北村透谷の短き一生


 北村透谷君の事に就ては、これまでに折がある毎に少しずつ自分の意見を発表してあるから、私の見た北村君というものの大体の輪廓は、すでに世に紹介した積りである。北村君の生涯の中の晩年の面影だとか、北村君の開こうとしたみちだとか、そういう風のものに就ては私は已にいくらか発表してある。明治年代も終りを告げて、回顧の情が人々の心の中に浮んで来た時に、どういう人の仕事を挙げるかという問に対しては、いつでも私は北村君を忘れられない人の一人に挙げて置いた。北村君の一番しまいの仕事は、民友社から頼まれて書いたエマルソンの評伝であった。それは十二文豪の一篇として書いたものだが、すっかり書き終らなかったもので、丁度病中に細君が私の処へその原稿を持って来て、これをまとめて呉れないかという話があって、その断片的な草稿を文字の足りない処を書き足して、一冊の本に纏めたという縁故もあり、それから同君が亡くなった後で書いたものなどが散って了うのが惜しいと思って、種々の雑誌などから集めて透谷集というものに作ったのも自分であった。元々私はそう長く北村君を知っていた訳では無い。付き合って見たのは晩年の三年間位に過ぎない。しかし、その私が北村君と短い知合になった間は、私に取っては何か一生忘れられないものでもあり、同君の死んだ後でも、書いた反古ほごだの、日記だの、種々いろいろ書き残したものを見る機会もあって、長い年月の間私は北村君というものをスタディして居た形である。『春』の中に、多少北村君の面影を伝えようと思ったが、それも見たり聞いたりした事をその儘漫然と叙述したというようなものでは無くて、つまり私がスタディした北村君を写したものである。北村君のように進んで行った人の生涯は、実に妙なもので、掘っても掘っても尽きずに、後から後から色々なものが出て来るように思われる。これは北村君を知っていたからと云って、無暗に友達を賞めようという積りではない。成程なるほど過ぎ去った歴史上には種々優れた人もあるが、同時代にいた、しっかりした友達の方に、かえって教えられた事は多いのである。

 北村君が亡くなった後で、京橋鎗屋町の煙草屋の二階(北村君の阿母おっかさんは煙草店を出して居られた)へ上って、残して置いて行ったものを調べた事があった。その時細君が取り出して来たいくつかの葛籠つづらを開けたら、種々反古やら、書き掛けたものやらが、部屋中一杯になるほど出て来た。北村君はどんな破って了いたいようなものでも、自分の書いたものは、皆大切に、細君に仕舞わせて置いた。そんな一寸した事にも北村君の人となりというものは出ていると思う。その中には小説の書き掛けがあったり、種々な劇詩の計画を書いたものがあったり、その題目などは二度目に版にした透谷全集の端に序文の形で書きつけて置いたが、大部分はまあ、遺稿として発表する事を見合わした方が可いと思った位で、戯曲の断片位しか、残った草稿としては世に出さなかった。然しその古い反古を見ると、北村君の歩いて行った途の跡が付いているような気がした。例を挙げて見ると『蓬莱曲』を書く以前に『楚囚詩』というものを書いている。あれなぞをこう比べて見ると、北村君の行き方は、一度ある題目を捉えると容易にそれを放擲して了うというたちの人では無い、何度も何度も心の中で繰り返されて、それが筆に上る度に、段々作物のあじわいが深くなってゆくという感じがする。『富嶽の詩神を懐ふ』という一篇なぞは、矢張り、『蓬莱曲』の後に書いたものだが、よく読んで見ると、作と作との相連絡している処が解るように思う。一体北村君の書いたものは、死ぬ三四年前あたりから、急に光って来たような処があって、一呼吸ひといきにああいう処へ躍り入ったような風に見えたが、その残して置いた反古なぞを見ると、透谷集の中にある面白い深味のあるものが、皆ずっと以前の幼稚なものから、出発して来ていることが解った。その反古は今ではもうどうなったか解らないが、でもこう葉に葉を重ねて、同じ力で貫いて行ったというような処が、あの人の面白味のあった処だ。

