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季節は冬至に間もなかった。たかしの窓からは、地盤の低い家々の庭や門辺かどべに立っている木々の葉が、一日ごとにがれてゆく様が見えた。
ごんごん胡麻ごまは老婆の蓬髪ほうはつのようになってしまい、霜に美しくけた桜の最後の葉がなくなり、けやきが風にかさかさ身を震わすごとに隠れていた風景の部分が現われて来た。
もう暁刻の百舌鳥もずも来なくなった。そしてある日、屏風びょうぶのように立ち並んだかしの木へ鉛色の椋鳥むくどりが何百羽と知れず下りたことから、だんだん霜は鋭くなって来た。
冬になって尭の肺はいたんだ。落葉が降りまっている井戸端いどばた漆喰しっくいへ、洗面のとき吐くたんは黄緑色からにぶい血の色を出すようになり、時にそれは驚くほどあざやかな紅にえた。尭が間借り二階の四畳半で床を離れる時分には、主婦の朝の洗濯せんたくはとうに済んでいて、漆喰はかわいてしまっている。その上に落ちた痰は水をかけても離れない。尭は金魚のでもつまむようにしてそれを土管の口へ持って行くのである。彼は血の痰を見てももうなんの刺激しげきでもなくなっていた。が、冷澄な空気の底に冴え冴えとした一塊のいろどりは、なぜかいつもじっと凝視みつめずにはいられなかった。
尭はこのごろ生きる熱意をまるで感じなくなっていた。一日一日が彼が引きっていた。そしてうちに住むべきところをなくした魂は、常に外界にのがれよう逃れようと焦慮あせっていた。――昼は部屋の窓をひらいて盲人のようにそとの風景を凝視める。夜は屋の外の物音や鉄瓶てつびんの音に聾者ろうしゃのような耳を澄ます。
冬至に近づいてゆく十一月のもろざしは、しかし、彼が床を出て一時間とはたない窓の外で、どの日もどの日も消えかかってゆくのであった。かげってしまった低地には、彼のんでいる家の投影さえ没してしまっている。それを見ると尭の心には墨汁ぼくじゅうのような悔恨やいらだたしさがひろがってゆくのだった。日向ひなたはわずかに低地をへだてた、灰色の洋風の木造家屋にとどまっていて、その時刻、それはなにか悲しげに、遠い地平へ落ちてゆく入日を眺めているかのように見えた。
冬陽ふゆびは郵便受けのなかへまでしこむ。路上のどんな小さな石粒も一つ一つ影を持っていて、見ていると、それがみな埃及エジプトのピラミッドのような巨大コロッサールな悲しみを浮かべている。――低地を距てた洋館には、その時刻、並んだ蒼桐あおぎりの幽霊のような影が写っていた。向日性を持った、もやしのように蒼白い尭の触手は、知らず識らずその灰色した木造家屋の方へ伸びて行って、そこにみ込んだ不思議な影のあとでるのであった。彼は毎日それが消えてしまうまでの時間を空虚な心で窓を展いていた。
展望の北隅をささえている樫の並樹は、ある日は、その鋼鉄のような弾性ない踊りながら、風を揺りおろして来た。容貌ようぼうをかえた低地にはカサコソと枯葉が骸骨がいこつの踊りを鳴らした。
そんなとき蒼桐の蔭は今にも消されそうに見えた。もう日向とは思えないそこに、気のせいほどの影がまだ残っている。そしてそれはこがらしに追われて、砂漠さばくのような、そこでは影の生きている世界の遠くへ、だんだん姿をき消してゆくのであった。
尭はそれを見終ると、絶望に似た感情で窓をとざしにかかる。もう夜を呼ぶばかりの凩に耳を澄ましていると、ある時はまだ電気も来ないどこか遠くでガラス戸のくだけ落ちる音がしていた。
尭は母からの手紙を受け取った。
「延子をなくしてから父上はすっかり老い込んでおしまいになった。お前の身体からだも普通の身体ではないのだから大切にして下さい。もうこの上の苦労はわたしたちもしたくない。
わたしはこのごろ夜中になにかに驚いたように眼がめる。頭はお前のことが気懸きがかりなのだ。いくら考えまいとしても駄目だめです。わたしは何時間も眠れません。」
尭はそれを読んである考えに凄然せいぜんとした。人びとの寝静まった夜をえて、彼と彼の母が互いに互いに悩み苦しんでいる。そんなとき、彼の心臓に打った不吉な搏動はくどうが、どうして母を眼覚めざまさないと云いきれよう。
