半七捕物帳 第六巻/吉良の脇指

• 底本：2000年7月10日春陽堂書店発行『半七捕物帳第六巻』

吉良（きら）の脇指（わきざし）

一

極月（ごくげつ）の十三日――極月などという言葉はこのごろ流行（はや）らないが、この話は極月十三日と大時代に云った方が何だか釣合いがいいようである。その十三日の午後四時ごろに赤坂の半七老人宅を訪問すると、わたしよりもひと足先に立って、蕎麦屋（そばや）の出前持ちが盛り蕎麦の膳（ぜん）をかついで行く。それが老人宅の裏口へはいったので、悪いところへ来たとわたしはすこし躊躇（ちゅうちょ）した。

今のわたしならば、そこらをひと廻りして、いい加減の時刻を見測（みはから）って行くのであるが、年の若い者はやはり無遠慮である。いったんは躊躇したものの、思い切って格子をあけると、おなじみの婆やが出て来て、すぐに奥へ通された。

「やあ、いいところへお出でなすった」と、老人は笑いながら云った。「まあ、蕎麦をたべて下さい。なに、婆やの分は追い足しをさせます。まあ、ご祝儀に一杯」

「なんのご祝儀ですか」

「煤掃（すすはき）ですよ」

大掃除などの無い時代であるから、歳（とし）の暮れの煤掃はどこでも思い思いであったが、半七老人は極月十三日と決めていると云った。

「わたくしなぞは昔者ですから、新暦になっても煤掃は十三日、それが江戸以来の習わしでしてね」

「江戸時代の煤掃は十三日と決まっていたんですか」

「まあ、そうでしたね。たまには例外もありましたが、大抵の家では十一二日に煤掃をする事になっていました。それと云うのが、江戸城の煤掃は十二月十三日、それに習って江戸の者はその日に煤掃をする。したがって、十二日、十三日には、煤掃用の笹竹（ささだけ）を売りに来る。赤穂（あこう）義士の芝居や講談でおなじみの大高源吾（おおたかげんご）の笹売りがそれです。そのほかに荒神さまの絵馬を売りに来ました。それは台所の煤を払って、旧（ふる）い絵馬を新しい絵馬にかえるのです。笹売りと絵馬売り、どっちも節季らしい気分を誘い出すものでしたが、明治以来すっかり絶えてしまいました。どうも文明開化にはかないませんよ。はははははは。そんなわけですから、わたくしのような旧弊人はやはり昔の例を追って、十三日には煤掃をして家内じゅう、と云ったところで婆やと二人ぎりですが、めでたく蕎麦を祝うことにしています。いや、年寄りの話はとかく長くなっていけません。さあ、伸びないうちに食べてください」

「では、お祝い申します」

わたしは蕎麦のご馳走（ちそう）になった。夏は井戸換え、冬は煤掃、このくらい心持のいいことはないと、老人はひどく愉快そうであった。きょうは雪もよいの、なんだか忌（いや）に底冷えのする日であったが、老人はさのみに恐れないような顔をしていた。やはり昔の人は強いと、わたくしは思った。

そばを食ってしまって、茶を飲んで、それから例のむかし話に移ったが、かの大高源吾の笹売りから縁を引いて、頃（ころ）は元禄（げんろく）十五年極月の十四日、すなわち江戸の煤掃の翌晩に、大石（おおいし）の一党が本所松坂町（ほんじょまつざかちょう）の吉良（きら）の屋敷へ討入りの話になった。老人お得意の芝居がかりで、定めて忠臣蔵のご講釈でも出ることと、私はひそかに覚悟していると、きょうの話はすこし案外の方角へそれた。

「どなたもご承知の通り、義士の持ち物は泉岳寺（せんがくじ）の宝物になって残っています。そのほかにも、大石をはじめ、他の人びとの手紙や短冊のたぐい、世間にはいろいろ伝わっているようですが、どれもみんな仇討（かたきうち）をした方の物ばかりで、討たれた方の形見は見あたらないようです。上杉家（うえすぎけ）には何か残っているかも知れませんが、世間に伝わっているという噂󠄀（うわさ）を聞きません。ところが、江戸にただ一軒、こういう家がありました。今も相変らず繁昌かどうか知りませんが、日本橋（にほんばし）の伊勢町（いせちょう）に河辺昌伯（かわべしょうはく）という医者がありまして、先祖以来ここに六代とか七代とか住んでいるという高名の家でしたが、その何代目ですか、元禄時代の河辺という人は外科がたいそう上手であったそうで、かの赤穂の一党が討入りの時に吉良上野（こうずけ）の屋敷から早駕籠（はやかご）で迎えが来まして、手負いの療治をしました。勿論（もちろん）、主人の上野は首を取られたのですから、療治も手当てもなかったでしょうが、吉良の息子や家来たちの疵（きず）を縫ったのでしょう。そのときにどういうわけか、吉良上野が着用の小袖（こそで）というのを貰（もら）って帰って、代々持ち伝えていました。小袖は二枚で、一枚は白綾（しろあや）、一枚は八端（はったん）、それに血のあとが残っていると云いますから、おそらく吉良が最後のときに身に着けていたものでしょう。何分にも吉良の形見では人気が付かないのですが、河辺の家では吉良の形見というよりも先祖の形見という意味で大切に保存していたそうで、これは疑（まが）い無しの真物（ほんもの）だと云うことでした」

「たとい吉良にしても、元禄時代のそういう物が残っているのは珍らしいことですね」

「まったく珍らしいという噂󠄀でした。わたくしは縁が無くて、その河辺さんの小袖は見ませんでしたが、別のところで吉良の脇指というのを見たことがありました」

「いろいろの物が残っているものですね」

「それが又おもしろい。吉良の脇指がかたき討に使われたんですからね。物事はさかさまになるもので、かたきを討たれた吉良の脇指が、今度はかたき討のお役に立つ。どうも不思議の因縁ですね。しかしこのかたき討は、いつぞやお話し申した『青山の仇討』一件のような、怪しげなものじゃあありません」

わたしの手がそろそろ懐ろへはいるのを横眼に視（み）ながら、半七老人は息つぎに煙草（たばこ）を一服すった。

「はは、あなたの閻魔帳（えんまちょう）がもう出る頃だと思ってましたよ」

老人は婆やを呼んでランプをつけさせた。雪は降り出さないが、表を通る鮒売（ふなう）りの声が師走（しわす）の寒さを呼び出すような夕暮である。

「しかし、きょうは煤掃でお疲れじゃありませんか」と、わたしはまた躊躇した。

「なに、あなた、煤掃と云ったところで、こんな猫のひたいのような家ですもの、突かれる程の事はありゃあしません。煤掃を仕舞って、湯にはいって、そばを食って、もう用はありませんよ。まあ、例のお話でも始めましょう」

老人は元気よく話し出した。

「相変らずわたくしのお話は前置きが長くってご退屈かも知れませんが、いつもの癖だと思ってお聞き流しを願います。嘉永（かえい）六年十二月はじめの寒い日でした。わたくしは四谷（よつや）の知りびとをたずねる途中、麹町（こうじまち）三丁目へまわって、例の助惣焼（すけそうやき）の店で手土産を買っていると、そこへ瓦版（かわらばん）の読売（よみうり）が来ました。浅草天王橋（あさくさてんのうばし）のかたき討と云うのです。

