【 NDLJP:6】
緒言
三河物語は、徳川氏の勲旧大久保彦左衛門忠教が、其の晩年、主家並に自家の経歴を叙して、子孫に示せるものなり。忠教は純忠至誠の士、真に三河武士の典型と称せらる。此の書また悉く其の肺肝より出でたるものにして、熱誠紙上に溢る。特に行文朴実、最も当時の情態を想見するに足れり。たゞ書中難字渋句多きが上に、方言俚語交錯して、頗る通じ易からざるものあり。今其の難字の甚しきものに限りてこれを改め、渋句のわきがたきものにのみ漢字を填めて、いさゝか通読に便せり。されども他の当字、借字、仮名遣、語格等は、大方私意を加へずして、原本の体裁を伝ふることに力めたり。
大正元年八月一日
古谷知新識
目次
【 NDLJP:66】
三河物語序
我老人之事なれば、
夕さりを
知らず。然
解只今之時分者、御主様も御普代之御内之者の筋をも、一円に無御存知、猶又御普代之衆も、御普代久敷筋目もしらず、三河者ならば、
皆易に御普代之者と思召ける間、其立訳をも子供がしる間敷事なれば書置成。此書物を
公界へ出す物ならば、御普代衆忠
節之筋目、又は
走り
旋りの事をも、能
穿鑿して可
㆑書が、も、能穿鑿して可書が、是者我子供に我筋をしらせんために書置事なれば、他人之事をば書ず。其に寄而門外不出と云なり。各も家家の御忠霞又は
走り
旋りの筋目、又は御普代之筋目之事書しるして、子供達得御
譲可
㆑被
㆑成候。我等も我一類の事を、如此書而子供
【 NDLJP:67】に渡す、夢々門外不出可有成。以上。
【 NDLJP:67】
三河物語
第一上
それ
迷の
前の
是非は、
是ともに
非なり。夢之内の有無者、有無共無也。我等身の
識あれば、有かはあだなり。夢の浮世と何を
寤と可
㆑定。されば
刹那の栄華も心をのぶることわりを思へば、
無為の
快楽に同。爰に相国家康之御由来を申立るに、
其日本安芸津島は、是国常立の
尊より
起り
埿瓊沙瓊男神女神を
初として、伊弉諾伊弉冊の尊、以上天神七代にてわたらせ給ふ。又
天照御神より、鵜之羽ふきあはせずのみこと迄、以上地神五代にて、おほくの
星霜を
送り給ふ。然るに
神武天王と申奉るは、ふきあはせず之第四のみことにて、一天之主百王にも
初として天下を
排給ひしよう此方、国主をかたぶけ、万民の
恐斗事、文武之二道にしくはなし。
好文の
族を寵愛しられずとは、誰か万機の
政を
扶、又
勇敢之
輩を寵賞せられずんば、いかでか
慈悲之
乱鎮めん。
故唐大宗文皇帝は、
疵を
畷い
戦士を賞じ、
漢之
高祖は三尺之
剣をたいし諸侯をせいし給ひき。然間本朝にも中頃寄源平両
氏を定おかれし寄此方、武畧を振舞
朝家を
守護し、
互に
名将之名をあらはすによつて、諸国の狼藉をしづめ、
既に四百余
廻之年月を送り
畢。是清和の後胤、桓武のるたひなり。しかりとは
云共、王氏を出而人臣につら
【 NDLJP:68】なりて、矢鏃を嚙み、
戣先を
著心指取々成。
抑源氏といつぱ、桓武天皇寄四代之王子、田村之
帝と申きは、文徳天王とも申、王子二人おはします。第一を
惟喬之親王と申。御門此御子をば、殊に御心指ふかく思召而
春宮にも立て、御位をも譲り奉らばやと思召しける。第二之御子をば
惟仁之親王と申きは、未いとけなくおはします。御母は
染殿の関白忠仁
公の御
娘成ければ、一門くわうきよ
卿相雲客ともに寵愛奉り、是も又
黙止難く思召ける。かれは兄弟相分の器量
也。是は
万機無為之しんさうなり。是をそむきて宝祚を授くる物ならば、w
用捨私有而、臣下唇を翻すべし。すべて競馬を
乗せ
勝負によつて、御
位をゆづり奉るべしとて、天安二年三月二日、二人の御子を引供し奉り、右近之馬場へ行幸成。月卿雲客花之
袂を
�、玉之裳をつらね、右近之馬場へ
供奉せらる。此事稀代盛事天下之ふしぎとぞみえし。御子達も
春宮之ふしん是にありとぞ思召れける。さればさま
〴〵の御
祈ども有けり。
惟喬之親王の御
祈之師には、柿之本之き僧正
真済とて、東寺之行者、弘法大師の御弟子成。
惟仁之親王の御祈之師には、
若山之
住侶慧亮和尚とて、慈覚大師の御弟子にて、たつとき
聖人にてわたらせ給ひける。
西塔平等房にて大威徳の
法をぞおこなひ給ひける。
既競馬十番をきはに定られしに、惟喬の御方に、つづけて四
番勝給ひけり。
惟仁之御方へ心を
侘人汗をにぎる。心をくだきて
祈念せられけり。さるあひだ右近の馬場寄も、天台山平
等房之
壇所へ
使之
馳沓事、
但くしを引がごとし。
既御味方こそ四番つゞけて
負ぬと申ければ、慧亮心
憂くおもはれて、絵像の大威徳を倒に懸け奉り、三尺之
土牛を北むきに立て
祈られけるに、
土牛躍りて西むきになれば、南に取而おしむけ、東にむけば北に取而
押なをし、肝胆くだきて揉まれしが、猶すゑかねて独鈷をもつて身づからなづきを突き砕き、なふを取而
芥子にまぜ、炉に打くべ
烟を立、一揉もみ給ひければ、土牛
哮りてこゑをあぐ。ゑざうの太いとく利劔をささげてふり給ひければ、所願
成就してんげりと、御心をのべ給ふ所に、御
味方こそ六
番つゞけて
勝給へと、御
使趙付にける。
有難瑞相ども詞に云もおろか成。されば
惟仁之
親王御
位に
定春宮に立給ひけり。是によつて
延暦寺之大衆の詮義にも、ゑりやう
頂をくだきしかば、
次帝位に付、そんいけんをふり給へば、くわんせうれいをたれ給ふとぞ申ける。是に
仍惟高之御
持僧しんせい僧正、思ひ
死にぞうせ給ひける、無念成し事ぞかし。御子も
都へ御無
