南部朝鮮の方言/參考論文

第四編 參考論文

一、新羅語と慶尙北道方言

慶尙南北道は新羅の故地であつて、該地方には今尙ほ千餘年前の古語を存すとはよ く世人のいふ所である。余は余の見る所に從つて該地方の方言を觀察し、同學者の 批評と示敎とを仰ぎたいと思ふ。

慶尙南北道は新羅以前三韓時代に於ては大體弁韓・辰韓に屬した。弁韓の言語に關 しては「魏志東夷傳」中に

「弁韓は辰韓と雜居し、亦城郭あり、衣服居處辰韓と同じ。言語法俗相似たり。 云々」

とて弁韓は辰韓語と相似たるものあることを述べて居るが、「後漢書」には

「弁辰は辰韓と雜居し、城郭衣服皆同じく言語風俗異なるあり、其の國倭に近し。 故に文身する者あり。云々」

とて兩語の間に差異の存して居ることを述べて居る。

又辰韓の語に關しては同じく「魏志東夷傳」中に

「其の耆老世々傳へていふ、古の亡人秦役を避けて韓國に來る。馬韓其の東界の 地を割いて之に與ふ。城柵あり。其の言語馬韓と同じからずを名けてとし、 とし、とし、行酒行觴とし、相呼ぶに皆とし、秦人に似たるあ り云々」

とて辰韓語の秦語卽ち支那語と相似たるものあるを論じてあるが、朝鮮の古書中に も此の說に從ひ、

「辰韓の耆老自ら言ふ。秦の亡人苦役を避けて韓國に來る。馬韓其の東界の地を 割いて之に與ふ。言語秦人に類するあり或は之を秦韓といふ。云々」(東史綱目

「慶州は古辰韓の墟なり。言語風習頗る中國に類す。云々」(星湖僿說

などの如く述べて居るものも少くない。併しながら吾人は辰韓語と支那語との間に 密接なる系統的關係の存したものであらうといふことはどうしても信ぜられぬ。國を邦といひ弓を弧といふが如き比較は決して兩者の類似を說明する有力なる資料と はならぬのである。恐らくは秦の亡人投來の說に惑はされ、且つまた秦辰同音の故 を以て兩語の間に關係を求めたものであらう。

要するに馬韓語といひ、弁韓語といひ、辰韓語といひ、從來其の間の系統的關係の 有無に就き論ぜられたものがあつたにせよ、吾人は此等の言語は最も密接なる關係 の間にあり、互に方言的性質を有して居たものと信ずるのである。語學上の考察の 幼稚であつた昔時の人々が、方言的關係に立てる兩言語を全然別箇の言語として取 扱ひ、又全然別種たるべき兩種の言語を同一系統の言語と見做した類は、吾人の屢 々語學史上に於て見る所である。

次に新羅語とは何であるかといふに、三國對立時代及び半島統一以後の新羅國の言 語を指すものであることは勿論である。而して新羅の言語は國運の發展に伴ひ漸次 半島內に行はれた各種の言語を抱容し、可なり完全な一國語を形成するに至つたけ れども、其の根本をなす主要なる成分は新羅發祥の故地慶州地方に行はれた言語に基礎を置いたのである。つまり新羅語は其の淵源を半島南部に求め得ると同時に、 前述せる辰韓語の後を承け、又弁韓馬韓等の言語と最も密接なる關係を有して居た ものと見ることが出來るのである。而して新羅の半島を統一するや、其の勢力國內 に普く、次いで興起せる高麗及び李氏朝鮮も大體に於て新羅の地を繼承したので、 高麗及び李朝時代の朝鮮語なるものも大部分新羅語の直接の系統を引いたものとい はねばならぬ。朝鮮語に於ける新羅語の價値は正に印度歐羅巴語族に於けるサンス クリツトと對比すべきものであらう。

新羅語!何といふ優しい美しい名であらう。古人は自分の言語の傳統を明かにし、 自分の祖先の文化を知らんとして、幾人となく新羅の言語の研究に沒頭した。「尼師 今」とは何であるか、「居西干」とは何であるか、「麻立干」とは何であるか、「徐那伐」 「健牟羅」とは何であるか、數へ來れば其の數極めて多數に達し、中には其の意義 の解决せられたものもあり、又懸案のまゝ後世學者の攻究を待つものも少くない。 吾人が此等の言語に對する故人の學說を紹介し、且つまた吾人の卑見を陳述して識者の高敎を仰ぐことは、學問上極めて重大にして意義ある事柄ではあるが、問題が 餘りに廣汎に亘り、本篇の趣旨に合せぬ虞があるから、玆では單に今日方言として 存するものの中、新羅時代乃至其の言語にして古語の系統を引けるものと認むべき 若干の語彙に就き說明を加へようと思ふ。

慶尙道方言に關し、古人にして觀察を下したものが一二無いではない。正祖朝の學 者李德懋の著はせる「靑莊館全書」中「新羅方言」と題して

「官長と爲り、能く方言に習はば俗情に通ずべし。余初め尙州に到りし時吏隷の 言解すべからず。蓋し新羅方言なり。余の言吏隷亦曉る能はず、事謬錯多し。幾 くもなく余方言に習熟し、遂に方言を以て民に臨む。嘗て糴を收めて倉に納む。 余試みに官隷に分付して曰く、居穉完からざれば羅洛必ず漏る。請以を以て簸𩗺 して然る後に沙暢歸を堅く縛り、丁支間に納めよと。適ま京客坐に在り、口を掩 うて笑つて曰く、是れ何の語ぞと。余一一釋訓して曰く、居穉は苫なり、羅洛は 稻なり、請伊は箕なり、沙暢歸は藁索なり、丁支間は庫なりと。」