 北村君の文学生活は種々な試みをって見た、準備時代から始まったものではあるが、真個ほんとに自分を出して来るようになったのは、『蓬莱曲』を公けにした頃からであろう。当時巌本善治氏の主宰していた女学雑誌は、婦人雑誌ではあったが、然し文学宗教其他種々の方面に渉って、徳富蘇峰氏の国民の友と相対した、一つの大きな勢力であった。北村君を先ず文壇に紹介したのは、この巌本善治氏であった。『厭世詩家と女性』その他のものを、北村君が発表し始めたのは女学雑誌であったし、ああいう様式を取って、自分を現わそうとしたという事も、つまりこの女学雑誌という舞台があったからだ。殊に雑誌が雑誌だったから、婦人に読ませるということを中心にして、題目を択んだものもあった。処女の純潔を論じたり、その他恋愛観なぞを書き現わしたものにも、一面婦人のために書いているような趣きのあるのはその故である。その頃女学雑誌には星野天知君もかなり深く関係していた。巌本氏は清教徒的の見地から、文学を考えているような人だったから、純文芸に向おうとするものは、意見の合わないような処が出来て来た。星野君の家は日本橋本町四丁目の角にあった砂糖問屋で、男三郎君というシッカリした弟があり、おゆうさんという妹もあり兄弟こぞって文学に趣味を持つという人達だったから、その星野君が女学雑誌から離れて、一つ吾々の手で遣ろうではないかという相談を持ち出して、それに平田禿木とくぼく君が主なる相談対手あいてになり、北村君と私とも雑誌に関係する事になった。そんな風にして出来上ったのが、文学界の始まりだった。平田君の家は日本橋伊勢町にあって、星野君の家とも近く、男三郎君とは一緒に高等学校へ通って居られるという時代だった。吾々はよく、あの砂糖屋の奥にあった、茶室風の部屋に集って、其処そこで一緒に茶を呑みながら、雑誌を編輯したり、それから文学を談じたりして時の経つのを忘れる位であった。戸川秋骨君、馬場孤蝶君は、私が明治学院時代の友達という関係から、自然と文学界の仲間入をされるようになった。こんな風にして、皆親しく往来するようになったのだが、兎に角文学界というものを起そうとしたのは、星野君兄弟と、平田禿木君とで、殊に男三郎君は、大学へ行って工科でも択ぼうという位の綿密な、落ち着いた人だったから、殆んど自分では表立って何も発表しなかったが、種々な面倒臭い雑用なんかを一人で引き受けて、随分あの雑誌のためには蔭になって力を尽した人であった。文学界の先ず受けた非難は、不健全という事であった。それに対しても吾々若いものは皆激しい意気込を持っていたから、北村君などは「どうも世間の奴等は不健全でかん」とあべこべに健全を以て任ずる人達を、ののしるほどの意気で立っていた。北村君が最初の自殺を企てる前、病いにある床の上に震えながらも、ういう豪語を放っていたという事は、如何にも心のひるまなかった証拠であると思う。文学界へ書くようになってからの北村君は、殆んど若い戦士の姿で、『人生に相渉るとは何ぞや』とか『頑執盲排の弊を論ず』とか、激越な調子の文章が続々出て来て、或る号なぞは殆んど一人で、雑誌の半分を埋めた事もあった。明治年代の文学を回顧すると民友社というものは、大きな貢献をした事は事実であるし、蘆花、独歩、湖処子の諸君の仕事も、民友社という事からは離しては考えられない。遠くから望むと一群の林のような観をなしていたが、民友社にも種々異った意見を持った人が混っていて、透谷君の激しい論戦は主に民友社の徳富蘇峰氏、山路愛山氏などを対手取ったものであった。でも愛山氏などは、殆んど正反対に立った論敵ではあったが、一面北村君とは仲の宜い友達でもあった。それから喧嘩をしてかえって対手に知られた形で、北村君は国民の友や、国民新聞なにかへも寄稿するようになった。その中で、『他界に対する観念』は、北村君の宗教的な、考え深い気質をよく現わしたものである。それから国民の友の附録に、『宿魂鏡』という小説を寄稿した事があったが、あれは自分で非常に不出来だったと云って、透谷の透の字を桃という字に換えて、公けにしようかと私に話した位であった。