信長公記/我自刊我書
【 NDLJP:上3】
我自刋我書
太田和泉守著
信長公記
古書保存書屋
【 NDLJP:上4】
三墳五典八索九邱不限古今與中外記錄撰
集草紙物語不問雅俗兼小大探奇闡秘綴斷
拾零欲以久保于世永存于家庶幾乎有補於
昭代文化之萬一焉雖然排字易壓校讐闕精︀
魯魚亥豕請同人訂之日本東京京橋區西紺
屋坊九號地我自刋我古書保存書屋主人識
信長公記目錄
【 NDLJP:上6】【首信長公記首(是は信長御入洛無以前の双紙なり)
】
【首(一)
尾張國かみ下わかち之事】去程尾張國八郡也 上之郡四郡織田伊勢守諸︀將手に付進退して岩倉と云處に居城也 半國下郡四郡織田大和守下知に隨へ上下川を隔淸洲之城に武衞樣置き大和守も城中に候て守立て也大和守內に三奉行在之、織田因幡守、織田藤左衞門、織田彈正忠、此三人奉行人也彈正忠と申は尾張國端勝幡と云所に居城也
あづき坂合戰之事】八月上旬駿河衆三川之國正田原へ取出七段に人數を備候其折能三川の內あん城と云城熊田備後守かゝへられ候キ駿河の由原先懸にてあづき坂へ人數を出し候則備後守あん城より矢はぎへ懸出あづき抜にて備後殿御舍弟衆與二郞殿孫三郞殿四郞次郞殿初として旣一戰に取結相戰其時よき働し衆 織田備後守 織田與二郞殿 織田孫三郞殿 織田四郞次郞殿 織田造酒丞是は鎗きす
【 NDLJP:上7】【首(三)
吉法師殿御元服之事】吉法師殿十三の御歲林佐渡守平手中務靑山與三右衞門內藤勝介御伴申古渡ノ御城にて御元服、織田三郞信長と進められ御酒宴御祝︀儀不斜
翌年 織田三郞信長 御武者︀始として平手中務丞其時の仕立くれなゐ筋のつきんはをり馬よろひ出立にて駿河より人數入置候三州之內吉良大濱へ御手遺所々放火候て其日は野陣を懸させられ次日那古野に至て御歸陣
【首(四)
みのゝ國へ亂入し五千討死之事】去て備後殿は國中憑み勢をなされ一ケ月は美濃國へ御働又翌月は三川の國へ御出勢或時 九月三日尾張國中の人數を被成御憑美濃國へ御亂入在々所々放火候て 九月廿二日齋藤山城道三居城稻葉山山下村々推詰燒拂町口まで取寄旣及㆓晩日申刻㆒御人數被㆓引退㆒諸︀手半分計引取候所へ山城道三曈と南へ向て切かゝり雖㆓相支候㆒多人數くづれ立の間守備事不叶 備後殿御舍弟織田與次郞 織田因幡守 織田主水
先年尾張國より濃州大柿の城へ 織田播磨守被入置候事
【首(五)
景淸あざ丸刀之事】去九月廿二日山城道三大合戰に打勝て申樣に尾張の者︀はあしも腰も立間敷候間大柿を取詰此時可攻干之由にて近江くにより加勢を憑み 霜月上旬大柿の城近〳〵と取寄候へキ爰希異の事有 去九月廿二日大合戰の時千秋紀伊守景淸所持のあざ丸を最後にさゝれたり此刀陰山掃部助求さし候て西美濃大柿の並うしやの寺內とて在之成敗に參陣候て床木に腰をかけ居陣の處さん〳〵の惡き弓にて木ほうをもつて城中より虛空に人數備の中へくり懸候へは陰山掃部助左のまなこにあたる其矢を拔候へは又二の矢に右の眼を射つぶを其後此あざ丸惟住五郞左衞門所へ廻來 五郞左衞門眼病頻︀に相煩此刀所持の人は必目を煩之由風聞候熱田へまいらせられ可然と皆人每に異見候依之熱田大明神︀へ進納候てより即時に目もよく罷成候也
【首(六)
大柿之城へ後卷之事】霜月上旬 大柿の城近〳〵と取客齋藤山城道三攻寄の由注進切々也於其儀は可打立之由にて
霜月十七日 織田備後守殿後卷として又憑み勢をさせられ木曾川飛彈川大河舟渡しをこさせられ美濃國へ御亂入竹か鼻放火候てあかなべ口へ御働候て所〳〵に被㆑揚㆑烟候間道三致㆓仰天㆒虎口を
【首(七)
上總總介形儀之事】霜月廿日此留守に尾州の內 淸洲衆備後守殿古渡新城へ人數を出し町口放火候て御顏の色を立られ候如此候間備後守御歸陣也是より及㆓鉾楯㆒候へキ 平手中務丞 淸洲のおとな衆 坂井大膳坂井甚助河尻與一とて在之此衆へ無事の異見數通候へとも平手扱不㆓相調㆒翌年秋の末互に屈睦して無事也其時平手大膳甚介河尻かたへ和睦珍重の由候て書札を遣其端書に古歌一首在之
袖ひちて結ひし水のこほれるを春立けふの風や解らんと候へつるを覺候か樣に平手中務は借染にも物每に花奢成仁にて候へし去而 平手中務才覺にて 織田三郞信長を齋藤山城道三聟に取結道三か息女尾州へ呼取候キ 然間何方も靜論也信長十六七八まては別の御遊は無御座馬を朝夕御稽古又三月より九月まては川に入水練︀の御達者︀也其折節︀竹鎗にて扣合御覽し兎角鎗はみしかく候ては惡候はんと被仰候て三間柄三間々中柄なとにさせられ其比の御形儀明衣の袖をはつし半袴ひうち袋色〳〵餘多付させられ御髮はちやせんにくれなゐ糸もゑき糸にて卷立ゆわせられ大刀朱ざやをさゝせられ悉朱武者︀に【 NDLJP:上8】被仰付 南川大介めしよせられ御弓御稽古橋本一巴師匠として鉄炮御稽古平田三位不斷被召寄兵法御稽古御鷹野等也 爰
一去程に備後殿
【首(八)
犬山謀叛被企之事】一正月十七日 上郡、犬山、樂田より人數を出しかすか井原をかけ通龍泉寺の下柏井口へ相働所〳〵に擧烟候卽時に末盛より、備後殿御人數かけ付取合及㆓一戰㆒切崩し數十人討とりかそか井原を犬山がくでん衆逃くづれ候何者︀の云爲哉覽 落書に云
やりなはを引すりなからひろき野を遠はえしてぞにくる犬山、と書て所〳〵に立置候らひし備後殿御舍弟 織田孫三郞殿一段武篇者︀也 是は守山と云所に御居城候也
【首(九)
備後守病死之事】一備後守殿疫癘被㆑成㆓御惱㆒樣々祈︀禱雖御療治候無御平愈 終 三月三日御年四十二と申に御遷化生死無常の世の習悲哉颯〳〵
信長御燒香に御出其時信長公御仕立長つかの大刀わきさしを三五なわにてまかせられ髮はちやせんに卷立袴もめし候はて佛前へ御出有て抹香をくはつと御つかみ候て佛前へ投懸御歸 御舍弟勘十郞は折目高成肩灰袴めし候て有へき如くの御沙汰也 三郞信長公を例の大うつけよと執〳〵評判候し也其中に筑紫の客僧︀一人あれこそ國は持人よと申たる由也
一末盛の城勘十郞公へ參り 柴田權六佐久間次右衞門此外歴〳〵相添御讓也
一平手中務丞子息、一男五郞右衞門、二男監物、三男甚左衞門とて兄弟三人在之總領の平手五郞右衞門能駿馬を所持候三郞信長公御所望候處にくふりを申某は武者︀を仕候間御免候へと申候て進上不申候信長公御遺恨不淺度々思食あたらせられ主從不和と成也 三郞信長公は上總介信長と自官に任せられ候也
一去程に 平手中務丞上總介信長公實目に無御座樣体をくやみ守立て無驗候へは存命候ても無詮事と申候て腹を切相果候
【首(十)
山城道三と信長御參會之事】一四月下旬の事候齋藤山城道三富田の寺內正德寺まて可罷出候間織田上總介殿も是まて御出候はゝ可爲就着候對面有度之趣申越候此子細は此比上總介を偏執候て聟殿は大だわけにて候と道三前にて口々に申候キ左樣に人々申候時はたわけにてはなく候とて山城連々申候キ見參候て善惡を見候はん爲と聞へ候上總介公無㆓御用捨㆒被成御請木曾川飛彈川大河舟渡し打越御出候富田と申所は在家七百間在之富貴之所也大坂より代坊主を入置美濃尾張之判形を取候て免︀許の地也 齋藤山城道三存分には實目に無人之由取沙汰候間仰天させ候て笑はせ候はんとの巧にて古老の者︀七八百折目高成肩衣袴衣裝公道成仕立にて正德寺角堂の緣に並居させ其まへを上總介御通候樣に搆て先山城道三は町末の小家に忍居て信長公の御出の樣体を見申候其時信長の御仕立髮はちやせんに遊しもゑきの平打にてちやせんの髮を卷立ゆかたひちの袖をはづしのし付の大刀わきさし二ツなから長つかにみごなわにてまかせふとき苧なわ【 NDLJP:上9】うてぬきにさせられ御腰のまはりには猿つかひの樣に火爆袋ひようたん七ツ八ツ付させられ虎革豹草四ツかわりの半袴とめし御伴衆七八百甍を並
一御ぐし折曲は一世の始にゆわせられ
一何染被置候知人なきかちんの長袴めし
一ちいさ刀是も人よ知らせす拵をかせられ候をさゝせられ御出立を御家中の衆見申候て去而は此比たわけを態御作候よと肝を消各次第〳〵に斟酌仕候也御堂へする〳〵と御出有て綠の御上り候の處に 春日丹後 堀田道空さし向はやく被成御出候と申候へとも知らぬ顏にて諸︀侍居なかれたる前をする〳〵 御通り候て綠の柱にもたれて御座候暫く候て屏風を推のけて道三被出候又是も知らぬかほにても座候を堀田道空さしより是そ山城殿にて御座候と申時であるかと被仰候て敷居より內へ御入候て道三に御禮ありて其まゝ御座敷に御直り候し也去て道空御湯付を上申候互に御盃參り道三に御對面無㆓殘所㆒御仕合也附子をかみたる風情にて又やかて可參會と申罷立候也 廿町許御見送候其時美濃衆の鎗はみじかくこなたの鎗は長く扣立候て參らるゝを道三見申候て興をさましたる有樣にて有無を申さす罷歸候途中あかなへと申所にて猪︀子兵介山城道三に申樣は何と見申候ても上總介はたはけにて候と申候時道三申樣にされは無念成事候山城か子共たわけか門外に馬を可繫事案の內にて候と計申候自今已後道三か前にてたわけ人と云事申人無之
【首(十一)
三ノ山赤塜合戰之事】 天文貳十貳年癸丑四月十七日
織田上總介信長公 十九の御年の事候鳴海︀之城主山口左馬助子息九郞二郞廿年父子織田備後守殿被懸御目候處御遷化候へは無程企㆓謀叛㆒駿河衆を引入尾州之內へ亂入沙汰之限の次第也
一鳴海︀之城には子息山口九郞二郞を入置
一笠寺に取出要害を搆 かづら山岡部五郞兵衞三浦左馬助飯︀尾豐前守淺井小四郞五人在城也
一中村の在所を拵父山口左馬助楯籠 か樣に候處 四月十七日
一織田上總介信長公 十九の御年人數八百計よて御發足中根村をかけ通小鳴海︀へ被移三の山へ御あかり候之處
一御敵山口九郞二郞 廿の年 三の山の十五町東なるみより北亦坂の郷へはなるみより十五六町有九郞二郞人數千五百計にて赤塜へかけ出候 先手あし轉淸水又十郞柘植宗十郞中村與八郞萩原助十郞成田彌六成田助四郞芝山甚太郞中島又二郞祖︀父江久介橫江孫八あら川又藏 是らを先として赤塜へ移り候
一上總介信長 三の山より此よしを御覧し則あか塜へ達人數よせられ候 御さき手あしかる衆 あら川與十郞あら川喜右衞門蜂屋般若介長谷川挨介內藤勝分靑山藤六戶田宗二郞賀藤助丞 敵あひ五間六けん隔候時究竟之射手共互に矢をはなつ處あら川貞十郞見上の下を篦ふかに射られて落馬したる處をかかり來て敵かたへすねを取て引も有のし付のつかのかたを引も有又こなたよりかしらと簡躰引合其時與十郞さしたるのし付長さ一間ひろさは五六寸候つる由也さやのかたをこなたへ引終にのし付頸筒躰共に引勝也巳の刻より午の刻迄みたれあひて扣合ては退又まけしおとらしどかゝつては扣台〳〵鎗下にて 敵方討死 萩原助十郞中島又二郞祖︀父江久介橫江係八水越助十郞あまり手近く候間頸は互に取【 NDLJP:上10】候はす
一上總介信長公衆討死及三十騎也
一あら川又藏こなたへ生捕 一赤川平七敵かたへ生捕候し也入亂れて火花をちらし相戰四間五間をへたて折敷て數刻の戰に九郞二郞はうわやり也其比うわやり下鎗と云事有いつれもみしりかへしの事なれは互にたるみはなかりけり折立ての事にて馬共は皆敵陣へかけ入也是又少もちかひなくかへし進上候也いけとりもかへ〳〵也去て其日御歸陣候也
【首(十二)
深田松葉両城手かはり之事】一八月十五日に淸洲より 坂井大膳坂井甚介河尻與一織田三位申談松葉の城へ懸入織田伊賀守人質を取同松葉の並に
一深田と云所に織田右衞門尉居城是又押並て両城同前也人質を執堅御敵の色を立られ候
一織田上總介信長御年十九の暮八月此由をきかせられ八月十六日拂曉に那古野を御立なされ稻庭地の川端迄御出勢守山より織田孫三郞殿懸付させられ松葉口三本木口淸洲口三方へ手分を仰付られいなばぢの川をこし上總介殿孫三郞殿一手に成海︀津口へ御かゝり候
一淸洲より三十町計踏出し海︀津と申村へ移り候
信長八月十六日辰刻東へ向てかゝり合數刻火花をちらし相戰孫三郞殿手前にて小姓立の赤瀬淸六とて數度致武篇おほえの仁体爭㆑先坂井甚介に渡合散〳〵に暫相戰討死終に淸洲衆切負片長
坂井甚介討死頸は (中條小一郞柴田權六)相討也 此外討死 坂井喜左衞門黑部源介野村 海︀老半兵衞乾丹波守山口勘兵衞堤伊豫初として歴々五十騎計枕をならへて討死
一松葉口廿町計取出惣搆を相拘被追入眞島の大門崎つまりにて相支辰刻より午刻迄取合數刻之矢軍に手員數多出來無人に成引退所にて 赤林孫七土藏彌介足立淸六うたせ本城へ取入也
一深田口之事三十町計ふみ出し三本木の町を相抅られ候要害無之所候之間卽時に被追崩 伊東彌三郞小坂井久藏初として究竟の侍三十余人討死依之深田の城松葉の城兩城へ御人數被寄候降參申相渡淸洲へ一手につほみ候 上總介信長是より淸洲を推詰田畠薙せられ御取合初る也
【首(十三)
簗田次右衞門御忠節︀之事】一去程に武衞樣の臣下に簗田彌次右工門とて一僕の人有面目巧にて知行過分に取大名になられ候子細は淸洲に那古野彌五郞とて十六七若年の人數三百計持たる人あり色々歎き候て若衆かたの知音を仕り淸洲を引わり上總介殿の御身方候て御知行御取候へと時々宥申家老の者︀共にも申きかせ耽㆑欲尤と各同事候然間彌次右衞門上總介殿へ參御忠節︀可仕之趣內々申上に付て御滿足不斜或時上總介殿御人淸洲へ引入町を燒拂生城に仕候信長も御馬を被寄候へとも城中堅固候間御人數被打納武衞樣も城中に御座候然間透と御覧し可被乘取御巧之由申に付て淸州の城外輪より城中を大事と用心迷惑せられ候
【首(十四)
武衞樣御生害之事】一七月十二日 若武衞樣御伴申究竟の若侍悉川狩に被罷出內には老者︀の仁躰鏡少〳〵相殘誰〻在〻と指折見申坂井大膳河尻左馬丞織田三位談合を究今こそ能折節︀成と曈と四方より押寄御殿を取卷面
【首(十五)
柴田権六中市塲合戰之事】一七月十八日 柴田權六淸洲へ出勢 あしかる衆 安孫子右京亮藤江九藏太田又助木村源五芝崎孫三山田七郞五郞此等として三王口にて取合追入られ乞食村にて相支不叶誓願寺前にて答候へ共終に町口大堀之內へ被追入 河尻左馬丞織田三位原殿雜賀殿切てかゝり二三間扣立候へとも敵之餘は長くこなたの鎗はみしかくつき立られ雖然一足不㆑去に討死の衆河尻左馬丞織田三位雜賀修理原殿八板
【首(十六)
村木ノ取出被攻之事】一去程に駿河衆岡崎に在陣候て鴨原の山岡 搆攻干乘取岡崎より持つゝけ是を根城にして 小河之 水野金吾搆へ差向 村木と云所駿河より丈夫に取出を相搆駿河衆楯籠候 並寺本之城も人質出し駿河へ荷擔仕御敵に罷成小河への通路取切候爲㆓御後巻㆒織田上總介信長可爲御發足之旨候併御敵淸洲より定而御留守に那古野へ取懸町を放火させ候ては如何と思食信長の御舅にて候齋藤山城道三かたへ番手の人數を一勢乞に被遣候道三かたより 正月十八日那古野留守居として安東伊賀守大將にて人數千計田宮 甲山 安齋 熊澤 物取新五此等を相加見及樣体日々注進候へと申付同事に 正月廿日尾州へ着越候へき后城那古野近所志賀田幡両鄕に陣取をかせられ 廿日に陣取御見舞として信長御出安東伊賀に一禮被仰翌日御出陣候はん之處
【※ 正月廿四日弘治二年也】一正月廿四日拂曉に出させられ駿河衆楯籠候村木の城へ取懸攻させられ北は節︀所手あき也東大手西搦手也南は大堀霞計かめ腹にほり上丈夫に搆い上總介信長南のかた攻にくき所を御請取候て御人數付られ若武者︀其子㆑劣
一正月廿六日安東伊賀守陣所へ信長御出候て今度之御禮被仰廿七日美濃衆歸陣 安藤伊賀守今度之御禮 【※ 憐ハ隣カ】之趣難︀風渡海︀の樣体村木攻られたる仕合慇に道三に一々物語申候處に山城申樣にすさましき男憐にはいや成人にて候よと申たる由也
【首(十七)
織田喜六郞殿事御生害】一淸洲の城守護代織田彥五郞殿とて在之領在之坂井大廳は小守護代也 坂井甚介河尻左馬丞織田三位歴〻討死にて大膳一人しては難︀抱之間此上は織田孫三郞殿を憑入の間力を添候て彥五郞殿と孫三郞殿両守護代に御成候へと懇望被申候之處坂井大膳好の如くとて表裏有間敷之旨七枚起請を大膳かたへつかはし相調候
一四月十九日 守山の織田孫三郞殿淸洲の城南矢藏へ御移表向は如此にてないしんは信長と被仰談淸洲宥取可被進の間尾州下郡四郡之內に於多井川とて大かたは此川を限て之事也 孫三郞殿へ渡し參らせられ候へと御約諾の㧞公事也 此孫三郞殿と申は信長の伯父にて候川西川東と云は尾張半國之內下郡二郡二郡ツヽとの約束にて候也
一四月廿日 坂井大膳御禮に南やくらへ御禮に參り候はゝ可被成御生害と人數を伏置被㆓相待㆒之處城中迄參り冷しきけしきとみて風とくり逃去候て直に駿河へ罷越今川義元を憑み在國也守護代織田彥五郞殿を推寄腹をきらせ淸洲之城乘取上總介信長へ渡し被進孫三郞殿は那古野之城へ御移
其年の霜月廿六日不慮之仕合出來して孫三郞殿御迂化忽誓紙之御罸天道恐哉トな申らし候へき併上總介政御果報之故也
【首(十八)
勘十郞殿林柴田御敵之事】一六月廿六日 守山の城主織田孫十郞殿龍泉寺の下松川渡にて若侍共川狩に打入て居ます所を勘十郞殿御舍弟喜六郞殿馬一騎にて御通り候處を馬鹿者︀乘打を仕候と申候湖賀才藏ト申者︀弓を追取矢を射懸候へは時刻到來して其矢にあたり馬上より落させ賜ふ孫十郞殿を初として川よりあかりて是を御覽すれは上總介殿御舍弟喜六郞殿也御歲の齡十五六にして御
一上總介信長も淸洲より三里一騎かけに一時に懸させられ守山入口矢田川にても御馬の口を洗はせられ候處犬飼︀內藏來り候て言上孫十郞は直に何く共知らす懸落候て城には誰も無御座候町は悉勘十郞殿放火なされ候と申上候爰にて信長御諚には我々の弟なとゝ云物か人をもめしつれ候はて一僕のもの〻如く馬一騎にて懸まいりし事沙汰の限比興成仕立也譬存生に候共向後御許容なされ間敷と被仰是より淸洲へ御歸
去程に信長は朝夕御馬をせめさせられ候間今度も上下あらくめし候へともこたへ候て不苦候余仁の馬共は飼︀つめ候て常に乘事稀成に依て究竟の名馬とも三里の片道をさへ運かね息を仕候て途中にて山田治郞左衞門馬を初として橫死候て迷惑せられ候
一守山の城孫十郞殿年寄衆として相抱候楯籠人數角田新五高橋與四郞喜多野下野
一去程に信長公の一おとな林佐渡守其弟林美作守柴田權六申合三人として勘十郞殿を守立候はんとて旣及逆心の由風說執々也信長公何と思食たる事哉覽
五月廿六日に信長と安房殿と唯二人淸洲より那古野の城林佐渡所へ御出候能仕合にて候間御腹めさせ候はんと弟の美作守申候を林佐渡守餘におもはゆく存知候歟三代相恩の主君をおめ〳〵と爰にて手に懸討可申事天道おそろしく候とても可被及御迷惑の間今は御腹めさせましきと申候て御命を助ケ信長を歸し申候一両日過候てより御敵の色を立林與力のあらこの城勢田と淸洲の間をとり切御敵に成こめのゝ城大脇の城淸須となこ屋の間に有是も林與力にて候間一味に御敵仕候
一是は守山城中の事坂井喜左衞門子息孫平次を安房殿若衆にさせられ孫平次無雙出頭にて候爰にて角田新五忠節︀を仕候へとも無程角田を蔑如になされ候事無念に存知守山城中塀棚損し候懸直し候と申候て普請半に土居の崩れたる所より人數を引入安房殿に御腹めさせ候て岩崎丹羽︀源六者︀共を引組城を堅固に相拘候ケ樣に移かはり
一織田孫十郞殿久〳〵牢籠なされ候を不便に思食御赦免︀候て守山の城孫十郞殿へ被下候後に河內長嶋にて討死候也
一林兄弟か才覺にて御兄弟の御中不和となる也信長御臺所入之御知行篠木三鄕押領定而川際に取出を搆川東之御知行可相押候之間其以前に此方より御取出可被仰付之由にて八月廿二日お多井川をこし名塜と云所に御取出被仰付佐久間大學入をかれ候翌日廿三日雨降川之表十分に水出候其上御取出御普請無首尾以前と存知候歟柴田權六人數千計林美作勢衆七百計引卒して罷出候
弘冶二年丙辰八月廿四日
信長も淸洲より人數を被出川をこし先手あし輕に取合候柴田權六千計にていなふの村はつれの海︀道を西向にかゝり來林美作守は南田方より人數七百計にて北向に信長へ向て掛り來上總介殿は村はつれゟ六七段きり引しさり御人數備られ信長の御人數七百には不可過と申候東の藪際に御居陣也
八月廿四日午剋辰己へ向て先柴田權六かたへ向て過半かゝり給ふ散々に扣合山田治部左衞門討死頸は柴田權六取候て手を負候てのがれ候也佐々孫介其外究竟之者︀共うたれ信長の御前へ迯かゝり其時上總介殿御手前には織田勝左衞門織田造酒丞森三左衞門御鑓持の御中間衆四十計在之造酒丞三左衞門兩人はきよす衆土田の大原とつき伏もみ合て頸を奪い處へ相かゝりに懸り合戰所に爰にて上總介殿大音聲を上御怒なされ候を見申さすかに御內之者︀共候間御威光に恐れ立とゝまり終に迯崩れ候き此時造酒丞下人禪門と云者︀ かうべ平四郞を切倒し造酒丞に頸を御取候へと申候へはいくらも切倒し置候へと申され候て先を心かけ御通候つる 信長は南へ向て林美作口へかゝり給ふ處に黒田半平と林美作數剋切合半平左之手を打落され互に息を繼居申候處へ上總介信長美作にかゝり合給ふ其時織田勝左衞門御小【 NDLJP:上14】人のぐちう杉若働よく候に依て後に杉左衞門になされ候信長林美作をつき臥頸をとらせられ被㆑散㆓御無念㆒両共以て追崩し去而手〻に馬を引寄候打乘て追付〳〵頸を取來其日淸洲へ御歸陣翌日頸御實撿候へは
林美作頸は 織田上總介信長討とり給ふ 錄田助丞 津田左馬丞討とる 富野左京進 討とる 山口又次郞 木全六郞三郞討とる 橋本十藏 佐久間大學討とる
初として歴々頸數四百五十余有是より後は那古野末盛籠城也此両城之間へ節︀々推入町口まて燒拂御手遣也信長之御袋樣未盛之城に御舍弟勘十郞殿と御一所に御座候に依て村井長門島田所之助兩人を淸洲より末盛へ被召寄御袋樣の御使として色々樣々御侘言にて御故免︀なされ勘十郞殿柴田權六津々木藏墨︀衣にて御袋樣御同道にて於淸洲御禮在之林佐渡守事是又被召出間敷事に候へとも先年御腹めさせ候刻を佐渡覺悟を以て申延候其子細を思食被出今度被成御宥免︀候也
【首(十九)
三郞五郞殿御謀叛之事】一上總介殿別服の御舍兄三郞五郞殿旣御謀叛思食立美濃國と被仰合候樣子は何時も御敵罷出候へは輕々と信長懸向はせられ候左樣に候時彼三郞五郞殿御出陣候へは淸洲町通を被成御通候必城に留主に被置候佐脇藤右衞門罷出馳走申候定て何もの如く可罷出候其時佐脇を生害させ付入に城を乘取相圖之煙を可揚候則美濃衆川をこし近々と可懸向候三郞五郞殿も人數被出御身方之樣にして及合戰候はゝ後切可被成と御巧にに仰合られ候美濃衆何〳〵よりうき〳〵と渡りいたりへ人數を誥候と注進有之爰にて信長御諚には去ては家中に謀叛有之と被思食佐脇城を一切不可出町人も物搆をよく城戶をさし堅信長御歸陣候迄人を不可入と仰られ候て懸出させられ御人數出候を三郞五郞殿きかせられ人數打ふるひ淸洲へ御出陣也三郞五郞殿御出と申候へとも入立候はす謀叛聞え候かと御不審に思食急早々御歸美濃衆も引取候キ 信長も御歸陣候也
一三郞五郞殿御敵の色を立させられ御取合半候御迷惑成時見次者︀は稀也ケ樣に攻一仁に形成候へとも究竟の度々の覺の侍衆七八百覺を並御座候之間及御合戰一度も不覺無之
【首(二十)
おとり御張行之事】 七月十八日おどりを御張行
一赤鬼 平手內胸衆 一黑鬼 淺井備中守衆 一餓鬼 瀧川左近衆
一地藏 織田太郞左衞門衆 辨慶に成候衆勝て器︀量成仁躰也
一前野但馬守 辨慶 一伊東夫兵衞 辨慶 一市橋傳左衞門 辨慶
一飯︀尾近江守 辨慶 一悅彌三郞 鷺になられ候一段似相申候也
一上總介殿は天人の御仕立に御成候て小鼓を遊し女おとりを被成候
津島にては堀田道空庭にて一おとり遊しそれより淸洲へ御歸也津鳥五ケ村の年寄共おとりの返しを仕候是又結搆無申計樣躰也淸洲へ至り候御前へめししかられ是はひようけたり又は似相たりなとゝそれそれあひ〳〵としほらしく一々御詞懸られ御國にて無冥加あをかせられ御茶を給候へと被下忝次第天の幸身を忘雖有皆感淚となかし被歸候キ
一熱田より一里東鳴海︀の城山口左馬助被入置候是は武篇者︀才覺の仁也旣企逆心駿河衆を引入ならひ大高の城沓懸の城両城も左馬助以調略乘取推並三金輪に三ケ所何方へも間は一里ツヽ也鳴海︀の城には駿河【 NDLJP:上15】より岡部五郞兵衞爲城代楯籠大高の城沓懸の城番手の人數多太〳〵と入置此後程在て山口左馬助子息九郞次郞父子駿州へ呼寄忠節︀の褒美は無して無情親子共に腹をきらせ候
一上總介信長尾張國半國者︀可爲御進退事に候へとも河內一郡は二の江の坊主服部左京進押領して不属御手に智多郡は駿河より亂入し殘て二郡の內も乱世の事候間慥に不隨御手此式候間萬御不如意千万也
【首(廿一)
天澤長老物かたり之事】去程に天澤と申候て天台宗の能化在一切經を二篇讀たる人にて候或時關東下の折節︀甲斐國にて武田信玄に一禮申候て罷通候へと奉行人申に付て御禮申候の處上かたはいつくそと先國を御尋にあり候尾張國の者︀と申上候郡を御尋候上總介殿居城淸洲より五十町東春日原のはつれ
【首(廿二)
六人衆と云事】 鷹野の時は廿人鳥見の衆と申事被申付二里三里御先へ罷參候てあそこの村爰の在所に鷹有鶴︀有と一人鳥に付置一人は注進申事候又六人衆と云事定られ
弓、三張の人數
淺野又右衞門 太田又介 堀田孫七 以上
鎗、三本人數
伊藤淸藏 城戶小左衞門 堀田左內 以上
此衆は御手まはりに在之也
一馬乘一人山口太郞兵衞と申者︀わらをあぶ付に仕候て鳥のまはりをそろり〳〵と乘まはし次第〳〵に近より信長は御鷹居給ひ鳥の見付候はぬ樣に馬の影にひつ付てちかより候し時はしり出御鷹を被出向待と云事を定是には鍬をもたせ農人の樣にまなびそら田をうたせ御鷹取付候てくみ合候を向待の者︀鳥を於さへ申候信長は達者︀候間度々おさへられ候と承及候信長の武者︀をしられ候事道理にて候よとぞふしをかみたる躰にて候間御いとまをと申候へはのほりにかならすと被仰龍立候つると天澤御雜談候つる御國の內へ義元引請られ候し間大事と御胸中に籠り候しと聞へ申候也
【首(廿三)
鳴海︀之城へ御取出之事】一鳴海︀の城南は黑末の川とて入海︀䀋の差引城下迄在之東へ谷合打續西又深田也北より東へは山つゝき也城より廿町隔てたんけと云古屋しき有是を御取出にかまへられ
水野帶刀 山口ゑびの丞 柘植玄蕃頭 眞木與十郞 眞木宗十郞 伴十左衞門尉
東に善照寺とて古跡在之御要害候て佐久間右衞門 舍弟左京助をかせられ南中島とて小村有御取出に被成 梶川平左衞門をかせられ
一黒未入海︀の向に なるみ大だか 間を取切御取出二ケ所被仰付【 NDLJP:上16】一丸根山には 佐久間大學をかせられ
一鷲津山には 織田玄蕃飯︀尾近江守父子入をかせられ候キ
【首(廿四)
今川義元討死之事】 天文廿一年壬子五月十七日
一今川義元沓懸へ參陣十八日夜に入大高の城へ兵粮入無助樣に十九日朝䀋の滿干を勘かへ取出を可拂之旨必定と相聞え候し由十八日夕日に及て佐久間大學織田玄蕃かたより御注進申上候處其夜の御はなし軍の行は努々無之色〻世間の御雜談迄にて旣及深更之間歸宅候へと御暇被下家老の衆申樣運の末には智慧の鏡も曇とは此節︀也と各嘲哢して被罷歸候如案夜明かたに佐久間大學織田玄蕃かたより早盤津山丸根山へ人數取かけ候由追〻御注進在之此時信長敦盛の舞を遊し候人間五十年下天の內をくらふれは夢幻の如く也一度生を得て滅せぬ者︀の有へきかとて螺ふけ具足よこせよと被仰御物具めされたちなから御食を參り御甲をめし候て御出陣被成其時の御伴には御小姓衆
岩室長門守 長谷川橋介 佐脇藤八 山口飛彈守 賀藤彌三郞
是等主從六騎あつた迄三里一時にかけさせられ辰剋に源太夫殿宮のまへより東を御覧し候へは驚津丸根落去と覺しくて煙上り候此時馬上六騎雜兵貳百計也濱手より御出候へは程近く候へとも䀋滿さし入御馬の通ひ是なく熱出よりかみ道をもみにもんで懸させられ先たんけの御取出へ御出候て夫より善照寺佐久間居陣の取出へ御出有て御人數立られ勢衆揃させられ樣躰御覽し
御敵今川義元は四万五千引卒しおけはさま山に人馬の休息在之
天文廾一壬子五月十九日 午剋成亥に向て人數を備鷺津丸根攻落滿足不可過之由にて謠を三番うたはせられたる由候今度家康は朱武者︀にて先懸をさせられ大高へ兵粮入鷲津丸根にて手を碎御辛勞なされたるに依て人馬の休息大高に居陣也信長善照寺へ御出を見申 佐々隼人正千秋四郞二首人數三百計にて義元へ向て足輕に罷出候へは曈とかゝり來て鎗下にて千秋四郞佐々隼人正初として五十騎計討死し是を見て義元か戈先には天魔鬼神︀も不可
前田又左衞門 毛利河內 毛利十郞 木下雅樂助 中川金右衞門 佐久間彌太郞 森小介 安食彌太郞 魚住隼人
右の衆手々に頸を取持被參候右の趣一々被仰聞山際迄御人數被寄候處俄
天文廿一年壬子五月十九日
旗本は是也是へ懸れと御下知在未刻束へ向てかゝり給ふ初は三百騎計眞丸になつて義元を圍み退けるか二三度四五度歸し合〳〵次第〳〵に無人に成て後には五十騎計に成たる也信長下立て若武者︀共に先を爭つき伏つき倒しいらつたる若もの共亂れかゝつてしのきをけつり鍔をわり火花をちらし火焰をふらす雖然敵身方の武者︀色は相まきれす爰にて御馬廻御小姓衆歴々手負死人不知員 服部小平太義元にかゝりあひ膝の口きられ倒伏毛利新介義元を伐臥頸をとる是偏に先年於淸洲の城武衞樣を悉攻殺︀候の時御舍弟を一人生捕助ケ被申候其冥加忽來て義兀の頸をとり給ふと人々風聞候也運の盡たる驗にやかけはさまと云所ははさまくてみ深田足入高みひきみ茂り節︀所と云事限なし深田へ迯入者︀は所をさらすはいづりまはるを若者︀とも追付〳〵二ツ三ツ宛手々に頸をとり持御前へ參り候頸は何れも淸洲にて御實撿と被仰出よしもとの頸を御覽し御滿足不斜もと御出之道を御歸陣候也
一山口左馬助同九郞二郞父子に信長公の御父織田備後守累年被懸御目鳴海︀在城不慮に御遷化候へは無程御厚恩を忘れ信長公へ敵對を含 今川義元へ爲忠節︀居城鳴海︀へ引入智多郡属㆓御手㆒其上愛智郡へ推入笠寺と云所要害を搆岡部五郞兵衞かつら山淺井小四郞飯︀尾豐前三浦左馬助在城鳴海︀には子息九郞二郞入置笠寺の並中村之鄕取出に搆山口左馬助居陣也如此重々忠節︀申之處に駿河へ左馬助九郞二郞兩人被召寄御褒美は聊無之無情無下〳〵と生害させられ候世者︀雖及于澆季日月未墮于地 今川義元山口左馬助か在所へきたり鳴海︀にて四萬五千の大軍を廉かしそれも不㆑立㆓御用㆒千が一の信長纔及二千㆒人數に被扣立迯死に相果られ淺猿數仕合因果歴然善惡二ツの道理天道恐敷候し也 山田新右衞門と云者︀本國駿河之者︀也義元別て被懸御目候討死之由承候て馬を乘歸し討死
爰に河內二の江の坊主うぐゐらの服部左京助義元へ手合として武者︀舟千艘計海︀上は蛛の子をちらすか如く大高の下黑末川口迄乘入候へとも別の働なく乘歸しもとりさまに熱田の湊へ舟を寄遠淺の所より下立て町口へ火を懸候はんと仕候を町人共よせ付て曈と懸出數十人討取問無㆑曲川內へ引取候キ
上總介信長は御馬の先に今川義元の餌をもたせられ御急なさるゝ程に日の內に淸洲へ御出有て翌日頸御實檢候し也頸數三千余あり然處義元のさゝれたる鞭ゆかけ持たる同朋下方九郞左衞門と申者︀生捕に仕進上候近比名譽仕し由にて御褒美御機嫌不斜
義元前後之始末申上類︀とも一々誰々と見知申名字を書付させられ彼同朋にはのし付之大刀わきさし被下其上十人之僧︀衆を御仕立にて義元之頸同朋に相添駿河へ送被遣候也淸洲より廿町南須賀口熱田へ參り候海︀道に義元塜とて築せられ吊の爲にとて千部經をよませ大卒都︀婆を立置候らひし今度分捕に義元不斷さゝれたる秘藏之名譽の左文字の刀めし上られ何ケ度もきらせられ信長不斷さゝせられ候也御手抦無申計次第也
去て鳴海︀の城に岡部五郞兵衞楯籠候降參申候間一命助被造大高城沓懸城池鯉鮒之城原
家康公岡崎の御城へ御引取之事】一家康は岡崎之城へ楯籠候居城也
