二百十日 (小説)
一
ぶらりと両手を
「どこへ行ったね」
「ちょっと、町を
「何か
「寺が一軒あった」
「それから」
「
「それから」
「
「
「やめて来た」
「そのほかに何もないかね」
「別段何もない。いったい、寺と云うものは大概の村にはあるね、君」
「そうさ、人間の死ぬ所には必ずあるはずじゃないか」
「なるほどそうだね」と圭さん、首を
「それから
「どうも寺だけにしては、ちと、時間が長過ぎると思った。馬の沓がそんなに珍しいかい」
「珍らしくなくっても、見たのさ。君、あれに使う道具が幾通りあると思う」
「幾通りあるかな」
「あてて見たまえ」
「あてなくっても
「何でも七つばかりある」
「そんなにあるかい。何と何だい」
「何と何だって、たしかにあるんだよ。第一爪をはがす
「それから何があるかい」
「それから変なものが、まだいろいろあるんだよ。第一馬のおとなしいには驚ろいた。あんなに、削られても、刳られても平気でいるぜ」
「爪だもの。人間だって、平気で爪を
「人間はそうだが馬だぜ、君」
「馬だって、人間だって爪に変りはないやね。君はよっぽど
「呑気だから見ていたのさ。しかし薄暗い所で赤い鉄を打つと
「出るさ、東京の真中でも出る」
「東京の真中でも出る事は出るが、感じが違うよ。こう云う山の中の鍛冶屋は第一、音から違う。そら、ここまで聞えるぜ」
「聞えるだろう」と圭さんが云う。
「うん」と
「そこで、その、相手が
「ふうん。とうとう小手を取られたのかい」
「とうとう小手を取られたんだあね。ちょいと小手を取ったんだが、そこがそら、
「ふうん。竹刀を落したのかい」
「竹刀は、そら、さっき、落してしまったあね」
「竹刀を落してしまって、小手を取られたら困るだろう」
「困らああね。竹刀も小手も取られたんだから」
二人の話しはどこまで行っても竹刀と小手で持ち切っている。
かあんかあんと鉄を打つ音が静かな村へ響き渡る。
「まだ馬の
「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒
「豆腐屋があって?」
「豆腐屋があって、その豆腐屋の
「寒磬寺と云う御寺がある?」
「ある。今でもあるだろう。門前から見るとただ
「誰だか鉦を敲くって、坊主が敲くんだろう」
「坊主だか何だか分らない。ただ竹の中でかんかんと
「海老のようになるって?」
「うん。海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと云うのさ」
「妙だね」
「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆を
「君の
「僕のうちは、つまり、そんな音が聞える所にあるのさ」
「だから、どこにある訳だね」
「すぐ
「豆腐屋の
「なに二階さ」
「どこの」
「豆腐屋の二階さ」
「へええ。そいつは……」と碌さん驚ろいた。
「僕は豆腐屋の子だよ」
「へええ。豆腐屋かい」と碌さんは再び驚ろいた。
「それから垣根の朝顔が、茶色に枯れて、引っ張るとがらがら鳴る時分、白い
「門前の豆腐屋と云うが、それが君のうちじゃないか」
「僕のうち、すなわち門前の豆腐屋が腰障子をはめる。かんかんと云う声を聞きながら僕は二階へ上がって
隣り座敷の
「あれは
「一生懸命にやったら半日くらいで済むだろう」
「そうは行くまい」と碌さんが反対する。
「そうかな。じゃ
「一日や
「そうさ、ことによると一週間もかかるかね。見たまえ、あの丁寧に顋を
「あれじゃ。古いのを抜いちまわないうちに、新しいのが
「とにかく痛い事だろう」と圭さんは
「痛いに違いないね。忠告してやろうか」
「なんて」
「よせってさ」
「余計な事だ。それより
「うん、よかろう。君が聞くんだよ」
「僕はいやだ、君が聞くのさ」
「聞いても
「だから、まあ、よそうよ」と圭さんは自己の
一度
「あの音を聞くと、どうしても豆腐屋の音が思い出される」と圭さんが腕組をしながら云う。
「全体豆腐屋の子がどうして、そんなになったもんだね」
「豆腐屋の子がどんなになったのさ」
「だって豆腐屋らしくないじゃないか」
「豆腐屋だって、
「そうさな、つまり頭だからね」
「頭ばかりじゃない。世の中には頭のいい豆腐屋が何人いるか分らない。それでも
「それじゃ何だい」と碌さんが小供らしく質問する。
「何だって君、やっぱりなろうと思うのさ」
「なろうと思ったって、世の中がしてくれないのがだいぶあるだろう」
「だから気の毒だと云うのさ。不公平な世の中に生れれば仕方がないから、世の中がしてくれなくても何でも、自分でなろうと思うのさ」
「思って、なれなければ?」
「なれなくっても何でも思うんだ。思ってるうちに、世の中が、してくれるようになるんだ」と圭さんは
「そう注文通りに
「だって僕は今日までそうして来たんだもの」
「だから君は豆腐屋らしくないと云うのだよ」
「これから先、また豆腐屋らしくなってしまうかも知れないかな。
「なったら、どうするつもりだい」
「なれば世の中がわるいのさ。不公平な世の中を公平にしてやろうと云うのに、世の中が云う事をきかなければ、
「しかし世の中も何だね、君、豆腐屋がえらくなるようなら、自然えらい者が豆腐屋になる訳だね」
「えらい者た、どんな者だい」
「えらい者って云うのは、何さ。
「うん華族や金持か、ありゃ今でも豆腐屋じゃないか、君」
「その豆腐屋
「だから、そんなのは、本当の豆腐屋にしてしまうのさ」