この仇討は十一月の二十八日、常陸国上根本村（ひたちのくにかみねもとむら）の百姓、幸七（こうしち）の妹おたかというのが叔父の助太刀で、兄のかたき予右衛門（よえもん）を天王橋で仕留めた一件です。与右衛門は村の名主で、年貢金を横領したとか云う捫着（もんちゃく）から、その支配内の百姓十七人が代官所へ訴え出ましたが、これは百姓がたの負け公事（くじ）になりました。その以来、名主と百姓とのあいだの折合いが悪く、百姓がたの組頭幸七が急病で死んだのは、名主が毒殺したのだと云うのです。そこで、妹のおたかは兄のかたき討を思い立って、女ひとりで江戸へ出て、かのお玉ヶ池（たまがいけ）の千葉周作（ちばしゅうさく）の家へ下女奉公に住み込んで、奉公のあいだに剣術の修行をしていました。その叔父の名は忘れましたが、これは国許（くにもと）で医者をしていたそうです。その叔父が十一月なかばに江戸へ出て来て、かたきの予右衛門が年貢納めに江戸へ来ると云うことを教えたので、おたかは主人から暇を取り、予右衛門が天王橋を通るところを待ち受けて、叔父の手引きで本意（ほい）を遂げました。

しかし相手の与右衛門が確かに幸七を毒殺したと云う証拠が薄いので、このかたき討の後始末はなかなか面倒になりました。それにしても、女が往来で兄のかたきを討ったと云うので、その当座は大評判、瓦版の読売にもなったのです。こんにちの号外と同じことで、瓦版はずいぶん売れました。

今もその瓦版の読売が面白そうに呼びながら、助惣の店の前を通りかかると、ひとりの若い男が駈（か）けて来て、引ったくるように一枚の瓦版を買って、往来のまん中に突っ立ったままで、一心不乱に読んでいる。それは年ごろ十八九の小粋（こいき）な男で、襟のかかった半纏（はんてん）を着ていましたが、こんなことが好きなのか、よっぽど面白いのか、我れを忘れたように一心に読んでいるのです。わたくしも商売柄、こんな事にも眼がつきますから、これには何かの仔細（しさい）がありそうだと思いましたが、別にどうすると云うわけにも行きません。買い物の助惣焼を小風呂敷（こぶろしき）につつんで店を出ると、そこへ通りかかって、やあ、親分と声をかける者がありました。

見ると、それはこの近所に住んでいる馬秣屋（まぐさや）の亭主です。この時代には普通に飼葉屋（かいばや）とか藁屋（わらや）とか云っていましたが、その飼葉屋の亭主の直七（なおしち）、年は四十ぐらいの面白い男でした。ご承知の通り、飼葉屋というのは方々の武家屋敷へ出入りして、馬秣を納めるのが商売です。わたくしは前からこの男を識（し）っているので、二つ三つ世間ばなしなぞをして別れました。それから四谷の方へ行こうと思って、麹町四丁目の辺まで行きかかると、あとから直七が追って来ました。直七には連れがある。それは熱心に瓦版を読んでいた若い男でした。

直七はわたくしを呼びとめて、まことに相済みませんが、そこまでお顔を拝借したいと云うのです。わたくしも連れの男に眼をつけていたところですから、二人に誘われて近所のうなぎ屋の二階は連れ込まれました。これがこのお話の発端（ほったん）です」

二

飼葉屋の直七の紹介によると、麹町の平河天神（ひらかわてんじん）前に笹川（ささがわ）という魚屋がある。魚屋と云っても、仕出しを兼ねている相当の店で、若い男はその忰（せがれ）の鶴吉（つるきち）というのである。親父の源兵衛（げんべえ）は五年前に世を去って、母のお秋（あき）が帳場を切り廻している。鶴吉はことし十九であるが、父のない後は若主人として働いている。お秋は女でこそあれ、なかなかのしっかり者で、亭主の存生（そんじょう）当時よりも商売を手広くして、料理番と若い者をあわせて五、六人を使っている。

これだけならば、まことに無事でめでたいのであるが、ここに一つの事件が起った。笹川には鶴吉の姉にあたるお関（せき）という娘があった。お関は容貌（きりょう）もよし、遊芸ひと通りも出来るので、番町（ばんちょう）の御廐谷（おうまやだに）に屋敷をかまえている五百石取りの旗本福田左京（ふくださきょう）の妾（そばめ）に所望された。左京の本妻は間もなく病死したので、妾のお関が本妻同様の位置を占めて、屋敷内でも羽振りがよくなった。笹川の店が大きくなったのも娘のお蔭（かげ）であるという世間の噂󠄀もまんざらの噓（うそ）では無かったらしい。これもそのままで済んでいれば無事であったが、ことしの十月六日の夜に、主人の左京と妾のお関が他人に殺害された。下手人は中間の伝蔵（でんぞう）であった。伝蔵は武州秩父（ぶしゅうちちぶ）の生れで、あしかけ六年この屋敷に奉公していたが、この四月頃から女中のお熊（くま）と密通しているのを、お関が発見した。武家の習い、こういう者を捨てて置くわけには行かないので、主人と相談して、この八月かぎりでお熊を宿へ下げた。伝蔵も長の暇（いとま）となるべきであったが、六年も勤め通した者でもあり、小才覚もあって何かの役に立つので、これはそのままに残して置いた。

その伝蔵が十月六日の夜ふけに、主人の寝室へ忍び込んで、手箱の金をぬすみ出そうとするところを、眼をさました左京に咎（とが）められたので、彼は枕もとの脇指（わきざし）をぬいて主人を斬（き）った。つづいてお関を斬った。その物音を聞いて、家来の誰（だれ）かが駈けつけて来るらしいので、彼は縁側の雨戸をあけて、庭口から表へ逃げ出した。

伝蔵は主人と妾を斬っただけで、なんの獲物もなかったのである。それでは何のために重罪を犯したのか判（わか）らなくなる。彼は度胸を据えて、隣り屋敷の高木道之助（たかぎみちのすけ）の門を叩（たた）いた。高木は主人左京の本家で、次男の左京が福田家の養子となったのである。伝蔵は高木家の用人に逢（あ）って、主殺しの顛末（てんまつ）をつつまず訴えた。

「これが表向きになりましては、五百石のお屋敷が潰（つぶ）れましょう。わたくしに三百両の金を下されば、黙って故郷へ帰ります」

主人を殺した上に、その本家へ押掛けて行って、三百両の金をゆすろうとするのである。その図太いのに用人も呆（あき）れた。

しかしこの時代としては、これも強請（ゆすり）の材料になる。主人が家来に殺された上に、その家に相続人が無いとすれば、福田の屋敷は当然滅亡である。この一件を秘して置いて、どこからか急養子を迎えて、その上で主人の左京は死去したように披露すれば、なんとか無事に済まされない事もない。そこへ付け込んで、伝蔵は本家から口留め金をまき上げようと企（たくら）んだのであった。

自分が人殺しをして置いて、その口留め金をゆするなどは、あまりにも法外である。憎さも憎しと思いながら、前に云うような事情もあるので、用人は迂闊（うかつ）にそれを刎（は）ねつけることが出来なかった。

「これは自分一存で返事のなることで無い。しばらく待っていろ」

伝蔵をひと間に待たせて置いて、用人はそれを主人に報告すると、道之助もおどろいた。ともかくも左京と妾はどうしたか、その生死を見とどけて来いと、家来を庭口の木戸から隣り屋敷へ出してやると、主人も妾も絶命したと云うのである。道之助は憤然として用人に云い渡した。

「その伝蔵という奴（やつ）、主人を殺した上に大金をゆするなどとは言語道断である。この上は福田の家の存亡などを考えているに及ばぬ。左様な不忠不義の曲者（くせもの）は世の見せしめに、召捕って町奉行所へ引渡せ」

家来どもは心得て、伝蔵召捕りに立ちむかうと、その姿はもう見えなかった。彼もなかなか抜け目が無い。用人の返事を待つあいだも、絶えず屋敷内の様子に気を配っていて、形勢不利となったのを早くも覚（さと）ったらしく、隙（すき）を窺（うかが）って怱々（そうそう）に逃げ去ったのである。高木の屋敷の人びとは自分たちの不注意を悔（くや）んだが、もう遅かった。