とあるが如きは其の一例である。蓋し玆にある 居穉音거치、今京城地方では거적といふ羅洛音나락、慶尙道地方では今も一般に稻を나락といふ請伊音청이、京城地方では箕を키といふが、청이は其の轉訛である。今日でも慶尙道地方では쳥이又は체・치の如くいふ沙暢歸音사창귀、此の語未詳丁支間音뎡짓간、今日京城地方では厨房を정짓간といふ) 等の語は當時の慶尙方言を寫したものである。余は此の例に 倣ひ慶尙道方言中の特種なる單語若干を擧げて說明を加へ、更に語法上の隱れた現 象に就き觀察を與へ、以て該方言が朝鮮語の古形を傳へ、由來する所亦極めて悠久 なるものの存することを明かにしたいと思ふ。

  • 가신애(女兒) 俗說に嫁僧兒の義、新羅時代女兒は必ず一度假嫁の風習あつたこ とより起つたといはれて居るが當にならぬ。「盎葉記」(李德懋)には此の語の起原 を說いて

    假厮兒 金史后妃傳に海陵の時諸妃位皆侍女をして男子の衣冠を服せしむるを 以て假斯兒と號す。我が國方言男子を稱して斯那海と爲す。蓋しにして新 羅を斯盧と稱するが如し。陽城李氏祖先に那海を以て名と爲すものあり。慶尙道 女を稱して假斯那海といふ金人我が國と界を接す方言或は相同じきもの有らん假厮兒と假斯那海とは其の音訓相近し

    とて金語と語原を同じうするものならざるかを論じて居るが、これまた研究を要す る。睿宗實錄元年の條に「稱李爲威陽加氏」とある文の註に「俗號姬妾爲加氏」とある 加氏(가시)の如きも此の語と關係あるものではなからうか。

  • 나락(稻) 中部朝鮮以北には通用せられぬ語である。李德懋の「靑莊舘全書」にも 「羅洛者稻也」と註してある。此の語の原義に關しては「東寰錄」に「今嶺南湖南人 謂稻曰羅祿、或云新羅廩百官用稻代米故云」と說いてある。
  • 기울(鶴) 거의(鵝)を嶺南の多くの地方では게우・기우などいふが、浦項附近で は之を기울といふ。「三國史記地理志巨濟郡鵝州縣の條に

    州縣本巨老縣、景德王改名今因之」

    とあるが、巨老は音거로で鵝の訓に當るものなるべく、方言の기울はは蓋し當時の古 語を傳へたものであらう。

  • 거링(細流) 「細流の水」を걸물ともいふ。慶州・義城地方に於て聽取した。「三Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/174Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/175Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/176Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/177Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/178Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/179Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/180Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/181Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/182Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/183Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/184Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/185Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/186Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/187所を補ひ、共々に朝鮮語の歷史的調查に向つて研究の步武を進められんことを。

    二 朝鮮語の歷史的研究上より見たる濟州島方言の價値

    余は明治四十四年全羅南道濟州島に赴き、方言の調查に從事し、其の結果を大正二年 三月發行の「朝鮮及滿洲」誌上に發表したことがある。併しながら當時に於ける朝鮮 語に對する余の知識は今日以上貧弱なものであり、同島方言の學術上の價値を云々 するに足る自信と勇氣とを有しなかつたので、幾多の貴ぶべき資料は徒らに篋底に 藏せらるゝ狀態にあつた。然るに其の後余は各地に亘つて方言を調查する便宜を與 へられ、又多少朝鮮の古書に就き朝鮮語の歷史的變遷をも考察する機會を得つゝあ るので、篋底の至寶を空しく放置することの、自己の責任を永遠に果さざるの議りを 免るゝ能はざるを感じ、自ら良心の呵嘖に苦しめらるゝこと久しきに亘つた。余が玆 に該島方言の語學上の價値に就き一言し、江湖の叱正を仰がんとする所以も、此の點に存するのである、此の小篇たる余の現在に於ける朝鮮語に對する淺薄なる知識よ り割り出されたものであるから、固より誤謬の多かるべきを覺悟して居る。余は此 の點に就いては今後自ら硏究の步を進め幾多の補正を加ふべき機會の到來すること を信じて居る。本島の方言を論ずるに當つては、之を音韻・語彙・語法の三方面から觀察する必要 がある。

    音韻に關しては特に論ずべきこととては無いが、諺文「ㆍ」の發音は大いに注意を要 すべきものがある。「ㆍ」は現在半島大部分の地に於ては아と同樣に發音せられ、或る 一部の地方に於ては오と同樣に發音せられる。例へばᄆᆞᆯ(馬)・ᄑᆞᆺ(小豆)の如き語は 朝鮮大部分の地に於ては말・팟と發音せられるが、全羅南北道・慶尙南道の或る地 方にありては몰・폿の如く發音するのである。然るに濟州島に於ける「ㆍ」は「아」にも あらず「오」にもあらず、어と오との中間音である。元來「ㆍ」の原音の如何なるもの であつたかに關しては從來種々の說が行はれて居るが、余の信ずる所では오或は우Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/190Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/191Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/192Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/193Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/194Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/195Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/196Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/197Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/198Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/199Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/200Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/201Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/202Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/203Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/204Page:小倉進平『南部朝鮮の方言』.djvu/205