㆑帰して、比叡の山のふもと小野と云所にとぢこもらせ給ひける。比は神無月之すゑつ方雪げのそらの嵐さゑ、しぐるゝ雲のたゑまなく、行かふ人もまれ成ける。
況哉小野の御ぢうりよ、思ひやられて
哀成。爰に宰相中将在原之業平、
昔の
契り
不㆑被㆑浅人成ければ、ふん
〳〵たる雪をふみわけ、
歎々御
跡を
尋奉り而見まいらせければ、まふとううつりきたつてかうやう嵐にたへ、とういんけんかきうとうしん
〳〵たるおり、人目も草もかれぬれば、山里いとゞさびしきに、
皆白庭のをも、跡ふみ
付る人もなし。折節御子は
端ちかく出させ給ひて、南殿の
御かうし三間あけさせて、
四方の山を覧めぐらし、げにや春は青く夏はしげり、秋はそめ冬は
落と云昭明太子の思召つらね、
香炉峯の雪をば
簾をかゝげて
見なんと、御口ずさみ渡らせ給ひけり。中将此
【 NDLJP:69】御有様を見奉るに、只夢の心地ぞせられける。近参而昔今の事供申承るに付而も、御衣の
袪しぼりもあえさせ給はず、
後鳥羽之
院之御遊行
形野の雪の御
鷹狩迄、思召出れて中将かくぞ申されける。
別れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみわけて君を見んとは
御子も取あへさせ給はで御返歌に、
夢かとも何か思はん世の中をそむかざりけん事のくやしき
かくて貞観四年に御出家渡らせ給ひしかば、小野の宮とも申ける、四品宮内卿供申けり。文徳天王御年三十にして御崩御なりしかば、第二の王子御年九歳にて御ゆづりをうけ給ふ、清和天王と申は此御事成。後には水之尾の帝とぞ申ける。王子あまたおはします。第一をば陽成院、第二をば帝こ親王、第三をば帝慶親王、第四をば帝法親王、此王子は御琵琶の上手にておはします。桂の親王とも申ける。心を懸らるゝ女は月の光を待兼、蛍を袪につゝむ。此御子の御事成、今之源氏の先祖是成。第五をば帝平親王、第六をば帝春親王と申、六孫王是成。されば彼親王の御子常元之親王の御嫡子、多田の新発意満伸、其御子摂津守頼光、次男大和守頼親、三男多田之法眼とて、山法師三塔一之悪僧成。四郎河内守頼信、其御子伊予之入道頼義、其ちやく子八幡太郎義家、其御子式部大輔義国等、新田大炊助義重迄、七代は皆諸国のちくぶに名をかけ、げいを将軍之きうはにほどこし、不㆑被㆑家々々にして四海を守、白波猶越たり。されば各争をつくすゆへに、互に朝敵と成而、源氏世を乱ば平氏勅宣を以是を制し、御恩に詫、平氏国を傾くれば、源氏詔命に任せて是を罰して勲功を極む。然るに近代は平氏ながく退散して源氏世に驕る。四海を静しより此方緑林えだをふく風音もならさゞりき。されば叡慮に背くせいよふは、色をおふけんの秋之霜にをかされ、てうそをみだすはくはうは、音を上絃之月にすます。是ひとへに羽林の威風代に超えたる故成。然るにせいしをひそめて都の外の乱を制し、私曲之争を止めて帰伏せざるはなかりけり。げにや八幡太郎義家寄御代々嫡々然共義貞の威勢に仍、それにしたがつて仁田之内徳川之郷中におはしまし給ふ故に寄而徳川殿と奉㆑申き。義貞高氏に打敗給ふ時、徳川を出させ給ひ而寄、中有の衆生之ごとく何と定給ふ処も無く、拾代斗も此方彼方と御るらう被成有かせ給ふ。徳の御代に時宗にならせ給ひて、御名を徳阿弥と奉申。西三河坂井之郷中得立被㆑寄給ひ而、御あしをやすめさせ給ふ。折節御徒然さのつれ〴〵に、いたらぬ者に御情を懸させ給へば、若君一人出来させ給ふ。然る処に松平之郷中に、太郎左衛門申而、国中一之有徳成人ありけるが、いか成御縁にか有やらん、太郎左衛門独姫之有りけるを、徳阿弥殿を婿に取、遺跡に立まゐらする。然る処に坂井之御子、後に御尋をはしまして御対面有時、尤御疑無㆑更、然りとは云ども人の一つせきを嗣ぐ故は、総領とは云がたし。家之子にせんと仰あつて、末の世迄おとなとならせ給ふ由、しかとの事はなけれ共申つたへに有り。偖又後には太郎左衛門親氏、御法名は即徳阿弥、何に況哉、弓矢を取而無㆓其計㆒、早山中拾七名を戮取せ給ふ。殊更御慈悲においては并無㆑人、民百姓乞食非人どもに至迄哀みをくは【 NDLJP:70】へさせ給ひ而、有時は鎌、くわ、銲、鉞などをもたせ給ひ而出させ給ひ、山中之事なれば道細くし石高し。木の枝之道ゑさしいで荷物に掛をばきり捨、木根之出たるをばほり捨、せばき道をばひろげ、出たる石をば掘捨、橋を懸道を作り人馬の安穏にと、昼夜御油断無御慈悲をあそばし給ふ。御内之衆に被仰けるは、我が先祖十時斗先に、高氏に居所をはらわれて、此方彼方と流浪して遂に本望をとぐる無㆑事。我又此国得まよひき而、今又すこし頭をもちあぐる事仏神三宝も御哀みも有か。我一命を跡拾代にさゝげ、此あたりをすこしづつも戮取而子供に渡す物被㆑成ば、代々に戮取々々する物ならば、先拾代之内にはかならず天下を治め、高氏先祖を絶やして本望を遂ぐるべきと被仰ければ、御内之衆一同に申上けるは、御先祖は只今社承候へ。其儀は兎も角も其儀にかまい不申、年月当君之御情雨山忘難在候儀を各々寄合中而も、別之儀を請不申、扨も〳〵御慈悲と申、又は御情此御恩の何として報じ可㆑上哉、只二つと無命を奉り、妻子けんぞくを𦖁ず中夜の摝にて、御恩をほうぜんと申成、親氏聞被㆑召而面々被申候事憐入而候。我面々に何をもつて慈悲供をぼゑず、又何をもつて情供おぼえざる。又何をもつ而面々に思ひつかれんともおぼえざるに、面々の左様に申さるゝは、分別に不㆑及ふしんに社あれと仰せければ、面々申上候。