あの作は透谷君の得意の作では無論無かったと思うが、でも私にはその病的な方面がうかがわれるかと思う。文学界に関係される頃から、透谷君は半ば病める人であったと、後になって気が着いたが、皆と一緒になって集って話していても、ぐに身体を横にしたり、何か身を支えるものが欲しいというような様子をしていた。斯ういう身体だったから、病的な人間の事にも考え及んでいたらしく、その事は内田魯庵氏の訳された『罪と罰』の評なぞにも現われていると思う。透谷君の晩年を慰めた一人の女の友達があったが、病床にいる時に、それとなくこの人に書いて宛てた慰めの言葉は、確か『山庵雑記』の中に出ている筈だ。あれは極く短いものだが、兎に角病人に対する深い理解や、同情が籠っていると思う。この女の友達が死んだ時に、透谷君が『哀詞』というものを書いた。ああいうものを書く時分から、透谷君自身のライフも、次第に磨り減らされて行ったように見える。

 透谷君がよく引っ越して歩いた事は、已に私は話した事があるから、知っている読者もあるであろうと思うが、一時高輪の東禅寺の境内を借りて住んでいた事があって、彼処そこで娘のふさ子さんが生れた。彼処に一人食客がいた事は、戸川君も一度書いた事があるが、何を為そうとするでもないような、心細い人を世話して、一緒に飯を分けて食うというような処が北村君にはあった。或る日、私が訪ねて行くと、結婚の問題で考えに悩んで、北村君の処へ相談に来ている婦人があった。私共三人は、墓場の石に腰掛けて、話した事なぞを覚えている。北村君の書いたものは、論文と云っても皆な自分の生活に交渉の深い、一種の創作であった。殊にサイコロジカルな処が、外の人達と違った特色であると思う。『鬼心非鬼心』という文章は、寺の借住居の附近にあった事を、主にして書いたものだ。それから、麻布霞町の方へ移って、山羊なぞを飼って見た事もあったが、これには余程詩人風の空想が混っていた。星野天知君は、その後鎌倉の方へ引き込まれた北村君から、その山羊を引き取った事がある。そして「どうも北村君には一杯められました。子供をお腹に持っているというから、その積りで引き取ったら、子供があるんではなかった」と私に話して、笑った事があった。北村君は又芝公園へ移ったが、其処そこは紅葉館の裏手にあたる処で、土地が高く樹木が欝蒼とした具合が、北村君の性質によくかなったという事は、書いたものの中にも出ている。あの芝公園の家は余程気に入ったものと見えて、彼処で書いたものの中には、懐しみの多いものが沢山出来た。『星夜』というものを書いたのもあの林の中だ。短い冥想の記録のようなもので、彼処で書いたものには、私の好きなものが沢山ある。意地の悪い鳥が来て高い梢の上で啼くのを聞いて、皮肉屋というものが、文壇にばかりいると思ったら、こんな処にもいた、というような事を書きつけた事があったが、斯ういう軽い気分を持つ事が出来たほど、彼処の住居すまいは楽しかったのであろうと思う。彼処から奥州の方へ旅をして、帰って来て、『松島に於て芭蕉翁を読む』という文章を発表したが、その旅から帰る頃から、自分でも身体に異状の起って来た事を知ったと見えて、「何でも一つ身体を丈夫にしなくちゃならない」というので、国府津の前川村の方へ引き移ったのだ。丁度文学界を出す時分から、私も一時漂泊の生活を送ったが、その以前に私は巌本君に勧められて、明治女学校で教えていた。北村君もそう収入が無いと思ったから、僅かばかりの自分の学校の仕事を北村君に譲って、私は旅へ出懸けたりした。北村君は国府津へ移ってからも矢張り其処から、明治女学校へ教えに通っていた。或る時私に、「幸田という人は仕合者しあわせものだね」と云って、当時の文学者としては相応な酬いを受けていた露伴氏の事を、うらやんで話した事があったが、それほど貧しく暮さなければならない境涯で、そのためには異人の仕事をしたり、それから『平和』という宗教雑誌を編輯したりした事があるように記憶している。