    • 기영하(かうする故に)

    此の매又は메のㅁは名詞形を作るに用ひるもので、매又は메は諺解等に用ひられて 居る。

    一九、

    거든(ならば)に當る語である。

    二〇、

    疑問の助詞で、目上に對して하느냐고、가느냐고と問ふ場合の느냐に當る語である。

    現在 過去 未來
    해염수켄‥‥‥ 햇수켄 ᄒᆞᆯ쿠켄

    켄は疑問の助詞가の轉訛したものであらう。而して同輩に對する場合には듸앤なる 語を用ひる(듸인の條參照

    二一、

    動詞の連用形として用ひられる。
    • 오람수다(爲て來ませう)
    • 갑셔(見て行きなさい)
    • 보랜ᄒᆞ엿수다(行つて見ようと言ひました)。
    • 보앗수다(寢て居て見ました)。
    • 門을열노라(門を開けて置け)

    此のㅇは歷史的に意義あるものでなく、單に音便によつて添加したものと思はれる。

    二二、結び

    要するに濟州島方言は音韻・語彙・語法何れの方面より見るも朝鮮語の歷史的研究 上頗る重要なる價値を有するものたることを知るに足るべく、此の一小篇が幸にし て今後の朝鮮語研究家の一助たり得たならば余の最も欣幸とする所である。

    三 對馬方言と朝鮮語との交涉

    一 對馬と朝鮮

    對馬は國史の語る所によれば大八洲の一に數へられる程の古さを有して居る。然る に朝鮮側の記錄によると

    對馬爲島本是我國之地、但以阻僻隘陋、聽爲倭奴所據、云々。」(魚變甲の「征對馬島
    敎書
    」(東文選)所載

    對馬爲島隷於慶尙道之鷄林本是我國之境、載在文籍、昭然可考。云々」(卞季良諭對馬州東文選)所載

    對馬州奮隷我鷄林、未知何時爲倭人所據」。(東國興地勝覽

    「在伏見時、執政大炊問曰、馬島本是朝鮮地方(中略)然乎。小的答曰、未能詳知也。 然而以道路遠近言之、則馬島之於日本則遠矣。朝鮮則唯隔一海、得半日可徃還耳。 大炊曰爾島必是朝鮮地方、宜勉力於朝鮮事、云々」(李石門扶桑錄」)

    舊是我國地方、而不知何代沒於日本」(金東溟海槎錄」)

    伊昔鷄林之國全盛時馬州屬我版籍、無東憂、何年甌脫反入蠻子手。云々」。(趙龍州東槎錄」)

    等の如く該島が舊く朝鮮に隷屬したことを記せるものが多い。併し之は全然信憑す るに足らぬ。こは恐らくは對馬の地が瘠薄にして米穀を產せず、其の需要の大部分 を朝鮮に仰かねばならなかつた經濟上の事情を誇大したに起因するものであらう。

    二 對馬方言と朝鮮語

    對馬と朝鮮とは上述の如く古くより密接なる關係を有して居た爲め、言語の上にも 交涉が行はれたことは之を否定することが出來ぬ。吾人は對馬方言が朝鮮語との混 淆語であるといふ說を屢々耳にした。古く朝鮮の書籍中にも

    「對馬一岐等島、與我國相近。風俗言語甚不相遠。以此聞兵亂之時我國避亂之人 遇對馬之人則必生、遇他島之人必死。我國之人亦然。雖値方戰之時、知對馬之人 則皆不欲殺之矣」。(亂中雜錄

    などあつて、彼我言語の性質の相遠からざるものあることを論じて居る。余は此の種 の記事を見て以前から奇異の感に打たれて居た。然らば對馬方言と朝鮮語との間に は事實上如何なる程度の系統的關係が存して居るか、又關係が無いにしても該方言が內地の何れの地方の言語と密接なる關係を有して居るか等の事柄を確實にする爲 め、余は大正三年夏期休暇を利用して該島に旅行し、該島方言の一般を調査した。 今玆に述べんとするものは當時の調、査結果の一部である。

    三 對馬方言槪觀

    對馬方言と朝鮮語との交涉を記述するに當り、吾人は先づ國語上に於ける該島方言 の位置を明かにして置く必要があると思ふ。抑も對馬は島内到る處に山嶽起伏し、隣 村との交通にも一二の山を越えねばならぬ狀態にあるので、言語の如きも各村によ つて多少づゝの相違がある。南方などは交通が最も不便であるだけに、言葉の 訛りも最も甚だしいといはれて居る。

    余が該島方言調査の方針は發音・語彙・語法の三方面から研究するにあつた。何れ も材料は相當豊富に採取せられ、興味ある事實の發見も少なくなかつたが、其の精 細を一々茲に紹介することが出來ぬ。故に本篇に於ては發音と語法との二項に就き 簡單なる說明を加へ、他地方の方言との比較に便しようと思ふ。(詳細に亘つては大正三年十一月及び大正四年三月「國學院雜誌」を參照せられたい)。

