半七捕物帳 第三巻/旅絵師

旅絵師

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「江戸時代の隠密(おんみつ)と云うのはどういう役なんですね」と、ある時わたしは半七老人に訊(き)いた。
「芝居や講釈でもご存知の通り、一種の国事探偵と云うようなものです」と、老人は答えた。
「徳川幕府で諸大名の領分へ隠密を入れると云うのは、むかしから誰も知っていることですが、その隠密は誰がうけたまわって、どういう役目を勤めるかと云うことがよく判っていないようです。この隠密の役目を勤めるのは、江戸城内にある吹上(ふきあげ)の御庭番(おにわばん)で、一代に一度このお役を勤めればいいことになっていました」
なぜ御庭番がこのお役を勤めることになったかと云うと、それにはいろいろの説がありますが、三代将軍家光(いえみつ)公がある時、吹上の御庭をあるいている時に、御庭番の水野(みずの)なにがしというのを呼んで、これからすぐに薩摩(さつま)へ下って、鹿児島(かごしま)の城中の模様を隠密に見とどけてまいれと、将軍自身に仰せ付けられたので、水野はその隠密の洩(も)れるのを恐れて、自分の屋敷へ帰らずにお城からまっすぐに九州へ下ったと云うことです。水野が庭作りに化けて薩摩へ入り込んで、城内の蘇鉄(そてつ)の根方に手裏剣を刺し込んで来たと云うのは有名な話ですが、嘘だかほんとうだか判りません。とにかくそれが先例となって、隠密の役はいつも吹上の御庭番が勤めることになったのだと、江戸時代ではもっぱら云い伝えていました。御庭番は吹上奉行の組下で若年寄(わかどしより)の支配をうけていましたが隠密の役に限ってかならず将軍自身から直接に云い付けられるのが例となっているので、御庭番はさして重い役ではありませんが、隠密の役は非常に重いことになっていました。
それですから、御庭番の家に生れた者はなんどき其の役目を云い付けられるか判らないので、その覚悟をしていなければなりません。勿論、侍の姿で入り込むわけには行きませんから、いざという時には何に化けるか、どの人もふだんから考えているんです。手先の器用な者は何かの職人になる。遊芸の出来る者は芸人になる。勝負事の好きなものは博奕打(ばくちうち)になる。おべんちゃらの巧い奴は旅商人(たびあきんど)になる。碁打になる。俳諧師になる。梅川(うめがわ)の浄瑠璃(じょうるり)じゃあないが、あるいは巡礼、古手買(ふるてかい)、節季候(せきぞろ)にまで身をやつす工夫(くふう)を子供の時から考えていたくらいです。そうして、あの水野が先例になったのでしょう、その役目を云い付かると同時に将軍から直々(じきじき)に御手元金を下さる。それを路用にしてお城からまっすぐに出発するのが習いで、自分の家(うち)へ帰ることは許されないことになっていました。
幕府が諸大名の領内へ隠密を出すのは、いろいろの場合があるので、一概には云えませんが、大名の代換(だいがわ)りという時には一代に一度のお役で、それを首尾よく勤めさえすれば、あとはほとんど遊んでいるようなもので、まことに気楽な身分にも見えますが、この隠密という役はまったく命懸けで、どこの藩でも隠密が入り込んだことに気がつくと、かならずそれを殺してしまいます。もともと秘密にやった使ですから、見すみす殺されたことを知っていても、幕府からは表向きの掛合いは出来ません。所詮(しょせん)は泣き寝入りの殺され損になるに決まっていたものです。隠密の期限は一年で、それが三年すぎても帰って来なければ、出先で殺されたものと認めて、その子かまたは弟に家督相続を仰せ付けられることになっていました。しかし、ひと思いに殺されたのは運のいい方で、意地の悪い大名になるとそれを召捕って、面当(つらあて)らしく江戸へ送り還(かえ)してよこすものがあります。それですから、万一召捕られた場合には、たといどんな厳しい拷問をうけても、自分が公儀の隠密であることを云うことを白状しないのが習いで、もし白状すれば当人は死罪、家は断絶です。そういう怖ろしいことになっていますから、隠密がもし召捕られた場合には眼を瞑(つむ)って責め殺されるか、但しは自殺するか破牢するか、三つに一つを選むよりほかはないので隠密はかならず着物の襟のなかにうす刃(は)の切れ物を縫い込んでいました」
「なるほど、ずいぶん難儀な役ですね」
「それですから、隠密に出された人たちは、その出先で、いろいろの怖ろしいこともあり、可笑(おかし)いこともあり、悲劇喜劇さまざまだそうですが、なにしろ命懸けで入り込むんですから、当人たちに取っては一生懸命の仕事です。いや、その隠密についてこんな話しがあります。これは今云った悲劇喜劇のなかでは余ほど毛色の変った方ですから、自分のことじゃありませんけれど、受売りの昔話を一度弁じましょう。このお話は、その隠密の役目を間宮鉄次郎(まみやてつじろう)という人がうけたまわった時のことで、間宮さんはこのとき二十五の厄年(やくどし)だったと云います。それから最初におことわり申しておくのは、このお話の舞台は主に奥州(おうしゅう)筋ですから、出る役者はみんな奥州弁でなければならないんですが、とんだ白石噺(しらいしばなし)の揚屋(あげや)のお茶番で、だだあがあまを下手にやり損じると却(かえ)ってお笑いぐさですから、やっぱり江戸弁でまっすぐにお話申します」


