にまさる猛獣なし、しかれども此獅子おのがすみかは、数千丈けはしき岨に、あなを掘りてふすとかや、獅子を咀み殺すべき獣なければ、用心はすまじきことなれどもかくのごとし、天下のひいでたる大将も、城郭は堅固にするものなり、つたへきく、武田信玄は自分の武勇に自慢し、甲州に堅固の要害なかりしゆゑ、勝頼の代に、信長によせかけられ、一日の防戦叶はず、山中へおち行きて滅亡せしなり、北条氏政は、勝頼には武勇劣りたれども、小田原籠城し、秀吉二十六万の軍を引受け、四月より七月までもちこたへしは、要害の故なり、然るに家中のやつばらの中に、大納言殿の吹上に堀をほらせ、要害をめさるゝは、さても不器量なる大将なり、大将は堀を出で、野合にて功を立てゝこそあるべきに、二万の大将の身にて、敵を城へ引受けては、運はひらかれまじと、あオープンアクセス NDLJP:53ざけり笑ふともがら、其名・苗字・人数までわれは聞きしなり、雲雀が鶴のこゝろはしるまじ、すゐさんなる奴原かなとおもへども、夫ほどの事を申すも、外のやつばらの小うた・三味せん、女小姓のをどりのみにかゝり居るよりは、ましなりとおもひて、咎もせぬなり、利に因りて権を制するは、兵家の妙所なれば、時により敵により、軍はさだめなきことなり、此度水道普請をあざけるともがらは、部屋立の歴々なりと、後は御機嫌よかりける所に、其次に、御家の旗奉行どもが長柄足軽のことを申立て候儀、其方も其沙汰聞きたるならむ、何と聞きたるやとの御尋なり、佐介かしこまり、まことにうけたまはり候へども、うかと承り、たしかにおぼえ申さずと申上げ候へば、にはかに御気色かはり、弓矢の家に生る武士が、武道のことをうかと承り候とは不審なり、茶道・能・猿楽・遊山・翫水の事ならば、忙然と聞く事あるべし、武士が武道をうかと聞きたるとは、めづらしきことなり、不思議なる返答のいたし様、勇士の子孫にてあるまじくと、ことの外御呵なされ候なり、総じて頼宣君武道の事においては、かり初の物語にても、御僉議むつかしく候故御近習は申すに及ばず、其外若き者ども、諸事にこゝろを配り、御奉公仕りけるゆゑ、自然とこゝろをつよく御奉公仕り、武芸をかせぎけるとなり、

オープンアクセス NDLJP:54
 
南龍言行録 巻之九
 
偏武の戒

一、陽山にて加納五郎左衛門直恒に、頼宣君おほせられ候は、総じて大将もさむらひも、物にかたよらぬものなれば、御子様がたへも、其段申上げ候へ、仏法にも教家禅家あり、尤も儒道・仏家のわかちあり、いづれも深妙のむねあり、武将には城攻・籠城・野合戦・夜討・小路軍のしなあり、其外弓矢・鉄炮・馬上・鈴・劔術・把提とつて・やはら等にいたるまで、皆理と事と交り、事理一体の妙にいたる所なり、さる程に人界の雑事にも、能・猿楽のなぐさみ、茶道・蹴鞠・歌道・立花のもてあそび、皆人生の事にして、ひとつもかけては叶ふべからず、よくこそなくとも、少しにてもまなぶべし、茶道を知らずば、他に行きて、馳走もてなしには、先づ茶の湯なり、それを知らぬは不骨にて、さながら下臈たちに見ゆるなり、又能はなしを知らざれば、たとへば能のはなしをするも、はじめは芭蕉にて、二番目は善界、三ばんめはなにやらむ、鬼の出でたるなど申すやから多し、人の笑を得るなかたちなり、殊に歌道を知らずば、うた物語に、わけもなきかた言を咄し出で、一座のあざけりとはなれり、弓馬・武芸はいふに及ばず、何事にても知つてあしきことなし、されども人間のくせにて、一方へかた付きたがり、武道のみこゝろがけては、その外をしらず、華奢なる道をこのむものは、弓馬の第一の事にうとし、何事にてもかたよらぬが人の道なり此段は、御子様がたへももうしあげ候へとの仰にて有之たるとなり、

