半七捕物帳 第六巻/蟹のお角

蟹(かに)のお角(かく)

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団子坂(だんござか)の菊人形の話につづいて、半七老人は更に『蟹のお角』について語り出した。団子坂で外国人らの馬をぬすんだ一件は、馬丁平吉(へいきち)の召捕りによってひとまず落着(らくぢゃく)したが、その関係者の一人たる蟹のお角は早くも姿をくらまして、ゆくえ不明となった。したがって、この物語は前者の姉妹篇とでも云うべきものである。
「蟹のお角という女は、だんだんに調べてみると札付の莫連者(ばくれんもの)で、蟹の彫物は両腕ばかりでなく、両方の胸にも彫ってあるのです。つまり二匹の蟹の鋏(はさみ)が右と左の乳首を挟んでいるという図で、面白いといえば面白いが、これはなかなかの大仕事です。一体、彫物と云うものは背中へ彫るのが普通で、胸の方まで彫らないことになっている。背中に彫るのは我慢が出来るが、胸に彫るのは非常に痛いので、大抵の者には我慢が出来ない。大の男でも、胸の方は筋彫りだけで止(や)めてしまうのが随分あります。その痛いのを辛抱して、女のくせに両方の乳おあたりに蟹の彫りものを仕上げたんですから、それを見ただけでも大抵の者はぎょっとする。そこへ付け込んで相手を嚇(おど)しにかかると云うわけで、こんな莫連おんなは男よりも始末がわるい。今はどうだか知りませんが、昔はこんな悪い女が幾らもいたもので、こんな奴(やつ)は奉行所の白洲(しらす)へ出ても、さんざん不貞腐(ふてくさ)って係り役人を手古摺(てこず)らせる。どうにもこうにも仕様がないのでした。
前にも申した通り、団子坂の一件は文久(ぶんきゅう)元年の九月の出来事で、それは間もなく片付きましたが、お角だけが姿をかくしてしまいました。しかしお角は馬を盗んだ本人ではなく、ただその手伝いをして、一匹の馬をひき出したと云うだけですから、この一件だけで云えば罪の軽い方で、どこまでもその跡を追って詮議(せんぎ)するというほどの事もなかったのです。ほかにも巾着切(きんちゃっき)りや強請(ゆすり)がありますが、これはとても昔はあまり厳しく詮議しなかったのですから、そのまま無事に過していれば、暗い処(ところ)へ行かずに済んだかも知れませんが、こんな女は無事に夜を送ることは出来ない。結局は何事をか仕出来(しでか)して、いわゆる『お上のお手数をかける』と云うことになるのです。
さて、これからがお話です。その翌年、すなわち文久二年の夏から秋にかけて、麻疹(はしか)がたいへんに流行しました。いつぞや『かむろ蛇』のお話のときに、安政(あんせい)五年のコロリのことを申上げましたが、それから四年目には麻疹の流行です。安政の大コロリ、文久の大麻疹、この二つが江戸末期における流行病の両大関で、実に江戸じゅうの人間を悸(おび)えさせました。これもその年の二月、長崎(ながさき)へ来た外国船からはやり出したおので、三月頃(ごろ)には京大坂(きょうおおさか)に伝わり、それが東海道(とうかいどう)を越えて五、六月頃には江戸へはいって来ると、さあ大変、四年前の大コロリと負けず劣らずの大流行で、門並(かどなみ)にばたばた仆(たお)れるという始末、いや、まったく驚きました。
コロリはもちろん外国船のお土産です。麻疹は昔からあったんですが、今度の大流行はやはり外国船のおみやげです。そんなわけで、黒船は悪い病いをはやらせるという噂󠄀(うわさ)が立って、江戸の人間はいよいよ異人を嫌うようになりました。中には異人が魔法を使うの、狐(きつね)を使うの、鼠(ねずみ)を放すのと、まことしやかに云い触らす者もある。麻疹は六月の末からますます激しくなって、七月の七夕も盂蘭盆(うらぼん)もめちゃめちゃでした。なにしろ日本橋(にほんばし)の上を通る葬礼(とむらい)の早桶(はやおけ)が毎日二百も続いたと云うのですから、お察しください。
それでも達者で生きている者は、中元の礼を見合せるわけにも行きません。わたくしの子分の多吉(たきち)という奴(やつ)が、七月十一日のゆうがたに、本所(ほんじょ)の番場(ばんば)まで中元の砂糖袋をさげて行って、その帰りに両国(りょうごく)の方へむかって大川端(おおかわばた)をぶらぶら歩いて来る。こんにちと違って、片側は大川、片側は武家屋敷ばかりで、日が暮れると往来の少ないところです。しかし日が暮れたといっても、まだ薄明るい。殊に多吉は商売柄、夜道をあるくのは馴(な)れているので、平気で横網(よこあみ)の河岸のあたりまで来かかると、向うから二人の男が来るのに逢(あ)いました。
見ると、二人は早桶を差荷(さしにな)いでかついでいる。このごろの弔いは珍らしくもないのですが、たれも提灯(ちょうちん)を持っていない。まだ薄明るいとは云いながら、日暮れがたに早桶をかつぎ出すのに無提灯は可怪(おかし)いと、多吉は摺(す)れちがいながらにその二人の顔を透かして視(み)ると、なんと思ったか二人は俄(にわか)にうろたえて、かついでいる早桶を大川へざんぶりと投げ込んで、一目散に引っ返して逃げ出したのです。多吉もいささか面喰(めんくら)って、そのあとを追っかける元気もなく、ただぼんやりと見送っていましたが、なにしろ早桶を抛(ほう)り込んだのを、そのままにして置くわけには行かないので、取りあえず東両国(ひがしりょうごく)の橋番小屋へ駈(か)け着けて、舟を出してもらいました。
おおかたこの辺であったかと思った所を探してみると、果して新しい早桶が引揚げられました。その早桶の蓋(ふた)をあけると、三十前後の男の死骸(しがい)があらわれました。死骸は素っ裸で、どこにも疵(きず)の痕(あと)はありません。まず普通の病死らしく見えるのですが、ただひとつ不思議なのは、その額のまん中に『犬』という字が筆太に書いてあるのでした。いかに貧乏人でも古浴衣ぐらいは着せてやるのが当然であるのに、この死骸は素っ裸にされて、ひたいには犬と書かれている。これには何かの仔細(しさい)がありそうだと、多吉も考えました。
第一、それが普通の病気で、どこかの寺へ送って行くならば、多吉の顔を見ておどろいて、早桶を大川へ抛り込んで逃げ出すはずがありません。これには何かの秘密があるのは判(わか)り切っています。おそらく彼(か)の二人は多吉の顔を見識(みし)っていて、飛んだ奴に出逢ったと周章狼狽(しゅうしょうろうばい)して、早桶を抛り込んで逃げたのでしょう。平気で摺れ違ってしまえば、多吉の方では気が付かずに通り過ぎたかも知れなかったのですが、あんまり慌てたので却(かえ)ってぼろを出したのです。