文政四年五月十日の朝、五ツ(午前八時)を少し過ぎた頃に、奥州街道の栗橋(くりはし)の関所を無事に通り過ぎた七、八人の旅びとがぞろぞろ繋(つな)がって、房川(ぼうせん)の渡(わたし)(利根川(とねがわ))に差しかかった。そのなかには一人の若い旅絵師がまじっていた。渡し舟は幾艘(そう)もあるなかで、このひと群れは皆おなじ船に乗り込んで、河原と水とをあわせて三百間(けん)という大河のまん中まで漕ぎ出した時に、向うから渡ってくる船とすれ違った。広い河ではあるが、船の行き馴(な)れている路はいつも決まっているので、両方の船は小舷(こべり)が摺れ合うほどに近寄って通る。船頭は馴れているので平気で棹(さお)を突っ張ると、今日はふだんより流れの工合(ぐあい)が悪かったとみえて、急に傾いてゆれた船はたがいにすれ違う調子をはずして、向うから来た船の舳先(へさき)がこっちの船の横舷(よこべり)へどんと突きあたった。
突き当てられた船はひどく揺れて傾いたので、乗っていた二、三人はあわてて起(た)ちかかった。船頭があぶないと注意する間(ひま)もなしに、一人の若い娘はからだの中心を失って、河のなかへうしろ向きに転げ落ちてしまった。どの人も顔色を変えてあっと叫ぶ間(ま)に、船頭は棹をすてて飛び込んだ。かの旅絵師もつづいて飛び込んだ。見るみる川しもへ押し流されて行った娘は、七、八間のところで旅絵師の手に摑(つか)まえられると、水練の巧みらしい彼は、娘をほとんど水のなかから差上げるようにして、もとの船へ無事に泳いで帰ったので、大勢(おおぜい)はおもわず喜びの声をあげた。取分けその娘の親らしい老人と供の男とは手をあわせて彼を拝んだ。船頭は乗合一同にひどくあやまって、ともかくも向う岸まで船を送り着けた。
娘はさのみに弱ってもいなかった。そのころは五月であるから凍(こご)えることもなかった。渡し小屋で濡れた単衣(ひとえもの)を着かえて、彼女(かれ)は父と供の男とに介抱されながらしばらく休んでいるうちに、旅絵師は娘の無事を見とどけて、自分も着物を着かえて、そのまま行こうとすると、大切な娘の命を助けられたそのお礼がまだ十分に云い足りないというので、老人はしきりに彼を抑留(ひきと)めた。娘だけを駕籠(かご)に乗せて、自分たちは近い宿(しゅく)まで一緒にあるいて行って、老人はある立場(たてば)茶屋の奥座敷へ無理にかの旅絵師を誘い込んで、ここであらためて礼を云った上で酒や肴(さかな)を彼にすすめた。
老人は奥州の或る城下の町に穀屋(こくや)の店を持つ千倉屋伝兵衛(ちくらやでんべえ)という者であった。年来の宿願(しゅくがん)であった金毘羅(こんぴら)まいりを思い立って、娘のおげんと下男の儀平(ぎへい)をつれて、奥州から四国の琴平(ことひら)まで遠い旅を続けて、その帰りには江戸見物もして、今や帰国の途中であると話した。この時代に足弱(あしよわ)と供の者を連れて奥州から四国路までも旅行すると云うのは、よっぽど裕福の身分でなければならないことは判り切っていた。伝兵衛はもう六十と云っていたが、身の丈(たけ)も高く、頰の肉も豊かで、見るからに健(すこや)かな、いかにも温和らしい福相をそなえた老人であった。
旅絵師も自分のゆく先を話した。かの芭蕉(ばしょう)の『奥の細道』をたどって高館(たかだち)の旧跡や松島(まつしま)塩釜(しおがま)の名所を見物しながら奥州諸国を遍歴したい宿願で、三日前のゆうぐれに江戸を発足(ほっそく)して、路草を喰いながらここまで来たのであると云った。
「それはよい道連れが出来ました」と、伝兵衛は喜ばしそうに云った。「唯今申す通り、わたくしどもも長の道中をすませて、これから奥州の故郷へ帰るものでございます。足弱連れでご迷惑かも知れませんが、これも何かのご縁で、途中までご一緒においでなされませんか」
「いや、ご迷惑とはこちらで申すこと、実はわたくしも奥州道中は初旅で、一向に案内が知れないので、心ぼそく思っていたところでございますから、ご一緒にお連れくだされば大仕合(おおしあわ)せでございます」
相談はすぐに決まって、山崎澹山(やまざきたんざん)とみずからを名乗った若い旅絵師は、伝兵衛の一行に加わることになった。道連れといっても、これは自分の娘の命を救ってくれた恩人であるから、伝兵衛主従も決して彼を疎略には扱わなかった。その晩は小山(おやま)の宿(しゅく)に泊まったが、旅籠(はたご)賃その他はすべて伝兵衛が賄(まかな)った。これから幾日もつづく道中に、それではまことに困ると澹山は頻(しき)りにことわったが、伝兵衛はどうしても肯(き)かなかった。あくる晩は宇都宮(うつのみや)に着いたが、その翌日も午(ひる)すぎまでここに逗留して、伝兵衛は澹山を案内して二荒(ふたら)神社などに参詣した。その後の道中も、毎晩の宿はかなりの上旅籠で、澹山はなんの不自由もなしに奥州路にはいった。


この年は正月から照りつづいて江戸近国は旱魃(かんばつ)に苦しんだと伝えられているが、白河から北にはその影響もなくて、五月の末には梅雨(つゆ)らしい湿(しめ)りがちの暗い天気が毎日つづいた。この雨に降り籠(こ)められたばかりでなく、旅絵師の澹山は千倉屋の奥の離れ座敷に閉じこもって、当分はふたたび草鞋(わらじ)を穿(は)きそうもなかった。