先御慈悲と申事は御存知なきや、あれに伺候申、五三人之面々は重罪の御咎を申上申者成を、妻子ともに火水の責に而責戮させられではかなはざる者を、妻子眷族ゆるしおかるゝのみならず、其身が一命迄御ゆるされ賸何ものごとく、御前得召被㆑出召つかわさるゝ御事は、是にすぎたる御慈悲何かは御座候はん哉。あの者ども一類女房供の一類の者供迄も、人寄先に一命をすてゝ御奉公申上候はんと存知定申たり。ましてあの者供は妻子の一命を被下御恩者未世、此御恩ほうじ上申候事此世に而成難。此御恩には燃㷄之中得も御奉公被㆑成ば飛入らんと、一心に思ひ定而罷有と申成。それのみならず、面々も心に入而摝申事、御祝着に思召るゝ凛か腆か昼夜供に骨折御身にあまり而思召るゝに、近参而膝を直し罷有との御情は、雨山御忝身に余り存知候と申上候へば、御ことばも不㆑被㆑出御涕をおさへさせ給へば、面々愈涕をながし御前を罷立、申つるごとく雨露雪霜にもいとはず、夜はかせぎ、かまり、ひるは此方彼方のはたらき昼夜身を拾而御ほうかう申上申に付而、あたりをきりとらせ給うて、御太郎左衛門尉秦親え御代を御譲り給ふ。
太郎左衛門尉泰親、御法名用金、是も御父におとらせ給はざりし、弓矢取と申し、御慈悲、中々申つくしがたし。然る所に、大臣殿、勅勘をかうむらせ給ひ而、三河之国ゑ流罪ならせ給ふ。然りとは申せども、無㆑程御赦免ならせ給ひ而、御帰京とぞ申ける。其時国中におひて、大小人に不㆑寄、名之有侍に、御供申せと有し時、国中をさがさせ給へども、源氏之ちやく〳〵にてわたらせ給へば、是にましたる、ぞくしやうなし。其儀ならば、泰親御供あれと被仰而、御供を社被成けり。其寄して、三河之国ゑの、御綸旨には、徳川泰親と被下給ふに仍、早国中之侍も、民、百姓にいたる迄も、恐れをなさゞる者はなし。然る間、松平之郷中を出させ給ひ而、岩津に城を取せ給ひ而、御居城として、住【 NDLJP:71】ませ給ふ。其後岡崎に城を取給ひ而、次男にゆづらせ給ふ。岩津をば、和泉守信光に御代渡させ給ふ。和泉守信光、御法名月堂、御代々御慈悲之儀は申に不㆑及、弓矢を取せ給ふ事并者無。凡西三河之内三ヶ一は戮随給ふ。おぎう、ほつきうを責被㆑取給ひ而、岩津之城をば、御そうりやうしきへ渡させ給ふ成。おぎうの城をば、次男源次郎殿に御譲り有。其後に安祥之城を思召被㆑懸而、伎踊をいかにもいかにも、きらびやかにしたてさせ給ひ而、路地を通るふりをして、安祥寄拾四五町程へだてゝ西の野ゑ打上而、無㆑何、かね、太鼓、笛、つゞみにて打はやし、爰をせんどと、をどりければ何かわしらず、西の野にて社、をどるをどり社、法楽にをどる成、いざや出而見物せんとて城も町も打明而、男女供に、不㆑被㆑残、我先にと出ける間、案の内成とて、我も〳〵と乱入、其儘付入にして、城を被㆑取給而〈[#返り点「レ」は底本では「二」]〉、三男次郎三郎親忠に御ゆづり有。
次郎三郎親忠、後には右京亮親忠と奉申。御法名、清仲、安祥にうつらせ給ふ。何れも御代々、御慈悲と申、御武辺をもつて、次第々々に御代も隆させ給ふ。御内之衆、又は民百姓、こつじき、非人に、いたる迄、御情を御懸させられ給ふ事、大小供に涙を流しかんじ入斗成。然る間、何事もあるときは、百姓供迄、箶鑓をもつて出、一命を捨而たゝかい、御ほうかうにする成。然間ましてや況、普代相伝の衆なれば、妻子を顧ず一命を捨而ふせぎ戦によつ而、次第々々に御手も広がる成。是と申も、御武辺と御情御慈悲と能御普代をもたせられ候故に無㆑恙、取広させ給ひ而、安祥を長親ゑゆづり給ふ。
次郎三郎長親、後々は蔵人頭長親御法名道悦、何れも御代々御慈悲御武辺、殊更すぐれさせ給ふ事、何れをわくべきにはあらねども、御命をしらせられざる御事其たぐひなし。爰に伊豆之早雲新九郎たりし時に、駿河之国今河殿へ名代として、駿河、遠江、東三河、三ヶ国之皉を促して、一万余にて、西三河へ出る。新九郎は吉田に着、先手は下地之御位小坂井に陣を取、明ければ御油、赤坂、長�、山中、藤河を打過而庄田に本陣を取ば、先手は大平河を前にあて、岡大平に陣を取。明けれ者、大平河を打越念し原ゑ押上、岡崎之城をば、にれんぎ、𤚩久保、伊名、西之郡衆を、押に置鍪山を押而とをり、伊田之郷を行過而大樹寺に本陣を取ば諸勢は岩津之城へ押寄、四方鉄砲はなちかけ、天地をひゞかせときのこゑをあげ而、をめきさけぶとは申せども、岩津殿と申は弓矢を取而無㆓其隠㆒御方なれば、少も御動転なく譟がせ給はず。其故度々の高名、名をあらはしたる者供をもたせ給ゑば、彼が出而中々敵をあたりゑ寄付事思ひ不㆑寄はたらきければ、新九郎を初諸勢供も、もてあつかいたふぜい成、然る処に長親者、侍供を召寄面面聞かとよ。北条新九郎岩津へ押寄、天地をひゞかせたゝかうと見。其弓矢を取者の習には、敵不勢味方は多勢成供すまじき陣も有。何況哉、敵者多勢味方は不勢成供、せでかなはざる陣も有、此度之儀者敵多勢供成供せずしてかなはざる陣成。我娑婆之露命今日が限ぞ面々何と思ふぞ。各々一同に申上候。如仰何に敵不勢成と申とも、すまじき陣を被成んと被仰候はゞ、兎角に面々供が晋み申間敷、何敵多勢成と申供、被成候はでかなはざる陣においては兎角被成候ゑと可申上。況哉此度之御合戦被成【 NDLJP:72】候はで、かなはざる陣成。時刻うつさせ給ひては譡間敷、日比之御情殊更御普代之御主之御一大事と申、是非供に妻子を不㆓帰児㆒、御馬之先に而戮死に仕て、死出三津之御供社弓矢を取而の而目にて候ゑと申上ければ、長親御涙を流させ給ひて、我少身なれば普代久敷者と云どもかいがはしきあてがいもゑせざるに、普代之主之用に立妻子な不㆓帰見㆒、無㆑恩主に一命をくれんと勇事は有難さよ。