尭の弟は脊椎せきついカリエスで死んだ。そして妹の延子も腰椎ようついカリエスで、意志をうしなった風景のなか死んで行った。そこでは、たくさんの虫が一匹の死にかけている虫の周囲に集まって悲しんだり泣いたりしていた。そして彼らの二人ともが、土に帰る前の一年前を横たわっていた、白い土の石膏せっこうの床からおろされたのである。
――どうして医者は「今の一年は後の十年だ」なんて云うのだろう。
尭はそう云われたとき自分の裡に起ったなぜかばつの悪いような感情思い出しながら考えた。
――まるで自分がその十年で到達しなければならない理想でも持っているかのように。どうしてあと何年経てば死ぬとは云わないのだろう。
尭の頭には彼にしばしば現前する意志を喪った風景が浮かびあがる。
暗い冷たい石造の官衙かんがの立ち並んでいるまちの停留所。そこで彼は電車を待っていた。家へ帰ろうかにぎやかな街へ出ようか、彼は迷っていた。どちらの決心もつかなかった。そして電車はいくら待ってもどちらからも来なかった。しつけるような暗い建築の陰影、裸の並樹、まばらな街燈の透視図。――その遠くの交叉路こうさろには時どき過ぎる水族館のような電車。風景はにわかに統制を喪った。そのなかで彼は激しい滅形を感じた。
おさない尭は捕鼠器ねずみとりに入ったねずみを川にけに行った。透明な水のなかで鼠は左右に金網を伝い、それは空気のなかでのように見えた。やがて鼠は網目の一つへ鼻を突っ込んだまま動かなくなった。白いあわが鼠の口から最後にうかんだ。……
尭は五、六年前は、自分の病気が約束している死の前には、ただ甘い悲しみをいただけで通り過ぎていた。そしていつかそれに気がついて見ると、栄養や安静が彼に浸潤した、美食に対する嗜好しこうや安逸や怯懦きょうだは、彼から行きて行こうとする意志をだんだん持ち去っていた。しかし彼は幾度も心を取り直して生活に向って行った。が、彼の思索や行為はいつの間にかいつわりの響きをたてはじめ、やがてそのなめらかさを失って凝固した。と、彼の前には、そういった風景が現われるのだった。
何人もの人間がある徴候をあらわしある経過をたどって死んで行った。それと同じ徴候がお前にあらわれている。
近代科学の使徒の一人が、尭にはじめてそれを告げたとき、彼の拒否する権限もないそのことは、ただ彼が漠然ばくぜんきらっていたその名称ばかりで、頭がそれを受けつけなかった。もう彼はそれを拒否しない。白い土の石膏の床は彼が黒い土に帰るまでの何年かのために用意されている。そこではもう転輾てんてんすることさえ許されないのだ。
夜がけて夜番の撃柝げきたくの音がきこえ出すと、尭は陰欝いんうつな心の底でつぶやいた。
「おやすみなさい、お母さん」
撃柝の音は坂ややしきの多い尭の家のあたりを、微妙に変ってゆく反響の工合で、それが通ってゆく先ざきを髣髴ほうふつさせた。肺のきしむ音だと思っていたはるかな犬の遠吠とおぼえ。
――尭には夜番が見える。母の寝姿が見える。もっとも陰欝な心の底で彼はまた呟く。
「おやすみなさい、お母さん」
尭は掃除(そうじ)をすました部屋の窓を明け放ち、籐(とう)の寝椅子(ねいす)に休んでいた。と、ジュッジュッという啼(な)き声がしてかなむぐらの垣(かき)の蔭(かげ)に笹鳴(ささな)きの鶯(うぐいす)が見え隠れするのが見えた。
ジュッ、ジュッ、尭は鎌首(かまくび)をもたげて、口でその啼き声を模(ま)ねながら、小鳥の様子を見ていた。――彼は自家(うち)でカナリヤを飼っていたことがある。
美しい午前の日光が葉をこぼれている。笹鳴きは口の音に迷わされていはいるが、そんな場合のカナリヤなどのように、機微な感情は現わさなかった。食欲に肥えふとって、なにか堅いチョッキでも着たような恰好(かっこう)をしている。――尭が模ねをやめると、愛想もなく、下枝(しずえ)の間を渡りながら行ってしまった。
低地を距てて、谷に臨んだ日当りのいいある華族の庭が見えた。黄に枯れた朝鮮芝に赤い蒲団(ふとん)が干してある。