その頃の旅絵師といえば、ゆく先ざきで自分の絵を売って、それを路用としてそれからそれへと渡ってゆくのが習いであった。千倉屋伝兵衛もその事情を知っているので、ともかくも自分の家に当分逗留して、相当の路用を作り溜めた上で出発することにしたらよかろうと途中でも切(しき)りにすすめたので、澹山もその親切をよろこんで、云わるるままに千倉屋の厄介になることにした。千倉屋は旅絵師が想像していたよりも更に大きい店構えで、十人あまりの奉公人が忙がしそうに働いていた。伝兵衛の女房は七、八年前に世を去ったと云うことで、家族は主人のほかに総領息子の伝四郎(でんしろう)と妹娘のおげんの二人ぎりであった。伝四郎は今年二十歳(はたち)の独身者(ひとりもの)で、これも父に似て骨格のたくましい寡言(むくち)の男であった。おげんは二つちがいの今年十八で、色のすぐれて白い、此処(ここ)らではまず眼につくような美しい眼鼻立ちを具(そな)えながら、どことなく薄鈍(うすのろ)いようにも見えるおとなしい娘であることを、毎日一緒に連れ立って来た澹山は知っていた。
妹の命を救ってくれたと云うことを聞いて、兄の伝四郎も若い旅絵師をよろこんで迎えた。彼は父と同じように、いつまでもここに逗留していてくれと無愛想な口で澹山にすすめた。こうして一家の人びとから款待(かんたい)されて、澹山の方でもひどく喜んで、自分の居間として貸して貰った離れ座敷を画室として、ここでゆっくりと絵絹や画仙紙をひろげることになると、伝兵衛も自分の家の屏風や掛物は勿論、心易い人びとをそれからそれへと紹介して、澹山のために毎日の仕事を与えてくれた。それらの仕事に忙がしく追われながら、六七八の三月(みつき)はいつか過ぎて、ここらでは雪が降るという九月の中頃になった。
この三月の間には別に記(しる)すべき事もなかった。ただ彼(か)の澹山が諸方から少なからず画料を貰って、その胴巻(どうまき)がよほど膨(ふく)れて来たのと、娘のおげんと特に親しみを増したのと、この二カ条のほかには何事もなかった。しかし娘の問題は若い旅絵師に取ってすこぶる迷惑の筋であるらしかった。娘は自分の恩人という以上に澹山を鄭重(ていちょう)に取扱った。彼が朝夕の世話は奉公人どもの手を借らずに、娘が何もかも引受けていた。その親切があまりに度を過ぎるのを澹山は内心あやぶみ恐れていながらも、むやみにここを立退くことの出来ない事情もあるらしく、迷惑を忍んで千倉屋の奥にうずくまっていた。
「先生、お寂(さび)しゅうござりましょう」
柴栗の焼いたのを盆に盛って、おげんは行燈(あんどん)の前にその白い顔を見せた。奥州の夜寒(よざむ)に蛼(こおろぎ)もこの頃は鳴き絶えて、庭の銀杏(いちょう)の葉が闇のなかにさらさらと散る音が時どきに時雨(しぐれ)かとも疑われた。娘は棚から茶道具をとりおろして来て、すぐに茶をいれる支度にかかった。
「いや、もう毎晩のこと、決してお構いくださるな」と、澹山は書きかけていた日記の筆を措(お)いて見かえった。
「お父(とつ)さんはどうなさった。今日は一日お目にかからなかったが……」
「父は午(ひる)から出ましてまだ戻りません。今夜は遅くなるでございましょう」
伝兵衛は囲碁が道楽で、時どきに夜ふかしをして帰ることは澹山も知っているので、別にそれを不思議とも思わなかった。
「兄(にい)さんは……」
「兄(あに)も父と一緒に出ました」
おげんは茶をすすめて、更に柴栗を剝(む)いてくれた。その白い指先をながめながら澹山はおもむろに訊いた。
「御用人(ごようにん)のご子息はその後ご催促には見えませんか」
「はい」
「どうも思うように出来ないので甚だ延引、なんとも申訳がありません」と、澹山は小鬢(こびん)をかいた。「頼まれたおかたが余人でないので、せいぜい腕を揮(ふる)おうと思っているのですが、それがため却って筆先が固くなった気味で、まことにどうも困っています。千之丞(せんのじょう)殿も定めてご立腹、ひいてはご推挙くだすったお父さんにもご迷惑がかかろうと心配していますが……」
「なんの、そんなことはございません」と、おげんは相手の顔を見つめながら云った。「あんな人の頼んだ絵など、いっそいつまでも出来ない方がようござります」
この藩の用人荒木頼母(あらきたのも)の伜(せがれ)千之丞は、伝兵衛の推挙で先ごろ千倉屋へたずねて来て、澹山に西王母(せいおうぼ)の大幅(だいふく)を頼んで行った。その揮毫(きごう)がなかなかはかどらないので、五、六日前にも千之丞はその催促に来た。しかしその催促以外に、なにかの意味でおげんが千之丞を嫌っていることを、澹山も薄うす覚(さと)っていた。
「くどくも云う通り、頼まれたおかたが余人でないので、わたくしも等閑(なおざり)には存知ません」と、澹山はあくまでもまじめに云い出した。「しかし、どうも出来ないものは仕方がないので、まあ、まあ、幾たびでも描き直して、これなればと自分でも得心のまいるまで根よくやってみるよりほかはありません。お前さまからもよくお父さんに取りなしして置いてください。頼みます」
おげんは微笑(ほほえ)みながらうなずいた。片明かりの行燈は男と女の影を障子に映して、『枕の草子』の作者でなくても、憎きものに数えたいような影法師が黒くゆらいでいた。庭で銀杏の散るおとが又きこえた。
「千之丞殿の叔父御(おじご)は先(せん)殿様の追腹(おいばら)を切られたとか云いますが、それはほんとうのことですか」と、澹山は思い出したように訊いた。
「確かなことは存知ませんが、それは嘘だとか聞きました」と、おげんは躊躇(ちゅうちょ)せずに答えた。
「先殿様のお葬式がすむと間なく、源太夫(げんだゆう)様もつづいてお亡くなりなすったので、世間では追腹などと申しますが、ほんとうは千之丞様の親御(おやご)たちが寄りあつまって詰腹(つめばら)を切らせたのだとか云うことでござります」