一万余有所へ雑兵五百之内外にて陣をせん事は、蟷螂が鉞をにぎるがごとし。更ば今生之暇乞に酒出せと仰有り而、広物に酒を入而出るを、御筩に一つ請させ給ひ、面々に盃を指度は思ゑども、時刻之のぶる間盃と思ゑとて広き物の酒ゑ御盃之酒を入させ給ゑば、思ひ〳〵に是をいたゞき、御前を罷立𠆻けり。長親わづか雑兵五百余の内外にて、安祥之城を出させ給ひ、くはご、つゝばり、や羽ぎゑあがり、河崎を押上而、矢矧河を越させ給ふを、北条之新九郎聞而さらば備を出せ陣をせん。殊更敵は少勢成と盺。謳さけびて段々に出る。東三河衆、牛久保之牧野、にれん木之戸田、西之郡之鵜殿、作手之奥平、段嶺之蒯沼、長間之蒯沼、野田の蒯沼、設楽、す瀬、西郷、伊名之本田、吉田衆、遠江衆には宇豆山、浜名、堀江、伊野谷、奥野山、乾、二俣、浜松、蚖堬、原河、久野、懸河、蔵見、西郷、角笹、天方、堀越、見蔵、無笠、鷺坂、森、高天神、蠅原衆、其外小侍供、又は駿河衆、三浦、朝伊名、瀬名、岡部、山田、其外は北条之新九郎を旗本として、何れも〳〵我をとらじと、先陣之あらそひ、段々にそないを立、とうらうが鉞とかや、いさみにいさんで事供思はず、長親者何にも心をしづめさせ給ひて、逸物之犬の虎をねらふがごとくに、大軍をにらめさせ給ひ而、静々と係せ給ふ。味方之兵どもも度々事に相付たる者どもなれば、敵方寄嵩を懸て、争供洞天するな。小軍が大軍にかさを被㆑懸それに寎而武ば物前に而勢がぬくる者成。敵は�ば諫何にも心を大事として心に成、胸の内には一足無間と念じて、�てついてかゝる事なかれ、位詰めにしてつきくづせ、然る時者敵方寄、小勢と思ひ下目に懸て鑓を可㆑入、そこにて一足無間と心得而、立処をさらずして、じり〳〵と根強くつき可㆑入、そこをはつしとこたゑなば、かさを懸たる敵はかならずまはすべし。敵坎とてもをうべからずして洞天なく、丸く成而二の手を待而二の手もくづれたりとも、旗本又は後そないのくづれざる内何度敵くづるるとも乱ずしてかたまれ、小勢はかたまりて中を戮通れと云而かゝる。案のごとく敵方寄突いてかゝるを、一二の手迄戮くづせば、又入替而かゝるを折しきて待懸而、引請而突きくづせば、胠寄又入帰而かゝるを待請而ついてかゝりてつきくづせば、新九郎旗本迄迯げかゝる。然る間夜陣に成敵味方をみわけずして震動する。其儘押懸給はゞ新九郎も敗軍可㆑有けれども、軍兵とも早せいきがきれて、何としてもつかれたる故、其を引のけ矢萩川を前にあてゝ御旗を立給ふ。合戦之場は河むかい新九郎陣場之下なれば、夜明而新九郎方寄、今夜之合戦者し場を取たる間、此方之勝と云而よばわる。然る処に田原之戸田申けるは、駿河を頼而者上下も六ヶ数き長親と申合而、駿河と手ぎれをせんと申を、新九郎其を聞而、我は西之郡之城普請をみて、させて頓而帰んとて、馬まはりの者計引つれて出けるが、【 NDLJP:73】西之郡へは行ずして、すぐに吉田得引入。諸勢者是を聞、跡寄足々にして吉田へ引く。其寄新九郎西三河ゑ出る事不㆑成、長親は安祥へ引入給ふ。其後は猶以国中の者ども異儀には不㆑及、扨又次男内前殿には桜井之城を参せられ、三男新太郎殿には青野の城を参せられ、松平勘四郎殿には藤井を参せられ給ふ。同右京殿にはふつかまと東ばたを参せられ給ふ。信忠へ安祥を御譲給ひ而、ほど無御遠行成。次郎三郎信忠、後には左京亮信忠御法名太香、此君何れの御代にも相替らせ給ひ而、ほど御慈悲之御心も無、まして御情がましき御事も御座ず。御せへんもぬるくをはしまして、御内之衆にも御詞懸も無をわしませば、御内之衆も又は民百姓にいたる迄も、怕慴きて思ひ付者も無。然る間早御一門之衆も我々に成而、したがい給ふかたもをわしまさず。ましてや国侍供も、我々に成而したがい申者も無。然る間逍わづかの安祥計をもたせ給ふ。然る間とても此君之御代をつがせられ給ふ事成難。其儀に而も有ならば、長親之御子は何れも同事成。長親ゑ御ほうかうの筋目は、何れと申も同然にさふらゑば、次男に而をわしませば、内前殿を御代に立申、信忠をば胠に置申さんと云人多し。此中に信忠を捨難思ふ衆の申ける者、又各之仰尤成、然とは雖長親寄も、内前殿ゑは桜井を被遣人をもわけて被遣給ふ。信忠卿者御総領式にて御座あれば、安祥を譲せられ給ふ。其故人をも方々達を初、度々のはしりめぐりの衆を多付させ給ふ事者別之儀ならず。君之御不器用ならば各守り立申せとの儀成。君之御ぶきやうにて各を初申、我々迄もふの悪き事なれども、長親之御見あてがいのごとくにも被成、此君を御主と仰ぎ奉り給へと申衆も有。いや〳〵長親之御前をそむく物ならば、御主之御命を背て七逆罪の咎をかうむり、無間にも堕つべきが、是は各も御分別あれ、此御家と申は、第一御武辺、第二に御内之衆に御情御詞の御念頃、第三に御慈悲、是三つをもつてつゞきたる御家なれども、三つ之物が一つとして不㆑調。左様にも候ば、とても御家者立間数、然る時んは長親御跡は、此君之御代につぶれて、他之手に渡申事目之前成。我も人も子をもつ事者、大身少身供に道前成。そうれうが倥侗て跡を嗣間敷と見ては、弟が利発なれば弟に跡を次するは習成。長親も左様に思召べき。内前殿も次男なれども御子成、其故此御跡御代々之引付、三つの物一つもはづれさせ給はず、長親之御跡者立而ゆく故者、兎角内前殿を御代に立まゐらせんと云、尤此君之御代を次せられ間敷と、各々の仰尤道理成。我我も左様に者存知候。しかしながら、か様に無㆑情も御主に取あたり申も前々の因果成。