堀田九郎右衛門の武功一、頼宣君以前不寝の御病気にて、そのころ古参・新参の古兵ども、番がはりに毎夜に御伽に相詰めしに、堀丹後守直寄が家より出でたる堀田九郎右衛門当番にて、御夜つめに出づる、頼宣君には、大坂御陣にて、堀丹後守手まへの高名帳を御取出し、さる方よりさし越し候、丹州手前の大坂陣の首帳なり、これを見よとて、九郎右衛門が前へ出し、此高名帳に、その方が名字なしとおほせられ候、時に九郎右衛門帳を披見いたし、御意のごとく、わたくし名前御座なく候、これはしらざるものの書き置き候帳にて御座候、丹後守前にてしたゝめ候本帳を取出しさし上げ、御目にかくべしと申あぐる、其のち江戸番すんで、九郎右衛門は、やすみに紀州へ帰り、大河内杢左衛門と代る、九郎右衛門江戸をたち、小田原に一宿せし所へ、江戸オープンアクセス NDLJP:55赤坂御中屋しき御用達連判にて、はや飛脚の状箱、夜半時分に到来しける故、九郎右衛門おどろき、おきて披見するに、其状にいはく、御前に於て、大坂表堀丹後守手前高名帳御見せなされ候に、其方名まへこれなく候ゆゑ、其段仰せきけられ候へば、本帳を取出し、此帳をば一代のうちに、反古にいたし申すべくと申上げ候、其後丹後守、手前にての本帳たづねいだし候処、其方高名の名前、帳にあつて候に付、此帳を下され候所なり、はじめの帳も、差添へ下さるべく候間、本帳の如く、反古に仕るべき旨御意にて候故、かくのごとくにとの文言にて、本帳にはじめの帳をそへ下され候、九郎右衛門、かたじけなきこと骨髄に徹し、思召の過分至極なることなりとて涙をながし、声を立て泣き候て、漸う御返事に、くれ御礼を執次まで申上げ、即ちはじめの帳は、国へ帰り、いづれもへ見せ候て、火中いたし候、是より丸郎右衛門一心に、御恩ありがたく存じ奉り候、御吟味御意の段、ありがたき御名将なりと申しき、

家中陪臣の陣羽織一、さる軍者の存寄にて、御家中の又者の陣羽織のこと申上げ、其ものゝ好次第にて、浅黄綿布の袖なしはをり出来、ことの外見ぐるしく、中々着用なりがたき様子、田屋菊右衛門・淡輪新兵衛・蘆川権太郎など申上げ候とあること、頼宣君御聞に達し候へども、先其分にして置くべし、紀州家中又者羽織は、かやうなりとて、何ごともある時、敵かたより似せて着用し、しのびなど入りたる時、此方にはその羽織無用にして、敵かたよりのまぎれものを、えらび出すべき手段の本にもなることなり、総じて大軍に対し、羽織を着ぬものと、立花左近・真田伊豆物語なりとおほせなり、此以後又者の羽織は、次第に無用になるなり、

頼宣島原一揆鎮定の困難を察知す一、島原蜂起の時、尾張義直君・水戸頼房君・頼宣君御登城其其諸大名・御旗本の功者の面々登城ありける時、尾張大納言義直君、何者々々じや、百姓どもの分にて、何ほどの事あるべし、蹈つぶすに手間取り申すまじくと仰せらる、頼宣君、左様にて御座なく候、古の諺にも外の百姓百人を以て、内の一人をうかゞひがたしと申し候、二万ばかりの凶徒等、死切つてたてこもり候を、手ひしぎにはなりかね申すべしと存ぜられ候、ことに天草富岡城責め、本渡のたゝかひの仕方島児者垣にての勢くばり、唐子おもてより陣はらひの体、島原にては野瀬合戦、三江・板谷おもての兵糧争の体、百姓ばかりの仕方と存ぜず候、いか様手問入り申すべくと仰せオープンアクセス NDLJP:56られ候、義直君には、また紀伊殿のむつかしきあいさつ申され候、何事の可之候、一々ふみすて申すべく候とある時、真田伊豆守信幸申され候は、軍の儀は、左様に御座なきものに候、むかし亡父安房守昌幸御意にたがひ、権現様より御譜代の歴々一万五千にて、信州上田の城へ御取懸なされ候我等二十三歳にて、亡父安房が先手いたし、一戦に打勝ち、御人数を加賀川迄追打に、四百ばかり首をとり申し候、尾張様御家老成瀬隼人は存ずべく候、拙者一了簡には、紀伊国様御意が御もつともと存じ奉り候と、申上げられ候へば、尾張義直君には、ことの外に御せきなされ候御様子のよし、