高木と福田の両家からその次第を届け出て、型のごとくに検視を受けたが、福田の家は予想の通りに取潰（とりつぶ）された。福田の家には子供がなく、家内は用人のほかに家来二人、中間三人、下女二人であったが、屋敷の滅亡と共に、皆それぞれに離散した。

正式の届け出があった以上、町奉行所でも罪人伝蔵のゆくえ探索に着手したのは勿論であるが、それは半七の係り合いで無かったので、今までに別に手を着けようともしなかった。しかし彼も大体の話は聞いていた。それを今あらためて直七と鶴吉の口から詳しく説明されたのである。

「まあ、親分。そういうわけでございます」と、直七は鶴吉を見かえりながら云った。「それをこの鶴さんと阿母（おっか）さんがたいへんに残念がっているのです。殊におっ母さんはしっかり者ですから、どうしてもこのままに済まされないと云っています。娘のかたきばかりじゃあない、ご主人のかたきだ。福田の殿様には長年お世話になっている。今度お屋敷が潰れたについて、ご用人もご家来衆もみんな勝手にどこへか立去ってしまって、主人のかたきを探そうとする者もないのは、あんまり口惜（くやし）い。百姓でも町人でも、かたき討は天下御免だ。お前がその伝蔵をさがし出して、殿様と姉さんのかたき討を立派にしろと、鶴さんに云い聞かせたのです」

勝気の母に激励されて、魚屋の若い息子は主人と姉のかたき討を思い立った。その以来、鶴吉は麹町八丁目の町道場へ通って、剣術の稽古（けいこ）をしていると云う。彼が瓦版を熱心に眺めていたのは、自分にもかたき討の下心がある為であったことを半七は初めて覚った。

「そこで、親分さんにお願いでございますが……」と、直七は云いつづけた。「おっ母さんも鶴さんも一生懸命に思い詰めているのですから、まあ助太刀をしてやると思召（おぼしめ）して、子分の衆にでも云いつけて、その伝蔵の在所（ありか）を探してやっていただくわけには参りますまいか」

「何分お願い申します」と、鶴吉も畳に手をついた。

「いや、判りました」と、半七はうなずいた。「成程、おっ母さんの云う通り、一季半季の渡り中間なんぞは格別、かりにも侍と名の付いている用人や家来たちが、あと構わずに退転してしまうと云うのは、どうも面白くねえようだ。だが、おまえさんが自分でかたき討をすると云うのも、ちっと考えものだ」

鶴吉は福田の屋敷の家来ではない。主人の妾の弟に過ぎないのあるから、表立って主人のかたきと名乗り掛けるのは無理であろう。姉のかたきと云えば云われるが、伝蔵のような罪人は公儀の手に召捕らせて、天下の大法に服させるのが当然であって、私（わたくし）のかたき討をするべきでは無いと、半七は云い聞かせた。

「親分のお諭しはご尤（もっと）もでございますが、あの伝蔵を自分の手で仕留めなければ、わたくしの気が済みません。母の胸も晴れません。首尾よく本望を遂げました上は、自分はどんなお仕置きになっても厭（いと）いません」と、鶴吉はあくまでも強情を張った。

一途（いちず）に思いつめた若い者に対して、半七もいろいろに理解を加えたが、彼はどうしても肯（き）かないのである。しかも半七はその強情を憎くむことも出来なかった。

「それほど思い詰めたら仕方がねえ。まあ、思い通りにかたき討をおしなせえ」

「有難うございます。ありがとうございます」と、鶴吉は涙をながして喜んだ。

「そこで、その伝蔵のありかを突き留めて、わたしらの手で押えるならば仔細はねえが、おまえさんの手で討つとなると、仕事がちっと面倒だ。伝蔵という奴は腕が出来るのかえ」と、半七は訊（き）いた。

「なに、たいして出来る奴でも無さそうですが……」と、直七が引取って答えた。「それが主人を一刀で斬って、つづいてお関さんも斬ってしまうと云うのは、あんまり手ぎわが好すぎるようにも思われます。それには何だか因縁がありそうで……。ねえ、鶴さん」

「母は因縁だと申していますが……」

「どんな因縁だね」と、半七はまた訊いた。

「今時こんなお話をいたしますと、他人さまはお笑いになるかも知れませんが……」と、鶴吉は躊躇しながら云った。「伝蔵は主人の枕元にある脇指で斬ったのですが、その脇差が吉良上野殿の指料（さしりょう）であったと云うことです。その由来は存じませんが、先祖代々伝わっているのだそうです」

「先祖伝来はともかくも、好んでそんな物を差すと云うのは、よっぽどの物好きだね」

「物好きと云えば物好きです。吉良の脇指というので、代々の殿様は差したこともなく、土蔵のなかに仕舞い込んであったのを、先年虫ぼしの節に、今の殿様が御覧になって、どこが気に入ったのか、自分の指料にすると仰（おっ）しゃいました。そんな物はお止（や）めになったが好かろうと云った者もありましたが、殿様はお肯きになりません。それは刀が悪いのではなく、差し手が悪いのだ。吉良が悪いから討たれたのだ。おれは吉良のような悪い事はしない、吉良の良い所にあやかって四位の少将にでも昇進するのだなぞと仰しゃって、とうとうその脇指を自分の指料になさいました。それから四、五年のあいだは何事もなかったのですが、図らずも今度のようなことが出来（しゅったい）しまして、殿様も姉もその脇指で殺されました。姉はふだんからその脇指のことを気にしていまして、吉良の脇指なんぞは縁起が悪いと云っていましたが、やっぱり虫が知らせたのかも知れません」

「刀の祟（たた）りということは、昔からよく云いますが、吉良の脇指なども良くないのでしょうね」と、直七は仔細らしく云った。

「吉良の脇指も村正（むらまさ）と同じことかな」と、半七はほほえんだ。「そこで、その脇指はどうなったね。伝蔵が持ち逃げかえ」

「いえ、庭先に捨ててありました」と、鶴吉は云った。「お屋敷の後始末をする時に、こんな物はいよいよ縁起が悪いから、折ってしまうかと云うことでしたから、わたくしがお形見に頂戴（ちょうだい）いたして参りました。わたくしはそれで伝蔵を討ちたいと思いますが、いかがでしょう」

「それもよかろう。吉良の脇指でかたき討をしたら、世の中も変ったものだと、泉岳寺にいる連中が驚くかも知れねえ」

冗談は冗談として、半七は年の若い鶴吉に同情した。おなじ刀で相手を仕留めれば、それは本当のかたき討である。刀屋に渡してせいぜい研がせておけと、半七は彼に注意して別れた。

三

麹町から四谷へまわって、半七が神田（かんだ）の家へ帰ったのは、冬の日の暮れかかる頃であった。湯に行って、ゆう飯を食ってしまうと、善八（ぜんぱち）が来た。

「節季になったせいか、寒さがこたえますね」

「ご同様に歳の暮れというものは暖くねえものだ」と、半七は笑った。「その節季に気の毒だが、一つ働いて貰いてえ事がある。急ぎと云うでもねえが、急がねえでもねえ。まあ、せいぜいやってくれ」

「なんですね」

「かたき討の助太刀と云ったような筋だ」

「芝居がかりですね」と、善八も笑った。

「こういうことになると、おれもちっと芝居っけを出したくなる。本当ならば虚無僧（こむそう）にでも姿をやつして出るところだが、真逆（まさか）そも行かねえ。まあ、聴いてくれ」

吉良の脇指の一件を聞かされて、善八はうなずいた。

「成程、こりゃあいよいよお芝居だ。そこで、まずどこから手を着けますね」

「この一件は四谷の常陸屋（ひたちや）の係りだ。ひと通りの探索はしているだろうが、こっちはこっちで新規に手を伸ばさなけりゃあならねえ。直七と鶴吉の話によると、その伝蔵という奴は秩父の生れだそうだが、一文無しで故郷へ帰ることも出来めえ。といって、江戸にいるのも危ねえというので、どっかへ草鞋（わらじ）は穿（は）いたかも知れねえ。なにしろ三月も前のことだから、その足あとを尾（つ）けるのがちっと面倒だ」