又我々の親達之長親之様成御主に取あたり申而、御情をかうむられ申も前々の果報成。然りとは申せども御普代久敷御主を取替而、藪之側にすませ申を見事も成間敷ければ、其時御有様をみまいらせて、袖に而涙を押拭いて通るならば、その普代之主をそれに取替たる者どもよとて、人之観処は扨をきぬ、我心に𢦪も可㆑有、其を思ゑば是非も無御供中而腹を戮迄、各々者互之心々にし給ゑ。各之長親之御跡之、つぶれざる様に内前殿を御代に立申さんとの給ふも、長親のため成。又我等供が御供申而腹を戮と申も長親之御ため成。我等どもがか様に申をも、信忠者何とも思召者有間敷けれども、普代之御主なれば一【 NDLJP:74】命をまいらする事は、露塵惜からず。偖も〳〵御いたわしや、御不器用成故、各か様に思ひたゝれ申と思得ば、一入いたはり入まいらせ候。早御家も二つにわれ申由を信忠も聞召て、其中に頭取之族を御手討に被成ければ、目出度御事かな御気の付せ給ふと云者も有り。いや〳〵何としても御代者次せられ難きと申者計多し。然間信忠之仰には、何としても一門を初又は小侍どもに届迄も、我に思ひ付ぬと覩たり。其を何と云に一門之者も遠立而出仕も無、小侍どもさゑ出仕をせず。賸普代の者迄我を嫌うと覩ければ、さらば隠居して次郎三郎に譲と仰有而、次男九郎豆殿に械の郷を譲せ給ふ。三男十郎三郎殿に見次之郷を譲せ給ふ。次男三郎清康得御代を渡させ給ひ而、信忠者大浜之郷へ御隠居成。次郎三郎清康御法名道法、十三之御年御世に渡らせ給ひし寄此方、諸国迄人之賸申事唯事不㆑被㆑成。去程に此君者御脊矮くして、御眼之内くならてうのごとし。只打をろしのこたか寄も猶も見事にして、御図并人無。殊に弓矢之道に上越人も無、御やさしくして、大小人を隔て給はで、御慈悲をあそばし御情を懸させられ給ふ。去程に御内之衆も一心に思ひ付、此君には妻子を帰り見ず一命を捨而屍を土上にさらし、山野の獣物に引ちらさるゝとても何かは惜しからんや。此御跡六代の君、何れも御武辺並に御慈悲同御情をもつて、次第々々につのらせ給ふと云ども御六代に勝させ給得ば、天下を納させ給はん御事目の前成。去程に御膳の上時分、各々出仕をする処に、御しるしの御でうぎを打あけさせ給ひ而、指出させ給ひ、面々是に而酒を被下よと仰ける。各々頭を地に付而謹ん而伺候申す。何とて被下ぬぞ、とく〳〵との御意なれども、別の御酒盃供思はず御主の御めしのでうぎなれば、誰かは可被下哉と思ひ而、猶もひれふすを御覧じて、面々何とて被下ぬぞ、過去之生性能ば主と成、過去之生性悪しければ内之者と成、侍に上下者無物成、謙に早く被下よと御意之下故、余り御辞退申帰而悪かりなんと存知、畏つて召出しに罷出る。其時包笑給ひ而、老若ともに不㆑ら㆑残罷出、三つづつ被下よと御意なれば、余り目出度忝さに、下戸も上戸も押なべて三ばいづつほして罷立、道にて物語をする様は、只今之御ぢやうぎの御酒盃並に御情之御詞を、何程の金銀米銭を知行に相そゑ、宝物を山程被下たると申すとも、此御情には替難。只今之御酒盃之御酒者何と思召候哉。御方々又は我等供之頭の血成。此御情には妻子を帰覩ず、御馬の先に而討死をして、御恩之報ぜん事今生之面目、冥土の思出可㆑成と申、各一同に尤成と悦。又或時御能のありける時、清康者縁之上にて御見物被成候。内前殿を初、各々御一門其外者白洲に畳をしきて見物有。然処に内前殿御座敷に有、御前衆御出無内にをもはずしらずに、畳の端に腰を懸けるを遠寄も御覧じて、我座敷に腰を懸る者は、何者ぞおろせと仰けり。御使参り而、内前はをりさせ給へと申。莅をりさせ給へと申せば、尤内前様之御座敷に何とて上申さん哉。をもはずしらずに、心不㆑ら㆑成たゝみのへりに腰之懸り申成。御意無供見懸申ばおり可申処に畏御座候と申処ゑ、重而御使参而申、早々おりさせ給ゑ、おりさせ給はずばおろし申せと申被付たり。急おりさせ給ゑと申せば、彼人申、迷惑成重て御使をり申間敷と申さば社、畏御座候と申上候【 NDLJP:75】処へ、か様之儀迷惑仕候。然共上之御目之御前、又は諸傍輩之所思か様に御使を頻請申、一人罷立も後もさび敷存知候ゑて赤面仕、左様にも御座候はゞ、恐には御座候ゑ共、御結縁思召而、内前様も御立被成候得、御供申可罷立、たとゑば頭は刎らるゝとも、我等一人者罷立間敷とときつて、御能の過迄終不㆑立。然る処に御のうの過而、各々罷立処に彼者に御城得罷可㆑上由御使立、諸傍輩も定而御成敗も可㆑有と申、其身者勿論思ひ定而有処へ、御使有ければ如㆓存知㆒なれば、驚に不及、畏御使と打つれて御城ゑ参。清康御覧じて汝等供は久敷普代之者なれば、此先々の一類も多討死をして、信光、親忠、長親寄此方勲功を尽したる者のすゑ〳〵、殊更汝等も度々の走りめぐり其名をえたりと云ども、我又少身なれば、かいがわしきあてがいもせざれども、普代なれば我ために一命を捨而、はしりめぐりをする。か様に思ひ入たる普代之者を持たる故に、日本国がうごきて拾万廿万騎に而倚供、五百三百に而も戮而懸と思ひしは、かれらを持たる故成。普代之者を置而、当座の侍を二万三万持たればとて、其に而多勢ゑ懸りて利をなさん事思ひも不㆑寄。然間汝等を初普代之者一人をば、か程少身なれ供神八幡も御照覧あれ、一郡にはかゑ間敷。汝等どもがごとくの者を持たる故に、我又年にもたらずして、其故少身にして拾二三に成而天下を心懸一陣せん事、汝供を頼成しに内前殿父げ無汝をふみつぶさんとし給ふ。内前殿儀ならばはしりめぐりの者供には、情をも懸給而、我等が用にも立様にと被成候て給而社者本意なれ。却而か様にはしりめぐりの者を無被成れんとの充行は、去とは父げ無あてがいに社あれ。汝度々のはしりめぐりにはあてがいせざれども、今日座敷を立ならば惜者にはあれども、是非供兄弟一るいを成敗せんと思ひ定而、今立か〳〵としり目に懸て覩あれば、されども能立去、汝には地かた四貫出しつるが、今日能立候去褒美に五貫かさねて九貫にしてとらするぞとて被下けり。是を聞、国中之大小之侍どもの申は、異国者しらず、本朝には御慈悲と云御情と云御武辺と云、清康にましたる御主は難㆑有と云。
