外国為替及び外国貿易管理法違反被告事件

主文 編集

本件各上告を棄却する。

理由 編集

被告人江商株式会社の弁護人浅沼澄次、同佐藤庄市郎の上告趣意第一点は、事実誤認、単なる法令違反の主張であり、同第二点は、憲法三一条違反をいうけれども、本件適用法令でないものにつき関説するもので不適法であり、その余は実質上事実誤認、単なる法令違反の主張を出ないものであり、同第三点は、事実誤認およびこれを前提とする単なる法令違反の主張であり、同第四点は、量刑不当の主張であつて、以上いずれも適法な上告理由に当らない。

被告人日比貿易株式会社の弁護人長畑裕三の上告趣意は、事実誤認およびこれを前提とする単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由に当らない。

被告人日綿実業株式会社の弁護人磯部靖の上告趣意第一点は、事実誤認、単なる訴訟法違反の主張であり、同第二点は、事実誤認およびこれを前提とする単なる法令違反の主張であり、同第三点は、量刑不当の主張であつて、以上いずれも適法な上告理由に当らない。

被告人伊藤忠商事株式会社の弁護人河島徳太郎の上告趣意第一は、事実誤認、単なる法令違反の主張を出ないものであり、同第二、第三は、単なる訴訟法違反の主張であり、その余は事実誤認、単なる法令違反の主張に帰するものであつて、以上すべて適法な上告理由に当らない。

被告人伊藤忠商事株式会社の弁護人佐々木文一の上告趣意第二章第一について。 編集

所論は、本件適用法令たる外国為替及び外国貿易管理法(以下、単に本法という。)二七条一項三号、三〇条三号並びに右各条項違反行為に対する制裁規定たる本法七〇条、七三条の憲法三一条、二九条、二二条違反をいうもので、その理由として、本法はいわゆる空白刑罰法規の形式をとつているため、国民の側で規制事項の内容を認識することを不可能ならしめており、かような刑罰法規の定め方は、罪刑法定主義を定めた憲法三一条に違反する、また、本法はとくに二条の規定を置いて、政府に対し制限禁止事項につきその必要の減少に伴い、逐次これを緩和ないし廃止するため再検討すべきことを義務づけているのに、政府は右義務を怠り、制定当時のままの刑罰法規を存続せしめ、徒らに取締りを続けているものであるから、かように当然改廃されるべき法律を根拠にして処罰することは、憲法二二条の保障する職業の自由、同二九条の保障する財産権をそれぞれ侵害するものである、と主張する。

しかしながら、憲法七三条六号但書の規定により、とくに法律の委任がある場合においては、政令に罰則(すなわち、犯罪構成要件および刑を定める法規)の設定を委任することの憲法上許されるものであることは、当裁判所大法廷判決(昭和二三年(れ)第一四一号、同二五年二月一日宣告、刑集四巻二号七三頁、昭和二七年(あ)第四五三三号、同三三年七月九日宣告、刑集一二巻一一号二四〇七頁各参照)の趣旨とするところであるから、右趣旨に徴すれば、所論各規定、とくに本法二七条一項三号、三〇条三号がいわゆる支払の制限および禁止並びに債権に関する制限および禁止につき、その規制内容、したがつて犯罪構成要件の一部を政令の定めるところに委任しているからといつて、所論のように憲法三一条に違反するものとはいえないのであつて、この点の論旨は、理由がない(実質的に考えても、本法のような経済統制法規は、その内容が複雑多岐にわたるのみならず、絶えず変動する経済情勢に対処していく必要があるのであるから、法律自体には基本的な規制を概括的に規定するに止め、その具体的な規制については、これを政令以下の命令に委任し、命令において詳細な定めを設けることを必要かつ適当とする場合が稀ではないのであつて、このような規制方法をとることが、直ちに違憲の問題を生ずるものとはいえないのである。)。また、所論指摘の本法二条の規定は、その明文の示すとおり、外国為替および外国貿易の管理、制限に関する立法政策についての指針を掲げたに止まるものであるから、依然として右管理、制限の必要があるものとして存置されている該当規定に照らして、違反行為を処罰することの妨げとなるものでないことは、論をまたないところであるし、所論各規定のうちの本法二七条一項三号については、それが国民の経済活動、ひいて財産権の行使に対しある程度の制限を加えているものであることは疑いないが、右制限は、本法一条の掲げる諸目的を阻害する事態の発生を防止するため必要であつて、公共の福祉に適合する、合理的なものと認むべく、従つて右規定の憲法二九条に違背するものでないことは、当裁判所大法廷判決(昭和三七年(あ)第六二四号、同四〇年一月二〇日宣告)の説示するところであるので、右判例の趣旨に徴すれば、所論中、憲法二二条、二九条違反をいう点も理由がないものというべきである。