「ほう、詰腹……」と、澹山は顔をしかめた。「武家では折りおりそんな噂(うわさ)を聞きますが、無得心のものを大勢がとりこめて切腹させる。考えてもおそろしい。しかし源太夫殿とても御用人格の立派なご身分であるから、謂(い)われ無しに詰腹などを切らされる筈もあるまい。何かそこには深い仔細があることと思われるが……」
「大方そうでござりましょう」
「若殿の忠作(ちゅうさく)様も実はご病死でない。それにも何か仔細があるように云う者もありますが、それも嘘ですか」と、澹山はまた訊いた。
「それもよくは存じません」
彼女もまんざら愚鈍(ぐどん)でないので、いかに打解けた男のまえでも、領主の家(いえ)の噂を軽々しく口外することはさすがに慎(つつし)んでいるらしく見えたので、澹山も根問(ねど)いしないでその儘に口を噤(つぐ)んだ。用人の死、若殿の死、この二つの問題はそれぎりで消えてしまって、話はやがて来る冬の噂、それもおげんの重い口から跡切れとぎれに語られるだけで、あんまり澹山の興味を惹(ひ)かないばかりか、今夜も五ツ(午後八時)を過ぎたのに、おげんはただ黙って座り込んだままで容易に動きそうにも見えないので、澹山は例の迷惑を感じて来た。
「おげんさん。もう五ツ半でしょう。そろそろお寝(やす)みになったらどうです」
「はい」と、云ったばかりで、おげんはやはり素直に起(た)ち上がりそうもなかった。
「早く行ってお寝みなさい」と、澹山は優しいながらも少し改まって云った。
「はい」
彼女(かれ)はやはり強情に坐り込んでいた。そうして、重い口をいよいよ渋らせながら云い出した。
「あの、わたくしのような不器用なものにも絵が習えましょうか」
「誰でも習えないと云うことはありません」と、澹山はほほえみながら答えた。
「では、これからあなたの弟子にして、教えていただくことは出来ますまいか」
澹山は返事に少し躊躇した。もとより良家の娘が道楽半分に習うと云うのであるから、その器用不器用などはたいした問題でもなかったが、澹山の恐れるところは、彼女が絵筆の稽古をかこつけに、今後はいっそう親しく接近して来ることであった。しかし今の場合、それをことわるに適当の口実も見いだし得ないので、結局それを承知すると、おげんは初めて座を起った。
「では、きっとお弟子にしていただきます」
そこらの茶道具を片付けて、彼女は自分で澹山の寝床をのべて、丁寧に挨拶して出て行った。そのうしろ姿を見送って澹山は深い溜息をついた。
旅絵師山崎澹山の正体が吹上御庭番の間宮鉄次郎であることは云うまでもあるまい。この土地の領主は三年あまりの長煩(ながわずら)いで去年の秋に世を去った。その臨終のふた月ほど前に、嫡子(ちゃくし)の忠作が急病で死んで、次男の忠之助(ちゅうのすけ)を世嗣ぎに直したいと云うことを幕府に届けて出た。むしろそれは正当の順序であるので、幕府でも無論それを聞き届けたが、それから間もなく当主が死んだ。その葬式(とむらい)が済むと、つづいて用人の一人貝沢(かいざわ)源太夫が死んだ。それが禁制の殉死であるとも云い、または毒害とも云い、詰腹とも云う噂があった。
こうなると、嫡子の急病というのも一種の疑いが起らないでもない。当主の余命がもう長くないのを見込んで、何者かが嫡子を毒害などして次男を相続人に押立てようと企てた。その反対者たる用人の一人は何かの口実のもとに押し片付けられてしまった。大名の家の代換りには、こういうたぐいのいわゆる御家騒動がたびたび繰返されるので、幕府でも一応内偵をしなければならなかった。
そうでなくても、大名の代換りには必ず隠密を放つのが其の時代の例であるのに、仮にもこういう疑いが付きまとっている以上、今度の隠密は比較的重大な役目になって来た。それをうけたまわった鉄次郎は絵筆の嗜(たしな)みのあるのを幸いに、旅絵師に化けて奥州へ下ってくる途中で、偶然に房川の渡でおげんを救ったのが縁となって、千倉屋伝兵衛と親しくなった。しかも其の家(いえ)は鉄次郎の澹山がこれから踏み込もうとする城下の町にあると云うので、彼はこの上もない好都合をよろこんで、抑留(ひきと)められるままに千倉屋の客となった。そうして三月あまりを送るうちに、彼は伝兵衛の推挙で城の用人荒木頼母の伜千之丞から掛物の揮毫を頼まれた。
城内の者に知己を得るという事は、澹山に取っては最も望むところであったので、彼はいよいよ喜んでそれを引受けたが、それがどうも思うように描きあがらないので、彼の心はひどく苦しめられた。あの絵師はまずいといったん見限られてしまうと、城内の他の人びとにも接近する機会を失うことになるので、彼はこの絵を腕一ぱいに描(か)きたいと思った。もう一つには万一(まんいち)自分が隠密であると云うことが発覚した暁(あかつき)に、江戸の侍はこんなまずい絵を描き残したと後日(ごにち)の笑いぐさにされるのが残念である。十分に念を入れて描きたいと、あせれば躁(あせ)るほど其の筆は妙に固くなって、彼としては相当の自信のあるような作物(さくぶつ)がどうしても出来あがらなかった。おれはほんとの絵師ではない。おれは侍で、単に一時の方便のために絵を描くのであるから、所詮(しょせん)は素人の眼を誤魔化(ごまか)し得るだけに、ただ小器用に手綺麗に塗り付けて置けばよいのである。田舎侍に何がわかるものかと時どきにこう思い直すこともありながら、彼はやはり自分の気が済まなかった。現在の彼は江戸の侍、間宮鉄次郎の名を忘れて、山崎澹山という一個の芸術家となって苦しみ悩んでいるのであった。
