十二箇條問答
- 〈この問は何人か判明せざるも、第一問によれば女人なるが如し。〉
【一】
答 ていはく、「をよそ生 死 をいづる行 一 つにあらずといへども、まづ極樂 に往 生 せんとねがへ、彌陀 を念 ぜよといふ事 、釋 迦 一代 の敎 にあまねくすゝめ給 へり。そのゆへは、阿彌陀 佛 本 願 ををこして、わが名 號 を念 ぜんもの、わが淨 土 にむまれずば、正 覺 をとらじとちかひて、すでに正 覺 をなり給 ふゆへに、この名 號 をとなふるものはかならず往 生 する也 。臨終 の時 もろ〳〵の聖 衆 とともにきたりて、かならず迎接 し給 ふゆへに、惡業 としてさふるものなく、魔 緣 としてさまたぐる事 なし。男女 貴 賤 をもえらばず。善人 惡人 をもわかたず。至 心 に彌陀 を念 ずるにむまれずといふ事 なし。たとへばおもき石 をふねにのせつればしづむ事 なく、萬 里 のうみをわたるがごとし。罪業 のおもき事 は石 のごとくなれども、本 願 のふねにのりぬれば生 死 のうみにしづむ事 なく、かならず往 生 する也 。ゆめ〳〵わが身 の罪業 によりて本 願 の不思議 をうたがはせ給 ふべからず。これを他 力 の往 生 とは申 也 。自 力 にて生 死 をいでんとするには、煩惱 惡業 を斷 じつくして淨 土 にもまいり菩 提 にもいたるとならふ。これは步 よりけはしきみちをゆくがごとし」
- 〈【五障】女人の五種の障礙、一には轉輪聖王となることを得ず。二には梵天王となることを得ず。三には帝釋天となることを得ず。四には魔王となることを得ず。五には佛となることを得ず。〉
【二】
答 ていはく、「たゞ佛 の御 詞 を信 じてうたがひなければ、佛 の御 ちからにて往 生 する也 。さきのたとへのごとく、ふねにのりぬれば、目 しゐたるものも目 あきたるものもともにゆくがごとし。智惠 のまなこある者 も、佛 を念 ぜざれば願 力 にかなはず。愚癡 のやみふかきものも念佛 すれば願 力 に乘 ずるなり。念佛 する者 をば彌陀 は光明 をはなちてつねにてらして捨給 はねば、惡緣 にあはずして、必 臨終 に正 念 をえて往 生 する也 。さらにわが身 の智惠 のありなしによりて、往 生 の定 不 定 をばさだむべからず。たゞ信心 のふかゝるべき也 」
【三】
答 ていはく、「淨 摩尼 珠 といふ珠 をにごれる水 に投 れば、珠 の用力 にてその水 きよくなるがごとし。衆 生 の心 はつねに名 利 にそみて、にごれる事 かの水 のごとくなれども、念佛 の摩尼 珠 を投 れば、心 の水 をのづからきよくなりて往 生 をうる事 は、念佛 のちから也 。わが心 をしづめ、このさわりをのぞきて、後 念佛 せよとにはあらず。たゞつねに念佛 して、そのつみをば滅 すべし。さればむかしより在 家 の人 。おほく往 生 したるためしいくばくかおほき。心 のしづかならざらんにつけても、よく〳〵佛力 をたのみもはら念佛 すべし」
- 〈【淨摩尼珠】摩尼(Mani)は無垢、離垢等と譯す。淨く穢れなき寶珠を云ふ。〉
【四】
答 ていはく、「さとりもあり、ならふむねもありて申 さん事 は、その心 のうちしりがたければ、さだめがたし。在 家 の人 のつねに惡緣 にのみしたしまれ、身 には數 遍 を申 さずして、いたづらに日 をくらし、むなしく夜 をあかさん事 、荒涼 の事 にや候 はんずらん。凡 夫 は緣 にしたがひて退 しやすき物 なれば、いかにも〳〵はげむべき事也 。されば處々 におほく念念 相續 してわすれざれといへり」
【五】
答 ていはく、「念々 にすてざれとをしゆる事 は、人 のほどにしたがひてすゝむる事 なればわが身 にとりて心 のをよび、身 のはげまん程 は、心 にはからはせ給 ふべし。又 念佛 の時 惡業 のおもはるゝ事 は一切 の凡 夫 のくせ也 。さりながらも往 生 の心 ざしありて念佛 せば、ゆめ〳〵さはりとはなるべからず。たとへば親 子 の約束 をなす人 いさゝかそむく心 あれども、さきの約束 變改 する程 の心 なければ、おなじ親 子 なるがごとし。念佛 して往 生 せんと志 して念佛 を行 ずるに、凡 夫 なるがゆへに貪瞋 の煩惱 おこるといへども、念佛 往 生 の約束 をひるがへさざれば、かならず往 生 する也 。」
