伊集院町志/一章 沿革

第一章 沿革

第一節 日向、薩摩、阿多

 日向とは上古に於ける薩、隅、日三州の總稱であるが其の以前には、曾の國又は熊曾の國といふた。古事記の所謂筑紫島四ヶ國、筑紫國、豊國、肥國、熊曾國の夫である。熊曾國は又建日別ともいふのである。

 日向から薩摩、大隅兩國が分れた時代は明らかではないが、國造を日向に於かれたのは天皇第十五代應神天皇の御代にて薩摩、大隅に國造を置かれたのは第十六代仁徳天皇の御代である。又隼人を分ちて大角、薩摩の二國となし長を置きて之を領せしめられ其の下に囎唹隼人、大角隼人、肝衡隼人、多褹隼人、薩摩隼人、阿多隼人、甑隼人、今來隼人、日向隼人などを屬せしめられたのは仁徳天皇の御代であるから、大角、薩摩の國名は此の時代頃に始まつたやうである。

 續日本紀文武天皇大寶二年の條(仁徳天皇より二十六代の後)に『八月丙申朔薩摩、多褹、隔代逆命於是發兵征討遂校戸置吏焉』と又『同年九月戌寅討薩摩隼人軍士授勲各有差』とあるから、文武天皇以前から薩摩といふ地方があつたことが分る。又續日本紀に元明天皇の和銅六年(仁徳天皇より二十七代の後)日向國から肝坿、囎唹、大隅、姶良の四郡を割いて大隅國となしたことが記されてゐる。

 抑國縣を分ち邑里を定められたのは天皇第十三代成務天皇の御代にて第三十六代孝徳天皇には國、郡の制を定められたのであるが、第四十三代元明天皇の和銅以前に於ける國名中の西海道の部には、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、壱岐島、對島、多褹嶋の名はあるが、大隅國の名はないのである。而して和銅五年九月に出羽國同六年に丹波、美作、大隅國を置かれたことになつて居るから、元明天皇時代の建國が事實で仁徳天皇時代の大隅國造や大角隼人などといふのは正式の建國といふべきものではなかつたのであらう。

 第六十代醍醐天皇延喜式を撰まるゝや國、郡名を二字の嘉名とし國を大國、中國、小國の三に分ち帝都を中心として遠中近の三等に分たれた、薩摩、大隅、日向は中國に屬し遠國となつてゐる。この上り十二日は租庸調などの正税や雑税を輸送する爲行程遅きによるのである。

 中世に至り九州を三分し前三ヶ國、後三ヶ國、奥三ヶ國と呼んだことがある。前三ヶ國とは、筑前、肥前、豊前、のこと、後三ヶ國とは筑後、肥後、豊後のこと、奥三ヶ國とは薩摩、大隅、日向のことである。

 吾田、阿多、隼人、唱更國などの名は記紀に多く見えてゐるが、是は必ずしも國名ではなく一の地方名である。吾田は又婀娜郡、英田、阿加多にも作られアガタと同一であると解する學者もある。天孫瓊々杵尊の妃木花開耶媛は神吾田津媛といひ吾田の大山祇命の女又神武天皇の妃阿比良比賣は吾平津姫といひ、阿多の小椅君の妹である。日本書紀に依れば火闌降ホノスセリ命は吾田小椅等の祖であるから、吾平津媛などは火闌降命の後裔にて吾田地方に住したる一民族なりしものと思はる。 此の吾田は南部薩摩の稱にて其の地名は現在の阿多村に其の名残りを止めてゐるのである。建久二年源頼朝が阿多四郎宣澄から其の領地谷山郡、伊作郡、日置南郷、北郷の地を収めて島津忠久に其の地頭職を命じたととなどから稽へて阿多といふ地方は日置地方を含んで居つたことが窺はるゝやうである。

第二節 院の名義と郡名

 院といふ名稱は薩、隅、日三州内にて國、郡、郷、邑、村など地方制度と同様の區分に用ゐられてゐるやうであるが、夫が果たして適當であらうか。抑院の制は第五十代桓武天皇の御代に始められたもので、延暦十年の條に『二月癸卯諸國倉庫不可相接一倉失火合院燒蓋於是勅自今以後新造倉庫各相去十丈巳上随處寛狭量宜置之』と其の後諸國に依つて動かすことなく漸次に神院に遷すべしと。後更らに命を下して近接したる郷は其の中央に一院を置くべしと定められた。此等が院の沿革である。

 此の倉院は國税たる祖米を収納する倉庫のことで、周圍に垣を繞らすので倉院といふのである。この倉院の事務を掌る者が郡司で郡司の政務を行ふ役所を郡家とも郡院ともいふのである。この役所を郡院と呼ぶことから、誤解したものか郡と院とは共に郷を統轄する地方制度であるといふ學者もある。曰く川内新田宮の藏書に諸郡檢田使入幣に等差がつけてあるが、夫に依れば大郡は五十疋、中郡は三十疋、院は二十疋、郷は五疋とあるから、院は郡と同等である。又薩摩圖田帳に給黎院を管掌するは郡司兼保、知覧院を掌るは郡司忠益、牛屎院を掌るは院司元光と記されてゐるから郡司も院司も同等であると。然るに入來院文書中に内裏の大番仰付けられ参勤すべき薩摩の人々の名を記してあるものには院司なるものは一人もない。伊集院は伊集院郡司、滿家院も滿家郡司、市來院も市來郡司、山門院も莫禰院も知覧院も給黎院も皆郡司と記されてゐる。又前記の牛屎院の院司とあるものも文永二年の文書には牛屎郡司と記されてゐるから前に擧げられた院司といふのは誤記ではないだらうか。

