奇貨居(お)く可し 秦始皇帝名政、始生邯鄲。昭襄王時、孝文王柱爲太子。有庶子楚、爲質于趙。陽翟大賈呂不韋適趙、見之曰、此奇貨可居。乃適秦、因太子妃華陽夫人之姉、以説妃、立楚爲適嗣。不韋因納邯鄲美姫。有娠而獻于楚。生政。實呂氏。孝文王立。三日而薨。楚立。是爲莊襄王。四年薨。政生十三歳矣。遂立爲王。母爲太后。不韋在莊襄王時、已爲秦相國、至是封文信侯。太后復與不韋通。王既長。不韋事覺自殺。太后廢處別宮、茅焦諌、母子乃復如初。

秦始皇帝、名は政、始め邯鄲に生まる。昭襄王の時、孝文王柱太子と為る。庶子楚有り、趙に質(ち)と為る。陽翟(ようたく)の大賈(たいこ)呂不韋(りょふい)趙に適(ゆ)き、之を見て曰く、此れ奇貨なり居(お)く可しと。乃(すなわ)ち秦に適き、太子の妃華陽夫人之姉に因(よ)って、以て妃に説き、楚を立てて、適嗣(てきし)と為す。 不韋因(よ)って邯鄲の美姫を納(い)る。娠(はら)める有って楚に献ず。政を生む。実は呂氏なり孝文王立つ。三日にして薨(こう)ず。楚立つ。是を莊襄王と為す。四年にして薨ず。政生まれて十三歳なり。遂に立って王と為る。母を太后と為す。不韋、莊襄王の時に在って已(すで)に相国たりしが、是に至って文信侯に封ぜらる。太后復た不韋と通ず。王既に長ず。不韋事覚(あら)われて自殺す。太后廃せられて別宮に処(お)りしが、茅焦(ぼうしょう)諌めて、母子乃(すなわ)ち復(また)初めの如し。 秦の始皇帝名は政、邯鄲に生まれる。かつて昭襄王の時に孝文王柱が太子となった。昭襄王には妾腹の子で楚という者が居て、趙に人質になっていた。そのころ、陽翟に住む豪商の呂不韋という者が趙に行き、楚を見るなり、「これは良いものを見つけた、手に入れておこう、後々きっと莫大な利益を生むに違いない」と言った。そこで不韋は秦に行き、太子柱の妃華陽夫人の姉に頼んで、華陽夫人を口説いて楚を太子柱の後継ぎにした。不韋は邯鄲の美姫を娶り、妊娠すると楚に献じて妃とした。そして政を生んだ、つまり政の本当の父親は呂不韋と言う訳である。昭襄王が薨じ孝文王柱が立ったがわずか三日で亡くなった。その後楚が立って莊襄王と為った。四年後莊襄王がみまかると政が十三歳にして王となり、母は太后となった。不韋は、莊襄王の時にすでに秦の宰相になっていたがこの時に文信侯に封ぜらた。王の母太后と呂不韋の密通が発覚し不韋は自殺させられ、太后も廃せられて別宮殿にいたが、茅焦の諌めがあって元に戻った。

華陽夫人に取り入った経緯は史記の呂不韋列伝に詳しい。 不韋は小遣いとして五百金を子楚に渡し、食客たちと交際させ、さらに五百金で献上物を買って秦に旅立つ。華陽夫人の姉に面会して進物を夫人に託しがてら、こう言わせた。 「吾これを聞く、色を以て人に事(つか)うる者は、色衰うれば愛弛む、と。今、夫人は太子に事(つか)え、甚だ愛せらるるも、子なし。この時を以て蚤(はや)く自ら諸子の中の賢孝なる者と結び、挙立して以て適となし、これを子とせざるや。中略 繁華の時を以て本を樹てずんば、即ち色衰え愛弛むの後、一語を開かんと欲すと雖も、尚お得べけんや。今、子楚は賢にして、自ら、中男なれば、次として適と為るを得ず、其の母も又幸せららるを得ざるを知り、自ら夫人に附く。夫人、もし此の時を以て、抜きて以て適と為さば、夫人は則ち世を畢(お)うるまで秦に寵あらん」と。 適 あとつぎ

秦宗室大臣議曰、諸侯人來仕者、皆爲其主游説耳。請、一切逐之。於是大索逐客。客卿李斯上書曰、昔穆公取由余於戎、得百里奚於宛、迎蹇叔於宋、求丕豹・公孫枝於晉、并國二十、遂覇西戎。孝公用商鞅之法、諸侯親服、至今治強。惠王用張儀之計、散六國從、使之事秦。昭王得范睢、強公室。此四君者、皆以客之功。客何負於秦哉。泰山不譲土壌、故大。河海不擇細流、故深。 

秦の宗室大臣、議して曰く、諸侯の人来って仕うる者は、皆其の主の為に游説するのみ。請う、一切之を逐(お)わん、と。是に於いて大いに索(もと)めて客を逐(お)う。客卿(かくけい)李斯(りし)上書して曰く、昔穆公、由余を戎に取り、百里奚を宛に得、蹇叔(けんしゅく)を宋に迎え、丕豹・公孫枝を晋に求めて、国を併すこと二十、遂に西戎に覇たり。孝公、商鞅の法を用いて、諸侯親服し、今に至るまで治まって強し。恵王、張儀の計を用いて、六国の従(しょう)を散じ、之をして秦に事(つか)えしむ。昭王は范睢(はんすい)を得て、公室を強くす。此の四君は、皆客の功を以てす。客何ぞ秦に負(そむ)かんや。泰山は土壌を譲らず、故に大なり。河海は細流を択ばず、故に深し。