「伝蔵と係り合いの女はどこにいるのでしょう」

「それはお熊という女で、年は十九、宿は堀江（ほりえ）だそうだ」

「堀江とはどこですね」

「下総（しもうさ）の分（ぶん）だが、東葛飾（ひがしかつしか）だから江戸からは遠くねえ。まあ、行徳（ぎょうとく）の近所だと思えばいいのだ。そこに浦安（うらやす）という村がある。その村のうちに堀江や猫実（ねこざね）……」

「判りました。堀江、猫実……。江戸から遠出の釣りや汐干狩（しおひがり）に行く人があります」

「そうだ、そうだ。つまり江戸川（えどがわ）の末の方で、片（かた）ッ方（ぽ）は海にむかっている所だ。むかしは堀江千軒と云われてたいそう繁昌した土地だそうだが、今は行徳や船橋（ふなばし）に繁昌を取られて、よっぽど寂れたと云うことだ。漁師町だが、百姓も住んでいる。お熊はそこの宇兵衛（うへえ）という百姓の妹だそうだ。そこで、おれの鑑定じゃあ、お熊が八月に屋敷を出された時、いずれ伝蔵がたずねて行くという約束でもあって、伝蔵は主人の金をぬすんで逃げ出そうとしたのだろう」

「そうすると、伝蔵はお熊の宿に隠れているのでしょうか」

「さあ、そこだ」と、半七は首をかしげた。「望み通りに金を盗めば、堀江まで行ったろうが、これも一文無しじゃあどうだろうか。第一、お熊がすぐに国へ帰ったか、それとも江戸のどっかに奉公して伝蔵のたよりを待っているか、それも判らねえ」

「堀江まで踏み出しても無駄でしょうか」

「無駄かも知れねえ。無駄と知りつつ無駄をするのも、商売の一つの道だ。さしあたって急用もねえから、念晴らしに明後日（あさって）あたり踏み出してみるかな」

「おまえさんも行きなさるかえ」

「道連れのある方が、おめえも寂しくなくて好かろう。行くとなれば、深川（ふかがわ）から行徳まで船で行くほうが便利だ。ちっと寒いが仕方がねえ。朝は七ツ（午前四時）起きだ」

「じゃあ、そうしましょう」

約束をきめて、善八は帰った。

その翌々日の朝は、江戸の町にも白い霜を一面に置いていた。半七と善八は予定の通りに、行徳がよいの船に乗込んで、まず行徳の町に行き着いた。ここらの川筋はよい釣り場所とされているので、釣道具などを宿屋へあずけて置いて、江戸からわざわざ釣りにゆく者も少なくないので、宿屋でも心得ていて、釣舟や弁当の世話などをする。そのなかでも、伊勢屋（いせや）というのが知られているので、半七らもここへはいることにした。

宿屋へはいると、ひと足さきに来て脚絆（きゃはん）をぬいでいる男があった。

「やあ、三河町（みかわちょう）の親分、不思議な所で……」と、男は見かえって声をかけた。

彼は下谷（しもや）の御成道（おなりみち）に店を持っている遠州屋才兵衛（えんしゅうやさいべえ）という道具屋である。もっぱら茶道具をあきなって、諸屋敷へも出入りしているだけに、人柄もよく、行儀もよかった。

「まったく不思議なご対面だ」と、半七も笑った。「お前さんはこんな所へ何しに来なすった。寒釣りかえ」

「なに、そんな道楽じゃあありません。これでも信心参りで……。五、六人の連れがありましたので、成田（なりた）へ参詣（さんけい）して来ました」

「それにしても、途中から連れに別れて、ひとりでここへ来なすったのか」

「まあ、そんなわけで。へへへへへ」

才兵衛は何か独りで笑っていた。おなじ二階ではあるが、裏と表の別々の座敷へ通されて、半七らがまず寛（くつろ）いで茶を飲んでいると、如才のない才兵衛はすぐに挨拶（あいさつ）に来て、お珍らしくはありませんが、お茶菓子にと、成田みやげの羊羹（ようかん）などを出した。

「そこで、お前さん方は……」と、才兵衛は声をひくめた。「なにか御用で……」

「まあ、用のような、遊びのような……」と、半七は曖昧（あいまい）に答えた。「ここらは大そう釣れると云うから……」

「じゃあ、やっぱり釣りですか。わたくしも一度、近所の人に誘われて、ここへ釣りに来たことがありました。しかしどこへ行っても、下手は下手で……」

釣りの失敗話などをして、才兵衛は自分の座敷へ帰った。そのうしろ姿を見送って、善八はささやいた。

「あいつ、成田から帰る途中、ひとりでここへ廻って来たのは、なにか掘出し物のあてがあるんですぜ」

「まあ、そうだろう。あいつも商売には抜け目がないからな」

女中に訊（き）くと、才兵衛はすぐに又どこへか出て行ったとの事であったが、善八は少し風邪を引いていると云い、海辺の風は殊に寒いというので、半七らはどこへも出ずに一泊した。

あくる日は風も凪（な）いで、十二月にはめずらしい程のうららかな日和となった。ここから一里あまりの堀江までは、陸（おか）でも舟でも行かれるのであるが、半七らは陸を行くことにして、あさ飯の箸（はし）を置くとすぐに宿を出た。出るときに又もや才兵衛に逢った。彼も堀江へ行くと云うので、三人は一緒にぶらぶらあるき出した。

才兵衛は例の通りに、如才なく話しながら歩いていたが、なんだか半七らの道連れになるのを厭うような様子が見えた。結局、彼は途中に寄り道があると云って、狭い横道へ切れてしまった。

それに頓着（とんちゃく）せずに、二人は真っ直ぐに進んでゆくと、一方の海は遠い干潟になっていて、汐干狩にはおあつらえ向きであるらしく眺められた。そこには白い鳥の群れがたくさんに降りていた。土地の人に訊くと、それは白い雁（がん）であると教えてくれた。

「なるほど白雁というが、白い雁はめずらしい」と、善八は干潟を眺めているうちに、俄（にわか）に叫んだ。「親分、ご覧なせえ。遠州屋の奴め、いつの間には先廻りをして、あんな所をうろついていますよ」

指さす方角には彼（か）の才兵衛がうろうろして、砂の上で何か探し物でもしているらしかった。

「まさかに貝を拾っているのでもあるめえ、海端へ出て何をしていやあがるかな」

半七は気にも留めずに行き過ぎた。

堀江へ行き着いて、宇兵衛の家をたずねて、まずその近所で訊き合わせると、宇兵衛の妹は九月のはじめに江戸から一度帰って来たが、半月ほどの後にふたたび出て行った。宇兵衛はなぜかその行く先をはっきり云わないが、今度は江戸ではないらしく、舟橋の方へ奉公へ行ったという噂󠄀もあり、八幡（やわた）の方へ行ったという噂󠄀もある。以前の武家奉公と違って、今度は茶屋奉公に出たので、兄がその行く先を明かさないのだという噂󠄀もある。いずれにしても、お熊が実家に留（とど）まっていないのは確かであると近所の人たちは話した。

江戸から誰か尋ねて来た者はなかったかと訊きただすと、お熊がどこへか出て行った後、十月の初めに江戸から二人連れの男がたずねて来た。つづいてその月のなかば頃に一人の男がたずねて来て、宇兵衛の家にひと晩泊って帰ったと云うのである。魚釣りや汐干狩のほかには、他国の人があまり交通をしない場所だけに、見馴（みな）れない人の姿はすぐに眼について、宇兵衛方へたずねて来た二度の旅びとを近所の人たちはみな知っていた。