入來文書

内裏大番事任被仰下旨可令参勤人々

川邉平二郎 別府五郎 鹿兒島郡司
頴娃平太 伊作平四郎 薩摩太郎
知覧郡司 益山太郎 高城郡司
在國司 牟木太郎 江田四郎
莫禰郡司 山門郡司 給黎郡司
指宿五郎 南郷萬揚房 小野太郎
市來郡司 滿家郡司 宮里八郎
萩三郎 伊集院郡司 和泉太郎

建久八年の圖田帳に

日置郡七十丁 本郡司 小藤太貞隆
日置庄三十丁 下司 小野太郎家綱

入來院文書の薩摩國領主目録に

日置北郷 郡司 小藤太貞澄
日置庄 下司 小野太郎家綱

 以上の如く院司といふ記事はないのであるが、建久八年十二月調伊集院太田本主、在廰道友、末永院司八郎清景と書いてあることもあるから、誤記といのみいふことは出來ぬ。併し伊佐郡の内に牛屎院と祁答院の二つが統轄されてゐることから考へても郡と院とが同等の地方制度であつたことは考へられない。抑我國にて國縣を分ちて邑里を定め各長官を置かれたのは成務天皇の御代にて孝徳天皇は大化二年に國郡の制に改め、國司郡司を置き軍は三等に分ち四十里を大郡三十里以下四里以上を中郡、三里以下を小郡と郡毎に郡司を置かれたのであるが、大寶令にては之を改め郡を五等に分ち、二十里以下十六里以上を大郡、十二里以上を上郡、八里以上を中郡、四里以上を下郡、二里以上を小郡とせられた。此の里といふのは後世の郷と同一のもので、五十戸ある部落を里と稱するのである。武家の世となつて郡と郷とを混同し、或は庄(日置庄、伊作庄の如き庄)の下に郡を置くなど此の制度が亂れて來た。豊臣秀吉は天正十九年諸國に令して郡、里を北圖を提出せしめ、庄郷の名を廢し郡を以て村を統ふべきことを命じた。其の後江戸時代にも廔國郡の圖を進達せしめたことがあるが、院なる行政區劃があつたことは國史上見えぬことである。延喜式に薩摩國十三郡三十八郷と記されてゐるが院のことは附記されてゐない。要するに三州に院といふ地方が多いのは倉院から轉じて其の倉院地方の字名となつたものであるまいか。郡司の役所を郡家、郡院といふたことは明らかであるから此の郡院から轉じたものであらう。例令宮崎縣の都城が築かれて其の附近一帯は都城と呼び、大隅の國分は國府の所在地であつたから國府が國分となつたのと同じであらう。

 尚薩、隅、日三州は都を遠く隔たりて荘園も多く徴租も頗る寛大で自由な地方であつたから、郡里の制度も亂れたものであらうとも考へられるゝが、前記孝徳天皇の大化二年から五十六年後の文武天皇の二年には朝廷から使を南島に遣はして國を覓めしめ三年には多褹島(種子島)、掖玖(屋久)、奄美(大島)、度感(徳之島)が入貢し王政も稍々普及してゐるのであるから三州のみに院といふ行政區劃があつたとも思はれない。前述の如く或學者は郡司ともいひ院司ともいふと論ずるも藩史上に現れてゐないのみならず、院司なる職は地方役員の名稱でなく、畏くも院中に置かるゝ職員のことで、別當、執事、年預、判官代、主典代、藏人、北面、西面等々を總稱するものである。建久八年の薩摩圖田帳に記載する薩、隅、日三州の院を掲ぐれば

薩摩國
山門ヤマト莫禰アクネ入來イリキ祁答ケドウ牛屎ウシクソ市來イチキ伊集イズ知覧チラン給黎キレイ
大隅國
蒲生。吉田。横川。栗野。小河。深河。財部。鹿屋。串良。禰寝ネシメ
日向國
三俣。島津。眞幸マサキ穆佐ムカサ救仁クニ飫肥オビ櫛間クシマ。新納。

 次に薩摩國に於ける郡名が如何に變化したかを知るために東京帝國大學史料編纂所調査の國郡沿革一覧表を摘記して見よう。

六國史 古事記以下古書 延喜式 倭名抄 拾芥抄 東鑑以下諸書古文書 郡名考 天保郷帳 地誌提要 郡區編制 新郡區編制
麑島   鹿兒島カゴシマ 加古志万
鹿兒島
カゴシマ 鹿兒島
    谿山タニヤマ 多仁也未
谿山
渓山
谿山タニヤマ 谷山タニヤマ 谿山
    給黎キヒレ 岐比禮
給黎キレイ キヒレ 川邉
    河邉カハノヘ 加波乃倍
カハノヘ 川邉カワノヘ
    揖宿イフスキ 以夫須岐
揖宿
指宿
揖宿イフスキ イフスキ 揖宿
給黎郡ノ一部モ編入ス
  頴娃エノ 江乃
頴娃エノ エイ
吾田
阿多
阿多   阿多 アタ アタ 日置
    伊作イサク 伊佐久
[1]
    日置ヒオキ 比於木
ヘキ ヒオキ
    薩摩 伊佐 イサ イサ 伊佐
薩摩 サツマ サツマ 薩摩
    高城タカキ 太加木
タキ タキ
    甑島コシキシマ 古之木之万
コシキシマ コシキシマ
    出水イツミ 伊豆美
イツミ イツミ
    管十二 管十三 十三郡   七郡

 伊集院の設けられた時代は明らかではないが、建久八年の圖田帳に載つてゐるから其の以前から置かれたものであらう伊集院は紀貫之の孫紀能成が上古から知行してゐたとのことである。紀貫之は天皇第十六代醍醐天皇に奉仕した人であるから其の知行時代も概推知せらるるであう。