国府津の寺は、北村君の先祖の骨を葬ってある、そういう所縁ゆかりのある寺で、彼処では又北村君の外の時代で見られない、静かな、半ば楽しい、半ば傷ついている時が来たようであった。「国府津時代は楽しゅうござんした」とよく細君が北村君の亡くなった後で、私達に話した事があった。『蝶の歌』が出来たのもあの海岸だし、それから『一夕観』などを書いたのも彼処だった。あの『一夕観』なんかになると、こう激し易かったり、迫り易かったりした北村君が、余程広い処へ出て行ったように思われる。けれども惜しい事に、そういう広い処へ出て行った頃には、身体の方はもう余程弱っていた。国府津時代に書いたものは皆味の深いものばかりだが、然し余り長いものはもう書けなかった。エマルソンの評伝の稿を起したのも、彼処の寺だ。それから、『五縁』、『十夢』、大きな史劇の計画なぞを立てていたのも、彼処だ。この国府津時代に書きつけた、ノオト・ブックを後で見たが、自分はもうどうにもこうにも仕様が無くなったから、一切の義務なんかというものを棄てて了って、西行のような生活でも送って見たい、というようなことが書きつけてある所もあり、自分の子供にはもう決して文学なぞは遣らせない、という事なぞを書いたものがあった。それから何も物の書けないような可傷いたましい状態になって、数寄屋橋の煙草屋の二階へ帰る事になった。北村君と阿母おっかさんとの関係は、丁度バイロンと阿母さんとの関係のようで、北村君の一面非常に神経質な処は、阿母さんから伝わったのだ。それに阿母さんという人が、女でも煙草屋の店に坐って、頑張っていようという人だから、北村君の苛々いらいらした所は、阿母さんには喜ばれなかった。しばらく病んでいた後で、北村君が自殺を企てた当時の心境は、私は『春』の中でいくらか辿たどって見た。それを家の人に見付かって、病院へ送られて、兎に角傷は癒った。細君も心配して、も一度芝公園の家を借りて、それには友達ながらも種々心配してくれた人があって、其処で養生した。丁度彼れ是れ半年近くも、あの公園の家で暮したろうか。もう余程違った頭脳あたまの具合だったから、なるべく人にも会わなかったし、細君も亦客なぞ断るという風であった。二度目に其処へ移ってからは、もう殆んど筆を執るような人ではなかった。巌本君が心配して、押川方義氏を連れて、一度公園の家を訪ねて、宗教事業にでも携わったらどうか、という話をしたという事を聞いたが、後で私が訪ねて行くと、「巌本君達が来て、宗教の話をして呉れたが、どうしても僕には信じるという心が起らないからね」と、そんな風に話した事もあった。北村君もそんな風になった以上は仕方が無いし、吾々は吾々で、又更に新しく進んで見ようという心持になって、文学界の連中は各自めいめい思い思いに歩き始めた時であった。たまに訪ねて行くと、奥の方の小さい、薄暗いような部屋に這入っていて、「滅多に人にも会わないのだが、君等だから会うのだ」と云って、突いて癒った咽喉のどの傷などを、出して見せた。「何しろどうもこの傷の跡があるんだからね」なぞと云って、しきりにその傷の跡を気にしていた。戸川君と一緒に訪ねた時には、何でもエマルソンの本が出来た時で、細君が民友社から届いた本を持って来て、私に見せたが、北村君はその本を手に取って見たという位で、中を開けて見る気も無いという風であった。細君はもう夜中も、夫の様子に注意するという風になって、非常に気を付けて看護をしたのであったが、丁度五月十六日の晩の月夜に、自分の病室を脱け出して、家の周囲まわりにある樹に細引を掛けて、それにくびれて二十七歳で死んだ。その素質に於いてはまれに見る詩人であり、思想家であった、北村君の惜む可き一生は斯うして終った。