――尭はいつになく早起きをした午前にうっとりとした。
しばらくして彼は、葉が褐色(かっしょく)に枯れ落ちている屋根に、つるもどきの赤い実がつややかに露(あら)われているのを見ながら、家の門を出た。
風もない青空に、黄に化(かわ)りきった公孫樹(いちょう)は、静かに影を畳んで休ろうていた。白い化粧煉瓦(れんが)を張った長い塀(へい)が、いかにも澄んだ冬の空気を映していた。その下を孫を負ぶった老婆がゆっくりゆっくり歩いて来る。
尭は長い坂を下りて郵便局へ行った。日の射し込んでいる郵便局は絶えず扉が鳴り、人びとは朝の新鮮な空気を撒き散らしていた。尭は永い間こんな空気に接しなかったような気がした。
彼は細い坂をゆっくりゆっくり登った。山茶花(さざんか)の花ややつでの花が咲いていた。尭は十二月になっても蝶(ちょう)がいるのに驚ろいた。それの飛んで行った方角には日光に撒かれた虻(あぶ)の光点が忙しく行き交(こ)うていた。
「痴呆(ちほう)のような幸福だ」と彼は思った。そしてうつらうつら日溜まりに屈(かが)まっていた。――やはりその日溜まりの少し離れたところに小さい子供たちがなにかして遊んでいた。四、五歳の童子や童女たちであった。
「見てやしないだろうな」と思いながら尭は浅く水が流れている溝(みぞ)のなかへ痰を吐いた。そして彼らの方へ近づいて行った。女の子であばれているのもあった。男の子で温柔(おとな)しくしているのもあった。稺い線が石墨で路(みち)に描かれていた。――尭はふと、これはどこかで見たことのある情景だと思った。不意に心が揺れた。揺り覚まされた虻が茫漠(ぼうばく)とした尭の過去へ飛び去った。その麗(うら)らかな臘月(ろうげつ)の午前へ。
尭の虻は見つけた。山茶花を。その花弁のこぼれるあたりに遊んでいる童子たちを。――それはたとえば彼が半紙などを忘れて学校へ行ったとき、先生に断わりを云って急いで自家(うち)に取りに帰って来る。学校は授業中の、なにか珍らしい午前の路であった。そんなときでもなければ垣間(かいま)見ることを許されなかった。聖なる時刻の有様であった。そう思って見て尭は微笑(ほほえ)んだ。


午後になって、日がいつもの角度に傾くと、この考えは尭を悲しくした。穉(おさな)いときの古ぼけた写真のなかに、残っていたような日向(ひなた)のような弱陽が物象を照していた。
希望を持てないものが、どうして追憶を慈(いつく)しむことが出来よう。未来に今朝のような明るさを覚えたことが近ごろの自分にあるだろうか。そして今朝の思いつきも何のことはない、ロシアの貴族のように(午後二時ごろの朝餐(ちょうさん))が生活の習慣になっていたということのいい証拠ではないか。――
彼はまた長い坂を下りて郵便局へ行った。
「今朝の葉書のこと、考えが変ってやめることにしたから、お願いしたこと御中止下さい」
今朝彼は暖かい海岸で冬を越すことを想い、そこに住んでいる友人に貸家を捜すことを頼んでやったのだった。
彼は激しい疲労を感じながら坂を帰るのにあえいだ。午前の日光のなかで静かに影を畳んでいた公孫樹(いちょう)は、一日が経たないうちにもう凩(こがらし)が枝を疎らにしていた。その落葉が陽を喪(うしな)った路の上を明るくしている。彼はそれらの落葉にほのかな愛着を覚えた。
尭は家の横の路まで帰って来た。彼の家からはその勾配(こうばい)のついた路は崖上(がけうえ)になっている。部屋(へや)から眺めているいつもの風景は、今彼の眼前で凩に吹き曝(さら)されていた。曇り空には雲が暗澹(あんたん)と動いていた。そしてその下に尭は、まだ電燈も来ないある家の二階は、もう戸が鎖されてあるのを見た。戸の木肌(きはだ)はあらわに外面に向って曝されていた。――ある感動で尭はそこに彳(たたず)んだ。傍(かたわ)らには彼の棲(す)んでいる部屋がある。尭はそれをこれまでついぞ眺(なが)めたことのない新しい感情で眺めはじめた。