第三節 伊集院郷、村、町の變遷

 日置郡は昔伊集院、滿家院、市來院、日置庄に分れてゐたが、明治維新前には郡山郷、伊集院郷、永吉郷、吉利郷、日置郷、市來郷、串木野郷に分れてゐた。單に伊集院といふ部落は昔宿町又は野町と稱して谷口村に屬し、道路に沿ふて一町五十間に亘る宿場であつたが、伊集院郷といふ郷は明治維新前後に於て周廻十九里二十三町四十五間、村數二十九、下谷口村、上谷口村、春山村、福山村、清藤村、石谷村、猪鹿倉村、土橋村、上神殿村、下神殿村、桑畑村、野田村、寺脇村、宮田村、神之川村、大田村、飯牟禮村、古城村、戀之原村、直木村、入佐村、苗代川村、徳重村、竹之山村、中川村、嶽村、麥生田村、有屋田村、郡村であつた。

建久八年の薩摩國圖田注文に伊集院に就て次の通り記載せられてゐる。

伊集院 百八十町内

上神殿 十八町 万得
下神殿 十六町
桑羽田 五町
野田 六町(島津御庄)
大田 六町(右同) 同 本名主在廰道友
寺脇 八町(島津御在寄郡) 同 右同
時吉 二十五町 同右同
末永 二十五町 同 院司八郎清宗
續飯田 八町 同 名主権太郎兼直
土橋 十三町 同 名主紀四郎時綱
河俣 十町 設官御領右衛門兵衛尉
十万 六町 万得名主紀平二元信
飯牟禮 三町
松本 十八町  

 薩、隅、日地理纂考に依れば明治初年の伊集院二十九村の石高は一万八千四百二石三斗六升四合五勺、士族三千百五十九人、卒千七十八人、平民一万三千九百一人であるが、薩、隅、日、琉球諸郷便覧に依れば周廻は地理纂考と同一であるが、石高は一万五千六百五十五石六斗一升九合七勺、士族二百三十九家、人數七百八人、狩夫千四百七十二人にて士の高二千二百二十四石九斗八升八勺三才である。

 伊集院の統治者は上古伊集院太夫紀能成であつたことは前述のとおりであるが、能成の子、昌成から子孫相繼ぎ成恒、時清、清實、清持、清光、清忠まで伊集院郡司であつたが、清忠までにて其の血統が絶えた。是を古伊集院家といふのである。建久二年源頼朝が阿多多四郎宣澄から谷山郡、伊作郡、日置南郷北郷を収めて島津の始祖忠久に其の地頭職を領知せしめた時の伊集院郡司は時清である。以て古伊集院家の古きを推知せらるゝのである。古伊集院家の絶えた後に島津第二代忠清の七子常陸介忠經の末子侍從房俊忠古城村に居り其の子圖書助久久兼伊集院に移り伊集院を以て氏とした。此れが即ち新伊集院氏の祖である。

 此の新たな伊集院家は久兼、久親、忠親、忠國、久氏、頼久、相繼いて伊集院を領してゐたが、頼久時代に勢威漸く加はり四方を侵略し遂に宗家島津氏に叛し煕久亦藩主忠國に叛したので、寶德二年二月忠國のため居城を攻略せられ肥後國に奔つた。

 文明八年三月島津秀久叛して鹿兒島を侵したので、第十一代の藩主島津忠昌は難を避けて伊集院に來り、一時藩廰所在地となつた。次いで大永六年第十四代の藩主島津勝久は伊集院を島津忠良(日新斎)に領知せしめたが、同七年五月忠良が加治木征討のため出軍したる留守に乗じ島津實久は伊集院を攻略し町田中務久用をして之を守らしめた。天文五年三月第十五代の藩主島津貴久は其の實父島津忠良と共に伊集院城を攻撃して之を奪還し同十四年島津貴久が田布施より伊集院城に入り同十九年十二月鹿兒島に遷るまで此の地に藩廰を置き三州統一を策した。爾來伊集院は藩主の直轄となり地頭をして統治せしめ、明治維新に及んだ。封建時代藩主の御假屋は下谷口に在つたが、寶永六年下伊集院村苗代川に移し下谷口には地頭館が置かれた。地頭館は薩藩獨特の外城制度の爲政者地頭の役所である。

 薩藩獨特の行政制度であつた外城トジヤウ制度を都城トジヤウ又は外城ソトシロと混同し、或は地方に於ける聚落と誤解する學者もあるが、是は城郭と誤認し又は麓の武士部落のみを知る半解の説である。

 外城は城郭ではあるが外城制度は城郭のみではなく外城を中心とする一地域の爲政區域である。前記都城トジヤウ外城ソトシロとの混同誤解につき簡單なる説明をなし藩獨特の行政機構を明らかならしめよう。

一、外城(トジヤウ)と都城(トジャウ)

故、大槻文學博士大言海に説明して曰
ごじやう  都 城
(一)都市の郭のある處
(二)薩摩にて在郷の士族の聚落

 右の一は可なるも(二)は都城と外城と混同し且つ其の説明が適切でない。抑都城なるものは考古學者が邑城とも稱するもので大陸地方殊に支那に於て發達した城郭で年の住民全部を抱擁守護する爲、住宅地の周圍に圍壁を繞らしたものである。斯く住民地全部を城壁で圍むのは民族保護の爲である。即ち大陸地方では異民族が互に境を接し其の戦争は同一民族内に於ける政権争奪よりも民族の生存競争が激しく異民族を殺戮して自己民族の繁殖を計らんとする種族争闘が多かつた。夫故に住民地の周圍に城壁を設けて住民を保護し、戦争に當りては附近の農民をも収容し得るやうに城内に若干の空地を設けたものである。

 我が國に於て此の種の都市を經營せられたのは第三十七代斎明天皇の御代で帝都難波京の周圍に濠を繞らされて支那式都市の形に模せられたのであるが、是は城郭ではなく唯支那の都市の形を採つて外観を飾られたのに止るのである。第三十八代天智天皇の御代に始めて實用的戦用に供する都城を筑紫に築造せられた是が日本に於ける都城の始にて亦終りである。其の後持統天皇が大和の南部飛鳥の地に藤原京を經營せられ元明天皇は平城京に經營せられ、支那の帝都に倣らひ方形にして四方に門を設けたる都を建設し、以て帝都たるの威観を備へしめられたが、皆形上都城であつたのである。