 北村君は明治元年に小田原で生れた人だ。阿父おとうさんは小田原の士族であった。まだ小さな時分に、両親は北村君を祖父母の手に託して置いて、東京に出た。北村君は十一の年までは小田原にいて、非常に厳格な祖父の教育の下に、成長した。祖母という人は、温順な人ではあったが、実の祖母では無くて、継祖母であった。北村君自身の言葉を借りて云えば、不覊磊落ふきらいらくな性質は父から受け、甚だしい神経質と、強い功名心とは母から受けた。斯ういう気風は少年の時からあって、それが非常にやかましい祖父の下に育てられ、祖母は又自分に対する愛情が薄かったという風で、後に成って気欝病を発した一番の大本は其処から来たと自白して居る。明治十四年に東京へ移って、そして途中から数寄屋橋の泰明小学校へ這入った。透谷という号は、この数寄屋橋のスキヤから来たのである。私も小学校の課程は、北村君と同じ泰明小学校で修めた者だが、北村君よりはその弟の丸山古香君の方を、その時代にはよく覚えている。北村君は方々の私立学校を経て、今の早稲田大学が専門学校と云った時代の、政治科にいた事もあったと聞いた。当時の青年はこう一体に、何れも政治思想を懐くというような時で、北村君もその風潮に激せられて、先ず政治家になろうと決したのだが、その後一時非常に宗教に熱した時代もあった。北村君のアンビシャスであった事は、自ら病気であると云ったほど、激しい性質のものらしかった。そういう性質はずっと後になっても、眉宇びうの間に現われていて、或る人々から誤解されたり、余り好かれなかったりしたというのは、そんな点の現われた所であったろうと思う。まだ二十位の青年の時代に或る時は東洋の救世主を以て任ずるような空想な日を送って、後になって、余り自分の空想が甚だしかった事と、その後に起る失望、落胆の激しい事に驚いた、と書いたものなぞもある。或る時は又一個の大哲学家となって、欧洲の学者を凹ませようと考えた事もあって、その考えは一年の間も続いて、一分時間も脳中を去らなかった。こういう妄想を、しかも斯ういう長い年月の間、頭脳あたまうちに入れて置くとは、何という狂気染きちがいじみた事だろう、と書いたものなぞがあるが、頭脳が悪かったという事は、時々書いたものにも見えるようである。北村君はある点まで自分の Brain Disease を自覚して居て、それに打勝とう打勝とうと努めた。北村君の天才は恐るべき生の不調和から閃き発して来た。で、種々な空想に失望したり、落胆したりして、それから空しい功名心も破れて――北村君自身の言葉で言えば「功名心の梯子はしごから落ちて」――そうして急激な勢で文学の方へ出て来るようになったのである。北村君は石坂昌孝氏の娘にあたる、みな子さんをめとって、二十五歳(?)の時には早や愛児のふさ子さんが生れて居た。(斯の早婚は種々な意味で北村君の一生に深い影響を及ぼした。)北村君は思い詰めているような人ではあったが、一方には又磊落な、飄逸ひょういつな処があって、皮肉も云えば、冗談も云って、友達を笑わすような、面白い処もあった。前に出版した透谷集の方には写真を出し、後に出した透谷全集には弟の丸山君の書いた肖像画を出したのであるが、北村君をよく現わすようなものが、残っていないのは残念である。北村君は大変声の涼しいような人で、私は北村君の事を思い出す度に、種々な書いたものを読んで聞かせたり、その時々に話したりした声が、今だに耳についているような気がする。晩年には服装なりなぞも余り構わなかったし、身体は何方どちらかと云えば痩せぎすな、少し肩の怒った人で、髪なぞは長くしていた。北村君の容貌の中で一番忘れられないのは、そのさもパッションに燃えているような、そして又考え深い眼であった。

 明治年代に記憶すべき、大きな出来事の一つは、士族の階級の滅亡である。その階級がてるすべてのものの滅びて行ったことである。その士族の子孫の中から北村君のような物を考える人が生れて来たということは私には偶然では無いように思われる。なお、新時代の先駆者たりし北村君に就いては、話したいと思うことは多くあるが、ここにはその短い生涯の一瞥いちべつにとどめておく。

(大正二年四月)

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