北條民雄日記 (1934年)


一九三四年 (昭和九年)

北條民雄

 七月十三(註1)

 盆が遂に来た。何の親しみも光りもない盆が。数日前から踊りの練習をやつてゐるが、自分は足の傷が癒らないので、それも出来ない。出来るならば、自分も精一ぱい唄を唄つて踊りたい。一切を忘れることが出来るならば、それ以上の嬉しいことが他にあらうか。足の傷は野球をやつてゐて、踏まれたもの。もう十三日になるのに穴の深さが浅くならぬ。傷の所が麻痺してゐる故、痛みとてはないのだが、癒りの悪いことは二倍である。これが健康時ならば二週間も経てば良くなつてしまふのだが。

 痛みとてはないのだが、疵があるといふことは自分にとつては苦しみの導火線だ。弱り切つた自分の神経は、どんな些細なことにもそれを利用して狂ひ始めるのだ。疵をしてからの自分の不安と焦燥は筆紙に尽せぬ。原稿は書けぬ。日記すらやうやく今日になつて思ひついて書き始めたくらゐだ。


 昨日から雨が降る。長い間待つてゐたものである。雨は流石に自分の心を落ちつかせてくれる。これだけの日記文を書くことが出来るのも、言ふまでもなく雨のお蔭だ。この雨の為に石川県辺りでは水害で弱つてゐるとのこと。今日の新聞では六十人の溺死人を出したといふ。けれど自分は雨を愛す。例へ一万人の溺死人が出る程の洪水になつたとて、自分は雨が好きなのだから仕方がない。


 日記を書きながらじつと外を見る。霧のやうな細い雨が前の筑波舎の屋根に注いでゐる。庭に咲き始めたグラヂオラスが何の故にか胸を伏せて仆れてゐる。

 今朝起きたのは六時であつた。雨は小降りであつたが、降りさうに空は曇つて険悪である。

 七時頃、桜井、小川、花岡、上村、佐藤、松川、自分の七人でアミダをやる。自分は弱籤で八銭とられた。が、菓子は甘かつた。腹工合が悪くなつた。

 九時頃外科に行く。足の疵は相変らず深い。だが痛みのないことが幾分でも自分を救ふ。痛みのないことは癩の特長であると同時に、治ることの長びくことを意味するけれど、自分は、痛いのは何より閉口だ。


 盆の記。

 一向盆らしくない盆だ。それは気分が第一さうであるが、天候の工合も盆らしくない。降るといふのでもないが、どんよりと曇つて寒く、夜など蒲団をすつぽり被つて寝ないと寒気がするくらゐである。団扇や扇の要らない盆なんて丸切り感じが出ない。盆はやはり苦しくとも暑い方がよい。

 十四日、十五日、十六日、と村の人達は踊り狂つた。就中なかんづく十六日の夜は徹夜で踊つた者もあつたくらゐだ。自分も拙いながら踊つた。笠踊り、八木節、東京音頭の三つを自分は踊れるやうになつた。生れて初めてであつたが、踊りも亦面白いものだ。けれど自分には踊りながらも浮かれるといふ風な気持にはなれなかつた。これは仕方がない。菖蒲(註2)の彼女達も総出で、盛装を凝らして踊つてゐた。凡そグロテスクな面や足を持つてゐる彼女達であり、平常は男女の識別も怪しい彼女達ではあるが、何気なく踊つてゐる一つ一つの動作の内部にも外部にも、やはり女らしい線の弱さと、柔かい弾力に溢れてゐて、自分はその美に打たれた。百合(註3)の女の子達の踊りには自分は真実泣かされた。この小宇宙に生れ、そしてそれに満足して、いや慣れ切つて、一切の苦しみすらも感ずることを失つて、ただ無心に踊つてゐる。その可憐な容子は実際涙を誘はずにはゐない。


 七月二十一日。

 盆も過ぎた。今日ははや二十一日になつてゐる。自分が此の病院に来てから、最早二ケ月が過ぎてしまつた。その間に自分は何をやつただらうか。僅かに『山(註4)』七月号のコントを四枚書いたに過ぎない。考へて見ると情ない話だが思ひの纏まらぬことは仕様がない。昨日は当院で芝居があつた。久振りで見た「弁慶上使」は良かつた。やはり自分の魂の中には、ああした古典の優美を愛する感情が流れてゐるのだ。それからあの中に出て来る女中の「忍」といふ女の声から体つき、面影まで亀戸の君ちやんにそつくりだつたのであきれた。君ちやんに会つて見たいやうな気持になつた。彼女はまだ例のバアに働いてゐるであらうか。どうかすると結婚したかもしれぬ。 さて、それで今日の記事だが――。

 お天気はやはり雨模様だ。朝から昼にかけて霧のやうな細い雨が降る。涼しいことは涼しい。

 九時頃、外科に行き五十嵐先生に診て貰ひ太陽灯をかける。

 夕方礼拝堂で碁将棋の大会があつたので見に行つた。その他には記事といふ程のことはない。

 先日振替を出してあつた『文芸首都』七月号一部来る。久しぶりで熱心な文学修業者達の雰囲気に触れて、気分の躍動するのを覚える。自分も何か書かねばならぬ。それから自分は今後絶対に必要のない下らぬことを喋らぬやうにしなければならない。自分の思考の散漫性と文章の書けぬのも、余りに喋り過ぎるからだ。この病院へ来てからも、もう二ケ月になるのだ。気分も落ちついていい頃だ。本もよく読まねばいけない。

 毎日どんなことでもいい、原稿用紙を一枚は書くこと。

 異性に対する今までの気持は、多分に不純な分子を含んでゐたことは否定出来ない。けれどもこれ以上自分は刻苦的な人間ではないらしい。とは言へ、異性の性格観察を行はうとする自分に、これ以上の道徳的な要求は無理だ。

 なほこの病院に於ける今までの生活態度はどうであつたか? 如何なる場合にも作家らしい観察的態度で暮して来た自分は、決して他人の嘲笑を買ふやうなことはあるまいと思ふ。兎に角自分はこれから書くのだ。『文芸首都』は毎月買はう。これだけの苦しみを受け、これだけの人間的な悲しみを味はされながら、このまま一生を無意味に過されるものか!