「こっちがする気でも向がならないやね」
「ならないのをさせるから、世の中が公平になるんだよ」
「公平に出来れば結構だ。大いにやりたまえ」
「やりたまえじゃいけない。君もやらなくっちゃあ。――ただ、馬車へ乗ったり、別荘を建てたりするだけならいいが、むやみに人を
「君はそんな目に
圭さんは腕組をしたままふふんと云った。村鍛冶の音は
「まだ、かんかん
「君の腕は昔から太いよ。そうして、いやに黒いね。豆を
「豆も磨いた、水も
「踏んだ方が謝まるのが通則のようだな」
「突然、人の頭を張りつけたら?」
「そりゃ
「
「そうさな。謝まらさす事が出来れば、謝まらさす方がいいだろう」
「それを気違の方で謝まれって云うのは驚ろくじゃないか」
「そんな気違があるのかい」
「今の豆腐屋
「無論それが人間さ。しかし気違の豆腐屋なら、うっちゃって置くよりほかに仕方があるまい」
圭さんは再びふふんと云った。しばらくして、
「そんな気違を増長させるくらいなら、世の中に生れて来ない方がいい」と
村鍛冶の音は、会話が切れるたびに静かな里の
「しきりにかんかんやるな。どうも、あの音は
「妙に気に掛るんだね。その寒磬寺の鉦の音と、気違の豆腐屋とでも何か関係があるのかい。――全体君が豆腐屋の
「聞かせてもいいが、何だか寒いじゃないか。ちょいと
「うん這入ろう」
圭さんと碌さんは
二
「この湯は何に
「何に利くかなあ。分析表を見ると、何にでも利くようだ。――君そんなに、
「純透明だね」と出臍の先生は、両手に
「味も何もない」と云いながら、流しへ吐き出した。
「飲んでもいいんだよ」と
圭さんは
「どうも、いい
「豆腐屋出身だからなあ。体格が
「さも喧嘩の相手があるような
「誰でも構わないさ」
「ハハハ
「実際少し気の毒だったね。あれでも僕はよほど加減して、
「本当かい? はたして本当ならえらいものだ。――何だか怪しいな。すぐ付け上がるからいやだ」
「ハハハ付け上がるものか。付け上がるのは華族と金持ばかりだ」
「また華族と金持ちか。眼の
「金はなくっても、こっちは天下の豆腐屋だ」
「そうだ、いやしくも天下の豆腐屋だ。野生の腕力家だ」
「君、あの窓の外に咲いている黄色い花は何だろう」
碌さんは湯の中で首を
「かぼちゃさ」
「馬鹿あ云ってる。かぼちゃは地の上を
「屋根へ上がっちゃ、かぼちゃになれないかな」
「だっておかしいじゃないか、今頃花が咲くのは」
「構うものかね、おかしいたって、屋根にかぼちゃの花が咲くさ」
「そりゃ
「そうさな、前半は唄のつもりでもなかったんだが、後半に至って、つい唄になってしまったようだ」
「屋根にかぼちゃが
「また
「噴火口は実際猛烈なものだろうな。何でも、
「うん、起きる事は起きるが山へかかってから、あんなに早く
「ともかくも六時に起きて……」
「六時に起きる?」
「六時に起きて、七時半に湯から出て、八時に飯を食って、八時半に便所から出て、そうして宿を出て、十一時に
「へえ、誰が」
「僕と君がさ」
「何だか君
「なに構わない」
「ありがたい仕合せだ。まるで
「うふん。時に昼は何を食うかな。やっぱり
「饂飩はよすよ。ここいらの饂飩はまるで
「では
「蕎麦も御免だ。僕は
「じゃ何を食うつもりだい」
「何でも
「
「この際は少し変だぜ。この際た、どんな際なんだい」
「剛健な趣味を養成するための旅行だから……」
「そんな旅行なのかい。ちっとも知らなかったぜ。剛健はいいが饂飩は
「だから
「
「そんなに痩せもしなかったがただ
「僕はないよ。身分が違わあ」
「まあ経験して見たまえ。そりゃ容易に
「煮え湯で
「煮え湯? 煮え湯ならいいかも知れない。しかし洗濯するにしてもただでは出来ないからな」
「なあるほど、
「一文もないのさ」
「君どうした」
「仕方がないから、
「おやおや」
「しかもそれを宿のかみさんが見つけて、僕に退去を命じた」
「さぞ困ったろうね」
「なあに困らんさ、そんな事で困っちゃ、今日まで生きていられるものか。これから追い追い華族や金持ちを豆腐屋にするんだからな。
「すると僕なんぞも、今に、とおふい、
「華族でもない癖に」
「まだ華族にはならないが、金はだいぶあるよ」
「あってもそのくらいじゃ駄目だ」
「このくらいじゃ
「時に君、
「僕のも流すのかい」
「流してもいいさ。隣りの部屋の男も流しくらをやってたぜ、君」
「隣りの男の背中は似たり寄ったりだから公平だが、君の背中と、僕の背中とはだいぶ面積が違うから損だ」
「そんな面倒な事を云うなら一人で洗うばかりだ」と圭さんは、両足を
手拭の運動につれて、圭さんの太い
「まるで
圭さんは何にも云わずに一生懸命にぐいぐい
「こいつは降参だ。ちょっと失敬して、流しの方へ出るよ」と碌さんは
「あの隣りの客は元来何者だろう」と圭さんが
「隣りの客どころじゃない。その顔は不思議だよ」
「もう済んだ。ああ好い心持だ」と圭さん、手拭の
「ああいい心持ちだ」と圭さんは波のなかで云った。
「なるほどそう遠慮なしに
「あの隣りの客は
「君が華族と金持ちの事を気にするようなものだろう」
「僕のは深い原因があるのだが、あの客のは何だか
「なに自分じゃあ、あれで分ってるんだよ。――そこでその小手を取られたんだあね――」と碌さんが隣りの
「ハハハハそこでそら
「なにあれでも、実は
「海賊らしくもないぜ。さっき
「木枕をして寝られるくらいの頭だから、そら、そこで、その、小手を取られるんだあね」と碌さんは、まだ真似をする。