    1. 發音 著しく相違したものとてはないが、對馬のラ行音は一種異樣の發音を有 して居る。卽ら「あます」「こが」等の如きすべての「り」「れ」、又地名「さじきばら」 「しもばら」等に於ける「ら」は、何れも「る」の如く發音される。而して此等を十分注意し て聞くと决して「る」ではなく、全くLの音に相違ないのである。つまり「ら」・「り」・ 「る」・「れ」はすべて母音を伴はざるL音に發音されるのである。例へば「しもばら」は shimo-bal「あります」はal-masu「見る人」はmil-hito「これが」はkol-gaと發音 されるのである。「下ばる」・「あるます」・「こるが」と聞えるのも全く此の理由に基 くものである。朝鮮人康遇聖の著にかゝる日本語學書「捷解新語」の初版(康熙十五年)に 「すこし不足なとも」(不足なりとも)、「御とうの時」(御通りの時)、「こがかどやまひではな し」(之が假病ではなし)、「きかしらても」(聞かせられても)など「り」・「れ」を「る」と書けるものが多 い。康遇聖は通事として屢〻日本に赴き、對馬にも徃復した人であるから、本書 の誤も或は對馬方言を傳へたものとも考へられる。兎に角此の島の方言に母音を伴はざるL音の存することは、日鮮語比較上注意すべきことである。

      其の他二重母音ヂフソングのaiが開口の「エイ」となり(例、「ひました」を「けいました」、「かひ がら」を「けいがら」)、auが「オウ」となり(例、「ふ人」を「こう人」)、uが「エイ」とな る(例、「ぬぐひ」を「てぬげひ」)傾がある。

    2. 代名詞 人代名詞第一人稱には「わたくし」(目上に對して)「おれ」(同輩及び目下に對して)、第二人稱には「お まへさま」・「あなた」・「あなたさま」(目上に對して)「お前」・「おし」(同輩及び目下に對して)、第三人稱に は「あれ」・不定稱には「だ」・「だれ」等を用ひるのが普通である。これは勿論極く大 體の話で、詳細に述べれば益々複雜になるから茲では略して置く。すべて對馬に は今日でも士族平民の階級的區別が暗々裡に行はれて居るので、それがやがて言 葉の上にも現はれ、人代名詞なども非常に複雜な用法をして居るのである。指示代 名詞は著しい相違が無い。

    3. 形容詞 副詞形が常に「う」であるから、「山が高見えます」。「遠ござります」 の如くいふ。假定形に「ば」が附くと「善けりや」・「高けりや」の如く「りや」の形を生ずる。

    4. 動詞 下二段活用言の未來は「受きょう」・「ちょう」の如く、ヤ行の拗音となり、 終止及び連體形は多くは「受くる」・「立つる」、命令形は「受けい」・「立てい」が一 般で、中には「ろ」を附する處もある。

      上二段活用言の未來も「ぎょう」の如くいひ、終止連體形は「過ぐる」が多きを占めて居る。

      其の他上一段「著る」の未來には「きょう」の外に「きろう」、命令形「きい」の外に「著 れ」といふ形の存するのを見ると、「著る」は對馬では四段にも活用したらしく、又 下一段「る」は四段にも活用し、カ行變格「」の未來は「う」となる如き現象が ある。

      又假定の意味をあらはすには「なら」(行くなら)・「のと」(本を讀むのと。遠くへ行かんのと。)・「ちや」(受けちや著ちや) 「ぎりいにや」(行たぎりいにや。來るぎりいにや)が多く用ひられ、旣定の意味を表はすには「けんどん」 (又、けるろむ)(行たけんどん。行くけるろむ)・「ばつて」(又、ばつてん)(行たばつて。行くばつてん)「け」(行くけ。見たけ)が多く用ひられる。命令形は多くは「讀め」・「受けい」・「落ちい」・「い」・「い」・「 い」の如くいふが、「受けろ」・「ろ」の如く「ろ」を附する所も少くない。又或地方で は禁止的命令に「行ちや出來ん」・「見ちや出來ん」の如き形を有して居る。

    5. 助動詞 使役の助動詞の未來はすべて「しょう」(書かしよう。爲(さ)しよう)、終止・連體形は「す る」(書かする。爲(さ)する)が多く、受身及び可能の助動詞の未來はすべて「りょう」(書かりよう。爲(さ)りよう) 終止・連體形には「る」・「るる」の兩形が最も多い。指定の助動詞は「ぢや」で、時 の助動詞中過去の否定には「ざった」(行かざつた。見ざつた)を用ひる。又尊敬の助動詞「る」・「ら る」の未來はすべて「りょう」終止・連體形は「る」・「るる」とも多く用ひられる。 現在進行を敬語にしたものには「をらる」(又、よらる)(行きをらる。行きをらしやる)を用ひる。但 し嚴原其の他大きい港などの言葉は著しく近代的色彩を帶びて居ることは注意す べきことである。