同第二は、事実誤認、単なる法令違反の主張であり、同第三章第一は、単なる法令違反の主張であり、同第二は、量刑不当の主張であつて、以上すべて適法な上告理由に当らない。

被告人興和株式会社の弁護人向江璋悦、同下平桂の上告趣意第一点について。 編集

所論は、憲法三一条違反をいうもので、その理由として、本件適用法令たる本法七三条のいわゆる両罰規定について、従業者の違反行為に対する事業主の過失を推定したもので、事業主において従業者の選任、監督に過失がなかつたことを立証すれば罪責を免れうる趣旨の規定であるとする見解があるけれども、右過失の推定自体、刑罰法における責任主義の原則に反するし、以上のような立証は事実上不可能であつて、結局事業主の無過失責任を認めるに帰するものであり、しかも、右過失推定についての明文を欠いているのであるから、右規定は、責任主義、罪刑法定主義を定めた憲法三一条に違反する、また、本法制定当時においては、本件のような事案に対する処罰の必要と根拠があつたのであるが、本件当時にはわが国の外貨事情が著しく好転した結果、実質上かような必要と根拠が失われていたのであつて、本法二条の法意から考えても、法律があるからというだけで、本件を処罰することは同じく憲法三一条に違反する、と主張する。

しかしながら、事業主が人である場合の両罰規定については、その代理人、使用人その他の従業者の違反行為に対し、事業主に右行為者らの選任、監督その他違反行為を防止するために必要な注意を尽さなかつた過失の存在を推定したものであつて、事業主において右に関する注意を尽したことの証明がなされない限り、事業主もまた刑責を免れ得ないとする法意と解するを相当とすることは、すでに当裁判所屡次の判例(昭和二六年(れ)第一四五二号、同三二年一一月二七日大法廷判決、刑集一一巻一二号三一一三頁、昭和二八年(あ)第四三五六号、同三三年二月七日第二小法廷判決、刑集一二巻二号一一七頁、昭和三七年(あ)第二三四一号、同三八年二月二六日第三小法廷判決、刑集一七巻一号一五頁各参照)の説示するところであり、右法意は、本件のように事業主が法人(株式会社)で、行為者が、その代表者でない、従業者である場合にも、当然推及されるべきであるから、この点の論旨は、違憲の主張としての前提を欠き理由がない。また、本法二条の存在が本件のような事案に対する処罰を妨げるものでないことは、すでに被告人伊藤忠商事株式会社の弁護人佐々木文一の上告趣意第二章第一に対して説示したとおりであつて、この点の論旨も違憲の主張としての前提を欠き上告適法の理由とならない。

同第二点は、違憲をいうけれども、その実質は単なる訴訟法違反の主張であり、同第三点は、事実誤認およびこれを前提とする単なる法令違反の主張であり、同第四点は、量刑不当の主張であつて、以上すべて適法な上告理由に当らない。

また記録を調べても刑訴法四一一条を適用すべきものとは認められない。

よつて同四〇八条により裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 奥野健一 裁判官 山田作之助 裁判官 草鹿浅之介 裁判官 城戸芳彦 裁判官 石田和外)