しかし多吉の方では、その二人の顔に見覚えが有るような、無いような、どうもはっきりした見当が付かないので困りました。どこの誰(だれ)ということを思い出せば、すぐに探索に取りかかるのですが、それが思い出せないので手の漬けようが無い。これにはわたくしも困りました。この死骸は型のごとく検視を受けて、近所の寺へ仮埋めにされたことは云うまでもありません。
死人の額へ三角の紙をあてて、それに『シ』の字をかくには珍らしくないが、額に『犬』という字をかくのは珍らしい。まあ、犬畜生のような奴だと云うのでは無いかと思われます。江戸時代の吉原(よしわら)では、心中した娼婦(しょうふ)の死骸は裸にして葬ると云い伝えられていますが、そのほかには死骸を裸にして葬るという話を聞きません。どう考えても、この死骸は因縁つきに相違ないのです。
こう申せば、いずれこの事件に蟹のお角が係り合っていると云うことは大抵お察しが付くでしょうが、どういうふうに係り合っているかと云うのがお話です。まあ、お聴きください」


それから二日目の七月十三日の夕方である。神田の半七の家(うち)では盂蘭盆の迎い火を焚(た)いて、半七とお仙(せん)の夫婦が門口へ出て拝んでいると、旅すがたで草履をはいた一人の男が、その迎い火の煙りのまえに立った。
「親分、ご無沙汰(ぶさた)をいたしました」
「あら、三ちゃんかえ」と、お仙がまず声をかけた。
「ええ、三五郎(さんごろう)ですよ、お迎い火を焚いているところへ、飛んだお精霊さまが来ましたよ」と、彼は笑いながら会釈した。
彼は高輪(たかなわ)の弥平(やへい)という岡(おか)っ引(ぴき)の子分の三五郎で、江戸から出役(しゅつやく)の与力に付いて、二、三年前から横浜(よこはま)へ行っているのであった。それと見て、半七も笑った。
「やあ、三五郎か。久しぶりだ。まあ、はいれ」
内へ通されて、客と主人は向い合った。
「江戸じゃあ悪い麻疹が流行(はや)るそうですが、どなたもお変りが無って結構です」と、三五郎は云った。
「まったく悪いものがはやるので、世間が不景気でいけねえ。横浜(はま)はどうだ」
「横浜でもちっとは流行るそうですが、まあ大したこともないようですよ」
「そこで、今度は何しに出て来た。盆が来るので、お墓まいりか」と、半七は訊(き)いた。
「そうでございます、と云いてえのですが、どうも札付きの親不孝で……」と、三五郎はあたまを掻(か)きながらまた笑った。「実は親分に無理を願いに出たのですが、どうでしょう、横浜まで伸(の)して下さいますめえか」
「横浜に何かあったのか」
「わっしらだけじゃあ纏(まと)まりそうもねえ事が出来(しゅったい)したので……」
彼は弥平の子分であるから、本来ならば高輪の親分のところへ荷を卸しそうなものであるが、江戸にいたときに半七の世話になった事もあり、現に去年の三月、半七が『異人の首』の捕物で横浜へ出張った時に、その手伝いをした関係もあるので、彼は高輪を通りぬけて神田まで訪ねて来たらしい。半七は団扇(うちわ)を使いながら訊いた。
「事によっちゃあ踏み出してもいいが、一体どんな筋だ」
「居留地の異人館の一件ですがね、去年の九月、男異人ふたりと女異人ひとりが江戸見物に出て来て、団子坂で殴られたり石をぶつけられたり、ひどい目に逢ったことがあるそうですね」
「むむ。おれもそれに係り合ったのだ。その異人がどうかしたのか」
「男異人のひとりはハリソン、ひとりはヘンリー、女はアグネスといって、ハリソンとアグネスは夫婦なんです」と、三五郎は説明した。「ところが、この八日の晩に、ハリソン夫婦が変死したので……。亭主のハリソンは自分の部屋の寝台の上に、喉(のど)を突かれて死んでいる。女房のアグネスは庭の木の陰に倒れていると云うわけで、もちろん下手人は判りません。そこで、その探索を戸部(とべ)の奉行所へ頼んで来たのですが、相手が異人だけに手を着けるのがむずかしい。異人の方じゃあ日本人が殺したことに決めているようですが、異人同士だって人殺しをしねえとは限らねえから、この探索はなかなか面倒ですよ」
「アグネスとかいう女房も殺されたのだな」
「そうです。だが、こいつは少し可怪い。なにかの獣物(けだもの)に喉と足を啖(く)われたらしい。最初に右の足を咬(か)まれて倒れたところへ、また飛びついて喉を咬んだらしいと云うのですが……」
「おめえは、その死骸を見たのか」
「見ません。異人らは死骸を見せるのを嫌がって、誰にも見せねえ。ただ口の先で訴えるだけだから、どうも始末が悪い。ハリソンは近所に商館の店を持っていて、自分の家には女房のアグネスと富太郎(とみたろう)というコックと、お歌(うた)という雇い女と、上下あわせて四人暮らしです。富太郎は江戸の本所の生れで、ことし二十六、お歌は程ヶ谷(ほどがや)の生れで、ことし二十一、それだから誰の考えも同じことで、富太郎とお歌が予(かね)て出来合っていて、主人夫婦を殺して金を取ろうとしたのだろう、と云うことになるのですが……」
「二人は駈落(かけおち)でもしたのか」
「いいえ、ただ呆気(あっけ)に取られてまごまごしている処を、すぐに引挙げられてしまいました。二人が果して出来合っていたことは白状しましたが、そのほかの事はいっさい知らないと云い張っていて、いくら責められても落ちねえので、役人たちもこの二人には見切りを付けて、ほかを探ってみる事になったのです。そこで、わっしの考えるにゃあ、ハリソン夫婦を殺した奴はどうも異人仲間じゃあねえかと思うのですが、どんなものでしょう」
「女房の方は獣物に啖い殺されたらしいと云ったな」と、半七は少しかんがえていた。「いくら異人だって虎(とら)や獅子(しし)を日本まで連れて来ていやあしめえ、犬だろうな」
「洋犬(カメ)ですよ」と、三五郎はうなずいた。「ハリソンの家(うち)にゃあ大きい赤い洋犬を飼っていたそうですから、多分その洋犬の仕業だろうと云うのですが……」
「そうすると、亭主は人に殺されて、女房は犬に殺されたと云うことになるのだが、その犬はどうした」
「どこへ行ったか、その晩から犬のゆくえは知れねえそうです。そこでまた、こんなことを云う者もあるのです。なにかの仔細があって、女房が亭主を殺して庭先へ逃げ出すと、飼犬が主人の仇(かたき)とばかりに飛びかかて、その女房を啖い殺したのかも知れないと……。成程それもひと理窟あるようですが、それならばその洋犬がそこらに胡乱(うろ)ついていそうなものだが、どこへ行ったか姿を見せないのはおかしい。わっしの鑑定じゃあ、女房を啖い殺したのはハリソンの家(うち)の洋犬じゃあなく、おそらくほかの犬だろうと思うのです。ハリソンの飼犬は邪魔になるので、仕事にかかる前に毒でも喰(くら)わせるか、ぶち殺すか、なんとかして押片付けてしまって、ほかの犬を連れ込んだのじゃあねえかと……。それにしても判らねえのは、亭主を刃物で殺すくれえなら、女房も同じ刃物で殺してしまいそうなものだのに、なぜ犬なんぞを使って啖い殺させたのか、それとも自然にそうなったのか。そこらの謎(なぞ)が解けねえので、どうも確かなところを摑(つか)むことが出来ませんよ」