 七月二十二日。

 今日は日曜で外科も休みだ。その安心があつたためでもないが、起きて見ると最早六時半を過ぎてゐる。吃驚して跳ね起き急いで掃除をすませ、配給所まで飯を取りに行く。

 今頃になつて梅雨が始まつたのか? 今日も曇天である。配給所のあたりに繁つてゐる松の嫩葉は深い陰影を作つてゐた。食後、『文芸首都』を読み、それから昨日の続きの碁将棋会に行く。

 夕方散歩に出ると光岡さんに会ひ、二人で果樹園を散歩する。彼は四五日前から創作 (小説) を書き始めてゐる。お互に勉強しようと励まし合ふ。帰りに藤蔭寮により原田氏が今度出版される原稿を見せて貰ふ。六十枚近く書いてゐた。それから其処で碁の番附を作つてゐたのを見ると、自分は十一番目になつてゐた。

 最早十時に近い。消灯もやがて間もない。それで今日の記事は事の略記だけである。ゆつくり横になつて「一週(註5)」の空想でもすること。


 七月二十四日。

 昨日の記事を遂に書き損ねてしまつた。妙義舎で遊んでゐるうちに、すつかり時間を過してしまつてたうとう十時になつてしまつて、帰つて見ると電気が消えてしまつた。記事として別段ないが、ただ一つ小説「一週間」を書き始めたこと――。

 三号病室の裏の動物小屋の横の休み室を借りることにした。土間一畳に畳一枚の小さな部屋だが、ヤギの糞の悪臭には閉口したが、慣れてみると左程でもなかつた。四枚書けた。その為に疲れたのか、今朝起きてみると、なんと七時だ。急いで掃除をして、飯を食ふ。

 八時頃に注射をするやうに今日からなつた。午後は医局は全部休みといふ。夏になつたためだ。

 外科が終へてから動物小屋に行き三枚ばかり書く。が今日はどうしてかうも書けないのだ。丸切り文章が描写になつてゐない。やつぱり最初から原稿紙に向ふことは良くない。初めは何か他の紙にノートする方が良いかと思ふ。昼頃松川君と一石囲む。三番続けて勝ち、四番目に敗れた。

 明日は今まで書いた七枚を全部書き改めることにしよう。そして次からは何か他の紙に書かう。

 是非造らねばならぬものとしては、本箱と話の種のノート。

 とまれ気分も落ちついた。これからほんたうの作家の生活を始めるのだ。作品すること、読むこと、観察すること、より多く苦しむこと。自己の完成へ。


 七月二十五日。

 激しく創作の慾望が心をゆする。昨日書いたものを今日書きなほす。いよいよ明日からあの作品の真髄に近づく。いよいよ心理はさびしくなりむづかしさはいよいよ迫る。だが書かねばならぬ。なんとしても書かねばならぬ。書くことだけが自分の生存の理由だ。


 七月二十六日。

 今日は大変な失敗をやつた。といふのは、夕飯の時ひつを配給所へ出すのを忘れたので飯がないのだ。方々へ駈け廻つてみたが何処にも余つてゐない。仕方なく菓子を買つて食ふ。

 今日はどう力んでみても書けなかつた。又あの作品も行詰つて迷ひ出したかと思ふと残念でならぬ。又材料の圧迫に苦しまねばならぬか。

 夜一号二号全部でアミダをやる。方法として女の名前を書く。自分は榛名舎のモトちやんといふ女を引いて六銭取られた。岡田さんが百合舎の君ちやんを引いて最高八銭だつた。それから女の噂で騒ぎ、床に這入ると八時過ぎだつた。


 七月二十七日。

 なんて今日は体がだるいんだ。朝五時半に起きたせゐかもしれぬ。仕方がないので外科を終へてから昼寝をやる。昼飯を食つてから例の書斎に行つたが、於泉君が遊びに来たので夕飯まで文学の話をやる。これといふ記事もない。


 八月十二日。

 数日前からフィリップの『若き日の手紙』を読み始めてゐる。なんて良いんだ。フィリップの若い時の苦しみも悲しみも、それは凡て自分と同じい。自分は多くの女と今まで交渉して来た。けれど真に愛されたことは一度もなかつた。彼の苦しみや、何がなしの物足らなさ。それは自分の亀戸時代の心理にそつくりだ。唯自分は病気の故にフィリップ以上に苦しみ、彼以上に錯雑した心理をつてゐるのだ。フィリップを自分はそんなに大作家だとは思はない。けれど好きだ。彼の底に流れてゐる情熱、意力、これはどんな大作家も及ばない程純粋だ。自分は彼を愛す。


 八月十七日。

 かねて作品社に註文してあつた『プルウスト研究』及び『作品』八月号が来る。『作品』よりも『プルウスト研究』の方が気に入つた。ノート版百頁位の本である。年八回出るといふ。余りこの本が気に入つたので、夕方外科に行くとき「橡」を読みながら行く。「愉みとその日その日」の中のー篇も好きで、外科場でそれを読んでゐると、当直の小寺、中野、両氏が来た。この間僕が小寺氏のことを三角の頭と言つたのでそれを怒つて僕の外科をやつてやらないと言ふ。困つた困つたと言つてゐると、中野氏がやつてくれた。この両女史共文学少女だ。怒つた小寺氏も『プルウスト研究』が気に入つたとみえて、この本の頁を切つて呉れた。両人に「橡」とその他の一篇を読ませてやると、ひどく感心してゐた。


 八月十八日。

 足の疵が癒らぬので、五十嵐先生にいつそのこと疵口を切り拡げたらいいのではあるまいかと相談して、そんなにあわてても駄目だと言はれ、これから動いてはならぬと叱られた。とんでもない藪蛇だ。

 十一時頃材料倉庫を作るために売店でノートを二冊買つて来た。いよいよ秋が近よつて来た。朝夕の風は最早秋のものだ。自分の頭もだんだん冴えて来るだらう。さうしたら、書き、読み、観察する。仕事に精が出て来る。フィリップのやうな気持にならう。 (十八日午前の記)