    以上略述した語法上の特質を瞥見すると、誰しも對馬方言の九州北部方言と著しい 類似を有することを知り得るであらう。對馬が地理上日鮮兩國の中間に介在し、特に經濟問題に關しては朝鮮と最も密接な る關係を有して居た關係上、朝鮮側の記錄に於て該島の朝鮮所屬說が生れたことは 旣に前にも述べた通りであるが、人類學好古學上の結論は別問題とし、今日の言語 現象より之を觀察する時は、兩語の間に國語(內地諸地方の言語)と對馬方言との關 係以上に一層密接なる系統上の關係あることを認め得ぬのである。勿論有史時代に 至りては、古く新羅人が對馬に漂流し又は入寇した等の事實は屢々彼我の史乘にも 現はれて居るし、又近世に至つては通信行使、通商貿易等のため徃來したものも多 かつたから、朝鮮語の或ものが絕えず對馬方言中に侵入したといふことは否定する 事が出來ぬ。併し此等の事たる全く一時的のものであり、且つ移動者の數も全體から 見て極めて少數に過ぎなかつたのであるから、單語の輸入はあつたにしても、根本 的に語法上の規則を覆す程の勢力があつたものとは考へられぬ。從つて朝鮮語と對 馬方言との間に頗る密接な關係があるなどいふ說は今日の立場からしては決して口にすることが出來ぬと信ずる。故に余は本篇に於ては兩語の系統的關係を論述しよ うとはせぬ。唯對馬方言中朝鮮語と斷定し得るもの、又朝鮮語ならんと推定し得る ものの數種を擧げ、其の交渉史の一事例としようとするに過ぎぬ。但し中には交通 貿易上の用語として舊記にのみ散見するものもあるが、其等も參考のため茲に併記 することにした。

    • がん道・京畿けぐい道・けぐしやぐ道・ちぐせぐ道・ちゆる道・はぐはい道・はむげぐ道・あん道。以上八道 の讀方は對馬で書かれた「集書」なる書に散見して居る。此の八道の名稱は讀方に 多少の相違があつたにしても、壬辰役以來我が國人によつて膾炙せられ、德川時 代の國語辭書等にも屢現はれて居る。併し對馬では今日斯る呼法をせぬ。
    • かんぼく。公貿易のことである。何れの書にも皆「かんぼく」とあるが、今日は使用せら れぬ語である。
    • せぎ。對洲から朝鮮に向つて產物を請ひ受けることであるが、これまた廢語である。
    • しけ。物を負ふに用ひる器具。形は朝鮮のチゲ(지게)と略同一で、名稱も朝鮮語の轉訛である。但し今日は山地にのみ用ひられる。
    • せんさん。「せんさき」又「せんさく」ともいひ、防波堤のことである。これ亦朝鮮 語「船滄」(션창)の轉訛であらうと思はれる。「集書」には「船滄內法」として「西よ り東まで幅七拾八間半御一番所前波際より向船滄まで北より南まで堅百二十二間上の船滄、船滄浦口三十 四間四尺」などあり、又「和交覺書」なる書中には、このごろ舟を繫ぎ難しと云を以て改 めてセンサウを築く」・「且貴州の懇望により改めてセンサウを築く」・「是によりて其後セン サウを築く」などあつて、其の中の一箇所には朱筆で「センサン」と假名を附し、又 他の二箇所には各々朱筆で「フナヤ」、「フネツナギ所」と註してある。「センサン」は 朝鮮語船滄(션창)の轉記であることは明かである。
    • 使。德川將軍家又は對州宗家から送る特送船の總稱であるが、對馬邊では其の 朝鮮音を訛つて「そさ」といひ、日本語としても可なり廣く用ひられたらしい。
    • とぐ。「集書」其の他の書にも此の語が散見する。朝鮮字音の轉訛である。
    • ねんがみ。「令監」(령감)の訛りであつて、今日でも朝鮮人は內地人を指して「ねんがみさん」と言つて居る。老人の話によれば、對馬では古くから此の語を使用し たといふことである。
    • はえ。海邊の淺瀨にあり、潮の干滿により見えつ隱れつする暗礁の如きものをい ふ。岩石の海中に突出せるものを「出ばえ」といひ、又此の岩石に群棲する一種の 蟲を「はえ蟲」といふ。此の「はえ」なる語は朝鮮語바위(岩)の轉訛と思はれる。
    • はん。役名であつて、朝鮮字音の轉訛である。今日は廢語である。
    • ふんだう。昔時通譯の任に當つた役人の職名で、「和交覺書」其の他の書に散見する。こ れまた朝鮮語の訛りである。
    • べるさい。訓導に隷屬した役人の職名で、前條訓導と合稱する場合にはふんべるともいつ た。

    右の外小なることを「ちよっこめい」といふのは朝鮮語젹다(小)の轉、小兒が火を指し て「ぷ」といふのは불(火)の轉、食ふことを「むくる」といふのは먹다(食ふ)の轉であ るといふ者もあるけれども、此等は必ずしも朝鮮語の力を待たねばならぬやうにも考へられぬ。此の他近來朝鮮對馬間の交通が日に增し頻繁になつた結果、「ちょんが」 「ぱあさぎ」・「よぼ」等の朝鮮語が盛んに侵入して行く。

    五 朝鮮語に及ぼした對馬方言の影響

    以上は專ら對馬方言に及ぼした朝鮮語の影響を略述したのであるが、吾人はまた其 の反對の場合をも考へて見る必要がある。きざみ煙草たばこを기사미、帽子を삿보、車を구루 마、洋燈ランプを란포、靴を구두などいふ類は何れも日本から傳來した語であることは何 人にも想像し得るが、比較的傳來が古く且つ傳來の經路の興味あるのは고구마(甘 藷)なる語である。しかも此の語が對馬の方言に出でたるものなることを知るに於 て、特に茲に高調して紹介する必要を感ずるのである。