「竹刀も取られるんだあねか。ハハハハ。何でも赤い表紙の本を胸の上へ
「その赤い本が、何でもその、竹刀を落したり、小手を取られるんだあね」と碌さんは、どこまでも真似をする。
「何だろう、あの本は」
「
「伊賀の水月? 伊賀の水月た何だい」
「伊賀の水月を知らないのかい」
「知らない。知らなければ恥かな」と圭さんはちょっと首を
「恥じゃないが話せないよ」
「話せない? なぜ」
「なぜって、君、荒木又右衛門を知らないか」
「うん、又右衛門か」
「知ってるのかい」と碌さんまた湯の中へ
「もう仁王の行水は御免だよ」
「もう大丈夫、背中はあらわない。あまり這入ってると
「ただ立つばかりなら、安心だ。――それで、その、荒木又右衛門を知ってるかい」
「又右衛門? そうさ、どこかで聞いたようだね。豊臣秀吉の家来じゃないか」と圭さん、飛んでもない事を云う。
「ハハハハこいつはあきれた。華族や金持ちを豆腐屋にするだなんて、えらい事を云うが、どうも
「じゃ待った。少し考えるから。又右衛門だね。又右衛門、荒木又右衛門だね。待ちたまえよ、荒木の又右衛門と。うん分った」
「何だい」
「
「ハハハハ荒木、ハハハハ荒木、又ハハハハ又右衛門が、相撲取り。いよいよ、あきれてしまった。実に無識だね。ハハハハ」と碌さんは
「そんなにおかしいか」
「おかしいって、誰に聞かしたって笑うぜ」
「そんなに有名な男か」
「そうさ、荒木又右衛門じゃないか」
「だから僕もどこかで聞いたように思うのさ」
「そら、落ち行く先きは九州
「云うかも知れんが、その句は聞いた事がないようだ」
「困った男だな」
「ちっとも困りゃしない。荒木又右衛門ぐらい知らなくったって、
「腕力や脚力を持ち出されちゃ駄目だね。とうてい
「君は第一平生から
「これでよっぽど有るつもりなんだがな。ただ
「ハハハハつまらん事を云っていらあ」
「しかし豆腐屋にしちゃ、君のからだは奇麗過ぎるね」
「こんなに黒くってもかい」
「黒い白いは別として、豆腐屋は大概
「なぜ」
「なぜか知らないが、箚青があるもんだよ。君、なぜほらなかった」
「馬鹿あ云ってらあ。僕のような高尚な男が、そんな
「荒木又右衛門か。そいつは困ったな。まだそこまでは調べが届いていないからね」
「そりゃどうでもいいが、ともかくもあしたは六時に起きるんだよ」
「そうして、ともかくも饂飩を食うんだろう。僕の意志の薄弱なのにも困るかも知れないが、君の意志の強固なのにも
「なにこのくらい強硬にしないと増長していけない」
「僕がかい」
「なあに世の中の奴らがさ。金持ちとか、華族とか、なんとかかとか、生意気に威張る奴らがさ」
「しかしそりゃ見当違だぜ。そんなものの身代りに僕が豆腐屋主義に屈従するなたまらない。どうも驚ろいた。以来君と旅行するのは御免だ」
「なあに構わんさ」
「君は構わなくってもこっちは大いに構うんだよ。その上旅費は奇麗に
「しかし僕の御蔭で天地の壮観たる
「
「しかし華族や金持なんて存外
「また身代りか、どうだい身代りはやめにして、本当の華族や金持ちの方へ持って行ったら」
「いずれ、その内持ってくつもりだがね。――意気地がなくって、
「だから、どしどし豆腐屋にしてしまうさ」
「その内、してやろうと思ってるのさ」
「思ってるだけじゃ
「なあに
「随分気が長いね。もっとも僕の知ったものにね。
「時にあの
「ちょうど好いから君一つ聞いて見たまえ」
「僕はもう
「まあ、いいさ、出ないでも。君がいやなら僕が聞いて見るから、もう少し
「おや、あとから
「どれ。なるほど、
「僕はともかくも出るよ」
「婆さんが這入るなら、僕もともかくも出よう」
風呂場を出ると、ひやりと吹く秋風が、袖口からすうと這入って、
「あすこへ登るんだね」と碌さんが云う。
「鳴ってるぜ。愉快だな」と圭さんが云う。
三
「姉さん、この人は
「だいぶん
「肥えてるって、おれは、これで豆腐屋だもの」
「ホホホ」
「豆腐屋じゃおかしいかい」
「豆腐屋の癖に西郷隆盛のような顔をしているからおかしいんだよ。時にこう、
「また
「食いたがるって、これじゃ営養不良になるばかりだ」
「なにこれほど御馳走があればたくさんだ。――
「いろいろある事はあるがね。ある事は君の商売道具まであるんだが――困ったな。
「君この芋を食って見たまえ。掘りたてですこぶる
「すこぶる剛健な味がしやしないか――おい姉さん、
「あいにく何もござりまっせん」
「ござりまっせんは弱ったな。じゃ玉子があるだろう」
「玉子ならござりまっす」
「その玉子を半熟にして来てくれ」
「何に致します」
「半熟にするんだ」
「煮て参じますか」
「まあ煮るんだが、半分煮るんだ。半熟を知らないか」
「いいえ」
「知らない?」
「知りまっせん」
「どうも
「何でござりまっす」
「何でもいいから、玉子を持って
「飲んでもいい」と圭さんは
「飲んでもいいか、それじゃ飲まなくってもいいんだ。――よすかね」
「よさなくっても
「ともかくもか、ハハハ。君ほど、ともかくもの好きな男はないね。それで、あしたになると、ともかくも饂飩を食おうと云うんだろう。――姉さん、ビールもついでに持ってくるんだ。玉子とビールだ。分ったろうね」
「ビールはござりまっせん」
「ビールがない?――君ビールはないとさ。何だか日本の領地でないような気がする。
「なければ、飲まなくっても、いいさ」と圭さんはまた泰然たる
「ビールはござりませんばってん、
「ハハハハいよいよ妙になって来た。おい君ビールでない恵比寿があるって云うんだが、その恵比寿でも飲んで見るかね」