 八月二十七日。

 秋だ。朝床の中にゐると、うつすらと仄寒く感じ、掛蒲団をしつかり体に巻きつけたい思ひがする。床の中の温かさが嬉しくて、じつと眼を閉ぢて死んだ兄のことを考へる。幸福である。けれど何故か淡い切なさを覚えてふと泣いてみたいやうな思ひさへする。処女湖のやうに澄んだ瞳の可愛い少女と恋をしてみたい気分にもなる。

「秋が来ると恋がしたくなる。」

 と自分が言ふと、皆は笑つた。彼等は私の気持に対して聾である。

 昨日のA・B戦 (野球) が余り激しかつたので自分は体の節々が痛んでならぬ。起きると面倒と思つて皆が飯の用意をするまで床の中にゐた。みんなに済まないと思ふ。

 食後再び床に這入つてゐると小寺女史が『プルウスト研究』(Ⅰ) を持つて来て呉れた。以前彼女に貸してあつたものである。

 昨夜睡れなかつたので (この頃は毎晩のやうに睡れぬ日が続いてゐるのだが) 今日はどうしてもカルモチンを貰はねばならぬと、八時頃床から出て内科室へ行く。もう四五日足の疵に就いて五十嵐先生を訪ねないので叱られるかもしれぬと、びくびくして行つた。(疵はNさんに診て貰つて大体癒つてしまつたので野球などをやつてゐる。) 行つてみると案の定お叱言を食つた。けれど叱つて呉れると思ふと嬉しい。疵の穴は完全にふさがつてしまつてゐる。けれど内部で筋肉の上下が良く密着してゐるかゐないかが心配だ。それでその点に就き先生に訊ねてみると、今更そんなことを言つてもしらぬと言はれ、困つたと言ふと、あなたの体質から推して結核性関節炎を起す十分の怖れがあるので、わたし心配してゐるのよ、あなたの病気は関節が弱いのだから、それにその疵が関節に近いし、――兎に角明日レントゲンをかけてあげるからおいでなさい、と言つてくれた。帰つて来てから昼寝する。

 夕方になつてもカルモを持つて来てくれないので、又今夜も自分の弱い神経はびんびんと響いて苦しい思ひをせねばならぬかと思ふと、約束を守つて呉れないので恨めしくさへ思ふ。自分のこの神経の弱さを誰が知つて呉れるのか。何時になつたらこの雑然とした天地から抜け出て、静寂な世界に孤独の楽しさを味はふことが出来るのだらうか? 最早生涯この騒々しい濁つた中に住まねばならぬのではあるまいか。もしさうだとするなら、ああ自分はどうしたらいいのか。どうしたらいいのか。

 この雰囲気の内部では文学など糞喰へだ。だからこそ、かうこの院内の文学が(き)(ぎ)れなんだらう。そして本気でやつてゐるものは詩か歌の世界に遁れて、創作 (小説の) の世界に戦はうとする熱意は消失してしまつてゐる。『山桜』の文芸特輯号にしたところで、花吟の作品は纏まりを見せてゐるけれども、其処にどれだけの深みと、世界観の高さがあるだらうか。

 そして僅かに小説らしいものとして我々が受け取れるその作品の作者である花吟さへも、最早文学への熱意を失つてしまつたといふではないか。


 八月二十八日。

 毎月二十八日は遥拝式で早起きをせねばならぬ。自分も今日は早く起きて式に参列しようと思つてゐたのだが、昨夜カルモを飲まなかつたので、遂に早く起きることが出来ず、起きた時は七時を過ぎてゐて、式に行つたものも帰つて来てゐた。

 空は曇つてゐる。が、自分が注射を済ませて帰つて来た頃から雲がだんだん消えて行つて、やがて晴れ渡つた秋らしい青空になつて来た。売店の連中と大工さんとの野球があるといふが、一時を過ぎた頃から又曇つて来た。野球などどうでもよい。雨が降るといいのだが。


「一週間」は三十五枚、第一日の分だけ書いたが、第二日になつて詰つてしまひ、一行も進まない。それといふのも腹工合が悪い上に、毎日野球に引き出され、ゆつくり考へてみる暇がないからだ。野球なんぞあつさり止めてしまつて、――と思はぬでもないけれど、やつぱり好きだし、それに今の間に遊んで置かねばと思ふ、はかない病者の気持もある。

 この頃になつて又亀戸時代に感じたやうな疲れを覚えるやうになつた。暗黒な前途の重さがひしひしと自分の心理を圧迫して、自分はどうにも耐へられず、早く気狂ひになつてしまふか、死んでしまふかしなければ――このやうな全身に抵抗力といふものが皆目なくなつてしま つたやうな日が何時まで続くのか。からりと晴れ渡つた空のやうな、澄明な心に何時なれるのか。何を見ても興味を覚えず、坐つてゐても、臥つてゐても、これが自分の最も適当な態度とは思へず、何かもつとこれ以外のことに自分の態度を決めて行かねばならぬやうな気がしてならぬ。坐れば坐つてならぬと思ひ、歩けばその目的が漠とし出すし、弱つた――弱つた。

 ここまで書くと十二時過ぎであつたので、グラウンドに野球を見に行く。どちらも余り下手糞なので、かつたるしく見てゐられない。それで帰りかけると、分室で手紙が来てゐるといふので貰ふ。

 久しぶりの老いた祖父からの便りである。古風に筆で書かれた文に、目前に祖父を見たやうな嬉しさを覚える。読んでゐるうちに、以前の妻であるY子が肺病で死んだといふ。思はず自分は立ち止つて考へ込んだ。あんなに得態の知れぬ、そして自分を裏切つた妻ではあつたが、 死と聞くと同時に言ひ知れぬ寂しさを覚えた。自分は彼女を愛してはゐなかつた。けれど死んだと思ふと急に不愍さが突き上げて来て、もう一度彼女の首を抱擁したい気持になる。出来るならばすぐにも彼女の墓前に何かを供へてやりたくも思ふ。死の刹那に彼女はどんなことを思つたらうか。それにしてもなんといふはかり識れぬ人生であらうか。死を希ひ願つて死に得なかつた自分。だのに彼女は二十のうら若さで死んでしまつた。

