凧
本文
編集一
編集- ……彼は最近大阪から越して來た家族の子供で、東京の凧が珍らしく、毎日原っぱの隅へ來て小賢しい子供達のすることを見てゐた。お二枚半といふ名前は左うして覺えてしまつた。
- 次には自分にも一つそのお二枚半が欲しかつた。然し彼には介添をして呉れる友達もまだ出來てゐなかつた。そればかりではない、名前は覺えたがそのアクセントさえ〔ママ〕飮みこめてないのだつた。
- 「お二枚半。お二枚半」彼は執濃〔ママ〕く呟いて見た。矢張もどかしかつた。
- ――暫くして彼の兄と彼は近所の仲間と交際ふ樣になつた。
- 「一度相撲して見ろ。」我鬼大將が彼等兄弟に吩付(咐)けた。二人は取組んだ。
- 「よし。……頑固だな。」我鬼大將はそんなことを云つた。
- ――お二枚半を手にする日が遂々(到頭)來た。
- それを持つて原っぱへ出ると、我鬼大將があげてやると云つた。彼は風下へ行つて凧を捧げ風の來るのを待つてゐた。それは幸福な瞬間であつた。
- 凧はぐんぐんあがつた。我鬼大將の手許を見ながら彼は大丈夫かしらと思つてゐた。
- 「持つて見ろ」
- 「うん」
- 糸の端は今手のなかにあつた。大らかにたるんだ永い糸は遥か遠いお二枚半に續いてゐた。强い手應へがあつた。少し引いてさえ〔ママ〕先では直ぐそれに答へた。糸がたるんでゐるのにと思つて、彼には何だかそれが不思議に思へた。
- ――其の日の中にお二枚半は丘の高い木へ引懸つてしまつた。我鬼大將が引懸けたのであつた。そしてそれはそれ切りだつた。
- ――永い冬の間お二枚半はその姿で引懸つてゐた。紙が破れて骨だけになつてもまだ殘つてゐた。母は二度と買つては呉れなかつたが、それを見ると彼の心はへんい心强かつた。
- これは眞二の殆ど十五年にもなる昔話であつた。彼は芝の二本榎に九つの冬から十一の春まで足掛三年を送つた。また關西へ侈(移)つたのであつた。そして此頃、眞二はまた東京に住む樣になつた。一冬を二本榎にも遠くない目黑で過した。――
- 常綠の樫の葉が眞晝の太陽の下で美しく光つてゐる。孟宗の篁から雀が飛び立つ。檜葉は赤く霜に燒け、磨いたやうな靑空の中を白い雲片が通つてゆく。そして凧の唸りが空に聞えて來る。眞二は凧を眺めながら少年期の自分を想ひ出す。
- 「あのお二枚半にはどんな繪が書いてあつたらう」そんなことを思ふ。
- 家の橫についた臺所。御用聞。昔の匂ひは至〔ママ〕る所にあつた。彼の通つてゐた學校は二本榎に近い去(さ)る地主の建てた小學校で、その地主と同じ苗字の家が、目黑にもあつた。昔の原っぱのなかの濕地の匂ひが、やはり目黑の野原にも漂つてゐた。白金壹町だとか淸正公前だとか、車掌の呼ぶ停留所の名前にも想ひ出がつき纏つた。省線の大崎驛のあたりは昔の大崎と似てもつかなかつたが、八つ山の陸橋は昔の面影を殘してゐた。
- そんなものゝ陰に眞二は何時も昔の生活を呼び起して見る。呼び起されて來る自分や家の姿が、その度、どうしたことか、みな變に侘しい冬枯の匂ひを待つてゐるのであつた。
- 三つの冬と二つの夏を送つて冬に緣が近かつた故か、今見る周圍がみな冬枯れてゐる故か、兎も角そのことはいつも彼を侘しくした。
- ――二本榎へ移つて來て、まだ間のない頃、或る日の夕方、姐が使ひに行つて歸つて來ないことがあつた。ランプの何かを買ひに出たので、姐が歸らないとランプが點かなかつた。
- 暗くなつてゆく部屋の中で、彼や母等はおろおろ心配した。
- 兄が十錢銀貨を落して來たことがあつた。母は兄に捜して來いと吩付(咐)けた。雪の積つた日で、兄が門を出ると門の前の雪の上にその銀貨が載つてゐた。
- 姉が麻糸つなぎやレースの内職を見付けて來て、それを遣〔ママ〕つてゐる。針仕事をしてゐた母が、針仕事を捨てゝ、自分も手傳ふと云つて手傳ひかける。併し、馴(慣)れないのではかどらない。
- 「あゝゝ、こんなことはやつてゐられん。」左う云つてまた慌てゝ針仕事にかゝつた母の姿。
- 母の留守、姉が簞笥の引出から質屋の通ひを出して來て彼等に見せたことがあつた。その時眞二はひどく昂奮したのを覺えてゐる。
- 關西へ歸る樣になつたのは眞二が五年になつた時であつた。家を引拂ふ晩のこと。彼等は先に門まで出た。
- 母がランプを消して最後に出て來た。家のなかは眞暗になつた。ランプなどは八百屋にやるんだから明日は取りに來るだらうと母が云つた。誰一人送出す者はなかつた。その八百屋が翌日來て、彼等一家がゐなくなつたあとを淋しがつたかどうか。淋しがつて呉れたのならその八百屋だけがせめてもの送り手だつたと云へる。何といふへんてこな出發だつたことか。近所の友達に左樣ならさへ云はなかつたのだつた。
二
編集- 「眞二、眞二。」眞二は時々自分の名を口に出して呼んで見ることがある。ふとするとその聲が變に客觀性を帶びて、誰かゞ……(缺)
- ……病気になつて行くことが眞二自身にもわかつた。もうそれは仕事に對する根氣ばかりではなかつた。一寸した用事をするにも、途中でついぼんやりしてしまつて何時の間にかそれを止めてゐたりするのであつた。やりはじめの意氣込みを忘れてしまふ。意氣込みなどと云はず欲望と云つた方がいゝかも知れない。例へば買ふにしても買つた直ぐあとで何のために買つたのか譯がわからなくなつたりするのであつた。……(缺)
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