【 NDLJP:上18】一翌年四月上旬三州梅︀ケ坪の城へ御手遣推詰麥苗薙せられ然て究竟の射手共罷出きひしく相文足輕合戰にて前野長兵衞討死候爰にて平井久右衞門よき矢を仕城中より褒美いたし矢を送り信長も御感なされ豹の皮の六うつほ蘆毛御馬被下面目至也野陣を懸させられ是より高橋郡御働端〳〵放火し推詰麥苗薙せられ爰にても矢軍有加治屋村燒拂野陣を懸られ翌日いぼの城是又御手遣麥苗薙せられ直に矢久佐の城へ御手遣麥苗薙せられ御歸陣
一上總介信長公の御舍舍弟勘十郞殿龍泉寺を城に被成御拵候上郡岩倉之織田伊勢守と被仰合信長の御臺所入篠木三郷能知行にて候足を押領候はんとの御巧にて候勘十郞殿御若衆に津々木藏人とて在之御家中の覺の侍共は皆津々木に被付候に乘て
弘治四年戊午霜月二日
河尻靑貝に被仰付後生害なされ候此忠節︀仕候に付て後に越前大國を柴田に被仰付候
【首(廿六)
丹羽︀兵藏御忠節︀之事】一去程に上總介殿御上洛の儀俄に被仰出降伴衆八十人の御書立にて被成御上京城都︀奈良堺御見物にて公方光源院義照へ御禮被仰御在京候キ爰を晴︀成と拵大のし付に車を懸て御伴衆皆のし付にて候也淸洲の那古野彌五郞內に丹羽︀兵藏とてこさかしき者︀有都︀へ罷上候處人躰と覺しき衆首〳〵五六人上下卅人計上洛候志那の渡りにて彼衆乘候舟に同船仕候何くの者︀と尋られ三川の國の者︀にて候尾張の國を罷通候とて
小池吉內
是等也夜るは伴の衆に粉れ近〳〵と引付樣子を聞に公方の御覺悟さへ參り候て其宿の者︀に被仰付候はゝ鉄炮にて打候はんには何の子細有間敷と申候急候間無程夜に入京着候て二條たこ藥師の邊に宿を取夜中の事に候之間其家の門柱左右にけつりかけを仕候てそれより上總殿御宿を尋申候へは室町通上京うら辻に御座候由予尋あたり御門を扣候へは御番を被居置候田舍ゟ御使に罷上候火急の用事に候金盛か蜂屋に御目にかゝり候はんと申候両人罷出對面候て右の樣子一々懇に申上候則御披露の處に 丹羽︀兵藏を被召寄宿を見置たるかと御諚に二條たこ藥師邊へ一所に入申候家宅門口にけつり懸を仕候て置申候間まかひ申間敷と言上候夫より御談合夜も明候右の美濃衆金森存知の衆候間早朝に彼私宅へ罷越候へと被仰付候 丹羽︀兵藏をめし列彼宿のうち屋へつつと入皆〳〵に對面候て夕ア貴方共上洛の事上總介殿も存知候之間去て參候信長へ御禮被申候へと金森申候令存知の由候つる色をかへ仰天限なし翌日美濃衆小川表へあかり候信長も裁賣より小川表御見物として御出候爰にて注對面候て御詞を懸られ候汝等を上總介か討手にのぼりたるとな若輩の奴原か進退にて信長を躵事蟷螂か斧と哉覽不實乍去爰にて可仕候哉と被仰懸候へは六人の衆難︀儀の仕合也京童二樣に褒貶也大將の詞には不似相と申者︀も在【 NDLJP:上19】亦若き人には似相たると申者︀も候へキ五三日過候て 上總介殿守山迄御下翌日雖雨降候拂曉に御立候てあひ谷よりはつふ峠越淸洲迄廿七里其日の寅刻に淸洲へ御參着也
【首(廿七)
蛇かゑ之事】一爰希異の事有尾州國中淸洲より五十町東佐々藏人佐居城比良の城の東北南へ長き大堤在之內西にあまか池とておそろしき
正月中旬安食村福︀德の鄕又左衞門と申者︀雨の降たる暮かたに堤を罷通候處ふとさは一かひ程も有へき黒き物同躰はに堤に候て首は堤をこし候て漸あまり池へ望み候人音を聞て首を上候つらは鹿のつらの如く也眼は星の如く光りかゝやく舌を出したるは紅の如くよて手をひらきたる如く也眼と舌との光りたる是を見て身の毛よだちおそろしさのまゝあとへ迯去候キ比良より大野木へまいり候て宿へ罷歸此由人に語る程に無隱 上總介殿被及聞召
正月下旬彼又左衞門をめしよせられ直に被成御尋翌日蛇がへと被仰出比良の鄕大野木村高田五鄕安食村味鏡村百姓共水かへつるべ鋤鍬持より候へと被仰出數百挺の釣瓶を立ならへあまか池四方より立渡り二時計かへさせられ候へとも池の內水七分計に成て何とかへ候へとも同篇也然處信長水中へ入蛇を可有御覽之由にて御脇指を御口にくわへられ池へ御入候て暫が程候てあかり給ふ中〳〵蛇と覺しき物は候はす
去程に身のひゑたる危事有子細は其比佐々藏佐 信長へ逆心之由風說在之依之此時は無正躰相煩候由にて不罷出定て信長小城には當城程之よき城なしと風聞候間此次てに御一覽候はんと被仰いて腹を御きらせ候はんと被存知候處家子郞黨長に井口太郞左衞門と申者︀在之於其儀は可被任置候信長を果し可や候如何となれは城を御覽し被成度と井口に可有御尋候其時我々申樣に是に舟御座候の間めされ候て先かけりを御覽し候て可然と可申候尤と御說候て御舟にめされ候時我々こしたかにはし折わきさしを投出し小者︀に渡し舟を漕出し可申候定て御小姓衆計めし候歟たとへは五人三人御年寄衆めし候共つがひを見申候てふところに小脇指をかくしをき信長樣を引よせたゝみかけてつきころしくんて川へ入參らせ候間可御心安候と申合たる由承候信長公御運のつよき御人にてあまか池より直に御蹄也惣別大將は萬事に御心を付られ御由斷有ましき御事にて候う也
【首(廿八)
火起請御取候事】一尾張國海︀東郡大屋と云里に織田造酒正家來甚兵衞と云庄屋候らひしならひ村一色と云所に左分と云者︀在之兩人別て知音之間也或時大屋之甚兵衞十二月中旬御年貢勘定に淸洲へ罷上候留守に一色村之左介甚兵衞宿へ夜討に入候女房おき合左介としがみ合刀のさやを取上候此事淸洲へ申上雙方公方へ言上也一色村之左介は當權 信長公之乳弟池田勝三郞被官也火起請に成候て三正社︀のまへにて奉行衆公事相手雙方より撿使を被出爰に天道恐敷事有子細は左介火起謂取損し候共其比池田勝三郞衆募權威候之間奪取成敗させ間數催にて候折節︀上總介信長御鷹野御歸に被成御立寄御覽し何事に弓鏈道具にて人多く候哉と被仰雙方之樣子きかせられ早此有樣一々御覽候て信長御機色かはり火起請候趣きこしめされ何程にかねをあかめてとらせたるそ元の如くかねを燒候御覽候はんと被仰かねよくあかめ申候て如此にしてとらせ申候の由言上候其時上總介殿御諚には我々火起請とりすまし候はゝ佐介を可被成御成敗之間其分心得候へと御意候て燒たる
【首(廿九)
土岐頼藝公之事】一齋藤山城道三は元來山城國西岡の松波と云者︀也一年下國 候て美濃國 長井藤左衞門を憑み扶持を請余力をも付られ候折節︀無㆑情主の頸を切長井新九郞と名乘一族同名共發㆓野心㆒取合半之刻土岐賴藝公大桑に御在城候を長井新九郞奉憑候之處無別條御荷擔候其故を以て達㆓存分㆒其後土岐殿御子息次郞殿八郞殿とて御兄弟在之忝も次郞殿を聟に取宥申
父土岐賴藝公大桑に御座候を家老之者︀共に属託をとらせ大桑を追出し候それより土岐殿は尾州へ御出候て信長之父の織田彈正忠を憑みなされ候爰にて何者︀の云爲哉落書に云「主をきり聟をころすは身のおはりむかしはおさたいまは山しろ」と侍り七まかり百曲に立置候らひし蒙㆑恩不㆑知㆑恩、樹鳥似㆑枯㆑枝、山城道三は小科の輩をも牛裂にし或釜を居置其女房や親兄弟に火をたかせ人を煎殺︀し事冷敷成敗也山城子息一男新九郞二男孫四郞三男喜平次兄弟三人在之父子四人共に稻葉山に居城也惣別人之總領たる者︀は必しも心か緩〳〵として隱當成物候道三は智慧の鏡も曇り新九郞は耄者︀と計心得て弟二人を利口の者︀哉と崇敬して三男春平次を一色右兵衞大輔になし乍居官を進められケ樣に候間第共勝に乘て奢蔑如に持扱候新九郞外見無念に存知 十月十三日より搆作病奧へ引入平臥候へキ箱月廿二日山城道三山下の私宅へ下られ候爰にて伯父の長井隼人正を使にて弟二人のかたへ申遣趣旣急病時を期事に候對面候て一言申度事候入來候へかしと申送候長井隼人正巧を廻し異見申處に同心にて則二人の弟共新九郞所へ罷來也長井隼人正次の間に刀を置是を見て兄弟の者︀も同如く次の間に刀とをく奧の間へ入也態盃をと候て振舞を出し日根野備中名譽の物切のふと刀御手棒兼常拔持上座に候へつる孫四郞を切臥又右兵衞大輔を切殺︀し年來の開㆓愁眉㆒則山下に在之山城道三かたへ右趣申遣處致仰天消肝無限爰にて螺を立人數を寄四方町末より火をかけ悉放火し井口を生か城になし奈賀良の川を越山縣と云山中へ引退明る年四月十八日鶴︀山へ取上國中を見下し居陣也信長も道三聟にて候間爲手合木曾川飛彈川舟渡大河打越大良の戶島東藏坊搆に至て御在陣錢龜爰もかしこも錢を布たる如く也
【首(三十)山城道三討死之事】四月廿日辰剋成亥へ向て新九郞義龍人數を出し候道三も鶴︀山をおり下り奈加良川端迄人數を被出候一番合戰に竹腰道塵六百計眞丸成て中の渡りを打越山城道三の幡元へ切かゝり散々に入みたれ相戰終に竹腰道塵合戰に切負山城道三御腰を討とり床木に腰を懸ほろをゆすり滿足候處二番鑓に新九郞義龍多人數瞳と川を越互に人數立備候 義龍備の中より武者︀一騎長屋甚右衞門と云者︀進懸る又山城人數の內より柴田角內と云者︀唯一騎進出長屋に渡し合眞中にて相戰勝負を决し柴田角內晴︀かましき高名也双方よりかゝり合入亂れ火花とちらし相戰しの木をけつり鍔をわり爰かしこにて思ひ〳〵の働在長井忠左衞門道三に渡し合打太刀を推上むすと懷付山城を生捕に仕らんと云所へあら武者︀の小眞木源太走來山城か
【 NDLJP:上21】【首(卅一)
信長太良より御歸陣之事】今の新九郞義龍は不孝重罪恥辱と成也軍終頸實撿して信長御陣所大良口へ人數を出し候則大良より三十町計懸出および河原にて取合足輕合戰候て
山口取手介 討死 土方喜三郞 討死 森三左衞門 千石又一に渡し合馬上にて切合三左衞門䏿の口きられ引退
山城も合戰に切負討死の由候間大良頃本陣迄引入也爰にて大河隔事候間雜人牛馬悉退させられ殿は信長させらるへき山にて惣人數こさせられ上總介殿めし候御舟一艘殘し置おの〳〵打越は處馬武者︀少〻川はたまて懸來候其時信長鉄炮をうたせられ是ゟ近〳〵とは不參去て御舟にめされ御こし也然處尾張國半國の主織田伊勢守濃州の義龍と申合御敵の色を立信長の舘淸洲の近所下の鄕と云村放火の由追々注進在之御無念に思食直に岩倉口へ御手遣候て岩倉近邊の知行所燒拂其日御人數御引如此候間下郡半國も過半御敵に成也
一淸洲の並三十町隔おり津の鄕に正眼寺とて會下寺有可然搆之地也上郡岩倉より取出に可仕之由風說在之依之淸洲之町人共かり出し正眼寺之數を切拂候はん之由にて御人數被出候へは町人共かすへ見申候へは馬上八十三騎ならては無御座候と申候御敵方より人數を出したん原野に三千計備候其時信長かけまはし町人共に竹やりをもたせ御後をくろめさせられ候て足輕を出しあひしらひ給ふ去て互に御人數被打納ケ樣に取合半之內
【首(卅二)
武衞樣ト吉良殿ト御參會之事】一四月上旬三川國吉良殿と 武衞樣御無事御參會之扱駿河より吉良殿を取持相調候て武衞樣御伴上總介殿御出陣三州之內於上野原互人數立備其間一町五段には過へからす不及申一方には武衞樣一方には吉良殿床木に腰をかけ御位のあらそいと相聞十足計宛雙方より眞中へ被運出別の御品も無御座又御本座に御直り候也去てそれより御人數御引取候也
一武衞樣國主と崇申され淸洲の城渡し進せられ信長は北屋敷へ御隱居候し也
【首(卅三)
吉良石橋武衞三人御國追出之事】一尾張國端海︀手へ付て石橋殿御座所服部左京助駿河衆を海︀上より引入吉良石橋武衞被仰談御謀叛半之刻家臣之內より漏聞則御兩三人御國追出申され候し也
【首(卅四)
浮野合戰之事】一七月十二日 淸洲より岩倉へは三十町に不可過此表節︀所たるに依て三里上岩倉の後へまはり足塲の能方より浮野と云所に御人數被備足輕かけられ候へは三千計うき〳〵と罷出相支候
一七月十二日午剋辰己へ向て切かゝり數剋相戰追崩し爰に淺野ト云村に林彌七郞と申者︀無隱弓達者︀之仁躰也弓を持罷退候處へ橋本一巴鉄炮の名仁渡し合連々の知音たるに依て林彌七郞一巴に詞をかけ候たすけましきと被申候心得候と申候てあいかの四寸計在之根をしすけたる矢をはめて立かへり候て脇の下へふか〳〵と射立候もとより一巴も二ツ玉をこみ人たるつゝをさしあてゝはなし候へは倒臥けり然る處を信長の御小姓衆佐脇藤八走懸り林か頸をうたんとする處を乍居大刀を拔持佐脇藤八か左の肘を小手くはへに打落すかゝり向て終に頸を取林彌七郞弓と太刀との働無比類︀仕立也去て其日淸洲へ御人數被打納翌日頸御實撿究竟之侍頸かす千貳百五十余有
【首(卅五)岩倉落城之事】一或時岩倉を推詰町を放火し生か城になされ四方し〻垣二重三重丈夫に仰付られ廻番を堅二三ケ月近陣にとりより火矢鉄炮を射入樣々攻させられ越訴難︀拘に付て渡し進上候てちり〳〵思〳〵罷退其後岩倉之城磁却させられ候て淸洲に至て御居城候也
【 NDLJP:上22】【首(卅六)
もりべ合戰之事】一五月十三日 木曾川飛彈川之大河舟渡し三つこさせられ西美濃へ御働其日はかち村に御陣取翌日十四日雖雨降候御敵洲の股より長井甲斐守日比野下野守大將として森邊口へ人數を出候信長與㆑天所之由御諚候てにれまたの川を越かけ向はせられ合戰に取むすひ鑓を打合數刻相戰鑓下にて長井甲斐守日比野下野初として百七十余人討せられ爰に哀成事有一年近江猿樂漫州へ參候其內に若衆二人候へつる一人は甲斐守一人は下野止置候へひし今度二人なから手と手を取合主從枕をならへ討死候
長井甲斐守 津嶋服部平左工門討とる 日比野下野守津嶋恒河久藏討とる
神︀戶將監 津嶋河村久五郞討とる 頸二ツ 前田又左衞門討とる
二ツ之內一人は日比野下野餘力足立六兵衞と云者︀也是は美濃國にて推出して頸取足立と云者︀也下野と一所に討死候也
此比蒙御勘氣前田又左衞門出頭無之義元合戰にも朝合戰に頸一ツ惣崩に頸二ツ取進上候へとも被召出候はす候つる此度前田又左衞門御赦免︀也
【首(卅七)
十四條合戰之事】一永祿四年辛酉五月上旬木曾川飛彈川大河打越西美濃へ御亂入在々所々放火にて其後洲股御要害丈夫に被仰付随居陣候之處五月廿三日井口より惣人數を出し十四條と云村に御敵人數を備候則洲股より懸付足輕共取合朝合戰に御身方瑞雲庵おとゝうたれ引退此競に御敵北かるみ迄とり出西向に備候信長懸まはし御覽し西かるみ村へ御移候て古宮の前に東向にさし向き人數備られ足輕懸引候て旣に夜に入御敵眞木村牛介先を仕かゝり來候を追立稻葉又右衞門を池田勝三郞佐々內藏佐兩人としてあひ討に討とる也夜合戰に罷成片〳〵はつき負逃去者︀も有又一方はつき立てかゝる者︀もあり敵陣夜の間に引取候也
信長は夜の明るまて御居陣也廿四日朝洲股へ御歸城也洲股御引拂被成
【首(卅八)
お久地惣搆破之事】一六月下旬於久地へ御手造御小姓衆先懸にて惣搆をもみ破り推入て散〳〵に數刻相戰十人計手負在之上總介殿御若衆にまいられ候若室長門かうかみをつかれて討死也無隱器︀用之仁也信長御惜大方ならす
【首(卅九)
二宮山御こしあるべき之事】一上總介信長寄特成御巧在之淸洲と云所は國中眞中にて富貴之地也或時御內衆悉被召列山中高山二の宮山へ御あかり被成此山にて御要害被仰付候はんと上意にて皆々家宅引越候へと御諚候て爰の嶺かしこの谷合を誰々こしらへ候へと御屋敷被下其日御歸又急御出有て彌右之趣御諚候此山中へ淸洲の家宅可引越事難儀之仕合成と上下迷惑大形ならす左候處後に小牧山へ御越候はんと被仰出候小眞木山へはふもとまて川つゝきにて資財雜具取候に自由之地にて候也曈と悅て罷越候し也是も始より被仰出候はゝ爰も迷惑可爲同前小眞木山並御敵城お久地と申候て廿町計隔て在之御要害ひた〳〵と出來候を見申候て御城下の事に候へは難︀拘存知渡し進上候て御敵城犬山へ一城に楯籠候也
【首(四十)
加治田之城を身方に參る事】一去程に美濃國御敵城宇留摩の城猿はみの城とて押並二ケ所犬山の川向に 在之是より五里與に山中北美濃之內加治田と云所に佐藤紀伊守子息右近右衞門と云て父子在之 或時崖良澤使として差越上總介信長公偏憑入之由丹羽︀五郞左衞門を以て言上候內々國之內に荷擔之者︀御所望に思食折節︀之事なれは御祝︀若不斜先兵粮調候て藏に入置候へと御諚候て黄金五十枚崖良澤に渡し被遣候
犬山両おとな御忠節︀之事】一或時犬山の家老 和田新介 是は黒田の城主也 中嶋豐後守 是はお久地の城主也此両人御忠節︀として丹羽︀五郞左衞門を以て申上引入生か城になし四方鹿垣二重三重丈夫に結まはし犬山取籠丹羽︀五郞左衞門警固にて候也
【 NDLJP:上23】【首(四十二)
濃州伊木山へ御上之事】一飛彈川を打越美濃國へ御亂入御敵城宇留摩之城主大澤次郞左衞門ならひ猿はみの城主多治見とて両城は飛彈川へ付て犬山の川向押並て持續在之十町十五町隔て伊木山とて高山あり此山へ取上御要害丈夫にこしらへ両城を見下し信長は居陣候し也うるまの城ちか〳〵と御在陣候間越訴とも難︀拘存知渡し進上候也
一猿はみの城飛驒川へ付て高山也大ぼて山とて猿はみの上には元茂りたる
【首(四十三)
堂洞取出被攻之事】一猿はみより三里奧に加治田之城とて在之城主は佐藤紀伊守子息右近右衞門とて父子御身方として居城候長井隼人正加治田へ差向廿五町隔堂洞と云所に取出を搆 岸勘解由左衞門多治見一黨を入置候去て長井隼人名にしおふ鍛冶の在所關と云所五十町隔詰陣に在之左候へは加治田及迷惑之間九月廿八日信長御馬を出され堂洞を取卷攻られ候三方谷にて東一方尾ツヽき也其日池田勝三風つよく吹也信長かけまはし御覽し御諚には塀きわへ詰候はゝ四方より續松とこしらへ持よつて可投入候旨被仰付候然而長井隼人後卷として堂洞取出之下廿五町山下まて懸來人數を備候へとも足輕をも不出信長は諸︀手に御人數被備攻させられ御諚の如くたえ松を打入二の丸を燒崩し候へは天主搆へ取入候を二の丸の入口おもてに高き家の上にて太田又助只壹人あかり默矢もなく射付候を信長條覽しきさじに見事を仕候と三度迄預御使御感有て御知行重て被下候えキ
午剋に取寄西刻迄攻させられ旣及薄暮河尻與兵衞天主搆へ乘入丹羽︀五郞左衞門つゝいて乘入處 岸勘解由左衞門多治見一黨働事不㆑成㆓大形㆒暫之戰に城中之人數乱て敵身方不見分大將分者︀皆討果し畢其夜は信長佐藤紀伊守佐藤右近右衞門両所へ御出候て御覽し則右近右衞門所に御泊父子感淚をなかし忝と申事中々難︀述詞次第也翌日廿九日山下の町にて頸御實撿なされ御歸陣之時 關口より長井隼人正井井口より龍奧懸出られ御敵人數三千余有 信長御人數は總七八百不可過之手負死人數多在之被退候所はひろ野也先御人數立られ候て手負之者︀雜人共を引退られ足輕を出すやうに何れも馬をのりまはしかる 〳〵引取てのかせられ候御敵ほいなき仕合と申たる之由候
【首(四十四)
いなは山御取候事】一四月上句 木曾川の大河打越美濃國加賀見野に御人數立られ御敵 井口より龍興人數罷出新加納の村を抅人數を備候其間節︀所にて馬の懸引ならさる間其日御歸陣候し也
一八月朔日 美濃三人衆稻葉伊豫守氏家卜全安東伊賀守申合候て信長公へ御身方に可參候間人質を御請取候へと申越候然間 村井民部丞嶋田所之助人質請取に西美濃へさし被遣未人質も不參候に俄に御人數出され井口山之つゝき瑞龍寺山へ懸上られ候是は如何に敵か味方かと申所に早町に火をかけ卽時に生か城に被成候其日以外風吹候 翌日御普請くはり被仰付四方鹿垣結まはし取籠をかせられ候左候處へ美濃三人衆も參り消肝後禮被申上候 信長は何事もケ樣に物輕に被成御沙汰候也
一八月十五日 色々降參候て飛彈川のつゝきよて候間舟にて川內長嶋へ 龍興退散去て美濃國一篇に被仰付尾張國小眞木山より濃州稻葉山へ御越也井口と申を今度改て岐阜と名付させられ明ル年之事
【首(四十五)公方樣御憑百ケ日の內に天下被仰付候事】一公方一乘院殿佐々木承禎︀を御憑候へとも無同心越前へ御成候て朝倉左京太夫義景を御憑候へとも御入洛御沙汰中々無之去て上總介信長を憑思食之旨細川兵部大輔和田伊賀守を以て上意候則越前へ信長より御迎を進上候て不經百ケ日被遂御本意被備征夷將軍御面目御手抦也
【 NDLJP:上24】去程に丹波國桑田郡穴太村のうち長谷の城と云を相抱候赤澤加賀守內藤備前守與力也一段之鷹數奇也或時自身關東へ罷下可然角鷹二連求罷上候刻尾州にて織田上總介信長へ二連之內何れにても一もと進上と申候へは志之程感悅至極候併天下御存知之砌被申請候間預置之由候て返し被下候此山京都︀にて物語候へは國を隔遠國よりの望不㆑實と申候て皆々笑申候然處不經十ケ年信長御入洛被成候希代不思儀之事共候也
【 NDLJP:上24】【巻一○卷之一 (永祿十一戊辰以來織田彈正忠信長公之御在世且記之)
】
【巻一(一)
公方樣御生害之事】永祿十一年戊辰以來織田彈正忠信長之御在世且記之
【巻一(二)
一乘院殿佐々木承禎︀朝倉御憑不叶事】然而二男御舍弟南都︀一乘院義昭當寺御相續之間對御身聊以野心無御座之旨三好修理太夫松永彈正かたより
公方樣無御料簡【巻一(三)
信長御憑御請之事】此上者︀織田上總介信長を偏被憑入度之趣被仰出旣隔國其上信長雖爲底弱之士天下之被㆑欲セ致忠功憚一命被成御請
【 NDLJP:上25】公方樣御成末席に鳥目千貫積せられ御太刀御鐙武具御馬色々進上申され其外諸︀侯之御衆是又御馳走不斜此上者︀片時も御入洛可有御急と思食
【巻一(四)
信長御入洛十余日之內に五畿內隣國被仰付被備征夷將軍之事】八月七日 江州佐和山へ信長被成御出上意之御使に使者︀を被相副佐々木左京太夫承禎︀御入浴之路次人質を出し馳走候へ之旨七ケ日御逗留候て樣々被仰含御本意一途之上天下所司代可被申付雖御堅約候不能許容不及是非此上者︀江州へ可被
九月七日に 公方樣へ御暇を申され江州一篇に討果し御迎を可進上之旨被仰上尾濃勢三四ケ國之軍兵を引卒し
九月七日に 打立平尾村御陣取
同八日に 江州高宮御着陣兩日被成御逗留人馬之休㆑息
十一日 愛智川近邊に野陣をかけさせられ信長懸まはし御覽しわき〳〵數ケ所の御敵城へは御手遣もなく佐々木父子三人被楯籠候觀昔寺並に箕作山へ
同十二日に かけ上させられ 佐久間右衞門 木下藤吉郞 丹羽︀五郞左衞門 淺井新八
被仰付箕作山之城攻させられ申剋ヨリ夜に入攻落乾
去程に去年美濃國大國をめしをかれ候間定而今度者︀美濃衆を手先へ
十三日に 觀音寺山乘取御上り候依之殘黨致降參候之間人質を執固元の如く被立置一國平均候者︀公方樣へ御堅約之爲御迎 不破河內
十四日に 濃州西庄立正寺へさしつかはされ
廿一日 旣被進御馬柏原上菩提院御着座
廿二日 桑實寺へ御成
廿四日 信長守山まて御働翌日志那勢田之舟さし相御逗留
廿六日 被成御渡海︀三井寺極樂院に被懸御陣諸︀勢大津馬塲松本陣取
廿七日 公方權御渡海︀にて同三井寺光淨院御陣宿
廿八日 信長東福︀寺へ被移御陣 柴田日向守 蜂屋兵庫頭 森三左衞門 坂井右近
此四人に先陣被仰付則かつら川打越御敵城 岩成主稅頭 楯籠正立寺表手遣御敵も足輕を出し候右四人之衆見合馬を乘込頸五十余討捕東福︀寺にて信長へ被懸御目
公方樣同日に淸水御動座
廿九日 靑龍寺表被寄御馬 寺尸寂照御陣取依之 岩成主稅順降參仕
晦日 山崎御着陣先陣は天神︀ノ馬塲陣取芥川に細川六郞殿 三好日向守備籠夜に入退散幷篠原右京亮
十月二日に 池田之城 筑後居城へ御取かけ 信長は北之山に御人數被備御寬候水野金吾內に無隱勇士梶川平左衞門とて在之幷御馬廻の內魚住隼人山田半兵衞是も無隱武篇者︀也両人爭先外搆乘込爰にて【 NDLJP:上26】押つおされつ暫之鬪に梶川平左衞門
進上申され今井宗久是又無署︀名物松嶋ノ壺幷絽鷗茄子進献往昔判官殿一谷鉄皆かカケ召れし時之御鐙進上申者︀も在之異國本朝之捧珍物 信長へ御禮可申上と芥川十四日御逗留之間門前成市事也十四日芥川より公方樣御歸洛 六條本國寺被成御座天下一同に開喜悅之眉訖 信長も被成御安堵之思當手之勢衆被召列直に淸水へ御出諸︀勢洛中へ入候ては下々不㆑届族も可在之哉之被加御思慮醫固ヲ洛中洛外へ被仰付
十月廿二日 御參內
【巻一(五)
觀世太夫御能仕之事】今度粉骨之面々見物可仕之旨 上意にて勸世太夫に御能を被仰付御能組わき弓八幡の
わき能 高砂 勸世左近太夫 今春大太夫 勸世小次郞 大つゝみ大藏二介 小皷勸世彥右衞門 笛ちようあひ 太鼓勸世又三郞
二獸之 御酌 大舘伊豫守 此時右之三使にて再徃御使在之 信長御前へ御祇候添も三献之上
公儀御酌にて御盃被下御鷹御腹卷御拜領面目次第不可過之
二番八島 大つゝみ深谷長介 小鼓幸五郞二郞
三献 御酌 一色式部少輔
三番 定家 四番 道成寺
信長之御鼓御所望候雖然
大鼓 大藏二介 小皷勸世右衞門 笛伊藤宗十郞
五番 呉羽︀ 御能過候て一座之者︀田樂かつら等迄 信長より御引手物被下其後
御憐感之儀を被思食御分國中に數多在之諸︀關諸︀役上させられ都︀鄙之貴賤一同に忝と拜し奉滿足仕候訖
十月廿四日 御歸國之御暇被仰上
【巻一(六)
信長御感狀御頂戴之事】廾五日に 御感狀其御文言
今度國々凶徒等不歷日不移時悉合退治之條武勇天下第一也當家再興不可過之彌國家之安治偏憑入之外無他尙藤孝惟政可申也
十月廿四日 御判
御父 織田彈正忠殿【 NDLJP:上27】 御追加
今度依大忠紋桐引兩筋遣候可㆑受㆓武功之力㆒祝︀儀也
十月廾四日 御判
御父 織田彈正忠殿
と被成下前代未聞御面目重疊難︀盡書詞
廾六日 江州守山迄御下
廿七日 柏原上菩提院御泊
(十月) 廿八日 濃州之內岐阜御歸城千秋萬歲珍重々々
【 NDLJP:上27】【巻二○卷之二 (永祿十二己巳)
】
【巻二(一)
六條合戰之事】永祿十二巳已
正月四日 三好三人衆幷齋藤右兵衞太輔龍興 長井隼人等南方之諸︀牢人を相催先懸の大將 藥師寺九郞左衞門 公方樣六條に御座候を取請門前燒拂旣寺中へ可乘入の行也
是は後卷かつら川表の事 細川兵部太輔三好左京太夫池田筑後池田せいひん 伊丹荒木茨木懸向かつら川邊にて御敵に取合則及一戰推つ出されつ黑煙立て相戰鑓下にて討取頸之注文 高安權頭 吉成勘介 同弟岩成彌介 林源太郞 市田鹿目介 是等を始として歴々討取右之趣 信長へ御注進
【巻二(二)
御後卷信長御入洛之事】正月六日 濃州岐阜に至て飛脚參着其節︀以外大雪也不移時日可有御入浴之旨相觸一騎懸に凌大雪中打、立早御馬にめし候つるが
【巻二(三)
公方御講御普請之事】永祿十二年己巳二月廿七日辰ノ一點御鍬初在之方に石垣両面に高く築上御大工奉行 村井民部 島田所之助被仰付洛中洛外の鍛冶番匠杣と召寄隣國隣鄕より材木をよせ夫々に奉行を付置無由斷候之間無程出來訖御殿の御家風尋常に縷金銀庭前に泉水遣水氣山を搆其上 細川殿御屋敷に藤戶石とて往古よりの大石は是を 庭庭に可被立置の由にて 信長御自身被成御越彼名石を絞錦を以てつゝませ色々花を以てかさり大綱餘多付させられ笛大鼓つゝみを以て囃し立 信長被成御下知即時に庭上へ御引付候幷東山慈照院殿御庭に一年被立置候九山八海︀と申候て都︀鄙に無隱名石御候是又被召寄 御庭に居させられ其外洛中洛外の名石名木を集眺望を被盡同馬塲には櫻をうへ號㆓櫻之馬塲ト㆒無㆓殘所㆒被仰付其上諸︀侯之御衆御搆ノ前後左右に思々の御普請歴々覺を並刷御安座御祝︀言之御太刀御馬御進上御前へ信長被召出忝も三献の上 公儀御酌に而御盃幷御剱色々御拜領御面目の次第申も愚候
【巻二(四)
御修理之事】今度隣國面々等長々在洛にて被盡粉骨信長其面々へ御禮被仰蹄國の御暇被下候し也
抑禁中御潑壞無正躰之間是又可被成御修理之旨 御奉行 日乘上人 村井民部少輔 被仰付候キ 【巻二(五)
名物被呂置之事】然而信長金銀米鐵御不足無之間此上者︀唐物天下之名物可被召置之由御諚候て先
上京大文字屋所持之 一初花 祐︀乘坊の 一ふじなすび 法王寺の 一竹ひしやく 池上如慶か 一かぶらなし 佐野 一馬の繪 江村 一もくそこ 〆
【巻二(六)
阿坂の城退散之事】五月十一日 濃州岐阜に至て御歸城也
八月廿日 勢州表御馬を被出其日桑名迄御出雲日御鷹つかはされ御逼留 廿二日白子觀音寺に御陣を懸られ 廿三日小御御着陣雨降御滯留 廿六日あざかの城木下藤吉郞先懸いたし攻られ候て堀きはへ詰よせ薄手をかふむり被罷退あら〳〵と攻られ難︀拘存知降參候て退散也 瀧川左近 人數入置是よりつき〳〵の小城へは御手遣もなく直に奧へ御通候て國司父子被楯籠候大河內の城とり誥信長懸廻し御覽し東の山に信長御陣を居させられ其夜
南の山に 織田上野守瀧川左近津田掃部稻葉伊豫池田勝三郞和田新介中島豐後進藤山城後藤喜三郞蒲生右兵衞太輔永原筑前永田刑部少輔靑地駿河山岡美作山岡玉林丹羽︀五郞左衞門 置れ 西に 木下藤吉郞氏家卜全伊賀伊賀守飯︀沼勘半佐久間右衞門市楠九郞右門塜本小大膳 北には 齋藤新五坂井右近蜂屋伯耆
九月八日 稻葉伊豫 池田勝三郞 丹羽︀五郞左衞門 両三人西搦手之口より夜攻に可仕之旨被仰出御【 NDLJP:上29】請申其日夜に入三手に分而攻られ候人數を被出候へは雨降候て御身方の鉄炮御用に不罷立候也
池田勝三郞攻口にて御馬廻之 朝日孫八郞波多野彌三 討死仕候也 丹羽︀五郞左衞門攻口にて討死之衆 近松豐前神︀戶伯耆神︀戶市介山田大兵衞寺澤彌九郞溝口富介齊藤五八古川久介河野三吉金松久左衞門鈴村
九月九日 瀧川左近被仰付
【巻二(七)
大河內國司退城之事】十月四日 大河內之城 瀧川左近 津田掃部両人に相渡國司父子は 笠木坂ないと申所へ退城候し也
【巻二(八)
關役所御免除之事】然間田丸の城初として國中城々破却之御奉行萬方へ被仰付其上當國の諸︀關取分往還旅人之惱たる間於末代御免除之上向後關錢不可召附の旨堅被仰付
【巻二(九)
伊勢御參宮之事】十月五日 信長公山田に至て御參宮堤源介所御寄宿六日に內宮外宮淺間山被成御參詣翌日御下向
十月十七日 濃州岐阜に至て御歸陣珍重々々
【 NDLJP:上29】【巻三○卷之三 (元亀元庚午)
】
【巻三(一)
常樂寺ニテ相撲之事】元龜元庚午
二月廿五日 御上洛赤坂御泊廿六日常樂寺迄御出被成御逗留
三月三日に江州國中之相撲取を被召寄常樂寺にて相撲をとらせ御覽候 人數之事
鯰江又一郞靑地與右衞門
三月五日御上洛上京 驢庵に至而御寄宿畿內隣國之面々等三州より 家康公御在洛門前成市事也
【巻三(二)
名物被召置之事】去程に天下無隱名物堺に在候道具之事
天王寺屋宗及 一菓子の繪 藥師院 一小松島 油屋常祐︀ 一柑子口 松永彈正 一鐘の給
何れも覺之一種共被召置度之趣 友閑 丹羽︀五郞左衞門御使にて被仰出違背非可申候之間無遠儀進上
則代物以金銀被仰付候キ
【巻三(三)
觀世太夫今春太夫立合ニ御能之事】四月十四日
公方樣御搆御普請造畢之爲御祝︀言觀世太夫今春太夫立合に御能 一番 たまの井 觀世 二同 三輪
一飛彈國司姊小路中納言卿 一伊勢國司北畠中將卿 一三州德川家康卿 一畠山殿 一一色殿 一三好左京大夫 一松永彈正 益家淸花御衆歴々畿內隣國之面々等群集晴︀かましき見物也於千爰信長
公被進御官ヲ候へと雖 上意候被成御辭退御請無之忝も三献之上公俄御酌にて 御盃御拜領御而目之至也
【巻三(四)
越前手簡山被攻落之事】四月廾日 信長公京都︀より直に越前へ御進發坂本を打越其日和邇に御陣取廿一日高島之內田中か城に御泊廿二日若州熊河 松宮玄蕃所御陣宿廿三日佐柿 栗屋越中所に至て御着陣翌日
御逗留廿五日越前之內敦賀表へ御人數被出 信長公懸まはし御覽し則手筒山へ御取懸候彼城高山にて東南峨々と聳たり雖然頻︀に可攻入之旨御下知之間旣輕一命粉骨之被勵後忠節︀無程攻入頸數千參百七十討捕並金か崎之城に 朝倉中務大輔 楯籠候翌日又取懸可被攻干之處色々致降參退出候 引壇之城是又明退候則 瀧川喜右衞門 山田左衞門尉兩人被差遣塀
四月晦日 朽木越をさせられ 朽木信濃守馳走申京都︀に至而御人數被打納是より 明智十兵衞 丹羽︀五郞左衞門兩人若州へ差遣され 武藤上野人貿執候て可參之旨御諚候則 武藤上野守母儀を爲人質召置其上 武藤搆 破却させ
五月六日 はりはた越にて罷上右の樣子言上候然間江州路次通りの爲御警固稻葉伊豫父子三人齋藤
【巻三(五)
千草峠ニ而鉄炮打申之事】五月十九日御下之處 淺井備前 館︀江之城へ人數を入市原之鄕催一揆通路可止行仕候然共 日野蒲生右兵衞大輔 布施藤九郞