 ××のKも病気とのこと。老いた祖父が頼りとする自分を、この遠くの療養所に送つて、そして自分の周囲のものが次々に死んで行くさまはなんといふ悲しいことだらう。最早祖父母の上にも死の影は遠くあるまい。

 明日は松舎と野球の試合があるので、夕方になつて練習をする。練習中はY子のことも何も忘れ果ててゐたけれど、終つて風呂に入り机の前に坐ると、すぐ又彼女のことを思ひ出した。あんなに元気で、田舎娘らしい発育の良い女だつたのに――死ぬとは寧ろ不思議な感じがする。


 八月二十九日。

 六時半に今日は起きた。誰も起きてしまつてゐて、相変らず自分が一番どん尻だ。昨夜はカルモを飲んだためぐつすり眠ることが出来て、今日は大変気持が良い。体の調子も悪くないが、胃腸が弱いためだらう、今日も又腹下しをしてゐる。別段腹工合が悪いといふ訳でも……

   (この間大判ノート一枚破棄。――〈底本〉編者註)

……不可能のやうに思はれて、居ても立つてもゐられない苛立たしさを覚える。周囲は雑然と濁つて自分の神経の最後の一本までも粉々にしようとする。早く一人になりたい。たつた一人ぽつちになりたい。


 九月一日。

 雨が降る。長い間待つてゐた雨が。これ程長い間、せめて好きな雨でも降れば、この荒んだ気分もよくなるであらうと思つてゐたのに、やつぱり気分は晴れぬ。何故かそはそはして気分は落着きを失ひ、ものを書く気にもならぬ。

 野球のA・B戦も雨のため出来ずなつてしまつた。明日からは九号病室へ附添に行かねばならない。N・K君の代りに。九時頃交付所へ金を下げに行く。一金五円也。画用紙に印刷された一円札五枚。これを見ると情なくも、肩味の狭い思ひもする。帰りに二十銭菓子を買つて来て食ふ。それから早速『プルウスト研究』第二輯、阿部知二氏の『文学の考察』のニ冊を振替で出す。早く来ればいいにと、はや待遠しい思ひでならぬ。

 昼から礼拝堂で震災記念につき、院長の講話があつた。行つても大したことはあるまいと思つたので、自分は行かなかつた。夕方妙義舎の鈴木君が風邪にやられて熱を出してゐるといふので見舞ひに行き、氷嚢を吊したり氷枕を頭の下に入れたりするのを手伝ふ。それからH君と原田氏と、その他妙義舎の人達と暫く話す。熱は三十九度程あるので、鈴木君は丸きり力がなく、大変苦しさうであつた。それから種々病気のことについて話すうちにこんなのがあつた。

「中耳炎になつた場合、後頭部からの手術はこの病院では出来ない。」

「それでは外へ出て手術を受けることが出来るか?」

「恐らく外へは出すまい。」

「それではどうなる?」

「見殺しだ。」

 この言葉に自分は戦慄した。光岡君が妙に悲しげな声で何か言ひながら、僕の尻を突いた。

「おいどうだい?」と言つたのであらう。僕は何とも答へやうがなかつたので黙つてゐた。

 暫く小降りになつてゐた雨がその時又沛然はいぜんと降つて来た。そして自分達は黙つた。部屋の中が妙に淋しくなつて来た。僕は死といふものが、すぐ近くまで来てゐるのではないかと思つて不安を覚えた。その刹那、Y子の死が急に思ひ出され、妙に彼女の死んでゐる姿が美しく思ひ浮んだ。胸のあたりはまだ元のやうに肉づきが良く、心臓は静かに上下してゐる。さういふ風な彼女が横に臥つてゐる姿が眼にちらついた。やがて自分達は帰つて来た。


 九月二日。

 朝雨が降つてそれから止んだ。だが曇天で今にも降り出しさうであつた。今日から九号病室へ附添に来た。ベッドの数は十九、当直寝台と空きべッドが一つづつ。病人の数は十七人。自分は空きベッドを使用することにした。

 十二時頃光岡君に会ひ、A・B戦があるから出て呉れと言ふ。自分はおかず取りだつたので暇がある。それで出ることにした。

 A・B戦は1対1で引分けの好成績だつた。A・B戦が終る頃、所沢から Kotobuki といふチームが来て〔オール〕全生で戦ふことになつた。自分は一塁を守り、投手はYがやつた。が結局Ⅳ対Ⅲで敗退した。

 体がぐつたり疲れてしまひ、それに明日は当直なので八時頃ベッドに這入つた。けれど睡られない。看護婦の中野さんが、もう一人名前の知らない〔ひと〕を連れて来た。カルモを下さいと言つたが、もう品切れだと言ふ。それでは何か眠る良い方法はないかと言ふと、葱を枕許に置いて寝ろと言ふ。それなら医局に葱があるかと言ふと、医局にはないと言ふ。笑ひながら横になつたが、眠つたのは一時近くだつた。


 九月三日。

 今日は当直である。朝から大変忙しい。けれど何か新しいものを、新しい発見をと願つて来た病室であつた。どんなに忙しくとも自分の観察眼は曇らない。便所に行くことも、煙草を吸ふことも出来ぬ病人達と接触しつつ自分の眼は、心理は、いよいよ緊張した。そしてその刹那々々の彼等の心理の動き、光景、その他の凡てを自分の心の中に書き込んだ。勝利の日である。


 今日起きたのは五時半頃である。雨は降つてゐたが昼頃になつて止み、空の薄い雲を照して太陽の光線がぼやけて、地上を照してゐたが、夕方になつて再び降り始め、やがて夜近くなる頃は止んだ。今日の仕事を初めから書き留めてみよう。


五時十五分頃 配給所へおかず取り。

七時頃 昨日の当直のものと代り、室を自分に渡される。

七時半頃より 室内の掃除 (初めて使ふボンテンに汗をかいた。)