    甘藷は初め支那から琉球に、琉球から薩摩に、薩摩から內地各地方に傳播した。甘 藷にからいも・琉球藷・薩摩藷等の別名があるのも之が爲である。此の藷の琉球に傳つ た年代に就いては種々の說あるが、薩摩に傳つたのは元祿十一年(西紀一六八九)頃とせられ て居る。而して此の藷の內地各地方に廣まるに至つたのは薩摩傳來後三十餘年後たる享保年間の事で、主として井戶平左衙門ママと靑木昆陽との力によるものなることは 誰しも周知の事である。然るに之が對馬に傳來したのは正德五年(西紀一七一五)の頃であつ て、元祿十一年を去る僅々十八年後の事である。對馬に於ける甘藷傳來の如何に古 かつたかは此の一事を以ても知ることが出來よう。

    扨て甘藷が如何なる經路を取つて對馬に移入せられたかは甚だ興味ある問題であ る。元來對馬は平地少なく、土地瘠せ、水田にも乏しいから、一度飢饉の威を逞しうす る事あらば、庶民皆手を束ねて死を待つより外無かつた。此の民の患苦を救濟すべ き大使命を帶んで世に現はれたのは實に陶山訥庵先生其の人であつた。訥庵は儒者 として世人の尊崇を受けたのみならず、偉大なる經世家として記念すべき大事業を 遺したのである。彼れ嘗て宮崎安貞の「農業全書」を繙き、安貞の甘藷に關する記事 を見、對州に於ける饉災を防ぐには甘藷の效の著しかるべきを覺り、直ちに之を薩摩 に求めしめた。然るに當時薩藩では他に之を傳へることを禁じて居たため、之を得ん とする訥庵の苦心は想像するに難くなかつた。其の最後の手段として彼はかみ縣郡あがたばら村の農民原田三郞右衛門なるものを薩摩に遣し、辛うじて之を求めることが出來 た。一說には三郞右衛門が夜陰に乘じて盜み去つたといはれて居る。兎に角對州に 甘藷の移入せられたのは、全く訥庵先生と三郞右衛門の功といふ事が出來よう。今 日も久原村の入口に「甘藷翁原田君之碑」とて一基の石碑が建てられて居る(明治三十八年五井上義臣撰書)。 其の文意を抄錄すると「本島は土地瘠せ、農產物に乏しく、不幸にして飢饉の 見舞ふことあらば、みす目も當てられぬ慘狀を呈するのである。翁は如何にか して之を救はんとし、藩主に請うて遠く薩摩に渡り、始めて甘藷を採り來り、之を 久原の地に試植したが、培養時を失して好結果を収めることが出來なかつた。不撓 の翁は之に懲りず、再び薩摩に航して之を求め、再植よく其の素志を達し、爾來本 島の常食物となるに至つた」とある。三郞右衞門が薩摩に赴き、種藷を求めんとす る苦心は實に斯の如くであつたのである。

    然るに當時の模樣につき異說がある。卽ち元祿の末に琉球薩摩に甘藷傳來し、長崎 が始めて種子を薩摩に求めた。當時對馬には此の藷が無かつたから、平山左吉・內野市郞左衞門が郡奉行たりし時相議し、正德四年の冬種子を長崎に求め、留守居平 田三左衛門が種藷三百を送り越したによつて始めて之を二郡に分與したが、終に失 敗に終つた。然るに久原村に老農三郞右衞門なるものあり、甘藷栽培に關しては相 當の經驗を有して居るので、彼をして栽培法を各村に傳習せしめた。爾後本島には 甘藷の栽培が盛んになつたといふのである。

    甘藷傳來の經路に就いては以上の如く異說はあるが、其の傳來の年代及び原田三郞 右衛門の功勞を認むる點に於ては諸說悉く一致して居る。三郞右衞門は元々農民で 姓が無かつたが、甘藷傳播の功によつて原田を名乘ることを許され、且つ士分に引 立てられて、子々孫々嚴原城下に住家をさへ與へられて居た。今より十四五年以前 までは島民各戶に若干づつの金錢を醵出し、「かういもせん」と稱して三郞右衛門の子孫 を扶助して居た。朝鮮の書「山林經濟」(卷一)に

    「今信使之經對馬島佐須舗也、見靑田彌望無際、乃藷田也。倭之艫軍啖藷根以當朝タ。倭亦新得此種、猶未遍一國。其最初得之人自島中每戶聚五文錢、歲給此人報 其功云

    とあるのも其の間の消息を物語つて居るものであらう。唯其の金額は時代によつて 多少宛の差があつたらしい。對馬の人が今に三郞右衛門の德を慕ひ、甘藷先生の名 を以て呼んで居るのも無理ならぬ事と思はれる。

    對馬方言では甘藷を一般にかうかういもといひ、普通の談話に際しては「コウコイモ」と響 かせて居る。唯南端の近傍でからいもといふのが異樣の感じを起させる。扨て此の 孝行藷なる語の語原は何であるか、之に就き訥庵の「甘藷說」に支那起原なりとて、 「昔貧困なる家あり、病父が甘藷を口にせんことを欲したので、其の子が山中に入り 辛うじて之を求め出し、父に進めたので、父は非常に喜んだ。これより此の藷を孝 行藷といふ」と記してある相である。

    兎に角對馬に於ける甘藷は他の地方に於て見ることを得ぬ重要なる價値を有し、生 藷の無い時節には、田舍では豫め之を貯藏して置いて食ふのである。田舎を旅行す ると、水田は容易に發見するを得ず、見渡す限り甘藷の畑を以て埋められて居る所もある。以前には飢饉などあつて、一家の糊口を支へ得ぬ場合には、已むを得ず幼 兒の生命を奪ひ、世間に對しては幼兒を「藷掘りに遣つた」と互に言ひ馴らして居た といふことである。此の短い句の意義をよく考へて見ると、對馬に於ける甘藷の魅 力を想像せずには居られない。