【六】
答 ていはく、「人 の心 は外 にあらはるゝ事 なければその邪 正 さだめがたしといへども、經 には三心 を具 して往 生 すとみえて候 めり。この心 を具 せざるがゆへに、念佛 すれども往 生 を得 ざる也 。三心 と申 は、一 には至 誠 心 、二 には深心 、三 には廻 向 發 願 心 也 。はじめに至 誠 心 といふは眞實心 也 と釋 して、內 外 とゝのほれる心 也 。何事 をするにも、まことしき心 なくては成 ずる事 なし。人 なみ〳〵の心 をもて、穢土 のいとはしからぬをいとふよしをし、淨 土 のねがはしからぬをねがふ氣 色 をして、內 外 とゝのほらぬをきらひて、まことの志 しをもて穢土 をもいとひ淨 土 をもねがへとをしふる也 。次 に深心 といふは佛 の本 願 を信 ずる心 也 。われは惡業 煩惱 の身 なれども佛 の願 力 にて、かならず往 生 するなりといふ道 理 をきゝてふかく信 じて、つゆちりばかりもうたがはぬ心 也 。人 おほくさまたげんとして是 をにくみ、これをさへぎれども、これによりて心 のはたらかざるをふかき信 とは申 也 。次 に廻 向 發 願 心 といふは、わが修 するところの行 を廻 向 して、極樂 にむまれんとねがふ心 也 。わが行 のちから、わが心 のいみじくて往 生 すべしとはおもはず。佛 の願 力 のいみじくおはしますによりて、むまるべくもなきものも生 るべしと信 じて、いのちをはらば佛 必 ずきたりてむかへ給 べしとおもふ心 を、金剛 の一切 のものにやぶられざるがごとく、この心 をふかく信 じて臨終 までもとほりぬれば、十人 は十人 ながらむまれ、百 人 は百 人 ながらむまるゝ也 。さればこの心 なきものは、佛 を念 ずれども順 次 の往 生 をばとげず、遠緣 とはなるべし。この心 のをこりたる事 はわが身 にしるべし。人 はしるべからず」
【七】
答 ていはく、「淨 土 をねがへどもはげしからず、念佛 すれども心 のゆるらかなる事 をなげくは、往 生 の心 ざしのなきにはあらず。心 ざしのなき者 はゆるらかなるをもなげかず、はげしからぬをもかなしまず、いそぐみちにはあしのをそきをなげく。いそがざるみちにはこれをなげかざるがごとし。又 このめばをのづから發心 すと申 す事 もあれば、漸々 に增進 してかならず往 生 すべし。日 ごろ十惡 五 逆 をつくれるものも、臨終 にはじめて善 知 識 にあひて往 生 する事 あり。いはんや往 生 をねがひ、念佛 を申 してわが心 のはげしからぬ事 をなげかむ人 をば、佛 もあはれみ菩 薩 もまもりて、障 りをのぞき知 識 にあひて往 生 をうべき也 」
【八】
答 ていはく、「あるときには世 間 の無 常 なる事 をおもひて、このよのいくほどなき事 をしれある時 には佛 の本 願 をおもひて、かならずむかへ給 へと申 せ。ある時 には人身 のうけがたきことはりをおもひて、このたびむなしくやまん事 をかなしめ。六道 をめぐるに、人身 をうる事 は梵天 より糸 をくだして大海 のそこなる針 のあなをとをさんがごとしといへり。ある時 はあひがたき佛法 にあへり。このたび出 離 の業 をうへずば、いつをか期 すべきとおもふべき也 。ひとたび惡道 に墮 しぬれば、阿 僧 祇 劫 をふれども、三寶 の御 名 をきかず。いかにいはんやふかく信 ずる事 をえんや。ある時 にはわが身 の宿 善 をよろこぶべし。かしこきもいやしきも人 おほしといへども、佛法 を信 じ淨 土 をねがふものはまれ也 。信 ずるまでこそかたからめ、そしりにくみて惡道 の因 をのみつくる。しかるにこれを信 じこれを貴 びて、佛 をたのみ往 生 を志 す。これひとへに宿 善 のしからしむる也 。たゞ今 生 のはげみにあらず。往 生 すべき期 のいたれる也 とたのもしくよろこぶべし。かやうの事 をおりにしたがひ、事 によりておもふべき也 」