その最中に千倉屋の娘がうるさく付きまとって来て、いよいよ自分の弟子にしてくれと云う。それを邪慳(じゃけん)に突き放す術(すべ)もない彼は、いっそ此の家を逃げ出して、どこか静かなところに隠れて思うような絵を描いてみたいとも思ったが、その小さい目的のために他の大きい目的を犠牲にすることの出来ないのは判り切っているので、澹山はただ苦しい溜息をつくのほかなかった。
寺の鐘が四ツ(午後十時)を撞(つ)き出したのに気がついて、彼は寝床に入ろうとした。用心ぶかい彼は寝る前にかならず庭先を一応見まわるのを例としているので、今夜も縁先の雨戸をそっとあけて、庭下駄を突っかけて、大きい銀杏の下に降り立つと、星の光りすらも見えない暗い夜で、早寝の町はもう寝静まっていた。広い庭を囲っている槿(むくげ)の生垣(いけがき)を越して、向うには畑を隔てた小家が二、三軒つづいている筈であるが、その灯(ひ)は今夜は見えなかった。まして、その又うしろに横たわっている小高い丘や森の姿などは、すべて大きい闇の奥に埋められていた。
落葉の音にも耳をすまして、澹山はやがて内へ引返そうとする時、向うの田圃路(たんぼみち)に狐火(きつねび)のような提灯の影が一つぼんやりと浮き出した。丘の上に祀(まつ)られてある弁天堂に夜まいりをした人であろうと思いながら、彼はしばらく其の灯を見つめていると、灯はだんだんに近づいて生垣の外を通り過ぎた。灯に照らされた人のすがたは主人の伝兵衛と伜の伝四郎とであることを、澹山は垣根越しにはっきり認めた。
「碁をうちに行ったのではない。親子連れで夜詣りかな」と、彼は小首をかしげた。
座敷へ帰って、行燈(あんどう)をふき消して、澹山は自分の寝床にもぐり込むと、やがて母屋(おもや)の方からこちらへ忍んで来るような跫音(あしおと)がきこえた。
澹山は蒲団の下に隠してある匕首(あいくち)をまず探ってみた。そうして自分の耳を蒲団に押付けて、熟睡したような寝息をつくっていると、跫音は障子の外でとまった。もしやおげんが執念ぶかく忍んで来たのかとも疑ったが、その跫音はもっと力強いように思われた。
「先生」と、外の人は小声で呼んだ。「もうお寝みでござりますか」
それが伝兵衛であると知って、澹山はすぐに答えた。
「いや、まだ起きて居ります。ご主人ですか」
「はい。では、ごめんください」
勝手を知っている伝兵衛は暗いなかへはいって来ると、澹山は起き直って行燈の火をともした。
「夜ふけにお邪魔をいたしまして相済みませんが、荒木様のご子息様からおあつらえの掛物はまだお出来に相成りませんか」と、伝兵衛は坐り直して訊いた。
申訳のない延引と澹山があやまるように云うのを聴きながら、伝兵衛は少し考えていたらしいが、やがてやはり小声で云い出した。
「就きましては先生、一方のお仕事の出来あがらないうちに、こんなことをお願い申すのは甚だ心苦しいようではござりますが、実は別に大急ぎで願いたいものがござりまして……」
「ははあ。それはどんなお仕事で……」
「ご承知くださりますか」
「承知いたしましょう。わたくしで出来そうなことならば……」と、澹山は快く答えた。
「ありがとうござります」と、伝兵衛も満足したらしくうなずいた。「では、恐れ入りますが、これからわたくしと一緒にそこまでお出でくださりませんか。なに、すぐ近いところでござります」
これからどこへ連れてゆくのかと思ったが、澹山は素直に起きて着物を着かえて、匕首をそっとふところに忍ばせた。その支度の出来るのを待って、伝兵衛は庭口の木戸から彼を表へ連れ出した。今度は提灯を持たないで、二人は暗い路をたどって行った。伝兵衛は始終無言であった。
江戸の隠密ということが露顕したのかと、澹山はあるきながら考えた。城内の者が伝兵衛に云いつけて、自分をどこへか誘い出させて闇討ちにする手筈ではあるまいかと想像されたので、暗いなかにも彼は前後に油断なく気を配ってゆくと、伝兵衛はさっき帰って来た田圃道を再び引返すらしく、それを行きぬけて更に向うの丘へのぼって行った。丘のうえには昼でも暗い雑木林が繁っていて、その奥の小さい池のほとりには古い弁天堂のあることを澹山は知っていた。
堂守(どうもり)は住んでいないのであるが、その中には燈明(とうみょう)の灯(ひ)がともっていた。その灯を目あてに、伝兵衛は池のほとりまでたどって来て、そこにある捨石(すていし)に腰をおろした。澹山も切株に腰をかけた。
「ご苦労でござりました。夜が更(ふ)けてさぞお寒うござりましたろう」と、伝兵衛は初めて口を開いた。「そこで、早速でござりますが、わたくしが折入って描(か)いて頂きたいのはこれでござります」
澹山をそこに待たせて置いて、伝兵衛はうす暗い堂の奥にはいって行ったが、やがて二尺ばかりの太い竹筒をうやうやしく捧げて出て来た。彼は自分の家から用意して来たらしい蠟燭(ろうそく)に燈明の火を移して、片手にかざしながら徐(しず)かに云った。
「まずこれをご覧くださりませ」
かなり古くなっている竹は経筒(きょうづつ)ぐらいの太さで、一方の口には唐銅(からかね)の蓋(ふた)が厳重にはめ込んであった。その蓋を取除(とりの)けて、筒の中にあるものを探り出すと、それは紙質も判らないような古い紙に油絵具で描かれた一種の女人像(にょにんぞう)で、異国から渡って来たものであることは誰の眼にも覚られた。伝兵衛がさしつける蠟燭の淡(あわ)い灯で、澹山はじっとこれを見つめているうちに彼の顔色は変った。
「これは何でございます」と、彼は徐かに訊いた。
「弁天の御像(ごぞう)でござります」