島原落城の予想一、寛永十五年二月廿一日の夜、城より夜討出で、黒田左衛門佐忠元手先を攻破り、家老黒田監物一万其子岡田佐衛門、其外数十人打とられ、黒田市正・吉田壱岐は手負ひ、明石権之丞討死、鍋島・立花手先まで打まはり候よし、註進これありければ、上意にて御三家御登城、御老中は申すに及ばず、溜詰の衆まで登城せられ候、島原夜打手つよく仕り候段上意なり、尾張・水戸の御両卿は、何の御言葉、御あいさつも御座なく候、頼宣君は御顔色よく、追付落城仕るべく候、目出たく吉左右の註進にて候と仰上げられ候、大猷院様にも御考へ遊ばされけるが、御納得の御様体にて御座あそばされ候、果して七日めに落城し、早打の御註進ありければ、紀伊国殿は神智妙慮の大将なりと、そのころ天下にて、取沙汰つかまつり候となり、

頼宣藤堂氏の領に入る一、藤堂大学頭高次は隣国に在城し、紀州かたの善悪を目にかけ申され、何事もあらば、松坂・白子は取しくべしと、人にも申されたるよし、頼宣君御聞なされ、父和泉守高虎、公義へ讒訴もいたし候を御覚え候、ある時鷹野に白子へ御越、御物数これあり、御帰の時に、大学頭領分の畠中に芝山これあり、風景好き所あり、是にて御物数の鴨を御料理なされ、御やすみなさるべくとあり、御供の歴々、今二三里あまり御越候へば、御領分にて候と申あげ候を、御近習申上げ候へば、何と大学が領分にてやすまぬものかと御たづね、芝山の前後左右に、百姓どもひしと罷在候、いかゞと申上げ候へば、御機嫌損じ、其大学何ともおもはぬなり、皆々は大学をはゞかり候か、大学が領分にて、めしを喰ひて見るべしとて、御幕うたせ御料理、日のくれまで御滞座なり、津領の百姓ども、御幕の辺は申すにおよばず、皆鍬を地に置オープンアクセス NDLJP:57き、かしらを下げ罷在候、頼宣君仰には、大学を皆々はゞかり候てをかしけれ大学め何ともおもはぬと、再三仰せらるゝを、百姓うけ給はりぬ、藤堂家の家老どもへ申通じけるにより、津にてことの外気遣ひ申し候よし、

藤堂氏頼宣を監視す一、二三年すぎ、また伊勢の白子辺へ鷹野に御越、大学頭領分をも一ぺんに鷹使はれ候に、或在家に乗馬四五疋見ゆる御くすり込のもの参りたづね候へば、津の大学殿よりして、大納言様御鷹野なされ候間、何にても御用うけたまはれとて、士四五人附置き申さるといふ、此むね立帰りて御用入に申し候へば、即時に頼宣君の御聞に達しければ、何条大学がわが用を足さんとて、馳走に人を附置くべく候や、いか様の様子か、うかゞはんためとて、頼宣が様子を見せに出したるものなり、奴原一人も残らずうち殺せ、あますな、討とれとて、御馬に召し候へば、御供の衆、色めき渡つて、われ一にとうち立ちけるを、百姓ども見付けて、おひ告げければ、藤堂殿より出されたる待ども、五騎ながらあわてふためき、藪をくゞり堤かげへたより、這々にげて、命からにて津へ逃帰りける、御弓は矢をつがひ、御鉄炮は皆次縄をつけて、十町ばかり追ひけるゆゑ、かさねて鷹野に入らせけるには、顔出しもせざりけり、