その人相や風俗を詮議（せんぎ）すると、初めの二人づれは四谷の常陸屋の子分らが伝蔵とお熊のありかを探りに来たらしく、後の一人は伝蔵自身であるらしかった。

「ともかくも宇兵衛の家へ行ってみよう」

半七は先に立って歩き出すと、冬がれの田のあいだに小さい農家が見いだされた。門口には大きい枯れすすきの一叢（ひとむら）が刈り取られずに残っていた。

四

すすきの蔭から覗（のぞ）くと、家の構えは小さいが、さのみに貧しい世帯とも見えないで、型ばかりの垣のなかにはかなり広い空地を取っていた。葉のない猫柳の下に井戸があって、女房らしい二十四五の女が何か洗い物をしていた。

案内を求めて、半七と善八が内へはいると、女房は湿手（ぬれて）をふきながら出て来た。

「宇兵衛さんはお内でしょうか」と、半七は丁寧に挨拶した。「わたしたちは江戸の者で、成田さまへご参詣に行った帰り道でございます。これはほんのお土産のおしるしで……」

善八に風呂敷をあけさせて、取出した羊羹二本はきのうの貰い物であった。

見識らぬ人のみやげ物を迂闊に受取っていいか悪いかと、その判断に迷ったように、女房は手を出しかねて、二人の顔を眺めていた。

「宇兵衛さんはお内ですか」と、半七は重ねて訊いた。

「居りますよ」と、女房はやはり不安そうに答えた。

この時、裏の畑からでも引抜いて来たらしい土大根二、三本をさげて、二十八九の男が井戸端に姿を現わした。女房は駈け寄って何かささやくと、男も不安らしい眼を据えて半七らをじっと窺っていたが、やがて大根を井戸ばたに置いて、門口に出て来た。

「宇兵衛はわたしですが、おまえさんがたはお江戸から来なすったのかね」

「ええ、今もおかみさんに云った通り、成田さまへご参詣に行った帰り道に、ちょいとお訪ね申しました。以前番町のお屋敷にご奉公していたお辰（たつ）さんに頼まれまして……」

お辰というのはお熊の故朋輩（もとほうばい）で、福田の屋敷が滅亡の際、四谷の御城坊主（おしろぼうず）の家へ奉公換えをした者である。その名は宇兵衛も聞き知っていたと見えて、俄に打解けたように会釈した。

「ああ、そうでしたか。番町のお屋敷にご奉公中は、妹めがいろいろご厄介になりましたそうで……。まあ、どうぞこちらへ……」

正直者らしい宇兵衛は、うたがう様子もなしに半七らを内へ招じ入れた。

「いや構わないで下さい。わたしたちは急ぎますから」と、半七は入口に腰をかけた。「早速ですが、お熊さんはどうしました。お辰さんもそれを心配して、わたしたちに訊いて来てくれと頼まれましたが……・」

「ご親切にありがとうございます」と、宇兵衛も丁寧に頭を下げた。「それではお前さんも大抵のことはご承知でございましょうが、お熊の奴め、飛んでもねえ心得違いを致しまして、なんとも申訳がございません」

「若え者だから仕方がないようなものだが、それからいろいろのことが出来（しゅったい）したらしいね」

「わたしも実にびっくりしました。九月のはじめにお熊が戻って来まして、初めは隠していましたが、どうも様子がおかしいので、だんだんに詮議いたしますと、実はこうこう云うわけでお暇（いとま）になったと白状いたしました。相手はどんな人か知らないが、お中間なんぞと係り合ったところで行く末の見込みは無いと、女房からも私からもよくよく意見をいたしましたら、当人も眼が醒（さ）めた様子で、その男のことは思い切ると申していました。しかし田舎に帰っていても仕様がないから、もう一度お江戸へ奉公に出してくれと云いますので、わたしたちはなんだか不安心に思いましたが、当人がしきりに頼みますので、とうとう又出してやることになりました。お熊はまったく思い切ったようで、万一その伝蔵という男がたずねて来ても、わたしの行く先を教えてくれるなと頼んで出ました」

「今度は江戸へ出て、どこへ奉公しているのだね」

「下谷の遠州屋という道具屋さんで……」

「遠州屋……」と、半七は善八と顔を見あわせた。そこらをうろついている道具屋才兵衛の店に、お熊が奉公していようとは、まことに不思議な廻（めぐ）りあわせであった。

「それから小ひと月も立ちまして、十月の十日とおぼえています」と、宇兵衛は話しつづけた。「お江戸から御用聞きの方が二人づれでお出でになりまして、お熊はどうした、伝蔵は来ているかというご詮議で……。だんだんのお話をうかがいまして、実におどろきました。伝蔵という男は、まあ何という奴か。妹にも早く思い切らせてよかったと、その時つくづく思いました。ところが、お前さん。それから五、六日の後に、その伝蔵がたずねて来ましたので、わたしたちはぎょっとしました」

「そこで、どうしたね」

「伝蔵はもう近所で探って来たと見えまして、お熊のいない事を知っていました。どこへ行ったと頻（しき）りに訊きましたが、わたしたちは知らないと云い切ってしまいました。お熊は断わりなしに家出をして、今どこにいるか判らないと、あくまでも強情を張り通しました。それでは今夜だけ泊めてくれと云いまして、ここの家にひと晩泊りまして、あくる朝出るときに路用の金を貸してくれと云いましたが、わたしたちの家に金なぞのある筈（はず）はありません。それでも幾らか貸せとゆすりますので、銭三百をかき集めてやりました」

「それで、おとなしく立ち去ったのか」

「お尋ねの身の上だから、うかうかしてはいられないと、自分でも云っていました」

本来ならば、伝蔵が一泊したのを幸いに、宇兵衛から村役人に訴え出るべきである。それをそのままにして、しかも幾らかの銭を貸してやったのは、自分の重々の落度であるが、何分にも伝蔵が恐ろしくて、どうすることも出来なかったと、宇兵衛夫婦は云った。

「伝蔵はどこへ行くとも云わなかったかえ」

「別に何とも云いませんでした。度胸がいいのか、その晩は高鼾（たかいびき）で寝ていました」

ここまで話して来た時に、門口のすすきの蔭から内を覗く者がある。それが彼の遠州屋才兵衛であった。半七らを顔をあわせて、才兵衛は困ったらしかったが、半七らも少し困った。お辰の使だなどと云って来た、その化けの皮がたちまち剝（は）げてしまうからである。勿論、いよいよとなれば、正体をあらわすまでの事であるが、これまで聞けば用はないと思ったので、半七は起（た）ち上がった。

「誰かお客があるようだ。わたしはこれでお暇としましょう」

「どうもお構い申しませんで……。お辰さんによろしく仰しゃって下さい」

宇兵衛夫婦に送られて門口へ出ると、今さら逃げる訳にも行かない才兵衛がそこに突っ立っていた。

「やあ、お前さんもここへ来たのかえ」

言い捨てて半七はすたすたと行き過ぎた。善八も無言でつづいて来た。やがて七、八間も田圃道（たんぼみち）を通り抜けた時、善八はあとを見かえりながら云った。

「親分。あの遠州屋はなんだか変な奴ですね」

「自分のくれた成田の羊羹が、あすこに置いてあるので驚いたろう」と、半七は笑った。

「何しに来たのでしょう」

「お熊は遠州屋に奉公していると云うから、まんざら縁のねえ事もねえが、なんでわざわざ寄り道をしやあがったかな」

「今の話聞くと、常陸屋の奴らがここへ詮議に来たと云うじゃあありませんか」と、善八は考えながら云った。「そうすれば一応は遠州屋の奉公先へも行って、お熊を調べたろうと思います。主（しゅう）殺しの伝蔵に係り合いのあると知れたらば、遠州屋でもすぐに暇（ひま）を出しそうなものだが、相変らず平気で使っているのでしょうか」