それが嘘であることを澹山はよく知っていた。この古びた女人像は、切支丹(キリシタン)宗徒が聖母(せいぼ)として礼拝(らいはい)するマリアの像であった。四国西国ならば知らず、この奥州の果ての小さい寂しい城下町でこんなものを見いだそうとは、澹山はすこしく意外に思って、手に持っている其の油絵と伝兵衛の顔とをしばらく見くらべていると、伝兵衛の方でも彼の顔をのぞき込みながら云った。
「先生、いかがでござりましょう。それを模写(もしゃ)して頂くわけにはまいりますまいか」
澹山は黙っていた。伝兵衛もしばらく黙ってその返事を待っていた。蠟燭の火は夜風にちらちらとゆれて、時どきにうす暗くなる光りの前に、彼の顔は神々(こうごう)しく輝いているように見られた。澹山は一種の威厳にうたれて、おのずと頭が重くなるように感じた。
「大方(おおかた)はご不承知と察して居りました」と、伝兵衛はやがて徐かに云い出した。「それはわたくしどもに取りましては、命にも換えがたい大切の絵像(えぞう)でござります。この弁天堂もわたくしの一力(いちりき)で建立(こんりゅう)したものでござります。娘を連れて金毘羅まいりと申したのも、実は四国西国の信者をたずねて、それと同じような有難い絵像をたくさん拝んで来たのでござります。こう何もかも打明けて申しましたら、御禁制(ごきんせい)の邪宗門を信仰する不届き者と、あなたはすぐにわたくしの腕をつかまえて、うしろへお廻しになるかも知れません。しかしわたくし一人をお仕置になされても、わたくしには又ほかに幾人(いくたり)もの隠れた味方がござります。迂闊(うかつ)な事をなさると、却ってあなたのお為(ため)になりますまい。あなたのご身分もわたくしはよく存じて居ります。今日まで百日のあまりのあいだに、わたくしが一度口をすべらしましたら失礼ながらあなたのお命はどうなっているか判りません。娘の命を助けてくだされたご恩もあり、もう一つは斯(こ)ういうご無理をお願い申したさに、今日までわたくしは固く口をむすんで居りました。この後(のち)とても決して口外するような伝兵衛ではござりません。その代りに……と申しては、あまりに手前勝手かは存じませんが、どうぞ快くご承知くださりませ」
自分をここまで誘い出して、おそらく闇討ちにでもするのであろうと澹山は内々推量していたが、その想像はまったく裏切られて、彼は思いもよらない難題を眼のまえに投げ付けられた。彼は国法できびしく禁制されている切支丹宗門の絵像を描かなければならない羽目(はめ)に陥(おちい)ったのである。隠密という大事の役目をかかえている彼は、手強くそれを刎(は)ねつけることが出来ない。相手が伝兵衛ひとりならばいっそ斬って捨てるという法もあるが、ほかにも彼と同じ信徒があって、その復讐のためにこっちの秘密を城内の者に密告されると、我が身があぶない。わが身のあぶないのは江戸を出るときからの覚悟ではあるが、大事の役目も果さずには死にたくない。邪宗門ということが発覚すれば、伝兵衛も命はない。隠密ということが発覚すれば、澹山も命は無い。どっちも命がけの秘密をもっているのであるが、この場合には相手の方が強いので、澹山も行き詰まってしまった。
しかし斯(こ)う順序を立てて考えたのは、それから余ほど後のことで、その一刹那(せつな)の澹山はただ何がなしに相手に威圧されてしまったという方が事実に近かった。
「これを模写してどうするんです」と、澹山はわざと落着き払って訊いた。
「それはおたずね下さるな」と、伝兵衛はおごそかに云った。「わたくしの方に入用(いりよう)があればこそ、こうして折入ってお願い申すのでござります」
自分の頼みを素直に引受けてくれる上は、自分たちもかならずあなたの身の上を保護して、秘密の役目を首尾よく成就(じょうじゅ)させてやると、伝兵衛は彼の信仰する神の前で固く誓った。
それからひと月ほどの間、澹山は病気と云って誰にも逢わなかった。夜も昼もひと足も外へ踏み出さなかった。彼は千倉屋の離れ座敷に閉じ籠って、朝から晩まで絵絹にむかって、ある物の制作に魂を打込んでいた。そのあいだに荒木千之丞は絵の催促にたびたび来たが、伝兵衛がいつもいい加減に断わっていた。十月の末になって、ここらでは早い雪が降った。
「先生、有難うござりました。ご恩は一生忘れません」
秘密の絵像が見事に出来あがって、澹山の手から伝兵衛に渡されたときに、彼は涙をながして澹山を伏し拝んだ。そうしてその報酬として、伝兵衛の手からもいろいろの秘密書類が澹山に渡された。この一ヵ月のあいだに伝兵衛はおなじ信徒を働かせて、また一方にはたくさんの金をつかって、いろいろの方面からの秘密の材料を蒐集(しゅうしゅう)して来たのであった。
この城内における小さい御家騒動の事情はこれで一切(いっさい)明白になった。嫡子忠作の死は毒害などではなく、まさしく疱瘡(ほうそう)であったことが確かめられた。しかし藩中に党派の軋轢(あつれき)のあったことは事実で、嫡子の死んだのを幸いに妾腹(しょうふく)の長男を押立てようと企てた者と、正腹(せいふく)の次男を据えようと主張する者と、二つの運動が秘密のあいだに行なわれたが、結局は正腹方が勝利を占めて、家老のひとりは隠居を申付けられた。用人の一人は詰腹を切らされた。そのほかに閉門や御役御免などの処分をうけた者もあって、この内訌(ないこう)も無事に解決した。
これでもう澹山の役目は済んだものの、他人のあつめてくれた材料ばかりを摑(つか)んで帰るのはあまりに無責任である。これだけの材料を土台として、自分が直接に調べあげて見なければ気が済まないので、澹山はここで年を越すことにした。千倉屋ではいよいよ鄭重に取扱ってくれた。