【巻三(六)
落窪合戰之事】六月四日 佐々木承禎︀父子 江州南郡所々催一揆野洲川表へ人数を出し 柴田修理 佐久間右衞門懸向やす川にて足輕に引付落窪の鄕にて取合及一戰切崩 討取頸之注文 三雲父子 高野瀬 水原 伊賀甲賀衆究竟之侍七百八十討とり江州過半相靜り
たけくらべかりやす取出之事】去程淺井備前越前衆を呼越たけくらへかりやす 両所に要害を搆候 信長公以御調略 堀 樋口御忠節︀可仕旨御請也
【 NDLJP:上31】六月十九日 信長公御馬を被出 堀 樋口謀叛の由承りたけくらへ かりやす 取物も不取敢退散也たけくらへに一兩日被成御逗留
六月廿一日 淺井居城大谷へ取寄 森三左衞門坂井右近齋藤新五市橋九郞右衞門佐藤六左衞門塜本小大膳不破河內丸毛兵庫頭 雲雀山へ取上町を燒拂 信長公者︀諸︀勢を被召列虎後前山へ被成御上一夜御陣を居させられ 柴田修理佐久間右衞門蜂屋兵庫頭木下膿吉郞丹羽︀五郞左衞門江州衆被仰付在々所々谷々
【巻三(八)
あね川合戰之事】六月廿二日 御馬を被納殿に諸︀手の鉄炮五百挺再御弓の衆三十計被相加 簗田左衞門太郞中條將監佐々內藏介両三人爲御奉行被相添候敵の足輕近々と引付簗田左衞門太郞は中筋より少左へ付てのかれ候亂れ懸つて引付候を歸し合〳〵散々に暫戰 太田孫右衞門頸をとり被罷退御褒美不斜 二番に佐々內藏介手へ引付 八相山宮の後にて取合爰にても藏介致高名罷退 三番八相山被㆑下橋の上にて取合中條將監被疵 中條又兵衞橋之上にてたゝき合雙方橋より落て中條又兵衞堀底にて頸をとり高名無比類︀働也佳弓の衆として相支無異儀能退 其日者︀やたかの下に野陣を懸させられよこ山の城
然處 朝倉孫三郞 後卷として八千計にて罷立 大谷之東 をより山と申候て東西へ長き山有彼山に陣取也 同淺井備前人數五千計相加り 都︀合一万三千之人數六月廿七日ノ曉陣拂仕罷返候と存候之處廿八日未明に三十町計かゝり來姉川を前にあて野村の鄕三田村兩鄕へ移り二手に備候西は三田村口一番合戰家康公むかはせられ東は野村の鄕そなへの手へ信長御馬廻又東は美濃三人衆諸︀手一度に
六月廿八日 卯刻己寅へむかつて被及御一戰御敵もあね川へ懸り合推つ返しつ散々に入みたれ黑煙立てしのきをけつり錫をわり爰かしこにて思ひ〳〵の働有終に追崩し於手前討取頸之注文 眞抦十郞左衞門此頸靑木所左衞門是を討とる 前波新八 前波新太郞 小林
丹羽︀五郞左衞門被置 北之山に 市橋九郞右衞門 南之山に 水野下野 西彥根山に 河尻與兵衞 四方より取詰させ諸︀口之通路をとめ同七月六日御馬廻計被召列御上洛 公方樣へ當表之樣子被仰上天下
野田福︀島御陣之事】八月廿日 南方表御出勢其日者︀橫山に洋陣を懸させられ次日御逗留廿二日長光寺御泊廿三日下京本能寺御陣宿翌日御逗留廿五日南方へ御働淀川をこさせられ比良かたの寺內御陣取廿六日御敵楯籠野田福︀島へ被成御手道先陣者︀近陣に陣とらせ天満か森川口渡邊神︀崎上難︀波下難︀波濱之手迄陣とらせ 信長公者︀天王寺に御居陣也然而大坂堺尼崎西宮兵庫邊より異國本朝之捧珍物御禮申さるゝ仁御陣取見物の者︀成群集事候
【 NDLJP:上32】御敵南方諸︀牢人大將分の事 細川六郞殿 三好日向守 三好山城守
八月廿八日夜中に爲三香西天王寺へ參らせられ候 九月三日攝津國中島細川典厩城迄 公方樣御動座同八日に大坂十町計西にろうの岸と云所御取出に被仰付 齋藤新五 稻葉伊豫 中川八郞右衞門兩三人被入置並大坂の川向に川口ト申在所候是又拵 平手監物 平手甚左衞門 長谷川與次 水野監物 佐々藏介 塜本小大膳 丹羽︀源六 佐藤六左衞門 梶原平二郞 高宮右京亮 被置せ
九月九日 信長公天滿が森へ御大將陣を寄させられ次日諸︀手よりうめ草をよせ御敵城近邊に在之江堀を塡させられ
九月十二日 野田福︀島の十町計北にゑび江と申在所候 公方樣信長公御一所に詰陣に御陣を居させられ先陣は勿論夜〳〵に土手ヲ築其手〳〵を爭塀際へ詰よせ其數を盡し城樓を上大鉄炮にて城中へ打入被責候根來雜賀湯川紀伊國奧郡衆二萬計罷立
九月十三日夜中に手を出しろうの岸川口両所之御取出へ大坂より鉄炮を打入一揆雖蜂起候無異子細候翌日十四日に大坂より天滿か森へ人數を出して則懸合川を追超かすか井堤にて取合一番に佐々藏介 懸向相戰而被疵被罷退二番に堤通中筋を前田又左衞門かゝり合
【巻三(十)
志賀御陣之事】(辛未)九月十六日 越前之朝倉淺井備前三万計坂本口へ相働也 森三左衞門宇佐山の坂を
九月十九日 淺井朝倉備両手に又取懸候町を破らせ候ては無念と被存知被相拘候の處大軍兩手より噇とかゝり來於手前雖被盡粉骨御敵猛勢にて不相叶火花を散し終に 鑓下に而討死 森三左衞門織田九郞靑地駿河守尾藤源內尾藤又八 道豪淸十郞道家助十郞とて兄弟覺の者︀有生國尾張守山の住人也一年東美濃高野口へ武田信玄相働候其時森三左衞門 肥田玄蕃先懸にて山中谷合にてかゝり合相戰て兄弟して頸三つ取て參り 信長公の御目に懸候へは御褒美不斜白キはたをさし物に仕候其旗をめしよせられ天下一の勇士也と御自筆に遊し被付候て被下都︀鄙の面目不可過之名譽の仁にて候也今度に共旗をさして 森三左衞門と一所に候て前後手抦を盡し火花を散し枕を並て討死候之也 宇佐山之城
九月廿日 御敵相働大津馬塲松本を放火し 廿一日逢坂をこへ醍醐山科を燒拂旣に京近く罷成 廾二日攝津國中島へ其注進候京中へ亂入候ては無㆑曲之被思食
九月廿三日 野田福︀島御引拂 和田伊賀守柴田修理亮兩人殿に被仰付路次者︀中島より江口通御越也彼江口と申川は淀宇治川の流にて大河漲下り瀧鳴つて冷しき樣躰也總而昔年より舟渡しにて候也猛勢の【 NDLJP:上33】御人數差懸候處一揆令を渡舟の蜂起隱置通路自由ならす稻麻竹葦なんとの如く過半竹鑓を持て江口川の向を大坂堤へ付て雖㆑呌㆑喚無㆓異事㆒ 信長公川の上下懸まはし御覧し馬を打入川を可渡の旨 御下知の間悉乘入候之處思の外川淺く候てかち渡りに雜兵無難打越候
九月廿三日 公方樣供奉なされ御歸洛次日より江口の渡りかちはたりには中々不成候爰を以て江口近邊の上下萬民の者︀奇特不思儀之思をなす事也
九月廿四日 信長公
十月廿日 朝倉かたへ使者︀を立られ互經年月を不入事候間以一戰可被相果候日限をさし被罷出候へと菅屋九右衞門を以て雖被仰遣候中々不及返答結句朝倉抛筋力無事を雖扱候是非共御一戰之上にて可被散御鬱憤之旨御許容無之 南方三好三人衆之事野田福︀島之普請を改諸︀年人河內無津國端〳〵へ雖致打廻高屋 畠山殿若江に三好左京太夫 片野に 安見右近 伊丹 䀋河 茨木 高槻何れも城〳〵堅固に相抅其上五畿內之衆
霜月十六日 丹羽︀五郞左衞門為御奉行有被仰付
霜月廿一日 織田彥七御腹めされ無是非
霜月廿二日 佐々木承禎︀と被成御和睦 三雲 三上志賀へ出仕申上下滿足候し也
霜月廿五日 堅田之猪︀飼︀野甚介馬塲孫次郞
霜月晦日 三井寺迄 公方樣御成有而頻︀に上意候事候間難︀默止被思食
十二月十三日 御和談相究
【 NDLJP:上34】【巻四○卷之四 (元龜二辛未)
】
【巻四(一)
佐和山城渡し進上之事】元龜二辛未
正月朔日 濃州岐阜に而各御出仕在之
二月廿四日 磯野丹波降參申佐和山之城渡し進上して高島へ罷退則 丹羽︀五郞左衞門爲城代被入置候キ
【巻四(二)
箕蒲合戰之事】五月六日 淺井備前 あね川迄罷出横山へ差向人數を備居陣候て先手足輕大將淺井七郞五千計にてみのうら表堀 樋口 居城近邊相働在々所々放火候 木下藤吉郞橫山に人數多太〳〵と申付置百騎計召列敵かたへ見えさる樣に山うらを廻りみのうらへ懸付堀 樋口 と一手に成纔五六百には不可過五千計之一揆に足輕を付られ下長澤にて取合及一戰に 樋口 內之者︀ 多羅尾相摸守 討死候此由家來之土川平右衞門承候て懸込討死仕候無比類︀働也一揆にて候間終に追崩し數十人討捕又下坂之さいかちと云所にてたまり合爰にても暫相戰八幡下坂迄致廢軍 淺井備前
【巻四(三)
大田口合戰之事】五月十二日 河內長島表へ三口より御手遣 信長君津島まて御參陣中筋口働之衆 佐久間右衞門 淺井新八 山田三左衞門 長谷川丹波 和田新介 中島豐後 川西多藝山之根へ付て太田口へ働之衆 柴田修理亮 市橋九郞左衞門 氏家卜全 伊賀平左衞門 稻葉伊豫 塜本小大膳 不破河內 丸毛兵庫 飯︀沼勘平
五月十六日 在々所々放火候て罷退候之處に長島之一揆共山々へ移右手は大河也左りは山之下道一騎打節︀所之道也弓鉄炮を先々へまはし相支候 柴田修理 見合
八月十八日 信長公江北表御馬と出され橫山に至て御着陣
八月廿日之夜 大風
八月廿六日 大谷と山本山之間五十町には不可過之其間之鄕中島と云所に一夜御陣を居させられ足輕被仰付 與語木本迄悉御放火也 廿七日よこ山へ御人數打歸させられ
【巻四(四)
志むら被攻干之事】八月廾八日 信長公佐和山へ御出 丹羽︀五郞左衞門所に御泊先陣者︀一揆楯籠候 小川村 志村之鄕推詰近邊燒拂
九月朔日 信長公志むら之城攻させ御覽し 取寄人數 佐久間右衞門 中川八郞右衞門 柴田修理 丹羽︀五郞左衞門四人被仰付四方より取寄乘破頸數六百七十討捕依之
九月三日 常樂寺へ御出有御滯留而一揆楯籠金か森取詰四方之作毛悉苅田に被仰付しゝかき結まはし諸︀口相支取籠をかせられ候處御佗言申人質進上之間被成御宥免︀直に南方表へ御働と被仰觸
【巻四(五)
叡山御退治之事】九月十一日 信長公 山岡玉林所に被懸御陣
九月十二日 叡山へ御取懸子細者︀去年野田福︀島御取詰候て旣及落城之刻越前之朝倉淺井備前坂本口へ相働候京都︀へ亂入候ては不㆑可㆑有㆓其曲㆒之由候て野田福︀島被成御引拂則逢坂を越越前衆に懸向 つぼ笠山へ追上可㆑被㆑成㆓
九月十二日 叡山を取詰根本中堂三王廿一社︀を初奉り靈佛靈社︀僧︀坊經卷不殘一宇モ一時に如雲霞燒拂爲灰燼之地ト
九月廿日 信長公濃州岐阜に至て御歸陣
【巻四(六)
御修理造畢之事】九月廿一日 河尻與兵衞 丹羽︀五郞左衞門 両人に被仰付 高宮右京亮 一類︀歴々佐和山へ召寄生害也切而出相働候へとも無別條成敗也 子細者︀先年野田福︀島御陣之時大坂へ心を合一揆蜂起之致調略御陣半御取出天滿か森河口之足かゝりより大坂へ走入候之也
仰 禁中旣御癈壊無正体御修理之儀御宴加之爲を思食先年 日乘上人 村井民部丞爲御奉行被仰付三ケ年に出來 紫宸殿 淸涼殿 內侍所 昭陽舍 其外御局々無殘所令造畢其上 御
【 NDLJP:上36】【巻五○卷之五 (元龜三年壬申)
】
【巻五(一)
むしやの小路御普請之事】元龜三年壬申
三月五日 信長公 江北表御馬を被出赤坂に御陣取次日橫山に至て御着陣
三月七日 御敵城大谷と山本山之間五十町には不可過其間へ推入野陣を懸させられ 與語木本迄放火
也江北之諸︀侍連々申樣與語木本へ手遺の砌者︀節︀所を越來之間是非共可及一戰の由申つる日比の
三月十一日 志賀郡へ御出陣 和爾に御陣を居させられ木戶田中推誥御取被仰付 明智十兵衞 中川八郞右衞門 丹羽︀五郞左衞門兩三人取出にをかせられ
三月十二日 信長公直に御上洛二條妙覺寺御寄宿迚も細々御參洛の條 信長公を座所無之候ては如何之由にて上京むしやの小路にあき地の坊跡在之を御居住に可被相搆の旨被達 上聞候の處尤可然之由被仰出則從 公儀御普請可被仰付之旨の御斟酌雖被及數ケ度候頻︀ 上意之事候間被應 御諚尾濃江三國之御
【 NDLJP:上37】【巻五(二)
交野へ松永取出仕御被追拂之事】去程に 三好左京太夫殿 非儀を思食立 松永彈正 息右衞門佐 父子と被仰談對㆓畠山殿㆒旣被及 鉾楯候 安見新七郞居城交野へ差向 松永彈正 取出を申付候其時之大將として 山口六郞四郞 奧田三川 兩人勢衆三百計取出に在城也
信長公より可討果之旨に而被遺御人數 佐久間右衞門 柴田修理亮 森三左衞門 坂井右近 蜂屋兵庫 齋藤新五 稻葉伊豫 氏家左京亮 伊賀伊賀守 不破河內 丸毛兵庫 多賀新左衞門 此外五畿內 公方衆を相加爲後詰御人數被出取出を取卷しゝ垣結まはし被置候處に風雨の紛に切拔候之也 三好左京太夫殿は若江に楯籠松永彈正は大和之內信貴之城に在城也息右衞門佐は奈良之多門に居城也
五月十九日 信長天下之儀被仰付濃州岐阜に至て御下
【巻五(三)
奇妙樣御具足初に虎後前山御要害事】七月十九日 信長公之嫡男
七月廿三日 御人數をし出越前境與語木下地藏坊中初として堂塔伽藍名所舊跡不㆑殘㆓一宇も㆒燒拂
七月廿四日 草野之谷是又放火候幷に大吉寺と申して高山能搆五十坊の所候近里近鄕の百姓等當山へ取上候前者︀嶮難︀のほり難︀きに依て麓を襲はせ夜中より 木下藤吉郞丹羽︀五郞左衞門うしろ山續に攻上一揆僧︀俗數多切捨られ海︀上者︀
七月廿七日より 虎後前山御取出之御要害被仰付然者︀淺井方より越前之 朝倉かたへ注進之申樣尾州河內長島より 一揆蜂起候て尾濃之通路をとめ旣難︀儀に及はせ候問此節︀ 朝倉馬を出され候へは尾濃之人數悉討果之由僞申遣し候注進實に心得朝倉左京太夫義景人數壹万五千計にて
七月廿九日 淺井居城大谷へ參着候雖然此表之爲体見及難︀抱存知高山大ずくへ取上居陣也然處を足輕共に可責を被仰付則若武者︀とも野に臥山に忍入のほりさし物道具を取頸二ツ三ツ宛取不參日も無之高名之隨輕重被加其御褒美之間彌嗜ミ大方ならす
八月八日に 越前の 前波九郞兵衞父子三人此御陣へ被參候 信長公之御祝︀着不斜則帷御小袖御馬皆具共に拜領被申候翌日又 富田彌六 戶田與次 毛屋猪︀介被參候是又色々被下忝次第不成大方虎後前山御取出御普請無程出來訖御巧と以て 當山之景氣有興仕立生便敷御要害不及見聞之由にて各耳目被驚候御座敷より北を御覽せられ候へは淺井 朝倉 高山大ずくへ取上入城し及
九月十六日 信長公嫡男 奇妙公御父子橫山に至て御馬を被納候へき
霜月三日 淺井 朝食人數を出し處後前山より宮部迄つかせとれ候処地可引崩
【巻五(四)
味方か原合戰之事】是者︀遠州表之事 霜月下旬 武田信玄遠州二股之城取卷之由注進在之則 信長公御家老之衆 佐久間右衞門 平手甚左衞門 水野下野守大將として御人數遠州濱松に至參陣之處に早二股之城攻落し其競に武田信玄堀江之城へ爲打廻相働い家康も濱松之城より御人數被出身方か原にて足難︀共取合 佐久間平手初として懸付互に人數立台旣に一戰に取向 武田信玄
十二月廿二日 身方か原にて數輩討死在之 去程に 信長公 幼稚より被召使い御小姓衆 長谷川橋介 佐脇藤八 山口飛彈 加藤彌三郞 四人 信長公之蒙御勘當 家康公を奉憑遠州に身を隱し居住いらひし是又一番合戰に一手にかゝり合手前無比類︀討死也爰に希代之事有樣子者︀尾州淸洲之町人具足屋玉越三十郞とて年頃廿四五之者︀有四人衆見舞として遠州濱松へ參候折節︀ 武田信玄 堀江之城取詰在陣之時候定て此表可相働候左候は々可及一戰候間早々罷歸候へと四人衆達而異見候へは是迄罷參りい之處をはづして罷歸候は々以來口はきかれましく候間四人衆討死ならは同心すへきと申切不罷歸四人衆と一所に切てまいり枕を並て討先也 家康公中筋切立られ軍之中に亂れ入左へ付て身方か原のきし道之一騎打を退せられ候と御敵先に待請支へ候馬上より御弓まて射倒し懸拔御通候是ならす弓之御手抦不㆑始㆓于今㆒濱松之城堅固候被成御拘 信玄者︀得勝利人數打入候也
【 NDLJP:上39】【巻六○卷之六 (元龜四年癸酉)
】
【巻六(一)
松永多門城渡進上付不動國行】元龜四年癸酉去年冬 松永右衞門佐 御赦免に付て多門の城相渡候則 山岡對馬守爲定番多門にをかせられ
正月八日 松永彈正 濃州岐阜へ罷下天下無雙の名物 不動國行進上候て御禮被申上以前も代に無隱藥硏藤四郞進上也
【巻六(二)
公方樣御謀叛付十七ケ條】去程に 公方樣內々御謀叛思食立之由無其隱候子細者︀非分の働共無御勿躰之旨去年捧十七ケ條御異見の次第
條々
一御參內之儀光源院殿御無沙汰に付て果而無御冥加次第事舊く依之當御代之儀年々無僻怠樣にと御入洛の刻より申上候處早被思食忘近年御退轉無勿躰存候事
一諸︀國へ御內書を被遣馬其外御所望の躰外聞如何に候の間被加御遠慮尤存候伹被仰遣候はて不叶子細者︀信長に被仰聞添狀可仕の旨兼て申上被成其心得の由候つれ共今はさも無修座遠國へ被成御內書御用被仰之儀最前首尾相違候何方にも可然馬なと御耳に入候はゝ信長馳走申進上可仕の山申奮候キさ樣には候はて以密々直に被仰遣義不可然存候事
一諸︀侯の衆方々御屆申忠節︀無踈略輩には似相の御恩賞不被宛行今々の指者︀にもあらさるには被加御扶持候さ樣に候ては忠不忠も不入に罷成候諸︀人のおもはく不可然事
一今度雜說に付て御物をのけさせられ候都︀鄙無其隱候㆑其京都︀以外
一賀茂の儀岩成に被仰付百性前堅御糺明の由表向御沙汰候て內儀は御用捨の樣に申觸し候物別か樣の寺社︀方御欠落如何にと存候へとも岩成堪忍
一信長に對し無等閑輩女房衆以下まても思食あたらるゝ由候令迷惑候我等に無疎略者︀と被聞食候はゝ一入被懸御目候樣に御座候てこそ忝可存候をかひさまに御
一無恙致奉公何の科も御座候はね共不被加御扶助京都︀の堪忍不届者︀共信長にたより歎申候定て私言上候はゝ何とそ御憐も可在之かと存候ての事候間且は不便に存知且は 公儀御爲と存候て御扶持の義申上候へ共一人も無御許容候餘文緊なる御諚共候間其身に對しても無面目存候勸世與左衞門古田可兵衞上野紀伊守類︀の事
一若州安賀庄御代官の事栗屋孫八郞訴訟申上候間難︀去存種々執申參らせ候も御意得不斷過來候事
一小泉女家預ケ置雜物再質物に置候腰刀脇指等まて被召置の由候小泉何とそ謀叛をも仕造意曲事の子細も候はゝ根を斷葉を枯しても勿論候是者︀不計喧嘩にて果候間一且被守法度は尤候是程まて被仰付候儀は御欲德の儀によりたると世間に可存候事
一元龜の年號不吉候間改元可然の由天下之沙汰に付て申上候 禁中にも御催の由候處聊の雜用不被仰付千今延々候是は天下の御爲候處御油断不可然存候事
一烏丸事被蒙勘氣の由候息の儀は御憤も無余儀候處誰哉覽內儀の御使を申候て金子を被召置出頭させられ候由候歎敷候人により罪に依て過怠として被仰付候趣も可在之候是は
一他國より御禮申上金銀を進上歴然候處御隱密候てをかせられ御用にも不被立候段何の御爲候哉之事
一明智地子銭を納置買物のかはりに渡遣候を山門領之由被仰懸預ケ置候者︀の御押の事
一去夏御城米被出金銀に御賣買の由候 公方樣御商買の儀古今不及承候今の時分候間御倉に兵粮在之躰こそ外聞尤存候如此の次第驚存候事
一御宿直に被召寄候若衆に御扶持を被加度思食候はゝ當座〳〵何成共可有御座事候處或御代官職被仰付或非分の公事を申につかせられ候事天下褒貶沙汰限候事
一諸︀侯の衆武具兵粮以下の嗜はなく金銀を專に藷之由候牢人之支度と存候是も上樣金銀を被取置雜說砌者︀御搆を被出候に付て下々迄もさては京都︀を捨させらるへき趣と見及申候て之儀たるへく上一人を守候段不珍候事
一諸︀事に付て御欲かましき儀理非も外聞にも不被立入由其聞候然間不思儀の土民百姓に至迄も惡御所と申成由候 普光院殿をさ樣に申たると傳承候其は各別の儀候何故如此御影事を申候哉爰を以て御分別參るへき歟の事 以上
右の旨御異見の處金言逆御耳候【巻六(三)
石山今堅田被攻候事】然處遠州表者︀ 武田信玄差向江北表は淺井下野同備前父子越前の朝倉彼等の大軍に取合虎後前山番手半に候て方々御手
邊 躰の者︀內々被加御詞彼等才覺にて今堅田へ人數を入石山に取出之足懸りを搆候則可追拂之旨 柴田修理亮 明智十兵衞尉 丹羽︀五郞左衞門尉 蜂屋兵庫頭 四人に被仰付
二月廾日に罷立廿四日に勢田を渡海︀し石山へ取懸候山岡光淨院大將として伊賀中賀衆を相加在城也雖然未普請半作の事候間
二月二十六日降參申石山の城退散則破却させ
二月廿九日辰剋今堅田へ取懸二明智十兵衞圍舟を拵海︀手の方を東より西に向て被攻候 丹羽︀五郞左衞門 蜂屋兵庫頭 兩人者︀辰巳角より戊亥へ向て被攻候終に午剋に 明智十兵衞攻口より乘破訖數輩切捨 依之志賀郡過半相靜 明智十兵衞 坂本に在城也 柴田修理 蜂屋兵庫頭 丹羽︀五郞左衞門両三
人歸陣候し也 公方樣御敵の御色を立させられ候し也 京童落書云 かそいろもやしなひ立し甲斐もなくいたくも花を雨のうつ音と書付洛中に立置候らひし
【巻六(四)
公方樣御搆取卷之上に而御和談之事】三月廿五日 信長御入洛之御馬を出され然處に 細川兵部太輔 荒木信濃守 両人形身方の御忠節︀として 廿九日に逢坂まて両人御迎被參 御機嫌無申計東山智恩院に至て 信長御居陣諸︀手の勢衆白川と粟田口 祇園 淸水 六波羅 鳥羽︀ 竹田在々所々に陣取候此時大ごうの御腰物 荒木信濃に被下名物の御脇指 細川兵部太輔殿へ
四月三日 先洛外の堂塔寺庵を除き御放火候此上にでも可㆑爲㆓上意次第㆒旨被㆑懸㆓御扱㆒候へとも無御許容之間不㆑被㆑及㆓御了簡㆒
翌日又御搆を押上京御放火候爰にて難︀拘被思食可有御和談の旨上意候尤の由候て
四月六日 信長公御名代として 津田三郞五郞御
【巻六(五)
百濟寺伽藍御放火之事】七月七日 信長公 御蹄蹄其日は守山に御陣取是より直に百濟寺へ御出二三日御逗留有て 鯰江之城に 佐々木右衞門督被楯籠 攻衆人數 佐久間右衞門尉蒲生右兵衞大輔丹羽︀五郞左衞門尉柴田修理亮 被仰付四方より取詰付城させられ候近年鯰江之城百濟寺より持續一揆同意たるの由被及聞食 四月十一日 百濟寺當塔伽藍坊舍佛閣悉灰燼なる哀成樣不被當目其日岐阜に至て御馬被納候キ
【巻六(六)
大船被作候事】公儀右之不㆑被㆑休㆓御憤㆒終に天下御敵たる之上定而湖境として可被相塞其時の爲に大船を拵五千も三千も一度に推付可被越の由候て
五月廿二日 佐和山へ被移御座多賀山田山中の材木をとらせ佐和山麓松原へ勢利川通引下し國中鍛冶番匠杣を召寄御大工岡部又右衞門棟梁にて舟之長さ三十間橫七間櫓を百挺立させ艦船に矢藏を上可致丈夫之旨被仰聞在佐和山なされ無油斷夜を日に繼任候間無程
七月五日 出來訖事も生便敷大船上下驚耳目如案
七月三日 公方樣又御敵之御色を立られば搆には 日野殿 藤宰相殿 伊勢守殿 三淵大和守 被置眞木島は至て御座を被移候之由注進在之則
七月六日 信長公 彼大船にめされ雖㆓風吹候㆒坂本口へ推付御渡海︀也其日は坂本に御泊
七月七日 御入洛二條妙覺寺に御陣を居られ候猛勢を以て御搆被取卷公家衆大軍に驚耳目御佗言申人【 NDLJP:上42】質進上被申各も御同陣にて候也
【巻六(七)
公方樣眞木島に至て御退座の事】七月十六日 眞木島へ 信長御馬をよせられ五ケ庄之やなき山にり陣陣を
【巻六(八)
眞木島ニテ御降參公方樣御半人之事】七月十八日巳刻兩口一度に其手〳〵を爭中島へ西へ向て噇と被打渡候誠に事も生便敷大河御威光を以て無難︀打越暫人馬之息をつかせ其後眞木島へ心懸南向に旗首を揃眞木島より出る足輕を追立佐久間蜂屋兩手へ隨分之頸數五十余討捕也四方より眞木島外搆乘破燒上攻られ 公方樣御城廓者︀是に過たる御搆無之と被思食雖御動座候今は無詮御手前之御一戰に取結候今度させる御不足も無御座之處無程御恩を忘られ被成御敵に候の間爰にても腹めさせ候はんすれ共天命をそろしく御行衞思食儘に有はからす御命を助流し參せられ候て先々にて人の褒貶にのせ申さるへき由にて若公樣をは被止置怨をは恩を以て被報之由にて河內國若江之城迄 羽︀柴筑前守秀吉 御警固にて送被届誠に日比者︀與車美々敷御粧之御成歴々の御上﨟達步立赤足にて取物も不取敢御退座一年御入洛之砌者︀ 信長公供奉なされ誠に草木も靡計之御威勢にて覺を並へ圍前後御果報いみしき 公方樣哉と諸︀人敬候へキ此度者︀引替御鎧の袖をぬらさせられ貧報公方と上下指をさし嘲哢をなし御自滅と申なから哀成有樣目もあてられす眞木島には信長より細川六郞殿を入置申され諸︀勢南方表打出し在々所々燒拂
七月廾一日 京都︀に至て被納御馬訖 公方樣御同意として叡山の麓一乘寺に足懸り拵 渡邊宮內少輔磁貝新右衞門両人楯籠候降參申退散磯貝新右衞門紀伊國山中に蟄居候のを被誅させ候也 山本對馬守靜原山に取出を搆御敵とし而居城也 明智十兵衞被仰付取詰をかせられ 今度上京御放火に付て町人迷惑可仕と被思食地子錢諸︀役錢等指をかせられ忝之由申候て卽時に町々家屋元之如く出來訖
天下所司代村井長門守 被仰付在洛候て天下
【巻六(九)
大船にて高島御働木戶田中両城被攻事】七月廿六日信長公御下 直に江州高島表彼大船を以て御參陣陸は御敵城 木戶 田中 兩城へ取懸被攻海︀手者︀大船を推付 信長公御馬廻を以てせめさせらるべき處降參申罷退則木戶田中両城 明智十兵衞に被下
高島淺井下野同備前彼等進退の
【巻六(十)
岩成被討果候事】去程に 公方樣より被仰付淀の城に 岩成主稅頭
八月四日 濃州岐阜に至て御歸陣。
【巻六(十一)
阿閉謀叛之事】八月八日 江北阿閇淡路守 御身方の色を立則夜中 信長 御馬を被出其夜御敵城つきがせ の城あけのき候也
八月十日 大づくの北 山田山に悉陣とらせ越前への通路御取切候 朝食左京太夫義景後卷として二萬計罷立與語木本たべ山に陣取候近年淺井下野守大づくの下やけをと云所こしらへ 淺見對馬を入置候是又 阿閇淡路と同心に御身方の色を立御忠節︀とし
八月十二日 大づくの下 やけをへ 淺見對馬 覺語にて御人數引入候其夜は以外雖風雨候虎後前山まは 信長公の御息嫡男勘九郞殿置申され 信長雨にぬれさせられ候て御馬廻被召列太山大づくへ御先懸にて攻上らせられ旣可乘入處越前より爲番手 齋藤 小林 西方院 三大將人數五百計楯籠色々降參仕候尤可被討果事に候へとも 風雨と云夜中大づく落去の躰 朝倉左京太夫被存知間敷候の間此者︀共命を助敵陣へ被送遣此表難︀抅仕合敵の勢衆に知らせ其上 朝倉左京太夫陣所へ可被打向之御存分にて右籠城の者︀敵所へ被送遣大づくには 塜本小大膳 不破河內 同彥三 丸毛兵庫 同三郞兵衞被入置直に又 ようの山 信長御取懸候平泉寺の玉泉坊 爲番手楯籠候是も御侘言申罷退然者︀ 信長御諚まは必定今夜 朝倉左京太夫可退散候先手に差向候衆 佐久間右衞門 柴田修理 瀧川左近 蜂屋兵庫頭 羽︀柴筑前 丹羽︀五郞左衞門 氏家左京助 伊賀伊賀守 稻葉伊豫 稻葉左京助 稻葉彥六 蒲生右兵衞太輔 浦生忠三郞 永原筑前 進藤山城守 永田刑部少輔 多賀新左衞門 弓德左近 阿閇淡路 同孫五郞 山岡美作守 同孫太郞 山岡玉林 此外歴々の諸︀卒爰をのかし候はぬ樣に可覺語仕之旨再徃再三被仰遣其上御いらてなされ 十三日夜中に越前衆陣所へ 信長又被成御先懸被懸付候然而度々被仰遣候御先陣にさし向候衆油斷候て 信長の御先懸被成候を承候而御跡へ參られ候地藏山を越候て御目まかゝり候は數度被仰含候に見合候段各手前の比興
信長へこされ申面目も無御座の旨瀧川 柴田 丹羽︀ 蜂屋 羽︀柴 稻葉 初とし而謹︀而被申上候 佐久間右衞門淚を流しさ樣に被仰候共我々程の內の者︀はもたれ間數と自讚を被申候 信長御腹立不斜其方は男の器︀用を自慢にて候歟何を以ての事片腹痛申樣哉と被仰御機嫌惡く如御分別朝倉左京太夫義景癈軍候のを討捕頸共我も〳〵と持參候此時も馬にめし御出候 中野河內口 刀根口二手に罷退候何方へ付いて可然候はん哉と相支僉議
同日落城の數 大づゝ やけ尾 つきがせ ようの山 たべ山 義景本陣田上山 引檀 敦賀 志津か嵩 若州栗屋越中所へさし向候付城共に拾ケ所退散
去程に 信長 年來御足なかを御腰に付させられ候今度刀根山に而金松又四郞武者︀一騎山中を追懸終に討止頸を持參候其時
八月十八日 府中龍門寺に至て御陣を居させられ朝倉左京太夫義景我舘一乘の谷を引退大野郡之內山田庄六坊と申所へのかれ候さしもやむをなき女房達輿車は名のみ聞て取物も不取敢かちはたしにて我先に〳〵と義景の跡をしたひて落られたり誠に目も當られす申は中々愚也然處に 柴田修理亮 稻葉伊豫 氏家左京助 伊賀伊賀守初として平泉寺口へ義景を追懸御人數被差遣其上諸︀卒手分をして山中へ分入てさかし候へと被仰出每日百人貳百人宛一揆共龍門寺御大將陣へ
爰に朝倉同名に 式部大輔と申者︀無情義景に腹をさらせ 鳥居與七 高橋甚三郞 致介錯兩人之者︀も追腹仕候中にも 高橋甚三郞働無比類︀之由候 朝倉式部大輔義景の頸を府中龍門寺へ持せ越 八月廿四日 御禮被申 名字の云㆓總領ト㆒云㆓親類︀ト㆒前代未聞之働也 義景之母儀並嫡男阿君丸尋出シ 丹羽︀五郞左衞門に被仰付生害候也 去て國衆緣々を以て歸參之御禮門前成市事候則義景頸 長谷川宗仁に被仰付京都︀へ上せ獄門に懸させられ越前一國平均候間國中の掟を被仰付 前波播磨守 守護代としてをかせられ
八月廿六日 信長公 江北虎後前山迄御馬被納
八月廿七日 夜中に羽︀柴筑前守京極つぶらへ取上 淺井下野同備前父子之間を取切先下野居城を乘取候爰にて 淺井福︀壽庵腹を仕候去程に年來目を懸られ候鶴︀松太夫と申候て舞をよく仕候者︀にて候下野を介錯し去而其後 鶴︀松大夫も追腹仕名譽無是非次第也 羽︀柴筑前守下野か頸を取虎後前山へ罷上御目に被懸候翌日又 信長京極つふらへ御あかり候て淺井備前 赤生美作生害させ淺井父子の頸京都︀へ上せ是又獄門に懸させられ又淺井備前十歲之嫡男御座候を尋出し關か原と云所に張付に懸させられ年【 NDLJP:上45】來之被散御無念訖 爰にて江北淺井跡一職進退に羽︀柴筑前守秀吉御朱印を以て被下忝面目之至也
九月四日 信長 直に佐和山へ被成御出鯰江の城可攻破之旨 柴田は被仰付候則取詰候處佐々木右衞門督降參候て退散也 何方も被任御存分
九月六日 信長公 岐阜に至て御歸陣
去程に 杉谷善住坊鐵炮之上手にて候先年 信長 千草峠御越之砌佐々木承禎︀に憑まれ候て山中にて鐵炮二玉をこみ十二三間隔無情打申すされ共天道昭覽にて 信長の御身は少宛打かすり鰐の口御遁れ候て岐阜御歸陣候キ此比杉谷善住功は鯰江香竹を憑み高島に隱居候を 磯野丹波召捕 九月十日岐阜へ菅屋九右衞門 祝︀彌三郞兩人爲御奉行千草山中にて鐵炮を以て打申候子細被成御尋思食儘に被遂御成敗たてうづみにさせ頸を鋸にてひかせ日比の御憤を散せられ上下一同之滿足不可過之
九月廿四日 信長 北伊勢に至て御馬を出され其日は大柿之城御泊 廿五日大田之城小稻葉山に御陣取 江州衆ははつふおふぢ畑越にて候廿六日彙名表へ人數打出し西別所に一揆楯籠候之を 佐入間右衞門 羽︀柴筑前守 蜂屋兵庫頭 丹羽︀五郞左衞門 四人として取懸責破數多切捨られ候 柴田修理 瀧川左近兩人者︀さか井の城片岡と云者︀之搆取卷被攻候の處降參申 十月六日
十月八日 信長 東別所へ御陣を寄させられ依之 いさか かよふ 赤堀 たなべ 桑部 南部 千草 長ふけ 田邊九郞次郞 中島勘解由左衞門何れも人質進上候て御禮申上候爰に
去程に京都︀靜原山に楯籠御敵 山本對馬 明智十兵衞 調略を以て生害させ頸を北伊勢 東別所まて持來進上爲御敵者︀悉属御存分御威光不申足 北伊勢一篇に罷成河內長島も過半相果迷惑仕之山候 矢田之城御普請丈夫に被仰付瀧川左近人被置
十月廿五日 信長 北伊勢より御馬を納られ 左は
霜月四日 信長 御上洛二條妙覺寺御寄宿三好左京太夫殿非儀を被相搆依而家老の衆 多羅尾右近 池田丹後守 野間佐吉兩三人企別心 金山駿河萬端一人之任覺悟候の間 金山駿河を生害させ 佐久間右衞門を引入天主の下迠攻迯候處難︀叶思食御女房衆御息達皆さし殺︀切て出餘多之者︀に手を負せ其後左京太夫殿腹十文字に切無比類︀御働哀成有樣也 御相伴人數 那須久右衞門 岡飛驒守 江川 右三【 NDLJP:上46】人追腹仕名譽之次第此節︀也若江の城兩三人御忠節︀に付てあつけ被置
十月二日 信長公 岐阜に至て御歸城候也
【 NDLJP:上46】【巻七○卷之七 (天正二年甲戊)
】