「遠州屋は四十ぐらいだろうな」

「そうでしょう。四十面をさげて、女房もあり、娘もあるくせに詰まらねえ女なんぞに引っかかって、たびたびぼろを出すという評判ですよ。あいつ、お熊にも手を出しているのじゃありませんかね」

「むむ、笹川の息子の話じゃあ、お熊というのは汐風（しおかぜ）に吹かれて育ったにも似合わねえ、色の小白い、眼鼻立ちの満足な女だそうだ」

「それだ、それだ」と、善八は肩をゆすって笑った。「親分、きっとそうですよ。女房子の手前があるから、どっかの二階へでもお熊を預けて置くつもりで、兄貴の所へその相談に来たのかも知れませんぜ。節季師走に暢気（のんき）な野郎だ」

「だが、羊羹を持っているところを見ると、成田へは行ったのだろう」

「そう云わなけりゃあ家を出られねえから、柄にもねえ信心参りなぞへ出かけたに違（ちげ）えねえ。あの貉（むじな）野郎、途中で連れに別れたなんて云うのは嘘の皮で、初めっから自分ひとりですよ」

「まあ、そう妬（や）くなよ」

「妬くわえじゃあねえが、あいつは方々の屋敷へいい加減ないか物をかつぎ込んで、あこぎな銭もうけをするという噂󠄀で、道具屋仲間でも泥坊のように云われている奴ですからね」

善八にさんざん罵倒（ばとう）されているのも知らずに、才兵衛は宇兵衛夫婦を相手に、今ごろ何を掛合っているかと半七は考えた。

五

嘉永五年の冬は暮れて、明くる年の七年の春が来た。

歴史の上では安政（あんせい）元年というが、その年号が安政と改まったのは十一月二十七日のことであるから、その当時の人はやはり嘉永七年と云っていた。この正月は晴天がつづいて、例年よりも暖かであった。

福田の屋敷には、伝蔵のほかに、乙吉、鎌吉、幸作という三人の中間があったが、滅亡の後は思い思いに立退いて、諸方の武家屋敷に奉公している。その奉公先へ伝蔵が立ち廻るようなことは無いかと、半七は子分に云いつけて絶えず警戒させていたが、彼はどこへも姿を見せなかった。遠州屋のお熊のところへ尋ねて来たような形跡もなかった。

一月の末になって、子分の幸次郎（こうじろう）がこんなことを報告した。

「伝蔵はやっぱり江戸にいますよ。福田の屋敷にいた曾根鹿次郎（そねしかじろう）という若侍が、当時は牛込神楽坂（うしごめかぐらざか）辺の坂井金吾（さかいきんご）という旗本屋敷に住み込んでいます。その曾根が二、三日前に小梅（こうめ）の光隆寺（こうりゅうじ）へ墓参に行きました。光隆寺は福田の屋敷の菩提寺（ぼだいじ）ですから、命日という訳じゃあねえが、曾根も勤めの暇を見て、旧主人の墓参りに行ったそうです。参詣を済ませて寺を出ると、どこから尾けて来たのか伝蔵が門の前に待っていて、自分はお尋ね者で商売に取付くことも出来ず、その日にも困っているから、幾らか恵んでくれと云ったそうです。そのずうずうしさには、曾根も呆れました。たとい昔の知りびとに出逢っても、顔を隠して逃げるのが当然だのに、自分の方から声をかけて、いくらか貸せとゆするとは、まったく思い切ってずうずうしい奴です。曾根も腹立ちまぎれに斬（き）ってしまおうかと思ったのですが、自分も今は主人持ちですから、旧主人のかたきを討つと云うのは少し面倒です。取押えて番所へ突き出そうと思って、不意にその利き腕をとって捻（ね）じあげると、伝蔵もなかなか腕っ節の強い奴で、振払って摑（つか）み合いになりましたが、あの辺は路が悪い、霜どけ道に雪駄（せった）をすべらせて、曾根が小膝（こひざ）を突いたところを、伝蔵は突き放して一目散に逃げてしまったそうです」

「成程、主殺しでもするだけに、思い切ってずうずうしい奴だな」と、半七も呆れたように云った。「馬鹿か、図太いのか、なにしろそんな奴じゃあ、どこへのそのそ這（は）い出して来るかも知れねえ。江戸にいると決まったら、なおさら気をつけてくれ」

それから十日ほどの後に、善八がこんなことを聞き出して来た。

「麹町四丁目の太田屋（おおたや）という酒屋は、福田の屋敷へ長年の出入りだったそうです。その女房が娘と小僧を連れて、王子稲荷（おうじいなり）の初午（はつうま）へ参詣に行くと、王子道のさびしい処で、伝蔵に出逢ったそうです。これも同じような文句をならべて、お尋ね者で食うに困るから幾らか恵んでくれと云う。こっちは女子供だから、怖いのが先に立って、巾着銭（きんちゃくぜに）をはたいて二朱（しゅ）と幾らかを捲（ま）き上げられたそうですよ。いよいよ図太い奴ですね」

主殺しのお尋ね者が世間を憚（はばか）らず、この江戸市中を徘徊（はいかい）して昔馴染（なじみ）をゆすって廻るなどは、重々不埒（ふらち）な奴であると半七は思った。

「そんな奴をのさばらせて置くと、上（かみ）の威光にかかわるばかりか、おれたちの顔にもかかわる。本気になって早く狩り出してしまえ」

それからまた四、五日の後に、亀吉（かめきち）から新しい報告があった。

「福田の屋敷に勤めていたお辰という女は、このごろ四谷坂町（さかまち）の奥平宗悦（おくだいらそうえつ）という御城坊主の家に奉公しています。そのお辰が二、三日前の晩に、主人の使で塩町（しおちょう）まで出て行く途中、例の伝蔵に取っ捉（つか）まって、主人の買い物をする金を取上げられた上に、そこらの空地へ引摺（ひきず）り込まれて、お熊の居どころを教えろと責められたそうですよ。お辰は知らないと云っても、伝蔵は承知しねえ。しまいにはお辰の喉（のど）を強く絞めて、さあ隠さずに云えと責め立てているところへ、近所の若侍が二、三人通りかかったので、伝蔵もあわてて逃げて行ったが、お辰は半死半生になって倒れてしまったそうです。ここらは常陸屋の縄張りだから、それを聞いてすぐに網を張ったが、伝蔵の姿はもう見えなかったそうで、常陸屋でも口惜がっていると云うことですよ」

「仕様がねえな」と、半七は舌打ちした。「そこで、そのお熊はどうした。相変らず遠州屋にいるのか」

「相変らず道具屋に勤めています」

「それじゃあどこからか嗅（か）ぎ付けて、伝蔵は遠州屋へ尋ねて来るかも知れねえ。善八と相談して、その近所を見張っていろ。だが、伝蔵を召捕っても、すぐに番屋へ引摺って行っちゃあいけねえ。おれに一応知らせてくれ」

「承知しました」

こうして油断なく網を張っていたのであるが、禍（わざわ）いは意外のところに起った。二月二十一日の夜五ツ半（午後九時）頃に、遠州屋の主人才兵衛は浅草の聖天下（しょうでんした）で何者にか殺害された。短刀か匕首（あいくち）で脇腹を刺されたのである。所持の財布の紛失しているのを見ると、おそらく物取りの仕業であろうという噂󠄀であった。

浅草の今戸（いまど）に、日本橋の古河（こが）という大きい鉄物屋（かなものや）の寮がある。才兵衛はそこへ茶道具類を見せに行って、その帰り途（みち）で災難にあったのである。聖天へ夜参りをしたのでもあるまいに、なぜ待乳山（まつちやま）の下まで踏み込んだのか、その仔細は判らなかったが、才兵衛に似た人物が一人の男と何か云い争いながら通るのを見た者があると云うので、かれらは何かの話でここへ踏み込んだらしく、したがって普通の物取りではあるまいと云う噂󠄀も生れた。