八時頃 S君遊びに来る。病人中盲目なるもの四人に煙草を吸はせる。

八時半頃 五十嵐先生の所で太陽灯をかける。

九時頃 お茶を患者達に飲ませる。煙草を吸はせる。

十時頃 外科来る。繃帯を解いてやる。悪臭甚し。

十時半頃 掃除。それから昼飯を食はせる。煙草を吸はせる。

十一時半頃 お茶を飲ませる。湯ざましを与へる。卵が来たので、皆んなに配る。

十二時半頃 掃除。

一時頃 ニンニクの皮をむかされる。臭い上に眼が痛む。


 右書いて来ると、大変睡くなる。横になつてゐるうちに、何も判らなくなつてしまつた。


 九月七日。

 又しても自分の才能の無さが痛切に感ぜられて泣き出したいやうな気持になつて来た。さうなると「一週間」の今まで書いた三十五枚も急にひからびて灰色になり、こんなものを書いて嬉んでゐる自分の浅ましさが激しく自分を軽蔑し出して、今度光岡君や於泉君に会つたらどんな面したらいいかと、人知れず赤面して、言ふべからざる不安と焦燥と切なさを覚えた。

 雑誌『文藝』の懸賞小説を書かうと思つて「若い妻」の構想を考へたけれど、一体どのやうに書いたらいいのか、何にしてもとても自分には書けさうになく思はれ、それと同時に、もし自分の病気が良くなつて外へ出るとしたなら、一体自分はどうして生活して行つたらいいのか、この生垣一歩外は、闇と喚声と争闘の絶え間のない連続ではないか。

 文学だ詩だ唄だと言つたとて、自分にはこの垣一歩外へ出れば、はや社会の嵐にふるへ上つてしまはねばならぬのではあるまいか。このやうに考へるといふのも書かうと思つてゐる「若い妻」といふ小説が、かうした社会不安の雰囲気だからだ。

 見るがよいこの病室のさまを。一体この中に一人だつて息の通つてゐる生きた人間が居るか! 誰も彼も死んでゐる。凡てが灰色で死の色だ。

 ここには流動するたくましさも、希望に充ちた息吹きの音もない。

 いやそれどころか、一匹の人間だつてゐないのだ。そして自分もその中の一個なのだ。神も仏もいいだらう。だが神だ仏だと言つてゐる人達に、どれだけの生活力があると言ふのだ。それはただバイブルの中から拾ひ出された死んだ文字に過ぎぬのだ。そんな人達がこの全人間といふ問題にどれだけたづさはり得る権利があるのだ。社会と関係がない。それこそ最早死んでしまつた為なのだ。いや死んでしまつてゐることを証明するものだ。そしてそれは生きた人間とも関係がないんだ。これ程悲しいことがあるだらうか。

 ああ俺は死んだ。死んだ。死んだ。


 九月八日。

 第二回目の当直である。幾らか馴れた。「若い妻」が書きたくて仕様がない。けれど忙しくて考へる暇がない。朝から病室の中を駈け廻つてゐるため、ぐつたり疲れ切つてしまつた。この日記を書くのすらひどく面倒くさくてならぬ。


 九月十二日。

 遂に神経衰弱と診断されてしまつた。自分の神経が衰弱してゐることはずつと以前から気づいてゐたし、亀戸にゐた頃からさうであつたことは、例の強迫神経症になつた頃から判つてゐた。勿論強迫神経症といふ症状からして、それであることは判り切つてゐる。何にしても自分が病的になつてゐることは判つてゐる。このまま押し進めて行けばきつと狂人になるとは知れ切つてゐるが、さりとて今からどう仕様もない。勿論体を大切にせねばならぬといふことは意識してゐるけれど、病気のことを考へるとこのままじつとしてゐられない思ひもするし、何にしても弱つたことだ。


 九月十八日。

 附添も終つた。今日は朝から雨で終日部屋にゐる。焦燥と悲しみと不安と、切なさと淋しさと、その他凡てこれに類する形容詞をもつてしても自分の気持は書き表はせぬ程、憂ひに閉ざされた日であつた。

 朝「若い妻」を書かうと思つて机に向つてどうしても書けない。この作物は自分には必然的に書けないのかも知れない。かうした社会不安をテーマにしたものは自分の不安を刺激し、焦燥を募らせるだけである。居ても立つてもゐられない。この朝こそはほんたうに自分の気が狂ふのではないかと思つた。五十嵐先生にでも相談して強い睡眠薬でも貰つて四五日ぶつ続けに眠つたらいいだらうとほんとに思つた。

 かうした不安に苦しめられるといふのも、自分の作家としての力無さをはつきり識つたからだ。自分には才能など丸切りなく小説を書かうと思ふさへをこがましい沙汰かも知れぬ。けれどかう思ふことを余儀なくされる程苦しいことが又とあらうか。この思ひこそは自分に致命的な痛みを与へる。


 現在の自分には何一つとして心から頼ることの出来るものはない。勿論頼り得る人もない。それだけ又この頼り得るものが欲しい。〔しん〕から頼り、それにしがみつき、しつかり抱きついて微動だにしないものがあれば、どんなによいか。今日になつて自分にはつきりと神を求める人達の気持が判つた。けれど自分には神を求めようとする慾求は興らぬ。かうした弱々しい藁でも掴まうとする溺れた心理で神を求めるそのことが、自分には嫌ひなのだ。かうした気持で求めた神が如何に歪んだものであるか判り切つてゐる。


 自分の周囲は依然として雑駁だ。思索など毛程も出来ぬ。自分の弱い神経は絶えず悲鳴を挙げる。


 今日藤蔭に行つて光岡君や鈴木君、Hさん等と話したけれど、自分は全く彼等と反対な風に生れついてゐることを感じただけだつた。彼等は申分のない立派な人間であり、善い事を行はうとする気持を十分に所有してゐて、正直である。そして彼等は神をち、それに摑まつて晏如あんじよとしてゐる。けれど自分には神もない。善事を行はうとする気持もない。気持はひねくれて不正直で不純だ。唯あるものは底の知れぬ絶望と、不安と、懐疑だけだ。生きることの重荷に堪へかねて、さりとてその重荷を打つちやることも出来ぬままに、蒼白な面つきで周囲を睨みつけてひよろひよろと歩いてゐる、その姿が自分なのだ。