電燈も来ないのに早や戸じまりをした一軒の家の二階――戸のあらわな木肌は、不意に尭の心を寄辺(よるべ)のない旅情で染めた。
――食うものも持たない。どこに泊るあてもない。そして日は暮れかかっているが、この他国の町は早や自分を拒んでいる。――
それが現実であるかのような暗愁が彼の心を翳(かげ)って行った。またそんな記憶がかつての自分にあったような、一種訝(いぶ)かしい甘美な気持が尭を切なくした。
何ゆえそんな空想が起って来るのか?何ゆえその空想がかくも自分を悲しませ、また、かくも親しく自分を呼ぶのか?そんなことが尭には朧(おぼろ)げにわかるように思われた。
肉を炙(あぶ)る香ばしい匂(にお)いが夕凍(ゆうじ)みの匂いに混って来た。一日の仕事を終えたらしい大工のような人が、息を吐く微(かす)かな音をさせながら、尭にすれちがってすたすたと坂を登って行った。
「俺(おれ)の部屋はあすこだ」
尭はそう思いながら自分の部屋に目を注いだ。薄暮に包まれているその姿は、今エーテルのように風景に拡がってゆく虚無に対しては、何の力でもないように眺められた。
「俺が愛した部屋。俺がそこに棲むのをよろこんだ部屋。あのなかには俺の一切の所持品が――ふとするとその日その日の生活の感情までが内臓されているかも知れない。ここから声をかければ、その幽霊があの窓をあけて首を差し伸べそうな気さえする。がしかしそれも、脱ぎ棄(す)てた宿屋の褞袍(どてら)がいつしか自分自身の身体をそのなかに髣髴させて来る作用とわずかもちがったことはないではないか。あの無感覚な屋根瓦(やねがわら)や窓(まど)硝子(ガラス)をこうしてじっと見ていると、俺はだんだん通行人のような心になって来る。あの無感覚は外囲は自殺しかけている人間をそのなかに蔵しているときもやはりあの通りにちがいないのだ。――といって、自分は先刻の空想が俺を呼ぶのに従ってこのままここを歩み去ることも出来ない。
早く電燈でも来ればよい。あの窓の磨(すり)硝子(ガラス)が黄色い灯を滲(にじ)ませれば、与えられた生命に満足している人間を部屋のなかに、この通行人の心は想像するかもしれない。その幸福を信じる力が起って来るかも知れない」
路に彳(たたず)んでいる尭の耳に階下の柱時計の音がボンボン……と伝わって来た。変なものを聞いた、と思いながら彼の足はとぼとぼと坂を下って行った。


街路樹から次には街路から、風が枯葉をはらってしまったあとは風の音も変って行った。夜になると街のアスファルトは鉛筆でも光らせたようにてはじめた。そんな夜を尭は自分の静かな町から銀座へ出かけて行った。そこではなばなしいクリスマスや歳末の売出しがはじまっていた。
友達か恋人か家族か、舗道ほどうの人はそのほとんどが連れを携えていた。連れのない人間の顔は友達に出会う当てを持っていた。そして本当に連れがなくとも金と健康を持っている人に、この物欲の市場が悪い顔をするはずのものではないのであった。
「何をしに自分は銀座へ来るのだろう」
尭は舗道が早くも疲労ばかりしか与えなくなりはじめるとよくそう思った。尭はそんなときいつか電車のなかで見たある少女の顔を思い浮べた。
その少女はつつましい微笑をうかべて彼の座席の前で釣革つりかわに下がっていた。どてらのように身体に添っていない着物から「お姉さん」のような音が生えていた。その美しい顔は一と眼で彼女が何病だかを直感させた。陶器のように白い皮膚を翳らせている多いうぶ毛。鼻孔のまわりのあか
「彼女はきっと病床から脱け出して来たものに相違ない」
少女の面を絶えず漣漪さざなみのように起っては消える微笑を眺めながら尭はそう思った。彼女が鼻をかむようにしてきとっているのは何か。灰を落としたストーヴのように、そんなとき彼女の顔には一時あざやかな血がのぼった。
自身の疲労とともにだんだんいじらしさを増して行くその娘の像を抱きながら、銀座では尭は自分のたんを吐くのに困った。まるでものを云うたび口からかえるび出すグリムのお伽噺とぎばなしの娘のように。