「夫婦が殺された時に、なにか紛失物はねえのか」と、半七はまた訊いた。
「知合いの異人たちが立会って調べたそうですが、これぞという紛失物もないようだと云うことです」
「亭主を殺した刃物はなんだ」
「たぶん、大きいナイフ……西洋の小刀だろうと云うのですが、現場にはそんなものは残っていなかったそうです」
「ハリソンはいつから渡って来たのだ」
「去年の二月です。店の方にゃあ二人の異人と三人の日本人を使っています。日本人は徳助(とくすけ)、大助(だいすけ)、儀兵衛(ぎへえ)といって、みんな若え奴らです。商売は異人館ですから、やっぱり糸と茶を主に仕入れているようですが、異人仲間の噂󠄀じゃあ相当に金を持っているらしいと云うことです。そこで、親分、いよいよ踏み出してくれますかえ」
「行って見てもいいが、おれの一存で返事は出来ねえ。たとい七里の道中でも、横浜となれば旅だ。八丁堀(はっちょうぼり)の旦那(だんな)に相談して、そのお許しを受けにゃあならねえ。あしたの午(ひる)過ぎに、もう一度来てくれ」
「ようがす、久しぶりで江戸へ帰って来たついでに、四、五軒顔出しをする所がありますから、あしたまた出直してまいります」
三五郎はなにか横浜のみやげを置いて帰った。それと入れちがいに多吉が来た。
「たった今、横浜から三五郎が来たよ」
「そりゃあ惜しいことをした」と、多吉は舌打ちした。「あいつこの頃は景気がいいと云うから、見つけ次第に貸しを取返してやろうと思っていたのだが……」
「いくらの貸しだ」
「三分(ぶ)さ」
「三分の貸しを執念ぶかく付狙(つけねらう)ほどの事もあるめえ」と、半七は笑った。「実は、あいつも商売用で出て来て、おれに加勢を頼むのだ。都合によったら旅へ出なけりゃあならねえ」
「横浜(はま)へ伸(の)すのですか」
半七からひと通りの話を聞かされて、多吉は仔細らしくうなずいた。
「そいつは何とか早く埒(らち)をあけてやらなけりゃあいけますめえ。日本役人ペケありますなんて、毛唐人どもに笑われちゃあ癪(しゃく)ですからねえ」
「大きく云やあ、そんなものだ。そんなものだ。あした八丁堀へ行って相談したら、旦那がたもだぶん承知して下さるだろう。ところで、例の大川の一件だが……。三五郎の話を聞いているうちに、ふいと胸に泛(う)かんだことがある。と云うのは、大川へ抛り込まれた死骸のひたいには、犬という字が書いてあったとか云うのだが、横浜で死んだ女異人は洋犬(カメ)に啖い殺されたのだそうだ。江戸と横浜じゃあちっと懸け離れ過ぎているようだが、世の中の事はどこにどういう糸を引いていねえとも限らねえ。どっちも犬に縁があるのを考えると、そこに何かの係り合いがあるのじゃああるめえか」
「そう云えば、そんなものかも知れねえが……」と、多吉は疑うように首をかしげた。「なんぼ何でも横浜で殺したものを江戸までわざわざ運んで来やあしますめえ。あっちにも捨て場所は幾らでもある筈(はず)だ」
「理窟はそうだが、理窟でばかり押せねえことがある」と、半七も首をかしげながら云った。「なにしろ留守をたのむから、おめえは大川の一件を根よく調べてみてくれ。おれは横浜へ行って、ひと働きしてみよう」
「三五郎は別として、ほかに誰か連れて行きますかえ」
「松吉(まつきち)を連れて行こう。あいつは去年も一緒に行って、少しは土地の勝手を知っている筈だ。もつとも、横浜も去年の十月にだいぶ焼けたと云うから、また様子が変っているかも知れねえ」
「横浜は焼けましたかえ」
「十月の九日から十日の昼にかけて、町家(まちや)はずいぶん焼けたそうだ。異人館は無事だったと云うから、ハリソンの家なんぞは元のままだろう。火事を逃れても、夫婦が殺されちゃあなんにもならねえ」
「浪士が斬込(きりこ)んだのじゃあありますめえね」
「おれも一旦はそう思ったが、侍ならば刀でばっさりやるだろう。小刀のようなもので喉を突いたり犬を使ったり、そんな小面倒なことをしやあしめえ」
「そうでしょうね。じゃあ、あしたまた、様子を聞きに来ます」
多吉の帰ったあとで、半七は旅支度にかかった。横浜までは一日の道中に過ぎないが、その時代には一種の旅である。半七は女房に云いつけて、新しい草履や笠(かさ)を買わせた。


あくる朝、半七は八丁堀同心の屋敷へ行って、丹沢五郎治(たんざわごろうじ)をたずねた。丹沢は去年の団子坂一件に立会った関係があるので、その異人夫婦の死を聞かされて眉をよせた。
「よくよく運の悪い連中だな。そういうわけなら行って見てやれ」
彼も多吉と同じように、こんな事がいつまでも捗取(はかど)らないと、外国人に対して上(かみ)のご威光が自然に薄らぐ道理であるから、せいぜい働いて早く埒を明けろと云った。
半七は承知して神田(かんだ)の家(うち)へ帰ると、松吉は朝から待っていた。やがて三五郎も来た。三人が午飯を食いながら相談の末に、あしたを待つまでもなく、これからすぐに発足することになった。秋といっても七月の日はまだ長い。途中で駕籠(かご)を雇って、暮れないうちに六郷(ろくごう)の渡(わたし)を越えてしまえば、今夜は神奈川(かながわ)に泊ることが出来ると云うので、三人は急いで出た。
見送りに来た多吉と幸次郎(こうじろう)に品川(しながわ)で別れて、半七らは鮫洲(さめず)から駕籠に乗った。予定の通りに神奈川の宿(しゅく)に泊って、係りの役人らにも逢って、諸事の打合せをした上で、半七らは三五郎に案内されて、居留地の異人館を一応見とどけに行った。ハリソンの自宅には錠がおろしてあるので、三五郎はその隣りに住む同国人のヘンリーを訪ねた。ヘンリーは団子坂の道連れで、ハリソンの空家の監理人となっているのである。
かの事件以来、ヘンリーは奉行所へも再三出頭して、三五郎の顔を見識っているので、すぐに鍵(かぎ)を持って出た。彼は三人を案内して、ハリソンの家内を見せてくれたので、半七と松吉はめずらしそうに見てあるいた。ヘンリーは片言ながらも日本語を話すので、半七は参考のためにいろいろの質問を提出したが、双方の言葉がよく通じないので、要領を得ないことが多かった。