然処に岡崎之城をば於平弾正左衛門督殿持せられ給ふ。同山中之城をも、弾正左衛門督殿寄持たるを、大久保七郎右衛門てうぎをもつて忍び取に取せ給ふ。其褒美を�と御意なれども、上様御少身なれば知行可㆑被㆑下との�も無御座候。御普代之御主なれば御忠節者申成。年者罷寄成、新八郎、甚四郎、弥三郎、兄弟三人之子供者、其身にしたがいて御知行をば被㆓下置㆒成。何の�無㆓御座㆒と申上げれば、重而何を�申せと御諚有りければ、年寄之候何を指而莅可申哉。然者御分国之内の市之升を被下候ゑ、升取を申付而置申物ならば、我等之すぎあいほどの儀者御座可㆑有、別之莅も御座無と申上ければ、其儀安申分成とて被下けり。扨其後岡崎を取んと被成ければ、弾正左衛門督殿も、とても成間敷と思召れ、其儀ならば清康を婿に取而、岡崎を婿一せきに渡させ給ひけり。其儀に寄而御家に而三御普代と申儀は、安祥御普代、山中御普代、岡崎御普代と申成。安祥御普代と申者、信光、親忠、信忠、清康、広忠迄、此方召つかはれ申御普代成。山中御普代、岡崎御普代と申す者、清康之御拾四五之時切取せ給【 NDLJP:76】ひし処の衆成。案祥の儀は不㆑及㆑申、安祥寄山中を先切取せ給故に、山中をも御本領とは被㆑仰候成。其後に清康の仰には未出仕をせざる一門、又は国侍ども之方ゑ仰つかはされける者、信忠隠居有而我に代を譲せ給ふに付、纔五百三百之普代之者計にて、あたりまはりを切付而、大方一門も出仕をする、其外之者ども出仕をすれども、其方など者一円に構も無、有事者不㆓心得㆒早々出仕をせよ。然ども存分も有而出仕をすまじきにをいては、存分次第此返事に寄而押懸而存分によつてふみつぶすべしと仰つかわしけれ者、信忠に偭奉り其故身を引に、今御出仕遅なはり奉る成。右の御意趣を打被㆑拾御徐可被下候ゑ。清康ゑ何と而違背可㆓申上㆒哉。今日罷越出仕可㆑仕と申而、出仕之方も有、又は信忠に偭申候条、只今も清康へ出仕之事、思ひも不㆑寄と申処ゑ者、押寄給ひ而ふみつぶさせ給ひ而、手あらく被㆑成候得者、残所の衆者手を合降人となれば、御慈悲に而寛せ給ふ。御拾三にして御代を請取せ給ひし寄、御内之衆に哀見御情申つくしがたし、其に寄而一入怕懼れけり。御武辺武渡せ給ふ故、一しほ御慈悲を被成、御哀み御情を懸させ給ひ而、人一人にもふそくを持せ給ず、御面目をうしなわせ給ず。況や追い払い御成敗と申事も無人を惜せ給ひけり。是と申も御代々久敷者なれば、いたづらに人をうしなはん寄、我馬之先に而打死をさせ、御用に立させられんと思召入たり。拾三拾四にして纔少之安祥之小城を請取せ給ひ、纔五百三百之人数に而御年にもたらせ給で、早西三河を切取せ給ふ。是と申も第一御武辺武故成。第二には君を大切に思ひ奉る、御普代を持せ給ふ故成。何に能御普代を持せ給ふとも君之心二にして、御慈悲も無、御情も無、御哀みも無者成難。又は君之御心武渡せ給ふとも、御普代衆君を一心に御たいせつに思ひ入不㆑申して摝事鈍く候はゞ、何に思召とも成難。清康と申者御武辺第一、樊噲張良をもあざむき、御慈悲、御情、御哀みふかうして、御内衆も御代々久敷御普代と申、思ひ付申而君には妻子を帰見ず、一命を捨而㷄水の中ゑも飛入、是非ともに御用に立而御馬之先に而打死をすべし。たとゑ拾万廿万有と云とも、五百三百之者ども君を中に取つゝみまん中ゑ戮而入、四方八面切而廻らば、何かはためん哉。御年拾九の時尾島之城を取せ給ふ。廿斗之時尾張之国へ御手を懸させ給ひ而、岩崎しな野と云郷を切取給ひ而、しなのゝ郷をば松平内前殿へつかはさる。其寄うりの熊谷が城ゑ御働成、早其時者西三河之人数八千有。拾五六手に作段々におさせられ、岡崎を打出させ給ひ而、やわたに御陣を取せ給ひ而、明ければうり寄一二里へだたり而、御陣を取せ給ひ而、明ければ段々におさせられ、熊谷が城へ押寄給ひ而、放火して大手ゑ者松平内前殿、同右京殿、其外御一門の衆寄させ給ふ。御旗本はからめ手上のかさゑ押上させ給、天地を響かせ四方鉄砲打こみ鬨をあげさせ給ふ。熊谷も去弓取なれば、事ともせずして大手へ切而出る。松平右京殿と申者、御一門之中にも勝たる弓取、又は他人にも右京殿の上こす者は無。然間一足去らず戈かはせ給ふ所に良且戈給ふが、多之疵をかうむり、場もさらずして主従十二三人討死をし給ふ。松平右京殿と申者、武辺第一と申一度も逆心之無人なれば、清康も事之外惜せ給ひて、御落涙中々申つくしがたし。其時内前殿弐させ給【 NDLJP:77】はゞ、右京殿討死は有間敷に、内前殿一円弐させ給はず。清康者からめ手の山寄見下させ給ひ、内膳は何と而弐ざると而御拳を握らせ給ひ、御眼を見出し御顔をあらめ、�を被成白泡を䶦給ひ而、突立て眦而泚を滂給ふ御有様、瘴神天満鬼神も面を可㆑合様も無。余りに御勢にするかねさせ給ひ而、内前殿を召れて、只今右京仕合に付、弐られずしてかなはざる所を、よそにみ而国にも替間敷右京をば討せ給ふ哉、さりとは貴方之弐させられでかなはざる処をよそに見て、国にも替間敷右京をば打せ給ふ哉。