 前述天智天皇の四年(紀元一三二五年)に筑紫に大野城と椽城を築かれたのは異民族に對する防備の必要から起つた戦争用城郭である。斯くの如く異民族に對する城郭の必要となつたのは朝鮮の新羅が勃興して任那の日本府も滅び日本の大陸政策も法規せざるべからざるに至りたるのみならず、新興の唐は盛は勢で朝鮮を侵略し遂には新羅と共に日本を窺はんとする情況であつたからである。此の後孝謙天皇の天平勝寶八年筑前国怡土村に怡土城を築かれたが、爾來比の種の城郭は築かれなかつたのである。即ち外城は都城とは全然其の性質を異とするのである。

 太宰管志に薩摩國千代(川内のこと)を説明した中に「千代に五ヶ都城あり」とあり、又和漢三才圖繒伊集院の部に「郷村帳に薩摩郡伊集院とあり今も都城のある處なり」と記されてゐる。又大日本地名辭典には薩摩の外城を説明して都城と外城と文字を異なるのみとあり。此等は皆都城なる城郭と誤解したものである。

二、外城(ソトシロ)と外城(トジヤウ)

 此の二者は武人間に誤解せらるゝものであるが、日本城郭の種類や郭の名稱などが各様に使用せられたる爲に誤られたものであらう。外城トシロとは一國々主の居城に對して國内の各地に分布せられた分派堡式の小城郭を意味することもあり、又一城の中で城将の居る曲輪(本丸牙城内城などといふ)に對して他の曲輪を外城ソトシロと稱することもあるのである。

 薩摩藩の外城トジヤウは此の外城ソトシロから制度化したもので藩主島津氏の居城、鹿兒島の内城を中心として國内要害の地に分派せられた外城を配置してあつたが、豊臣徳川氏の一國一城制度に依り其の城郭は破毀せられたけれども外城を守つてゐた将兵は之を鹿児島に引き揚げることなく外城の麓に定住せしめて警備に任ぜしめた。此の警備がやがて軍政の形となり遂には外城を中心とする一地區間の政治機構となつたのである。

 此の外城制度を軍事上より見る時は兵力の分散配置で之を稱して陣を國中に布くといふのである。又行政上から見れば一の自治團体で藩廰の施政方針に據りて自治を行ひ、風教を維持し産業を振興せしめるのである。思ふに島津氏は源頼朝の始めた守護地頭の制度を踏襲し二者の任務を地頭といふ一役人に兼任せしめたものであらう。元より國郡の制度は孝徳天皇以來巖として存在するのであるが、薩摩藩の外城は此の郡邑村などに關係なく軍事上と行政上の要求に應ずるやうに地方を區劃したものである。此の外城制度も地頭といふ職名も我が薩摩藩獨特のもので之に依て外敵を防ぎ國内を統御し武力を蓄へて王政復古の大業を翼賛し奉つたのである。

 徳川幕府が一國一城を巌命してより各藩にては國内の城を毀ち國境や要地の武士は皆之を藩主の城下に集めたのであるが、薩摩藩にては武士を外城の下に定住せしめたから寛永十年十月幕府の巡檢使が薩摩に來た時に家老川上久國等を詰問して次のやうな問答があつた。

問 大阪の役以來幕府は制令を出して一國一城となし、餘は悉く毀たしめたのであるが、薩、隅、日三州内には往々にして城郭があるのは何故であるか。
答 三州内の田畑は城郭と一つになつてゐるから城郭を毀てば土石で田畑を塡め耕作が出來ないから其の儘放棄してある。
問 其の城下に武士の家が多く集まつてゐるのは何故か。
答 昔島津義久は九州を領してゐたが關白秀吉は六州を削りて三州となした其の六州の武士を三州内に移し田畑を給したのである。

斯く巧みに遁辭を構へて國内に兵力を分散し陣を國内に布いたのである。  外城の區劃は前期の通州、郡、郷、邑、村の境界に關係なく郷邑の大小と地形の如何を顧慮し軍事上、行政上の要求に合するやうに區劃した。而して此一域區内に城郭があつて其の麓に武士を集團定住せしめ此處を府本又は麓を稱した。麓内には精神結合の中心として神社を祀り寺院墓地を設けて士分以下の霊位を納め事變に當りては祖先墳墓の地に骨を埋むるの覺悟をなさしめ、又武器糧秣の倉庫もあつた其の一、二を擧ぐれば。

1、外城衆中は軍役米を外城の藏に貯藏して模合米となし毎年秋季に於て之を新米と入れ替へ差引勘定をなして残つた米は之を賣り軍用金として保管す。
2、外城は火薬弾薬庫を充實し中央部より援助なくても事變に應ずるの準備をなす。

 外城制度の確立したるは義弘、家久時中のやうであるが明らかではない。外城の數も時々變更されてゐる今藩史に現はれたる主なる時代の外城數を擧ぐれば、

第十八代  家久時代  八十六外城
第十九代  光久時代  百二十四外城
第二十一代 吉貴時代  百二十七外城
第二十五代 重豪時代  百十八外城
第二十九代 忠義時代  百〇五外城  

 光久時代八十六外城重豪時代九十二外城との記録もある。

 外城役人は地頭の下に三役といふアツカヒ。組頭。横目(年寄)がゐた。元文四年三月藩廰仰渡しに。

 外城諸役の儀噯組頭外は七八年相勤、右年數相勤候譯申出役儀斷可申出旨被仰度候

 又島津重豪の時代に外城を改めて郷となし、外城衆中を郷士と改稱した時に噯は郷士年寄と改稱し、慶應元年五月郷士を衆中の名に復し郷士年寄を噯の名に復せしめた。歴朝制度に。