久野宗俊の茶の湯一、久野丹波守宗俊かたへ、壺の口切に招請仕るとて、頼宣君入らせける、その前日に、因州松平相模守光仲より、御相談の儀にて、荒尾志摩参着のよし、御聞に達しければ、明朝丹波守宅へ御入なされ候間、直に御相伴に召つれらるべし、但し久野家は、むかしより武辺を専らにいたし、数寄道具は所持いたすまじく候、荒尾は他家のものにて晴なり、渡辺若狭守が所持の三幅一対、硯屏筆架・軸のもの・払子喚鐘までかし候へとある仰にて、若狭守方より道具まゐり、頼宣君にも御入なされ候、荒尾志摩向は了二軒なり、御会席御料理すみ、御手水遊ばされ、御茶の時は、丹波守手前なり、かねて千宗左にならひ置き候へども、武芸のみにて手なれざれば、手前前後になり、丹波守も迷惑の体に見え、志摩も了二も笑止に存じ候時、つくづくと頼宣君御覧なされ、荒尾に御むかひなされ、いかに志摩うけ給はれ、此丹波守祖父丹波守は、千五百石の身上にて、能きさむらひを過分に扶持したり、大坂冬御陣には、三宅惣右衛門康貞・松平紀伊守家信・久野丹波守は駿府の御留守なり、夏陣には我等に加属仰付けられ候に、黒地に朱の二ッ鴈がねの折懸のさしものにオープンアクセス NDLJP:58て、屈強の悉甲ひたかぶと五十騎、鉄炮・弓、其外一備、黒山の如くありしなり、左候へば家癖にて、茶道などの遊芸は不調法なり、とかく丹波守は茶道を渡辺一学にたのみ候へと仰せられ、勝手より一学出で、丹波守に代り、御茶をてんじける、丹波守もかたじけなく存じ候、顔色おもてにあらはれ、茶道不調法にても、名将の御助言にて、かへつて時の面目、武将のほまれなりと、了二軒直談なり、

武者奉行の任命一、其以前村上彦右衛門義清に、総軍の武者奉行仰付けられ候よし、江戸表へもきこえ、御城中にて御旗本の歴々あつまり、紀伊殿には新参の彦右衛門に、総旗を御申付候よし、御譜代古参の輩に、軍功の兵多きに、あの渡り奉公いたす彦右衛門に、武者奉行御申付候にて、紀伊殿の御心底は知れ申し候、御智慮はなき人なりと評判せしを、久野三郎右衛門かしらをふり、いや各の了簡とは天と地となり、智恵あり過ぎて、公方家へ不仕付といひつべし、その仔細は、村上に総旗を御申付候は大なる謀略なり、天下の浪人を引付くべき手立なり、紀州にては古参・新参のえらみなく、よき士なれば大役申付け候、さても末たのもしき主なりと、諸浪人におもひ付くべきはかりごとなり、さて権現様御目がねの御愛子かな、油断のならぬ人なりと申しければ、座中皆感じける、

領国入口の多少一、ある人、紀州は口々多くして、是へ手当の人数遣つては、御人数不足なりと申上げ候へば、御笑なされ、吾武威さかむなれば、百口ありてもくるしからず、敵逃げて紀州へ手出しいたさず、武威おとろへたれば、一口にても防戦なるまじ、唯国中の万人を和睦させ、武威を丈夫にするが、要害の第一なりと仰せられける、

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南龍言行録 巻之十
 
頼宣隠居

一、頼宣君御隠居所御作事、縄からげ、手塗の壁なり、仰には、人は死を知るを達人とす、六十に余り、万年の謀をするは、自の身を知らざるなり、身を知らずして、人を知る事あるべからずとの仰なり、

一、頼宣君御隠居御新宅に御移徙・御祝の御能仰付けられ候、早朝に隠居の老人ども皆々出仕する、則頼宣君御出、御対面なされ、家督を中納言殿に譲り、箇様に隠居する事、目出たき事なり、此後は皆々と茶を飲むで、遊山にて日を送るべしと御機嫌なり、布施三説進み出で仰の如く、かゝる目出たき御事、申すばかりなく候、去ながら田屋菊右衛門・淡輪新兵衛、其外古人どもは御残多く存じ奉り候、御旗にて御下知の事を拝見仕らず、是のみ残念に存じ奉り候と申上げければ、頼宣君御機嫌能く御笑なされ、老人どもが左様に申すか、扨々尤なる事なり、去ながら大坂両度の御勝利は、権現様御隠居の後にてありつるはと、御意なされ候へば、一座の老人一同に御尤と感心す、三説は卒爾を申上げ、赤面いたしけると云々、水野小衛門直談なり、