彼はそんなとき一人の男が痰を吐いたのを見たことがある。不意に貧しい下駄げたが出て来てそれをすりつぶした。が、それは葦がはいている下駄ではなかった。路傍に茣蓙ござを敷いてブリキの独楽こまを売っている老人が、さすがに怒りを浮かべながら、その下駄を茣蓙の端のも一つ上へ重ねるところを彼は見たのである。
「見たか」そんな気持で尭は行き過ぎる人びとを振り返った。が、誰もそれを見た人はなさそうだった。老人が坐っているところは、それが往来の目に入るにはあまりに近すぎた。それでなくても老人の売っているブリキの独楽はもう田舎いなかの駄菓子屋ででも陳腐なものにちがいなかった。尭は一度もその玩具が売れたのを見たことがなかった。
「何をしに自分は来たのだ」
彼はそれが自分自身への口実の、珈琲コーヒー牛酪バタパンや筆を買ったあとで、ときに憤怒ふんぬのようなものを感じながら高価な仏蘭西フランス香料を買ったりするのだった。またときには露店が店を畳む時刻まで街角のレストランに腰をかけていた。ストーヴに暖められ、ピアノトリオに浮き立って、グラスが鳴り、ながが光り、笑声がき立っているレストランの天井には、物憂ものうい冬のはえが幾匹も舞っていた。所在なくそんなものまで見ているのだった。
「何をしに自分は来たのだ」
街へ出ると吹き通るからっ風がもう人足を疎らにしていた。よいのうち人びとがつかまされたビラのたぐいが不思議に街の一と所に吹きめられていたり、吐いた痰がすぐに凍り、落ちた下駄の金具にまぎれてしまったりする夜更けを、彼は結局は家へ帰らねばならないのだった。
「何をしに自分は来たのだ」
それは彼のなかに残っている古い生活の感興にすぎなかった。やがて自分は来なくなるだろう。尭は重い疲労とともにそれを感じた。
彼が部屋で感覚する夜は、昨夜も一昨夜もおそらくは明晩もない、病院の廊下のように長く続いた夜だった。そこでは古い生活は死のような空気のなかで停止していた。思想は書棚しょだなうずめる壁土にしか過ぎなかった。壁にかかった星座早見表は午前三時が十月二十何日に目盛りをあわせたままほこりをかぶっていた。夜更けて彼が便所へ通うと、小窓の外の屋根瓦には月光のような霜が置いている。それを見るときにだけ彼の心はほーっと明るむのだった。
固い寝床はそれを離れると午後にはじまる一日が待っていた。傾いた冬の日が窓のそとのまのあたりを幻燈のように写し出している、その毎日であった。そしてその不思議な日射しはだんだんすべてのものが仮象にしか過ぎないということや、仮象であるゆえ精神的な美しさに染められているのだということを露骨にして来るのだった。枇杷びわが花をつけ、遠くの日溜まりからはだいだいの実が目を射った。そして初冬の時雨しぐれはもうあられとなって軒をはしった。
霰はあとからあとへ黒い屋根瓦を打ってはころころころがった。トタン屋根をつ音。やつでの葉をはじく音。枯草に消える音。やがてサアーというそれが世間に降っている音がきこえ出す。と、白い冬の面紗ヴエイルを破って近くのやしきからはつるの啼き声が起った。尭の心もそんなときにはなにか新鮮な喜びが感じられるのだった。彼は窓際にって風狂というものが存在した古い時代のことを思った。しかしそれを自分の身に当てめることは尭には出来なかった。
いつのすきにか冬至が過ぎた。そんなある日尭は長らく寄りつかなかった、以前住んでいた町の質店へ行った。金が来たので冬の外套がいとうを出しに出かけたのだった。行ってみるとそれはすでに流れたあとだった。
「××どんあれはいつごろだったけ」
「へい」
しばらく見ない間にすっかり大人おとなびた小店員が帳簿を繰った。
尭はその口上が割合すらすら出て来る番頭の顔が変に見え出した。あの瞬間には彼が非常な云い憎さを押しかくして云っているように見え、ある瞬間にはいかにも平気に云っているように見えた。彼は人の表情を読むのにこれほど戸惑ったことはないと思った。いつもは好意のある世間話をしてくれる番頭だった。