弁護人向江璋悦、同下平桂の上告趣意 編集

第一点 原判決には憲法第三一条に反する憲法違反の点があるのでその破棄を求める。 編集

一、そもそも「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又その他の刑罰を科せられない」と規定する憲法第三一条は、実質的にはいわゆる罪刑法定主義をも認めた規定であることは、判例学説の等しく認めるところである。しかして罪刑法定主義は、いうまでもなく「法律なければ刑罰なし」という原則であり、その刑罰の基本原理は「責任なければ刑罰なし」であつて、これは刑罰法における根本観念である責任主義を明らかにしたものである。そして憲法第三一条は明文をもつてこの責任主義の原理を規定したものであるということができる。このような考え方は一般的に首肯せられているところであり、現に最高裁判所は入場税法違反被告事件に対する昭和三二年一一月二七日大法廷判決(刑集一一巻一二号三一一三頁)において、刑罰法の分野に無過失責任主義を採用することは憲法の趣旨に反するとの見解を前提としている。かくて刑法第三八条第一項はこの理を体し、原則として故意を処罰することとし、例外として過失を罰することを定め、それ以外の原因に基づく刑罰を許していないのである。つまり同条の「法律の特別規定」とは、罪刑法定主義に関する沿革的理由からも又刑罰の本質論からも過失を例外的に罰するという意味であつて、法律に規定さえすればなんでも処罰出来るということを意味するものではない。従つて無過失行為の処罰は結局憲法第三一条に反するものといわねばならぬ。

二、ところで原判決は本件について外為法第三七条を適用しているが同条は「法人の代表者又は法人若しくは人の代理人、使用人その他の従業者が、その法人又は人の業務又は財産に関し、前三条の違反行為をしたときは、行為者を罰する外、その法人又は人に対して各本条の罰金刑を科する」というのである。この規定は従業者の違反行為について、業務主を処罰する、いわゆる両罰規定といわれるものであるが、このような規定が右にのべた責任主義をたてまえとする憲法の趣旨から許されるものであろうか。

三、この点について原判決は何らふれるところがないので、いかなる考えのもとに同条を適用したものかは不明であるが、この点については、すでに前記最高裁判決(昭和三二年一一月二七日大法廷判決刑集一一巻一二号三一一三頁)が旧入場税法一七条の三について事業主の過失を推定した規定である。従つて責任主義の原理に反するものではないと判断しているのでおそらく従つたものと思われる。しかしいわゆる両罰規定における事業主処罰の根拠を過失の推定であるというのは妥当でない。何故なら過失の推定ということを簡単に云うが、過失の推定なるものは、過失の存在を前提として之を立証するものではなくて、過失があつたと仮定するにすぎないのである。もし過失が真に存在するのであればそれ自体を立証すべきが刑罰法の基本である。しかるに過失の存否不明の場合においても、又その立証のない場合においても、ただ従業者が違反行為をなしたという一事によつて事業主の過失を推定するというのは不当である。たとえ事業主において従業者の選任監督にぬかりはなかつたことを立証して責任を免れる道がのこされているとしても、存在することの立証に比して、不存在の立証が事実上いかに困難なことであるかはすでに何人も知るところである。しかも「監督をつくしたからといつて過失なしとはいいえない」とする判例が多々あることを思うとき、結局は事業主の無過失であることの立証は事実上は殆んど不可能であると言わざるを得ない。そうとすれば事業主は真に過失なき場合にも刑罰を受けざるを得ないこととなつて、名は過失の推定と言つてもその実体は立派な無過失責任に基づく刑罰規定であると言わねばならない。そもそもいかに行政的取締目的によるとは言え、いやしくも刑罰を科する以上は、刑罰の倫理的意味を捨てることを得ず責任の推定などということを安易になすべきではない。故に外為法三七条の規定を事業者の過失を推定した規定と解することは、すでにそのこと自体において、又その実体においても、憲法第三一条の責任主義ひいては罪刑法定主義にもとるものと言うことが出来る。ところでここで更に注意すべき点は、両罰規定とは言つても実はその規定の仕方にいくつかの種類があると言うことである。つまり両罰規定には、単に事業主を処罰すると規定するものと、但書で従業者の違反行為防止につき相当の注意監督が尽されたことの証明があつたときは事業主を処罰しないと規定するものとがある。前者は所得税法七二条、風俗営業取締法八条、前記昭和三二年一一月二七日の最高裁判決の対象となつた旧入場税法一七条の三および本件外為法七三条等の如きがそれであり,後者に該当するものとしては道路法一〇五条消防法四五条等がある。すなわち、このように両罰規定の中にも、それ自体において過失を推定する旨の規定をおいてあるものと、そうでないものとがあるのである。従つてこのように規定の仕方の異なる両罰規定を、一つの理論のもとにかたづけてしまうことは妥当でない。確かに過失を推定する規定のある場合についてこれを過失推定の理論で根拠づけることも可能であろう(但しその妥当でないことはすでに述べたところである)。しかしかような規定のない場合にも、やはり過失推定の理論で解釈することは不当であつて、規定の仕方からみれば、むしろ、すなおに無過失責任を認めた規定であるというべきものである。この無過失責任の規定が憲法第三一条に反することはすでにのべたところであるが、かりに百歩ゆずつて過失の推定が違憲でないとしても、それならそれで本件外為法三七条の場合について言えば、法文上も過去の推定の規定を附すべきであつて、このような明文の規定のない場合にもなお過失を推定することは刑法の運用にあたつて官憲の恣意を封じ人権を侵害しないために、規定の内容を充分に明確なものにすることも又罪刑法定主義の直接の要請であるから、法律なければ刑罰なしとの憲法第三一条の規定に正面から違反するものと信ずる。以上の理由により外為法三七条は結局憲法三一条に反する法律であつて、これを適用した原判決は破棄を免れぬものである。