「奉行所から通辞(つうじ)を頼んで来ればよかったな」と、半七は自分の不注意を悔んだ。
ハリソンの部屋で、半七は三脚のある機械を見つけた。彼はそれを指さして訊いた。
「これ、何ですか」
「それ、フォト……。おお、シャシンあります」と、ヘンリーは答えた。
「ははあ、写真か」と、半七はうなずいた。
わが国における写真の歴史を今ここに詳しく説いている暇はないが、安政元年の春頃から我が国にも写真術の伝わっていた事をことわって置きたい。アメリカの船員が我が役人らを撮影し、あわせてその技術を教えたのが嚆矢(こうし)であると云う。その以来、写真術は横浜に広まって、江戸から修業にゆく者もあった。ことし文久二年は、それから八年の後であるから、横浜は勿論(もちろん)、江戸にも写真術を心得ている者が相当にあたことを知らなければならない。但しその時代の写真師は、特別の依頼に応じて撮影するか、あるいは風景の写真を販売するかに留まって、明治以後の写真店のように一般の来客を相手に開業する者はなかったらしい。しかも世に写真という物があり、江戸にも横浜にも写真師という者があることを、半七はかねて知っていたので、一種の好奇心を以て、その三脚の機械をしばらく眺めていると、ヘンリーはさらに説明した。
「ハリソンさん、シャシン上手ありました。日本人、習いに来ました」
「その日本人はなんと云いますか」と、半七は訊いた。
「シマダさん……。長崎の人あります」
「年は幾つですか」
「年、知りません。わかい人です。二十七……二十八……三十……」
だんだん訊いてみると、そのシマダという男は長崎から横浜へ来て、写真術を研究しているが、日本人に習ったのでは十分の練習が出来ないと云うので、何かの伝手(つて)を求めてハリソンの家へ出入りするようになった。ハリソンは商人で、もとより専門家ではないが、写真道楽の腕自慢から、喜んでシマダにいろいろの技術を教えた。シマダも器用でよくおぼえた。その以上のことは、ヘンリーの日本語が不完全のために詳しく判らなかった。
シマダは横浜に住んでいたが、去年十一月の火事に焼けて、ひと月あまりはハリソンの家の厄介になっていたことがある。それから神奈川に引移って、今もそこに住んでいる筈であるが、ヘンリーはその居どころを知らないと云った。
「ハリソンが死んでから、シマダという人はここへ来ましたか」と、半七は訊いた。
「ハリソンさん、八日の晩に死にました。その後、シマダさん一度もまいりません。知らせてやりたいと思いますが、シマダさんの家、知りません」
「犬はどうしました」と、半七はまた訊いた。
「犬……犬……」と、ヘンリーは顔をしかめながら云った。「死にました、殺されました。犬の死骸、川に沈んでいました」
彼はその事実を完全に云い現わせないらしく、しきりに手真似(てまね)をして説明するところによると、ハリソンの飼犬はよほど残虐な殺され方をしたらしい。眼玉をくり抜き、舌を抜き、喉を刺し、腹を裂き、あらん限りの残虐な手段を用いた上で、その死体を川へ投げ捨てたらしく、きのうの朝、すなわち三五郎が江戸へ出ている留守中に発見されたのである。なぜそんな残酷な殺し方をしたのか、ヘンリーにも想像が付かないと云うのであった。
「あなた、シマダという人の写真、持っていませんか」と、半七は重ねて訊いた。
「わたくし、ありません」と、ヘンリーは答えた。
しかし、ハリソンはシマダを撮影したことがあるに相違ないから、何かの必要があるならば調べてみようと云うので、ヘンリーはハリソンの机のひき出しや手文庫などを捜索して、四五十枚の写真を見つけ出して来た。さすがは写真道楽だけあって、人物や風景や、みな鮮明に写し出されているのを、半七らは感心しながら覗(のぞ)いていると、ヘンリーはやがて一枚の写真をとりあげた。
「ありました、ありました。これシマダさんあります」
半七はその写真を受取って眺めると、成程それは二十七八から三十ぐらいの細おもての男で、その人品も卑しくなかった。
「おめえはこれを知らねえか」と、半七はその写真を三五郎に見せた。
「知りませんね」
「多吉を連れて来ればよかったな」
云ううちに、ヘンリーは更に他の写真をテーブルの上にならべた。それは本牧(ほんもく)あたりの風景の写真であった。次に列(なら)べられた写真――それをひと目見ると、半七も松吉も思わず身を動かした。それは女の裸体写真であった。女は肌に一糸を着けない赤裸で、その右左の胸と、右左の腕に蟹を彫っていた。
「おい、松。不思議なところで不思議な人に逢ったな」と、半七は小声で云った。
「むむう」と、松吉はうなるように溜息をついていた。
四五十枚の写真全部をあらためたなかで、獲物はシマダの写真と、女の裸体写真の二枚に過ぎなかったが、これは意外な獲物であると半七は思った。彼はヘンリーに頼んで、その二枚の写真を借りて来ることにした。
「その女、シマダさんの親類あります」と、ヘンリーは答えた。「わたくし、この人、ドロボウと間違えました。わたくし、悪いことしました」
「団子坂でこの女に逢いましたか」と、半七は訊いた。
「そうです、そうです。ダンゴ坂……。わたくし、その女、ドロボウと間違えました。日本の人、みな怒りました。ハリソンさん、アグネスさん、わたくし……みな殺されそうになりました」
ヘンリーの説明によれば、その女はシマダの紹介で、ハリソン方へ出入りすることになったのである。女のからだに珍らしい彫物があるので、ハリソンは無理に頼んで撮影させて貰(もら)って、その報酬としてたくさんの金を彼女にあたえた。彼女もシマダと同じく神奈川に住んでいるとのことであるが、やはりその居どころを知らないとヘンリーは云った。
もうこの上に探索の仕様もないので、半七はヘンリーに別れてここを出た。出るとき庭を一巡すると、アグネスの死体はここに横たわっていたとヘンリーが指さして教えた。そこは庭の片隅で、大きい椿(つばき)が緑の蔭を作っていた。半七はそこらを隈(くま)なく見まわしたが、別に眼につくような物もなかった。
「親分、妙な写真を見つけましたね」と、三五郎はあるきながら云った。
「これは蟹のお角という女だ」と、半七はふところから写真を出して見せた。「こいつがハリソンの家に出這入(ではい)りしていようとは思わなかった。こんな奴が出這入りをして、素っ裸の写真なぞを撮らせるようじゃあ、まだほかに何をしているか判らねえ。この一件にはお角が係り合っているらしい。それからシマダという奴……。たぶん島に田を書くのだろう。こいつも何かの係り合いがありそうだ。おれは死骸を見ねえから、確かなことは云えねえが、ひたいに犬という字を書かれて大川へ抛り込まれたのは、この島田という奴かも知れねえ」