尭は番頭の言葉によって幾度も彼が質店から郵便を受けていたのをはじめて現実に思い出した。硫酸に侵されているような気持の底で、そんなことをこの番頭に聞かしたらというような苦笑も感じながら、彼もやはり番頭のような無関心を顔に装って一通りそれと一緒に処分されたものを聞くと、彼はその店を出た。
一匹のせ衰えた犬が、霜解けの路ばたで醜い腰つきをふるわせながら、くそをしようとしていた。尭はなにか露悪的な気持にじりじり迫られるのを感じながら、嫌悪けんおに堪えたその犬の身体からだつきを、終るまで見ていた。長い帰りの電車のなかでも、彼はしじゅう崩壊に屈しようとする自分を堪えていた。そして電車を降りて見ると、家を出るとき持って出たはずの洋傘こうもりは――彼は持っていなかった。
あてもなく電車を追おうとする眼を彼は反射的にそらせた。重い疲労を引きりながら、夕方の道を帰って来た。その日町へ出るとき赤いものを吐いた。それが路ばたの槿むくげの根方にまだひっかかっていた。尭には微かな身慄みぶるいが感じられた。――吐いた時には悪いことをしたとしか思わなかったその赤い色に。――
夕方の発熱時が来ていた。冷たい汗が気味悪くわきの下を伝った。彼ははかまも脱がぬ外出姿のまま凝然と部屋に坐っていた。
突然匕首あいくちのような悲しみが彼に触れた。次から次へ愛するものを失って行った母の、ときどきするとぼけたような表情を思い浮かべると、彼は静かに泣きはじめた。
夕餉ゆうげをしたため階下へ下りるころに、彼の心はもはや冷静に帰っていた。そこへ友達の折田というものがたずねて来た。食欲はなかった。彼はすぐ二階へあがった。
折田は壁にかかっていた、星座表を下ろして来てしきりに目盛りを動かしていた。
「よう」
折田はそれに答えず、
「どうだ。雄大ぢやあないか」
それから顔をあげようとしなかった。尭はふと息をんだ。彼にはそれがいかに壮大な眺めであるかが信じられた。
「休暇になったから郷里へ帰ろうと思ってやって来た」
「もう休暇かね。俺はこんどは帰らないよ」
「どうして」
「帰りたくない」
「うちからは」
「うちへは帰らないと手紙出した」
「旅行でもするのか」
「いや、そうじゃない」
折田はぎろと尭の目を見返したまま、もうその先をかなかった。が、友達のうわさ学校の話、久闊きゅうかつの話は次第に出て来た。
「このごろ学校じゃあ講堂の焼跡をこわしてるんだ。それがね、労働者が鶴嘴つるはしを持って焼跡の煉瓦れんが壁へ登って……」
その現に自分の乗っている煉瓦壁へ鶴嘴をふるっている労働者の姿を、折田は身振りをまぜて描き出した。
「あと一ときというところまでは、その上にいて鶴嘴をあてている。それから安全なところへ移って一つぐゎんとやるんだ。すると大きなやつがどどーんと落ちて来る」
「ふーん。なかなか面白い」
「面白いよ。それで大変な人気だ」
尭らは話をしているといくらでも茶を飲んだ。が、へいぜい自分の使っている茶碗ちゃわんでしきりに茶を飲む折田を見ると、そのたび彼は心が話からそれる。その拘泥こうでいがだんだん重く尭にのしかかって来た。
「君は肺病の茶碗を使うのが平気なのかい。せきをするたびにバイキンはたくさん飛んでいるし。――平気なんだったら衛生の観念が乏しいんだし、友達甲斐がいにこらえているんだったら子供みたいな感傷主義に過ぎないと思うな――僕はそう思う」
云ってしまって尭は、なぜこんないやなことを云ったのかと思った。折田は目を一度ぎろとさせたまま黙っていた。
「しばらく誰も来なかったかい」
「しばらく誰も来なかった」
「来ないとひがむかい」
こんどは尭が黙った。そんな言葉で話し合うのが尭にはなぜか快かった。
「ひがみはしない。しかし俺もこのごろは考え方が少しちがって来た」
「そうか」
尭はその日の出来事を折田に話した。
「俺はそんなときどうしても冷静になれない。冷静というものは無感動じゃなくて、俺にとっては感動だ。苦痛だ。しかし俺の生きる道は、その冷静で自分の肉体や自分の生活が滅びてゆくのを見ていることだ」
「…………」
自分の生活がこわれてしまえば本当に冷静は来ると思う。水底の岩に落つくかな……」
丈草じょうそうだね。……そうか、しばらく来なかったな」