去とは貴方之弐させられではかなはざる処成を、よそに見所にはあらず。明日にも御覧ぜよ。弓矢八幡天道大𦬇も御照覧あれ。我等が手前において、一門の者を打せては見間敷と仰けり。内前殿も異儀に不㆑及赤面してをはします。内前殿は生ての羞、右京殿者に今初の事なれども死ての面目名を上給ふ。儅又各々申ける者、此君者御慈悲御情御哀みふかき君なれども日頃の御悲慈、御情、御哀みはか様之時打死をさすべき御ために、日頃御ふびんをくはへさせ給ふ成。只我人命を捨て摝給へ。か様にうつくしく俰にあたらせ給ふ君の伯父親に而まします。内前殿へ被㆑仰にくき事を、儅も〳〵荒々と手ぎつく被仰候物かなと、各々舌を捲き興醒めて社ゐたり。思ゑば此君者人間に替たるとぞ申けり。弓矢の道におそらくは、異国者しらず本朝にはあらじ。扨又東三河をば牧野伝蔵が持、清康東三河へ御働とて段々にそなへ、岡崎を打出させ給ひ而押られ給ふ。岡崎を立而赤坂に御陣を取せ給へば、先手者御油かうに陣を取、明ければ赤坂を打立たせ給ひ而、小坂井に御籏が立。先手は押おろして、下地の御油を放火する。吉田之城寄是をみて、少国を二人して持而何かせん、今日実否の合戦して東三河を清康ゑ付物か西三河を我取物か、実否の合戦爰成とて、大舟小舟に而吉田河を打越舟を置ならば、味方の心も未練出来かせんとて、舟をば突流而懸。清康是を御覧じて、小坂寄御籏を押おろさせ給ひ而打向給ふ。伝蔵も下地へ押上、清康は下地之塘へ押上んとす。両方塘之両之腹に芝付而半日𣂉互之念仏之声斗して、大事に思ひ而、しん〳〵と心をしづめて居たり。伝蔵、伝次、新次、新蔵、兄弟四人一つ処に西之方にぞ居たりけり。清康と内前は両陣に群がつて、東西をかけまはり、敵の中へかけ入〳〵ざいを取給ふ。然る所に御馬まわりの衆はしり寄而、ゆはれざる大将之敵之中へかけいらせ給ふとて、御馬の水付に取付ければ、あやかりめはなせとて采配を取なほし給ひ而、脥を打御腰物に御手を懸させ給ひ、はなさずば成敗せんと仰ける所へ、内前殿かけよせ給ひ而何物ぞあやかり、はなせ放して打死をさせよ。大将をばかばう処が有物ぞ、大将をかばいても軍兵が負ば、大将ともに打死をするぞ。軍兵が勝ば大将も生るぞ、はなして下知をさせて打死をさせよと仰ければ放しけり。去程に内前は敵味方に見しられんため、鋹をぬいでとつてからりと捨、清康と内前と敵之中得懸入々々げぢをなし給ゑば、何れも是にいきほひて塘へ懸上、鑓を互になげ入る寄其儘つきくづして河へ追はめけり。伝蔵兄弟四人是を見突つ立ければ、何れも負じと立而鑓をなげ入ければ清康方負にけり。然ども清康之御旗本が勝而吉田河へおいはめ候故、清康と内前跡寄懸らせ給へばな【 NDLJP:78】じかはたまるべき哉、伝蔵、伝次、新次、新蔵、兄弟四人を討取る。吉田之城に者女房ども出て見而下地をふうするに、出而見よとてこんがうをはきて出て、塀寄見越而見る。清康者思之儘に合戦に打勝而、吉田河之上之瀬へまはりて河を騎越、吉田之城へ即責入給ゑば、女房どもはこんがうをはきて田原へ落行。清康者吉田に一日之御とうりう被㆑成、明ければ吉田を打出させ給ひ而、段々に備を押田原へ押寄させ給ひければ、戸田も降参を乞いければ寛給ふ。田原に三日之御陣之取給ひ而、明ければ又吉田へ押もどさせ給ひ而、吉田に十日御とうりう之内に、山家三方、作手、長間、段嶺、野田、牛久保、設楽、西郷、二れん木、伊名、西之郡、何れも〳〵降参を乞いければ寛給ひ而出仕する。明ければ吉田を御立有りて岡崎ゑ着せ給ふ。其寄して案祥之三郎殿と申奉り而、諸国に而人之沙汰するは清康之御事成。然間早甲斐の国の信虎寄も仰合らるゝと、使者をつかはさるゝ。是をきゝて近国寄使者之有りけり。美濃三人衆者早御馬を寄られ候ゑ、御手を取り申さんと申せしところに、尾張之国森山御手を取申故、美濃へ御心懸有而、森山之御陣とて一万余に而岡崎を立給ひ、御一門之衆先手として、段々にそなへて押せられ、其日者岩崎に御陣を取、明ければ森山に御着有而、御陣をはらせ給ひけり。其寄して美濃三人衆ゑも、是迄御出陣之由仰つかはさる。小田之弾正之忠は清須に有と云とも此方彼方打ちらして放火せしめ給ふ。美濃三人衆も悦而頓而数の俣を打越而打むかひ中、御対面可㆑仕と申越其支度有処に、松平内前殿はうり之熊谷が処ゑ御、働之時、松平右京殿ゑ弐させ給はざるとて、荒々としたる御詞を意趣に籠め、其耳弄清康御手をくだき給ひ而、西三河をたいらげさせ給ひ、東三河の牧野伝蔵を打取、一国をかため給ひしかば、小田之弾正之忠にせりとゞめさせて、岡崎を安々と取物ならば、三河之国者我等が物と思ひ定而、上野の城に居而、虚病をかまひて今度の御供者無。上野の城に御入有而、其寄信長之御父、小田之弾正之忠と仰合られて別心と申而、森山ゑつげ来。清康聞召て、内膳別心をしてあればとて、何程のかうをなすべきとて、事とも思召ず。然る時んば森山者内前殿婿なれば、弾正之忠を引請而候はゞ、のきくち如何が候はんと申ければ、森山が城を出るならば、付入にして城を㸋はらひ可㆑申。弾正之忠向うならば、願のことく一合戦してはたすべし。弾正の忠と合戦のするならば、内前をふみつぶすに不㆑及、独ころびにならん。其故弾正忠も出て我に太刀を合ん事思ひも寄らず。出る事は成間敷、我案祥に有し時、纔に五百三百持たりし時さゑ、一度天下を心懸而有にも、百々度之軍をせずんば天下は治られじ。野に向き山に向き敵とだにも見ならば、是非ともに押寄而百万騎有とも百々度之軍をせんと思ひ而有り。何時も軍ならば、はづす間敷に心安あれと仰けり。