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任官之事
 
古諺曰、君択臣而授官、臣量已而受職、君無、臣無虚受、然羽柴筑前守秀吉、天正壬午(十年也)春、為伐西戎備州、闘諍之半、明智日向守光秀討信長将軍、於尋常之大将者、秀吉所敗軍也、不然還而武勇智計兼備退凶徒、即時上洛、悉亡明智党、夷洛属静謐、信長将軍仰主上之徳、修造宮殿、扶臣下之衰微行庄園、最忠臣也、以之思之、光秀悪逆第一之朝敵也、秀吉又討之、無比類之忠勤也、故被下綸旨、被官位、其辞云、

去六月二日、信長父子上洛之処、明智日向守企逆意果之、剰乱入二条御所、狼藉之事、前代未聞、無是非次第也、然処秀吉西国為成敗、備中国敵城、所所取巻、雖対陣存分時日馳上、明智一類悉誅伐、属天下泰平之段、寔古今希有武勇、何事如之乎、因玆官位之儀、雖宣下、被辞申之条、重昇殿叙爵少将之儀、堅天気候也、仍執達如件、

  天正十年十年十月三日  左中将在判

    羽柴筑前守殿

口宣案

  上卿甘露寺大納言

   天正十年十月三日 宣旨

    従五位下平秀吉

   宜左近衛権少将

    蔵人頭左近衛権中将藤原ノリ

勅命之重、乃叙五位少将、拝口宣、其後柴田修理亮勝家叛乱、而引入織田三七信孝、欲天下、秀吉朝臣馳向国之界之、両家輩武勇難韓彭名、悪逆越于盗跖蹻徒、彼等若於世者、可王位眼前也、平定之秀吉者、豈不忠功之臣哉、天正十一年五月廿二日、叙従四位下参議、古伝曰、労大者其禄厚、功多者其爵尊、誠哉斯言、外以武事天下、内以正税禁中、有闕則補之、誠未曽有之事也、以是天正十二年十一月廿二日、任従三位権大納言、尤為重職、忝親王御方御歳近不惑、不御即位、然而院御所、中古以来断絶、於是亜相立院御所、御即位可取行由奉奏、先院御所欲営之、半夢斎玄以任民部卿法印、奉亜相之、撰良辰始作事、然平朝臣秀吉卿其職亜相、而棟梁于諸官、塩梅于帝道而已、依之又任内大臣、被勅書

  平朝臣秀吉

 権大納言藤原朝臣経元宣奉

 勅件人宜内大臣

  天正十三年三月十日 掃部頭兼大外記造酒正助教中原朝臣師廉

当日有参内銀子千両御太刀一腰進上之、仍天杯天酌上献、就中被御劔、是一世之規摸也、信長将軍二男織田三介信雄、器用無其職掌、故内府推挙、任権大納言大臣議天下政者歟、其後大坂立勅使、以御台北政所、以母儀任大政所、徳雲軒内府専保養者也、可オープンアクセス NDLJP:227龍顔医術也、以是任施薬院主典、有昇殿、然而剃髪之姿憚之、為施薬院代、子息秀隆任之者哉、抑天下安泰此時歟、最叡感有余、又以内府左大臣勅命也、就其近衛殿二条殿関白御相論之事出来、詔曰、内大臣唯今相計天下者也、於白万機之政、有何妨乎、可関白旨有宣下、難辞退、任当職、賜藤原姓者、以中臣鎌子連、始為内臣、天智朝、挙為内大臣、賜藤原朝臣姓、其位在左右大臣上、何况此公任殿下哉、内覧氏長者兵仗、牛車、此四者関白所示給也、件之拝悦之条、以儀式参内、不諸大夫、侍之中択其人之者、十二人、中村式部少輔一氏、生駒雅楽頭政勝、小野木縫殿助、尼子宮内少輔、稲葉兵庫介、柘植左京亮、津田大炊頭、福島左衛門尉正則、石田治部少輔三成、大谷刑部少輔、古田兵部少輔、脇部采女正是也、七月十三日、於南殿猿楽、奉叡慮者也、御座敷次第、中央主上、左親王御方(中務卿邦房親王伏見殿)二番若宮御方(古佐丸)、三番近衛准后(信輔)、四番九条前関白(准三宮兼孝)、五番一条前関白(従三宮内基)、六番二条前関白(従一位昭実)、七番西園寺大納言大将(実(定タ)益)八番花山院宰相中将(家雅)、右殿下、二番菊亭右大臣(晴季)、三番勧修寺入道前内大臣(晴豊)、四番徳大寺内大臣(公雄)、五番大炊御門大納言(経頼)、経頼六番久我大納言(敦通)通御相伴也、盖親王准后座牌依相論、無列座公多之、此外始公卿、至諸臣、連百敷地下諸大夫諸侍等、皆祗候掖庭、殿下御膳尽美麗、只鳳羹鱗肺不加焉而已洲浜蝶花形之台物、大小折食籠、鏤金銀万花、充満小板敷、其風流一一難縷陳、拄而閣之、猿楽巳刻始、一番弓八幡、二番田村、三番三輪、四番紅葉狩、五番呉服也、彼者悉従殿下時之衣裳、就中樋口石見守大皷有名取、尽其興、皆人欹聴、忝有叡感、下給聴色之調、誠末代之眉目也、猿楽之半、不計忽雨降而嘈嘈落、軒滴加瀑、走庭水似海、上下伺候之徒、雨脚打頭、不袂、流水浸腰、不膝、謹而成見物数刻、俄又雲立直、夕日映松間、涼風入梧葉、皆人得快気、酒宴時過、猿楽事終、遂拝賀退出給、翌日早早以勅使忝有勅書