「そんなこと。……しかしこんな考えは孤独にするな」
「俺は君がそのうちに転地でもするような気になるといいと思うな。正月には帰れと云って来ても帰らないつもりりか」
「帰らないつもりだ」
珍しく風のない静かな晩だった。そんな夜は火事もなかった。二人が話をしていると、戸外にはときどき小さい呼子よびこのような声のものが鳴いた。
十一時になって折田は帰って行った。帰るきわに彼は紙入れのなかから乗車割引券を二枚、
「学校へとりにゆくのも面倒だろうから」と云って尭に渡した。
母から手紙が来た。
――お前はなにか変ったことがあるにちがいない。それで正月上京なさる津枝さんにお前を見舞っていただくことにした。そのつもりでいなさい。
帰らないと云うから春着を送りました。今年は胴着を作って入れておいたが、胴着は着物と襦袢じゅばんに看るものです、じかに着てはいけません。――
津枝というのは母の先生の子息で今は大学を出て医者をしていた。が、かつて尭はその人に兄のような思慕を持っていた時代があった。
尭は近くへ散歩へ出ると、近ごろはことに母の幻覚に出会った。母だ!と思ってそれが見も知らぬ人の顔であるとき、彼はよく変なことを思った。――ずーっと変ったようだった。また母がもう彼の部屋に来て坐りこんでいる姿が目にちらつき、家へ引き返したりした。が、来たのは手紙だった。そして来るべき人は津枝だった。尭の幻覚はやんだ。
街を歩くと尭は自分が敏感な水準器になってしまったのを感じた。彼はだんだん呼吸が切迫して来る自分に気がつく。そして振り返って見るとその道は彼が知らなかったほどの傾斜をしているのだった。彼は立ちまると激しく肩で息をした。ある切ないかたまりが胸を下ってゆくまでには、必ずどうすればいいのかわからない息苦しさを一度経なければならなかった。それがしずまると尭はまた歩き出した。
何が彼をるのか。それは遠い地平へ落ちて行く太陽の姿だった。
彼の一日は低地をへだてた灰色の洋風の木造家屋に、どの日もどの日も消えてゆく冬の日に、もう堪えきることが出来なくなった。窓の外の風景が次第にあおざめた空気のなかへ没してゆくとき、それがすでにただの日蔭ひかげではなく、夜と名づけられた日蔭だという自覚に、彼の心は不思議ないらだちを覚えて来るのだった。
「あああ大きな落日が見たい」
彼は家を出て遠い展望のきく場所を捜した。歳暮の町には餅搗きの音が起っていた。花屋の前には梅と福寿草をあしらった植木鉢うえきばちが並んでいた。そんな風俗画は、町がどこをどう帰っていいかわからなくなりはじめるにつれて、だんだん美しくなった。自分のまだ一度も踏まなかった路――そこでは米をいでいる女も喧嘩けんかをしている子供も彼を立ち停まらせた。が、見晴らしはどこへ行っても、大きな屋根の影絵があり、夕焼け空に澄んだこずえがあった。そのたび、遠い地平へ落ちてゆく太陽の隠された姿が切ない彼の心に写った。
日の光に満ちた空気は地上をわずかも距たっていなかった。彼の満たされない願望は、ときに高い屋根の上へのぼり、空へ手を伸ばしている男を想像した。男の指の先はその空気に触れている。――また彼は水素をたした石鹼玉シャボンだまが、蒼ざめた人と街とを昇天させながら、その空気のなかへパッと七彩に浮かび上る瞬間を想像した。
青く澄みとおった空では浮雲が次から次へ美しく燃えていった。みたされない尭の心のおきにも、やがてその火は燃えうつった。
「こんなに美しいときが、なぜこんなに短いのだろう」
彼はそんなときほどはかない気のするときはなかった。燃えた雲はまたつぎつぎに死灰になりはじめた。彼の足はもう進まなかった。
「あの空をひたしてゆく影は地球のどの辺の影になるかしら。あすこの雲へゆかないかぎり今日ももう日は見られない」
にわかに重い疲れが彼にりかかる。知らない町の知らない町角で、尭の心はもう再び明るくはならなかった。


 

この著作物は、1932年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。