頼宣隠居後大纒を用ゐず一、関根又左衛門・渡辺六郎左衛門は、頼宣君御隠居御旗奉行に仰付けられ候、又左衛門申上げ候は、御旗は五本大中黒、御馬印は五色の御幣に極り申候、大纏は何となさるべきと、伺ひ奉り候へば、頼宣君御聞きなされ、纏は中納言殿纏を、吾は守るべく候へば、此方は入らず、帯刀・対馬・丹波・長門、同前に先を致すべし、何事もあらば、帯刀・対馬・丹波・長門に先はさせまじ、何時も乗越し一戦し、手並を見せ候はむ間、大纏は入らずと仰せられける、

頼宣の詩歌一、其以前、江戸より頼宣君御鷹場へ御越、箕沼の池に富士の水にうつりけるを見給ひて、

   誰も見よ箕沼の池に影うつるふじの高根の雪のあけぼの

また伊勢国高見巓を越え給ふとて、頼宣君、

   武士の弓矢とる名の高見山なほ幾たびも越えむとぞ思ふ

一、寛永十年正月、江戸儒者荒川景允、頼宣君の命に依りて、歳旦の詩を賦し奉る、

オープンアクセス NDLJP:60     庚戌元旦時在江都

   春入江城客夢中  一般生意十分濃  新正更喜帰期近

   須陽和我公

     和荒川景允  元旦韻       頼宣君

   修道元来莫過中  新正何用淡兼濃  春風不改千龝色

   青々相送十八公

又頼宣君御若年の時分、芳野へ御登山ありて、花を御覧なされ、終日御慰あり、其夜に入り、大雨頻にて、御徒然なりしかば、連句の御会あり、

                             浜田道廸

   不億廬山雨  為君湛百巷

                             頼宣君

   堪斟盤谷水  対客喫新茶

其外の句は略之、

頼宣の頓才一、頼宣君は頓智神速の才、世に稀にして、心の及ばざる事のみなり、船手の竹本丹後方へ御入、終日御遊宴の砌、能を竹本が太夫に仰付けらる、是は小春太夫が子にて、天王寺聖徳太子の役人、名は庄太夫といふ、是に東北を仰付けられ候へども、此庄太夫は河原者なり、囃子は御免なされ候へとて囃さず、御慰の違乱になりけるを御聞きなされ、いな事を役者どもは申し候東北の囃子を致し候へば庄太夫には東北を舞ひ候へ、両方面々に致し、除きにせよと、仰付けられ、事済むなり、又先年佐竹義慶家老戸村十太夫を召し、大坂御陣今福合戦の刻、二の目の防戦の時、戸村一番鑓いたし、御所様の御感状に、青江直次の御腰物拝領、其時鑓相手の大坂方を御尋ありしを、十太夫忙しく、しかと見留め申さず候とて、申上げず、其時頼宣君は菅沼九兵衛に御向ひ、先年我家に、山中藤太夫・赤堀五郎兵衛、今福にて筈合ひたる輩なれば、十太夫鑓相手は此輩にてあるべしと、仰せられ候時、戸村承り、私鑓の相手は、黒具足に銀の揚羽の蝶の前立物の甲にて、黒段々の竿附の小旗を腰に指し、采配を持ち候者にて候と申上ぐる、此時も御頓智にて、戸村が相手を申上げ候、但此相手は木村長門守組の物頭佐久間蔵人といふ者なり、頼宣君御一代の内、斯様の御頓智勝げて計るべからず、

オープンアクセス NDLJP:61頼宣の励精頼宣君十年詰御帰国、翌年十月、玄猪の御祝儀、末々迄御手づから、餅を一々下されけるに、其夜夥しく多勢なり、御仕廻り奥へ入らせられ候時、三浦長門守為時・佐野良庵御供して申しけるは、今夜は扨々大勢にて、御退屈なさるべく候、第一御気色に障り申すべしと、恐れながら気遣ひ仕り候と申上ぐ、頼宣君仰には、士共は此上また五層倍多く候ても、退屈はせぬなり、大将は人数に飽かぬものなりと、仰せられける、