    却說、次に朝鮮に於ける甘藷傳來の由來を少しく考へて見たい。朝鮮では甘藷を甘 子(감ᄌᆞ)なる總稱を以ても呼び、又南甘子(남감ᄌᆞ)或は고구마ともいふ。此の고구 마なる名稱は余も以前から純粹の朝鮮語ではあるまいと考へて居た。然るに此の旅 行により自分は計らずも對馬方言「かうかういも」の訛りであることを發見するに至つた。 今其の證據を次に述べよう。

    德川家治新に將軍となるや、朝鮮では乾隆二十八年(西紀一七六三)例によつて將軍家に向つ て信使を送つた。其の時の正使は趙曮、副使は李仁培、從事官は金相翊であつた。 其の使節一行中の一人が書いた「海槎日記」(乾隆二十八年八月三日より同 二十九年七月八日まで)の一節に次の記事

    が見える。

    「十八日(乾隆二十九年六月十八日で、江戶から歸途に就く時の事である)戊戍晴、南風留西山寺。○‥‥島中有草根可食 者、名日甘藷。或謂孝子麻倭音古貴爲麻。其形或如山藥、或如菁根、如瓜如芋、 不一其狀、其葉如山藥之葉、而稍大而厚、微有赤色。其蔓亦大於山藥之蔓、其味 比山藥而稍堅。實有眞氣(中略)此物聞自南京流入日本。日本陸地諸島間多有之、而 馬島尤盛云。其種法(中略)昨年(乾隆二十八年のこと)初到佐須奈浦、見甘藷求得數斗、出送釜 山鎭、使之取種、今於回路又此求得。將授於萊州。校吏輩行人諸人亦有得去者。此 物果能皆生、廣布於我國、與文綿(文益漸が支那より棉花を朝鮮に輸入したことをいふ)之爲則豈不大助於東民耶。 萊州所種若能蔓延、移栽於濟州及他島、以爲宜矣。聞濟州士俗或似馬島者多。甘 藷如果蔓盛則濟民之逐歲仰哺、羅倉之泛舟運穀庶可除矣。但地宜未詳、土產皆異。 蕃殖之如意亦何可必也」。

    徐有榘の書いた「種藷譜」(道光十四年西紀一八三四)に、姜氏「甘藷譜」の說を次の如く引用し、

    「姜氏甘藷譜」甘藷倭人呼爲古古伊文瓜。琉球國呼爲蕃茄。聞之對馬島人、初產周 厓國、其俗以藷代穀、禁不得出境。有呂私國人之業商至彼者、潜竊一莖以歸、遂遍南國、呂私即日本屬國云、按周厓疑朱厓之訛」(敍源の部

    尙ほ自らは次の如く附說して居る。

    「我東傳種、始于英宗乙酉乾隆三十年西紀一七六五來自日本、蓋香藷也。若山藷則未之見焉」(敍源の部

    「嘗聞甘藷自閩淅漸及內地、將不復以水旱爲憂。念得此物傅種東國、其利益有不 可勝者。顧恨無由致之。適有故人子隨信使往日本。余以是勤托之。明年春余夜坐、 姜生啓賢在側。余言信使之歸其得藷種以來、未可必吾意。萊釜間必有傳種者。徃 彼窮搜或可得。恨無人能徃耳。姜生慨然請往、四月辭去七月晦用木櫃貯蓄種以來 云。是信使行所購求也。余治庭前地種之。至八九月蔓葉甚盛、幾遍數步。旣而隣 人有與萊伯親熟者、使作書盛言藷事。萊伯果力圖之。明年藷種多至京。又多留植 其地。而吾庭中所植不善、收藏不可作種。求得數本於萊伯家分種之。藷種之傳於 國中始此卽乙西歲英祖乙酉、乾隆三十年西紀一七六五)也。(麗藻の部

    以上の如く「海槎日記」中に現はれた孝子といふ語は意義孝行に同じく、孝子麻又は古貴爲麻は朝鮮語イモ類の總稱마といふ語である。元來國語の「イモ」は朝鮮語 마と語原を同じうするものなるべく、對州人が「コウコイモ」といつた場合に、朝鮮 人は直ちに朝鮮語の마を聯想し、孝行藷なる語を古貴爲麻といひ、又今日の如く고 구마に轉じたものと信ずる。「種藷譜」にある「古古伊文」の如きは一層原語に近い形 を存して居るものである。

    又之を年代の上より考察するも、甘藷の對州から傳來した事は明かである。卽ち「海 槎日記」に之を乾隆二十八年(日本寶曆十三年西紀一七六三)としてあるのは確實な事柄と信ずる。唯 「種藷譜」に「我東傳種始于英宗乙酉、來自日本」とあつて、前者よりも二年後れて居る やうに書いてあるが、一方同書中「萊釜間釜山東萊を指す必有傳種者」などあつて、乙酉以 前にも南鮮には此の藷の存した事をほのめかしてあるし、又一方には「藷種之傳於國 中始此、卽乙酉歲也」など、京城地方にまで藷の傳つたのが乙酉歲といふ風に明記 してあるから、此の甘藷の傳來は結局乾隆二十八年と見るのが穩當と思ふ。對馬で 始めて之を栽植したのは正德五年であるから、甘藷の朝鮮傳來は對馬に後るゝこと約四十八年の譯である。當時日本內地では之が傳播後五六十年も經過して居るので あるから、各地に大分擴がつて居るに相違ない。「海槎日記中」に「日本陸地諸島間 多有之」など述べてあるのも、當に然るべき譯である。併し正德以來彼我使節の徃 來も頻繁であつたのであるから、寳曆年間まで約五十年間、朝鮮使節が此の藷に氣 が附かなかつたといふ事も有り得べからざる事である。公々然の輸入は無かつたに しても、寳曆以前にも多少之が朝鮮に傳つて來たものであらうと思はれる。