 以前より外城と唱來候へども郷と可相唱候近外城近名杯と唱來候へども近郷、近村又は近在と相唱尤書付等にも可相認候

 右之通被仰付候段申來候此旨不洩様可致通達候

  天明四辰四月

 慶應元年五月藩令にて次の通布達があつた。

諸郷々士之事
何方衆中
郷士年寄之事
右者往古より郷士之事を外城衆中、郷士年寄は噯又は噯役等と役名唱來候處安永天明之度に追々當分之通被召替置候得共此節被復舊名右之通役名等被相改候
五  月            帯 刀

 地頭の任務は軍事の外に教育、殖産、行政、司法、警察等の事務を總轄し、噯は地頭の命を受けて外城一切の事務を管掌し組頭は外城衆中の一部の長となりて導き横目は政令の勤行風紀の取締、監察事務に任ずるのである。

 外城の中にも藩直轄の地と一所地(一所地といふのは一所持と稱する一地方の領主の所有地である)との區別がある。藩直轄の地には地頭を置くけれども一所地は其の領主が地頭と同じで外城制の事を施行するのである。

 伊集院は即ち藩直割の外城で地頭が任ぜられて地頭館が在つた。

 地頭には藩主の信任する人物を以て任じ介臣の相談役を附けて外城を自治せしめたのであつたが、元和偃武の後は地頭を其の地に定住せしむるの要なき爲め居地頭と掛持地頭の二に分ち、國境の要地や長島、甑島などに居地頭を置き其の他は掛持地頭として鹿兒島に居住し外城の事務は重大なるものゝ外、噯以下に委任するやうになつた。掛持地頭は大番頭、御小姓與頭、御用人などが兼務し主要なる外城は家老の兼務であつた。歴代制度に

扨古代は一所一城有之地頭領主其の地に被召置守城被仰付御治世に相成候てもても一所衆は勿論地頭とても其の地に罷在一所支配候處寛永年間居地頭御引取相成御城下へ相詰掛持相成候一所衆も同様の振合にて候

 江戸時代の末期内外多事となつたので一所衆は勿論、地頭が鹿兒島城下にあつては事變に應ずることが出來兼ねる爲、舊制に復し居地頭として各其の任地に就かしめた。

 外城の役員は地方の警備外城士の教育百姓の風紀産業徴租などを掌り輕き司法権をも持つてゐた。此の役所を地頭館といつた。地頭は戦時其の管する外城衆中を率ゐて一方の隊長となり、外城衆中は城下士と同一の武装をなし鐡砲の士が第一組で太刀、鎗の士が第二組となり各士は皆替道具(豫備の武器)を家來に持たせて身邉に随へ御家流の伍人組に編成し、噯、與頭、横目は地頭の下に於て小隊長となり一隊毎に昇一本を携え旗には上部に十文字紋章を附し其の下部に出水、國分、伊集院などの外城名を染め出して標識とした。

 外城士は外城衆中といひ(一時郷士と稱したことは前記の通)其の格式は城下士の大番と同じかつた。外城衆中の中には昔一城の主であつた者の子孫や島津家支流の子孫にて鹿兒島外城に居れば小番格にも列せらるべき家柄の者が代々外城に居住してゐたゝめ遂に外城衆中となつた者もある。天正年間、外城士を鹿兒島に移し大番士となしたこともあつた。又昔は一所持であつた者で事情の爲、其の領地を失つた者の家中(一所持の從臣は家中といふのである)にて家系器量勝れた者は先づ外城衆中となし次に功を以て大番に列せしめた。尚一般の外城衆中も器量如何に依ては城下士に召出さるゝ例であつた。

 外城衆中は各郷の麓に定住し、平時は農事に從ひ安寧秩序の維持に任じ戦時には地頭の部下として出陣すること前記の通であるが、武功勝れた者は小番、大番と同じく藩主の旗本備に編入された(旗本備は城下士の専任であつた)外城衆中には階級はなく一律平等であつた。噯、與頭、横目も單に職名で士の格式ではなかつた。城下士には一門、一所持、一所持格、寄合、寄合並、小番、新番、御小姓興の格式區分があつた。

 外城衆中の平時の警備は沿海、大河などの附近にある津口番所にて旅客、船舶を檢査して税金を徴し關所にて往来を檢査し宗門改めなどに任じた。外城の自治事業の中に河川溝渠の浚渫、修繕、道路、橋梁などの修繕などは自營とし非常天災の爲自營に堪へざるものだけ藩費支辨としてあつた。衆中は外城中に耕地の不足する時は新たに山野を開墾し或は竹木類の伐採を許可せらるゝので、城下士のやうに分家制度に依る禄高の減少する憂が少なかつた。次に外城衆中の人員を示して軍事上如何に重要な要素であつたかを窺はん。
外城衆中人員表
年次/外城 寛永十六年
紀元二二九九年
戸主人員
貞享元年
紀元二三四四年
戸主及二三男其
寶暦六年
紀元二四一六年
戸主人員
天明三年
紀元二四四三年
戸主人員
鹿児島城下士 一、一五〇 五、三八八 三、四八六 三、二一二
薩摩國外城士 五、一五九 一六、六九九 八、七三九 一七、〇六八
大隅國外城士 三、二三八 一三、〇五三 七、四〇七
日向國/薩摩郡外城士 二、九九六 九、五九二 四、一〇七
合計 一二、五四三 四四、七三二 二、三七三九 二〇、二九〇
備考 明治三年八月調外城戸數は三萬八千戸と記した文書があるが、是は寶暦六年、天明三年の戸數との差が大である。

 以上外城制度を詳述したのは軍事、行政上我が薩摩藩獨特のもの即ち軍政組織であつたことを知るが爲である。殊に伊集院は藩の直轄地で城下に接し外城中の尤なるものであつたからである。要するに我が薩摩藩が武家制度の始より其の終了まで七百年間一貫せる軍政を布き兵を要地に分散配置し、兵農兼務の制度を採つて來たことは士風民俗を維持作與する上にも行政上にも偉大な効果があつたことを記すべきである。