秦の一門の人や大臣が相談して言うには、諸侯の国から来て仕えている者は、皆自分の元の主人の為に説いて廻っているだけだ、一人残らず追放したらよかろう。他国から来ている李斯が書を奉って言うには、昔穆公、由余を戎から取り、百里奚を宛から得、蹇叔を宋から迎えて、丕豹・公孫枝を晋から求めて、結果二十カ国を併合して西の覇者になられました。また孝公は商鞅の法を採用して、諸侯が親服して、今に至るまでよく治まって兵も強い。また恵王は、張儀の計略を用いて合従を破り、六国を秦に仕えさせました。又昭王は范睢を得て、公室を強くしました。この四君は皆よそから来た者の力によって成功されました。ですから他所から来た者だからといって、何で秦に背きましょうか、あの泰山は僅かの土でも削らせません、だから大きいのです。黄河や大海はどんな細い流れでも択びません、だから深いのです。   続く

今乃棄黔首、以資敵國、卻賓客、以業諸侯。所謂籍寇兵、而齎盗糧者也。王乃聽李斯、復其官、除逐客令。斯楚人。嘗學於荀卿。秦卒用其謀併天下。有韓非者。善刑名。爲韓使秦、因上書。王悦之。斯疾而之、遂下吏。斯遺之藥令自殺。

今乃(すなわ)ち黔首(けんしゅ)を棄てて、以て敵国に資し、賓客を卻(しりぞ)けて以て諸侯を業(たす)く、いわゆる寇(あだ)に兵を籍(か)し、盗に糧を齎(もたら)す者なり、と。王乃ち李斯に聴いて其の官を復し、逐客(ちくかく)の令を除く。斯は楚人なり。嘗て荀卿に学ぶ。秦其の謀を用いて天下を併す。 韓非という者あり。刑名を善くす。韓の為に秦に使し、因って上書す。王之を悦ぶ。斯、疾(にく)んで之を間し、遂に吏に下す。斯、之に薬を遺(おく)って自殺せしむ。

今人民を敵国に追いやり、客を逐って、敵国、諸侯を利することは、いわば敵に武器を貸し、泥棒に食糧を施すようなものです、と。王は李斯の意見を取り入れ、李斯の官位を元に復し、異国人の追放令を取り消した。 李斯は楚の人で、かつて荀子に学んだ。秦は其の策を用いて天下を併合した。 韓非という者が居た。やはり荀子に学び、刑名の学説に通じていた。ある時、秦に使いして秦王に書をたてまつった。王は喜んだが、李斯に憎まれて、離間され、獄吏の手にゆだねられた。そして李斯はひそかに毒薬をおくって韓非を自殺させてしまった。

黔首 人民  荀卿 荀子、性悪説  韓非 韓の公子、韓非子を残した  刑名 刑は形に通じ、名称とその形が一致すること、言行一致。

十七年、内史勝滅韓、十九年、王翦滅趙、二十三年、王賁滅魏、二十四年、王翦滅楚、二十五年王賁滅燕、二十六年、王賁滅斎。秦王初并天下、自以、兼三皇、功過五帝。更號曰皇帝。命爲制、令爲詔、自稱曰朕。制曰、死而以行爲謚、則是子議父、臣議君也。甚無謂。自今以來、除謚法、朕爲始皇帝、後世以計數、二世三世至萬世、傳之無窮。 収天下兵、聚咸陽、銷以爲鐘・鐻・金人十二。重各千石。 徙天下豪富於咸陽、十二萬戸。

十七年、内史の勝、韓を滅し、十九年王翦(おうせん)趙を滅し、二十三年王賁(おうほん)魏を滅した、二十四年、王翦楚を滅し、二十五年王賁燕を滅し、二十六年王賁斎を滅ぼして、秦王初めて天下を併せた。自ら以(おも)えらく、徳は三皇を兼ね、功は五帝を過ぐ、と。更め号して皇帝と曰う。命を制と為し、令を詔と為し、自ら称して朕と曰う。制して曰く、死して行を以て謚(おくりな)と為すは、則ち是れ、子父を議し、臣君を議するなり。甚だ謂(いわれ)なし。今より以来、謚法(しほう)を除き、朕を始皇帝と為し、後世以て数を計り、二世三世より万世に至り、之を無窮に伝えん、と。 天下の兵を収めて、咸陽に聚(あつ)め、銷して以て鐘・鐻・金人十二を為(つく)る。重さ各おの千石(せき)なり。天下の豪富を咸陽に徒(うつ)すこと、十二万戸。

命を制と為し・・ 命を制と、令を詔と言い替えた 死して行を以て謚(おくりな)と為す・・・王の死後子や臣らが業績等を評価しておくりなをするのは不遜であるから、謚法(しほう)を廃す 兵を収めて 武器を回収して 千石 石は百二十斤