【巻七(一)
義景淺井下野淺井備前三人首御看之事】天正二年甲戌
正月朔日 京都︀歸國面々等在岐阜にて御出仕有各三献にて召出しの御酒有他國衆退田の已後 御馬廻計にて
古今不及承珍奇の御肴出候て又御酒有去年北國にて討とらせられ候
一朝倉左京太夫義景
【巻七(二)
前波生害越前一揆蜂起之事】正月十九日 越前の 的波播磨 國中の諸︀侍共として生害させ候由申來候子細者︀越前の大國守護代として被居置候處に誇㆓榮花榮耀㆒恣相働傍輩對し万事に付て無禮至極に致沙汰の條諸︀侍企謀叛生害させ其上國端境目に要害を搆番手の人數を置其後者︀越前一揆持に罷成の由候 羽︀柴筑前守 武藤宇右衞門 丹羽︀五郞左衞門 不破河內守 同彥二 九毛兵庫 同三郞兵衞 若州衆 敦賀迄御人數被差遣
【巻七(三)
明智之城いゝはさま謀叛之事】正月廿七日 武田四郞勝頼 岩村口相働
明智の城坂卷の由注進候則爲後詰
二月朔日 先陣尾州濃州兩國の御人數被出
二月五日 信長 御父子御馬を出され其日者︀三たけに御陣取次日高野に至て御居陣 翌日可被馳向の處山中の事候の間嶮難︀節︀所の地にて互に懸合ならす候山〳〵へ移御手遣なさるへき 御諚半の處城中にて いゝばさま右衞門 謀叛候て旣に落去不及是非 高野の城御普請被仰付河尻與兵衞爲定番被置【 NDLJP:上47】おり之城是又御普請被成 池田勝三郞御番手にをかせられ
二月廿四日 信長 御父子岐阜御歸城
【巻七(四)
蘭奢待被切捕の事】三月十二日信長 御上洛佐和山二三日御逗留 十六日 永原御泊 十七日 志賀より坂本へ被成御渡海︀
相國寺初而御寄宿南都︀東大寺蘭奢待御所望の旨 內裏へ 御奏聞の處
三月廾六日 御勅使 日野輝資數 飛鳥井大納言殿爲勅諚忝も被成 御院宣 則南都︀大衆致頂拜御請申翌日
三月廿七日 信長 奈良之多門に至て御出 御奉行 塙九郞左衞門 菅屋九右衞門 佐久間右衞門 柴田修理 丹羽︀五郞左衞門 蜂屋兵庫頭 荒木攝津守 夕庵 友閑 重御奉行 津田坊 以上
三月廿八日 辰刻御藏開候へ訖彼名香長六尺の長持に納り在之則多門へ被持參御成之間於舞臺懸御目任本法一寸八分被切捕 御供の御馬廻末代の物語に拜見可仕の旨御諚にて奉拜の事且御威光且御憐愍生前の思出忝次第不申足 一年東山殿被召置候已來將軍家御望の旁數多雖在之唯ならぬ事候の問不相叶佛天之有加護て三國無隱御名物被食置於本朝御名譽御面目之次第何事加之
【巻七(五)
佐々木承禎︀石部城退散之事】四月三日 大坂御敵の色を立申候則御人數被出悉作毛薙拾近邊御放火候也
四月十三日 雨夜の紛に 佐々木承禎︀ 甲賀口石部の城退散則 佐久間右衞門人數被入置候也
【巻七(六)
賀茂競馬御馬被仰付之事】五月五日 賀茂祭競馬御神︀事天下御祈︀禱の事候幸御在洛の儀候間御馬被仰付候樣にと伺申處 信長 度々かち合戰にめさせられ候
五月廿八日 信長 岐阜に至て御下
【巻七(七)
高天神︀城小笠原與八郞謀叛之事】六月五日 武田四郞勝賴 遠州高天神︀城 小笠原 御身方として居城候を相働取卷の由注進候則
六月十四日 信長公 御父子濃州岐阜を打立十七日三州の內吉田の城坂井左衞門尉所に至て御着陣
【巻七(八)
黄金家康公へ被進候事】六月十九日 信長公 御父子今切の渡り可有御渡海︀の處 小笠原與八郞企逆心總領の小笠原を追出し武田四郞を爲㆓引入㆒之由申來候無御了簡路次より 吉田城迠引歸させられ候 家康も遠州濱松より吉田へ御出候て御禮申の處に今度不被及御合戰事御無念に被思食候御兵粮代として黄金皮袋二ツ馬に付させ家康公へ被參則坂井左衞門財所にて皮袋一ツを二人して持上あけさせ御覽候處事も生便數樣体貴賤御家中の上下致見物昔も不及承の由にて各驚耳目御威光不斜次第諸︀人奉感訖 家康公の御心中は計ひかたき御事也
六月廾一日 信長御父子濃州岐阜御歸陣
【巻七(九)
河內長島一篇被仰付之事】六月十三日 河內長島爲御成敗 信長御父子御馬を出され其日津島に御陣取抑尾張國河內長島と申者︀無隱節︀所也濃州より流出る川餘多へ岩手川大瀧川今洲川眞木田川市の瀬川くんぜ川山口川飛彈川木曾【 NDLJP:上48】川養老之瀬此外山〳〵の谷水の流れ末にて落合大河となつて長島の東北西五里三里の內幾重共なく引廻し南者︀海︀上漫々として四方之箇所申は中〳〵愚也依之隣國之侫人凶徒等相集り住宅し 當寺崇敬す本願寺念佛修行之道理をは本とせす學文無智故誇㆓榮花㆒朝夕亂舞に日を慕し搆㆓俗儀㆒數ケ所端城を拵國方之儀を蔑如に
南大島口攻衆 御本所 神︀部三七 桑名衆 此外勢州の舟大船數白艘乘入海︀上無所諸︀手大鳥居しのはせ取寄大鉄炮を以て塀櫓打崩被攻候の處に両城致迷感御赦免︀の御佗言雖申迚も不可有程の條侫人爲㆑懲︀干殺︀になされ年來の緩怠狼藉可被散御鬱憤の旨にて御許容無之處に
八月二日 之夜以外風雨候其紛に大鳥居籠城の奴原夜中にわき出退散候へと男女千計被切捨候
【巻七(十)
樋口夫婦御生書之事】八月十二日 しのはせ籠城の者︀長島
七月十三日に 島中の男女貴賤不知其數長島又は屋長島 中江三ケ所へ逃入候旣三ケ月相拘候間過半
九月廿九日 御佗官申長島明退候餘多の舟に取乘候を鐵炮を揃うたせられ無際限川へ切すてられ候其中心有者︀ともはたかみ成伐刀計にて七八百計切而懸り伐崩し御一門を初奉り歴々數多討死小口へ相働留主のこ屋〳〵へ亂れ入思程支度仕候てそれより川を越多藝山北伊勢口へちり〳〵に罷退大坂へ迯入也 中江城 屋長島の城 開越を在の男女二萬計幾重も
御名物被召置之事】
【 NDLJP:中4】【巻八○卷之八 (天正三年乙亥)
】
【巻八(一)
御分國道作被仰付事】天正三年乙亥
一去年月迫に國々道を可作の旨 坂井文介高野藤藏篠岡八右衞門山口太郞兵衞 四人爲御奉行被仰付 御朱印を以て御分國中御觸在㆑之無程正月中出來訖 江川には舟橋被仰付嶮路を平らげ石を退て大道とし道の廣さ三間に中路邊の左右に松と柳植置所々の老若罷出濺㆑水ヲ拂㆓微塵ヲ㆒致掃除候へキ先年より御分國中數多在之諸︀關諸︀儀等被成御免︀
二月廿七日 御上洛捶井迄御出翌日雨降御滯留 廿九日佐和山丹羽︀五郞左衞門所被成御座
三月三日 永原御泊 次日御出京相國寺御寄宿 三月十六日 今川氏眞御出仕百端帆御進上以前も千鳥の香爐宗祗香爐御進獻の處宗祇香爐被成了返シ千鳥之香爐止置せられ候へキ 今川殿鞠を被遊の由被及聞食
三月廿日於相國寺御所望 御人數 三條殿父子 藤宰相殿父子 飛鳥井殿父子 弘橋殿 五辻殿 鷹司殿 烏丸殿 信長者︀御見物
【巻八(二)
公家領德政にて被仰付候事】四月朔日 被仰出趣旣に近代 禁中
【 NDLJP:中5】【巻八(三)
河內國新堀城被攻干並譽田城破却事】三月下旬 武田四郞三州の內あすけ口へ相働候則信長の嫡男 織田
四月六日 信長京都︀より直に南方へ御馬を被出其日
四月八日 三好笑岩楯籠高屋へ取懸町を被破不動坂口相支推しつおされつ數ケ度戰也 伊藤與三右衞門弟 伊藤二介度々の先懸にて數ケ所の被疵ヲ討死也此時信長者︀ 駒か谷山より御目の下に被成御見物
四月十二日に住吉へ御陣替
十三日 天王寺に至て御馬寄られ畿內若狹近江美濃尾張伊勢丹後丹波播磨根來寺四谷の衆不殘罷立天
王寺住吉
四月十四日 大坂へ取寄御毛悉薙捨御人數十万余騎のつもり也 ケ樣に上下結搆成大軍不及見の由にて都︀鄙の貴賤皆驚㆓耳目
四月十六日 遠里小野へ 信長御陣取近邊耕作 信長御自身薙せられ堺の近所に新堀と申
四月十七日 御馬寄られ取卷被攻
四月十九日 夜に入諸︀手
討捕頸之注文 香西越後 十河內幡 十河越中 十河左馬允 三木五郞太夫 藤岡五郞兵衞
此外究竟の侍百七十余討死 高屋に楯籠 三好笑岩 友閑を以て御詫言赦免︀候し也 塙九郞左衞門被仰付河內國中高屋の城初として悉破却大坂一城落去不可有幾程
四月廿一日 京都︀に至て被納御馬 天下諸︀色被仰付
四月廿七日 御下 坂本より明智が舟にて佐和山迄可被成御渡海︀之處以外風出候て常樂寺へ御上候て陸を佐和山へ御成
四月廿八日 辰刻岐阜御歸城
【巻八(四)
三州長篠御合戰之事】五月十三日 三州長篠後詰として 信長 同嫡男菅九郞 御馬ヲ出され其日勢田に御陣を懸られ 當社︀入
五月十四日 岡崎に至て御着陣次日御逗留 十六日牛窪之城御泊當城爲御警固 丸毛兵庫頭織田三河守被置 十七日野田原に野陣を懸させられ十八日推詰 志多羅之鄕極樂寺山に御陣を被居 菅九郞 新御堂山に御陣取
志多羅之鄕は一段地形くぼき所候敵かたへ不見樣に段〳〵に御人數三萬計被立置先陣は國衆の事候の間家康たつみつ坂の上高松山に陣を懸 瀧川左近羽︀柴藤吉郞丹羽︀五郞左衞門內三人同あるみ原へ打上【 NDLJP:中6】武田四郞に打向東向に被備家康瀧川陣取の前に馬防の爲柵を付させられ彼あるみ原は左りは鳳來寺山より西へ
五月廿一日 辰刻取上旗首を推立
信長者︀ 家康陣所に高松山とて小高き山御座候よ被取上敵の働を御覽し御下知次第可働の旨兼而より被仰含鉄砲千挺計 佐々藏介前田又左衞門野々村三十郞福︀富平左衞門塙九郞左衞門 御奉行として近
〳〵と足輕懸られ御覽候前後より攻られ御敵も人數を出し候一番 山懸三郞兵衞推太皷を打て懸り來候鉄砲以て散〳〵に被打立引退二番に正用軒入替かゝれはのき退は引付御下知の如く鉄砲にて過半人數うたれ候へは其時引入也 三番に西上野小幡一黨赤武者︀にて入替懸り來關東衆馬上の功者︀にて是又馬可入
五月廿一日 日出より刁卯の方へ向て未刻迄入替〳〵相戰諸︀卒をうたせ次第〳〵に無人に成て何れも武田四郞旗元へ馳集難︀叶存知候歟鳳來寺さして噇と致廢軍其時前後の勢衆を亂し追せられ
討捕頸
中にも馬塲美濃守手前の働無比類︀此外宗徒の侍雑兵一萬計討死申或は山へ逃上り飢死或は橋より落され川へ入水に溺れ無際限候 武田四郞秘藏の馬小口にて乘損したる一段乘心無比類︀駿馬の由候て信長御厩に被立置三州の儀被仰付
五月廿五日 浪州岐阜御歸陣 今度之
三遠両國被仰付 家康年來の開愁眉被達御存分昔もケ豁身方無恙被破㆓損强㆒
【巻八(五)
山中之猿御憐愍之事】去程に哀成事有美濃國と近江の境に山中と云處あり道のほとりに
六月廿六日 俄に御上落御取紛
【巻八(六)
於禁中親王樣御鞠被遊之事】六月廿六日 御上洛其日佐和山に而少被成御休息早舟にめされ坂本に至て御渡海︀少風有御小性衆五六人被召列六月廿七日御上着相國寺御寄宿
七月朔日 攝家淸花其外播州の別所小三郞 別所孫右衞門 三好笑岩 武田孫犬 逸︀見駿河 粟屋越中 熊谷傳左衞門 山縣下野守 內藤筑前 白井松宮 畑田在洛 䀋河伯耆 是者︀御馬拜領畿內諸︀國面〻御出仕在之
七月三日於 禁中 親王樣御鞠被遊式掌の儀式御結搆不申足御馬廻計被召列御鞠過候て 信長くろ戶の御所御をき
御鞠の次第
御黒戶御所
初八勸修寺大納言
飛鳥井中將雅敦朝臣○
御○
三條大納言 藤宰相
○飛鳥井大納言
○五辻爲仲朝臣
庭田新大納言
二八竹內長治朝臣
甘露寺中納言○
日野輝資○
勸修寺御方左大辨 三條殿御方宰相中將
○山科左衞門督
○飛鳥井中將
三條侍從公宣朝臣
三八藤宰相御方永孝
中院通勝朝臣○
廣橋左少辨兼勝○
薄揚江繼 庭田御方源宰相中將
○萬里小路光房
○水無瀬御方親貞朝臣
五辻御方源宣仲
及晩藤宰相
御○
勸修寺大納言○
飛鳥井中將 三條大納言
○五辻爲仲朝臣
○飛鳥井大納言
烏丸御方光宣朝臣
【 NDLJP:中8】親王樣 御鞠御人數之事
卿 御たてゑほし御直衣色二あひ御さしぬき後にめさせられ候は御そはつゝき也色紅
各御ゑほし也 活白洲の上に
三條大納言殿 | 直衣色白 御さしぬき | 勸修寺大納言殿 | かり衣色ひわた 御さしぬき |
飛鳥井大納言殿 | かみ色むらさき 御くつ袴 | 庭田新大納言殿 | かり衣色もゑき 同 |
甘露寺中納言殿 | かみ色玉むし 同 | 藤宰相殿 | かみ色むらさき 同 |
山科左衞門督殿 | かみ色むらさき 同 | 源宰相中將殿 | かみ色むらさき 同 |
左六辨宰相殿 | かみ色とかけ 同 | 三條宰相中將殿 | かみ色もゑき 同 |
左頭中將殿 | 御かふりそくたい | 飛鳥井中將殿 | かみ色玉むし 同 |
烏丸辨殿 | かみむらさき色もんしや 同 | 竹內右兵衞佐殿 | かみもゑき色 同 |
中院殿 | かみ色むらさきそめいろ 同 | 水無瀬殿 | かみもゑきもんしや 同 |
三條侍從殿 | かみ色しん地繪あり 同 | 日野殿 | かみ色むらさき 同 |
廣橋殿 | かみこん地もんしや 同 | 永孝殿 | かみきんしや 同 |
權右少辨殿 | かみ黃色大しやうゑ 同 | 薄殿 | すはう |
新藏人殿 | かみやなきいろ | 右如件 |
七月三日 信長被進 御官位候へ之趣 勅諚雖御座候御斟酌にて御請無之
七月六日 かみ下京衆 妙顯寺にて能を仕懸御目候 御棧數之內攝家淸花之御衆幷夕庵友閑長安長雲等計也 御能八番有 勸世與左衞門 勸世又三郞 大鼓御所望にて仕候 七月十五日御下
【巻八(七)
越前御進發賀越両國被仰付之事】去程江州勢田之橋山岡美作守木村次郞左衞門両人に被仰付 若州神︀宮寺山 朽木山中より材木を取
七月十二日吉日の由候て柱立橋之廣さは四間長さ百八十間余双方に欄干をやり爲末代候之間丈夫に可懸置之旨被仰付候天下の御爲と乍申徃還旅人御憐愍也 十五日常樂寺迄御出 十六日捶井御泊 十七日
七月十七日 岐阜御歸城
八月十二日勢州へ御進發 其日捶井に御陣取 十三日大谷 羽︀柴筑前守所に御泊此時惣人衆へ筑前守所より兵粮を被㆑出たり十四日敦賀に御泊 武藤宗右衞門所に御居陣
御敵相拘候城〻
一
一木目峠 石田之 西光寺大將として一揆共引卒し在陣也
一鉢伏之城 專修寺 阿波賀三郞兄弟越前衆相拘
一今城
一火燧か城 兩城丈夫に拵往古の如くのうみ川新道川二ツの川の落合を關切湛㆑水 下間筑前守大將にて【 NDLJP:中9】相抱
一
一海︀手に新城拵 若林長門息甚七郞父子大將にて越前衆被出警固也
一府中之內龍門寺拵 三宅權丞在之
如此塞く
八月十五日 以外雖風雨候先兵悉く被打出越前牢人衆爲先陣
前波九郞兵衞 父子 富田彌六 毛屋猪︀介 佐久間右衞門 柴田修理亮 瀧川左近 羽柴筑前守 維任日向守 惟住五郞左衞門 別規右近 長岡兵部太輔 原田備中 蜂屋兵庫 荒木攝津守 稻葉伊豫 稻葉彥六 氏家左京助 伊賀伊賀守 磯野丹波 阿閉淡路守 阿閉孫五郞 不破河內 不破彥三 武藤宗右衞門 神︀戶三七信孝 津田七兵衞信澄 織田上野守 北畠中納言 同伊勢衆
初として三萬餘騎其手〳〵を爭だいらこへ諸︀口より御亂入
海︀上を働人數 粟屋越中 逸︀見駿河 粟屋彌四郞 內藤筑前 熊谷傳左衞門 山縣下野守 白井 松宮 寺井 香川 畑田
丹波より働之衆 一色殿 矢野 大島 櫻井
數百般相催し幡首打立〳〵浦〳〵湊〳〵へ上り所々に被舉烟候 圓强寺若林長門父子人數を出し候 維任日向 羽︀柴筑前兩人として不㆑屑追崩二三百討捕両人之居城乘込燒拂 八月十五日に頸を敦賀へ進上候て信長へ被懸御目候
八月十五日 夜に入府中龍門寺三宅權永楯籠候搆忍入乘取近邊放火候 木目峠 鉢伏 今城 火燧城に在之者︀共跡を被燒立潰㆑膽 府中をさして罷退候を 羽︀柴筑前守 維任日向守両人として府中之町にて賀州越前西國之一揆二千余騎被斬捨手抦の程不及是非に 阿波賀三郞 河波賀與三兄弟御赦免︀の御詫言雖申上候無御許容 原田備中に被仰付生害させられ候
十六日 信長敦賀を被成御立御馬廻其外一万餘騎被召列木目峠打越府中龍門寺 三宅權丞搆迄被寄御陣爰にて 福︀田三河守 被仰付路次爲御警固今城にをかせられ候
下間筑後 下間和泉 專修寺 山林に
之後佗言雖申候無御同心
八月十八日 柴田修理惟住五郞左衞門津田七兵衞兩三人鳥羽︀の城へ取縣責破五六百斬捨られ候
金森五郞八 原彥次郞 濃州口より郡上表へ相働 によう とこの山より大野郡へ打入數ケ所小城共攻破數多斬拾諸︀口より手を合放火候依之國中之一揆旣致廢忘取物も不取敢右往左往に山〳〵へ逃上候推次第山林を尋捜而不隔男女可斬捨之旨被仰出八月十五日より十九日まて御着到之而諸︀手より搦捕進上候分 一万二千二百五十余と記すの由也御小性衆へ被仰付誅させられ候其外國〻へ奪取來男女不知其員生捕と誅させられたる分合可及三四萬にも候し歟
八月廿三日 一乘之谷へ 信長被移御陣 參陣は賀州迄 稻葉伊豫父子 維任日向守 羽︀柴筑前守 永岡兵部太輔 別喜右近 打入之趣御注進有【 NDLJP:中10】八月廿八日 豐原へ被寄御陣を
去程 堀江 小黒の西光寺連々申上る筋目在之御赦面之御禮申上候 賀州能美郡
九月二日 豐原より北庄へ 信長被成御越城取御繩張されられ御要害被仰付北庄御普請塲にて高島打
府中に足懸搆 不破彥三 佐々藏介 前田又左衞門 兩三人に二郡被下在城也
一敦賀郡 武藤宗右衞門在地也
維任日向守 直に丹波へ可相働の旨に候
一丹後國 一色殿へ被參候
一丹波國 桑田郡 舟井郡 細川殿へ被進
荒木攝津守 是も越前より直に播州奧郡へ相働人質執固可參之旨被仰付候
九月十四日 信長 豐原より北庄迄被納御馬候 瀧川左近 原田備中 惟住五郞左衞門兩三人として
北庄足羽︀山に御陣屋御普譜被申付御馬廻御弓衆歷〳〵固前後結搆さ中〳〵催興事候賀越両國之諸︀侍馳集以有綠歸參之御禮門前成市事候賀州奧郡之一揆共 信長 節︀歸陣之由承及候歟人數を出し候 羽︀柴筑前 與天所之由候て懸付及一戰究竟の者︀頸數二百五十余討捕是より歸陣
掟 條々 越前國
一國中へ非分課役不可申懸伹差當子細有て於可申付者︀我々へ可相尋隨其可申出事
一國に立置候諸︀侍を
一
一京家領之儀亂以前於當知行者︀可還附朱印次第たるへき事但理有之
一分國いつれも諸︀關停止之上は當國も可爲同前事
一大國を預置之條万端に付て機遣由斷有ては曲事に候第一武篇簡要候武具兵粮嗜候て五年も十年も慥に可拘分別勿論候所詮欲を去可執物を申付所務候樣に可爲覺悟候子共寵愛せしめ手猿樂遊興見物等可停止事
一鷹をつかふへからす但足塲とも可見ためには可然候さも候はすは無用に候子共之儀は不可有子細候事
一領中之員數は雖可寄候と二三ケ所も給人不付是は忠節︀の輩それ〳〵隨て可扶助ス地に候由申可抱置候武篇勵候へとも可思賞所領無之と諸︀人見及候はゝ□には勇も忠儀も可淺之條其分別尤候給人不付候間は可爲【 NDLJP:中11】一雖事新き子細候於何事も信長申次第に覺悟肝要候さ候とて無理非法之儀を心にをもひなから巧自不可申出候其段も何とそかまひ有之者︀理に可及聞屆可隨其候とにもかく我々を崇敬して
天正三年九月日
越前國の儀多分柴田令覺悟候兩三人をは柴田爲目付兩郡申付置之條善惡をは柴田かたより可吿越候互に磨合候樣に分別專一候於用捨者︀可爲曲事者︀也
天正三年九月日
不破河內守殿 佐々內藏助殿 前田又左衞門殿
如此被仰付 九月廿三日 北庄より府中迄御出 廿四日 つば井坂 御泊
廿五日 捶井よ 御陣宿
九月廿六日 岐阜 御歸城
【巻八(八)
大坂三軸進上之事】十月三日 奧州へ取に被遣候御鷹五十足上候內 廿三足被召上其外は各被召置
十月十日 御上洛今度の上鷹十四足
十二日 永原 御寄宿 勢田の橋出來申に付て可被成御一見爲陸を御上京事も生便敷橋の次第也各被驚耳目候然而攝家淸花隣國面々等勢田逢坂山科粟田口邊に御迎衆みち〳〵て崇敬不斜二條妙光寺に至而御上着
十月十九日 奧州伊達 方より名馬 がんぜき黒 白石鹿毛 御馬二幷に
御
信長 其日淸水へ御成 村井長門被仰付右の御使衆淸水にて御振舞在之
御返書注文
虎皮 五枚 豹皮 五枚 段子 十卷 志々羅 二十端 以上
二人之使者︀に黃金二枚被下御禮中御下也
十月廿日 播州の赤松 小寺 別所 其外國衆參洛候て御禮在之
十月廿一日 大坂門跡之儀 三好笑岩 友閑 兩人御使申御赦免︀也
小玉檻 枯木 花之繪 三軸進上候て年寄共罷參 平井 八木 今井 御禮在之
天下無㆑隱 三日月の
【巻八(九)
御茶之湯之事】十月廿三日
飛驒國司姉小路中納言卿御上洛候て御禮在之 栗毛御馬御進上一段候駿馬にて御秘藏不斜
十月廿八日 京堺之數寄仕候者︀十七人被召寄 妙光寺にて御茶被下候
御座敷の飾 一御床に晩鐘 三日月の御壺 一違棚に置物七臺に 白天目內赤ノ盆につくもかみ
一下には
【巻八(十)
信長御昇殿之事】去程 大將後拜賀之政可被執行の爲 十月初より 木村次郞左衞門 爲御奉行 禁中に陣座御建立即時に出來訖
天正三年乙亥十一月四日
信長有御昇殿而大納言の御位に任ぜられ
同七日御拜賀之御禮御名代として三條大納言殿を以て被仰上其時の爲御番固御弓の衆百人供奉候之處忝も從
天子 御かはらけ被出頂戴上古末代面目御威光不可過之に此節︀ 信長 右大將に重而被進 御官位砂金卷物盡其員被備 叡覽 諸︀公家衆御支配候て知行を被參氏名譽の次第也
【巻八(十一)
武田四郞岩村にて失勝利之事】去程に武田四郞 岩村へ後卷として甲斐信濃土民百姓等迄かり催罷出旣打向の由注進候の間
十一月十四日戌刻 京都︀を被成御立夜を日に繼十五日に岐阜に至而御下
【巻八(十二)
菅九郞殿岩村御存分に被仰付之事】
八月廿一日 秋山 大島 座光寺 御赦免︀の御禮申上候を召捕濃州岐阜へ被召寄右三人長良の河原に張付に被懸置其外諸︀卒 遠山市丞丸へ追攻させられい不移時刻切て出 遠山二郞三郞 遠山市丞 遠山三郞四郞 遠山德林 遠山三右衞門 遠山田脇 遠山藤飛 切て出散〳〵に切崩餘多に手を負せ終に生害候殘無悉燒殺︀になされ候
武田四郞此由承候て本國へ無曲 馬を入候 菅九郞 御存分に被仰付 岩村之城河尻與兵衞被入置
霜月廿四日 岐阜に至て御歸陣
【巻八(十三)
菅九郞殿御位之事】今般 菅九郞 無比類︀御働に付てかけまくも忝從
天帝 蒙御院宣を被任 秋田城介御冥加之至也
【巻八(十四)
御家督御讓之事】十一月廿八日信長 御家督秋田城介へ被渡進誠に信長卅年被置御粉骨御屋形
【 NDLJP:中13】【巻九○卷之九 (天正四年丙子)
】
【巻九(一)
安土御普請之事】天正四年丙子
正月中旬より江州安土山御普請 惟住五郞左衞門に被仰付
二月廿三日安土に至而 信長 被移住座先御普請御意に
四月朔日より當山大石を以て御搆之方に石垣を被築又其內には天主を可被仰付之旨にて尾濃勢三越若州畿內之給倍京都︀奈良堺之大工諸︀職人等被召寄在安土仕候て
石奉行 西尾小左衞門 小澤六郞三郞 吉田平內 大西
大石を撰取小石を被選退爰に 津田坊 大石御山之麓迄雖被寄候
京都︀にも御座所可被仰付之由にて安土御普請之儀は御息 秋田城介信忠に樣子仰をかせられ
【巻九(二)
二條殿御搆御普請之事】【※ 晦は朔の過りなるへし】四月
二條殿御屋敷
【巻九(三)
原田備中御津寺へ取出討死之事】四月十四日 荒木攝津守 永岡兵部太輔 維任日向守 原田備中 四人被仰付
五月三日 早朝先は三好笑岩根來和泉衆二段は原田備中大和山城衆致同心彼木津へ取寄候之處 大坂ろうの岸より罷出一万計にて推つゝみ數千挺の鉄砲を以て散〳〵に打立上方の人數くつれ 原田備中手前にて
【巻九(四)
御後卷再三御合戰之事】五月五日
五月七日御馬を被寄 一萬五千計の御敵は纔三千計にて被㆓打
御先一段 佐久間右衞門 松永彈正 永岡兵部太輔 若江衆爰にて荒木益津守る先を仕候へと被仰候へは我〳〵は木津口之推を仕候はんとや候て御請不申 信長後に先をさせ候はて御滿足と被仰候キ
二段 瀧川左近 蜂屋兵庫 羽︀柴筑前 惟住五郞左衞門 稻葉伊豫 氏家左京助 伊賀伊賀守三段御備 御馬廻
如此被仰付 信長者︀先手の足輕に打まじらせられ懸廻り爰かしこと被成御下知薄手を負せられ御足に鐵砲あたり申候へともされ共天道照覽にて不苦御敵數千挺の以鉄砲はなつ事如㆓降雨㆒雖㆓相防㆒噇と懸り崩一揆共切捨天王寺へ懸入御一手に御成候雖然大軍之御敵にて候問終に不引退人數を立固相支候を又重而可被及御一戰之趣上意候爰にて各御身方無勢候間此度者︀御合戰御延慮尤之旨雖被申上候今度間近く寄合候事與天所の由御諚候て後は二段に御人數被備又切懸り追崩し大坂城戶口迄追付 頸數二千七百余討捕是より大坂四方塞〳〵に十ケ所付城被仰付 天王寺には 佐久間右衞門 甚九郞 進藤山城 松永彈正 松永右衞門佐 水野監物 池田孫次郞 山岡孫太郞 靑地千代壽 是等爲定番被置 又住吉濱手に要害拵へまなべ
六月五日被納御馬其日 若江御泊次日 眞木島へ御立寄 井戶若狹に被下忝次第也 二條妙覺寺御歸洛翌日安土に至て御歸陣
七月朔日より重て安土御普請被仰付何れも粉骨之働に依て或は御服或は金銀專物拜領不知其數今度名物 吊繪 惟住五郞左衞門 上意を以てめし置申され 大軸之檜 羽︀柴筑前 被取求兩人名物所持被仕候事御威光難︀有次第也
【巻九(五)
西國より催大船木津浦船軍歷々討死之事】七月十五日の事候 中國安藝之內
打向人數 まなべ七三兵衞 沼野傳內 沼野伊賀 沼野大隅守 宮崎鎌太夫 宮崎
是らも三百余艘樂出し 木津川口を相防候 御敵者︀大船八百艘計也乘懸相戰候陸者︀大坂ろうの岸 木津ゑつ田が城より一揆共競出住吉後手之城へ足輕を懸天王寺より 佐久間右衞門 人數を出し橫手に懸合推つをされつ數刻之戰也ケ樣候處海︀上者︀ほうろく火矢なとゝ云物をあしらへ御身方の舟を取籠投入〳〵燒崩多勢に不叶 七三兵衞伊賀傳內野口小畑鎌太夫鹿目介 此外歴〳〵數輩討死候西國所は得勝利大坂へ兵粮入西國へ人數打入也 信長可被成御出馬處旣落去之由候の間不及是非其後住吉濱之城爲定番
【巻九(六)
安土御普請首尾仕之事】 安土山御天主之次第
石くらの高さ十二間余也 石くら之內を一重土藏に御用是より七重也
二重石くらの上廣さ北南へ廿間西東へ十七間高さ十六間ま中有柱數二百四本立本柱長さ八間ふとさ一尺五寸六寸四方一尺三寸四方木 御座敷之內悉布を
三重め十二疊敷花鳥の御繪有則花鳥の間と申也 別に一段四てう敷御座の間有 同花鳥の御繪有 次南八疊敷 賢人の間にひようたんより駒の出たる所有 東麝香の間八疊數 十二てう敷御門之上 次八てう數 呂洞賓︀と申仙人幷ふゑつの圖有 北廾疊敷 駒の牧の御繪有 次十二てう數 西王毋の御繪有 西 御繪はなし御綠二段廣緣也 廿四てう敷の御物置の御南户有 口に八てう敷之御座敷在之 柱數百四十六本立也
四重め 西十二間に岩に色々木を被遊則岩の間と申也 次西八疊敷に龍虎之戰有 南十二間竹色〳〵
かゝせられ竹の間と申 次十二間に松計を色〳〵被遊則松の間と申 東八疊敷桐に鳳風かゝせらる 次八疊敷きよゆう耳をあらへはそうほ牛を牽而歸所兩人の出たる故鄕体 次御小座布七疊敷でい計にて御繪はなし 北十二疊敷是に御繪はなし 次十二てう敷此內西二間の所にてまりの木被遊 次八疊敷
五重め御繪はなし南北の破風口に四疊半の御座數両方に有 こ屋の段と申也
六重め八角四間有
上七重め三間四方 御座敷の內皆金也そとかは是又金也 四方の內柱には
上一重のかなくは 後藤平四郞仕候 京田舍衆手を盡し申也
二重めより京の たい阿彌かなく也
御大工 岡部又右衞門
抑當城者︀深山こう〳〵として麓者︀歷々薨を並繼㆑軒
又
先年佐和山にて被御置候大船一年 公方樣御謀叛之砌一度御用に立られ候此上者︀大船不入之由にて 猪︀飼︀野甚介に被仰付取ほとき早舟十艘に作をかせられ
十一月四日 御上洛陸を勢田通二條妙覺寺に至て御寄宿
同十二日 赤松 別所小三郞 別所孫右衞門 浦上遠江守 浦上小次郞 參洛候て御禮在之
【巻九(七)
被進御官御衣御拜領之事】天正四丙子十一月廿一日
重而被㆑進㆓信長 內大臣に御官㆒又今般攝家淸花等へ御知行被參
禁中へ黃金貳百枚沈香卷物色々盡員被備叡覽其時かけまくも忝 御衣を御拜領御面目次第不可過之御官位任吉例直に石山世尊院に至而御成 山岡美作 山岡玉林 兄弟御祝︀言之御膳上申され石山兩日御鷹つかはされ 霜月廿五日 安土御下
【巻九(八)
三州吉良御廣野之事】十二月十日 吉良爲御鷹野佐和山御泊 十一日岐卓迄御出 翌日御退留 十三日尾州淸須御下着 廿二日 三州吉良に至て御着座 三日之御逗留ものかす被仰付 廿六日 淸洲迄御歸
十二月晦日 濃州御成岐阜にて御越年候へキ
【 NDLJP:中17】【巻十○卷之十 (天正五年丁丑)
】
【巻十(一)
雜賀御陣之事】天正五年丁丑
正月二日 三州吉良御鷹野より安土御歸陣
正月十四日御上洛 二條妙覺寺御成 隣國之面々等播州の 浦上遠江守 別所小三郞 若州の武田各在京候て御禮申上天下之儀被仰付 正月廿五日御下
二月二日 紀州
八日に可有御出京の處雨降候延引
九日に御上洛二條妙覺寺御泊 秋田城介信忠 尾州濃州の御人數被召具 九日に御出馬 其日柏原後陣取 十日には飛驒の城 蜂屋兵庫頭所に御泊 十一日 守山御居陣 伊勢の國司北畠中將
二月十三日 信長公
【 NDLJP:中18】二月十八日 佐野の鄕に至て被移御陣 廾二日 志立へ被寄御陣濱手山方両手を分而御人數被差遣山方へは根來杉之坊三緘衆爲案內者︀ 佐久間右衞門 羽︀柴筑前 荒木攝津守 別所小三郞 別所孫右衞門 堀久太郞 雜賀之內へ乱入し端〳〵燒拂御敵小雜賀川を前にあて川岸に柵を付相拘 堀久太郞人數噇と打入向の川岸まて乘渡し候處岸高く候て馬もあからす爰を肝要と鉄砲を以て相拘候間 堀久太郞 能武者︀數輩討せ引退其後川を限て取詰 稻葉父子 氏家左京亮 飯︀沼勘平 先陣通路爲御警固紀の川渡り口よ被照陣 濱手の方へ被遣候御人數 瀧川左近 維任日向 惟住五郞左衞門 永岡兵部太輔 筒井順慶 大和衆 谷之輪口より先は道一筋にて節︀所候間鬮取にして三手に作て山と谷と亂入中筋道通 長岡兵部太輔 維任日向守被打入候之處雜賀之者︀共罷出相支及一戰 秋田城介信忠 北畠中將信雄 織田上野守 神︀戶三七信孝 二ノ目を推付御出 永岡內下津權內 一番鏈を合無比類︀働也以前も 岩成主稅ノ
二月廿八日 丹和迄 信長公御陣を寄られ依之中野の城降參申退散也則 秋田城介信忠 御請取候て御居陣也
二月晦日 信長公 丹和を被成御立此時下津權內被召出被成御對面被加御詞諸︀人之中の面日高名不可過之其日は野陣を懸させられ當表懸まはし御覽被計
三月朔日 瀧川 繼任 蜂屋 永岡 筒井 若狹衆 被仰付 鈴木孫一居城取詰竹たはを以て攻寄城樓を上日夜あら〳〵と被攻何方へも懸令能樣にと被思食
三月二日 信長公 山方濱手兩陣の中とつとり之鄕 若宮八幡宮へ被移御陣 堀久太郞 不破河內 丸毛兵庫 武藤惣左衞門 福︀富平左衞門 中條將監 山岡美作 牧村長兵衞 福︀田三河 丹羽︀右近 水野大勝 生駒市左衞門 生駒三吉 此等根來口へ被差遣小雜賀紀伊の川より取續き山手に陣とらせ御在陣也
【巻十(二)
內裡御築地之事】去程に京都︀には雜貨表御陣之儀取〳〵申に付て
三月十二日より番〳〵につもり請取之手前〳〵舞臺をかさり
【巻十(三)
御名物被召置之事】雜賀表多人數永〻御在陣
三月廿一日 信長公御馬を被納 香庄に至て 御陣取次日御逗留 佐野之村に御要害可仕之旨被仰付 佐久間右衞門 維任日向守 惟任五郞左衞門 羽︀柴筑前守 荒木攝津守に殘し置せられ
杉之坊 津田太郞左衞門 定番に被置
三月廿三日 若江迄御歸陣【 NDLJP:中19】一
是又被召上 三種之代物金銀を以て被仰付 次日
三月廿四日 八幡御泊 廿五日 御歸洛 二條妙覺寺 御歸宿
三月廿七日 安土に至て 御歸城
【巻十(四)
二條御新造御移徙之事】七月三日 奧州伊達御鷹のほせ進上
【巻十(五)
近衞殿御方御元服之事】後七月十二日 近衞殿御方御元服之御望に候從
御服十重 御太刀代 萬疋 長光の御腰物 金子 五十枚 已上