「ハリソンの犬をむごく殺したのは誰でしょうね」
「相手は犬だ。何もそんなにむごたらしく殺すにゃあ当らねえ。何かその犬によっぽどの恨みがあると見える」と、半七は云った。「犬をなぶり殺しにひた上に、島田の額には犬と書く……。この一件には犬が絡んでいるに相違ねえが……」
「去年の団子坂は狐使いでしたが、今度は犬」と、松吉は啄(くち)を出した。「四国にゃあ犬神使いと云うのがあるそうだが、そんな者が横浜まで出て来やあしますめえ」
「まあ、黙って、少し考えさせてくれ」
もう午後に近い初秋の暑い日に照りつけられながら、半七は港の町をぶらぶらと歩いて帰った。


「さあ、これからだ」と、半七はやがて途中で立停まった。「島田もお角も神奈川とばかりで、その居どこが判らねえじゃあ少し困る。横浜には島田のほかにも、写真を始めている奴があるだろう。それに訊いたら判りそうなものだが……」
「そうです、そうです」と、三五郎はうなずいた。「横浜にもこの頃は写真を撮る奴が二、三人いる筈です。誰かに訊けば判るでしょう。この暑いのに大勢が駈けまわる事はありません。これは土地っ子のわっしに任せて、おめさんたちはいつもの上州屋(じゅしゅうや)で涼んで下さい」
上州屋は去年もおととしも泊ったことがあるので、半七と松吉はここの二階で休息することにして、三五郎と一緒に午飯を食った。
「まあ、横になって昼寝でもしておいでなせえ。夕方までには帰って来ます」
三五郎は箸(はし)をおくとすぐに出て行ったが、ゆう七ツ半(午後五時)頃に、汗をふきながら戻って来た。彼は威勢よく階子(はしご)を駈けあがって、半七らの座敷に顔を出した。
「いま帰りました」
「やあ、ご苦労」と、半七は団扇の手をやすめた。「どうだ、判ったか」
「わかりました。最初に大泉(おおいずみ)という奴をたずねると、こいつは近ごろ来た人間で、島田のことはよく知らねえと云うのです。それから橋本(はしもと)という奴のところへ行くと、これは大抵のことを知っていました。橋本の話によると、島田は長崎の生れで年頃は二十八九、江戸にも二、三年いた事があるそうですが、おととし頃から横浜へ来て写真を始めたのです。去年の火事に焼けてからは神奈川の本宿(ほんじゅく)へ引っ込んで、西(にし)の町(まち)に住んでいるそうですが、女房子のない独り者で、吾八(ごはち)という若いえ弟子と二人ぎりで男世帯(しょたい)を張っていると云うことです」
「島田の名はなんと云うのだ」
「庄吉(しょうきち)です。酒はすこし飲むが、別に道楽もない様子で、世間の評判も悪くないそうです。写真の修行のためにハリソンの家へ出入りをしていることは、仲間内でもみんな知っていて、本人もおれは西洋人について修行しているのだなどと自慢していると云うことです。そこで、親分、どうします。あしたは早々に神奈川へ行ってみますか」
「むむ。コックと雇い女を調べてみてえのだが、引挙げられていちゃあちっと面倒だ。ともかくもあしたは神奈川へ行ってみよう。本人は留守でも弟子が残っているだろう」
「じゃあ、あしたまた出直してまいります」
それから世間話などをして、三五郎は帰った。あしたは早いからと云うので、今度は五ツ半(午後九時)頃から蚊帳にはいったが、あいにくと上州商人(あきんど)の三人づれが隣り座敷に泊り合わせて、夜の更けるまで生糸の売込みの話などを声高にしゃべっているので、半七らは容易に眠られなかった。横浜は江戸より涼しいと聞いていたが、残暑の夜はやはり寝苦しかった。
きょうは盆の十六日、横浜にも藪入(やぶいり)はあると見えて、朝から往来は賑(にぎ)わっていた。三五郎の来るのを待ちかねて、半七と松吉は早々に宿を出ると、きょおうは晴れて暑かった。
「藪入にはおあつれえ向きだが、おれたちには難儀だな」と、松吉は真っ青な空を仰ぎながら云った。
宮(みや)の渡(わたし)を越えて、神奈川の宿(しゅく)にゆき着いて、西の町の島田の家をたずねると、思いのほかに早く知れた。東海道から小半町も山手にはいった横町の右側で、畑のなかの一軒家のような茅葺屋根(かやぶきやね)の小さい家がそれであった。表には型ばかりの粗い垣根を結って、まだ青い鶏頭(けいとう)が五、六本にょろにょろと伸びているのが眼についた。門の柱には『西洋写真』という大きい看板が掛けてあった。
門と云っても木戸のような作りで、それを押せばすぐにあいた。
「ごめんなさい」
三五郎がまず声をかけると、二十歳(はたち)ばかりの若い男が内から出て来た。
「島田先生はお内ですか」
男はしばらく無言で三五郎の顔をながめていたが、やがて低い声で答えた。
「先生は留守です」
「どちらへお出かけですか」
「江戸へ……」
入れかわって半七がずっとはいった。
「少しお前さんに訊きたいことがある。わしらは戸部のお奉行所から来た者です。まあ、縁先を貸しておくんなさい」
半七と三五郎は、庭を通って縁先へ腰をかけた。松吉は裏手へまわって、人の出入りを見張っていた。奉行所から来たと聞いて、男も形をあらためて挨拶(あいさつ)した。
「なにか御用でございますか」
「おまえさんは先生のお弟子さんかえ」と、半七は訊いた。
「はい。吾八と申します」
見たところ、彼は正直そうな、おとなしやかな若者であった。
「先生は江戸へ何しに行ったのですね」
「商売のことで時どき江戸へまいります。今度も大方そうだろうと思います」
「ここの家へお角さんという人が来ますかえ」
吾八は少し躊躇(ちゅうちょ)したが、それでも隠さずに答えた。
「はい」
「先生の親類ですかえ」
吾八は黙っていた。
「それとも色女かえ」
半七は笑いながら訊いた。吾八はやはり黙っていた。
「お角は始終ここの家に寝泊りしているのですか」
「いいえ。時によると半月ぐらい泊っていることもありますが……」
「先生は異人館のハリソンのところへ、始終出這入りをしているそうですね」
「はい。毎月五、六度ぐらいは参ります」
「お角もハリソンの家へ行ったことがありますかえ」
吾八はまた黙ってしまった。
「おまえさん、正直そうな顔をしていながら、お角のことを訊くと、はっきり云わねえのはどういうわけだね」と、半七はまた笑った。「先生はお角を異人館へ連れて行って、蟹の彫物を裸で写させたろう。わたしはその写真を見て来たのだ」
吾八はやはり黙っていた。
「おまえさんは知らねえかえ」
「知りません」と、吾八は小声で答えた。
「お角は今どこにいるね」
「知りません」
「先生と一緒に江戸へ行ったのじゃあねえかね」
「知りません」
「おまえさんは先生が江戸で殺されたのを知っているのかえ」