「うん、飲んでもいい。――その恵比寿はやっぱり
「ねえ」と下女は
「じゃ、ともかくもその
「ねえ」
下女は
「あの下女は異彩を放ってるね」と碌さんが云うと、圭さんは平気な顔をして、
「そうさ」と何の苦もなく答えたが、
「単純でいい女だ」とあとへ、持って来て、木に竹を
「剛健な趣味がありゃしないか」
「うん。実際
「そんなに惜しけりゃ、あれを東京へ連れて行って、仕込んで見るがいい」
「うん、それも
「皮が厚いからなかなか骨が折れるだろう」と碌さんは
「折れても何でも剥くのさ。奇麗な顔をして、
「しかも、そんなのに限って皮がいよいよ厚いんだろう」
「体裁だけはすこぶる
「そうかね。じゃ、僕もこれから、ちと
「無論の事さ。だからまず
「御昼に
「
「
「もっとも崇高なる天地間の活力現象に対して、雄大の
「あんまり超越し過ぎるとあとで世の中が、いやになって、かえって困るぜ。だからそこのところは
「弱い男だ」
「そら恵比寿が来た。この恵比寿がビールでないんだから面白い。さあ
「うん、ついでにその玉子を二つ貰おうか」と圭さんが云う。
「だって玉子は僕が
「しかし四つとも食う気かい」
「あしたの
「うん、そんなら、よそう」と圭さんはすぐ断念する。
「よすとなると気の毒だから、まあ上げよう。本来なら剛健党が玉子なんぞを食うのは、ちと
「おおかた熊本でござりまっしょ」
「ふん、熊本製の恵比寿か、なかなか
「うん。やっぱり東京製と同じようだ。――おい、姉さん、恵比寿はいいが、この玉子は
「ねえ」
「生だと云うのに」
「ねえ」
「何だか要領を得ないな。君、半熟を命じたんじゃないか。君のも生か」と圭さんは下女を捨てて、碌さんに向ってくる。
「半熟を命じて不熟を得たりか。僕のを一つ割って見よう。――おやこれは駄目だ……」
「うで玉子か」と圭さんは首を
「全熟だ。こっちのはどうだ。――うん、これも全熟だ。――姉さん、これは、うで玉子じゃないか」と今度は碌さんが下女にむかう。
「ねえ」
「そうなのか」
「ねえ」
「なんだか言葉の通じない国へ来たようだな。――向うの御客さんのが生玉子で、おれのは、うで玉子なのかい」
「ねえ」
「なぜ、そんな事をしたのだい」
「半分煮て参じました」
「なあるほど。こりゃ、よく出来てらあ。ハハハハ、君、半熟のいわれが分ったか」と碌さん
「ハハハハ単純なものだ」
「まるで
「間違いましたか。そちらのも煮て参じますか」
「なにこれでいいよ。――姉さん、ここから、阿蘇まで何里あるかい」と圭さんが玉子に関係のない方面へ出て来た。
「ここが阿蘇でござりまっす」
「ここが阿蘇なら、あした六時に起きるがものはない。もう
「どうぞ、いつまでも御逗留なさいまっせ」
「せっかく、姉さんも、ああ云って勧めるものだから、どうだろう、いっそ、そうしたら」と碌さんが圭さんの方を向く。圭さんは相手にしない。
「ここも阿蘇だって、阿蘇郡なんだろう」とやはり下女を追窮している。
「ねえ」
「じゃ阿蘇の御宮まではどのくらいあるかい」
「御宮までは三里でござりまっす」
「山の上までは」
「御宮から二里でござりますたい」
「山の上はえらいだろうね」と碌さんが突然飛び出してくる。
「ねえ」
「
「いいえ」
「じゃ知らないんだね」
「いいえ、知りまっせん」
「知らなけりゃ、しようがない。せっかく話を聞こうと思ったのに」
「御山へ御登りなさいますか」
「うん、早く登りたくって、仕方がないんだ」と圭さんが云うと、
「僕は登りたくなくって、仕方がないんだ」と碌さんが
「ホホホそれじゃ、あなただけ、ここへ御逗留なさいまっせ」
「うん、ここで
「そうさ、だいぶ、強くなった。夜のせいだろう」
「御山が少し荒れておりますたい」
「荒れると烈しく鳴るのかね」
「ねえ。そうしてよながたくさんに降って参りますたい」
「よなた何だい」
「灰でござりまっす」
下女は障子をあけて、
「御覧なさりまっせ」と黒い指先を出す。
「なるほど、
「ねえ。少し御山が荒れておりますたい」
「おい君、いくら荒れても登る気かね。荒れ模様なら少々延ばそうじゃないか」
「荒れればなお愉快だ。
「ねえ、今夜は大変赤く見えます。ちょと出て御覧なさいまっせ」
どれと、圭さんはすぐ椽側へ飛び出す。
「いやあ、こいつは
「大変だ? 大変じゃ出て見るかな。どれ。――いやあ、こいつは――なるほどえらいものだね――あれじゃとうてい駄目だ」
「何が」
「何がって、――登る途中で焼き殺されちまうだろう」
「馬鹿を云っていらあ。夜だから、ああ見えるんだ。実際昼間から、あのくらいやってるんだよ。ねえ、姉さん」
「ねえ」
「ねえかも知れないが危険だぜ。ここにこうしていても何だか顔が熱いようだ」と碌さんは、自分の
「
「だって君の顔だって、赤く見えるぜ。そらそこの垣の外に広い稲田があるだろう。あの青い葉が一面に、こう照らされているじゃないか」
「
「星のひかりと火のひかりとは
「どうも、君もよほど無学だね。君、あの火は五六里先きにあるのだぜ」
「何里先きだって、向うの方の空が一面に真赤になってるじゃないか」と碌さんは
「よるだもの」
「夜だって……」
「君は無学だよ。荒木又右衛門は知らなくっても好いが、このくらいな事が分らなくっちゃ恥だぜ」と圭さんは、横から相手の顔を見た。
「人格にかかわるかね。人格にかかわるのは我慢するが、命にかかわっちゃ降参だ」
「まだあんな事を云っている。――じゃ姉さんに聞いて見るがいい。ねえ姉さん。あのくらい火が出たって、御山へは登れるんだろう」