十一月になって雪のふる日が多くつづいたので、澹山はこのあいだに彼(か)の千之丞から頼まれた掛物を仕上げてしまおうと思い立って、再び絵筆を執(と)りはじめると、不思議にその西王母の顔が、かのマリアの顔に肖(に)てくるので、彼は自分ながら怪しく思った。幾たび描き直しても絵絹の上にはマリアの顔が、ありありと浮き出して来るので、彼は自分もいつの間にか切支丹の魔法に囚(とら)われてしまったのではないかと疑った。そうして、千之丞からいくら催促をうけても当分は絵筆を持たないことに決めて、彼は雪の晴れ間を待って城下を毎日出あるいた。伝兵衛のあつめてくれた材料が彼に非常の便利をあたえたので、探索は思いのほかに容易(たやす)くはかどって、小さい御家騒動の秘密は伝兵衛の報告と違いないことが確かめられた。澹山はいちいちそれを薄い雁皮紙(がんびし)に細かく書きとめて、着物の襟や帯の芯(しん)のなかに封じ込んだ。
秘密の絵像を描いているあいだは、父からも厳しく云い渡されていたのであろう。おげんも余りうるさく寄りついて来なかったが、それがいよいよ出来あがると、彼女は先夜の約束通りにあなたのお弟子にしてくれと強請(せが)んで来た。澹山はよんどころなしに二つ三つの手本をかいてやると、彼女は熱心に稽古をつづけて、あまり器用らしくもない彼女が案外めきめきと上達するのに、師匠も少しく驚かされた。しかしその熱心の裏には何かの意味が忍んでいるらしくも想像されるので、澹山はなんだか惨(いじ)らしいような暗い心持にもなった。
江戸の旅絵師は奥州の春をむかえて、今年ももう二月になったが、ここらの雪はまだちっとも融けないで、うす暗い寒い日が毎日つづいた。今夜も細かい雪がさらさらと灰のように降っていた。
「お寒うござります」
おげんは菓子鉢を持って、いつものように離れ座敷へ顔を出した。うるさい、惨らしいを通り越して、この頃の澹山は彼女の顔をみるのが何だか恐ろしいようにも思われた。小賢(こざか)しい江戸の女を見馴れた澹山の眼には、何だかぼんやりとした薄鈍(うすのろ)い女にみえながら、邪宗門の血を引いているだけに、強情らしい執念深そうな、この田舎娘にあくまでも魅(み)こまれたら、結局はどうしても彼女の虜(とりこ)になるのではないかと、自分ながら一種の不安を感じて来たので、努めて彼女に接近するのを避けているのであるが、彼女もおそらく自分の秘密を知られているのであろうという不安と、今では仮にも師弟となっている関係とで、この頃いよいよ摺り寄ってくる彼女をどうしても払いのけることが出来なかった。
「ここらではいつ頃まで雪が降ります」と、澹山は手あぶり火鉢を彼女のまえに押しやりながら訊いた。
「来月のはじめには歇(や)みましょう」と、おげんは茶をいれながら答えた。「もう十日(とおか)か半月のご辛抱でござります。ここらで雪のやむ頃は、お江戸は花盛りでござりましょう」
澹山は江戸の春が恋しくなった。去年の五月に江戸を発(た)って、やがて小一年になる。雪のやむのを待って早々に出発しても、上野(うえの)や向島(むこうじま)の今年の花はもう見られまいと思った。
その心のうちを読むように、おげんはまた云った。
「雪がやむと、すぐにお発ちになるのでござりますか」
うっかりした返事は出来ないので、澹山はあいまいに答えた。
「いや、まだ確かには決めていません。もう少しこちらにご厄介になりますか。それとも松島塩釜の方へでも見物に行きますか」
「ほんとうでござりますか」と、おげんはまだ疑うように相手の顔色をうかがっていた。「松島塩釜はわたくしも一度見物に参ったことがござります。もし先生がご見物ならば、わたくしにご案内させてくださりませ」
どこまでも付纏(つきまと)おうとする彼女の執念におどろきながら、澹山はなにげなく答えた。
「自然そう云うことになりましたら、ぜひご案内をねがいます。わたくしはご承知の通り、奥州の方角は一向(いっこう)に不案内ですから」
庭の雨戸を軽くことこと叩くような物音がきこえた。雪の音らしくないので、二人は話をやめて思わず顔を見あわせると、その物音は又きこえた。おげんは初めて起ち上がって縁側へ出ると、澹山は片手をのばして行燈をひき寄せた。
「どなた、誰です」と、おげんは障子をあけながら声をかけた。
外ではなんの返事もなかったが、雨戸をたたくような音はつづけて聞えた。おげんも根負けがして、雨戸を細目にあけながら、雪明かりの庭先をのぞいていたかと思うと、たちまちあっと叫んで座敷へ転げ込んで来て、澹山の膝の上に倒れかかりながら、彼を掩(かば)うように両手をひろげた。澹山はすぐに手近の行燈を吹き消した。それとこれとほとんど同時に、ひと筋の手槍が暗いなかを縫って来て、おげんの胸を突き透した。つづいて颯(さっ)という太刀風が彼女の小鬢をななめに掠(かす)めて通った。
澹山はもうその時、おげんの背後(うしろ)にはいなかった。彼は早くも飛び退(すさ)って蝙蝠(こうもり)のように横手の壁に身をよせて息をのみ込んでじっと窺(うかが)っていると、槍と刀とは空(くう)を突き、空を撃って、暗い座敷を二、三度流れたが、おげんの悲鳴を聞きつけて表の店から誰か駈けてくるらしい跫音におどろかされて、槍と刀は早くも庭先に消えてしまった。澹山はそっと壁ぎわをはなれて、縁側に出て耳をすますと、凍(こお)っている雪を踏み散らしてゆく跫音が生垣の外に遠くきこえた。
「先生、どうぞなされましたか」
暗いなかで呼びかけたのは、おげんの兄の伝四郎の声であった。