「えっ」と、吾八は驚いたように相手の顔をみあげた。「それは本当ですか」
「むむ。早桶に入れたままで大川へ抛り込まれた。その額には犬という字が書いてあったよ」
「犬……」と、彼はさらに顔の色を変えた。
「さあ、正直に云え。犬がどうした。犬と聞いて、貴様の顔色が変ったのが可怪(おかし)いぞ。ハリソンの洋犬(カメ)は貴様たちが殺したのか」
それには答えずに、吾八は声を顫(ふる)わせて叫んだ。
「お願いでございます。先生の仇を取ってください」
「その仇を取ってやろうと思って、わざわざ江戸から出て来たのだ」と、半七は声をやわらげて諭すように云った。「おまえの先生はお角が殺したのだろう」
「お角です。きっとお角に相違ありません」
「おれもそうだろうと思っていた。こうなったら何もかも正直に云ってくれねえじゃあ困る。いったい、先生とお角とはどうして心安くなったのだ。前からの知合いかえ」
「前からの知合いだと云っていますが、どうもそうじゃあ無いらしいのです」と、吾八は答えた。「去年の冬、わたくしどもがここへ引っ越して来て間もなくのことです。先生は江戸へ写真を売りに行って、その帰り道でお角に逢って、一緒に連れ立って帰って来ました。それから当分は夫婦のように暮らしていて、正月になってからお角はまた、どこへか出て行きました。その後はどうしているのか知りませんが、十日目か半月目ぐらいに帰って来て、暫(しばら)くいるかと思うとまたどこへか出て行って、家の人のような、よその人のような工合で、出たり這入ったりしていました。そのうちに、この四月の初めでした。ハリソンさんが本牧の写真を撮りに来て、そのついでにこの家へたずねて来ますと、丁度その時にお角も来ていて、ハリソンさんと顔を見合せてお互いにびっくりした様子でした。ハリソンさんは去年の九月、江戸の団子坂で菊人形を見物しているときに、女の巾着切りに逢いました。それが間違いのもとで、ハリソンさん夫婦も連れのヘンリーさんも、大勢に追っかけられてひどい目に逢いました。そのときの巾着切りがお悪であったそうで、思いがけない再会に、ハリソンさんも一旦(いったん)はおどろきましたが、お角はどこまで自分が取ったのではないと言い張ります。わたくしの先生もハリソンさんを宥(なだ)めて、この女は自分の親類で、決して悪いことをする者ではないと、いろいろに弁解しましたので、ハリソンさんもようよう納得しました。もっとも、団子坂でお角を捉(つか)まえた時に、お角はなんにも持っていなかったと云いますから、確かに巾着切りだという証拠も無いわけです。それが縁になって、お角も先生と一緒に、ハリソンさんの家へ時どき訪ねて行くようになりました」
「先生は金儲(もう)けのためにお角を連れて行ったのか」
「さあ、それはどうだか判りませんが、その後はお角ひとりで、ハリソンさんの家へ行ったこともあります。ハリソンさんと二人づれで、神奈川の台の料理茶屋へ遊びに行ったこともあるそうです」
お角の腕は、半七の想像以上に凄(すご)いものであるらしかった。


「お角が蟹の写真を撮らせたのは、いつの頃のことだね」
「六月の初め……五、六日頃の事とおぼえています」と、吾八は説明した。「これは先生もお角もわたくしには隠しているので、詳しいことは判りませんが、なんでも二人が夕がたに酔って帰って来て、奥で話しているのを聞きますと、お角はそのときに裸の写真を撮らせたらしいのです。お角は酔ったまぎれに大きな声でこんなことを云っていました……。いくらあたしのような女でも、あんな恥かしい事をしたのは生れて初めてだ。それもみんなお前さんの為じゃあないか。だが、あとになって考えてみると、あんな真似をして二十ドルは廉(やす)かった。五十ドルも取ってやればよかった……。それを宥めているような先生の声は低いので、よく聴き取れませんでした。その晩はそれで済んで、その明くる日からはいつもの通りに仲好くしていましたが、お角は二十ドルを先生に渡さないらしいのです。口ではお前さんの為だなどと云いながら、先生には一文もやらないようでした」
「お角はほかに情夫(おとこ)でもあるのか」
「そんな疑いがある様子で、先生とお角は仲がいいように見えながら、また時どきには喧嘩(けんか)なぞをする事もありました。お角は六月の十日過ぎに家を出て、二十日ごろまで姿を見せませんでしたが、またふらりと帰って来て、別に変ったこともなしに暮らしていましたが、その晦日(みそか)の朝です。先生とお角は二人連れで出かけましたから、多分ハリソンの家へ行ったのだろうと思っていますと、やはり夕がたに帰って来ましたから、その時にはわたくしも驚きました」
「何をおどろいたのだ」
「先生も少し蒼(あお)い顔をしていましたが、お角は真蒼(まっさお)な顔をして、眼は血走って、髪をふり乱して、まるで絵にかいた鬼女のような顔をして、黙ってはいって来たかと思うと、だしぬけに台所へかけ込んで、出刃包丁(でばぼうちょう)を持出して来て、先生に切ってかかりました。先生は庭から表へ飛び出して、畑の方へ逃げて行くと、お角もつづいて追っかけて行きました。何がなんだか判りませんが、わたくしも驚いて駈け出しました。ご承知の通り、近所に人家もなく、もう日暮れがたで往来もありません。わたくしは一生懸命に追い着いて、うしろからお角を抱きとめると、先生も引っ返して、ようようのことで刃物をうばい取って、無理に家へ連れ込むと、お角は先生のふところから紙入れを引摺り出して、それを持ったままでどこへか出て行ってしまいました。お角は始めから仕舞いまでひと言も口を利かないで、ただ先生を睨(にら)んでいるばかりでした。お角が出て行ったあとでも、先生はなんにも云いません。これも黙っているばかりですから、お角がなんで腹を立てたか、どうして先生を殺そうとしたのか、その仔細はちっとも判りません。わたくしは烟(けむ)に巻かれてただぼんやりしていました」
意外の舞台面がだんだんに展開されるので、半七も三五郎も一種の興味を誘われた。
「お角はそれぎりで姿を見せねえのか」と、半七は追いかけるように訊いた。
「それから五、六日は姿を見せません。先生も外へ出ませんでした」と、吾八は語りつづけた。