「ねえい」
「大丈夫かい」と碌さんは下女の顔を
「ねえい。女でも登りますたい」
「女でも登っちゃ、男は
「ともかくも、あしたは六時に起きて……」
「もう分ったよ」
言い
四
「おいこれから曲がっていよいよ登るんだろう」と
「ここを曲がるかね」
「何でも突き当りに寺の石段が見えるから、門を
「
「そうさ」
「あの爺さんが、何を云うか分ったもんじゃない」
「なぜ」
「なぜって、世の中に商売もあろうに、饂飩屋になるなんて、第一それからが
「饂飩屋だって正業だ。金を積んで、貧乏人を圧迫するのを道楽にするような人間より
「尊といかも知れないが、どうも饂飩屋は
「石段は見えるが、あれが寺かなあ、本堂も何もないぜ」
「
「なに、大丈夫だ。
「どこに」
「どこにでもあるさ。意思のある所には天祐がごろごろしているものだ」
「どうも君は自信家だ。
「なに豆腐屋時代から天誅組さ。――貧乏人をいじめるような――豆腐屋だって人間だ――いじめるって、何らの利害もないんだぜ、ただ道楽なんだから驚ろく」
「いつそんな目に
「いつでもいいさ。
「皮ばかりで中味のない方がいいくらいなものかな。やっぱり、金があり過ぎて、退屈だと、そんな
「今に落としてやる」と圭さんは薄黒く
「大変な
「あの音は壮烈だな」
「足の下が、もう揺れているようだ。――おいちょっと、地面へ耳をつけて聞いて見たまえ」
「どんなだい」
「非常な音だ。たしかに足の下がうなってる」
「その割に煙りがこないな」
「風のせいだ。北風だから、右へ吹きつけるんだ」
「
しばらくは
路は左右に曲折して
きのうの澄み切った空に引き
雑木林を
一時間ほどで林は尽きる。尽きると云わんよりは、一度に消えると云う方が適当であろう。ふり返る、
林が尽きて、青い原を半丁と行かぬ所に、
「おうい。少し待ってくれ」
「おうい。荒れて来たぞ。荒れて来たぞうう。しっかりしろう」
「しっかりするから、少し待ってくれえ」と碌さんは一生懸命に草のなかを
「おい何をぐずぐずしているんだ」と圭さんが
「だから饂飩じゃ駄目だと云ったんだ。ああ苦しい。――おい君の顔はどうしたんだ。真黒だ」
「そうか、君のも真黒だ」
圭さんは、
「なるほど、
「僕のハンケチも、こんなだ」
「ひどいものだな」と圭さんは雨のなかに坊主頭を
「よなだ。よなが雨に
「なるほど」
「困ったな、こりゃ」
「なあに大丈夫だ。ついそこだもの。あの煙りの出る所を
「訳はなさそうだが、これじゃ
「だから、さっきから、待っていたのさ。ここを左りへ行くか、右へ行くかと云う、ちょうど
「なるほど、両方共路になってるね。――しかし煙りの見当から云うと、左りへ曲がる方がよさそうだ」
「君はそう思うか。僕は右へ行くつもりだ」
「どうして」
「どうしてって、右の方には馬の足跡があるが、左の方には少しもない」
「そうかい」と碌さんは、
「駄目のようだ。足跡は一つも見当らない」と云った。
「ないだろう」
「そっちにはあるかい」
「うん。たった二つある」
「二つぎりかい」
「そうさ。たった二つだ。そら、こことここに」と圭さんは
「これだけかい心細いな」
「なに大丈夫だ」
「
「なにこれが天祐さ」と圭さんが云い
「痛快だ。風の飛んで行く足跡が草の上に見える。あれを見たまえ」と圭さんが
「痛快でもないぜ。帽子が飛んじまった」
「帽子が飛んだ? いいじゃないか帽子が飛んだって。取ってくるさ。取って来てやろうか」
圭さんは、いきなり、自分の帽子の上へ蝙蝠傘を
「おいこの見当か」
「もう少し左りだ」
圭さんの身躯は次第に青いものの中に、深くはまって行く。しまいには首だけになった。あとに残った碌さんはまた心配になる。
「おうい。大丈夫か」
「何だあ」と向うの首から声が出る。
「大丈夫かよう」
やがて圭さんの首が見えなくなった。
「おうい」
鼻の先から出る黒煙りは
しばらくすると、まるで見当の違った半丁ほど先に、圭さんの首が
「帽子はないぞう」
「帽子はいらないよう。早く帰ってこうい」
圭さんは坊主頭を振り立てながら、
「おい、どこへ飛ばしたんだい」
「どこだか、相談が
「もういやになったのか。まだあるかないじゃないか」
「あの煙と、この雨を見ると、何だか
「今から
「そのむくむくが気味が悪るいんだ」
「
「考えると全く余計な事だね。そうして覗き込んだ上に飛び込めば世話はない」
「ともかくもあるこう」
「ハハハハともかくもか。君がともかくもと云い出すと、つい釣り込まれるよ。さっきもともかくもで、とうとう
「いいさ、僕が責任を持つから」
「僕の病気の責任を持ったって、しようがないじゃないか。僕の代理に病気になれもしまい」
「まあ、いいさ。僕が看病をして、僕が伝染して、本人の君は助けるようにしてやるよ」
「そうか、それじゃ安心だ。まあ、少々あるくかな」
「そら、天気もだいぶよくなって来たよ。やっぱり
「ありがたい仕合せだ。あるく事はあるくが、今夜は
「また御馳走か。あるきさえすればきっと食わせるよ」
「それから……」
「まだ何か注文があるのかい」
「うん」
「何だい」
「君の経歴を聞かせるか」
「僕の経歴って、君が知ってる通りさ」
「僕が知ってる前のさ。君が豆腐屋の小僧であった時分から……」
「小僧じゃないぜ、これでも豆腐屋の
「その伜の時、
「ハハハハそんなに聞きたければ話すよ。その代り剛健党にならなくちゃいけないぜ。君なんざあ、金持の悪党を相手にした事がないから、そんなに