    六 對馬に於ける朝鮮語學

    對馬に於て古くより朝鮮語が如何に研究せられたかを研究することは頗る興味ある 問題である。抑も我が國に於て外國語に關して古く通譯の職を特置したかどうか不 明であるが、崇神紀に「異俗重譯來」などあるを見ると、何等か此等に關する機關 が存したことを推知するに足るのである。而して其の頃から譯語をさなる役人を置かれ たらしく、天智天皇二年には諸將軍等譯語三輪君根呂等と共に二萬七千人を率ゐて 新羅を打つたこと(日本
    書紀
    )があり、淳仁天皇五年には美濃武藏二國の少年各二十名を選んで新羅語を學習せしめ新羅を征するの準備をさせた事(續日
    本紀
    )があるから、當時新羅 語に通じた人が相當多數に達したことを知るべきである。而して對馬に新羅譯語を 置くに至つたのは嵯峨天皇弘仁五年一月の事である(日本後紀。此より先弘仁四年に太政官符にして其の設置を請うて居る)。 其の後「延喜式」主稅の條に「新羅譯語傔伏一分」なる語なども見えで居るから、新羅 語硏究熱が漸次盛んになつて來たことを想像するに足る。

    其の後對馬に於ける朝鮮語學は如何なる狀態にあつたか消息を絕つて居るが、李朝 時代に至りては姜睡隱の「看羊錄」(萬曆二十七年西紀千五百九十九)に

    「對馬之倭銳毒不足、而巧詐百出、於我國之事又無不周知。自平時擇島中童子之伶俐者以敎我國言語又敎我國書啓簡牘之低昻曲折。雖明眼者倉卒則不能辨爲倭 書。」

    といひ、「亂中雜錄」庚子五月の條には

    「對馬鳥管二郡。(中略)其女子多着我國衣裳、而其男子幾解我國言語。稱倭國必曰日本、稱我國必曰朝鮮。未嘗專以日本自處、在平時蒙利於我國者多、蒙利於日本者少。云々」

    といひ、金指南の「東槎日錄」(康熙二一年西紀一六八二)には

    貴國品川誓泰寺の僧の言にして朝鮮を指す則馬島之人多能通曉用是國無置員講習之規矣」。

    とあり、金指南同行の洪禹載の記した「東槎錄」中には對馬に於ける日本通事の姓名 を十七八名も擧げて居る。以て對馬に於ける朝鮮語學が如何に旺盛を極めたかの一 班を知ることが出來よう。同島古老の談によれば壬辰の役には嚴原町からばかりで も、六十餘人の通譯を出したといふ事である。

    其の後享保年間に至り、對馬では始めて大通詞なる職を設け、江口金七・加瀨傳五 郞を以て之に任じ(
    )、朝鮮語通譯の任に當らしめた。爾後德川の末期まで著しい變 遷が無かつたやうであるが、最後に明治初年の頃に於ける對馬の朝鮮語研究の有樣 を述べ本篇を結ばうと思ふ。

    明治維新に際し、宗重政外務大丞に任ぜられたが、明治三年に至り朝鮮との外交は 宗氏の手を離れ、外務省が直接交渉をする事になつた。明治五年森山茂・廣津弘信が權大丞として對馬に來るや、對馬に於ける朝鮮語學の必要を感じ、今の嚴原町光 淸寺のある所に語學所なるものを設立し、從來の通事を敎師として每日朝鮮語を學 習せしめた。而して其の生徒たる多くは通事の子弟で、恰も世襲の如く、其の數十 餘に達した。然るに明治六年從來の世襲的學生の外に士族の子弟十五人許り入學を 許可することになつた。當時通事には大通事・五人通事・通事といふ階級があつて、 大通事は士分として帶刀を許され、相當の威力をも示して居たが、五人通事及び通 事は身分低く世人からも齒せられなかつた。然るに今回士族の子弟が入學を希望す るに至つたので、世人は奇異の感に打たれ、又從來の學生も自己の特權を侵害する ものとして不平を申し出た。併しながら大勢は最早や動かすことが出來ぬ。兩方と も不滿足ながら一緒に勉强することになつた。扨て敎科書も別に無いので「交隣須知」とか 「隣語大方」の如きものを各自に筆寫して勉强したものださうである。然るに 其の後半年にして嚴原の語學所は廢せられ、二十四五人の在學生中、士族出身の者だ けが留學生として釜山に派遣せらるゝに至つた。釜山に於ける語學所は明治十三年頃まで存置せられ、當時の語學敎師はすべて朝鮮人であつたといふことである。熊 本でも早くから京城に留學生を送つたが、それは明治十年頃が始りで、對州よりは 少しく後になるのである。