 外城制度を以て善政を布き軍備を整備し來つた薩摩藩は他の企及し能はざる強大なる威力を以て二百六十有餘の大小名を指揮して明治維新の大業を翼賛し王政に復せしむるや明治二年二月二十日藩の政治機構を改正し、從來の家老若年寄大目附などの職を廢し新たに知政所を置き執政、参政、傳事などを置きて政務に執らしめたが諸郷の地頭は依然存置して政務を繼續せしめた。

 明治二年四月鹿兒島城下を始め、諸郷に常備隊を編成せしむることゝとなり、伊集院郷に於ても亦之を編成したのであるが常備隊の編成が略成らんとするや從來諸郷の三役であつた噯、組頭、横目の三役を常備隊の小隊長、半隊長、分隊長に任じ地頭の管下に在つて諸郷の政治を行ふと共に定目に於ける軍隊の調練に任ぜしめた。即ち軍政を名實共に實施するものである。

 この年諸郷の併合分置を行ひ、常備隊の編成と民政とを調節したが地頭制は變らなかつた。次いで同年六月版籍奉還のことあり、薩摩藩主島津忠義は鹿児島知藩事を拝命して依然藩治に任じてゐたが、同四年七月廢藩置縣の令に依り知事の職を罷め鹿兒島縣参事が政治を行ふことゝなつた。以來縣内を數十の區に分ち統轄したのであるが、明治十一年に於ける薩、隅、日三國大小區郷村調に依れば伊集院郷は第二十二大區にて其の村名は次の通である。(二十九ヶ村)

上神殿村、下神殿村、徳重村、土橋村、入佐村、郡村、麥生田村、苗代川村、大田村、福山村、中川村、嶽村、石谷村、有屋田村、直木村、寺脇村、戀之原村、宮田村、上谷口村、野田村、飯牟禮村、桑畑村、神之川村、清藤村、竹之山村、春山村、古城村、猪鹿倉村。
右の外浦附として神の川浦がある。

 明治十七年八月鹿兒島縣に於て調査した伊集院郷内の村名も亦右と同一である。

 明治十二年區を廢して郡となし日置郡、阿多、甑島の三郡を統括する郡役所を西市來の湊町に創設し、同十四年七月此の郡役所を廢して甑島郡を高城郡に、阿多郡を川邉郡に、日置郡を鹿兒島郡の管轄内に入れた。同二十年六月には更に串木野、市來、伊集院、郡山、日置、吉利、伊作、田布施、阿多の十郷、七五村を管轄する日置、阿多郡役所を今の伊集院町に置き次いで同三十年四月郡制施行に當り、日置、阿多二郡を合して日置郡として郡役所は依然今の伊集院町に置いたが大正十五年六月三十日(此の年昭和と改元)郡役所を廢止せられた。(郡制廢止の令は大正十二年四月一日に發せられた)

 明治十一年伊集院郷中の十餘ヶ村に戸長役場を置き、同十七年官選戸長となり、戸長役場を四ヶ所に改め、同二十一年四月市制町村制を發布せられたので同二十二年四月伊集院郷を上、中、下の三村に分ち、下谷口、猪鹿倉、清藤、土橋、中川、竹ノ山、郡、徳重、大田、飯牟禮、古城、戀ノ原十二ヶ村を以て中伊集院村を設置した。是が現在の伊集院町の基である。次いで大正十一年四月一日町制を實施し伊集院町と稱することゝなつた。此の時に於ける町の面積は二方里二八六三である。

 明治十七年八月鹿兒島縣調査に依れば日置郡内のマチとしては伊集院マチマチ串木野町の三ヶ町にて驛としては伊集院驛、市來驛、串木野驛、郡山驛、吉利驛の五驛で宿場として賑はつたものである。この縣調査時に於ける伊集院郷内各村の戸口を記せば次の通である。

一、伊集院町(下谷口村の内)
戸數   百十五戸
人口   五百九十五人 男 三百人 女 二百九十五人
二、下谷口村
戸數   四百七十三戸 内 士族 百二十二戸  平民 三百五十一戸
人口 男 千百二十人  内 士族 二百七十八人 平民 八百四十二人
   女 千百三人   内 士族 三百二十人  平民 七百八十三人
三、清藤村
戸數   百十六戸   内 士族 二十八戸   平民 八十八戸
人口   不明
四、猪鹿倉村
戸數   五十八戸   内 士族 三十二戸   平民 二十六戸
人口 男 百三十六人  内 士族 七十五人   平民 六十一人
   女 百四十二人  内 士族 八十六人   平民 五十六人
五、土橋村
戸數   百七十七戸  内 士族 十六戸    平民 百六十一戸
人口 男 三百九十一人 内 士族 二十六人   平民 三百六十五人
   女 三百六十九人 内 士族 二十三人   平民 三百四十六人
六、竹ノ山村
戸數   八十六戸   内 士族 一戸     平民 八十五戸
人口 男 百九十三人  内 士族 一人     平民 百九十二人
   女 百六十二人  内 士族 一人     平民 百六十一人
七、中川村
戸數   六十一戸   内 平民 六十一戸
人口 男 百三十人
   女 百五十人
八、郡村
戸數   百十五名   内 士族 二十戸    平民 九十五戸
人口 男 三百三十四人 内 士族 五十三人   平民 二百八十一人
   女 三百二十七人 内 士族 六十五人   平民 二百六十二人
九、徳重村
戸數   百三十二戸  内 士族 四十三戸   平民 八十九戸
人口 男 三百二十四人 内 士族 百六人    平民 八十九人
   女 三百三十七人 内 士族 百六人    平民 二百三十一人
十、大田村
戸數   百八十二戸  内 士族 三十一戸   平民 百五十一戸
人口 男 四百三十二人 内 士族 八十四人   平民 三百四十八人
   女 四百十人   内 士族 七十九人   平民 三百三十一人
十一、戀ノ原村
戸數   七十七戸   内 士族 五戸     平民 七十二戸
人口 男 百九十三戸  内 士族 十六人    平民 百七十七人
   女 百八十六人  内 士族 十八人    平民 百六十八人
十二、飯牟禮村
戸數   百六十戸   内 士族 十八戸    平民 百四十二戸
人口 男 三百九十四人 内 士族 四十一人   平民 三百五十三人
   女 三百七十四人 内 士族 五十人    平民 三百二十四人
十三、古城村
戸數   六十戸    内 士族 二戸     平民 五十八戸
人口 男 百三十四人  内 士族 六人     平民 百二十八人
   女 百三十一人  内 士族 七人     平民 百二十四人