人主の好馬一、安藤帯刀直清、若年の時分、早馬を高直にて求め、三疋迄つなぎ、朝夕馳走しけるを、頼宣君御聞きなされ帯刀を召され仰せけるは、早馬を秘蔵するは、馬好の第一なり、但早馬は傍輩と先をあらそつて、先陣をかけむ為、是は一騎合の武士の馬好なり、国主・一手の大将の馬好は、家中手勢の馬廻り面々に、馬を持つ様に、身上のすりきらぬ様にして、人馬持の多き様にするが、国主・一手の大将の馬好なり、国主・一手の大将・番頭が、我一人早馬に乗りたりとも、諸士・組子馬弱くて、我一人の馬早くても、役に立たず、家中組子の馬を強く持つ様に、下々を育みそだてるを、大将・家老・番頭の馬好といふものと仰せらる、祐生木庵を召し、漢の文帝の千里の馬を、請け給はざる所を、帯刀に読みて聞かせよと仰なり、木庵則ち通鑑を持出で曰はく、有千里馬、文帝曰、鸞旗在前、属車在後、行日五十里、師行三十里、朕乗千里馬、独先安之、遂不千里馬云々、頼宣君仰に、帯刀、是を能く聞け、能く心得よ、国主・一手の大将が、我身一人の馬好は、尤とは申しがたしと、仰せられける、

大将の一言一、原田権之助といふ士、或時頼宣君の御前へ罷出で、今朝独り案じ候に、大将の御一言は、大事の儀に御座候、其仔細は、千金を下し置かれ候とても、其金にて二つなき命を捨て申さず候、一言の御意には、忽命を捨て申し候、さるにより、大将の御一言が、大事なりと存じ候と申上ぐる、頼宣君兎角の仰はなくして、時服を権之助に下されけるなり、

頼宣浪人を懐附す一、近国他国に名あるもの、地侍其外にも、内々にて御合力下され、何事にてもある時は、御用に立たむと申す輩数十人あり、美濃国小栗野には、後藤又兵衛年房が組、山田外記入道して永哲といふ、是にも御内証にて、御合力下さる、覚ある兵故なり、伊達源左衛門次男角左衛門をも、病者と聞し召され、仰にて泉州中村に田地を御求め下され、成田庄次郎婿になされ、卜玄と名を替へさせ、御差置きなされ候、鉄炮オープンアクセス NDLJP:62二十挺並に足軽具足・羽折・指物迄下し置かれける、何事ぞある時は、御用の為なり、勢州・和州・河内・江州・山城・丹波・摂津に、斯様の輩其数を知らず、若し事起る時は、江戸の御手遣以前に、公儀へ一簾の御奉公なさるべしとの御心懸にて、如此といへり、渡辺推庵〈勘兵衛、石川主殿頭浪人弥兵衛事なり〉・中黒道随・市川作右衛門・二見密蔵院〈高野法師〉・二宮右近 〈武清家浪人なり〉・三輪采女・大河内茂左衛門・三刀谷監物〈尼子毛利家士なり〉・鹿児島治部左衛門〈上杉浪人〉など、名ある浪人には御合力あり、中にも高庵へは、〈前方御改易、後御合力下さる、高庵は甲州館林城主榊原式部大輔康政孫、〉二百人扶持の御合力あり、龍造寺主膳は、御国中に御隠置きなされ、亀田大隅へは内藤権之助を以て、御音物等遺され、岡見中務をば、渋田に御差置き候、御扶持あり、其外は地侍・大庄屋共、近国の中に御懇意の者幾人もあり、高野山には、衆徒中にも御懇の輩多し、比叡山には浴室を御建て、風呂の薪料御寄進なされ、明日にも何事出来候とも、国々手合の御手立ありて、其計策勝げて計るべからず、天下大変出来候とも、五畿内近辺御打随へ、公方家への御奉公、一廉なさるべき御覚悟なりけるとぞ、仮初にも公方様の御事仰せられ候時は、御頭巾を御ぬぎ、御膝を御直し給ふ、真実忠貞の御心入、少しも怠り給ふ御様子なかりけるなり、