信長 御面目の次第中〳〵無申計天下之儀被仰付
後七月十三日御下 其日は勢田山岡美作所に御泊 次日 安土 御歸城
【巻十(六)
柴田北國相働之事】八月八日 柴田修理亮 大將として北國へ御人數被出候 瀧川左近 羽︀柴筑前守 惟住五郞左衞門 齋藤新五 氏家左京亮 伊賀伊賀守 稻葉伊豫 不破河內守 前田又左衞門 佐々內藏介 原彥二郞 金森五郞八 若狭衆 賀州へ亂入添川手取川打越小松村本折村阿多賀富樫所々燒拂在陣也 羽︀柴筑前御届をも不申上歸陣仕候段曲事之由被成御逆鱗迷惑申され候
【巻十(七)
松永謀叛並人質御成敗之事】大坂表へ差向候付城天王寺に爲定番 松永彈正 息右衞門佐 被置候處に
八月十七日企謀叛取出を引拂大和の內信貴之城へ楯籠 何篇之子細候哉存分申上候て 望を可被仰付之趣 宮內卿法印を以て被成御尋候へとも挿逆心候之間不罷出此上は松永出し置候人質京都︀にて可被成御成敗之由にて 御奉行 矢部善七郞 福︀富平左衞門 被仰付彼子共永原之 佐久間與六郞所に預け被置候京都︀へ被召上いまた十二十三のせかれ二人何れも男子にて死ぬる子みめよしと申たとへの如く姿形心もゆうにやさしき者︀共候 村井長門守 宿所にと〻めあすは 內裡へ走入助可申由申きかせ髮ゆい衣裝もうつくしく改出立可然之由申候之處それは尤之事とても命御たすけは有間敷物をと申とかく親兄弟之方へ
九月廿七日 秋田城介信忠 御人數被出 其日は江州飛彈の城 蜂屋兵庫守所に御泊
九月廾八日 安土にて 惟住五郞左衞門所に御寄宿 翌日後逗留
【巻十(八)
片岡城被攻干事】九月廿九日 戌刻西に當て希に有之客星ほうき星
松永彈正 一味として 片岡の城へ 森のゑびなと云者︀楯籠
攻衆 永岡兵部太輔 維任日向守 筒井順慶 山城衆
十月一日 片岡之城へ取懸被攻候 永岡與一郞 同弟頓五郞 あには十五おとゝは十三
死させ與一郞 頓五郞 兄弟高名也 維任日向守 是又手を碎究竟之者︀二十余人うたせ粉骨の働名譽之事也年にも不㆑足兩人之働無比類︀之旨被成御感忝も 信長公 御感狀被成下後代之面目也
【巻十(九)
信貴城被攻落之事】十月朔日 秋田城介信忠 安土を打立て 山岡美作所御泊 翌日 眞木島御陣取
同三日には信貴之城へ推詰 御陣を居させられ城下悉放火なされ御在陣也 北國賀州表へ被差遣たる御人數國中之耕御薙捨 御幸塜 普請文夫に拵 佐久間玄蕃を入置 大正寺是又普請申付何れも柴田修理亮人數被入
十月三日 北國表の諸︀勢歸陣也
十月十日之晩に 秋田城介信忠 佐久間 羽︀柴 維任 惟住 諸︀口被仰付 信貴の城へ被攻上夜責にさせられ防戰弓折矢尽松永天主に火を懸
【巻十(十)
中將信忠御位之事】十月十二日 秋田城介信忠 御上洛二條妙覺寺御寄宿 今度松永早速御退治爲御褒美かけまくも忝被成 御院宜被叙 三位中將御父子共御果報中〳〵御名譽無申計 三條殿まて御意候有而御祝︀言之爲御太刀代黃金三十枚奉備 叡覽 三條殿へも御禮有之
十月十五日 安土に至て御下着 信長公へ松永父子一門御退治之趣被仰上 十月十七日 岐阜御歸陣
十月廿三日 羽︀柴筑前守秀吉 播州に至而出陣
十月廿八日 播磨國中夜を日に繼て懸まはり悉人質執固 霜月十日比には播磨表
霜月十三日 信長公 御上洛 二條御新造へ被移御座
【巻十(十一)
御鷹山獵御參內之事】霜月十八日 御鷹山獵として御參 內何れも思〳〵御山立有㆑興頭巾催㆓一興㆒皆狩杖等迄金銀に
御叡覧之後 達智門へ出させられ直に東山御鷹つかはされ折節︀俄に大雪降來て御鷹風におとされ大和國內之郡迄飛行御祕藏之御鷹候間萬方被成御尋候次日大和國 越智玄蕃と云者︀御廳居上進上仕候候機嫌不斜則爲御褒美御服一重御祕藏之
【巻十(十二)
伹馬播磨羽︀柴被申付事】霜月廿七日 熊見川打越御敵城
今度北國より歸陣仕御折檻迷惑之故西國にて可然か責をいたし是を見上に可仕と被存知夜を日に繼懸廻 羽︀柴筑前 粉骨之働無比題目也
信長天下之儀被仰付
十二月三日 京都︀より安土に至て御歸城
【巻十(十三)
三州吉良御鷹野之事】十二月十日 三州吉良御鷹野に御出 近日に 羽︀柴筑前可罷上候今度但馬播磨申付候爲御褒美 たとごせの御釜被下之由にて取出し被置 罷參次第 筑前に渡し候へと被仰付候忝御事也 信長公 其日は佐和山惟住所に御泊 次日捶井 御成 十二日岐阜に至て被移 後座 翌日 御逗留 十四日雖雨降候尾州淸洲御下着
十二月十五日 三州吉良まて御成有て鴈鶴︀餘多被成御取飼︀
十九日には濃州岐阜へ御出
去
程に路次にて緩怠之者︀御座候を 信長公 御手討に被仰付候十二月廿一日には安土まて日通に御歸城候也
【巻十(十四)
中將信忠へ御名物十一種被參事】十二月廿八日 岐阜中將信忠卿 安土に至て御出 惟住五郞左衞門所御泊
信長公より御名物之御道具被參候 御使寺田善右衞門
一初花 | 一 |
一雁繪 | 一竹子花入 | 一くさり |
一藤なみの御釜 | 一道三茶椀 | 一內赤盆 | 八種 |
又次日被參候此時之後使 宮內卿法印
一周德さしやく | 一大黒あん所持之 ひようたんの炭入 |
一古市播州所持之 高麗はし | 三種 |
【 NDLJP:中22】【巻十一○卷之十一 (天正六年戊寅)
】信長公記卷之十一
【巻十一(一)
御茶湯之事】天正六年戊寅
正月朔日 五畿內泉州越州尾濃江勢州隣國之面〻等安土にて各御出仕後禮在之
先朝之御茶十二人に被下 御座敷右勝手六疊布四尺
御人數之事 中將信忠卿 二位法印 林佐渡守 瀧川左近 永岡兵部太輔 維任日向守 荒木攝津守 長谷川與次 羽︀柴筑前 惟住五郞左衞門 市橋九郞右衞門 長谷川
御飾之次第 御床に岸の御繪 東に松島西に三日月 四方盆 萬歲大海︀ 水さしかへり花 周光茶碗 圍爐裏に御釜うは口くさりにて 花入筒也 御茶道 宮內卿法印 以上
御茶過候て各御出仕有 三献にて御盃御拜領 御酌 矢部善七郞 大津傳十郞 大塜又一 靑山虎 其後 御殿殿御座所迄皆見せさせられ三國の名所を 狩野永德に被仰付
正月四日に 萬見仙千代所にて御ひらき之被成御會 此時之人數九人
二位法印 宮內卿法印 林佐渡守 瀧川左近 長谷川與次 市橋九郞右衞門 惟住五郞左衞門 羽︀柴筑前守 長谷川宗仁 以上
今度 市橘九郞右衞門に芙蓉の御繪 信長公より被下外聞面目之至也
【巻十一(二)
御節︀會之事】去程に 御節會
禁中へ被備 叡覽之處に則
皇家に被懸置 叡威有而御悅不斜近衞殿へも御鷹鶴︀被進御使
正月十三日 尾州淸洲にて御鷹つかはさるへき爲柏原迄御成十四日岐阜へ御下翌日御逗留十六日尾州淸須へ御下着 十八日三州吉良へ御成雁鶴︀餘多被成御取飼︀ 廿二日尾州へ御歸
廿三日 岐阜まて御上り次日御滯留
廿五日 安土に至て御歸城
【巻十一(三)
回錄御弓衆御折檻之事】正月廿九日 御弓之者︀ 福︀田與一 宿より火事出來 是偏に妻子を引越候はぬ故回錄候由被成 御諚則 菅谷九右衞門 爲御奉行御着判を付させられ御改候之處御弓衆六十人御馬廻六十人百廿人妻千越候はぬ者︀一度に御折檻御弓衆之內より火を出し申に付て先曲事之旨 上意にて 岐阜中將信忠公へ被仰遣岐阜より御奉行被出尾州に妻子置申候御弓衆之私宅悉被成御放火竹木迄
【巻十一(四)
磯野丹波磯貝新左衞門事】戊寅二月三日 磯野丹波守 上意を違背申被成御折檻逐電仕則高島一向に 津田七兵衞信澄 被仰付候也
戊寅二月九日 吉野之奧山中に 磯貝新右衞門隱居仕候を同地之者︀頸を切安土へ致進上候爲御褒美黃金被下一度蒙御憎︀候之者︀不属御存分と云事なし
戊寅二月廿三日 羽︀柴筑前守秀吉 播州へ相働 別所與力嘉古川の 賀須屋內膳 城を借 羽︀柴筑前人數入置秀吉は書寫山取上り要害搆居陣也 然間 別所小三郞存分を申立三木城へ楯籠也
【巻十一(五)
相撲之事】戊寅二月廿九日 江州國中之相撲取三百人被召寄 安土御山にて相撲とらせて御覽候此
廿三人撰和撲人數 東馬二郞 たいとふ 日野長光 正權 妙仁 圓淨寺 地藏坊 力圓 草山 平藏 宗永 木村いこ助 周永 あら鹿 づこう 靑地孫二郞 山田與兵衞 村田吉五 太田平左衞門 大塜新八
戊寅三月六日 御鷹山狩として奧之島山へ被成御上り長命寺 若林坊に御泊 三日之御鷹野物かす被仰付 八日に安土御歸陣
戊寅三月廿三日 御上洛 二條御新造へ被移御座
【巻十一(六)高倉山西國陣之事】戊寅四月四日 大坂表御人數被出 三位中將信忠 御大將軍にて尾濃勢州 北畠信雄卿 織田上總守 神︀戶三七(信孝) 津田七兵衞(信澄) 瀧川左近 維任日向守 蜂屋兵庫頭 惟住五郞左衞門 江州 若州 五畿內衆罷立 四月五日六日兩日 大坂へ取詰悉麥苗薙捨御歸陣也
【 NDLJP:中24】戊寅四月七日 越中 神︀保殿 二條御新造へ被召寄此比 御對面無御座子細 二位法印 佐々權左衞門を以て被仰出黃金百枚並志々良百端被參輝虎 被相果付て飛彈國司へ被仰出 佐々權左衞門 相添越中へ入國候也
戊寅四月十日 瀧川 維任 惟住兩三人丹波へ被差遣御敵城 荒木山城 居城取卷水之手を止攻られ候致迷惑降參申退散去て 維任日守向人數入置
戊寅四月廿六日 京都︀に至て御歸陣
四月中旬 藝州より 毛利 吉川 小早川 宇喜田初として中國之催人數罷出備前播磨美作三ケ國之境目に在之
戊寅四月廿二日 信長公 京都︀より安土御下 四月廿七日 又御出京
五月朔日 播州被成 此動產東國西國之人數
彼樣子見計候て可申上候間被加御延慮尤之由各達て御異見也
寅四月廿九日 瀧川 維任 惟住 出陣
戊寅五月朔日 三位中將信忠 北畠信雄卿 織田上野守 神︀戶三七(信孝) 永岡兵部大輔 佐久間 尾州 濃州 勢州 三ケ國之御人數にて御出馬其日郡山御泊 翌日兵庫六日には播州之內明石之並大窪と云在所御陣を居られ候先陣御敵城 神︀吉 志かた 高砂へさし向嘉古川近邊に野陣を懸られ
【巻十一(七)
洪水之事】五月十三日 信長公可被成 御動座候旨被仰出候處 十一日巳刻より雨つよく降十三日午刻迄夜日五日雨あらくふり續洪水生便敷出候て賀茂川白川桂川一面に推渡し都︀の小路〳〵十二日十三日兩日者︀一ツに流上京舟橋之町推流水に溺人餘多損死候也 村井長門 新敷被懸候四條之橋流れケ樣に洪水にて候へとも今迄 信長公御出陣と候へは御日取之日限相違無御座に依て御舟にても可被成 御動座歟之儀を存知淀鳥目宇治眞木之島山崎之者︀共數百艘五條油之小路迄
五月廿四日 竹中半兵衞申上候之子細は備前內八幡山之城主 御身方仕候由申越候被成御滿足羽︀柴筑前秀吉かたへ黄金百枚幷竹中半兵衞に銀子百兩被下忝次第にて罷歸候也
寅五月廿七日 信長安土大水之樣子可被成御覽爲御下 松本より矢橋へ御舟にめされ御小姓衆計にて御渡海︀
寅六月十日 信長御上洛又矢橋より舟にて松本へ御上り
寅六月十四日 祇園會 信長御見物御馬廻御小姓衆何れも弓鑓長刀持道具無用之由 御諚証にて被持候はす祭御見物之後御伴衆被成御歸シ御小姓衆十人計にて直に御鷹野へ御出雨少際其日 近衞殿へ御知行合千五百石山城之內普賢寺にて被進候
【巻十一(八)播磨神︀吉城攻之事】寅六月十六日 羽︀柴筑前守 播州より罷上一〳〵被得 御諚之處謀略不相調張陣候ても無曲候問先此陣引拂神︀吉志かたへ押寄攻破其上三木別所搆取詰可然之旨被仰出神︀吉城責
【 NDLJP:中25】御撿使 大津傳十郞 水野九藏 大塜又一郞 長谷川竹 矢部善七郞 菅谷九右衞門 万見仙千代 視︀彌三郞 御番替に被仰付
寅六月廿一日 信長京都︀より安土至て御下
六月廿六日 瀧川 維任 惟住 人數三日月山へ請手に引上 羽︀柴筑前 荒木攝津守 高倉山之人數
引拂書寫迄諸︀方打納 次日は神︀吉の城取詰 北より東の山に 三位中將信忠卿 神︀戶三七信孝 林佐渡守 永岡 佐久間 前後左右段〳〵に取續陣を懸させられ 志かたの城 北畠信雄卿 御陣取也 惟住五郞左衞門 若州衆請手として西の山に陣を張此外之御人數 瀧川 稻葉 蜂屋 筒井順慶 武藤惣右衞門 維任 伊賀 氏家 荒木 是等者︀神︀育の城あら〳〵と取寄搆即時に攻破
寅六月廿九日 信長公より被仰出兵庫と明石之間明石より高砂之間道の程遠く候間舟手の海︀賊等爲警固 津田七兵衞 山城衆相加 万見仙千代被遺可然地を見計置可申之趣 御諚にて能山を足懸りに拵置 仙千代は罷歸樣子言上候し也此外路次つまり〳〵に 三位中將信忠卿より被仰付 林佐渡 市橋九郞左衞門 淺井新八 和田八郞 中島勝太 塜本小大膳 簗田左衞門太郞 番替に御警固候し也去程 洛中四條道塲(戊寅)七月八日巳刻寮舍より火を出し囘祿時節︀到來也
寅七月十五日夜に入 神︀吉之城へ瀧川左近 惟住五郞左衞門兩手より東之丸へ乘入 十六日に中之丸へ責込 神︀吉民部少輔 討とり 天主に火を懸込入込出し戰事火花を散し
【巻十一(九)
九鬼大船之事】勢州之 九鬼右馬允に被仰付大船六艘作立並瀧川左近 大船一艘是は白舟に拵順風見計
寅六月廿六日 熊野浦へ押出し大坂表へ発廻候之處各之輪海︀上にて 此大艦可相支
【 NDLJP:中26】【巻十一(十)
小相撲之事】去程 三位中將信忠 岐阜に而庭子の御鷹
寅七月廿三日 持參候處右之內一足破召上殘り者︀中將信忠へ被成御歸両人御鷹師辛勞仕たる之由 上意にて銀子五枚宛に御服相副被下色々忝儀共にて罷歸候也
寅八月五日 奧州津輕之 南部宮內少輔 御鷹
寅八月十日に 万見仙千代 所へ南部めし寄られ御振舞被仰付此時御禮被申候也
寅八月十五日 江州國中京都︀の相撲取を初として千五百人安土へ被召寄 御山にて辰刻より酉刻迄とらせて御覽候各我手之者︀共を召列られ則御奉行
御人數之事 津田七兵衞信澄 堀久太郞 万見仙千代 村井御右衞門 木村源五 靑地與右衞門 後藤喜三郞 布施藤九郞 蒲生忠三郞 永田刑部少輔 阿閉孫五郞
行事者︀ 木瀬藏春庵 木瀬太郞太夫 兩人也
小相撲 五番打人數之事
五番打(京極內)江南源五 五番打(木村源五內)深尾久兵衞 五番內(布施藤九郞小者︀)勘六 五番打(久太郞內)地藏坊 五番打(後藤內)麻生三五 五番打(浦生中間)
大相撲 三番打 人數之事
三番打(木村源五內)木村伊小介 三番打(瓦園內)綾井二兵衞尉 三番打(布施藤九郞內)山田與兵衞 三番打(後藤內)
大方相撲終旣及薄暮 永田刑部少輔 阿閉孫五郞 强力之由連々被及聞食候て兩人之働御覽し度被思食右御奉行衆之相撲御所望也初には堀久太郞 蒲生忠三郞 万見仙千代 布施藤九郞 後藤喜三郞 とられ候て後に刑部少輔阿閉哲手相にてくまれ候勿論阿閉器︀量骨抦勝れ候て力のつよき事無隱候へとも仕合候歟惣別强候歟刑部少輔勝相撲に候其日は珍物調終日取替〳〵御相撲取に被下度々能相撲仕候に付て被召出人數之事
東馬二郞 たいとう づかう 妙仁 ひし屋 助五郞 水原孫太郞 大塜新八 あら鹿 山田與兵衞 圓淨寺源七 村田吉五 麻生三五 靑地孫治 以上十四人
右御相撲取被召出何れものし付之太刀脇差衆御服かみ下御領中百石宛私宅等まて被仰付都︀鄙之面目忝次第也
寅八月十七日 中將信忠 播磨より被納御馬
寅九月九日 安土御山にて相撲をとらせ候て 中將信忠 北畠信雄卿へ御見物
九月十五日 大坂表御取出 御番衆之御目付として御小姓衆御馬廻御弓 衆廿日番に城〳〵へ被相加
九月廿三日 信長公 御上洛勢田 山岡美作守所御泊次日二條御新造御參着
九月廿四日 齋藤新五 越中へ被仰付出陣國中 大田保之內 つけの城 御敵 椎名小四郞 河田豐前人數入置候尾濃兩國之御人數打向之由承及聞落に致退散則 つけの城へ 神︀保越中 人數入置 齋藤新五 三里程打出陣取候て在々所々へ相働【 NDLJP:中27】【巻十一(十一)
大船堺津に而御見物之事】九月廾七日 九鬼右馬允 大船爲可被成御覽京都︀より八幡迄御下 翌日 廿八日若江亀泊 廿九日早朝より天王寺へ御成 佐久間右衞門所に暫時被成御休息 住吉社︀家に至而被移御座 其時天王寺より住吉之間御鷹つかはされ候キ
晦日には拂曉より堺之津へ御成 近衞殿 細川殿 一色殿 是も御同心然而 九鬼右馬允 大船を飾立のほりさし物幕打廻し湊〳〵浦〳〵之武者︀舟是又兵具と以て我手〳〵をかさり又堺南北として 御座舟事も生便敷唐物其員を集てかさり 進上物を我不劣と持參無際限堺南北之僧︀俗男女此時 信長公を拜み奉らんと結搆に出立候てにほひ焼物ふん〳〵として衣香撥㆑當四方に薰し群集候し也 九鬼大船へ只御一人めされ御覽有之それより今井宗久所へ御成 過分忝次第後代之面目也御茶參り御歸に 宗陽 宗及 道叱三人之私宅へ忝も御立寄なされ住吉社︀家に至て御歸宅 九鬼右馬允 被召寄 黄金二十枚幷御服十菱喰折二行拜領其上千人つゝ御扶持被仰付並 瀧川右近 大船白舟 上乘仕候 犬飼︀助三 渡邊佐內 伊藤孫太夫 三人に 黄金六枚御服相添被下頂戴
寅十月朔日 住吉より御歸洛 安見新七郞所に暫御成御休息 二條御新造に至て御歸 翌日 住阿彌御留守あしく仕候に付ても成敗並久々被召使候 さいと申女是又同罪に被仰付
【巻十一(十二)
越中御陣之事】寅十月四日 齋藤新五 越中國中大田保之內本鄕に陣取御敵 河田豐前守 椎名小四郞 今和泉に楯籠候彼城下迄放火候て未明より被罷退之處に人數を付候 齋藤新五 節︀所へ引かけ 月岡野と云所にて人數立合旣及一戰追崩 頸かす三百六十討とり此競を不休 懸まはり所々入質執固 神︀保越中所へ相渡し歸陣候也
寅十月五日 五畿內江州之相撲取被召寄 二條御新造御坪之內にて相撲をとらせ 攝家淸花等へ御見物也
十月六日 信長公從坂本御舟にめされ安土御下
十月十四日 長光寺山御鷹つかはされ岐阜にて御
【巻十一(十三)
荒木攝津守企逆心並伴天連事】十月廿一日 荒木攝津守 企逆心之由方々より言上候不實に被思食何篇之不足候哉存分を申上候はゝ可被仰付之趣にて 宮內卿法印 維任日何守 万見仙千代を以て被仰遣之處に少も野心無御座之通申上候被成御祝︀着爲御人質 御袋樣被差上無別儀候はゝ出仕候へと雖御諚候謀叛をかまへ候之間不參候惣別 荒木は雖一僕之身に候一年 公方樣御敵之砌忠節︀申候に付て攝津國一職に被仰付之處不㆑顧㆓身程㆒誇朝恩搆別心候此上は不及是非之由にて安土御山に 神︀戶三七 稻葉伊豫 不破河內 丸毛兵庫をかせられ 十一月三日 御馬を出され 二條御新造御成 爰にても 維任日向守 羽︀柴筑前 宮內卿法印を以て色〳〵被懸御扱候へとも御請不申候
去程大坂表所々付城目付として御小姓衆御馬廻歴々被差越候處大坂への宮笥に必定可致生害之趣取々に風聞被及聞食不便に雖被思食候無御了簡次第也如何存知候哉各御番手之面〳〵送越候被成御祝︀着何れも召被出今度色々雜說雖在之無㆑弱候事且家之面目且其身之爲神︀妙之旨被成御感各御服拜領忝題目也
十一月六日 西國舟六百余艘木津表へ乘出し候 九鬼右馬允 乘向候へは取籠 十一月六日辰刻南へ向て午刻迄海︀上に而舟軍有初は 九鬼支合候事難︀成見え候六艘之大船に大鐵炮餘多在之敵船を間近く【 NDLJP:中28】寄付 大將軍の舟と覺しき大鐵炮を以て打崩候へは是に恐れて中〳〵不寄付數百艘を木津浦へ
十一月九日 信長公 攝州表 御馬を被出其日山崎御陣取次日 瀧川左近 維任日向守 惟住五郞左衞門 蜂屋兵庫頭 氏家左京亮 伊賀伊賀守 稻葉伊豫
十一月十四日 右之御普請衆 瀧川 維任 惟住 蜂屋 武藤 氏家 伊賀 稻葉 羽︀柴 永岡先陣伊丹へ相働足輕を出し候 武藤宗右衞門 手之者︀共懸入馬上にて組討して頸四つ討とりあまへ致持參候て懸御目近邊放火候て伊丹を押刀根山近〳〵と陣取
御取出所々有所之事
一
一をのバら 中將信忠 北畠信雄 神︀戶三七 御陣取候也
十一月十五日 信長公あまより郡山へ御參陣也
十一月十六日 高山右近 郡山へ致祇候御禮申上候處被成御祝︀着 御爲にめさせられ候御小袖を
十一月十八日 信長公 惣持寺へ御出 津田七兵衞信澄人數を以て 茨木之小口押 物持寺 寺中御要害越前衆 不破河內 前田又左衞門 佐々內藏佐 金森五郞八 日根野備中 日根野彌治右衞門 原彥次郞所に被仰付太田鄕御取出引拂近々と取詰させ
寅十一月廿三日 惣持寺へ至而御成次日 廿四日に刀根山御取出御見舞として御年寄衆被召列其日廾四日 亥刻雪降夜もすから以外時雨候キ御敵城茨木 石田伊豫 渡邊勘太夫 中川瀬兵衞兩三人楯籠
寅十一月廿四日 夜半計に御人數引受 石田 渡邊勘太夫 両人加勢之者︀を追出し 中川瀬兵衞御身方仕候 調略に御使 古田左介 福︀富平左衞門
寅十一月廿六日 黄金三十枚 中川瀬兵衞被下小使仕候家臣之者︀三人に黄金六枚御服相添被下
高山右近 是又金子二十枚家老之者︀二人に金子四枚御服相添拜領【 NDLJP:中29】寅十一月廿七日 郡山より古池田に至て被移御陣其日之朝風吹候て寒氣大方ならす及晩 中川瀬兵衞御禮に古池田に祇候候也
一信長より 御太刀拵之御腰物並御馬皆具共に拜領
一三位中將信忠より御腰物(長光)並御馬被下
一北畠信雄より御秘藏之御馬被下
一神︀戶三七信孝御馬 一津田七兵衞信澄御腰物 以上
中川瀬兵衞 拜領添次第に而罷歸候也
霜月廿八日 小屋野迄 信長公近陣に寄させられ四方より近々と取詰塞り〳〵に御取被仰付
【巻十一(十四)
安部二右衞門御忠節︀之事】去程に在々所々百姓等悉
爰に大矢田と申候て尼崎之並に在之大坂より尼崎へも伊丹へも通路肝要之所候彼城主は 安部二右衞門と云者︀也 芝山源內と兩人申談御身方之御忠節︀可仕之旨申上古屋野御陣取へ
十二月朔日之夜 蜂須賀彥右衞門才覺に而兩人御禮に卷候處御滿足不斜黃金貳百枚被下忝次第に而罷歸候キ爾處二右衞門親伯父二人此由承候て大坂門跡並對荒木不儀不可然親伯父は一途同心有間敷之由候て 二右衞門城の天主へ兩人取上居城候此分にては難︀成と存知親伯父兩人申さるゝ所尤と宥申無御忠節︀ 信長公より黄金被下候はん事不㆑謂候間金子返進申之由にて上申二度御敵の色を立候はんと申 芝山源內を使として被下之黃金古屋野へ返上す 信長は不及是非旨 御諚候キ其上 二右衞門 蜂屋阿閉兩人陣取之所あしかるを出し鐵炮打入御敵仕候由申候如此仕合にて候間親伯父滿足仕候處思程たはかりすまし伯父を使として右之樣子に而相替儀無之旨尼崎に在之荒木新五郞並大坂へ申遣候親も悅天主より
【巻十一(十五)
丹波國波多野舘取卷之事】十二月四日 瀧川左近 惟住五郞左衞門 兵庫一谷燒拂人數打返し伊丹を押塜口之鄕に在陣也
寅十二月八日 申刻より諸︀卒伊丹へ取寄 堀久太郞 万見仙千代 菅谷九右衞門兩三人爲御奉行鐵炮放を召列町口へ押詰鐵炮をりたせ其次御弓衆 平井久右衞門 中野又兵衞 芝山次太夫 三手に分而火矢を射人町を放火可仕之旨被仰出西刻より亥刻迄近〳〵と取寄被攻壁際にて相支 万見仙千代 討死候
十二月十一日 所々に付城被仰出 信長公 古他田に至て被移御陣
御取出御在番衆
一堀口鄕 惟住五郞左衞門 蜂屋兵庫 浦生忠三郞 高山右近 神︀戶三七信孝【 NDLJP:中30】一毛馬村 織田上野守 瀧川左近 北畠信雄卿 武藤總右衞門
一倉橋鄕 池田勝三郞 勝九郞 幸新
一原田鄕 中川瀬兵衞 古田左介
一刀根山 稻葉伊豫 氏家左京助 伊賀平左衞門 芥川
一郡山 津田七兵衞信澄
一古池田 䀋川伯耆守
一賀茂 三位中將信忠 御人數
一高槻之城 御番手御人數 大津傳十郞 牧村長兵衞 生駒市左衞門 生駒三吉 湯淺甚介 猪︀子次左衞門 村井作左衞門 武田左吉
一茨木城 御番手衆 福︀富平左衞門 下石彥左衞門 野々村三十郞
一中島 中川瀬兵衞
一ひとつ屋 高山右近
一大矢田 安部二右衞門
如此所々に御番手之御人數被仰付 羽︀柴筑前守に相加 佐久間 維任 筒井順慶 播州へ致 着遣有馬郡之御敵さんたの城へ差向 道塲河原 三本松 二ケ所足懸拵 羽︀柴筑前守秀吉 人數入置是より播州へ相働 別所居城 三木へ之取出城〳〵へ兵粮鐵炮玉藥普請等申付歸陣候也
維任日向は直に丹波へ相働 波多野か舘取卷四方三里かまはりを 維任一身之手勢を以て取卷堀をほり塀柵幾れも付させ透間もなく塀際に諸︀卒町屋御に小屋を懸させ其上廻番を丈夫に警固を申付
十二月廿一日 信長公 古池田より京都︀に至て御馬 納られ其日雪少宛降候キ
十二月廾五日 安土御歸陣候也
【 NDLJP:下5】【巻十二○卷之十二 (天正七年己卯)
】
【巻十二(一)
攝津國御陣之事】天正七年己卯
江州安土御山にて被成御越年訖 歷〻御衆攝州伊丹表數ケ所の御付城各御在番の儀に付て御出仕無之
正月五日 九鬼右馬允 堺の津より罷上安土御山にて年頭の御禮申上の處今の透に在所へ罷越妻子見申候て頓て上國可仕の旨忝も御暇被下滿足にて勢州へ罷下也
二月八日 御小性衆御馬廻御弓衆に被仰付馬淵より切石三百五十余被召上翌日御鷹雁鶴︀何れも被下忝頂戴
二月十八日 涉上洛二條藏造へ被移御座 廿一日東山御鷹つかわされ 廿八日又東山御鷹野
三月二日 賀茂山御鷹つかはされ候
三月四日 中將信忠 北畠信雄 織田上野守 織田三七信孝 御上洛
三月五日 信長公御父子攝州伊丹表至而御動座山崎御陣取次日天神︀馬塲より路次すから御鷹つかはされ郡山御陣取
三月七日 信長公 古池田に至而 御陣を居させられ諸︀卒は伊丹四方に陣取 越州衆 不破 前田 佐々 原 金森 是等も參陣也
岐阜中將信忠 御取出 賀茂岸 池之上二ケ所丈夫に御要害被仰付四方付城相搆手前〳〵に堀をほり堀棚を御普請也
三月十三日 高槻の城爲御番手 大津傳十郞被遣の處に病死の由候へき【 NDLJP:下6】三月十四日 多田之谷御鷹つかはされ候 䀋河勘十郞 一献進上之時御
三月晦日 御鷹野みのをの瀧御見物其日十三尾之御鷹少足を痛申し候由逸︀物ものかす仕候秘藏幷なく每日之御鷹野信長公之御辛勞無申計御機力强事諸︀人感し申也
四月朔日 岐阜中將信忠卿之御小性衆 佐治新太郞と金森甚七郞致口論甚七郞
四月八日 御鷹野へ御出古池田東之野にて御
四月八日 播州へ御人數被出越前衆 不破 前田 佐々 原 金森 織田七兵衞信澄 堀久太郞
四月十日 惟住五郞左衞門 筒井順慶 山城衆出陣
四月十二日 中將信忠卿 北畠信雄卿 織田上野守 織田三七信孝 御馬を被出 猪︀子兵介 飯︀尾隱岐兩人播州三木表今度御取出御普請之爲御撿使相副被遣候 中將信忠卿 御取出 古屋野 池上御留守 永田刑部少輔 牧村長兵衞 生駒市左衞門の兩三人御番手に被仰付候
四月十五日 丹波より 維任日向御馬進上之處に則日向に被下之由にて被成御返候
四月十七日 關東常陸國多賀谷修理亮星河原毛の御馬長四寸八分歲七歲太逞駿馬はる〳〵牽上進上爰道三十里を乘歸こたへ者︀の由候御祝︀着不斜 靑地與右衞門に被仰付御馬せめさせられ候 正宗之御腰物靑地被下候是は佐々木所持候を 佐々內藏佐求候て黄金十枚付候てさやまきののし付に拵進上之刀也外聞實儀忝次第也
多賀谷修理かたへ被遣注文
御小袖 五ツ 縮 三十端 以上
銀子 五枚是は使者︀に被下候也
四月十八日 䀋河伯耆守へ銀子百枚被遣候 御使森乱 中西權兵衞相副被下過分忝の由候也
稱葉彥六 取出河原口へ伊丹敵城より足輕を出し候則䀋河伯耆氏家左京懸合暫取合隨分の者︀三人討捕候 播州三木表にても御敵足輕を出し 中將信忠卿 御手へ頸數十人計討捕被得勝利の山御注進在之
四月廿三日
【巻十二(二)
京都︀四條こゆい町糸屋後家事】去程京都︀に前代未聞の事有下京四條こゆゐ之町糸屋後家に及七十老女あり一人の娘を持候母と一所に候つる 四月廿四日の夜母によき酒を求思程しひてのませ醉臥候時土藏の內にをき夜更人しつまりて母をさし殺︀手つからかわこへ入よくからけて法花衆にて候へとも誓願寺の沙彌を呼よせ人の知らぬ樣にして寺へつかはし候下女一人候つるかれにはうつくしき小袖をとらせて人にふかく隱密いたし候へと申付候彼女後をおそろしく思ひ村井長門所へ走入此有樣申候則彼娘を搦捕糺明をとけ 四月廿八日上京一條の辻より車に乘て洛中をひかせ六條河原にて成敗候也
【巻十二(三)
二條殿烏丸殿菊庭殿山科右衞門督殿嵯峨策彥武藤彌平衞病死之事】四月廿六日 古池田まへ 信長被成御出御狂有以前の如く 御馬廻御小性衆 近衞殿 細川右京太夫殿 是も御馬をめされ二手に分而御足輕御懸引面白遊し御氣を晴︀させられ候
中將信忠卿 播州三木表に今度六ケ所塞〳〵に御取出被仰付それより 小寺藤兵衞(政
四月廿八日 有馬郡迄 中將信忠卿御馬被入是より直に野瀬郡へ移働耕御薙捨
四月廿九日 古池田迄多歸陣 信長公へ播州表の樣子被仰上の處に則御下國候へし旨 御諚候其日東福︀寺まて御成次日岐阜に至而御歸城 越前衆惟住五郞左衞門 御敵城おうごう之城へ差向御取出申付古池田へ歸城候て樣子言上の處越前衆御暇被下歸國候也其外衆伊丹表定番被仰付候キ
一塜口鄕 惟住五郞左衞門 蜂星兵庫頭 蒲生忠三郞
一塜口ノ東田中 福︀富平左衞門 山岡對馬守 山城衆
一毛馬 永岡兵部太輔 與一郞 頓五郞
一川端取出 池田勝三郞父子三人
一田中 中川瀬兵衞 古田左介
一四角屋敷 氏家左京亮一河原取出 稻葉彥六 芥川
一賀茂岸 䀋河伯耆 伊賀平左衞門 伊賀七郞
一池上 中將信忠卿 御人數御番替
一古屋野古城 瀧川左近 武藤宗石衞門
一深田 高山右近
一倉橋 池田勝九郞 已上
如此四方に御取出被仰付二重三重堀をほり塀柵を付手前〳〵堅固に被申付候
五月朔日 信長公御歸洛
去程 二條殿 烏丸殿 菊庭殿 山科左衞門督殿 嵯峨之策彥 此頃歷〳〵病死被成候也
五月三日 信長公 御下路次は山中より坂本へ御小性衆計被召列御舟にて直に安土御歸城
五月十一日 吉日に付て 信長御天主へ御移從
五月廿五日 夜中 羽︀柴筑前守秀吉播州海︀藏寺の取出へ忍ひ入乘取候依之 次日置おふごう之城も明退也
【巻十二(四)
法花淨土宗論之事】五月中旬の事候關東より淨土宗靈譽と云長老上國候て安土町にて談儀をのへられ候法花衆 建部紹智大脇傳介兩人說法の座へ罷出不審を懸申候長老被申樣若輩の
予云爲に候間可申と被仰候を田中の貞安早口にて初問を被置從其互の問答書付ル
貞安問云 法花八軸ノ中ニ有念佛乎
法花云 荅念佛在之
貞安云 念佛ノ義アラハ何ソ無間ニ落ル念佛ト法花ニ說ヤ
法花云 法花ノ彌陀ト淨土ノ彌陀ト一体歟別体歟
貞安云 彌陀ハ何クニ有彌陀モ一体ヨ
法花云 サテハ何ソ淨土門ニ法花ノ彌陀ヲ捨閉閣抛ト捨ルヤ
貞安云 念佛ヲ捨ヨト云ニ非ス念佛ヲ修スル機ノ前ニ念佛ノ外ノ捨閉閣抛ト云也
法花云 念佛ヲ修スル機ノ前ニ法花ヲ捨ヨト云經文アリヤ
貞安云 法花ヲ捨ルト云證文コソアレ淨土經ニ云善立方便顯示三乘と云々又一向專念無量番佛云々法花ノ無量之儀經ニ以方便四十餘年未顯眞實ト云ヘリ
貞安云 四十余年ノ法門ヲ以爾前ヲ捨方座第四ノ妙之一字ハ捨ルカ捨サルカ
法花云 四十余年四妙之中ニハ何ソヤ
貞安云 法花ノ妙ヨ汝不知乎 此返答無之閉口ス
貞安亦云捨ルカ捨サルカヲ尋處ニ無言ス其時判者︀ヲ始滿座一同ニ噇ト笑テ袈裟ヲ剝取 天正七巳卯年五月廿七辰刻 關東ノ長老扇ヲ披キ立テ一舞まはれたり長命寺日光妙ノ一字に
敬白 起請文事
一今度江州於淨嚴院淨土宗ト宗論仕法花衆負申に付て京の坊主普傳幷䀋屋傳介被仰付候事
一向後對他宗一切不可致法難︀之事
一法花一分之儀可被立置之旨忝奉存知候法花上人衆一先牢人仕重而被召置之事
(天正七)九月廿七日 法花衆
上樣 淨土宗
如此番紙進上候然而宗論負申候と書出負之字不思議の女童迄も於末代聞知事候替之詞如何程も可在之を越度仕候と歷々の僧︀衆後悔︀仕候由承及候也又諸︀人是を笑物に仕候又 建部紹智 堺の津迄逃行候のを追手を懸搦取今度大脇傳介 建部紹智兩人
【巻十二(五)
丹波國波多野兄弟張付之事】去程丹波國 波多野舘去年より維任日向守押詰取卷三里四方に堀をならせ塀柵を丈夫に幾重も申付被責候籠城の者︀旣及餓死初は草木の葉を食とし後には牛馬を食し