 以上の中主要な村の村史を略述すれば次の通である。

一、下谷口村

昔は上、下谷口村を併せて谷口村と稱してゐたが後に二村に別れた(年月不明)天文頃には肥後盛家なる豪族が本村を領してゐたが後に花棚に移つた。

二、大田村

建久年間伊集院の郡司伊集院時清の領知であつたが其の後日日置北郷の下司小野家綱の次男家長の領となり、小野姓を改めて大田を氏とした家長の子忠家其の子家氏の代に至り、肥前國松浦荘、早湊荘、福萬石の地頭となり、松浦に移つたので伊集院氏が歴代之を領することゝなつた。寶德二年伊集院煕久が島津氏に叛して居城壹宇治城を攻略せられ肥後に奔りたる以來は藩主の直轄となつたことは前述の通りである。

三、清藤村

藩政時代には藩の御藏所在地で近在の納米は此の藏に納めたのである。

四、戀ノ原村

源爲朝が居住した地であるとの傳説があり、爲朝原といふ地名が村の東北に残つてゐる。

五、飯牟禮村

島津忠久時代から島津宗家の領地であつたが享保十一年第二十二代の藩主島津繼豊は之を島津但馬に領知せしめ、明治二年藩籍奉還時に及んだ。

六、古城村

伊集院氏の始祖久兼の父島津俊忠が伊集院に封ぜられた時に此の村に築城して治所としたのであるが、久兼の代に壹宇治城に移つたのである。

第四節 交通通信

 延喜式に依れば薩摩國の驛馬、傳馬は次の通である。

驛 馬 市來、莫禰アクネ、納津、田後タシリ、楪野、高來各五匹
傳 馬 市來、莫禰、納津、田後      各五匹

 此の楪野を「イチヒノ」と訓むとの説をなす學者あるも如何にや。尚大隅國の驛馬は蒲生、大水の二ヶ所にて各五匹となつてゐる。

 後紀の記す所によれば桓武天皇の延暦二十三年(延喜式の出來た時から九十七年以前)太宰府が上申して大隅國、桑原郡、蒲生驛と薩摩國、薩摩郡田尻驛との間は相距ること遠く遞送に困難であるから、薩摩郡楪野に新たに驛を置かんと朝廷に請ひ之を許したとある。夫で此の驛傳は桓武天皇以前から定められてあつたことが分るのである。納津の地に就て和名鈔諸國郡郷考に薩摩国日置郡納薩の地名は延喜式に謂ふ納津のことなるべし。今の網里なるべしと註してあるが或學者は納津の納の字は細の字の誤りにて細津即ち「コメノツ」米津のことであると言つて居る。

 古事類苑地部に筑前國山家より薩摩國鹿兒島に至る街道を記したる中に薩摩國、日置郡串木野村芹ヶ野、串木野間七町三間、串木野と濱村間三里三十町四十五間、濱町と谷口村野町(又呼伊集院)間二里四町四十二間、野町と鹿兒島犬迫間二里二十九町十一間、犬迫と鹿兒島築町間、△里五町二十一間とある。之に依れば九州の幹線道路は鹿兒島犬迫、伊集院、市來湊、串木野を經たことが分るのである。封建時代に藩主島津氏の参勤交代する道路は鹿兒島から西田町水上坂、横井、伊集院を通過したのである。明治十年調査の日本地誌提要の驛路は鹿兒島四里十六町三十四間、伊集院三里十七町三十六間、市來湊四里二町十四間、向田東手三里三十五町五十七間、西方(高城郡)三里十三町三十七間、阿久根五里二十三町五十三間、米津三里十七町四十三間、肥後國水俣。合計六驛二十八里十九町三十三間となつてゐる。

 又明治十七年鹿兒島縣調査の交通路線に就て次のやうに記してある。九州街道一に出水街道と稱し國道三等に屬す鹿兒島郡犬迫村の界から石谷村と竹の山村の界を過ぎ、土橋村、清藤村、猪鹿倉村、下谷口村を經て伊集院驛に至り伊集院驛より西徳重村、大田村、寺脇村、苗代川を經て永里村、伊作田村、湯田村、大里村、湊村を經て市來驛に至る云々と。

 藩政時代鹿兒島城下から上國に通ずる街道に東目と西目との兩街道があつた。東目街道は加治木横川、大口、山野を經て肥後國水俣に出づるものである。天保以前は藩の財政裕かならず街道の修繕などを顧みる餘裕もなつかたので、漸次荒廢しつゝあつたが、天保年間に至り調所廣郷が家老となつて後、毎年農閑の時に郡奉行や地方檢者をして地方農民を監督して道路を修築せしめ、民力にて及ばざる大工事のみを藩費にて修めしたから弘化年間に至つて大に道路の面目を改めた此の時分改修した主要道路は南は鹿兒島、指宿を經て頴娃に至るもの、西は鹿兒島より出水に至るもの、即ち前記の西目街道、東は磯街道より日向方面に至るもの、及び人吉に通ずる道路で其の延長實に二百餘里に達したのである。