四、仮りにもし、原判決が外為法三七条は無過失責任ないしは過失の擬制の規定と解したならば、なおさらのことである。もしまた仮りに過失規定と解したならば、本件では検察官が過失の主張立証をしていないことは記録上明らかであるからいずれにしてもなお判決は破棄せらるべきものである。 

五、憲法第三一条はまた別の面から言えば次のようなことを規定している。すなわち同条はアメリカ憲法における適正手続条項に由来するものであつて、そのことからして罪刑の法定が適正であることを要するものと解せざるを得ない。従つて刑罰を科するためには、実質的な意味で処罰の必要と根拠が充分かつ明白に存在することが必要である。このことは刑罰が特に国民の基本的人権を剥奪することを内容とするものであるだけに重要である。そこで本件事案を考えてみるに、本件に我国における一流の信用ある貿易商社がもつぱら輸出振興の目標のもとに専念していたところ、はからずも外為法違反に問われたものであつて、この点は原判決も認めているところで、はじめから外為法違反を目的とした行為ではなく、資本逃避を目的としたものでもないのである。そこで第一審における証人村西淳一の公判廷における供述によれば、低価取引によつて生じた差額の所謂預け外貨が日本に於て日本円で支払われる場合には、(1)入るべき外貨が入らない、(2)公定レートが乱される虞れがある、(3)代償支払が行われる可能性がある、(4)円の密輸入が行われる可能性がある、(5)オープン勘定の記帳の正確性が失われる等の弊害が一応考えられるとしても、同証人はこれを一つの理論としてのべただけであつて、現実にそのような弊害が起つているかということまではふれていない。たしかに外為法制定の当時にあつては、そのようなことが懸念され処罰の必要があつたことは事実であるが、しかし昭和三一、二年ごろから日本の外貨事情は著しく好転し現在では全く必要のない規定であることは原審における証人矢野俊比古、同天谷真弘、同金沢良雄、同谷村正敏らが一致して認めるところである。しかもこの外為法自身が、その第二条において、制定の当初からこの事態あるを予想し「その必要の減少に伴い逐次緩和又は廃止する目的をもつて再検討するものとする」と規定することから、すでに今日同法第七三条は廃止されていてしかるべきものである。しかし政府は検討の機会はもつたようであるが、それ以上に積極的な処置にでていないのは遺憾である。このような事情で、実は同法は実質的にその必要と根拠を失つているのであつて、単に形式論をもつて、法律があるから罰するという考えは、前記憲法第三一条の趣旨に反するものである。よつて原判決は違憲の法律を適用したものであるから破棄すべきである。

(その他の上告趣意は省略する。)

(弁護人浅沼澄次、同佐藤庄市郎の上告趣意は省略する。)

(弁護人長畑裕三の上告趣意は省略する。)

(弁護人磯部靖の上告趣意は省略する。)

(弁護人河島徳太郎の上告趣意は省略する。)

(弁護人佐々木文一の上告趣意は省略する。)

 

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