254●罪を犯さぬ計りで足るか
▲罪を犯さぬ計
[下段]
りでは足らず、尚徳を積み、天主の御意に協ふ様に励まねばなりませぬ。
罪を犯さぬ計りでは、
唯天主に逆はず、天の父に抵抗せぬと云ふ丈に止り、未だ心を尽し力を尽して天主を愛する事に成らぬから罪を犯さぬ計りでは足らぬ。
尚徳を積む
とは重ゞゝゝ善業を行ひ、遂に善徳と成り、愈よ善人に成る為に努める事である。
天主の御心に協ふ様に励む
とは、心掛けて天の父の御心を喜ばせたい気を励す事である。
(註)親を悲ませぬ計りで孝行な人と云はれやうか。法律を破らぬ丈で良民と云はれやうか。其と同じく罪を犯さぬ計りでは、当然の事に過ぎぬから、善いキリスト信者、即ちイエズスの教を能く守った者とは云はれぬ。「汝等の天父の完全に在す如く汝等も完全なれ」と(マ テ オ五。四八)、イエズスの御言にあれば、益す天主の御心に協ふ事を望み、力を尽してこそ本当の信者に成る。其で今思ふ事、云ふ事、爲る事は、天主の御意に協ふや否やを度々顧み、叉何すれば、御喜に成
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り得るかと考へて其爲に精出すのは信者の本分である。
255◯徳とは何であるか
△徳は心を善に傾ける慣習であります。
慣習
とは、何かを度々爲して、仕馴れて来る事である。悪い事を度々すれば遂に癖に成り、心が之に凝固って止められぬやうに成るが、是をば「悪徳」と云ふ、酒飮、道楽等は其である。其如く善い事を度々すれば必竟慣習と成り、心が之に傾き、矢はり爲ずには居られぬやうに成る、是をば「善徳」、叉は「徳」と名く。例へば始めて敬神「神を敬ふ」行があった計りでは敬神の行ではあるけれども「敬神徳」ではない。敬神徳とは平生神を敬ふ心があって、常に之を現すやうに心掛け、之に反する事を嫌ふ念のある事を示すのである。徳を厚く積むのは「高徳」と云、然な人を「高徳者」と云ふ。
(註)一遍堪忍したからとて堪忍者とは云はれぬ、叉一遍慈善した丈で慈善家とは云はれぬ、度々する所でなく、平生堪忍してこそ堪忍者、堪忍袋と成り、平生慈善してこそ慈善家
[下段]
と成るではないか。信者は善業を行ふことが常態となって始めて高徳者と云はれるのである。何人も此状態に達するやう善業を積まねばならぬ。
256◯徳に幾種あるか
△徳に二種あって、性徳と超性徳とであります。
性徳、
叉は自然徳と云ふのは、世間的徳であるが、
超性徳、
超自然徳と云ふのは、宗教に基き天主に対して守る徳である。
257◯性徳とは何であるか
△性徳は人性、或は人情に因る徳であります。
性徳が
人性に因る
とは、面々の生来に因る徳で、例へば不精な性質の人に堪忍、柔和を守る、活発な質の人は勇気あり、下戸が摂生を守るやうな事である。
性徳が叉
人情に因る
とは、(一)当然の道理、(二)或は世間並の訳、(三)或は世の目的を以て行はれる徳である。例へば人間は多少道徳心があるから、人を憫然に思って人情に
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より慈善を能く行ふ者もあり、叉孔子や釈迦の如く道理に基いて道徳を守る人もあり、或は「武士に二言なし」とか云ふやうな主義で善を行ふ人もあり、或は名誉の爲に邪欲を押へ、善業を励む人もあるが、是皆自然徳である。
自然徳は決して軽んずべきものではない。却て余程価値のあるものである。唯惜しい事には世間並の主義に止るので、世間並の報酬を受けるより外はない。若し見られる爲、誉められる爲に善を爲れば、其目的だけ達せられても、天国で終なき報酬を受けるに足らぬと、イエズス、キリストは屡仰しゃった。是は無論天主の為に行はぬからであります。
258◯超性徳とは何であるか
△超性徳とは聖寵の助力に因る徳であります、気質によらず、人情によらず、人の力にもよらず、寧ろ
聖寵の助力
により、天主の爲に守るのは所謂超性徳、超自然徳である。超性徳は聖寵によって起り、重ねゞゝゝの徳行を以て増加し、叉忽諸にすることによって、衰へ、之に反対する罪を犯せず無く成るものである。
[下段]
(註)性徳と超性徳との異ふ所は主に三、
第一、其本。性徳は唯の道理に基くのに、超性徳は聖寵の助によって起る。
第二、其訳。性徳は人情の爲に守られるのに、超性徳は信仰の訳によって行はれる。
第三、其目的。性徳は自然の情、自然の要求を満す爲であるから世間で報いられるが、超性徳は天主の誉の爲、救霊の爲に守られるによって天主より救霊を以て報いられる。