才兵衛の検視に半七は立会わなかったが、その下手人は大抵想像された。その噂󠄀を聞いて、彼は善八と一緒に御成道の遠州屋へ乗込むと、才兵衛の死骸（しがい）はまだ引渡されていないと見えて、店の番頭らは帰って来なかった。

家内の者を遠ざけて、半七は女中のお熊を店先へ呼び出した。お熊は明けて二十歳で、色の白い大柄の女であった。

「おまえはお熊か。なんでも正直に云え。この頃に伝蔵は来なかったか」と、半七はだしぬけに訊いた。

「参りました」と、お熊は素直にはきはきと答えた。「おとといの晩、町内のお湯屋へ参りますと、その帰りに伝蔵に逢いました」

「伝蔵はなんと云った」

「おれと一緒に逃げろと云いました」

「どこへ逃げるのだ」

「それは申しません。これから一緒に逃げるから、自分の金や着物を持出して来いと云っただけでございます」

「おまえは何という返事をした」

「いやだと断わりました。お前のような怖（おそ）ろしい人とは一緒には行かれないと申しました」

「それで伝蔵は承知したか」

「その怖ろしいことをしたのもお前の為だ。どうしても肯かなければ、主人もお前もただは置かないぞと、怖い顔をして嚇（おど）かしました」

「なぜ主人を恨むのだ」

お熊は少しく返答に躊躇した。

「お前の主人は伝蔵に恨まれるような筋があるのか」と、半七はすかさず訊いた。

「あの人は思い違いをしているのでございます」と、お熊は低い声で答えた。

「「思い違いじゃあるめえ」と、半七は笑った。「恨まれるだけの因縁があるのだろう。さもなければ、主殺しの凶状持ちに係り合いのあった女を、そのまま奉公させて置く筈があるめえ」

「昔のことは構わないから、ここの家に勤めていろと主人が申しました」

「そう云うには訳があるだろう。おれはみんな知っている。ここの主人は去年の暮れ、なんで堀江まで出かけたのだ」

よく知っていると云うように、お熊は半七の顔を見あげた。しかも彼女は案外に平気であった。

「旦那（だんな）は商売のことで……」

「商売の事とは何だ」

「雁の羽を取りに……」

「雁の羽……」

半七は訊き返した。勝手違いの返事をされて、彼もやや戸惑いの形であった。雁の羽がなんの役に立つのか、彼もさすがに知らなかった。

「はい。お茶の湯に使います」と、お熊は説明した。

世間のことはなんでも心得ているように思っていたが、残念ながら半七は茶事に暗かった。彼は我を折ってまた訊いた。

「雁の羽をどうするのだね」

「三（み）つ羽箒（ばねぼうき）にいたします」

堀江に育って、今は茶道具商売の店に奉公しているだけに、お熊は雁の羽について説明をして聞かせた。堀江の洲（す）にはたくさんの雁が降りる、そのなかに白い雁のむらがっているのは珍らしくないが、稀（まれ）には斑入（ふい）りの雁がまじっている。茶事に用いる三つ羽箒には野雁の尾羽（おば）をよしとするが、その中でも黒に白斑（しらふ）のあるのを第一とし、白に黒斑のあるのを第二とし、数寄物（すきしゃ）は非常に珍重するので、その価も高い。ひと口に羽と云っても、翼の羽ではいけない、必ず尾羽でなければならないと云うのであるから、それを拾うのは容易でない。お熊の兄の宇兵衛は堀江の浜で偶然に拾って、白斑と黒斑の尾羽をたくわえていた。

なにかの時に、お熊がその話をすると、主人の才兵衛は眼を丸くして喜んだ。いずれそのうちに堀江をたずねて、お雨の兄からその尾羽を譲って貰うと云っていたが、その年の暮れ、才兵衛は来年が四十一の前厄に当ると云うので成田の不動へ参詣に行って、その帰り道に堀江の宇兵衛をたずね、お熊の主人という縁をたどって、首尾よく雁の羽を手に入れて来たのである。そればかりでなく、今後も注意してその尾羽を拾い集めてくれと、才兵衛はくれぐれも頼んで帰った。

才兵衛が堀江をうろついていた仔細は、ここで判った。凶状持ちに係り合いのある女を、彼がそのままに雇っていたのは、色恋の為ではなくて慾（よく）の為であった。商売に抜け目のない彼は、お熊の縁をつないで置いて、その兄から高価の尾羽を仕入れようと目論（もくろ）んでいたのであった。彼が半七らと道連れになるのを避けたのも、商売上の秘密を知られたくない為であったらしい。しかし半七らばかりでなく、伝蔵もまた同様の勘違いをして、お熊と才兵衛とのあいだには主従以上の関係があるように疑ったのである。

「おまえは伝蔵にその云い訳をしたのか」と、半七は訊いた。

「なにしろ宵の口で、人通りの多い往来ですから、詳しい話は出来ません。わたくしはあくまでも忌（いや）だと云って、振切って逃げて来ました」

「伝蔵は追っかけて来なかったか」

「今も申す通り、往来の絶え間がないので、それっきり付いても来ませんでした」

「そのことを主人に話したか」

「きまりが悪いので黙っていました」

感違いをしている伝蔵は、一途に才兵衛を恋のかたきと睨（にら）んで、その出入りを付狙（つけねら）っていたらしい。彼は才兵衛から今戸の寮から帰る途中を待ち受けて、無理に聖天下のさびしい場所へ連れ込んで、かれこれ押問答の末に、その凶暴性を発揮したものと認められた。福田の屋敷に関係のある者のうちに、お熊が現在の奉公先を知っているものは無い筈であるから、伝蔵は誰の口から聞き出したのでもなく、偶然の通りすがりのお熊のすがたを発見したらしかった。

「わたくしから、こんな事が出来（しゅったい）しまして、ご主人さまに申訳がございません」と、お熊は泣いていた。

六

遠州屋才兵衛を殺した下手人は伝蔵と認定されたが、そのゆくえは判らなかった。才兵衛がその夜今戸の寮へ出向いたのは、斑入りの羽を売込みに行ったのであるという事が判って、半七らは一種不思議の因縁が付きまとっているようにも思った。

江戸の花が散り、ほととぎすが啼（な）き渡る頃になっても、伝蔵という悪魚は網に入らなかった。春の末から半七らはかの『正雪の絵馬』の一件に掛り合うことになって、六月十一日に犯人重兵衛を取押えたが、同時に淀橋（よどばし）の火薬製造所が爆発した為に、子分の亀吉と幸次郎は負傷した。半七は幸いに無事であったが、その後二、三日は疲れて休んだ。その顛末は今ここに繰返すまでもない。

亀吉の傷は軽かったが、幸次郎の痛みどころはかなりに手重いので、六月二十八日の朝、半七は幸次郎の家へ見舞いにゆくと、その帰り道で又もや瓦版の読売に出逢った。それは二十六日の夜、日本橋住吉町（すみよしちょう）の往来で、常陸国中志築村の太田六助（おおたろくすけ）が父のかたき山田金兵衛（やまだきんべえ）を討ちとった一件である。

「又かたき討か」と、半七はつぶやいた。

笹川の鶴吉はこの瓦版を買って、又もや一心に読んでいるであろう。それを思いやると、半七の胸は鉛のように重くなった。鶴吉は勿論、飼葉屋の直七も定めて頼み甲斐（がい）のない奴と、自分を恨んでいるかも知れない。半七は暗い心持で、夏の日盛りの町をあるいて帰った。