六月四日 安土へ進上則慈恩寺町末に三人の者︀張付に懸させられさすの思切候て前後神︀妙の由候
六月十三日 丹後の松田攝津守 隼巢子二ツ進上
六月十八日 中將信忠卿安土御見舞として御成
六月廿日 伊丹表に在陣の衆瀧川蜂屋武藤惟住福︀富此五人衆へ
六月廿二日 羽︀柴筑前與力に被仰付候竹中半兵衞播州御陣にて病死候其名代として御馬廻に候へつる舍弟竹中久御播州へ被遣候
六月廿四日 先年惟住五郞左衞門拜之周光茶碗被召上其御かはりと御諚候て
七月三日 武藤宗右衞門 伊丹御陣にて病死也
七月六日七日 兩日安土御山にて御相撲在之
七月十六日 家康公より坂井左衞門尉御使として御馬被進之 奧平九八郞坂井左衞門尉兩人も御馬進上也
七月十九日 中將信忠卿へ被仰出岐阜にて 津田與八 玄以 赤座七郞右衞門兩三人として 井戶才介 御生害子細は妻子をも安土へ越候はて所〻の他家をかすへあかき不斷安土には無之無奉公者︀にて候其上先年致謀書 深尾和泉を支申候重疊曲事共相積御成敗候し也
七月十九日 惟任日向守 丹後へ出勢の處に 宇津搆明退候を人數を付追討に數多討捕頸を安土へ進上それより 鬼か城へ相働近邊放火候て鬼か城へ付城の要害を搆惟任人數入置
【巻十二(六)
赤井惡右衞門退參之事】八月九日 赤井惡右衞門楯籠候黑井へ取懸推詰候處に人數を出し候則噇と付入に外くるは迄込入隨分【 NDLJP:下10】之者︀十余人討取處種〻降參候て退出 維任右之趣一々注進被申上永〻丹波に在國候て粉骨之度〻の高名名譽も無比類︀の旨忝も被成下御感狀都︀鄙面目不可過之
七月十八日 出羽︀大寳寺より駿馬を揃御馬五ツ幷御鷹十一聯此內しろの御鷹一足在之進上
七月廿五日 奧州の遠野孫次郞と申人しろの御鷹進上 御鷹居 石田主計 北國邊舟路にてはる〳〵 の凌風波罷上進獻誠雪しろ容儀勝而見事成御鷹見物の貴賤驚耳目御耳目御秘藏不斜 又出羽︀の千福︀と申處の前田薩摩是も御鷹居させ罷上御禮申上進上
七月廿六日 石田住計 前田薩摩 兩人被召寄 堀久太郞所にて御振舞被仰付候相伴は津輕の南部宮內少輔也 御天主見物仕候てか樣に御結搆の
遠野孫次郞かたへ先當座の爲御音信
一御服拾(如何にも御結搆御紋織付色は十色也御裏衣是又十色也) 一白熊二付 一虎革二枚以上 三種 一御服五ツ幷黄金爲路錢使ノ石田主計被下忝拜領候也 一御服五ツ黄金相添前田薩摩守 被下忝仕合にて罷下候へキ
八月二日 以前法花宗と法文仕候貞安長老へ一銀子 五十枚貞安へ被下 一銀子 三十枚淨嚴院長老へ 一銀子 拾枚日野秀長老へ一銀子 拾枚關東之靈譽長老へ 如此送被遣忝次第也
八月六日 江州國中相撲取被召寄安土御山にて相撲とらせ御覽候處甲賀の 伴正林と申者︀年齡十八九に候歟能相撲七番打仕候次日又御相撲有此時も取すぐり則御扶持人に被召出 鐵炮屋與四郞 折節︀御折檻にて籠へ被入置彼與四郞私宅資財雜具共に御知行百石
八月九日 柴田修理亮 賀州へ相働阿多賀 本折 小松町口迄燒拂其上苅田に申付歸陣の由也
八月廿日被仰出中將信忠 攝州表御出馬其日 柏原御泊 次日安土御出 廿二日 堀久太郞被相添古屋野に至て御在陣
【巻十二(七)
荒木伊丹城妻子捨忍出之事】九月二日の夜 荒木攝津守 五六人召列伊丹を忍出 尼崎へ移候九月四日 羽︀柴筑前守秀吉 播州より安土へ被罷越 備前の 宇喜田御赦免︀の筋目申合候間御朱印被成候の樣にと言上の處に 御諚をも伺不被申示合の段曲事之旨被仰出則播州へ被追還候也
九月十日 播州の御敵五着曾根衣笠の士卒一手に成敵城三木の城へ兵粮可入行候然者︀三木に楯籠人數此競に罷出 谷ノ大膳 陣所へ攻懸り旣 谷ノ大膳を討果し候 羽︀柴筑前守 見合切かゝり及一戰相たゝかひ討捕人數の事 別所甚太夫 別所三太夫 別所左近尉 三枝小太郞 三枝道石 三枝與平次 とをり孫太夫 此外藝州紀伊州の侍名字は不知數十人討取被得大利候へ訖
九月十一日 信長公 御上洛陸を勢田通御出京逢坂にて播州三木表合戰候て數多討死申仕合注進候先度安土より筑前追歸させられ候に付て無念に存知其故を以て合戰を勵〻得勝利事候彌三木一着の間者︀詰候て虎口の番等已下無由斷可申付事肝要の旨忝も被成御書候へキ
今度相州氏政の舍弟 大石源藏氏直御鷹三足京都︀迄上せ進上
九月十二日 鼓阜中將信忠 伊丹表の御人數半分被召列尼崎へ被成御働七松と云所に近〳〵と御取出【 NDLJP:下11】二ケ所被仰付 䀋河伯耆 高山右近 一與に爲定番被置 中川瀬兵衞 福︀富平左衞門 山岡對馬一組 に被仰付古屋野へ御人數被打歸
【巻十二(八)
常見檢校之事】九月十四日 京都︀にて座頭衆の中に申事有子細は攝州兵庫に常見と申候て分限之者︀有彼者︀申樣には人每に致㆓失墜㆒候ては必無力仕候一期樂〳〵と身を可㆑樂樣を案し出し彼常見眼者︀能候へとも千貫出し
宇治橋取懸之事】則此代物を以て宇治川平等院の前に橋を懸可申の旨 宮內卿法印 山口甚介 兩人に被仰付爲㆓末代㆒候に間丈夫に可懸置旨 御諚候乾
以前淨土宗と法花々論仕候其特の移禮として京之法花坊主より黃金二百枚進上候是を被召置候御心も如何々敷の由候て伊丹表天王寺播州三木方々御取出に在番候て粉骨の旁へ五枚十枚廿枚三十枚宛被下候也
九月十六日 瀧川左近 惟住五郞左衞門 兩人お湯馬被下忝次第也 靑地與右衞門涉使にて候也
【巻十二(十)
北畠中將殿御折檻狀之事】九月十七日 北畠中將信雄 伊賀國へ御人數被差越御成敗の處に及一戰柘植三郞左衞門討死候也
九月十八日 二條御新造あて 攝家 淸花 細川右京太夫殿 御鞠被遊候 信長公は御見物也
九月廿一日 信長公 京都︀より攝州伊丹表に至て御馬を出され其日山崎御泊廿二廿三兩日雨降御滯留爰あて 北畠中將信雄卿へ被仰出趣上かたへ無御出陣私之御働不可然之旨被成御內書
其御文言
今度伊賀堺 越度取候旨誠天道もおそろしく日月未墜干地其子細者︀上かたへ出勢候へは其國之武士或民百姓難︀儀候條所詮國之內にて申事候へは他國之陣依相遁此儀尤と令同心あり〳〵數云へは若氣故實と思如此候哉さて〳〵無念至極候此地へ出勢は第一天下之爲父へ之奉公兄城介大切且は其方爲彼是現在未來之可爲慟剰始三郞左衞門討死之儀言語道斷曲事之次第候實に於其覺悟者︀親子之舊離不可許容候猶夫者︀可申候也
九日廿二日 信長
北畠中將殿
九月廿四日 山崎より古池田に至て被移御陣
九月廿七日 伊丹四方御取出御見舞古屋野にて 瀧川左近 所に暫御逗留從其 塜口 惟任五郞左衞門所御成被成御休息及晩 池田へ御歸次日
九月廿八日 御歸洛其日初て茨木へ御立寄
【巻十二(十一)
人賣之事】去程下京塲々町門役仕候者︀之女房あまた女をかとはかし和泉之堺にて日比賣申候今度聞付 村井春長軒召捕糺明候へは女之身として今迄八十人ほと賣たる由申候則成敗也
九月廿九日 賀州之一揆大坂へ通路之者︀正親町中納言殿搦捕被成進上御祝︀着不斜則誅させられ
【巻十二(十二)
謀書之事】十月朔日 山崎之町人先年惟任日向守 村井長春軒前にて一果候公事を致謀書直奏仕候村井候御尋之【 NDLJP:下12】處に右之果口言上候曲學之旨 御諚候て御成敗候也
【巻十二(十三)
伊丹城謀叛之事】十月八日 成刻二條を被成形立夜もすから御下次之朝 九日之日之出に安土御歸城
十月十五日 瀧川左近 以調略 佐治新介使を仕 中西新八郞を引付中西以才覺 足輕大將之 星野 山脇 隱岐 宮脇 致謀叛 上﨟塜へ 瀧川人數引入餘多切捨候取物不取敢上を下へとなつて城中へ逃入親子兄弟をうたせ泣かなしむ計也町をは居取にいたし城と町との間に侍町有是をは火を懸
城になされたりきしの取出 渡邊勘太夫 楯籠
十月廿四日 維任日向守 丹後丹波 兩國一篇に申付安土へ參御禮其時 志々良百端進上候へキ
【巻十二(十四)
氏政甲州表へ働之事】十月廿五日 相模國 北條氏政御身方之色を立られ六万計にて打立 甲斐國へ差向木瀬川を隔 三島に氏政居陣之由注進也 武田四郞も甲州之人數打出し富士之根かた三枚橋に足懸り拵對陣也 家康公も相州へ爲御手合駿州へ相働所〻に被揚煙
十月廿九日 越中ノ神︀保越中守黑
十月晦日 備前宇喜多和泉 御赦免に付て爲名代 宇喜多與太郞攝州古屋野迄罷上 中將信忠卿へ御禮 羽︀柴筑前秀吉御取次也
十一月三日 信長公 御上洛其日瀬田橋御茶屋に御泊 御番衆 御祇候之御衆へしろの御鷹見せさせられ次日御出京 二條御新造之御普請造畢仕に付て 禁裡機へ御進上なさるゝ趣
十一月五日 御奏聞之處則御
親王樣行啓をさるへきに相定其御用意候也
十一月六日 しろの御鷹居させられ北野うらの邊鶉鷹つかはされ
十一月八日 東山より一條寺迄しろの涉鷹つかはされ初て御取飼︀ 九日十日兩日一乘寺修覺寺山御鷹野也上京裁賣之町人一獻進上仕候處一〻被加御詞忝次第也
十一月十六日 亥剋二條御新造より妙覺寺へ信長御座を移させられ
【巻十二(十五)
伊丹之城ニ在之年寄共妻子兄弟置捨退出之事】十一月十九日 荒木久左衞門其外歴〳〵之者︀共妻子爲人質 伊丹に殘置あまか崎へ罷越 荒木に異見申尼崎はなくま進上仕其上各之妻子助可申之御請申究何れも尼崎へ越申也此時 久左衞門一首
いくたひも毛利を憑みにありをかやけふ思ひたつあまのはころも と讀をき候
織田七兵衞信澄 伊丹城中爲御警固御人數被入置爵
目と目を見合あまりの物うさに たし歌よみて荒木かたへつかはし候 霜かれに殘りて我は八重むくらなにはのうらのそこのみくつに
荒木返歌 思きやあまのかけ橋ふみならしなにはの花も夢ならんとは
あこゝかたよりたしかたへの歌 ふたり行なにかくるしきのりの道風はふくともねさへたへすは【 NDLJP:下13】お千代荒木かたへの歌 此ほとの思ひし花はちり行て形見になるそ君か面かけ
荒木返歌 百年に思ひし事は夢なれやまた後の代の又後の世を 如此證かはし候し也
【巻十二(十六)
親王樣二條御新造へ行啓之事】天正七年己卯十一月廿二日
親王樣 二條新 御所へ爲御移從 行啓之御時取卯刻と候つる辰刻至而也一條より室町通
次第 御先へ 近衞殿御參也 次 近衞大納言殿 關白殿 五攝家 一條左府殿 二條右府殿
鷹司少將殿 御輿にて御參御輿添には侍衆歷〳〵とありかいそへの衆中間以下御輿の跡に打こみに參也 大藤左衞門尉 大藤備前守 御奉行衆林越前守 小河龜千代丸 觸口折ゑほしすわふ袴返しもゝたらを取 御物 五尺四方程有皆朱の御唐櫃上下臺に乘也 雜色折ゑほしすわふ袴返しもゝたちを取 引敷思〳〵に付る金手棒にて或刀物を持或腰高成者︀を下知して通也
御琴 錦の袋に入(天王寺樂人 持手かさ折布直垂を着一人)
修唐笠 白沙笠袋に入(持手仕丁立鳥帽子白張也)
一番御板輿五之宮樣着御局樣御あい輿也 二番 中山之上﨟 勸修寺上﨟 三番 大御乳人 四番 御屋〻 五番 中將殿 六番 五之宮樣御乳人
以上御輿六丁也仕丁十德を着 御脇輿侍衆左右に在之
御伴之御女房衆 六十人きぬかつきにてかは蹈皮にうらなしをはかせられ誠光耀衣香くんし結搆無申計幷下部衆上さしの袋など持たるもあり
當庄方 御公家 御供衆 飛鳥井大納言殿 庭田大納言殿 柳原大納言殿 四辻大納言殿 甘露寺大納言殿 持明院中納言殿 高倉藤中納言殿 山科中納言殿 庭田源中納言殿 勸修寺中納言殿 正親町中納言殿 中山中納言殿 中院中納言殿 烏丸辨殿 日野中納言殿 水無瀬治部卿殿 廣橋次辨殿 吉田右衞門督殿 竹內左兵衞督殿 坊城式部少輔殿 水無瀬中將殿 高倉右衞門佐殿 葉室藏人辨殿 万里小路藏人右少辨殿 四辻少將殿 四條少將殿 中山少將殿 六條少將殿 飛鳥井少將殿 水無瀬侍從殿 五條大內記殿 中御門權右少辨殿 富小路新藏人殿 唐橋殿 以上
各かちたちにて御供也立ゑほしきぬひたゝれ御紋色〳〵すあしに大ふとはかせられ風折のかけ緖むらさき色平打也 飛鳥井中納官殿むらさきの四打のかけを也 吉田神︀主堂上方に召加へられ候是は白八打のかけを也
御輿添 御方御所樣御輿 御輿舁立烏帽子に白張ヲ着 北面の御侍衆十一人折ゑほしすわふ袴あしなか也 御輿の少御跡に牛飼︀モ參也
淸花御衆 | 德大寺大納言殿 西園寺大納言殿 三條中納言殿 大炊御門中納言殿 久我中納言殿 轉法輪三條中納言殿 花山院宰相中將殿 以上 |
立烏帽子きぬ直垂色〳〵すあしに大ふと少引退而被參也 御公家衆之被召具侍中間打こみに御次に參候三百人計在之歟折節︀ 御簾へ朝日さし入候て御物見之所より慥におかまれさせ給候御眉めされ御立烏帽子御練︀貫かうの御そはつき衣の白き御はかま也昔も御代にも如此まちかく拜み奉る事有間數ためし也御儀式御結搆中〳〵無申計
伯中將殿 冷泉中將殿 此兩人は御輿に付被申也 菊庭內府殿 御簾を上被申御役也【 NDLJP:下14】御劔 中院中納言殿被持也 御禮御申次は 御修寺中納言殿之由也 以上
十一月廿七日 北野まいり御鷹つかはされ御祕藏之
十二月朔日 丹波より居上進上
去程に 伊丹之城に女共之爲警固
十二月三日 御家人之上下悉妙覺寺へ被召寄縮羅卷物板物千端に餘り積被置御馬廻諸︀奉公人に被下云頂戴候也
十二月五日 高山飛彈守 去年伊丹へ走入依爲不忠者︀ 靑木鶴︀ 修使にて北國へつかはされ柴田に被成御預候也
【巻十二(十七)
やはた八幡空造營之事】十二月十日 山崎に至て被移御座十一十二兩日用降
禁中御日取被出之由候間被相待之處吉日良辰 天正七年己卯十二月十六日卯剋ト
勅諚也
去程八幡之 片岡鵜右衞門と申者︀周光香爐所持候を被召上銀子百五十枚被下候也
【巻十二(十八)
伊丹城相果たし御成敗之事】今度尼崎はなくま渡進上不申歷〻の者︀共之妻子兄弟を捨我身一人宛助之由前代未聞之仕立也餘多之妻子とも此趣承り是は夢かやうつゝかや恩愛の別れの悲しさ今更たとへん方もなしさて如何〻と歎き或はおさあひ子をいたき或は懷妊したる人も有もたへこかれ聲もおします泣悲しむ有樣は目も當られぬ次第也たけき武士もさすか岩木ならねは皆なみたをなかさぬ者︀いなし此由被及聞食不便に雖被思食候侫人爲㆑懲︀人質御成敗之樣子山崎にて條〻被仰出 荒木一類︀之者︀共をは都︀にて可被仰付之由候て
十二月十二日晩景より夜もすから京へめし上せられ 妙顯寺にひろ籠を搆三十余人之女共とり籠被置
十二月十三日 辰刻に百二十二人尼崎ちかき七松と云所にて可被懸張付に相定各引出し候さすか歷〻の上稿達衣裝美〻敷出立叶はぬ道をさとりうつくしき女房達並居たるをさもあらけなき武士共か請取【 NDLJP:下15】其母親にいだかせて引上〳〵張付に懸鐵炮を以てひし〳〵と打殺︀し鑓長力を以て差殺︀し害致せられ百廿二人之女房一度に悲しみ
此外女之分 三百八十八人 かせ侍之妻子付〳〵之者︀共也 男之分 百廿四人 是は歷〳〵 の女房衆へ付置候若黨以下也 合五百十余人
矢部善七郞 御撿使にて家四ツに取籠こみ草をつませられ被燒殺︀候風のまはるに隨て魚之こぞる樣に上を下へとなみより焦𤍠大焦𤍠之ほのほにむせびおとり上飛上悲しみの聲煙につれて空に響獄卒之呵責の攻も是成へし 肝魂を失ひ二目共更に見る人なし哀成次第中〳〵不申足 伊丹之城御小姓衆として廿日番に被仰付
十二月十四日 山崎より京都︀妙覺寺に至而御歸洛
十二月十六日 荒木一類︀之者︀都︀にて可被成御成敗之旨被仰出
去程越方行末の物語承哀成次第無申計 去年十月下旬に 荒木蒙天罰御敵仕候無程 霜月三日に御上洛同九日に御馬を被出天神︀馬塲に御取出被仰付候然共 高槻 茨木 能搆にて候間一旦には御存分に難︀叶荒木も其外下〳〵も存知候處思外杖にも柱にもと存知候
中川瀨兵衞 高山右近 御身方に參候此時もかほとに御坐候はんとは不存候處輕〳〵と古屋野へ御陣を被寄透間をあらせす伊丹を取卷御陣取被仰付
十二月朔日の夜 安部二右衞門是も心を替大坂尼崎より伊丹への通路止申候爰にて上下致難︀儀候され共安藝之 毛利 正月十五日過候はゝ必馬を出し西宮か越水邊に 大將陣を居 吉川 小早川 宇喜多を尼崎へうつし雜賀大坂之者︀共に先手を申付兩手より切かゝり御陣取追拂 荒木存分に可申付事案之內ト誠に現々敷誓紙を仕候而越被申候之間我人神︀佛へも祈︀を懸是を憑みにいたし候處又 二月十八日被成御上洛 三月五日御馬を被寄 信長池田に御陣を居させられ 中將信忠 賀茂岸ちか〳〵と御取出寄させられ伊丹四方に堀をほらせ塀柵を二重三重丈夫に被仰付誠籠之內の不㆑異㆑鳥行末如何に成果候はんと物思にて候へとも春夏之內に毛利被出候はゝ定而一途候はんと待暮し如何成森林も春は花も咲出候まゝ百花ひらけ國もひろく成候はんと明暮待申候處無程春も暮旣楊梅︀桃李之花咲散て梢茂みの更衣卯花郭公五月の雨の數〳〵物思ひか樣に月日の過行間に切々の懸合に親をうたせ子に後我も人も一方ならぬ歎きたとへん方もなかりけり去て又如何に有へきとて中國へ數之使遣し候へは人馬之はみ物出來候て七月中に罷立候はんと申延候又 八月には國に物いひ出來たる由申越候今ははや木〻も落葉し森も次第に枯木に成憑すくなく成果て力を失ひ詮方なし然者︀荒木申樣には波多野兄弟張付にかゝり候如くやみ〳〵とは有間敷候兵粮漸盡候はゝ前かとに諸︀手の人數引出し古屋野塜口へ差向戰をさせ其間に伊丹に三千在之人數三段に備足弱をかこはせ退候はんに何の子細有間數候若又此調成候はすは尼崎花くまを進上申命たすかり可申候とて皆〳〵にあら木力を付 九月二日夜に入 荒木攝津守五六人召列忍出尼崎へ移候城中彌力なく我人行末如何〻と案し暮し候處 十月十五日 星野 山脇 隱岐 此足輕大將三人致謀叛 日來は伊丹にて首をする程之者︀の妻子人質として夜る〳〵は城中へ取入候運之盡たる驗にや不曉に人質歸し候則上﨟塜へ御敵引入數多切捨町を居取にいたし城と町の間に【 NDLJP:下16】侍町有是は火を懸
渡邊勘太夫 岸之取出より 多田之舘まて罷退候を生害させられ又 鵬塜に 野村丹後 大將として柄籠候是も障參申候へとも無御赦免腹をきらせられ然者︀ 維任日向 尼崎 花くまを進上候て命たすかり尤之由候忝存知 荒木方へ申送候へとも一途もなく候間妻子爲人質殘置其斷荒木に申聞兩城進上可申候若同心無之候はヤ御人數申請先を仕即時に可申付と御請を申究
たし歌あまた讀置候 | きゆる身はおしむべきにも無物を母のおもひそさはりとはなる |
たし | 殘しをくそのみとり子の心こそおもひやられてかなしかりなり |
たし | 木末よりあたにちりにし櫻花さかりもなくてあらしこそふけ |
たし | みかくへま心の月のくもらねはひかりとともににしへこそ行 |
おちい たしつやね京殿 | |
世中のうきまよひをはかき捨て彌陀のちかひにあふそうれしき | |
隼人女房荒木娘の歌 | 露の身の消殘ても何かせん南無あみた佛にたすかりそする |
おほて 荒木娘 | もえ出る花は二たひさかめやとたのみをかけてあり明の月 |
同ぬし | 歎くへき彌陀のをしへのちかひこそひかりとともににしへとそ行 |
colspan="2" 荒木與兵衞女房 村田因幡娘 | |
憑めたゝ彌陀のをしへのくもらねはこゝろのうちはあり明の月 | |
さい | 先たちしこのみか露もおしからし母のおもひそさはりとはなる |
何れも思〳〵に文共書をかれ候去て
十二月十六日 辰刻車一兩に二人ツヽ乘て浴中をひかせられ候次第
御奉行 越前衆 不破 前田 佐々 原 金森 五人此外役人 觸口 雜色 靑屋 河原之者︀數百人具足甲を着太刀長刀拔持弓に矢をさしはけさもすさましき仕立にて車の前後警固也女房達何れも
十二月十八日 夜に入 信長公 二條新御所へ御參 內金銀卷物等其員を盡被備
叡覽翌日十九日御下路次にて終日雨降安土に至て御歸城珍重々々
【 NDLJP:下17】【巻十三○卷之十三 (天正八年庚辰)
】
【巻十三(一)
播州三木落居之事】天正八年庚辰
正月朔日 終日雪降候也 近年攝州表各在番粉骨に付て 年頭之御禮舊冬より御觸にて御免︀御出仕無之
正月六日 播州三木表 別所彥六 楯籠宮之上の搆 羽︀柴筑前守乘取諸︀陣近〻ト被寄 別所彥進は不及一戰本丸へ取入 別所小三郞ト一手に成也
正月十一日 羽︀柴筑前 宮之上より見下墨︀給イ 別所山城か居城鷹の尾と云山下へ人數を被付候難︀拘存知 山城も本丸へ取入也則諸︀卒付入に攻込處本丸より心はせの侍共罷出防戰後陣を推懸〳〵攻入也懸ル所に本丸より火を付燒出ス
正月十五日 羽︀柴與力 別所孫右衞門城內より 小森與三左衞門と申者︀を呼出し小三郞山城彥進三人之方へ狀を遣 播州之荒木 丹波之波多野果候如くに候ては末世之嘲哢口惜候尋常に腹を切可然之由申遣候所兩三人腹を可切候間其外諸︀卒被相助候樣にと小森を使にて懇望之歎を申送狀に曰
唯今申上候趣意者︀去〻年以來敵對に被伏置條謹︀而可申斷心底之處に不慮に內輪之面〻覺悟を替之間不及是非者︀也然者︀于今至而相届等悉可被討果事不便之題目也以御憐愍於被助置者︀某兩三人可腹切相定訖此旨無相違樣に仰御披露恐〻謹︀言
正月十五日 別所彥進ともゆき
淺野彌兵衞殿 別所山城よしちか【 NDLJP:下18】 孫右衞門殿 別所小三郞長はる
右旨披露之處 羽︀柴筑前感歎し諸︀士を可相助之返答有而樽酒二三荷城中へ送入られ 別所致滿足妻子兄弟各家老之者︀呼双
正月十七日には腹を可切之旨女房子供にも申聞せ互に盃を取かはし今生之暇乞哀成次第申は中〳〵愚也然者︀ 小三郞かたより 山城かたへ十七日申刻に腹を可切趣申遣之處爰にて 山城存分には腹を切候はゝ定而頸を取大路を渡シ安土へ進上すへく候左候ては都︀鄙之口難︀無念候間城內に火を懸燒死骸骨を可藏之由にて家に火をかくるを見て諸︀士差懸山城を生害也
正月十七日申刻 別所小三郞は三歲之
小三郞 | いまはたゝうらみもなしや諸︀人の命にかはる我身と思へは |
小三郞女房の歌 | もろともにはつる身こそはうれしけれをくれ先たつならひなる世に |
彥進 | 命をもおしまさりけり梓弓すゑの世まても名の殘れとて |
彥進女房 | たのめこし後の世まてに翅をもならふる鳥のちきりなりけり |
山城女房 | 後の世の道もまよはし思子をつれて出ぬる行すゑの空 |
三宅肥前入道 | 君なくはうき身の命何かせん殘りて甲斐のある世なりとも |
如此哀をもよほす有樣上下愁歎限なし去而 別所三人の頸安土へ進上爲御敵者︀悉屬御存分御威光中〻不可勝計併 羽︀柴筑前 一身以覺悟大敵を如此被成退治候之事武勇と言調略と言弓矢面目不可過之
二月廿一日 信長公御上洛妙覺寺御成
二月廿四日 しろの御鷹一乘寺修覺寺松か崎山終日御鷹つかはされ物かす仕候
二月廿六日 本能寺へ可被居御座之旨にて 御成有て 御普請之樣子 村井春長軒に被仰付
二月廿七日 山崎至て御成 爰にて 津田七兵衞信澄 䀋河伯耆 惟住五郞左衞門兩三人兵庫はなくま表へ相働御敵はなくまへ差向可然地を見計御取出之御要害仕候て 池田勝三郞父子三人入置其上歸陣可仕之旨被仰付訖
二月廿八日 終日雨降 山崎に御逗留根來寺
【 NDLJP:下19】三月朔日 郡山へ御成天神︀馬塲大田路次通行御鷹被遣
抑 禁中より大坂
近衞殿 勸修寺殿 庭田殿 被成御勅使訖 信長公より爲御目付 宮內卿法印 佐久間右衞門相添被遣候
今度郡山御鷹野に而 賀藤彥左衞門佐目毛御馬進上
三月三日に 伊丹城へ被移御座 荒木攝津守居城之樣躰御覽し是より兵庫表可被成御見廻 上意候處御取出御普請早出來申に付て右三人引取申之間
三月七日 信長公 伊丹より山崎迄御歸路次通 北山御鷹つかはされ
三月八日 妙覺寺に至て御歸洛
三月九日 北條氏政より御鷹十三足
一鴻取 一鶴︀取
一眞那鶴︀取 一亂取と申して在之
一御馬 五疋
以上
洛中本能寺にて進上 相摸之御鷹居御
三月十日 氏政之御使衆御禮 御太刀折紙御披露 佐久間右衞門
進物 白鳥 二十 熨斗 一緖 蚫 三百 煎海︀鼠 一箱 江川酒 三種二荷 以上
氏政より使者︀ 笠原越前守 舍弟氏直使者︀ 間宮若狭守 同下使 原和泉守
公儀御執奏 瀧川左近將監 同下使 牧庵 關東衆被申上趣 承之
御使衆 二位 法印 瀧川左近 佐久間右衞門
三使に而御緣邊相調關東八州御分國に參之由也
御太刀折紙 笠原越前御禮 氏直之御禮 間宮若狹申上 同重て 右兩人自分御禮 同下使 原和泉御禮
各退出以後相州衆へ被仰出趣幸之事候 瀧川左近案內者︀にて京都︀懇に見物申頓而安土へ罷下候へと被仰聞其日 信長公御下 大津松か崎邊しろの御鷹つかはされ及晩御舟にめされ矢橋へ御上なされ安土御歸城
三月十三日 矢部善七郞御使に而 金銀百枚 北條氏政よりの使者︀ 笠原 間宮兩人に被下京都︀に而田舍への宮笥調申候へと被仰遣也
三月十五日 奧之島山御鷹可被遣に而御舟にめされ長命寺善林坊に至而被成御座
三月十九日迄五日被御逗留しろの御鷹御自愛羽︀ふり事に勝れ希有之由承及方〻より御鷹野見物群集仕候也亂取と申御鷹すくれたる羽︀飛に而物かす被仰付十九日に安土に至而御歸城也
【巻十三(二)無邊之事】三月廿日 無邊と申廻國之客僧︀ 石塲寺
【 NDLJP:下20】信長公 無邊事連々被及聞食其仁躰を被成御覽度之旨被仰出 榮螺坊 無邊を召列安土御山へ參候則御
客僧︀之生國は何くそと御尋有 無邊と答
亦唐人か天竺人かと御意候 唯修行者︀と申
人間之生所三國之外には不審也去而者︀
唯賣子に而有此程は生候所もなく住所なく弘法にて候と申ならはし何にても物を人之とらせ候へは取候はて無欲にて其宿之者︀に出し置其所へ立歸〳〵する時は無欲之樣に聞候へとも却而無欲にはならす候雖然奇特之有由被及聞食候之間奇特を見せ候へ〳〵と御諚之處に更に無其詮惣別奇特不思儀之有人者︀
三月廿一日 相模國 北條氏政へ被遣 御注文
虎皮 廿枚 縮羅 參百端但三箱 猩〻皮 十五
以上 笠原越前守請取申也
氏直へ 段子 二箱 以上 問宮若狹守請取申也
三月廿五日 奧之島爲御泊山御成
三月廿八日迄御鷹つかいされ爰に而造作仕候由御諚候て 永田刑部少輔に葦毛御馬被下 池田孫次郞に靑毛御馬拜領也
三月廿八日 安土に至而御歸城
閏三月朔日 伊丹城御番 三十日替に被仰付 矢部七善郞被遣
閏三月二日 御敵城鼻熊より 池田勝三郞取出へ人數を出し候則足輕共取合候之處 池田勝九郞 池田幸新兄弟年齡十五六誠若年に而無躰に懸込火花を散し被及一戰父 池田勝三郞是又懸付鎗下にて究竟之者︀五六名人討捕兄弟高無比類︀働也
【巻十三(三)
大坂退散御請誓紙之事】去程大坂退城可仕之旨忝も從 禁中被成 御勅使 門跡北方年寄共可有如何哉否之儀不恐權門心中之存知旨趣不殘可申出之由尋被申之處に
下間丹後 平井越後 矢木駿河 井上 藤井藤左衞門初として致評諚退屈之驗歟又者︀世間見究申之故歟今度者︀上下御一和尤と申事に候爰に而 御院宣を違背申に付ては天道之恐も如何候也其上 信長公被成御動座 荒木 波多野 別所 御退治之如く根を斷葉を枯して可被仰付候近年大坂端城五十一ケ所相拘上下苦勞之者︀共に賞祿をこそ不宛行共せめての 恩に命を助可申旨門跡被相存知來七月廿日【 NDLJP:下21】以前に大坂退散に相定
御勅使 近衞殿 勸修寺殿 庭田殿 幷宮內卿法印 佐久間右衞門等へ御請を申誓紙御撿使被申請候此旨安土へ言上之處に 靑山虎 御撿使被仰付候
閏三月六日 安土より天王寺日通に參着候翌日
閏三月七日 誓紙之筆本見申され候也
誓紙人數 下間筑後子少進法橋 黃金 十五枚 下間刑部卿法橋 同 十五枚
あせち法橋 同 十五枚 北方 同 甘枚 門跡添狀 同 三十枚 以上
【巻十三(四)
能登加賀兩國柴田一篇申付事】閏三月九日 柴田修理亮加州へ乱入添川手取川打越宮之腰に陣取所〻放火一揆野の市と云所川を前に當楯籠柴田修理のゝ市之一揆追拂數多切捨數百艘之舟共に兵粮取入分捕させ是より次第に奧へ燒入越中へ越候安養寺越之邊迄相働安養寺坂右に見而白山之麓能登境谷〳〵入〳〵迄悉放火し光徳寺代坊主楯籠候
閏三月十日 宇津之宮の
縮羅 三十端 豹虎皮 拾枚 金襴 貳十端
御服 一重 黃金 參枚 以上
たち川三左衞門に渡し被下忝次第に而罷下候也
閏三月十六日より 菅屋九右衞門 堀久太郞 長谷川竹 兩三人爲御奉行安土御搆之南新道之北に江をほらせられ田を
今度 蒲生右兵衞大輔家中 布施藤九郞御馬廻に被召加是又江を
稻葉刑部 高山右近 日禰野六郞左衞門 日禰野彌次右衞門 日禰野半左衞門 日禰野勘右衞門 日禰野五右衞門 水野監物 中西權兵衞 與語久兵衞 平松助十郞 野々村主水 河尻與兵衞
如此被仰付 信長は日〳〵御弓衆御責子にて御鷹つかはされ候キ
四月朔日 伊丹城 矢部善七郞御番のかはり村井作右衞門當番也
辰四月十一日 長光寺山御鷹つかはさるへきにて出御之處に百々の橋にて 神︀保越中之使者︀御馬二つ進上
辰四月廿四日 伊庭山御鷹野へ御出 丹羽︀右近者︀共普請仕候とて山より大石を 信長公御通候御先へ落し懸候此中條〻不相届道理之旨被仰聞其內年寄候者︀を被召寄一人御手打にさせられ候
【巻十三(五)
阿賀ノ寺內申付ノ事】庚辰四月廿四日播州之內しそ郡に 宇野民部楯龍彼者︀之親伯父搆 羽︀柴筑前守秀吉押詰乘取 二百五十余討捕夫より 宇野下野 居城へ取懸是又責破爰にても數多切捨其後 宇野民部搆は高山節︀所候麓を燒拂
北國表之事 加賀國に至而 柴田修理亮長〻在陣也當表無御心元被思食 木下助左衞門 魚住隼人 兩使柴田かたへ國之樣子可申上之旨被仰遣處能登加賀一篇に申付たる樣躰罷歸具に言上之處被成御悅着遠路辛勞之爲御褒美御服に御帷を被相副兩人忝頂戴其上 上意忝候使之間 北國にても 木下 魚住兩に馬を被出タリ
五月三日 中將信忠卿 北畠信雄卿 安土に至而御出御自分御座所之御普請被仰付候
五月五日 御山に而御相撲在之 御一門之御衆御見物也
五月七日 江堀舟入道築何れも御普請出來申に付て 惟住五郞左衞門長秀 織田七兵衞信澄 永〻辛勞仕候間御暇被下兩人在所へ罷越用事申付候て頓而可能歸之旨忝も 上意に而 七兵衞信澄は(脫文)五郞左衞門は佐和山へ參候也
五月十七日 國中之相撲取被召寄安土御山に而御相撲在之御馬廻衆御見物日野之 長光 正林 あら鹿 面白 相撲を勝申に付而爲御褒美 銀子 五枚 長光被下忝頂戴
甲賀谷中より相撲取廿人參候辛勞之由 御諚候て 黃金 五枚被下忝次第也 布施藤九郞與力に 布施五介と申者︀能相撲之由候て被召出御知行百石被仰付候今日之御相撲 あら鹿 吉五 正林 能相撲勝申に付て爲御褒美八木五十石宛被下忝拜領也
【巻十三(六)
本門跡大坂退出之事】四月九日 大坂退出之次第 門跡より新門跡かたへ可被相渡之旨御届之處に近年
【巻十三(七)
八幡御造營之事】抑やはた八幡宮御造營爲御奉行 武田佐吉 林高兵衞 長坂助一 兩三人被仰付去年十二月十六日釿初然而內陳下陳之間に木戶井在之朽腐雨漏及廢壞之間今度者︀爲末代候之間からかねに而
五月廿六日奉成 上選宮訖誠諸︀依人之敬增威とは謂夫是歟倍 信長御武運長久御家門繁永之基也參詣ノ輩貴賤峯集をなし彌尊み拜呈す八月中旬迄九ケ月に令成就畢
【巻十三(八)
因幡伯耆兩國ニ至テ羽︀柴發向之事】播州しそ郡に楯籠 宇野民部
六月五日 夜中に退散 木下平太輔 蜂須賀小六追懸心はせ之侍共歸し合〳〵爰かしこにて相戰歷〻者︀共數十人討捕翌日
六月六日 以此競因幡伯耆兩國境目に至而相働所〻に被擧煙之處に東國之御人數發向之由申候て可馳【 NDLJP:下23】向行は一切に無之國端之城主緣〳〵を以て降參之御斷申人質進上候て御禮申上候はん之由 言上候處御悅不斜 羽︀柴筑前守秀吉條〻名譽之旨 信長公被成御感候へキ
六月十三日 御相撲取 圓淨寺源七不届子細在之而蒙御勘氣退シ