 彼等は遠く自分から離れて彼方にゐる。


 九月十九日。

 雨。――起きると六時二十分前だつた。雨は降つてゐなく、これは晴れ渡つた日かも知れぬと思つた。裏の窓から外を見ると、松舎のあたりは朝霧に閉ざされて武蔵野らしい茫漠とした景色だつた。上村君や佐藤君がラヂオ体操に行つてから散歩に出る。テニスコートの近くまで来て松川君に会ふ。それから二人で垣根の所を歩き栗を拾ふ。三合くらゐも拾つたらうか? うでて食つて大変うまかつた。

 十一時頃から雨が降つて来た。二時頃注射に出かけると、看護婦達が笑ふのでどうしたのかと思つて気がつくと、自分が坊主頭に髪を切つたので笑つてゐるのだ。苦笑した。

 今日の気分はどうにかごまかして憂鬱ではなかつた。朝から松川君と栗を拾ひながら、ピンポンをやりながらも、自分の気持をごまかすことで懸命だつた。

 けれど夕方風呂から帰つて来ると、またしても所在なさに昨日の狂ほしい気持が出て来さうで、急いで寝ることに定めて床を引いて中に這入る。それからこの日記を書き出したのだ。雨は相変らず降り続いて、音がする。暗い中を忍びやかにこの部屋に人が来るやうに――。蒲田のS子はどうしてゐるか? 何がなくもう一度会つて話してみたいやうな思ひがする。彼女の気持など判り切つてゐるのだが、何か彼女の口から自分の気持を慰められるやうな言葉が聞かれさうに思はれてならぬ。さりとてそれも仕様のない事ではあるし、今更と思はれて自分の気持の弱さが情ない。過去に見た夢はそのまま夢として自分の胸でまさぐつて楽しんでゐるのが、幸福といふものかも知れぬ。プルウストは人生は夢見るべきだと言つてゐるが、自分にはそのやうな気持になれず、またそれだけに夢見たく思はれてならない。ほんとにプルウストの「愉みとその日その日」の中の一篇に示された少年少女のやうな気持で人生を夢見ることが出来るなら、ああ、自分もあの少年のやうに窓から身を躍らせるのだけれど。


 九月二十日。

 起きると六時十分前だ。貌を洗つて散歩に出る。東の空が紅らんで美しい朝焼けに、自分の面もそれを反映して処女のやうにあからんでゐるかも知れぬと思つて楽しい微笑をする。――とは、なんと自分らしくもないことか! 垣根の向うの深い木立の間を朝霧がゆらゆらと流れて、奥深い仄暗さを有つて、横山大観氏の絵のやうだ。空の朝焼けと優に勝れた対象ママを示して、澄み切つた朝の空気との冷々した感触に、この地に来て初めての美しい自然を味はつた。

 八時が過ぎて皆んなが仕事に出て行くと、自分はぽつんと広い部屋に残つて『文学の考察』といふ本を読んでゐたけれどそれも嫌になり、ぶらぶらとXさんの所へ遊びに行く。XさんはM新聞の社会部長をやつてゐた人で、もう三十六になる。実家には二人も子供があり、奥さんは氏の帰るのを待つてゐるとのこと。それだのに氏は癩のために右手を奪はれて、文字を書くにも左でなければ書けず、それに肺病に罹つて、苦しんでゐる。

 氏と三十分程も語る。

 夕方雨になつて降つたり止んだりのじめじめした時が続く。

 三時半頃父が面会に来る。久しく会はなかつた父は大変年寄つてゐるやうに見えて淋しかつた。


 九月二十一日。

 嵐の一日であつた。今月に這入つてからからりと晴れ亘つた秋らしい日がなく毎日陰鬱な日が続いてゐると思つてると、今日こそはその凡てを清算するかのやうに凄い風雨が荒れ狂つた。

 北の窓から眺めてゐると、プラタナスの葉が今にもたおれさうに強風に萎えて額を地に曲げられて、あはやと思ふと、再びすつくと立ち上つて、さながら風に怖れたやうに、葉と葉をすり合せて悲鳴をあげ、小枝は顫へて切なさうだ。


 九月二十九日。

 今日はSさんが退院する。余り彼には親しくもないので、楽しくも悲しくもない。別段感ずることもなかつた。夕方から随筆でも書かうと思つて筆を持つてみたが一枚も書けない。書けないと、定つて不安と焦燥と腹立たしさと、そして最後に深い絶望の洞穴に落ち込んで苦しむ。

 それから、どうしてこんなに近頃は頭が悪くなつたのだらうか? 丸切り記憶することが出来ない。読めば側から忘れて行く。

 ここまで書くと頭がもやもやし出して考へようとすると腹が立つて来だした。何所へも行き場がない悲しさを切々と覚える。


 十月一日。

 今日から大掃除である。先づ今日自分達の秩父舎をやり、次に明日は桂舎、これは不自由舎であるから、僕達の舎から四人出ることになつてゐる。K君、M君、N君、僕――。その次の日は菖蒲舎の三号である。

 さて今日の掃除であるが、先づ畳を外に出し、床板を洗ふ。それから障子、硝子戸をはづして全部水洗ひ。その他便所から家の周囲の羽目板まで全部タワシで洗ふ。すつかり気持よくなる。二時頃に事務所の方から検査に来る。二時半頃には全部終了。


 夜、H・Kと僕とが臭いといふ噂が立つてゐるといふ。専ら苦笑する。目下のところ正直に言つて自分は心から愛さうと思ふやうな異性はない。自分が異性に心惹かれるやうな思ひのするのは、自分の淋しさから出発してゐるのである。淋しさとは言ふまでもなく、病気から来てゐる。それだ。