頼宣公子の柔術稽古を戒む一、伊丹三郎右衛門直談せしは、光貞君御若年の時、関口柔心がやはらを御学びなされ、朝夕三郎右衛門、其外若き侍ども、御相手に相成され候、或時御稽古の体を、頼宣君御覧なされ、三郎右衛門を召し、密に仰せられ候は、柔・捕手は葉武者のする業にて、大将あながち執行すべき芸にあらず、只大将は国家治め、士卒をなづけ、戦場に於て、懸引勝負の所を、昼夜工夫する所大事の所なり、楚の項羽は劒術を覚えて、見て申さるゝは、劒は一人の敵、学ぶに足らず、万人の敵を学ばむとて、兵道の法を学び、項梁を佐け、既に天下の大功を顕はされけるとかや、古より大将の柔・捕手を能くいたし、軍に勝ちたる事も、天下を取りたる事も聞かず候間、宰相にも大方にいたすやうにと申すべき旨、仰せられける由、伊丹が直談なり、

名所奪蹟の保存一、或時新田開の場所を見立つる事あり、和歌浦近辺、其外方々七八箇所絵図にいたし、奉行其外役人、頼宣君御前へ持参いたしけるを御覧なされ、仰せられけるは、我勝手の便に宜しく候とて、名ある池を埋め、名ある山を掘崩し、田畠にいたすまじく候、ことに二十一代集の歌に入り、名寄に書載せたる名所旧跡をば、堅くいらふべからず、末代に至りて、紀伊大納言は新田を開き、利欲の為に、歌集に入り、詩オープンアクセス NDLJP:63文に載せたる名所旧跡を、新田の田畠にいたしたり、扨々愚蒙人にてありけるよと、末代に我を嘲り、恥を末世に残し、万人の笑にならん事、掌を指すが如し、必ず必ず名木を切り、名池を埋め、名所旧跡を新田にいたす事、努々致すべからずと、急度仰付けられ候、先年布引の松枯れ候時、殊の外御惜みなされ候、様々の薬を仰付けられ、何卒枯れぬ様にと、種々仰付けられ候なり、さるにより度々役人を遣され、御領国中の名所ども、御穿鑿ありて、其跡の絶えぬ様になされける、

軍法鞘一、或軍者脇差の鞘に引出しを仕込み、一歩判の金子を並べ入れたるを、軍法鞘と名付けて差上げたり、頼宣君御覧なされ、重宝なる道具なり、秘蔵の事なりと、御納めなされ候、又炬火を幾品もくゝり、差上げたる族もあり、何れも御賞翫なされ候故、差上げ候輩は、君の御信仰御用と心得たり、或時相公光貞君へ、軍法鞘・炬火を御見せ候て、御笑ひなされ、一国の大将の身にて、鞘にからくり入れたる金子一歩判が、用に立つべきか、是又少身もの・歩行の者などのなすべき物なり、炬火も時には依るべきなれども、義経の三草山を越えらるゝごとく、道中の在家共に火を懸けて其あかりにて、大事を推したる大炬火に、勝りたる物なし、軍法鞘・矩火など、我見て役に立たずといへば、重ねて兵器を拵へて差上ぐる者なし、重宝に思ふ顔にて居る事、大将の心得なりと仰せられける、総て道具に寄らず、主人の心に叶ふ様に佞人は致し、気に入る様に申してだます物なり、一人の致す事をば、実と信用すべからず、外のさたを聞合せ念を入れ、だまされぬ覚悟専一なりとの仰にて、御わらひ候となり、