「あかりを早く……」と、澹山は小声で云った。「娘御(むすめご)が怪我をなされたらしい」
伝四郎は無言で引っ返したが、やがて店の者三、四人と共に、手燭をかざして再び駈け付けると、その火に照らされた座敷の内には、行燈が倒れていた。茶碗や土瓶がころげていた。襖の紙にも槍の痕と刀傷が残っていた。その狼藉(ろうぜき)を極めたなかに、若い娘は血に染みて横たわっているのをひと目見て、伝四郎は思わず声をあげた。
「妹。おげん……しっかりしろ」と、彼は妹を自分の膝のうえに抱きあげて叫んだ。
「先生……」と、おげんは微かに云った。
「わたくしはここにいます」
澹山はおげんの眼のまえに顔を出した。その顔をうっとりと見つめているうちに、彼女のからだは兄の膝からぐったりと滑り落ちた。少し風邪をひいたと云って早寝をしていた伝兵衛が、眼をさましてここへ駈け付けた頃には、おげんの息はもう絶えていた。委細の事情を澹山から聞いて、彼は娘の死に顔を悲しげに眺めていたが、やがて何を考えたか、いたずらに恐怖の眼をみはっている奉公人どもの方に振り向いた。
「先生に少しお話がある。伝四郎だけはここに残って、皆はしばらく店の方へ行っていろ」
かれらを追い遠ざけて、伝兵衛は澹山のまえに坐り直した。その顔は弁天堂の前に彼にマリアの絵像を頼んだときと同じように、なんとなく人を威圧するような儼(おごそ)かなものであった。
「先生、あなたのご身分は決して他人に洩らすまいと、神にも誓って置きながら、今夜のようなことが出来(しゅったい)いたしましては、定めてわたくしを偽(いつわり)者ともお憎しみでござりましょうが、これには別に仔細がござります。今夜の闇討ちはおそらく先生のご身分を知ってのことではござりますまい。これは用人の荒木頼母のせがれ千之丞の仕業に相違あるまいと、わたくしは睨(にら)んで居ります」
千之丞はかねて千倉屋の娘に懸想(けそう)していて、町人とはいえ相当の家柄の娘であるから、仮親(かりおや)を作って自分の嫁に貰いたいと云うようなことを人伝(ひとづて)に申込んで来たが、娘も親も気がすすまないでまずその儘になっていた。彼が澹山の絵の催促にかこつけてたびたび此の店へたずねて来るのもそれが為であった。そのうちに誰の口から洩れたのか、娘が旅絵師と特別に親しくしていると云う噂が千之丞の耳にはいったらしい。現に先頃も絵の催促に来たときに、彼は直接に伝兵衛にむかって、あの旅絵師を娘の婿にするのかと訊いたこともある。彼は暴気(あらき)の若侍であるから、その嫉妬(しっと)から旅絵師を亡き者にしようと企(たくら)んで、おなじ暴れ者の若侍どもを語らって今夜の狼藉に及んだに相違あるまい。彼は江戸の隠密として澹山を殺しに来たのでなく、恋のかたきとして澹山をほろぼしに来たのであろう。おげんは彼を庇(かば)おうとして、その身代りに立ったのである。この意見には伝四郎も一致して、妹のかたきは千之丞に相違ないと云い切った。
「おやじ様、この仇をどうする」と、寡言(むくち)の伝四郎は燃える眼をかがやかして父に迫った。
「かたきはきっと取る。家老でも免(ゆる)すものか」と、伝兵衛は再びおごそかに云った。「ついては先生。こういうことになりましては、又どんなご迷惑が出来(しゅったい)して、自然あなたのご身分が露顕するようなことが無いとも限りません。御用も大抵お片付きになったようでござりますから、雪のやむのを待たずに一日も早く御発足(ごはっそく)なさるようにお勧め申します。しかしこの領分ざかいを越えましたなら、きょうから数えて二十一日、娘の三七日(さんしちにち)の済むまでは、どうぞ其処(そこ)にご逗留なさるように願います。きっと何かあなたのお耳にはいることがござりましょう」
餞別(せんべつ)の金や土産(みやげ)物などをたくさんに貰って、澹山はおげんの葬式の済んだ翌日に千倉屋を出発した。これがもうこの春の名残らしい細かい雪が、けさも彼の笠の上にちらちらと降っていた。伝兵衛も伝四郎も町はずれまで送って来た。千倉屋の若い者二人は彼の警固をかねて領ざかいまで附添って来た。
隣国の他領へはいって、千倉屋から指定された宿屋に草鞋(わらじ)をぬいで、澹山は約束の三週間をここに逗留することになった。三月も半ばになって、ここらの雪もあたたかい春の日にだんだんに融けはじめた頃に、隣国の用人の若い伜が、何者にか闇討ちにされたという噂がここまで聞えたので、澹山は初めて重荷をおろしたような心持になって、そのあくる日に出発した。江戸へ帰る途中で、彼は再び房川の渡を越えるときに、おげんがここで自分の手に救われたのが仕合せであったか不仕合せであったかと云うことを考えた。彼は北にむかって、ひそかに千倉屋の娘の冥福を祈った。
無事に使命を果して帰った彼は、組頭(くみがしら)にも褒められ、上(かみ)のおぼえもめでたかった。しかし彼は決して切支丹のことを口にしなかった。彼は再び絵筆を執らなかった。
千倉屋からはその後何のたよりも無かったが、それから五年ほど経った後に、奥州のある城下町で切支丹宗門の者十一人が磔刑(はりつけ)にかかったという噂を聴いた時に、彼はすぐに伝兵衛父子(おやこ)の名を思い出した。そうして、おげんはやっぱり仕合せであったかと思った。弁天堂に秘められていたマリアの絵像も、彼が模写した同じ絵像も、どうなったか判らない。おそらく誰かの手で灰にされてしまったであろう。
 

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。