 十月二日。

 桂舎に掃除に行く。変りはない。唯それだけの一日だ。

 心に留まるやうなこともない。


 次の記事から何とか文体を変へて、文章に就いてもよく気をつけて書き進めてみよう。今までの記事は丸切り文章に就いては考へず、それに大ていの場合嫌悪しながら書いてゐる。これからはそのやうなことのないやう、勿論自分の日記は心的日記でなければならぬ。その故に毎日書かずともよい。唯書くべきことは必ず書くこと。


 十月四日。  夜、於泉君の所へ行き、文学に就いて種々話す。


 十月二十三日。

 このやうな日ばかり続けて、これは何といふことだ。本を読むといふでなし、ものを書くといふでなし、野球ばかりに日を奪はれて――。先日Mさんと約束した小説の件はどうすればいいのだ。川端先生からもお手紙を戴いて作品は見て下さるといふに、早く何か纏めねばならぬ。

 兎に角リーグ戦も自分のチームは終つた。これから冬までに、四五十枚のもの二つは書かう。さうでないと自分は生きてゐるのやら死んでゐるのやら判らなくなる。

 H兄が退院する。明日。

『呼子鳥』の第三号に童話六枚ばかりを書いた。


 十月三十日。

 H君が退院されたのが二十四日、それからこつち、一週間近く、丸切り何も書いてゐない。書かうといふ気持は常に頭の中を往来し、書かねばならぬと責められながら、何一つ書けない。考へてみるとたつた五枚、随筆を書いて『レツェンゾ』に送つたきりだ。

 気分といへば丸切り灰の中へ頭を突込んでゐるやうな日ばかりだ。何にしてもつらいことだ。

 今朝九時半頃内科へ行き五十嵐先生に胸を診て貰ふ。ロクマクに少々水が溜つてゐると言はれた。先日から痛い痛いと思つてゐたら――。

 それから体中に無数に熱瘤といふ奴が出来た。先生の言ふには、まだ熱瘤といふものは学界でも究明されてゐない。光田先生及びその門下の先生達は癩菌が大楓子に負けて、死にもの狂ひになり、一種の毒素を出すために発生するのではないか、その証拠に病気の古いものにはめつたに出来ず、これが出来てから良くなつて行く傾向があるといふ。その時なんとかいふ術語らしいもので説明したが、自分は失礼と思ひながら先生を観察する面白さに気をとられてゐて忘れてしまつた。

 先生の眼の動きは誠にデリケートである。横にゐる看護婦の松本さんと較べて考へてみると、実に人間の個人差といふものは異常なものだと思つた。僕が何時か、お喋りをしてゐる時の先生の眼よりも聴診器をあてて首をひねつてゐる時の方が先生には良い調和がある、又立派にも見える、といふ風なことを言つたことがあるが、実にその通りで、その眼は誠に鋭い。その鋭さの中に、陰影と言はうか、何と言はうか、とまれ苦労の残りが浸みてゐる。先生は若い時随分苦労をしましたねと、訊ねてみようと思つたが、失礼に思はれて止めてしまつた。恐らく僕のこの観察に誤りはないだらうと思ふ。


 十一月十八日。

 この日記は五号病室で書いたものである。熱瘤のために今月六日に這入つたのである。それ以後今日まで十三日目になるが、熱は三十八度乃至九度を上下してゐて、気分すぐれず大変弱つた。今度出る詩集 (この院内の患者達の組織する詩話会の第一詩集である) にも一篇も書けなかつた。勿論まだまだ自分に詩など書けないことは判り切つてゐる。目下のところでは、もう院内のものには何も発表したくない。自分には詩にしろ散文にしろ発表するやうなものは何一つとして書けないのだ。もうそれは自明の事だ。

 いくら書いたつて下らぬものを、自分の気にも入らぬものを発表する気になど丸切りなれない。それよか今のうちにこつこつ勉強して次の日の勝利に具へるに限る。昨日もM君が来て呉れて、是非作品を出して呉れと言はれたが、自分には書けぬと言つた。気の毒でもあるが仕様もないことだ。といふやうな訳で何一つ書かなかつた。

 ところが今日になつて熱が下つた。三十六度三分。平熱だ。これなら久しぶりで日記文の一行くらゐは書けようと思はれたので、舎へこのノートを取りに出かけて行つた。

 この病室から一歩外部へ踏み出した刹那、自分はもう何もかも変つてしまつた風景に吃驚した。たつた十五日、外部と切断された病室にゐる間に、自然は素晴しい変化を遂げてゐるのだ。まだ青かつた木々の葉は、枯れ果てて危く細い枝に鎚りついて、すつとでも吹かうものなら散つてしまふだらう。舎の近くのプラタナスなどは、すべての葉を散らせてしまつて、あらはなる骨格と自分が呼んだ幹ですら、もはやさういふ形容では面恥しいだらう。それに狭い病室に居た故か、あたりは野放図もなく広く、なんだか真空の内部へ這入り込んだ思ひさへした。舎の中へ這入つても丸で以前とは異つたやうに思はれて、兎に角何もかも、一度も自分の眼に映じたことのない新しい世界のやうに思はれた。いや久しい間帰らぬ間に、色移り香失せた故里に帰つて、あああれは見覚えがある九号病室だ、ふうむこれもよく浸つた労働風呂だが、なんてまあ激しい変りやうだ、とでもいつた風な、なんだかをかしな気分にならされた。

 たつた十五日病室にゐて、それもこの狭い院内に於てすらこのやうな変化を見せるとすると、院外の一般社会の変化はどうだらう。この内部で文学だ社会不安だと言つてゐたとて、もうとつくに社会は全然違つた貌つきになつてしまつてゐるかも知れぬ。これならもう自分の言葉はどれ一つとして社会性を失つてしまつてゐるかも知れぬ。弱つたことだ。