六月廿四日 國中之相撲取被召寄御山に而御相撲有拂曉より夜に入挑灯にて在之
伊丹に而謀叛御忠節︀仕候衆之事
中西新八郞 星野左衞門 宮脇又兵衞 隱岐土佐守 山脇勘左衞門 五人之者︀ 池田勝三郞與力に被仰付候
六月廿六日 土佐國令補佐候 長宗我部土佐守 維任日向守執奏に而爲御音信
御鷹十六聯幷砂糖三千斤 進上 則御馬廻衆へ砂糖被下候へキ
六月晦日 中將信忠卿安土に至而御出
【巻十三(九)
大坂退散之事】大坂本門跡 雜賀へ退出之以後 藤井藤左衞門 矢木駿河守 平井越後 以三使
七月二日 御禮 御勅使 近衞殿 勸修寺殿 庭田殿 此御衆被召列御取次 宮內卿法印 佐久間右衞門尉 進物御太刀代 銀子 百枚 中將信忠卿へ御禮申 信長公御對面無之
信長公より門跡北方へ御音信被遣 御注文寫置候
黃金 三十枚 門跡へ 黃金 二十枚 北方へ 黃金 十五枚 あせち法橋へ 同 十五枚 下間刑部卿法橋 同 十五枚 下間筑後 少進法橋 同 二十五枚 右五人今度使に被參候衆へ被下 翌日忝之由申上候て罷歸候也 以上
去程新門跡大坂可渡進之御請也
天正八年庚辰八月二日 新門跡大坂退出之次第 御勅使 近衞殿 勸修寺殿 庭田殿 右ノ下使 荒屋善左衞門 信長公より被相加御使 宮內卿法印 佐久間右衞門 大坂請取申さるゝ御撿使 矢部善七郞
【巻十三(十)
宇治橘御見物之事】抑大坂は凡日本一之境地也其子細は奈良境京都︀程近く殊更淀鳥羽︀より大坂城戶口まて舟の通ひ
【巻十三(十一)
佐久間林佐渡丹羽︀右近伊賀〻〻守事】八月十二日 信長公京より宇治之橋を御覽し御舟に而直に大坂へ御成爰にて 佐久間右衞門かたへ御折檻之條御自筆にて被仰遣趣
覺
一父子五ケ年在城之內に善惡之働無之段世間之不審無余儀我〳〵も思あたり言葉にも難︀述事
一此心持之推量大坂大敵と存武篇にも不搆調儀調略道にも不立入たゝ居城之取出を丈夫にかまへ幾年も送候へは彼 相手長袖之事候間行〳〵は 信長以威光可退候條去て加遠慮候歟但武者︀道之儀可爲各別か樣之折節︀勝まけを令分別遂一戰者︀ 信長ため且父子ため 諸︀卒苦勞をも遁之誠可爲本意に一篇存詰事分別もなく未練︀無疑事
一丹波國日向守働天下之面目をほとこし候次羽︀柴藤吉郞數ケ國無比類︀然而池田勝三郞小身といひ程なく花熊申付是又天下之覺を取以爰我心を發一廉之働可在之事
一柴田修理亮右働及一國を乍存知天下之取沙汰迷惑に付て此春至賀州一國平均申付事
一武篇道ふかひなきにおいては以屬詫調略をも仕相たらはぬ所をは我等にきかせ相濟之處五ケ年一度も不申越之儀由斷曲事之事
一やす田之儀先書注進彼一揆攻崩においては殘小城共大略可致退散之由載㆓紙面㆒父子連判候然處一旦届無之送遣事手前迷惑可遁之寄事於左右彼是存分申哉之事
一信長家中にては進退各別に候歟三川にも與力尾張にも與力近江にも與力大和にも與力河內に與力和泉にも與力根來寺衆申付候へは紀州にも與力少分之者︀共に候へとも七ケ國之與力其上自分之人數相加於働者︀何たる遂一戰候共さのみ越度不可取之事
一小河かり屋跡職申付候處從先々人數も可在之と思候處其廉もなく剩先方之者︀共をは多分追出然といへとも其跡目を求置候へは各同前事候に一人も不拘候時は藏納とりこみ金銀になし候事言語道斷題目事
一山崎申付候に 信長詞をもかけ候者︀共程なく追失之儀是も如最前小河かりやの取扱無紛事【 NDLJP:下25】一從先〻自分に拘置候者︀共に加增も仕似相に與力をも相付新季に侍をも於拘者︀是程越度は有間敷候にしはきたくはへ計を本とするによつて今度一天下之面目失候儀唐土高麗南蠻まても其隱有間敷之事
一先年朝倉破軍之刻見合曲事と申處迷惑と不存結句身ふいちやうを申剩座敷を立破事時にあたつて 信長面目を失其口程もなく永〻此面に有之比興之働前代未聞事
一甚九郞覺悟條〻書並候へは筆にも墨︀にも述かたき事
一大まはしにつもり候へは第一欲ふかく氣むさくよき人をも不拘其上油斷之樣に取沙汰候へは畢竟する所は父子とも武篇道たらはす候によつて如此事
一與力を專とし余人之取次にも搆候時は以是軍役を勸自分之侍不相拘領中を徒に成比興を搆候事
一右衞門與力被官等に至まて斟酌候に事たゝ別條にて無之其身分別に自慢しうつくしけなるふりをして錦之中にしまはりをたてたる上をさくる樣なるこはき扱付て如此事
一信長代になり三十年遂奉公之內に佐久間右衞門無比類︀働と申鳴し候儀一度も有之ましき事
一一世之內不失勝利之處先年遠江へ人數遣候刻互勝負有つる無紛候然といふとも家康使をも有〻條をくれの上にも兄弟を討死させ又は可然內者︀打死させ候へは其身依時之仕合遁候かと人も不審を可立に一人も不殺︀剩平手を捨ころし世に有けなる面をむけ候儀以爰條〻無分別之通不可有紛事
一此上いいつかたの敵をたいらけ會稽を雪一度致歸參又は討死する物かの事
一父子かしらをこそけ高野の栖を遂以連〻赦免可然哉事
右數年之內一廉無働者︀未練︀子細今度於保田思當候樣申付㆓天下㆒ 信長に口答申輩前代始候條以爰可致當末二ケ條於無請者︀二度天下之赦免有之間敷者︀也
天正八年 八月日
此如御自筆を以て遊し 佐久間右衞門父子かたへ 楠木長安 宮內卿法印 中野又兵衞 三人を以て遠國へ可退出趣被仰出取物も不取敢 高野山へ被上候爰にも不可叶旨 御諚に付て高野を立出 紀伊州熊野之奧足に任せて逐電也 然間譜代之下人に見捨られかちはたしにて己と草履を取計にて見る目も哀成有樣也
八月十七日 信長公大坂より御出京 京都︀に而御家老 林佐渡守 安藤伊賀父子 丹羽︀右近 遠國へ被追失子細は先年 信長公御迷惑の折節︀含野心申之故也
【巻十三(十二)
賀州一揆歷〻生害之事】十一月十七日 柴田修理亮調略にて賀州之一揆歷〳〵者︀所〻にて手分を申付生害させ頸共安土へ進上則松原町西に被懸置候也 頸之注文 若林長門 子若林雅樂助 子若林甚八郞 宇津呂丹後 子宇津呂藤六郞 岸田常德 子岸田新四郞 鈴木出羽︀守 子鈴木右京進 子鈴木次郞右衞門 子鈴木太郞 鈴木采女 窪田大炊頭 坪坂新五郞 長山九郞兵衞 荒川市介 德田小次郞 三林善四郞 黑瀨左近 以上十九人
信長公御感不斜候之也
【巻十三(十三)
遠州高天神︀家康御取卷之事】遠州高天神︀之城武田四郞人數入置相拘候を 家康公推詰しゝ垣結まはし取籠をかせられ御自身御在陣候之也
【 NDLJP:下26】【巻十四○卷之十四 (天正九年辛巳)
】
【巻十四(一)
御爆竹之事】天正九年辛巳
正月朔日 他國衆之御出仕被成御免安土に在之御馬廻衆計西之御門より東之御門へ被成御通可有御覽之旨 上意に而各其覺悟仕候處夜中より巳刻迄雨降御出仕無之 安土御搆之北 松原町之西海︀端へ付て御馬塲を築せられ元日より 菅屋九右衞門 堀久太郞 長谷川竹 兩三人御奉行に而御普請在之
正月二日に 安土町人共に御鷹之雁鶴︀を餘多町〳〵へ被下忝之由候て 佐々木宮に而爲御祝︀言能を仕爰にて頂戴候之也
正月三日 武田四郞勝賴 遠州高天神︀之城爲後卷 甲斐信濃催一揆罷出之由風說に付て 岐阜中將信忠卿御馬を被出尾州淸洲之城に御居陣也
正月四日 橫須賀之城爲御番手 水野監物 水野宗兵衞 大野衆 三首被指遣
正月八日 御馬廻 御爆竹致用意頭巾裝束致結搆思〳〵の出立に而十五日に可罷出之旨御觸有 江州衆へ被仰付御爆竹申付人數 北方東一番に仕次第 平野土佐 多賀新左衞門 後藤喜三郞 蒲生忠三郞 京極小法師 山崎源太左衞門 山岡孫太郞 小河孫一郞 南方次第 山岡對馬 池田孫次郞 久德左近 永田刑部少輔 靑地千代壽 阿閉淡路守 進藤山城守 以上
御馬塲入御先へ御小性衆其次を 信長公黑き南蠻笠をめし御眉をめされ赤キ色の御ほうこうをめされ唐錦之御そはつぎ虎皮之御行騰蘆毛之御馬すくれたる早馬飛鳥之如く也關東祇候之矢代勝介と申馬乘是にも御馬乘させられ 近衞殿 伊勢兵庫頭 御一家之御衆 北畠中將信雄 織田上野守信兼 織【 NDLJP:下27】田三七信孝 織田源五 織田七兵衞信澄
此外歷〳〵美々敷御出立思〳〵の頭巾裝束結搆にて早馬十騎廿騎宛乘させられ後には爆竹に火を付曈とはやし申御馬共懸させられ其後町へ乘出し去て御馬被納見物成羣集御結搆之次第貴賤驚耳目申也
正月廿三日 維任日向守に被仰付京都︀に而可被成御馬揃之間各及㆑程盡結搆可罷出之旨御朱印を以て御分國御觸在之
【巻十四(二)
御馬揃之事】二月十九日 北畠中將信雄卿 中將信忠卿 御上洛二條妙覺寺御寄宿
二月廿日 信長御出京本能寺に至て被移御座
二月廿三日きりしたん國より 黑坊主參り候年之齡廿六七と見えたり惣之身の黑き事牛之如彼男
二月廿四日 北國越州より 柴田修理亮 柴田伊賀守 柴田三左衞門尉 罷上色々珍奇盡員進上候て御禮在之 御馬揃
二月廿八日 五畿內隣國之大名小名御家人を被召寄駿馬を集於天下被成御馬揃
聖王へ被備 御叡覽訖上京 內裏之東に北より南へ八町に馬塲をやり馬塲中に竪に高さ八尺に柱を
帝 雲客卿相 殿上人 衣香撥㆑當四方に薰し其數さも花やかなる御粧にて御出有 攝家淸花之御衆歷
〳〵甍ヲ並 皇居之四を守護し申され左右に御
一番に 惟住五郞左衞尉長秀 幷攝州衆 若州衆 西岡之河島 二番 蜂屋兵庫頭 幷河內衆 和泉衆 根來寺之內大ケ塜 佐野衆 三番 維任日向守 幷大和 上山城衆 四番 村井作右衞門 根來 上山城衆 御連枝之御衆 中將信忠卿 馬乘八十騎 美濃衆 尾張衆 北畠中將信雄 馬乘三十騎 伊勢衆 織田上野守信兼 馬乘十騎 同三七信孝 馬乘十騎 同七兵衞信澄 馬乘十騎 同源五 同又十郞 同勘七郞 同中根 同竹千代 同周防 同孫十郞 公家衆 近衞殿 正親町中納言殿 烏丸中納言殿 日野中納言殿 高倉藤右衞門佐殿」 細川右京大夫殿 細川右馬頭殿 伊勢兵庫頭殿 一色左京權大夫殿 小笠原 御馬廻御小性衆何れも十五騎づゝ與〳〵を被仰付 越前衆 柴田修理亮 同伊賀 柴田三左衞門 不破河內守 前田又左衞門 金森五郞八 原彥次郞 御弓衆百人 頓而 御先を 平井久右衞門 中野又兵衞 兩人二手に分而二段に參り候也是は一統に打矢を腰にさゝれたり
御馬【 NDLJP:下28】此御馬と申は奧州津輕日本迄大名小名によらす是そと申名馬我も〳〵とはる〳〵牽上せ進上候餘多之名馬之中にて勝れたる御馬也於本朝是 上こす不可有 御馬 御皆具不及申何れも色〳〵に御結搆無申計 御中間衆出立 立烏帽子黃成水干白キ袴す足に
七番 夕庵山うはの出立にて此外坊主衆 長安 長雲 友閑 御先に參らるゝ 八番 御曲 持四人 御奉行 市若 地を金に雲に浪を繪取タリ
左 御先小性 御杖持 北若 御長刀持 ひしや 御小人五人 御行騰持 小市若 御馬大黑に召れ惣御人數廿七人 右 御先小性御小人六人 御行騰持 小駒若 御太刀持 糸若御長刀持 たいとう御行騰地を金に虎の府を網に御
御內府之御裝束 御眉に而ほんしやを以而ほうこうめされ今度京都︀奈良堺にて珍敷唐織物被成御尋各御枝葉之御衆御裝束と被仰出之處隣國より我不劣と上品之唐綾唐綿唐縫物等盡其員備 上覽奉る者︀也此きんしやと申は昔 唐土か天竺に而 天子帝王之御用に織たる物と相見えて四方に織
御頭巾とうかむり御後之方に花を立させられ高砂大夫之御出立か 折㆓梅︀花㆒挿首二月雪落㆑衣心歟 御膚にめさせられ候御小袖紅梅︀に白のだん段〻にきり唐草也其上に蜀江之錦御小袖御袖口にはよりきんを以てふくりんをめされ候是い昔年大國より三卷本朝へ渡りたる內之其一卷也 永岡與一郞都︀に而尋捜求進上古今之名物共參集御名譽無申計
御肩衣べにどんすにきりから草也 御袴同前也 御腰にほたんの作花をさゝせられ是は
禁裏樣より參りたる由也 御腰簑白熊 御太刀御のし付御はきそへはさや卷の熨斗付也 御腰に鞭をさゝせられ御ゆかけ白革にきりのとうの御紋有 御沓い猩々皮 立上は唐錦
花やかなる御出立御馬塲入之儀式左なから住吉明神︀御影向もかくやと心もそゝろに各神︀感をなし奉り訖然者︀隣國之羣集晴︀かましきに付て爰を肝要と思〳〵の頭巾出立は我不劣とあらゆる程之結搆生便敷各手を盡し面〳〵の衣裝下には過半紅梅︀紅筋上着は薄繪唐縫物金襴唐綾狂文之小袖側次袴同前各腰簑付られたり 或きんへい或紅の糸縫物を切さきにして付られたるも有 馬具押懸鞦三尺繩各上品之紅之糸を以て總房にくませられ又金欄︀段子を以てつゝませて總房にきんへい紅之糸を付たるも有又五色之糸にてくませたる鞦も有蹈皮草鞋等に至迄皆五色之糸に而作らせ太刀は過半のし付也
岐阜中將信忠卿
天子御叡覽御歡喜不斜之旨忝も 御綸言併 信長御面目不勝計及晩被納 御馬本能寺に至て御歸宅千秋萬歲珍重〻〻
三月五日從 禁中御所望に付て又御馬めさせられ此時者︀御馬揃之中之名馬五百余騎を寄させられ 御装束者︀黑キ御笠に御ほふこふ何れもめされくろき御
御門百敷之大宮人女御更衣等其數美〻敷御粧にて 御幸有て被備 御叡覽御遊興御歡喜不斜 信長御威光を以て忝かけまくも一天君万乘之
三月六日 神︀保越中 佐々內藏佐幷國衆上國候 加賀 越前 越中 三ケ國之大名衆今度之御馬揃に各在京也今之透に人數を可出之行に而名譽之ごうの刀作たる松倉と云所に楯籠御敵 河田豐前以調略越後より 長尾喜平次を呼越 大將として催一揆 佐々內藏佐人數入置候小井手之城
三月九日に取詰候又加賀國白山之麓ふとうげと云所に卒度足懸りを
三月九日 堀久太郞被仰付和泉國中知行方改員數可申上之旨 上意にて泉州へ差被遣 上意にて泉州へ差被遣
三月十日 京都︀より 信長安土に至而御下
三月十二日 神︀保越中幷國衆安土に至て參着 御馬九つ國衆より進上 佐々內藏佐も御鞍鐙轡黑鎧進上候也
三月十五日 朝松原町御馬塲に而御馬めさせられ候越中衆何れも御禮被申一〳〵加御詞忝次第也爰に而 長尾喜平次越中へ罷出小井手之城取卷之趣 言上之處則爲先勢 越前衆 不破 前田 原 金森 柴田修理 人數不移時日可致出勢之旨被仰出各御暇被下夜を日に繼越中に至而着陣候へキ
三月廿四日 佐々內藏佐神︀通川六道寺川打越 中郡之內中田ト云所へ被懸付候處上方之御人數參陣之由承及
三月廿四日 卯尅御敵 長尾喜平次 河田豐前致陣拂 小井手表引拂火之手を 間三里程に見懸 成願寺川 小井手川打越人數被付候へとも早諸︀手引取候間不及是非併籠城運を開
去程に去年 長岡兵部大輔 與一郞 頓五郞 父子三人度々忠節︀に付而丹後國被下候然間靑龍寺之城上被申候依之
三月廿五日 御番手爲城代 猪︀子兵助 靑龍寺へ兩人被差遣 永岡知行分改居城可仕之旨被仰付候キ
【巻十四(三)
高天神︀干殺︀歷〻討死之事】三月廿五日 亥剋遠江國高天神︀籠城之者︀過半及餓死殘黨こほれ落柵木を引破罷出候を爰かしこにて相戰 家康公爲御人數 討捕頸之注文
百參十八 鈴木喜三郞 鈴木越中守 拾五 水野國松 十八 本田作左衞門 七ツ 內藤三【 NDLJP:下30】左衞門 六ツ 菅沼次郞右衞門 五ツ 三宅宗右衞門 貳拾一 本田彥次郞 七ツ 戶田三郞左衞門 五ツ 本田庄左衞門 四拾貳 酒井左衞門尉 拾六 石川長門守 百七十七 大須賀五郞左衞門 四拾 石川伯耆守 拾 松平上野守 貳拾貳 本田平八郞 六ツ 上村庄右衞門 六拾四 大久保七郞右衞門 四拾一 榊原小平太 拾九 鳥井彥右衞門 拾參 松平督 一ツ 松平玄蕃允 一ツ 久野三郞左衞門 一ツ 牧野菅八郞 一ツ 岩瀨淸介 二ツ 近藤平右衞門 頸數六百八十八
右之內惣頭之頸之注文 駿河先方衆
岡部丹波守 三浦右近 森川備前守 朶石和泉守 朝比奈彌太郞 進藤與兵衞 油比可兵衞 油比藤大夫 岡部帶刀 松尾若狹守 名鄕源太 武藤刑部丞 六笠彥三郞 神︀應伹馬守 安西平右衞門 安西八郞兵衞 三浦雅樂助」 栗田內左右之者︀ 信濃衆 栗田刑部丞 栗田彥兵衞 同弟二人 勝役 主稅助 櫛木庄左衞門 水島 山上備後守 和根川雅樂助」 大戶內 長共 大戶丹後守 浦野右衞門 江戶右馬丞」 橫田內 長共 土橋五郞兵衞尉 福︀島本目助 與田能登守內 長共 與田美濃守 與田木工左衞門 與田部兵衞 大子原 川三藏 江戶力助」 以上
武田四郞 御武篇に恐眼前に甲斐信濃駿河 三ケ國にて歷〳〵之者︀上下不知其數 高天神︀に而干殺︀にさせ後卷不仕天下失面目候 信長公之御威光と申なから家康公未
三月廿六日 菅屋九右衞門 能登國七尾爲城代被差遣候也
三月十日 信長御小姓衆五六人被召列竹生島御參詣長濱 羽︀柴筑前所迄御馬にめされ是より海︀上五里御舟にて御社︀參海︀陸共に片道十五里之所を日之內に上下三十里之道被成御歸城希代之題目也併御機力も余人にかはり御達者︀に御座候之處諸︀人奉感候也遠路に候へは今日は長濱に御逗留候はんと何れも存知之處御歸候て御覽候へは御女房たち或は二丸まて出られ或
四月十三日 長谷川竹 野々村三十郞 兩人に御知行過分に被仰付忝と申なから面目之至候也
四月十六日 若州 逸︀見駿河病死仕彼領中八千石此內方知分 武藤上野跡 粟屋右京亮跡 三千石 武田孫八郞へ被遣相殘て 逸︀見本知分五千石 惟住五郞左衞門幼少より召使候 溝口竹と申者︀被召出 逸︀見駿河跡一職進退に五千石被下其上國之爲目付被仰付之間若州に在國仕善惡を聞立見及可申上之旨忝も御朱印被成下頂戴後代迄も面目不可過之
四月十九日 武田孫八郞 溝口金右衞門岐阜へ參御禮申上
【巻十四(四)
和泉卷尾寺破滅之事】去程に和泉國御領中差出等 堀久太郞申付槇尾寺領是又彼改候之處旣及
抑槇尾寺と申者︀高山聳峨々ト深山
四月廿日 夜に入寺僧︀老若七八百人武具ヲ着し鬪諍堅固専にして各觀音堂に參り御本尊に名殘ヲ惜ミ故鄕離散を悲しみ噇と一度に
承和二年乙卯三月廿一日寅一點に御歲六十二ト申に大師御入定以來當年七百四十七年也今般日こそ多ケレ今月廿一日槇尾寺退散偏高野山も破滅基歟
四月廿一日 安土御山に而御相撲有 大塜新八取勝爲御褒美御領中百石被下 二番にたいとう能相撲仕 三番に永田刑部少輔內うめと申者︀面白相撲仕是又度〻被加御詞忝次第也
四月廿五日 高麗鷹六連 溝口金右衞門求進上近來不參候て珍奇之由被成御感御秘藏御自愛不斜
五月十日 和泉國槇尾寺坊舍 織田七兵衞信澄 蜂屋兵庫 堀久太郞 宮內卿法印 惟住五郞左衞門長秀 各能家見取に仕少〻
五月廿四日 越中國松倉と申所に楯寵候 御敵河田豐前病死仕候 信長之蒙御
六月五日 相州 北條氏政より御馬三ツ牽上進上 瀧川左近 御取次
六月十一日 越中國 寺崎民部左衞門 息喜六郞 父子被召寄御尋之子細在之佐和山に而 惟住五郞左衞門に被成御預召籠をかせられ候
【巻十四(五)
能登國年寄共生害之事】六月廿七日 能州七尾之城にて 遊佐美作 同弟 伊丹孫三郞 家老三人連々惡逆を依相搆 菅屋九右衞門に被仰付能州に而生害候然者︀ 温井備前守弟 三宅備後守 是等も身ノ上と存知候て致逐電候〻也
【巻十四(六)
因幡國取鳥城取詰之事】六月廿五日 羽︀柴筑前守秀吉 中國へ出勢打立人數二萬余騎 備前 美作打こし 但馬口より 因幡國中へ亂入 橘川式部少輔 楯籠とつとり之城四方離れて
七月六日 越中國木舟城主 石黑左近家老 石黑與左衞門 伊藤次右衞門 水卷采女
七月十一日 越前より 柴田修理亮 黄鷹六連上せ進上幷切石數百是又進上申され候〻也
七月十五日 安土御殿主幷惣見寺に挑灯餘多つらせられ 御馬廻之人〳〵新道江之中に舟をうかへ手
〳〵に
七月十七日 岐阜中將信忠へ御秘藏之雲雀毛御馬被參候無隱駿馬にて候キ 寺田善右衞門被召寄被遣候也
七月十七日 佐和山に而越中の寺崎民部左衞門 子息喜六郞 父子生害之儀被被付候息喜六郞未タ若年十七歳
七月廿日 出羽︀大寳寺より爲御音信 御鷹幷御馬進上 翌日返禮御小袖卷物等被遣候〻也
七月廿一日 阿喜多之屋形 下國方より御音信 御取次 神︀藤右衞門 黃鷹五聯 生白鳥三ツ 以上右之內に巢鷹一ツ御座候御自愛御秘藏大方ならす
下國方へ御返書被遣注文 御小袖 十御紋在之 純子 拾卷 黃金 貳枚是は使ノ 小野木と申者︀に被下之由也
七月廿五日 岐阜中將信忠安土に至而御上着 御脇指御三人へ被參候御使 森乱
中將信忠へ 作正宗 北畠中將信雄へ 作北野藤四郞 織田三七信孝へ 作しのき藤四郞
何れも御名物代過分之由候也
【巻十四(七)
八月朔日御馬揃之事】八月朔日 五畿內隣國之衆在安土候て御馬揃 信長公御裝束しろき御出立御笠に而御ほふこふめされ虎皮之御行騰葦毛御馬也 近衞殿其外御一門御出立下には白き帷上には或生絹之帷或辻か花染
八月六日 會津ノ屋形 もりたかより御音信 あひさう駁の御馬奧州に而無隱希有之名馬之由候て上せ進上候也
八月十二日 中將信忠 尾州 濃州 諸︀侍 岐阜へ被召寄長良之河原に御馬塲を築せられ跡先に高々【 NDLJP:下33】と築地をつかせ左右には高さ八尺に埓を結せられ每日御馬めさせられ候キ
八月十三日 因幡國とつとり表に至て藝州より 毛利 吉川 小早川 爲後卷可罷出之風說在之則御先手に在國之衆一左右次第夜を日に繼可致參陣用意少も不可有由斷之趣被仰出候 丹後國に而永岡兵部大輔父子三人 丹波國に而 維任日向守 攝津國に而 池田勝三郞 大將として 高山右近 中川瀨兵衞 安部二右衞門 鹽川吉大夫 等へ先被仰出此外隣國衆御馬廻不及申御陣用意仕可相待候今度 毛利家人數爲後卷罷出に付ては 信長公御馬を被出東國西國之人數
八月十四日 御秘藏之御馬三疋 羽︀柴筑前かたへ被遣候御使 高山右近 とつとり表懇に見及罷歸 言上候へ之趣 上意にて御馬ひかせ參陣 羽︀柴筑前外聞實儀身餘忝次第之由也
【巻十四(八)
高野聖御成敗之事】八月十七日 高野聖尋捜搦捕而數百人從萬方被召寄悉被誅候子細者︀ 攝州伊丹牢人共高野に拘置候其內に而一兩人可被召出者︀候て御朱印を以て被仰遣候處其儀御返事をは不申上剰御使に被遣候者︀十人計討殺︀候每度蒙御勘氣者︀拘置緩怠に付而如此候也
【巻十四(九)
能登越中城々破却之事】能登國四郡 前田又左衞門被下忝次第也
今度能登 越中城々 菅屋九右衞門御奉行にて悉破却申付安土至而罷歸候キ
九月三日 三介信雄 伊賀國へ發向 御先手次第 甲賀口 甲賀衆 瀧川左近 蒲生忠三郞 惟住五郞左衞門 京極小法師 多賀新左衞門 山崎源太左衞門 阿閉淡路守 阿閉孫五郞 三介信雄
如此諸︀口より御亂入 柘植之 福︀地被成御赦免人質執固其上 不破彥三爲御警固當城に被入置
河合之 田屋と申者︀名譽之山櫻之壺盡幷きんかうの壺致進上降參仕候則きんかう返し被遣 山櫻之御壺被止置 瀧川左近被下候也
九月六日 信樂口 甲賀口 手を合一手に罷成御敵城壬生野之城さなご嶺おろし是等へ差向 三介信雄みだい河原に御陣を居られ 瀧川左近 惟住五郞左衞門 堀久太郞 江州衆 若州衆 取つゝき御陣を懸られ候
九月八日 賀藤與十郞 萬見仙千代 猪︀子 安西 四人被召出御知行分〳〵に被仰付忝次第也
御小袖皆〳〵に被下人數之事
狩野永德 息右京助 木村次郞左衞門 木村源五 岡邊又右衞門 同息 遊左衞門 子息 竹屋源七 松村 後藤平四郞 刑部 新七 奈良大工
諸︀職人頭〳〵へ御小袖餘多拜領させられ何れも〳〵忝次第也
【巻十四(十)伊賀國三介殿被仰付事】九月十日 伊賀國さなご嶺おろしへ諸︀手相働國中の伽藍一宮之社︀頭初として悉放火候之處にさなごより足輕を出し候 瀧川左近 堀久太郞 兩人見計馬を乘入究竟の侍十餘騎討捕其日は陣所〳〵之本陣へ打歸し
【 NDLJP:下34】九月十一日 さなご可攻破之處夜中に退散也さなごへ 三介信雄入置申諸︀勢奧郡へ相働諸︀口之軍兵入合候間爰に而郡〳〵を請取手前切に御成敗其上城々破却被申付候也
阿加郡 三介信雄御請取に而御成敗 山田郡 上野守信兼御成敗 名張郡 惟住五郞左衞門 筒井順慶 蒲生兵衞大輔 多賀新左衞門 京極小法師 若州衆 右之衆として所〻に而討捕頸之注文 小波多 父子兄弟三人 東田原ノ 高畠四郞 兄弟二人 西田原之城主 よしはらの城主吉原次郞 以上
右之外一揆共大和境 春日山へ逃散候を 筒井順慶山〳〵へ分入尋捜而大將分七十五人其外數を不知切捨候キ
伊賀四郡之內 三郡 三介信雄御知行に參 一郡 織田上野守信兼御領中に參 〆
中國因幡國とつとりより 高山右近罷歸彼表堅固之樣子繪圖を以て具 言上候是又御祝︀着候也
十月五日 稻葉刑部 高橋虎松 祝︀彌三郞 是等に御知行被下候也
十月七日 しろの御鷹 初て鳥屋出
【巻十四(十一)
伊賀國信長御發向之事】十月九日 伊賀國爲御見物 岐阜中將信忠 織田七兵衞信澄御同道にて其日飯︀道寺へ 信長公被成御上是より國中之躰御覽し御泊
十月十日 一宮に至而御參着暫時御休息も無御座一宮之上に國見山とて高山有則御登山候て先國中之樣子御覽し被計 御座所御殿 瀧川左近結搆に立置 中將信忠御座所其外諸︀勢無殘所拵置珍物を調御膳上申御馳走不斜 三介信雄 堀久太郞 惟住五郞左衞門 是等も御殿御座所我不劣ト綺羅ヲ瑩き御普請御膳進上之用意生便敷次第也 路次すからの御一獻各上可申と御崇敬御果報いみしくおぢ恐るゝ有樣筆にも詞にも難︀述樣躰也
十月十一日 雨降御逗留
十月十二日 三介信雄御陣所 筒井順慶 惟住五郞左衞門陣所奧部 小波多と申所迄御家老衆十人計被召列御見舞去而
十月十三日 伊賀國一宮より安土に至而御歸城
十月十七日 長光寺山御鷹つかはされ候伊賀國中切納諸︀卒悉歸陣也
十月廿日 より伴天連北南に二通新町鳥打へ取續立させられ候はん由候て御小性衆御馬廻衆へ被仰付足入沼を塡させ町屋鋪被築御普請在之
【巻十四(十二)
因幡國取鳥果口之事】今度因幡國とつ鳥一郡之男女悉城中へ逃入楯籠候下〳〵百姓以下長陣之無覺悟候之間即時に及餓死初之程者︀五日に一度三日に一度鐘をつき鐘次第雜兵悉柵際迄罷出木草之葉を取中にも稻かぶを上〳〵の食物とし後には是も事盡候て牛馬をくらひ霜露にうたれ弱者︀餓死無際限餓鬼の如く
十月廿五日 取鳥籠城之者︀扶被出餘に不便に被存知食物與へられ候へは食にゑひ過半頓死候誠餓鬼之如く
【巻十四(十三)
伯耆國南條表發向之事】十月廿六日 伯耆國に 南條勘兵衞 小鴨左衞門尉 兄弟兩人爲御身方居城候處 吉川罷出南條表取卷之由注進候眼前に攻殺︀させ候ては都︀鄙之口難︀無念之由候て 羽︀柴筑前守 後卷罷立東西之
十月廿六日 先勢を遣し
十月廿八日 羽︀柴筑前守秀吉出陣因幡伯耆之境目に 山中鹿介 弟 龜井新十郞爲御身方居城候是迄羽︀柴筑前守參陣爰より伯耆へは山中谷合にて節︀所と云事大方ならす卽時に南條表相働
十月廿九日 越中より黑部たちの御馬當歲二歲を初として十九疋 佐々內藏介牽上進上也
十一月朔日 關東下野國蜷川鄕 長沼山城守名馬三ツ進上 根來寺 智積院 蜷川之伯父也是又使者︀同道候て被參 堀久太郞御取次也 御返書被遣御音信注文 縮羅 百端 紅 五十斤 虎皮 五枚 以上 黃金 壹枚是は使者︀に參候 關口石見と申仁に被下候〻也
是は伯耆表之事 羽︀柴筑前守秀吉
十一月八日 播州姫路に至而歸陣 吉川元春も無曲人數引取候キ
【巻十四(十四)
淡路島被申付之事】十一月十七日 羽︀柴筑前 池田勝九郞 兩人淡路島へ人數打越 岩屋へ取懸攻寄之處懇望之筋目候て池田勝九郞手へ岩屋を相渡し無別條申付
十一月廿日 姫路に至テ 羽︀柴筑前守 歸陣池田勝九郞 是も同前に人數打納也 淡路島物主未被仰付候也
十一月廿四日 犬山之お坊 安土に至て初而御禮是は先年 武田信玄と御入魂之筋目在之刻 信長公之末子を養子仕度之由候て甲斐國へ御出候を終に和談無之候て送申候御子にて候を犬山へ城主になし申され候
一御小袖 一御腰物 一御鷹 一御馬 一御持鎗 此外色〻取揃參らせられ御內衆迄それ〳〵を被下候也
【巻十四(十五)
惡黨御成敗之事】十二月五日 江州永原之並 野尻之鄕に東善寺の延念と申う德なる坊主御座候ならび蜂屋之鄕に八と【 NDLJP:下36】申者︀つゝもたせを仕彼寺へ若き女をあたて雨中日之暮に走こませ少の程宿をからせ迷惑と申候を庭のはしにて火をたきあたり居申候を跡よりおとこ共打入若き女を止置事出家之身として不屆儀候坊主に禮錢を出し候へと申懸不及覺悟とからかいを仕候御代官 野々村三十郞 長谷川竹 兩人として搦捕遂糺明女男共に御成敗自滅哀成有樣也
去程に月迫には隣國遠國之大名小名御一門之御衆安土へ 馳集歲暮爲御悅言金銀唐物御服御紋織付御結搆大方不成我不劣と門前成市色〻ノ重寳進上不知其員
歲暮之爲御悅儀 羽︀柴筑前守秀吉播州より罷上 御小袖數 貳百 進上 其外女房衆かたそれ〳〵へ參らせられか樣之結搆生便敷樣躰古今不及承上下共驚耳目候〻訖 今度因幡國取鳥云㆓名城
十二月廿二日 御拜領候て播州へ歸國候〻也
【 NDLJP:下36】【巻十五○卷之十五 (天正十年壬午)
】
【巻十五(一)
御出仕之事】天正十年壬午
正月朔日 隣國之大名小名御連枝之御衆各在安土候て御出仕有百々之橋より惣見寺へ被成御上
一番 御先御一門之御衆也 二番 他國衆 三番 在安土衆
今度は大名小名によらす御禮錢百文つヽ自身持參候へと 堀久太郞 長谷川竹 以兩人御觸也 惣見寺毘沙門堂御舞臺見物申おもて之御門より三ノ御門之內御殿主ノ下御白洲まて祇候仕爰にて面〻被加御詞先々次第ノ如く 三位中將信忠卿 北畠中將信雄卿 織田源五 織田上野守信兼
此外御一門歷〳〵也其次他國衆各
御座敷惣金間每に 狩野永德被仰付色〻樣々あらゆる所之寫繪筆に盡させられ其上四方之景氣山海︀田薗鄕里言語道斷面白地景申に計なし從是御廊︀下續に參り 御幸之御間拜見仕候へと 御諚にてかけまくも忝 一天万乘之主御座御殿被召上及拜監事難︀有誠生前之思出也御廊︀下ヨリ 御幸之御間元來檜皮葺金物日に光り殿中悉惣金也何れも四方御張付地を金に置上也金具所者︀悉以黃金被仰付
【巻十五(二)
御爆竹之事】正月十五日 御爆竹 江州衆へ被仰付 御人數次第
北方東一番 平野土佐守 多賀新左衞門 後藤喜三郞 山岡孫太郞 蒲生忠三郞 京極小法師 山崎源太左衞門 小河孫一郞 南方 山岡對馬守 池田孫次郞 久德左近 永田刑部少輔 靑地千代壽 阿閉淡路守 進藤山城守 以上
一番 御馬塲入 菅屋九右衞門 堀久太郞 長谷川竹 矢部善七郞 御小姓衆 御馬廻
二番 五畿內衆隣國大名小名
三位中將信忠卿 北畠中將信雄卿 織田源五 織田上野守信兼 此外御一門
四番 信長公かる〳〵とめされたる御裝束京染之御小袖御頭巾御笠少上へ長く四角也御腰簑白熊御はきそへ御むかはき赤地きんらんうらは紅櫻 御沓猩々皮御馬 仁田進上之やばかけ奧州より參り候駁之御馬遠江鹿毛 何れも御秘藏之御馬三疋取替〳〵めさせられ 屋代勝介是にも御馬乘させられ其日雪降風有て寒したる事大方ならす辰刻より未刻迄めさせられ見物群集をなし驚耳目申也及晩御馬被納珍重〻〻
正月十六日 先年 佐久間右衞門父子 蒙御勘當致他國紀伊國熊野奧にて病死仕候被不便に思食候歟子息 甚九郞事國之安堵御赦免之儀被仰出濃州岐阜祇候候て 三位中將信忠卿へ御禮被申上候也
正月廿一日 備前國 宇喜多和泉是も病死候 羽︀柴筑前守家老之者︀共召列安土に到而祇候申右之有姿言上候て 信長公へ黃金百枚進上候て御禮申上跡職無相違之旨 上意に而年寄共には一〻御馬被下忝下國候へキ
【巻十五(三)
伊勢大神︀空上遷空之事】正月廿五日 於伊勢太神︀宮 正遷宮三百年以降退轉御執行無之今ノ御代に以上意再興仕度之趣 上部大夫 堀久太郞を以て被申上候何程之造作に而可調と御尋之處に千貫御座候はゝ其外は勸進を以而可仕と言上候其時 御諚には去々年八幡御造營被仰付候に三百貫可入と候つれ共千貫に餘りて入申之間中〳〵千貫にて不可成候民百姓等に
正月廿六日 森亂御使に而濃州岐阜御土藏に先年鳥目一万六千貫被入置候定而繩も腐候はん之間 二位中將信忠より御差行を被仰付繋直し正還宮入次第被渡候へと御諚也
