佐久間軍記/大坂門跡和睦


大坂門跡和睦

天正八年庚辰七月。近衞殿。勸修寺殿依御扱。大坂本願寺門跡。信長ト和睦。大坂ヲ退。紀州雜賀ニ移。門跡ト信長挑戰コト。既元龜元年ヨリ今年マテ十一年。大坂ヲ堅固ニ守コト。毛利輝元與武田信玄公志ヲ通。荒木村重ヲシテ救ハント兼約ス。然𪜈[1]信玄病死。荒木滅亡シ降ト云々。

同八月。信長公大坂御進發。城中ヲ見給。其後以一書ヲ。佐久間信盛父子遣テ曰。及多年兵ヲ曝シ。衆ヲ勞シテ功ヲナスコトナシ。急天王寺ヲ可出汝ヲカヤウニ被仰付。御運モスヘニナルカトノ仰也。信盛信勝。不及陳謝熊野ニ籠居ス。世云。信長公十六歳ノ御時ヨリ。信盛先陣ヲ勤メ。近年ハ信勝大坂ヲ雖守。強敵ニ向給フ時ハ。信盛有先鋒。信長。臣下ノ功ヲソネミ給フヿ[2]アリ。屢上諫言。國持ニナランハマツ信盛ナルニ。此大坂ノ押ハ不足ニテ。心中イサマス。時イカナルサンケンモ有ケルヤ。數年ノ忠功ヲステヽ。口惜次第ナリト云々。保田久右衞門安政ハエツタカ城を退。紀州根來ニ引籠。

脚注

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  1. トモ」の部分は左側に「ノ」右側に「モ」を合成した合略仮名 → 
  2. コト」と読ませる合略仮名