頼宣本多氏の士を招く一、頼宣君天下の名士をあまた抱へ給ひける、爰に三浦竹蔵といへる功の武士、本多中務大輔家に五百石を領し居けるを、頼宣君御内証より御招ぎ、千五百石にて召出さるべしと、ありければ、本多家の暇を首尾能く申しなし、家を出でけれども、直に紀州へも参りがたければ、勢州桑名は本多家の旧領にて、好みの者多くありければ、こゝに暫く罷在りける、其頃本多美濃守忠政、播州へ帰城の時、桑名にて忠政の供いたしける伊藤八郎右衛門を呼び給ひ、此所に三浦竹蔵居り候と聞きたり、刺殺して参れとありければ、八郎右衛門、主の命黙止しがたく、畏り候と、供の行列を外し、後へ下り、竹蔵が宅を尋求めて行きたりけるに、頼みを乞ひて申入れけるは、某は伊藤八郎右衛門といふ者なり、打絶え御目に懸らず候、御なつかしくオープンアクセス NDLJP:64候まゝ、旅行の序なれば、ちよと音信申すなりと、いひ入れければ、竹蔵其弊を聞きて、内より出で、扨々久々にて逢ひ申したり、よくこそ尋ね給はりたり、御自分ならでは尋ねくれ候まじ、先づこなたへと、請じけれども、伊藤いふ様は、余りなつかしく思ふ故、ちよと尋ねたり、先以て御息災にて一段なり、美濃殿供にて姫路に赴くを、頼みて来りたれば、さうしては居まじくといへば、竹蔵、暫くなりとも上り給へといふにぞ、玄関へ上りける、茶のたばこのと、もてなしける時に、向ふのかたに、熊毛の泥障懸ありけるを、伊藤見て、扨々見事なる事かな、是はいつ頃求め給へるや、今迄我等は見ぬなりといふ、竹蔵、さればよ、此頃求めたり、我等も自讃にて侍るといふ、八郎右衛門も讃美して、とてもの事に、はづしてよく見せ給へといへば、竹蔵、兵ながら両手をあげて、竿に懸けたるをはづしけるを、八郎右衛門うしろのかたより、細腰の所を、刀を抜き、刺通しければ、竹蔵、心得たりとて、脇差抜きはらひければ、伊藤は小男にて、脇にひらきはづし、返す太刀にて首を刎ねける時に、喧嘩と家内騒動す、其子十八歳にて、是も父に劣らぬ大兵にて、三尺余りの太刀を抜きかざし、伊藤真二つと拝み打に、無二無三に切懸りければ、其太刀鴨居に切込み、抜きかぬる所を、伊藤、彼が首をも打落しける、其時竹蔵が若党共、刀抜き連れて、二人出でけるを、伊藤大の眼を開き、白眼み付け、推参なる奴原かな、一人にても手向ひせば、一々首を刎ねむと、詈りければ、其猛勇に恐れて退きける、竹蔵が首を持ち、飛ぶが如くに走り行き、忠政の駕に追付きたり、則竹蔵が首を取り参りたると、申しければ、出来したり、夫へ捨てよと申され、道のかたはらへ打捨てたり、竹蔵は其長六尺余にて、大兵の剛の士なり、本多家をいとま取りけるに、甚惜しみ給ひしを、むりにいとま取り、紀州へ高知にて出でけるを、聞き給ひけるとなり、

〔本条拠一本補〕

人主の為政一、丹羽郷左衛門御勝手の儀を申上げ、奉行共も御為を大事にと致し候由、申上げ候へば、頼宣君仰せられ候は、諸士下々民百姓の痛まぬ様に、上に思付く様にするが御為なり、諸人迷惑がる事を致し、御為といふは、大きなる誤なり、大名のすりきり滅亡したるは聞かず、下々諸人をくるしめ、身上滅亡したるは勝げて計るべからず、能々心得べしと、仰せられけるとぞ、総て国主は一人二人の言を聞きて、宗と定むべからず、善悪共諸人の口を、聞合せて決定すべし、佞人は主君をだますオープンアクセス NDLJP:65ものなり、国中の苦み痛む事をも、佞人痛まぬと申す事あり、一人の口を信用すべからずと、度々御意なり、

此録不何人作也、元出海善寺方丈、青木氏〈四郎左衛門〉懇望、覓得之焉、憚々世之証責、秘蔵不敢出書函、青木氏没後、神戸某〈佐左衛門〉得之、而蔵干家者、数年干茲、神戸没無嗣、寡妻鬻干商夫、因玆得写焉、惟其此録者、梅渓李氏作也、李老閑居江西、又海善寺李氏墳墓之地、姑俟後生之識者云爾、

 

南龍言行録大尾

 
 

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