「この八日の夕がたに、わたくしが宿の銭湯へ行って帰って来ますと、門のなかに女の櫛(くし)が落ちていました。わたくしはそれを拾って、お角さんが来ましたかと訊きますと、先生は来ないと云いました。こんな櫛が落ちていましたと云って見せましたが、先生はやはり知らないと云うのです。どうもお角さんが来たらしいと思いましたが、わたくしは押して詮議もしませんでした。ところで、その翌日の九日のことです。わたくしは先生の使やら自分の買物やらで、朝から横浜へ出て行きました。ついでに友達の家へ寄って、午飯の馳走(ちそう)などになりまして、七ツ(午後四時)頃に帰って来ましたが、その時に異人館の人殺しの噂󠄀を聞きました。ハリソンさんの夫婦が誰かに殺されたと云うのです。それを先生に知らせようと思って、急いで帰って来ると、先生は見えません。先生も人殺しの噂󠄀を聞いて、わたくしと行き違い出て行ったのかも知れないと思っていましたが、先生はそれぎり帰りません。念のために異人館へ聞きあわせに行きましたが、先生は九日以来一度も来たことは無いと云うのです。きょうでもう七日になりますが、先生のたよりはわかりません。わたくしが横浜へ行った留守にお角さんが来て、一緒に江戸へ行ったのかと思いますが、それも確かにはわかりません」
「さっき江戸へ行ったと云うのは嘘だね。確かなことじゃあねえのだね」
「恐れ入りました」
大川へ投げ込まれた早桶のぬしは確かに島田庄吉で、お角に誘い出されてどこでか殺されたに相違ないと半七は鑑定した。
「先生とお角が飲みに行くところはどこだ」
それは神奈川の台の江戸屋(えどや)であると、吾八は答えた。三五郎を番人に残して、半七は松吉を連れてすぐに江戸屋へ行った。そこの帳場で聞きあわせると、島田とお角は九日の四ツ半(午前十一時)頃からここの二階へ来て、八ツ半(午後三時)頃まで差向いで飲んでいたが、島田は正体もなく酔い潰(つぶ)れてしまったので、お角は駕籠を呼んで貰って、彼を扶(たす)け乗せて帰った。
いかに酔い潰れていると云っても、眼と鼻のあいだの近いところを駕籠に乗せて帰るのは少しおかしいと、半七はその駕籠屋を呼んで詮議すると、かれらはお角に頼まれて、正体のない島田を生麦(なまむぎ)の立場(たてば)まで送ったと云うのである。お角も駕籠に付いて行って、そこの立場茶屋へ島田を扶け入れ、相当の酒手をやって駕籠を戻した。駕籠屋の話によると、島田は前後不覚に酔っていたが、決して死んではいなかった。
晉でしまっては六郷(ろくごう)の渡(わたし)を越えるのが面倒であるから、島田はまだ生きていたに相違ない。正体もなく酔わせて置いて、お角は自分の注文通りの場所へ運んで行ったのであろう。女の手ひとつで、それを仕遂げたか、途中から手伝いの者が加わったか、いずれにしてもその後の成行きは想像するに難くない。しかも島田のひたいに犬という字をなぜ書いたのか、それは依然として解き難い謎であった。
ハリソン夫婦を殺した下手人も、お角であることは大かた想像されたが、彼女がなぜ異人夫婦を殺すに至ったか、その仔細はやはり判らなかった。お角は八日の夜のうちにハリソン夫婦を殺し、併せてその犬を殺し、その翌日はシマダを誘い出して殺した。この筋道に間違いはあるまいと思われるのであるが、なぜ殺したか、どういう方法で殺したか、半七はその判断に苦しんだ。
「おい、松。ここでいつまで悩んでいても仕方がねえ。ともかくも写真屋へ帰ろう」
江戸屋を出て、本宿へさしかかると、半七は往来のまんなかで二匹の犬のたわむれているのを見た。


「調子に乗ってお喋(しゃべ)りをしていると、あんまり長くなりますから、もうここらで打ちどめにしましょう」と、半七老人は笑った。
「お角はどうなりました」と、私は訊いた。
「勿論、召捕りましたよ。お角は本所一つ目のお留(とめ)という女髪結の二階に隠れていました。早桶をかつぎ出したのは、お留のせがれの国蔵(くにぞう)と相長屋の甚八(じんぱち)という奴で、国蔵はお角と関係があったのです。前にもお話し申した通り、お角は神原の屋敷の馬丁と出来合っていたのですが、その馬丁の平吉が挙げられると、すぐに国蔵という後釜(あとがま)をこしらえる。そのほかに写真屋の島田と関係する。外国人のハリソンにもお膳(ぜん)を据える。いやもう乱脈でお話になりません。国蔵は小博奕(こばくち)なぞを打つ奴で、甚八もおなじ仲間です。この二人がお角にたのまれて、島田の死骸を入れた早桶をかついで、押上(おしあげ)あたりの寺へ送り込むつもりで、日の暮れがたに出て行くと、あいにくに横網の河岸で多吉に出逢った。多吉の方じゃあよくも覚えていなかったんですが、国蔵の方じゃあ多吉の顔を識っていて、ここで手先に見咎(みとが)められちゃあ大変だと思って……。根がそれほどの悪党じゃあありませんから、あわてて早桶を大川へ抛り込んで逃げ出した。そんな事をすればなおさら怪しまれるのですが、度胸のない奴がうろたえると、とかくにそんな仕損じをするものです。どっちも気の小さい奴ですから、多吉に睨まれたと思うと、なんだか気味が悪くって自分の家へは寄り付かれず、その後は深川(ふかがわ)辺の友達のところを泊り歩いていましたが、お角は女でもずうずうしい奴、平気でお留の二階にころがっている処を、とうとう多吉に探し出されました」
「お角はおとなしく召捕られましたか」
「いや、それが面白い。その捕物には多吉と松吉がむかったのですが、女でも油断がならねえから不意撃ちを喰わせろと云うので時刻は灯ともし頃、お角が裏の空地で行水を使っているところへ飛び込んで御用……。いくらお角でも裸で逃げ出すわけには行きません。お手向いは致しませんからご猶予をねがいますと云って、からだを拭(ふ)いて、浴衣を着て、素直に牽(ひ)かれて来ましたが、お角は奉行所の白洲へ出た時にそれを云いまして、いかにお上の御用でも、女が裸でいるところへ踏み込むのは無法だと訴えました。すると、吟味与力の藤沼(ふじぬま)という人が、おまえはそれほど女の恥を知っているならば、素っ裸の写真を異人になぜ撮らせた。これを見ろと云って、例の写真を投げてやると、お角もさすがに赤面して一言もなかったそうです」
「そこで、人殺しを白状しましたか」
「白状しました。ハリソン夫婦を殺したのも、島田を殺したのも、みんな自分の仕業だと白状しました。島田のことはともかくも、異人殺しの方は確かな証拠がないのですから、あくまでも知らないと強情を張り通せないことも無いのですが、お角が挙げられると、あとから続いて国蔵も甚八も挙げられる。こいつらがべらべら喋ってしまいましたから、島田の死骸を捨てさせた事はもう隠しおおせません。こうなれば、一寸斬られるも二寸斬られるも同じことで、しょせん人殺しの罪科は逃れないのですから、当人も覚悟を決めたのでしょう。もう一つには、わたくしの工夫で、一つの責め道具を見せてやりました」
「どんな責め道具です」