昨日は参内候てことに申沙汰一しほ忘れがたく思ひ給候終日御心をなくさまれ候事被仰つくしがたく候上洛候おりふしはさひまちおほしめし候なを勧修寺大納言申候へかし かしこ

     関白とのへ

再三頂戴畏悦不浅而已、扨親王准后列座相論之事、殿下可批判由議定、大徳寺開席、於堂上之衆者八十尊翁、至七歳童子、悉有集来、律令職原諸家系図、並於禁中詩歌和漢懐紙等、勘見之、前後雑沓者也、論談亦難決、殿下分物之理最聡明也、於此争者、可兼帯、所詮隔座而取鬮、今日為上者明日可下由、奉叡盧、被勅書、以三箇条之目録、被相定

親王准后相論之事きこしめし候然は座なみのこと可為隔座之段被仰候あまねく申ふれられ候へかしあなかしく

    関白とのへ

親王与准后座次之儀可隔座、但龍山与伏見殿者、不自余之条、此両人者何時双候、而可隔座

同法中之儀、如摠並之、准后親王可隔座

オープンアクセス NDLJP:228前関白与法中之准后各座

 法中親王同前

親王准后相論之事、古今無一決者歟、然今度於大徳寺糺明、既求職原官班両趣、或披双方之旧記、悉令批判、右三箇条定置者也、可後代之亀鏡者哉、仍以此趣勅書、猶為治定之間、今令触諸家諸門畢、弥可此法度者也

  天正十三年七月十五日          関白

 親王家

伏見殿邦房 仁和寺殿守理 青蓮院殿尊朝 妙法院殿常胤 梶井殿最胤

 准后家

近衛殿信輔 一条殿内基 二条殿昭実 九条殿兼孝 鷹司殿信房 大覚寺殿 聖護院殿尊澄 勧修寺門跡 三宝院殿

 勅使

菊亭殿昭季 勧修寺殿晴豊 中山殿親総 藤中納言殿

右衆一通宛被遣矣、古来不決題目、只今治定之事、君臣合体之時至哉、不亦奇乎、今度関白之儀、頗依勅命、且就摂家之与奪、任両職云云、抑親王御方、従幼歳敏、而徳行政事、無漏事、親筆追三跡、御製冠百世殿下頻求黄門定家卿筆跡古今和歌集秘在焉、尊仰之余、進献之、御感不浅、被直書

古今和歌集〈定家卿筆蹟〉無双の重宝御心さしのほと一しほ詠入候畢さこそおもひよられ候事外聞実義祝着に御ふみなとにてはかたはしも申つくしがたく候まゝがならす見参のおりふしを待入計候猶中山大納言申へく候かしこ

                   御判

     関白とのへ

右之外美誉芳名、不数尽、屢見殿下儀形、只非大形、善人善業之宿因、天神地祇、化現出世、振威名哉、算誕生年月、丁西二月六日吉辰也、周易本卦当復六四、其辞曰、復其見天地之心乎、註曰大富有万物、雷動風行、又曰、履得其位、相叶此辞者乎哉、尋其素生、祖父祖母侍禁囲(持脱カ)萩中納言申哉、今之大政所殿三歳秋、依或之讒言、被遠流、尾州飛保村雲云所卜謫居、送春秋矣、又老者物語村雲在所、而都人有一首詠、読人不知也、

 なかめやる都の月に村雲のかゝるすまゐもうき世なりけり

彼中納言歌哉、大政所殿幼年有上洛、禁中傍宮仕給事両三年有下国、無程一子誕生、今殿下是也、従孩子奇恠之事多之、如何様非王氏者争得此俊傑乎、往時右大将源朝臣頼朝、雖天下権柄、其位不大臣、又平朝臣清盛公、任太政大臣、是為王氏謂乎、最可比量、然殿下素生不肖、悔文書、只今招儒者、数巻古伝諸家系図等、学問之、捨悪用善多之、於是案物之由、賜藤原姓関白、雖故、継古姓、如鹿牛陳跡、吾保天下、末代有名、唯新定別姓、可濫觴、乍去於道理、不人議、古源平藤橋四姓、依其人之器用、一姓一姓制之者哉、藤原姓、オープンアクセス NDLJP:229天智朝、鎌足始賜之、至今及九百二十年、橘氏聖武朝、諸兄公始賜之、及八百五十年、平家桓武天皇葛原親王始賜之、及八百年、源氏清和天皇孫多田満仲之父経基王始賜之、及七百五十年歟、往昔猶如此、今又改姓可五姓、此時也、於是菊亭右大臣賈生有職、胡公中庸得其器量、依之遂相談、謹奉奏聞、所希賜天長地久之姓、得万民快楽、不亦悦乎、珍重珍重、謹而記

   天正十三年八月吉日             太田由己識


右惟任退治記紀州御発向記四国御動座記及任官記之四種加之以播州征伐記柴田退治記二種総題曰豊臣秀吉公御事記皆当時祐筆太田由已所筆記也保己一氏編類従前集時捜索得之者播州柴田記耳後又得此四記当時塙氏或有不知聚為一書、也至有続集之挙適得之収録焉今書所刊以温故堂本為原書校以湯島図書舘古本然誤字頗多不可私為是正非校者之咎也

                         近藤瓶城


 明治三十五年一月以大学本再校了         近藤圭造

 
 

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