「ないよ。伊賀の水月は読んだが、ディッキンスは読まない」
「それだからなお貧民に同情が薄いんだ。――あの本のねしまいの方に、御医者さんの獄中でかいた日記があるがね。悲惨なものだよ」
「へえ、どんなものだい」
「そりゃ君、
「うん」
「なあに仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりゃ、ああなるのは自然の
雨と風のなかに、毛虫のような眉を
「雄大だろう、君」と云った。
「全く雄大だ」と碌さんも
「恐ろしいくらいだ」しばらく時をきって、碌さんが付け加えた言葉はこれである。
「僕の精神はあれだよ」と圭さんが云う。
「革命か」
「うん。文明の革命さ」
「文明の革命とは」
「血を流さないのさ」
「刀を使わなければ、何を使うのだい」
圭さんは、何にも云わずに、
「頭か」
「うん。相手も頭でくるから、こっちも頭で行くんだ」
「相手は誰だい」
「金力や威力で、たよりのない
「うん」
「社会の悪徳を公然商売にしている奴らさ」
「うん」
「商売なら、衣食のためと云う言い訳も立つ」
「うん」
「社会の悪徳を公然道楽にしている奴らは、どうしても
「うん」
「君もやれ」
「うん、やる」
圭さんは、のっそりと
薄の高さは、腰を没するほどに延びて、左右から、幅、尺足らずの路を
たださえ、うねり、くねっている路だから、草がなくっても、どこへどう続いているか
最初のうちこそ、立ち登る煙りを正面に見て進んだ路は、いつの間にやら、折れ曲って、次第に横からよなを受くるようになった。横に眺める噴火口が今度は
「どうも路が違うようだね」
「うん」と碌さんは
「何だか、
「実際情けないんだ」
「どこか痛むかい」
「豆が一面に出来て、たまらない」
「困ったな。よっぽど痛いかい。僕の肩へつらまったら、どうだね。少しは
「うん」と碌さんは気のない返事をしたまま動かない。
「宿へついたら、僕が面白い話をするよ」
「全体いつ宿へつくんだい」
「五時には湯元へ着く予定なんだが、どうも、あの煙りは妙だよ。右へ行っても、左りへ行っても、鼻の先にあるばかりで、遠くもならなければ、近くもならない」
「
「そうさな。もう少しこの路を行って見ようじゃないか」
「うん」
「それとも、少し休むか」
「うん」
「どうも、急に元気がなくなったね」
「全く
「ハハハハ。その代り宿へ着くと僕が話しの
「話しも聞きたくなくなった」
「それじゃまたビールでない
「ふふん。この様子じゃ、とても宿へ着けそうもないぜ」
「なに、大丈夫だよ」
「だって、もう暗くなって来たぜ」
「どれ」と圭さんは懐中時計を出す。「四時五分前だ。暗いのは天気のせいだ。しかしこう方角が変って来ると少し困るな。山へ登ってから、もう二三里はあるいたね」
「豆の様子じゃ、十里くらいあるいてるよ」
「ハハハハ。あの煙りが前に見えたんだが、もうずっと、
「つまり山からそれだけ遠ざかった訳さ」
「そう云えばそうさ。――君、あの煙りの横の方からまた新しい煙が見えだしたぜ。あれが多分、新しい噴火口なんだろう。あのむくむく出るところを見ると、つい、そこにあるようだがな。どうして行かれないだろう。何でもこの山のつい裏に違いないんだが、路がないから困る」
「路があったって駄目だよ」
「どうも雲だか、煙りだか非常に濃く、頭の上へやってくる。
「うん」
「どうだい、こんな
「少しは歩行きよくなった。――雨も風もだんだん強くなるようだね」
「そうさ、さっきは少し晴れそうだったがな。雨や風は大丈夫だが、足は痛むかね」
「痛いさ。登るときは豆が三つばかりだったが、一面になったんだもの」
「晩にね、僕が、煙草の
「宿へつけば、どうでもなるんだが……」
「あるいてるうちが難義か」
「うん」
「困ったな。――どこか高い所へ登ると、人の通る路が見えるんだがな。――うん、あすこに高い草山が見えるだろう」
「あの右の方かい」
「ああ。あの上へ登ったら、
「分るって、あすこへ行くまでに日が暮れてしまうよ」
「待ちたまえちょっと時計を見るから。四時八分だ。まだ暮れやしない。君ここに待っていたまえ。僕がちょっと
「待ってるが、帰りに路が分らなくなると、それこそ大変だぜ。二人離れ離れになっちまうよ」
「大丈夫だ。どうしたって死ぬ
「うん。呼んでくれたまえ」
圭さんは雲と煙の
大きな山は五分に一度ぐらいずつ時をきって、普段よりは
毒々しい黒煙りが長い
「おおおい」と呼ぶ声がする。
碌さんは両手を、耳の後ろに
「おおおい」
たしかに呼んでいる。不思議な事にその声が妙に足の下から
「おおおい」
碌さんは思わず、声をしるべに、飛び出した。
「おおおい」と
「おおおい」と
碌さんは胸まで来る薄をむやみに押し分けて、ずんずん声のする方に進んで行く。
「おおおい」
「おおおい。どこだ」
「おおおい。ここだ」
「どこだああ」
「ここだああ。むやみにくるとあぶないぞう。落ちるぞう」
「どこへ落ちたんだああ」
「ここへ落ちたんだああ。気をつけろう」
「気はつけるが、どこへ落ちたんだああ」
「落ちると、足の豆が痛いぞうう」
「大丈夫だああ。どこへ落ちたんだああ」
「ここだあ、もうそれから先へ出るんじゃないよう。おれがそっちへ行くから、そこで待っているんだよう」
圭さんの
「おい、落ちたよ」
「どこへ落ちたんだい」
「見えないか」
「見えない」
「それじゃ、もう少し前へ出た」
「おや、何だい、こりゃ」
「草のなかに、こんなものがあるから
「どうして、こんな谷があるんだろう」