【巻十五(四)
紀伊州雜賀御陣之事】正月廿七日 紀州雜賀之 鈴木孫一同地ノ 古橋平次を生害候子細は 鈴木孫一が
【巻十五(五)
木曾義政忠節︀之事】二月朔日 信州 木曾義政御身方之色を被立候間御人數被出候樣にと 苗木久兵衞御調略之御使申に【 NDLJP:下38】付テ 三位中將信忠卿へ言上之處不移時日 平野勘右衞門を以て 信長公へ右趣被仰上候然處境目之御人數被出人質執固其上御出馬之旨 上意候則 苗木久兵衞父子木曾と一手に相はたらき 義政之舍弟
二月二日 武田四郞 父子 典厩 木曾謀叛之由承新府今城より馬を出し一萬五千計に而諏訪之上原に至て陣を居諸︀口之儀被申付候
二月三日 信長公諸︀口より可出勢之旨被仰出 駿河口より 家康公 關東口より 北條氏政 飛驒口より 金森五郞八爲大將相働 伊奈口 信長公 三位中將信忠卿 二手に分而可爲御亂入旨被仰出候也
二月三日 三位中將信忠 森勝藏 團平八 爲先陣尾州濃州之御人數 木曾口 岩村口 兩手に至て出勢也
御敵 伊奈口節︀所を抅瀧か澤に要害ヲ搆 下條伊豆守を入置候處家老 下條九兵衞企逆心
二月六日 伊豆を立出し岩村口より 河尻與兵衞人數引入御身方仕候
是は雜賀表之事 野々村三十郞被仰付紀伊州雜賀 土橋平次搆 城攻御撿使として 三十郞被差遣候處勿論無油斷攻詰候間難︀抅存知 千職坊卅騎計にてかけおち候を 齋藤六大夫 追懸討捕千職坊之頸
二月八日 安土へ持參候て懸御目候處 森亂御使に而御小袖幷御馬爲御褒美 齋藤六大夫被下外聞播面目則安土百々橋詰に 千職坊頸被懸置各見物仕候
二月八日 土橋平次搆攻干殘黨討果し普請掃除申付 織田左兵衞佐爲城代被入置候キ
二月九日 信長公信濃國に至而訖㆑可㆑被㆑成㆓御動座㆒
條々 御書出
一信長出馬に付ては大和人數出張之儀 筒井召連可罷立之條內〻其用意可然候 但高野年寄之輩少相殘吉野口可警固之旨可申付之事
一河內連判鳥帽子形高野雜賀表へ宛置之事
一泉州一國紀州へおしむけ候事
一三好山城守四國へ可出陣之事
一攝津國父勝郞留主居候て兩人子供人數にて可出陣事
一中川瀨兵衞可出陣事
一多田可出陣事
一上山城衆出陣之用意無油斷可仕之事
一藤吉郞一圓中國へ宛置事
一永岡兵部大輔之儀與一郞同一色五郞罷立父彼國に可警固事
一維任日向守可出陣用意事
右遠陣之儀候條人數すくなく召連在陣中兵粮つゝき候樣にあてかい簡要候但人數多く候 樣に戒力次第可抽粉骨候者︀也
二月九日 御朱印【 NDLJP:下39】二月十二日 三位中將信忠卿御馬を被出其日
二月十四日 信州松尾之城主 小笠原掃部大輔御忠節︀可仕之旨申上に付て
二月十四日 夜に入廢北候〻也
二月十五日 森勝藏三里計懸出し印田と云所に而退後候者︀十騎計討止候キ
二月十六日 御敵 今福︀筑前守武者︀爲大將
木曾口御加勢之御人數之事 織田源五 織田 織田孫十郞 稻葉彥六 梶原平次郞 塜本小大膳 水野藤次郞 簗田彥四郞 丹羽︀勘助 以上
右之御人數木曾と一手に鳥居峠を相拘也 御敵馬塲美濃守子息ふかしの城に楯籠鳥居峠へ差向對陣也三位中將將信忠卿岩村より嶮難節︀所をこさせられ
去程に 穴山玄蕃近年遠州口押之手として駿河國江尻に要害拵入置候今度御忠節︀仕候へと 上意候處に則御請申甲斐國府中に妻子を人質として被置候を
二月廿五日 雨夜之紛に
二月廿八日 武田四郞勝賴父子典厩諏訪之上原を引拂新府之舘に至而人數打納候キ
【巻十五(六)
信州高遠之城中將信忠卿被攻之事】三月朔日 三位中將信忠卿飯︀島より御人質を出され天龍川被乘越
三月二日 拂曉に御人數被寄 中將信忠卿は尾續を搦手之口へ取よらせられ大手之口 森勝藏 團平八 毛利河內 河尻與兵衞 松尾掃部大輔 此口へ切而出數刻相戰數多討取候間殘黨逃入也か樣候處中將信忠御自身御道具を被持爭先塀際へ被付柵を引破塀之上へあからせられ一旦に可乘入之旨御下知之間我不劣と御小姓衆御馬廻城內へ乘入大手搦手より込入込立られ火花を散し相戰各被疵討死算を乱スに不異歷〳〵之上﨟子共一〳〵に引寄〳〵差殺︀切而出働事不及申爰に 諏訪勝右衞門女房刀を㧞切て廻無比類︀働前代未聞之次第也又十五六のうつくしき若衆一人弓を持臺所之つまりにて餘多射倒し矢數射盡し後には刀を抜切而まはり討死手負死人上を下へと不知員討捕頸之注文
仁科五郞 原隼人 春日河內守 渡邊金大夫 畑野源左衞門 飛志越後守 神︀林十兵衞 今福︀又左衞門 小山田備中守(是は七科五郞脇大將にて候也) 小山田大學 小幡因播守 小幡五郞兵衞 小幡淸左衞門 諏訪勝右衞門 飯︀島民部丞 飯︀島小太郞 今福︀筑前守 以上頸數四百余有
仁科五郞頸 信長公へもたせ御進上候 今度 三位中將信忠卿 嶮難︀節︀所をこさせられ於東國强者︀と無其隱 武田四郞に打向名城之高遠之城鹿目と究竟之侍共入置相拘候を一旦に乘入攻破東國西國之譽を被取 信長之御代を御相續代〻之御名譽可被備後胤之龜鏡者︀也
三月三日 中將信忠卿上ノ諏訪表に至而御馬を被出所〻御放火
抑當社︀諏訪大明神︀者︀日本無双靈驗殊勝七不思儀神︀秘之明神︀也神︀殿を初奉り諸︀伽藍悉一時之煙となされ御威光無是非題目也 關東ノあん中大島を退出之徒又諏訪の池はつれに高島とて小城有是へ楯籠難︀拘存知當城モ津田源三郞へ相渡罷退 本曾口鳥居峠之御人數もふかし表に至て打出相働候也御敵城ふかし之城 馬塲美濃守相拘難︀成居城存知降參申 織田源五へ相渡退散候〻也 【巻十五(七)
家康公駿河口ヨリ御乱入之事】家康公 穴山玄蕃を爲案內者︀召列駿河河內口より甲斐國文殊堂之麓市川口へ御亂入 【巻十五(八)
武田四郞甲州新府退散之事】武田四郞勝賴高遠之城にて一先被相拘と被存知候處思外早速相果旣 三位中將信忠 新府へ御取懸候由取〻申に付而新府在地之上下一門家老之衆軍之行者︀一切無之面〳〵之足弱子共引越候に取紛致廢忘取物も不取敢四郞勝賴幡本に人數一勢も無之爰より典威引別れ信州さくの郡
三月三日 卯刻新府之館︀に火を懸世上の人質餘多在之燒籠にして被罷退人質瞳と泣悲しむ聲天にも響︀計に而哀成有樣申は中〳〵愚也去年十二月廿四日に 古府より新府今城へ勝賴簾中一門移徙之砌は鏤金銀輿車馬鞍美〻敷し而隣國之諸︀侍に騎馬うたせ崇敬不斜見物成羣集誇榮花常者︀簾中深假にも人にまみゆる事なくいつきかしつき寵愛せられし上﨟達幾程モなく引替て 勝賴の御前 同そば上﨟
此外一門親類︀の上﨟付〳〵等貳百余人之其中に馬乘廿騎には不可過歷〳〵の上﨟子共踏もならはぬ山道をかちはたしにて足は紅に染みて落人の哀さ中〳〵目も當られぬ次第也名殘おしくも住馴し古府をば 所に見て直に 小山田を憑み勝沼と申山中よりこがつこと申山賀へのかれ候漸 小山田か舘程近成し處に內〻肯候て呼寄爰にて無情無下に
【巻十五(九)
信長公御乱入之事】三月五日 信長公隣國之御人數を被召列御動座其日江州之內柏原上菩提院に御泊翌日 仁科五郞が頸もたせ參候をろくの渡りにて御覽し岐阜へ被持長良之河原に懸被置上下見物仕候七日雨降岐阜御逗留
三月七日 三位中將信忠卿上ノ諏訪より甲府に至而御入國 一條藏人 私宅に被居御陣 武田四郞勝賴一門親類︀家老之者︀尋搜而悉御成敗 生害之衆
一條右衞門大輔
織田源三郞 團平八 森勝藏 足輕衆被仰付上野國表へ被差遣候處
三月八日 信長公岐阜より犬山迄御成九日金山御泊十日
【巻十五(十)
武田四郞父子生害之事】三月十一日 武田四郞父子簾中一門こがつこの山中へ被引籠之由 瀧川左近承り嶮難︀節︀所之山中へ分入被相尋候處に田子と云所 平屋敷に暫時柵を付居陣候則先陣 瀧川儀大夫 篠岡平右衞門下知を申付取卷候處難︀遁被存知誠に花を折たる如くさもうつくしき歷〳〵の上﨟子共一〳〵に引寄〳〵四十余人さし殺︀其外ちり〳〵に罷成切而出討死候 武田四郞勝賴若衆土屋右衞門尉弓を取さしつめ引つめ散〳〵に矢數射盡し能武者︀餘多射倒追腹仕高名無比類︀働也 武田太郞齡は十六歲さすが歷〳〵の事なれは容顏美麗膚は白雪之如くうつくしき事余仁に
三月十一日 巳刻各相伴討死也 四郞父子之頸 瀧川左近かたより 三位中將信忠卿へ被懸御目候〻處に 關可平次 桑原助六兩人にもたせ 信長公へ御進上候
【巻十五(十一)
越中富山之城神︀保越中居城謀叛之事】去程越中國
武田典廐生害下曾御忠節︀之事】信長公御返書之趣武田四郞勝賴 武田太郞信勝 武田典厩 小山田 長坂釣竿 初として家老者︀悉討果し駿 甲 信無滯一篇被仰付候間不可有機遣候飛脚見及候間可申達候其表之事是又可爲存分事勿論也
三月十三日
柴田修理亮殿 佐々內藏介殿 前田又左衞門殿 不破彥三殿【 NDLJP:下42】三月十三日 信長公岩村より禰羽︀根まて被移御陣 十四日平谷を打越なみあひに御陣取爰にて 武田四郞父子之頸 關可兵衞 桑原介六 もたせ參被懸御目候則 矢部善七郞 被仰付飯︀田へ持せ被遣 十五日午刻より雨つよく降其日飯︀田に御陣を懸させられ 四郞父子之頸飯︀田に被懸置上下見物仕候 十六日御逗留信州さくの郡小諸︀に 下曾根 覺雲軒楯籠候 武田典厩 下そねを憑み纔廿騎計に而被罷越候
三月十六日 飯︀田御逗留之時 典廐之首 信長公へ被懸御目候 仁科五郞乘候秘藏之蘆毛馬 武田四郞乘馬大鹿毛是又被進候處大鹿毛は 三位中將信忠卿へ參らせられ 武田四郞勝賴最後にさゝれたる刀 瀧川左近かたより 信長公へ上被申候使に祗候之 稻田九藏に御小袖被下忝次第也
武田四郞 同太郞 武田典厩 仁科五郞四人之首 長谷川宗仁に被仰付京都︀へ上せ獄門に可被懸之由候て御上京候〻也
【巻十五(十三)
中國表羽︀柴筑前働之事】三月十七日 信長公飯︀田より大島を被成御通飯︀島に至て御陣取
三月十七日 御次公 御具足初に而 羽︀柴筑前守秀吉御伴仕備前之兒島に御敵城一所相殘候此表相働手遣之由注進在之
【巻十五(十四)
人數備之事】三月十八日 信長公高遠之城に被懸御陣
三月十九日 上之諏訪法花寺に御居陣諸︀手之御陣取段〻に被仰付候也
人數持備之次第 織田七兵衞信澄 菅屋九右衞門 矢部善七郞 堀久太郞 長谷川竹 福︀富平左衞門 氏家源六 竹中久作 原彥次郞 武藤助 蒲生忠三郞 永岡與一郞 池田勝九郞 蜂屋兵庫頭 阿閉淡路守 不破彥三 高山右近 中川瀨兵衞 維任日向守 惟住五郞左衞門 筒井順慶 此外御馬廻御陣取是又段〻に在之
【巻十五(十五)
木曾義政出仕之事】三月廿日 木曾義政 出仕被申御馬二ツ進上申次 菅屋九右衞門當座 御奏者︀ 瀧川左近御腰物梨地蒔かなく所燒付地はり目貫
三月廿日 晩に 穴山梅︀雪 御禮御馬進上 御脇指 梨地蒔金具所燒付地ほり也御小刀御つかまてなし地まき似相申之由被成御諚さげさやひうち袋付させ被下御領中被仰付候キ 松尾掃部大輔 御禮駮之御馬進上 御意相御秘藏候〻也今度忠節︀無比類︀之旨 上意に而本知安堵之 御朱印 矢部善七郞 森亂 兩人御使に而被下忝次第也
三月廿一日 北條氏政より 端山と申者︀使者︀に而御馬幷江川之御酒白鳥色〻進上 瀧川左近御取次
【巻十五(十六)
瀧川左近上野國拜領之事】三月廿三日 瀧川左近被召寄上野國幷信州之內二郡被下候年罷寄遠國へ被遣候事痛雖被思食候關東八州之御警固を申付老後之覺に上野に在國仕東國之儀御取次彼是可申付之間 上意忝も御秘藏之ゑひか毛之御馬被下此御馬に乘候而入國仕候へと 御諚都︀鄙之面目此節︀也
【巻十五(十七)
諸︀卒ニ御扶持米被下之事】三月廿四日 各致在陣兵粮等迷惑可仕之旨被仰出 菅屋九右衞門 爲御奉行御着到付させられ諸︀卒之【 NDLJP:下43】人數に隨て御扶持米信州ふかしにて渡被下忝次第也
【巻十五(十八)
諸︀勢歸陣之事】三月廿五日 上野國 小幡 甲府へ參 三位中將信忠卿へ歸參之御禮申上 瀧川左近 同道申御暇被下歸國候〻也
三月廿六日 北條氏政より御馬之爲飼︀料八木千俵諏訪迄持屆進上候〻也 三位中將信忠卿 今度高遠之名城攻落御手抦爲御褒美梨地蒔御腰物被參候天下之儀も可被成御與奪旨被仰東國御隙入儀も無御座に付て右之爲御禮
三月廿八日 三位中將信忠卿 從甲府諏訪迄被納御馬今日以外時雨風有而寒じたる事不成大形人餘多
三月廿九日 木曾口 伊那口思〳〵に歸陣候〻也
【巻十五(十九)
御國わり之事】三月廿九日 御知行割被仰出次第
覺
甲斐國 河尻與兵衞被下 但穴山本知分除之
駿河國 家康卿へ
上野國 瀧川左近被下
信濃國 タカイ ミノチ サラシナ はジナ 四郡 林勝藏被下
川中島表在城今度
同キソ谷 二郡 木曾本知 同 アツミ ツカマ 二郡 木曾新知に被下 同伊奈 一郡 毛利河內被下 同諏訪 一郡 河尻穴山替地に被下 同 チイサカタ サク 二郡 瀧川左近被下 以上十二郡
岩村 團平八 今度粉骨に付て被下 金山よなだ島 森乱 被下是は勝藏忝次第也
國掟 甲信 兩州
一關役所同駒口不可取之事
一百姓前本年貢外非分之儀不可申懸事
一忠節︀人立置外廉かましき侍生害させ或者︀可追失事
一公事等之儀能〻念を入令穿鑿可落着事
一國諸︀侍に懇扱さすか無由斷樣可氣遣事
一第一慾を搆に付て諸︀人爲不足之條內儀相續にをひては皆〻に令支配人數を可拘事
一本國より奉公望之者︀有之者︀相改まへ拘候ものゝかたへ相届於其上可扶持之事
一城〻普請可丈夫之事
一鐵炮玉藥兵粮可蓄之事
一進退之郡內請取可作道事
一堺目入組少〻領中を論之間惡之儀不可有之事
右定外於惡扱者︀罷上直訴訟可申上候也【 NDLJP:下44】 天正十年三月日
信長公御歸陣之間者︀信州諏訪に 三位中將信忠卿置申され甲州より富士之根かたを御覽し駿河遠江へ御まはり候て可有御歸洛之旨 上意候て
四月二日 雨降時雨候從兼日被仰出付而諏訪より大ケ原に至而被移御陣御座所の御普請御間叶以下瀧川左近將監 申付上下數百人之御小屋懸置御馳走不斜 北條氏政 武藏野にて追鳥狩仕候て難︀之鳥數五百余進上候則 菅屋九右衞門 矢部善七郞 福︀富平左衞門 長谷川竹 堀久太郞五人御奉行にて御馬廻衆被召寄御着到付させられ遠國之珍物拜領御威光難︀有次第也
四月三日 大ケ原被成御立五町計御出候へは山あひより名山是そと見えし富士の山かう〳〵と雪つもり誠殊勝面白有樣各見物驚耳目申也 勝賴居城之甲州新府
【巻十五(二十)
惠林寺御成敗之事】去程に今度於惠林寺 佐々木次郞 隱置に付て其過怠として 三位中將信忠卿より被仰付 惠林寺僧︀衆御成敗之御奉行人 織田九郞次郞 長谷川與次 關十郞右衞門 赤座七郞右衞門 以上 右奉行衆罷越寺中不殘老若山門へ呼上セ廊︀門より山門へ籠草をつませ火を被付候初は黒煙立て見えわかす次第
〳〵に煙納り燒
四月三日 惠林寺破滅老若上下百五十餘人被燒殺︀訖 所〻に而御成敗之衆 諏訪刑部 諏訪采女 だみね 長篠 是等は百姓共とし而生害させ頸を進上則被成御褒美黃金被下候〻也是ヲ見る者︀先〻迄名有程之者︀尋搜而頸を持參候〻キ 【巻十五(廿一)
いゝはさま右衞門尉御成敗之事】いゝはさま右衞門尉 生捕進上候先年明智之城に而致謀叛 坂井越中守親類︀之者︀共餘多討果し候に付て今度 坂井越中に仰付御成敗候〻也 秋山万の 秋山攝津守 長谷川竹 に被仰付御成敗候し也 北條氏政より御馬十三疋幷御鷹三足進上此內に鶴︀取之御鷹在之由也御使 玉林齋祇候之處何れも御氣色に相不申歸し被遣候
【巻十五(廿二)
信州川中島表森勝藏働之事】四月五日 森勝藏川中島 海︀津に致在城 稻葉彥六 飯︀山に張陣候處一揆令蜂起飯︀山を取卷之由注進候則 稻葉勘右衞門 稻葉刑部 稻葉彥一 國枝 是等を爲御加勢飯︀山へさし被遣 三位中將信忠卿より 團平八 是又被差越然而御敵山中へ引籠大藏之古城拵 いも川と云者︀一揆致大將楯籠
四月七日 御敵長沼口へ八千計にて相働候則 森勝藏懸付見合噇と切懸り七八里之間追討に千貳百余討捕大藏之古城にて女童千余切捨 以上頸數貳千四百五十余有此式候間飯︀山取詰候人數勿論引拂飯︀山請取 森勝藏 人數入置 稻葉彥六 御本陣諏訪へ歸陣 稻葉勘右衞門 稻葉刑部 稻葉彥一 國枝 江州安土へ歸陣仕右之趣言上也 森勝藏山中へ日〻相働所々之人質取固百姓共還住被申付粉骨無是非樣躰也
【巻十五(廿三)
信長公甲州ヨリ御歸陣之事】四月十日 信長公 東國之儀被仰付甲府ヲ被成御立爰に笛吹川とて善光寺より流出る川有橋を懸置か【 NDLJP:下45】ち人渡し申御馬共乘こさせられうば口に至而御陣取 家康公御念被入路次通鐵炮
四月十一日 拂曉にうば口より女坂高山被成御上谷合に 御茶屋御厩結搆に搆而一獻進上申さるゝかしは坂是又高山にて茂りたる事大形ならす左右之大木を伏られ道を作石を退させ山〳〵嶺〳〵無透間御警固を被置かしは坂之峠に御茶屋美〻敷立置一獻進上候也 其日はもとすに至て被移御陣もとすにも 御座所結搆に輝計に相搆二重三重に柵を付させ其上諸︀士之木屋〳〵千間に餘り 御殿之四方に作置上下之御まかなひ被仰付御肝煎無是非次第也
四月十二日 もとすを未明に出させられ寒じたる事冬之最中之如く也富士の根かたかみのか原井手野にて御小姓衆何れもみたりに御馬をせめさせられ御くるひなされ富士山御覽候處高山に雪積而白雲之如く也誠希有之名山也同根かたの人穴御見物爰に御茶屋立置一獻進上申さるゝ大宮之社︀人社︀僧︀罷出道の掃除申付御禮被申上昔 賴朝かりくらの屋形立られしかみ井手之丸山有西之山に白糸之瀧名所有此表くはしく被成御尋うき島か原に而御馬暫めさせられ大宮に至て被移御座候〻キ 今度北條氏政爲御手合出勢候て高國寺かちやうめんに 北條馬を立
一御脇指作吉光 一御長刀作一文字 一御馬 黑駁 以上 家康卿へ被進何れも御秘藏之御道具也
四月十三日 大宮を拂曉に立せられ浮島か原より足高山左に御覽し富士川乘こさせられ神︀原に 御茶屋搆一獻進上候也暫御馬を立られ知人に吹上之松六本松和歌之宮の子細被成御尋向地者︀伊豆浦目羅か崎連〻被及聞食候萬國寺よしわら三枚橋かちようめん天神︀川伊豆相摸境目に在之深澤ノ城何れも尋きかされ神︀原の濱邊を由井て磯邊の浪に袖ぬれて淸見か關爰に興津の白波や田子の浦濱三保か崎いつれも三ほの松原や羽︀衣の松久堅の四海納り長閑にて名所〳〵に御心を付られ江尻の南山の打越久能の城被成御尋其日は江尻之城に御泊
四月十四日 江尻を夜の間に立せられ駿河府中町口に 御茶屋立置一獻進上申さるゝ爰に而 今川之古跡千本之櫻くはしく尋聞食あべ川をこさせられ彼川下左之山手に 武田四郞勝賴此地被拘候取出持舟と云城有又山中路次通まりこの川端に山城を拵ふせきの城有名にしおふ宇津の山邊の坂口に 御屋形を立て一獻進上候〻也宇津の屋の坂をのほりにこさせられ田中漸程近く藤枝ノ宿入口に誠卒度したる
四月十五日 田中未明に出させられ藤枝の宿より瀨戶の川端に 御茶屋立置一獻進上申さるヽ瀨戶川こさせられせ戶の染飯︀とて皆道に人之知所有島田之町是又音に聞ゆる鍛冶之在所也大井川乘こさせられ川の面に人餘多立渡りかち人聊爾無樣に渡し申候〻也眞木のヽ城右に見て諏訪之原を
四月十六日 懸川拂曉に立せられみつけ之國府之上鎌田か原みかの坂に 御屋形立置 一獻進上也爰よりまむし塜高天神︀小山手に取計御覽し送池田の宿より天龍川へ着せられ爰舟橋懸被置 奉行人 小栗二右衞門 淺井六介 大橋 以上 兩三人被申付候 抑此天龍者甲州信州大河集而流出たる大河瀧下瀧鳴而川之面
四月十七日 濱松拂曉に出させられ今切之渡り御座船飾御舟之內に而一獻進上申さるゝ其外御伴衆舟數餘多寄させ前後に舟奉行被付置無由斷こさせらる御舟御上りなされ七八町御出候て右手にはまなの橋とて卒度したる所なれ共名にしおふ名所也 家康卿御家來 渡邊彌一郞と申仁こさかしく濱名之橋今切之由來舟かた之子細條々申上に付て神︀妙に思食れて黃金被下手前之才覺面目也しほみ坂に御茶屋御廐立置 夫〳〵の御普請候て一獻進上候也及晩雨降吉田に御泊
四月十八日 吉田川乘こさせられ五位に而御茶屋美〻敷被立置西入口に結搆に橋を懸させ御風呂新敷被立珍物を調一獻進上大形ならぬ御馳走也本坂長澤皆道山中にて惣別石高也今度金棒を持而岩をつき碎かせ石を取退平ラに被申付爰に山中之寳藏寺御茶屋西に結搆に搆而寺僧︀喝︀食老若罷出御禮申さるゝ正田之町より大比良川こさせられ岡崎城之腰むつ田川矢はせ川には是又造作にて橋を懸させかち人渡し被申御馬共い乘こさせられ矢はきの宿を打過て池鯉鮒に至て御泊 水野宗兵衞 御屋形を立而御馳走候〻也
四月十九日 淸洲迄御通
四月廿日 岐阜へ被移御座
四月廿一日 濃州岐阜より安土へ御歸陣之處に ろくの渡りにて御座船飾稻葉伊豫 一獻進上也 捶井に御屋形立置 こぼう殿一獻御進上候也 今洲に御茶屋立而 不破彥三一獻進上候也 柏原に御茶屋拵 菅屋九右衞門一獻進上也 佐和山に御茶屋立て 惟住五郞左衞門一獻進上 山崎に御茶屋立置 山崎源太左衞門一獻進上候也 今度京都︀堺五畿內隣國之各はる〳〵罷下御陣御見舞面々門前成市事候路次中色〻進物不知員備上覽誠御威光難︀有御代也
【巻十五(廿四)阿波國神︀戶三七御拜領之事】四月廿一日 安土御歸陣 去程四國阿波國 神︀戶三七信孝へ被參候に付て御人數被成御催
【 NDLJP:下47】五月十一日 住吉に至而御參陣四國へ渡海︀之舟共被仰付其御用意半候 【巻十五(廿五)
家康公穴山梅︀雪御上洛之事】信長公當春東國へ御動座被成 武田四郞勝賴 同太郞信勝 武田典厩 一類︀歷〳〵討果被達御本意駿河遠江兩國 家康公へ被進其爲御禮 德川家康公 幷穴山梅︀雪今度上國候一廉可有御馳走之由候て先皆道を被作所〳〵御泊〳〵に國持郡持大名衆罷出候て及程結搆仕候而御振舞仕候へと被仰出候〻也
五月十四日 江州之內ばんば迄 家康公 穴山梅︀雪御出也 惟住五郞左衞門ばんばに假殿を立置雜掌を搆一宿振舞申さるゝ同日に 三位中將信忠卿 御上洛被成ばんば御立寄暫時御休息之處 惟住五郞左衞門一獻進上候也 其日安土迄御通候キ
五月十五日 家康公ばんばを被成御立安土に至而御參者︀御宿大寳坊可然之由 上意に而御振舞之事 維任日向守に被仰付京都︀堺にて調珍物生便敷結搆にて十五日より十七日迄三日之御事也 【巻十五(廿六)
羽︀柴筑前守秀吉備中國城々被攻事】中國備中へ 羽︀柴筑前守相働すくも塜の城あら〳〵と取寄攻落數多討捕並ゑつたか城へ又取懸候處降參申罷退高松之城へ一所に楯籠也又高松へ取詰見下墨︀くも津川ゑつた川兩河を關切湛水々攻に被申付候藝州より 毛利 吉川 小早川 人數引卒し對陣也 信長公此等趣被及聞食今度間近く寄合候事與天所候間被成御動座中國之歷〻討果九州まて一篇に可被仰付之旨 上意に而 堀久太郞御使とし而 羽︀柴筑前かたへ條々被仰遣 維任日向守 長岡與一郞 池田勝三郞 䀋河吉大夫 高山右近 中川瀨兵衞 爲先陣可出勢之旨被仰出則御暇被下
五月十七日 維任日向守安土より坂本に至而歸城仕何れも〳〵同事に本國へ罷歸候て御陣用意候也
【巻十五(廿七)
幸若大夫梅︀若大夫事】五月十九日 安土御山於惣見寺 幸若八郞九郞大夫に舞をまはせ次之日は四座之內は不珍丹波猿樂 梅︀若大夫に能をさせ 家康公被召列候衆今度道中辛勞を忘申樣に見物させ申さるへき旨 上意に而御棧敷之內 近衞殿 信長公 家康公 穴山梅︀雪 長安 長雲 友閑 夕庵 御芝居者︀御小姓衆御馬廻御年寄衆 家康公之御家臣衆計也 初之舞者︀ 大職冠 二番 田歌 舞よく出來候て御機嫌不斜御能は翌日可被仰付と 御諚候つるか日高に舞過候に依て其日 梅︀若大夫御能仕候折節︀御能不出來に見苦敷候て 梅︀若大夫被成御折檻御立不成大形 幸若八郞九郞大夫居申候額屋へ御使 菅屋玖右衞門長谷川竹以兩使忝も 上意之趣能之跡に而舞を仕候事雖非本式御所望候間今一番仕候へと被仰出候此時 和田
【巻十五(廿八)
家康公穴山梅︀雪奈良境御見物之事】五月廿日 惟住五郞左衞門 堀久太郞 長谷川竹 菅屋玖右衞門 四人に 德川家康公御振舞之御仕立被仰付御座敷は高雲寺御殿 家康公 穴山梅︀雪 石河伯耆 酒井左衞門尉 此外家老之衆御食被下忝も 信長公御自身御膳を居させられ御崇敬不斜御食過候て 家康公御伴衆上下不殘安土御山へ被召寄御帷被下御馳走申計なし
五月廿一日 家康公御上洛此度京都︀大坂奈良堺御心靜に被成御見物尤之旨 上意に而爲御案內者︀ 長谷川竹 被相添 織田七兵衞信澄 惟住五郞左衞門兩人は大坂に而 家康公之御振舞申付候へと被仰付兩人大坂へ參着
【巻十五(廿九)
明智日向西國出陣之事】五月廿六日 維任日向守中國へ爲出陣坂本を打立丹波龜山之居城に至參着次日 廿七日に龜山より愛【 NDLJP:下48】宕山へ佛詣一宿致參籠 維任日向守心持御座候哉神︀前へ參 太郞坊之御前に而二度三度迄鬮を取たる由申候 廿八日西坊に而連歌興行
發句 維任日向守
ときは今あめか下知る五月哉 光秀
水上まさる庭のまつ山 西坊
花落る流れの末を關とめて 紹巴
か樣に百韵仕 神︀前に籠置
五月廿八日 丹波國龜山へ歸城
【巻十五(三十)
信長公御上洛之事】五月廿九日 信長公御上洛安土本城御留守衆 津田源十郞 賀藤兵庫頭 野々村又右衞門 遠山新九郞 世木彌左衞門 市橋源八 櫛田忠兵衞 二丸御番衆 蒲生右兵衞大輔 木村次郞左衞門 雲林院出羽︀守 鳴海︀助右衞門 祖︀父江五郞右衞門 佐久間與六郞 簑浦次郞右衞門 福︀田三川守 千福︀遠江守 松本爲足 丸毛兵庫頭 鵜飼︀ 前波彌五郞 山岡對馬守 是等を被仰付御小姓衆二三十人被召列御上洛直に中國へ可被成御發向之間御陣用意仕候て御一左右次第可罷立之旨御觸にて今度者︀御伴無之 去程に不慮之題目出來候而
【巻十五(三十一)
明智日向守逆心之事】六月朔日 夜に入丹波國龜山にて 維任日向守光秀 企逆心 明智左馬助 明智次右衞門 藤田傳五 齋藤內藏佐 是等とし而談合を相究 信長を討果し天下主と可成調儀を究龜山より中國へは三草越を仕候爰を引返し東向に馬之首を並老之山へ上り山崎より攝津國地を可出勢之旨諸︀卒に申觸談合之者︀共に先手を申付
【巻十五(三十二)
信長公本能寺にて御腹めされ候事】六月朔日 夜に入老之山へ上り右へ行道は山崎天神︀馬塲攝津國皆道也左へ下れは京へ出る道也爰を左へ下り桂川打越漸夜も明方に罷成候旣 信長公御座所 本能寺取卷勢衆五方より亂れ入也 信長も御小姓衆も當座之喧嘩を下〳〵之者︀共仕出し候と被思食候之處一向さはなくときの聲を上御殿へ鐵炮を打入候是は謀叛歟如何成者︀之企そと 御諚之處に森乱申樣に 明智か者︀と見え申候と言上候へは不及是非と 上意候透をあらせす御殿へ乘入面御堂之御番衆も御殿へ一手になられ候〻御廐より 矢代勝介 伴太郞左衞門 伴正林 村田吉五 切而出討死 此外御中間衆 藤九郞藤八 岩 新六 彥一 彌六 熊 小駒若 虎若 息小虎若 初として廿四人御厩に而討死
御殿之內に而討死之衆
森乱 森力 森坊 兄弟三人 小河愛平 高橋虎松 金森義入 菅屋角藏 魚住勝七 武田喜太郞 大塜又一郞 狩野又九郞 薄田與五郞 今川孫二郞 落合小八郞 伊藤彥作 久々利龜 種田龜 山田彌太郞 飯︀河宮松 祖︀父江孫 柏原鍋兄弟 針阿彌 平尾久助 大塜孫三 湯淺甚介 小倉松壽 御小姓衆懸り合〳〵討死候〻也 湯淺甚助 小倉松壽 此兩人は町之宿にて此由を承敵之中に
中將信忠卿二條にて歴〻御生害之事】三位中將信忠 此由きか【 NDLJP:下49】せられ 信長と御一手に御成候はんと被思食妙覺寺を出させられ候處 村井春長軒 父子三人走向 三位中將信忠へ申上候趣本能寺は早落去仕御殿も燒落候定而是へ取懸可申候間二條新御所者︀御搆よく候御楯籠可然と申依之直に二條へ御取入 三位中將信忠 御諚には軍之巷と可成候間 親王樣 若宮樣 禁中へ御成可然之由被仰心ならすも被成御
御討死之衆
津田又十郞 津田源三郞 津田勘七 津田九郞二郞 津田小藤次 菅屋九右衞門 菅屋勝次郞 猪︀子兵介 村井春長軒 村井淸次 村井作右衞門 服部小藤太 永井新太郞 野々村三十郞 篠川兵庫頭 下石彥右衞門 下方彌三郞 春日源八郞 團平八 櫻木傳七 寺田善右衞門
先年 安東伊賀守 不屆働有而被追拂候其時伊賀守內に 松野平介と申者︀候〻キ勇士にてこさかしき者︀之由被及聞食めし出され一廉御領中被下外聞播面目候今度松野平助程遠く在之而時刻過テ妙顯寺へ走來候處 齋藤內藏佐依爲連〻知音 內藏佐方より妙顯寺へ使者︀を差越早〻罷出 明智日向守に禮を申候へ何事もくるしかるましきと申越候處 平介 信長公へ被召出候右の子細各寺僧︀之衆へ條〻申きかせ忝も過分之御知行被下御用にも不罷立剩御敵へ降參申主と可崇事無念成之由申知音之かたへ送狀【 NDLJP:下50】を書置追腹仕候誠誠命者︀依義輕と申本文此節︀候也爰又 土方次郞兵衞と申者︀譜代之御家人也御生害之折節︀上京柳原に在之而移時刻此由承其座に至て御相伴不申無念也追腹可仕之由申知音之方へ文を書送召使候下人等に武具腰刀衣裝形見にとらせ尋常に追腹仕名譽無是非次第也
六月二日 辰刻 信長公御父子御一門歷〳〵討果し 明智日向申樣に
【巻十五(三十四)
江州安土城御留守衆有樣之事】六月二日巳刻 安土には風之吹樣に 明智日向守謀叛にて 信長公 中將信忠卿 御父子御一門其外歷〳〵御腹めされ候由御沙汰在之上下此由承言葉に出して大事と存知初之程は目と目を見合騷立事大方ならす左候〻處京より御下男衆逃下彌必定したり身之介錯に取紛泣悲しむ者︀もなし日比之蓄重寳之道具にも不相搆家〳〵を打捨て妻子計を引列〳〵美濃尾張之人〳〵は本國を心さし思〻にのかれたり其日二日之夜に入 山崎源太左衞門は自燒して安土を 山崎居城へ被罷退彌騒立事無正躰 蒲生右兵衞大輔此上は御上﨟衆御子樣達先日野谷まて引退候はんに談合を相究子息 蒲生忠三郞を日野より腰越まて爲御迎呼越牛馬人足等日野よりめしよせ
六月三日未刻 のかせられ候へと申され候御上﨟衆被仰樣とても安土打捨のかせられ候間御天主に在之金銀太刀刀を取火を懸罷退候へと被仰候處 蒲生右兵衞大輔希代無欲之存分有 信長公年來御心を被盡鏤金銀天下無双之御屋形作 蒲生爲覺悟燒拂空ク可成赤土事無冥加次第也其上金銀御名物可致乱取事都︀鄙之嘲哢如何候也安土御搆 木村次郞左衞門に渡置夫〳〵に御上﨟衆へ警固を申付退被申候端〻ノ御衆はかちはだしにて足は紅に染テ哀成風情目も當られす然而 【巻十五(三十五)
家康公和泉堺ヨリ引取被退事】德川家康公 穴山梅︀雪 長谷川竹 和泉之堺にて 信長公御父子御生害之由承取物も不取敢宇治田原越にて被退候處一揆共さし合 穴山梅︀雪生害也 德川公 長谷川竹 桑名より舟にめされ熱田湊へ船着也
【 NDLJP:下51】この信長公記は普通の信長記とははなはた異なるものなり川角太閤記といへる書に信長記と引いでたるはすなはちこれなりされはこの書は川角太閤記とあはせてともに永祿天正のむかしを考へたゝさんにふたつなきあかしふみにこそ
黑川眞賴
太田和泉守資房は牛一とも稱せり尾州春日井郡の人にて織田家の祐︀筆なりとぞこの記は當時目撃する所を筆記せしものなるべし斯書小瀬甫庵が潤飾して刻せしもの世に傳はる甫庵が太閤記に和泉守は見聞ふに偏執するの人なりと葢し史の事を記する見聞に偏するはむしろ虛飾に流るゝよりその失すくなかるへし原本十有六卷町田久成君の秘藏の本にて書体紙質ともに寬永より下らさるの古寫本なり六行十七八字ほどにあら〳〵と書せりいま縮本として活字に排印すその本色を失ひ易けれは配字の体は勉︀めて原本に傚へり看者︀その意あらんを
明治十四年の五月三日 東京々橋區西紺屋町なる我自刋我書屋の南窓下に
校者︀ 甫喜山景雄識
著︀述人 故太田和泉守
住所不詳
出版人 甫喜山景雄
京橋區西紺屋町九番地