七月になって、鶴吉が中元の礼に来た。半七はその顔を見るのが辛かった。

「まったくお前さんにゃあ申訳がねえ」と、半七は詫（わ）びるように云った。「わたしも決して油断しているわけじゃあねえが、なんにも手がかりが無いので困り抜いています。まあ、もう少し辛抱しておくんなせえ」

「そのご挨拶では恐れ入ります。先月の住吉町のかたき討なぞは、九つの時に親を殺されて、二十年もかたきを狙っていたのだと申します。それを思えば、私などはまだ一年にもなりませんのですから……」

鶴吉は果たして瓦版を読んでいたのである。ことしは新盆（にいぼん）であるから、殿様と姉の墓まいりに行くなどと、彼は話して帰った。折りから表を通る燈籠（とうろう）売りの声も、きょうの半七には取分けてさびしく聞えた。

「畜生、どこに隠れていやあがるか」

いたずらに苛々（いらいら）するばかりで、半七も手の着けようが無かった。この春ごろは所々に姿をあらわして、昔の知りびとをゆすり歩いていたが、かの才兵衛の一件以来、伝蔵の消息はまったく絶えてしまった。あるいは才兵衛のふところから相当のまとまった金を奪って、それを路用に高飛びをしたのでは無いかとも思われた。

七月九日、きょうは浅草観音の四万六千日である。苦しい時の神頼みと云ったような心持もまじって、半七は朝から参詣の支度をした。

「おい、お仙（せん）。すこし小遣いを出してくれ」

「あいよ」

女房のお仙は用箪笥（ようだんす）の抽斗（ひきだ）しから、一分銀に一朱銀を取りまぜて摑んで来た。

「このくらいでいいかえ」

「むむ。よかろう。お台場（だいば）がだいぶまじっているな」

「お台場は性が悪いと云うから、なるたけ取らない事にしているのだけれど……」

「おれたちの家の金は、きょうあって明日ないのだ。性が良くっても悪くっても構うものか」

半七は笑いながら一朱銀を受取って、今更のように手の上で眺めた。改めて註するまでもなく、異国の黒船防禦（ぼうぎょ）のために、幕府では去年の九月から品川沖（しながわおき）にお台場を築くことになった。空前の大工事であるから、その費用もおびただしい。その財政の窮乏を補うために、ことしの一月から新吹きの一朱銀を発行したので、俗にこれをお台場と呼んだ。もちろん急場凌（しの）ぎに発行したものであるから、銀の質はすこぶる悪い。台場築造は、なかなかの難工事であるので、人足の手間賃も普通より高く、一日一朱という定めで、かのお台場銀を払い渡された。

そのころの流行唄（はやりうた）に「死んでしまおか、お台場行こか。死ぬにゃ優（ま）しだよ、土かつぎ」とある。お台場人足はいい金にもなるが、まかり間違えば海に沈んで命が無い。実に命がけの仕事であると、世間一般には伝えられていた。そのお台場銀を眺めているうちに、半七はふと何事をか思いついた。

「おれは早く帰るから、留守に誰か来たら待たせて置いてくれ」

云い置いて彼は早々に出て行った。観音堂に参詣して、例の唐蜀黍（とうもろこし）や青ほおずきの中を通りぬけて、午飯（ひるめし）も食わずに急いで帰ると、善八が待っていた。

「早速だが、善八。これからすぐにお台場へ行って、人入れの人足部屋を洗ってくれ。おれも今まで気がつかなかったが、例の伝蔵の奴め、お台場人足のなかにまぎれ込んでいるかも知れねえ。どうで長え命はねえ奴だ。このごろ流行（はや）る唄じゃあねえが、死ぬにゃ優（ま）しだよ土かつぎと度胸を据えて、命がけで荒れえ銭を取って、うめえ酒の一杯でも飲んでいるような事がねえとも云えねえ」

「成程そんなことかも知れません。じゃあ、早速行って来ます」

善八はすぐに飛び出した。

「お話はまずここらで打ちどめでしょう」と、半七老人は云った。「なぜ早くに気がつかなかったかと、今でも不思議に思うくらいです。お台場の一朱銀なぞは始終見ているくせに、なんにも気がつかずに過していて、ふいと思い付くと、それからとんとんと順序よく運んで行くのも妙です。こうなると、自分の知恵じゃあない。神か仏が知恵を貸してくれたようにも思われますよ」

「伝蔵は人足になっていたんですか」と、わたしは訊いた。

「何百人の人足がはいっているのですが、それを監督する人入れの組々がありますから、それについて調べれば判るわけです。伝蔵は芝（しば）の人入れの清吉（せいきち）の組にもぐり込んでいました。なにしろ大勢の人足を使うのですから、どこの人入れでもいちいちその身許（みもと）詮議などをしちゃあ居られません。手足の満足な人間が使ってくれと云って来れば、構わずにどしどし働かせるのですから、伝蔵のような奴の隠れ家にはお誂（あつら）え向きで、そこに早く気がつかなかったのは半七が重々の手ぬかり、まことに申訳がありません。

清吉の組にそれらしい奴のいることを調べ出したが、善八は伝蔵の顔を知りませんから、麹町の飼葉屋の直七を連れて行って、そっと首実検をさせると、確かに伝蔵に相違ないと云うのです。そこで、わたくしから清吉に掛合いまして、伝蔵を逃がさないように用心させて置きました。もうこうなれば生洲（いけす）の魚（うお）です」

「そこで、かたき討の様子は……」

「かたき討の様子……。物語らんと座を構えると、事が大仰になりますが、まあ掻（か）いつまんで申上げれば、その日は七月十二日、朝の五ツ時（午前八時）に笹川の鶴吉は直七付添いで高輪（たかなわ）へ出て来る。鶴吉は吉良の脇指を風呂敷につつんでいました。かねて打合せがしてありますから、二人は海辺の茶屋に休んで待っている。わたくしは善八と松吉を連れて、清吉の小屋へ出て行きますと、これも打合せがありますから、小屋からは伝蔵を叩（たた）き出す。そうして表へ出たところを、わたくしどもが寄って取押えまして、しかしすぐには縄をかけないで、善八と松吉が伝蔵の両腕を取って、鶴吉の待っている茶屋の前まで引摺って行きました。わたくしもあとから付いて行って、さあ、伝蔵、覚悟しろ。笹川の鶴吉さんがお主（しゅう）と姉のかたき討をするのだと云うと、善八と松吉は捉えていた両腕を放してやりました。

こうなったら仕方がない。尋常に覚悟をきめて立派に討たれてやればいいのに、伝蔵は両手をゆるめられたのを幸いに、たちまち摺抜（すりぬ）けて逃げ出そうとする。そこへ鶴吉が飛びかかって、例の脇指で背中から突き透しました。芝居ならば、わたくしが座頭役（ざがしらやく）で、白扇でも開いて見事見事と褒め立てようと云うところです。わたくしもまあ、これで重荷をおろしたような気になりました。

かたき討を首尾よく済ませた上で、鶴吉は直七付添いで番屋へ訴え出ました。わたくしどもが付いて行くと事面倒ですから、あくまでも鶴吉ひとりの仇討ということにして、わたくしどもは茶屋にひと休みして引揚げました。前にも申す通り、このかたき討には少し無理がありますから、あとの始末がどうなるかと案じていましたが、なにしろ伝蔵の罪科明白なので、上（かみ）にも相当の手心があったのでしょう。案外無事に済みました」

「その脇指はどうなりました」

「なんでも笹川の家から福田の屋敷の菩提所、光隆寺へ納めたとか聞きましたが、それからどうなったか知りません。考えてみると、かたき討の場所は高輪で例の泉岳寺の近所、脇指は吉良の物、どこまでも縁を引いているのも不思議で、訳を知らない人が聞いたら、こしらえ話のように思うかも知れません」と、老人は笑っていた。

わたしが暇乞（いとまご）いをして帰る頃には、細かい雪が降り出した。