「
「なるほど、
「上がれるものか。高さが二間ばかりあるよ」
「弱ったな。どうしよう」
「僕の頭が見えるかい」
「
「君ね」
「ええ」
「
「よし、今顔を出すから待っていたまえよ」
「うん、待ってる、ここだよ」と圭さんは
「おい」
「おい。どうだ。豆は痛むかね」
「豆なんざどうでもいいから、早く上がってくれたまえ」
「ハハハハ大丈夫だよ。下の方が風があたらなくって、かえって
「楽だって、もう日が暮れるよ、早く上がらないと」
「君」
「ええ」
「ハンケチはないか」
「ある。何にするんだい」
「落ちる時に
「生爪を? 痛むかい」
「少し痛む」
「あるけるかい」
「あるけるとも。ハンケチがあるなら
「裂いてやろうか」
「なに、僕が裂くから丸めて抛げてくれたまえ。風で飛ぶと、いけないから、堅く丸めて落すんだよ」
「じくじく
「だいぶ暗くなって来たね。煙は相変らず出ているかい」
「うん。
「いやに鳴るじゃないか」
「さっきより、
「うん、裂けたよ。
「大丈夫かい。血が出やしないか」
「
「痛そうだね」
「なあに、痛いたって。痛いのは生きてる証拠だ」
「僕は腹が痛くなった」
「
「立つと君の顔が見えなくなる」
「困るな。君いっその事に、ここへ飛び込まないか」
「飛び込んで、どうするんだい」
「飛び込めないかい」
「飛び込めない事もないが――飛び込んで、どうするんだい」
「いっしょにあるくのさ」
「そうしてどこへ行くつもりだい」
「どうせ、噴火口から山の
「だって」
「だって
「厭じゃないが――それより君が上がれると好いんだがな。君どうかして上がって見ないか」
「それじゃ、君はこの穴の
「
「草ばかりかい」
「うん。草がね……」
「うん」
「胸くらいまで
「ともかくも僕は上がれないよ」
「上がれないって、それじゃ仕方がないな――おい。――おい。――おいって云うのにおい。なぜ黙ってるんだ」
「ええ」
「大丈夫かい」
「何が」
「口は
「利けるさ」
「それじゃ、なぜ黙ってるんだ」
「ちょっと考えていた」
「何を」
「穴から出る工夫をさ」
「全体何だって、そんな所へ落ちたんだい」
「早く君に安心させようと思って、草山ばかり見つめていたもんだから、つい足元が
「それじゃ、僕のために落ちたようなものだ。気の毒だな、どうかして上がって貰えないかな、君」
「そうさな。――なに僕は構わないよ。それよりか。君、早く立ちたまえ。そう草で腹を
「腹なんかどうでもいいさ」
「痛むんだろう」
「痛む事は痛むさ」
「だから、ともかくも立ちたまえ。そのうち僕がここで出る
「考えたら、呼ぶんだぜ。僕も考えるから」
「よし」
会話はしばらく
「おい。いるか」
「いる。何か考えついたかい」
「いいや。山の模様はどうだい」
「だんだん荒れるばかりだよ」
「今日は
「今日は九月二日さ」
「ことによると二百十日かも知れないね」
会話はまた切れる。二百十日の風と雨と煙りは
「もう日が暮れるよ。おい。いるかい」
谷の中の人は二百十日の風に吹き
碌さんは青くなって、また草の上へ棒のように
「おおおい。おらんのか」
「おおおい。こっちだ」
薄暗い谷底を半町ばかり登った所に、ぼんやりと白い者が動いている。手招きをしているらしい。
「なぜ、そんな所へ行ったんだああ」
「ここから上がるんだああ」
「上がれるのかああ」
「上がれるから、早く来おおい」
碌さんは腹の痛いのも、足の豆も忘れて、
「おい。ここいらか」
「そこだ。そこへ、ちょっと、首を出して見てくれ」
「こうか。――なるほど、こりゃ大変浅い。これなら、僕が
「
「うん。ちっとも気の毒じゃない。どうするんだ」
「
「曲ってるとも。大いに曲ってる」
「その曲ってる方へ結びつけてくれないか」
「結びつけるとも。すぐ結びつけてやる」
「結びつけたら、その帯の
「ぶら下げるとも。
「君、しっかり
「何貫目あったって大丈夫だ、安心して上がりたまえ」
「いいかい」
「いいとも」
「そら上がるぜ。――いや、いけない。そう、ずり下がって来ては……」
「今度は大丈夫だ。今のは
「君が
「だから大丈夫だよ。今のは傘の持ちようがわるかったんだ」
「君、
「よし、大丈夫。さあ上がった」
「足を踏ん張ったかい。どうも今度もあぶないようだな」
「おい」
「何だい」
「君は僕が力がないと思って、
「うん」
「僕だって一人前の人間だよ」
「無論さ」
「無論なら安心して、僕に信頼したらよかろう。からだは小さいが、朋友を一人谷底から救い出すぐらいの事は出来るつもりだ」
「じゃ上がるよ。そらっ……」
「そらっ……もう少しだ」
豆で一面に
やっと云う掛声と共に両手が
五
「おい、もう飯だ、起きないか」
「うん。起きないよ」
「腹の痛いのは
「まあ
「そのくらい口が
「どこへ」
「
「阿蘇へまだ行く気かい」
「無論さ、阿蘇へ行くつもりで、出掛けたんだもの。行かない
「そんなものかな。しかしこの豆じゃ残念ながら致し方がない」
「豆は痛むかね」
「痛むの何のって、こうして寝ていても頭へずうんずうんと響くよ」
「あんなに、
「吸殻で利目があっちゃ大変だよ」
「だって、付けてやる時は大いにありがたそうだったぜ」
「癒ると思ったからさ」
「時に君はきのう怒ったね」
「いつ」
「
「だって、あんまり人を
「ハハハしかし
「豆を
「その代りこの宿まで
「担いでくるものか。僕は独立して
「それじゃここはどこだか知ってるかい」
「
「二百十日だったから悪るかった」
「そうして山の中で