 十一月十九日。

 体温は六度五分。平熱だ。早く退室して、色々ここで考へたことを一つ一つやつてみたいやうに思ふ。

 Hが先日自分の手袋を洗濯に持つて行つたきり持つて来くさらぬ。もうあれの気持など、とつくの昔に判つてゐる。かくあるのは必定のことだが、癪に触る。しかし考へてみると、あのやうにあれの言ふままに任せた自分も悪いのかも知れぬ。だが、たしかにあれにとつて、自分は手に負へぬ存在であつたに違ひない。ざまあ見ろだ。手袋を持つて来たらもう交はりはお断りだ。自分にだつてちやんと先があるのだから。もう自分にはHの頭の先から足の爪先まで観察してしまつたのだ。言はば、自分にとつては、もうカスだ。自分の頭の中から、今日限り追放だ。さあ何処へでも行つて呉れ。


 十二月四日。

 寒くなつた。先月の二十四日に退室した。まだ十分治つてゐないのだが。退室したらあれもやらう、これもしようと考へてゐたけれど、さて出て来てみると、何も出来ぬ。碁が面白くて毎日碁ばかり打つてゐる。これではいけないと思ひつつ打つてばかりゐる。今朝もKさんと三番打つた。全部僕の勝だ。


 十二月八日。

 夜になつて久振りに故里の父に手紙を書く。書きながら父の姿をあれこれと想ひ出す。自分が田舎に居た頃一緒に働いた父、東京で会ひ日比谷公園で語り合つた時の父、亀戸のあの汚ない宿屋で語つた時の父、この病院へ見舞ひに来て呉れた父、自分の憶ひ出す父の姿は何時も自分に対して一種の威厳と、深い愛情を示してゐた。自分は深く父を尊敬するやうに近頃になつて、なつて来た。父の偉さが今になつて初めて自分には判つて来た。父は決して僕の行動に対してあれこれと言はなかつた。今まで幾度となく自分は無分別と無鉄砲を行つて父を困らせて来た。けれど父は決して叱らなかつた。そしてこんなつまらぬ僕を一個の人間として或種の尊敬を持つて常に 自分に向つて呉れた。心の底には常に深い愛情をたたへてゐた。それは時に、ごくたまに眼に表はれることがあつた。言葉に表はれることは滅多にない。唯一度兄が死んだ時、僕と父とで骨あげに行つた時、その骨を小さなつぼに入れながら、

「昨日まで生きて居つたのに……のう。」

 と言つた。僕はこの言葉を忘れない。この言葉の最後が、どんなに深い父の感情に接続してゐたことか。父自身でなければ判らない。


 十二月十二日。

 四日前から『山桜』出版部へ通ひ始めてゐる。自分の仕事は五号活字の文選だ。まだ馴れないので大変まごつく。をかしくも面白くもない仕事だ。

 癞文化のために戦つてゐる――ここにはさうした意味の熱と活気が見られると思つて、自ら好んでここで働くことにしたのだつたけれど、その自分の期待は外れた。 彼等は彼等の仕事がどのやうなものであるか意識しない。

 まるで背負投げを喰はされた形だ。自分は終日黙々としてゐる。


 語るべき友もない。自分のこのせつぱつまつた精神生活を識つて呉れるものは一人もゐない。

 酒が飲みたい。飲みたくてしやうがない。へべれけに酔つぱらつて、思ひ切り反吐をはいたらどんなにすつとするだらう。


 菓子も食ひたい。すてきなカステーラを食ひたい。


 この院内で定められてゐる規則を、ひとつひとつ片つぱしから破つてみたい。


 酒、女、菓子、果物、本、人形、その他何でも欲しい。欲しくてたまらぬ。


 実を言ふと、自分は美しいものに憧れてゐるのだ。もうこの院内の灰色一切にはあきあきした。あの美しい赤や青や純白の色彩は何処へ行つた。

 この院内の色――赤であらうと青であらうと、どれもこれも膿臭くて、腐りかかつてゐる。あの毛の抜けた猿を見ろ。


 十二月十七日。

 熱こぶめ、又出て来やがつた。『山桜』の出版部も本年一ぱいは休まねばならぬ。


 十二月二十日。

 『呼子鳥』に載せる童話の締切日だ。昨夜どうやらまとめたので、今日は書き改めようと三枚ばかり改めると、嫌になつたので止めた。


 十二三日頃の荒んだ気持も、どうやら落ちついた。静かに、しづかに母のことなど随筆してみたい気持が一ぱいである。


 この二三日、何かにつけて亀戸時代を思ひ出す。自分に深い印象を残してゐる去年の暮のことなど特に思ひ出す。今の生活に暮も正月も変りがあるものかと自分も言ひ人も言ふのだが、やつぱり暮は暮なのだらう。樹々の梢を吹くこがらしの音にもあの時代を連想する。今思ひ浮べてみても洞穴の中のやうな思ひがするが、実際あの時の自分の生活は、陰惨だつた。思ひ出すと激しい不安に襲はれる。社会不安だ、生活不安だと、文士達が安易に言つてのけるけれど、あの自分の不安、恐怖にまで到達してゐる者があらうか。そして自分は、その不安、恐怖を、身をもつて行つて来たのだ。自分の神経も徐々に癒えつつある。以前のやうな神経に復つた時、自分は傑れた不安の文学を創造するだらう。


 十二月二十七日。

 夕飯を食つてから病室へ出かける。U兄が一号へ入室したので――。一号で暫く話してから五号へ行く。東條君と永い間語る。於泉が来る。お互に文学しようと言ふ。東條君も来年から散文に力を入れると言ふ。嬉しいことだ。

 帰ると八時。暫くの間五号で語り合つた興奮が覚めないのでじつと火鉢の前に坐つて黙想する。佐藤君は眠つてゐる。静かだ。久しぶりで味はふこの気持――文学を語つた後の余韻とでも言はうか額の中にほのぼのと上る熱気を感じながら、あくまでも静寂な四辺につつまれる気持――亀戸時代のメランコリーに似た侘しさだ。


註1 北條民雄は一九三四年、全生病院に入院した。

日記の冒頭に「全生日記」と書かれている。

註2 独身の女達の入れられてある舎名。

註3 幼きは七八歳より十八九、二十位までの少女達

が保母の許に生活してゐる少女舎。

註4 病院発行の機関誌。

註5 この小説は後に「最後の一夜」となり更に「い

のちの初夜」と改題の上発表されしもの。


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