【九】
答 ていはく、「そのやう一 つにあらず。あるひは人 の苦 にあふをみて三 途 の苦 をおもひやれ。あるひは人 のしぬるを見 て無 常 のことはりをさとれ。あるひはつねに念佛 してその心 をはげませ。あるひはつねによき友 にあひて心 をはぢしめられよ。人 の心 はおほく惡緣 によりてあしき心 のをこる也 。されば惡緣 をばさり、善緣 にちかづけといへり。これらの方法 ひとしなならず。時 にしたがひてはからふべし。」
【十】
答 ていはく、「たとへば人 のみちをゆくに、主人 一人 につきておほくの眷屬 のゆくがごとし。往 生 の業 の中 に念佛 は主人 也 。餘 の善 は眷屬 也 。しからば餘 善 をきらふまではあるべからず」
【一一】
答 ていはく、「佛 は惡人 をすて給 はねども、このみて惡 をつくる事 、これ佛 の弟子 にはあらず。一切 の佛法 に惡 を制 せずといふ事 なし。惡 を制 するにかならずしもこれをとゞめ得 ざるものは、念佛 してそのつみを滅 せよとすゝめたる也 。わが身 のたへねばとて、佛 にとがをかけたてまつらん事 はおほきなるあやまり也 。わが身 の惡 をとゞむるにあたはずば、ほとけ慈悲 をすて給 はずして、このつみを滅 してむかへ給 へと申 べし。つみをばたゞつくるべしといふ事 は、すべて佛法 にいはざるところ也 。たとへば人 のおやの一切 の子 をかなしむに其中 によき子 もあり、あしき子 もあり、ともに慈悲 をなすといへども、惡 を行 ずる子 をば目 をいからかし、杖 をさゝげて、いましむるがごとし。佛 の慈悲 のあまねき事 をききては、つみをつくれとおぼしめすといふおもひをなさば、佛 の慈悲 にももれぬべし。惡人 までをもすて給 はぬ本 願 としらんにつけては、いよ〳〵佛 の知 見 をばはづべし。かなしむべし。父母 の慈悲 あればとて、父母 のまへにて惡 を行 ぜんに、その父母 よろこぶべしや。なげきながらすてず。あはれみながらにくむ也 。佛 も又 もてかくのごとし」
【一二】
答 ていはく、「人の歸依 を得 むとおもひて、外 をかざらんはとがあるかたもやあらん。惡 をしのばんがために、たとひ心 におもふとも、ほかまではあらはさじとおもひてをさへん事 は、すなはち佛 に耻 る心 也 。とにもかくにも惡 をしのびて、念佛 の功 をつむべき也 。習 ひさきよりあらざれば、臨終 正 念 もかたし。常 に臨終 のおもひをなして、臥 ごとに十念 をとなふべし。さればねてもさめてもわするゝ事 なかれといへり。おほかたは世 間 も出 世 も、道 理 はたがはぬ事 にて候 也 。心 ある人 は、父母 あはれみ、主君 もはごくむにしたがひて惡 事 をばしりぞき、善 事 をばこのまんとおもへり。惡人 をもすて給 はぬ本 願 ときかんにも、まして善人 をばいかばかりかよろこび給 はんと思 ふべき也 。一念 十念 をもむかへ給 ふときかば、いはんや百 念 千念 をやとおもひて、心 のをよび、身 のはげまれん程 ははげむべし。さればとてわが身 の器 量 のかはらざらんをばしらず。佛 の引接 をばうたがふべからず。たとひ七八十 のよはひを期 すとも、おもへば夢 のごとし。いはんや老少 不 定 なれば、いつをかぎりとおもふべからず。さらに後 を期 する心 あるべからず。たゞ一 すぢに念佛 すべしといふ事 、そのいはれ一 にあらず。
- これを
見 むおり〳〵ことにおもひいてて南無阿彌陀 佛 とつねにとなへよ
- これを
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