「ハハハハしかしあの時は大いに感服して、うん、うん、て云ったようだぜ」
「あの時は感心もしたが、こうなって見ると
「ふふん」
「冗談か」
「どっちだと思う」
「どっちでも好いが、真面目なら忠告したいね」
「あの時僕の経歴談を
「泣きゃしないやね。足が痛くって心細くなったんだね」
「だって、今日は朝から非常に元気じゃないか、
「足の痛いにかかわらずか。ハハハハ。実はあんまり馬鹿気ているから、少し腹を立てて見たのさ」
「僕に対してかい」
「だってほかに対するものがないから仕方がないさ」
「いい迷惑だ。時に君は
「粥もだがだね。第一、馬車は何時に出るか聞いて貰いたい」
「馬車でどこへ行く気だい」
「どこって熊本さ」
「帰るのかい」
「帰らなくってどうする。こんな所に馬車馬と同居していちゃ命が持たない。ゆうべ、あの枕元でぽんぽん羽目を
「そうか、僕はちっとも知らなかった。そんなに音がしたかね」
「あの音が耳に
「そうか、そりゃ失敬した。あんまり疲れ過ぎたんだよ」
「時に天気はどうだい」
「上天気だ」
「くだらない天気だ、昨日晴れればいい事を。――そうして顔は洗ったのかい」
「顔はとうに洗った。ともかくも起きないか」
「起きるって、ただは起きられないよ。裸で寝ているんだから」
「僕は裸で起きた」
「乱暴だね。いかに豆腐屋育ちだって、あんまりだ」
「裏へ出て、冷水浴をしていたら、かみさんが着物を持って来てくれた。
「乾いてるなら、取り寄せてやろう」と碌さんは、
「ありゃ
「亭主かも知れないさ」
「そうかな、寝ながら
「占ってどうするんだい」
「占って君と
「僕はそんな事はしないよ」
「まあ、御者か、亭主か」
「どっちかなあ」
「さあ、早くきめた。そら、来るからさ」
「じゃ、亭主にでもして置こう」
「じゃ君が亭主に、僕が御者だぜ。負けた方が今日
「そんな事はきめやしない」
「御早う……御呼びになりましたか」
「うん呼んだ。ちょっと僕の着物を持って来てくれ。乾いてるだろうね」
「ねえ」
「それから腹がわるいんだから、
「ねえ。御二人さんとも……」
「おれはただの
「では御一人さんだけ」
「そうだ。それから馬車は何時と何時に出るかね」
「熊本通いは八時と一時に出ますたい」
「それじゃ、その八時で立つ事にするからね」
「ねえ」
「君、いよいよ熊本へ帰るのかい。せっかくここまで来て
「そりゃ、いけないよ」
「だってせっかく来たのに」
「せっかくは君の命令に
「足が痛めば仕方がないが、――惜しいなあ、せっかく思い立って、――いい天気だぜ、見たまえ」
「だから、君もいっしょに帰りたまえな。せっかくいっしょに来たものだから、いっしょに帰らないのはおかしいよ」
「しかし阿蘇へ登りに来たんだから、登らないで帰っちゃあ済まない」
「誰に済まないんだ」
「僕の主義に済まない」
「また主義か。窮屈な主義だね。じゃ一度熊本へ帰ってまた出直してくるさ」
「出直して来ちゃ気が済まない」
「いろいろなものに済まないんだね。君は元来強情過ぎるよ」
「そうでもないさ」
「だって、今までただの一遍でも僕の云う事を聞いた事がないぜ」
「幾度もあるよ」
「なに一度もない」
「
「昨日は格別さ。二百十日だもの。その代り僕は
「ハハハハ、ともかくも……」
「まあいいよ。談判はあとにして、ここに宿の人が待ってるから……」
「そうか」
「おい、君」
「ええ」
「君じゃない。君さ、おい宿の先生」
「ねえ」
「君は
「いいえ」
「じゃ御亭主かい」
「いいえ」
「じゃ何だい」
「
「おやおや。それじゃ何にもならない。君、この男は御者でも亭主でもないんだとさ」
「うん、それがどうしたんだ」
「どうしたんだって――まあ好いや、それじゃ。いいよ、君、
「ねえ。では御二人さんとも馬車で御越しになりますか」
「そこが今
「へへへへ。八時の馬車はもう直ぐ、
「うん、だから、八時前に悶着をかたづけて置こう。ひとまず引き取ってくれ」
「へへへへ
「おい、行ってしまった」
「行くのは当り前さ。君が行け行けと
「ハハハありゃ
「何が弱ったんだい」
「何がって。僕はこう思ってたのさ。あの男が御者ですと云うだろう。すると僕が
「なるものか、そんな約束はしやしない」
「なに、したと
「勝手にかい」
「
「そんな訳になるかね」
「なると思って喜こんでたが、
「そりゃ当人が雇人だと主張するんだから仕方がないだろう」
「もし御者ですと云ったら、僕は
「何にも世話にならないのに、三十銭やる必要はない」
「だって君は
「よく知ってるね。――あの下女は単純で気に入ったんだもの。華族や金持ちより尊敬すべき資格がある」
「そら出た。華族や金持ちの出ない日はないね」
「いや、日に何遍云っても云い足りないくらい、毒々しくってずうずうしい者だよ」
「君がかい」
「なあに、華族や金持ちがさ」
「そうかな」
「
「成功しないのは当り前だ」
「すると、同じようなわるい事を
「言語道断だ」
「そんなものを成功させたら、社会はめちゃくちゃだ。おいそうだろう」
「社会はめちゃくちゃだ」
「我々が世の中に生活している第一の目的は、こう云う文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう」
「ある。うん。あるよ」
「あると思うなら、僕といっしょにやれ」
「うん。やる」
「きっとやるだろうね。いいか」
「きっとやる」
「そこでともかくも
「うん、ともかくも阿蘇へ登るがよかろう」
二人の頭の上では二百十一日の阿蘇が