 現在の出水街道である鹿児島市西千石町西端西田橋口から甲突川左岸に沿ひ、伊敷、河頭、小山田、中川、麥生田、下神殿、下伊集院を經て苗代川の北方に於て舊西目街道と合する新國道は明治二十年六月縣下の國縣道改修の工を興し、五ヶ年の後、竣功したもので國道第三十七號二十六里二十五町餘は鹿兒島、市來、川内、阿久根、米津を經て熊本縣境に至るもの第三十八號は鹿兒島、重富、加治木、濱之市、敷根を經て宮崎縣境に至る十六里三十一町餘である

 昔は主要なる國道には松並樹を植ゑ一里毎に一里塚を建てたものである。豊臣秀吉は全國に命じて石造の一里塚を建てしめたので薩藩でも此の石碑が残ってゐる處があるだらう。江戸時代になつて各藩共に街路樹を植ゑるやうになり薩藩にては寛永、正保の頃出水の地頭山田昌巌が出水街道に並樹を植ゑたのが始で、明暦三年宮之城領主島津久通が藩の家老職時代伊集院街道に街路樹を植ゑ、萬治三年には日向路に之を植ゑた。現在横井街道に在る並樹は島津久通の植ゑた記念樹である。寶永五年二月藩の御勝手方により藩内に布達した申渡しに曰。

一、往還の道筋並木植候儀諸國一統に被仰渡植調有之候得共古來並樹の大道筋にも道筋相直古道には並木有之新道には並木無之所見分不宜候間新道にも植次可申候事

一、大道筋にて無之候共爲差立通路筋には並松、並樹、並杉等其の所の土地に相應の木を致吟味、或植付、或立候様にも可仕事

一、右之外にも、外城迄、外城往還の道筋同斷植木差様見合に○可仕候事 (以下略)

 此のやうに衛生上と風致上より植樹に努めて來たのであるが、近來僅かの財を得んとて此の並樹を伐採賣却する俗吏あるのは慨はしきことである。

 鐵道が伊集院を通過し始めたのは大正二年十月十一日にて鹿兒島と東市來間に開通し、爾來各工區毎に開通運轉をなし昭和二年十月十七日鹿兒島門司間全通し、鹿兒島本線となつたのである。
 伊集院驛より南薩枕崎に通ずる南薩鐡道は伊集院伊作間が大正三年四月一日開通し伊作加世田間は同年五月十日加世田枕崎間は昭和六年三月十日開通した。

 此等鐡道線路の距離を示せば伊集院驛より饅頭石まで七・七粁五、東市來まで五・九粁、門司まで三七九・五粁である。又伊集院驛から伊作までは十八粁二、加世田まで二十九粁、枕崎まで四十九粁六である。

 自動車は南薩、北薩、鹿兒島方面にも通じ交通至便であるが國道の變更と交通の便とは伊集院町に貨客の滞留宿泊すること少き爲昔時の宿場的繁榮を失ひ藩政時代の面影は全く見られなつた。

 伊集院町に郵便局の開設せられたのは明治五年七月一日にて貯金業務の開始は同十八年十月一日、爲替事務は同二十一年九月十六日、小包取扱は同二十六年三月一日である。又電信事務は同二十七年三月二十六日電話事務は同四十三年二月二十六日保險事務の開始は大正五年十月一日にて現在の局長は種子島潔氏で局員二十五名を指揮して新設敏活に通信事業に盡瘁しつゝあり。


第五節 海外交通

 西薩の海岸地方は風向きや潮流の關係上支那朝鮮との交通に便なるため室町時代から大陸地方との通商が盛であつたことは倭寇に依つても推知せらるゝのである。此の西薩地方の豪族にて朝鮮と通商を開いた者は島津伊久、市來親家大藏久重、大藏國久、甑島の藤原忠滿坊泊の代官只國伊集院頼久煕久などである。

 海東諸國記、世祖實録、盛宗實録などに依れば薩、隅、日三州の藩主、豪族などの中で最も盛に朝鮮と通商した者は伊集院煕久にて其書信の回數は實に四十有六に及んでゐる。併し其の年代を研究すれば煕久が島津氏に叛き島津忠國(第九代)の爲に攻撃せられ居城伊集院城を棄てゝ肥後に奔つた寶德二年から以後のことで甚だ疑ふべき記録であるが煕久の出奔後も尚伊集院氏の名を僭稱した士民があるのであらう。申叔舟の海東諸國記に

乙亥年遣使來朝書稱薩摩州伊集院萬鎭隅州大守藤原煕久約歳遣一二船

此の乙亥の歳は康正元年(紀元二一一五年)に當る即ち煕久の肥後へ出奔した六年の後である乙亥が巳亥なれば應永二十六年に當り煕久の父頼久が朝鮮と通商した後で正鴰を得てゐるやうである。此の後の四十五回も悉く年代正しからざるは海東諸國記の誤記か、或は伊集院氏領内の人士が煕久の名を冐したものであらう。

 煕久の父頼久は應永二年(紀元二〇五五年)朝鮮に使臣を派し更に同十三年使を遣はしてゐる。要するに伊集院氏及び伊集院附近の人士は室町時代から盛んに海外に進出したことは明かである。

 参考の爲海國諸國記に現はれた西薩地方人士の通交史を摘記すれば

戊子年遣使來朝稱市來太守大藏氏國久宗貞國請接待、忠國從弟爲其管下都府

戊子年遣使來朝書稱薩摩州市來千代太守大藏氏久重宗貞國請接待

丁亥年遣使賀観音現像書稱薩摩州古志岐島代官藤原忠滿

戊子年遣使來朝稱薩摩州房泊代官只吉宗忠國請接待。

注釈

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  1. 注釈:伊作郷は阿多郷及び日置郷に統合されているがHTMLの表示上の問題で上下共にセル分割して結合することができないのでやむおえず空白としているが原典とは異なる。
 

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