「島田の弟子の吾八に云いつけて、川から引揚げた犬の死骸を写真に撮らせて、お角の眼の前に突き付けさせました。この洋犬(カメ)をむごたらしく殺したのはお前の仕業だろう。お前がなぜこの洋犬を殺したか、上(かみ)ではもう調べ済みになっているぞと云いますと、お角はその写真をひと目見て、いよいよ赤面して恐れ入ったそうです。そんな責め道具をどうして思い付いたかと云いますと、わたくしが神奈川の料理茶屋を出て写真屋へ帰る途中、往来のまん中で二匹の犬がふざけているのを見たのが始まりで、それからふっと考え付いたのです」
「どんなことを考え付いたのです」
「さあ、それは少しお話しにくい事で……」と、老人は顔をしかめながら微笑(ほほえ)んだ。「お角の白状をお聴きになれば自然にわかりますよ。その白状によると、まずこうです。ヘンリーはわたくしに隠していましたが、ハリソンとお角との関係について、女房のアグネスは嫉妬(しっと)をおこして、家内はかなりに揉めていたらしいのです。そこで、六月晦日の朝……朝と云っても、やがて午に近い頃だそうですが、お角は島田と一緒に異人館へ出かけて行くと、きょうは晦日の勘定日でハリソンは店の方へ出ていました。その留守に、アグネスと島田とお角と三人でしばらく話していると、そのうちに島田がお角にむかって、細君もおまえの彫物を写真に撮りたい。今度は、まる裸になるに及ばない、ただ両肌を脱いで蟹のほりものを見せればいいのだ云うのです。それで、十五ドルくれると云うのでお角も承知しました。
それから奥のひと間へはいって、暑い時分ですから帯を解いて、お角は帷子(かたびら)の両肌をぬいで、椅子に腰をかけて待っていると、やがて一匹の大きな洋犬がのそのそはいって来て、低く唸(うな)りながらお角に迫って来るのです。これにはお角もおどろきましたが、窓の扉が堅く閉っていて、どうして明けるのか判らない。入口の扉にもいつの間にか錠がおろしてある。あわててお角は両肌を入れて、部屋じゅうをぐるぐると逃げ廻っていましたが、なにしろここへ閉じこめられて逃げ出すことが出来ない。
こうして一時(いっとき)ほども過ぎた後、誰があけたか知らないが、入口の扉が自然にあきました。お角は真蒼になって出て来ました。犬もおとなしく付いて来ました。
お角は黙って帰ろうとすると、島田も付いて来ました。二人はやはり黙ったままで神奈川の家へ帰りました。これはお角ひとりの申立てで、アグネスも島田も死んでしまったのですから、たしかなことは判りません。一体なんの為にこんな事をしたのか、犬を使ってお角を咬み殺させるつもりか、それとも何かほかに目的があったのか、それらのことも判りかねます。アグネスもお角に嫉妬を懐(いだ)いている。島田もほかに情夫があると云うのでお角に嫉妬を感じている。その二人が共謀して、何かお角を苦しめるつもりで、こんな事を企てたらしいと想像するのほかはありません。お角が無事に出て来たので、二人は当てがはずれたかも知れません。いずれにしても、お角は真蒼になって怒って、家へ帰るとすぐに島田を殺そうとしたくらいですから、よくよく口惜(くやし)かったに相違ありません。
三人を殺そうと決心して、お角はいったん江戸へ帰って、国蔵や甚八と打合せをした上で、七月八日に横浜へ引っ返して来ました。勝手を知っているハリソンの家へ宵から忍び込んで、寝台の下に隠れていて、夜の更けるのを待ってまずハリソンを刺し殺しました。アグネスがおどろいて跳ね起きて、窓をあけて庭へ飛び降りると、お角もつづいて飛び降りた。そのとき例の洋犬が出て来て、本来ならば主人に加勢してお角に吠(ほ)え付くか咬み付くかしそうなものですが、却ってお角に嗾(けしか)けられて、主人のアグネスに飛びかかって、とうとう咬み殺してしまったと云うわけです。飼犬に手を咬まれるとはこのことで、犬はよっぽど、お角になついていたものと見えます。そのご褒美に、犬はお角の手から番木鼈(マチン)を貰いました。その毒にあたって斃(たお)れるところを、前に申す通り、眼玉をくり抜いたり、腹を裂いたり、さんざんに斬り刻んで川へ投げ込んだ。犬はお角になついていたが、お角はよっぽど犬を憎んでいたのでしょう。大きい犬の死骸を運ぶのは女の手一つではむずかしい。表に国蔵か甚八が待っていたのだろうと思いますが、二人は知らないと云います。お角も自分ひとりでやったと云っていました。
さてその翌日は写真屋殺し……。これはもう大抵お判りになっている事と思います。生麦の立場茶屋には国蔵と甚八が待っていて、島田を別の駕籠に乗せて江戸へ送り込みました。島田はモルヒネを飲まされて死んだのです。こんな手数をかけてわざわざ江戸まで運んで来たのは、迂闊(うかつ)なところへ死骸を捨てられないのと、ハリソン夫婦を殺した下手人を島田に塗りつけようとする企(たくら)みであったのですが、もう一つには、島田の額に犬という字を書いて、犬のようにして埋めてやりたいと思ったからだと云います。アグネスと島田はともあれ、ハリソンまでも殺したのはちっと判りかねますが、一つ部屋に寝ているハリソンを先に殺してしまわなければ、思うようにアグネスを殺すことが出来ないからだと、お角は云っていました。そうなると飛んだ巻添いですが、こんな女に係り合ったのが災難と諦(あきら)めるのほかはありますまい。
この以上のことはお角もあらわに申立てません。役人たちも深く立入って詮議をしませんでした。吾八も薄うすはその秘密を知っていたらしいのですが、これも知らないと云って押通してしまいました。わたくしにもお話は出来ません」
「それで、お角はどうなりました」
「もちろん命が二つあっても足りない位ですが、女牢(おんなろう)に入れられて吟味中、流行の麻疹(はしか)に取りつかれて三日ばかりで死にました。お角にとっては、麻疹の流行が勿怪(もっけ)の幸いであったかも知れません。例の彫物の写真はヘンリーの方でも要らないと云うので、町奉行所にそのまま保管されていましたが、江戸が東京とあらたまって、町奉行所の書類いっさいが東京府庁へ引渡された時に、写真なぞはどう処分されましたか、おそらく焼き捨てられてしまったでしょう。
コックの富太郎と雇い女のお歌が、主人夫婦の変死について少しも知らないのは可怪(おかし)いと云う者もありましたが、まったく知らないと判って釈(ゆる)されました。二人は夫婦になって、のちに西洋料理屋をはじめました。吾八はのちに宇都宮吾陽(うつのみやごよう)という威(いか)めしい名乗りをあげて、横浜では売出しの写真師になりました。わたくしもこの人に写真を撮って貰ったことがあります」
老人は手文庫の底を探って、明治初年の古い写真を出して見せた。
 

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