然者退かせられ給はゞ、大給の源次郎殿者、内前殿婿に而有り。いかゞ御座可㆑有哉と申ければ、中々之事を申物かな、弾正之忠をさへ何供思はぬに、源次郎連が何とて出て我を禦哉。若出るならば頭に石を付而我と潭ゑ飛入に社あれ。其迄も無池鯉鮒へ出てすぐに上野ゑ押寄、二三之丸を焼はらいてのくべしと仰ければ、各々被申けるは、其儀如何が御座可㆑有哉。小河は内前殿の婿なれば、【 NDLJP:79】定而小河寄も加勢もや可㆑有と申ければ、から〳〵打咍給ひ而、中々之事面々者何を案ずるぞ。我とをるに小河などが百万之人数を持たればとて、出て我に太刀を合ん哉。出る成満足と仰ける。然る処に阿部之大蔵惣領之弥七郎を喚而申けるは、何とやらん世間之騒々敷に付而、我等も別心を䇅様に沙汰をすると聞、我君之御恩ふかくかうむり、今人と成し我等ぞかし、此御恩を何としてかほうぜん哉。然ども此御恩は今生に而ほうずる事中々成難と、寐ても寤めても是を社思ひ暮申せしに、か様に人に沙汰を致さるゝも、天道之つきはてたる事成、逆心之思ひ寄ず、若我左様成儀もあらば、君之御ばつと蒙りて人も人とは云ずして、後には乞食をすべし。日本は神国なれば、諸神諸仏もなどか我を安穏に而置られ間敷候べし。何とて此君之御恩を譞申さん哉。哀纆綱をも懸させられても、水火之責に而も御尋あらば、申披きても果て度は存ずれども、物をもゆはせ給はで、御成敗も有ならば、よみじのさはりとも可成に、人声高く憂世さうざう敷も有ならば、我等を御せいばい有と心得而、汝等者何方へも取籠り候へ而、我等が親は逆心之儀者夢々心に無㆓御座㆒候。此中も憂世に而其沙汰を仕とは、内々承及申つれども、夢々左様成儀ども者不㆑存候と、又は仰出しも無御座候へば、此方寄申上候へば、却而あやまり有に似たりと存知、又は其証跡少成供似る儀有間敷、仰出しも御座候時可㆓申上㆒と存知候而罷在、御普代久敷召つかはされ申耳成、賸君之御蔭をもつて人と罷成、此御恩を忘て御謀叛申ならば、日本に諸神もましまさば、天命よかる間敷、此上にても七逆罪をかうむりて、無間の棲をいたさんに、何とて君に弓を彎申、御謀叛を申上候はん哉。夢々父子ともに不存候由を申上、其故尋常に腹切申せと申きかせ候ゑば、親の仰をもそむき、御主に敵を申上げ、七逆五逆の咎を請申す事、日本一の阿房弥七郎めとは此事成。然間君之御運つきさせ給ふ哉。御馬が逸れて人声高候へば、父之大蔵を御成敗かと心得而、弥七郎せんごの刀にて、清康何心も無して御座有処を、ひんぬいて切害申。上村新六郎是を見、弥七郎を其場にて切伏踏害。各々是を聞莅参りて君之御有様を見、各々落涙する事、釈尊の御入滅もかくやと思ひしられて哀成。各々余りの腹立に弥七郎が死骸を屎堀に踏こむ。各各あきれはて、とほうにくれていたる処に、上村新六郎申けるは、御かたきは打申成。此故者思ひ置事無、腹を切て御供を可申由を申、其時各々被申ける、君を切申たる弥七郎を切申事手がら申に不及比類無、然どもか様に君之不慮之御仕合あらんとも、神ならねばしらずして、陣屋ゑ寛げし故に、居合ずして各々迷惑、流水不㆑帰後悔不㆓先立㆒、か様の事あらんとしりたらば、誰かは陣屋へくつろげん哉。折節御身有合而天道にも叶い候いて、弥七郎を打給ふ事ひるい無云にも不及。然ども有合たる事ならば、誰かは御身に�らん哉。有合ぬ事社天道にはなされたり。本寄もおひ腹を切申事、御身にも誰か�らん哉。併御身者追腹を切給ゑ、我ら供者是に而追腹は切間敷、追腹の切つぼに而可㆑切、御身もふんべつ有而切給ゑと、各々申されければ、新六郎聞而申、追腹の切処者何くぞや。各々被申ける、追腹の切処と者十日と過ごす間敷、小田之弾正之忠、岡崎へ押寄べし。各々是に而腹を切程ならば、【 NDLJP:80】岡崎に者人も無して若君御一人御ば、弾正之忠押寄而鵜鷹の餌を伐様に打せ申さんは無念に存知可申。然ば若君様之御先に而追腹をば切可申。追腹之切処是成。御身も同は爰に而之追腹思案あれ。何くに而切も同事なれば停はせず。新六郎被㆑申ける、げに思ひ縒候。各々と一身して若君之御前に而切死に死可申と云ければ、各尤成、とても切追腹ならば、各々と一身して火花をちらして切死にし給へ、御供申而可㆑切とて、森山を落而帰る。森山も落勢なれども心も替して手も不㆑付して帰しける。内前殿も只今は何かと申而手出し有ば、城を持かためては成間敷とや思召ける哉、玃待の歌のごとくに寝たるぞ寝ぬぞにして、宇だるみして二三ヶ月之間者、兎角之御取合もなくして、万事指引を御。其内に悉引付給ひ而、我者同前にいたされ申す。清康三拾之御年迄も、御命ながらへさせ給ふならば、天下はたやすく治させ給んに、廿五を越せられ給はで、御遠行有社無念なれ。三河に而森山崩れと申は此事成。
お千代様拾三にして清康におくれさせ給ゑば、森山くづれて十日も過去に小田の弾正之忠三河へ打出、大樹寺に旗を立る。其時森山にて追腹切と申衆、我人追腹者爰成、若君様は城に而御腹を被成而、城に火を懸させ給ゑ。然ども聊爾に御腹を切せ給ふな。各々打死を仕物ならば、敵方城ゑ押寄而、二三の丸ゑ責入らば、其時御腹被㆑成候ゑ、其寄内は御腹者切給ふべからず。我等供はとても追腹を切申上は御城を罷出広処ゑ罷出、浮世之思ひ出に、花々と戮死に可仕、取誉られて此方彼方に而死する物ならば、人も追腹とは申間敷、然ども何に御普代と申とも御慈悲、御情、御哀見も御給はずば、其場其場にて、当座之死者仕候とも、か様に妻子眷属を捨而、打死仕事よもあらじ。君之御代々我等供之代代之御情、御慈悲、御哀見、殊更清康之御慈悲、御情、御哀見を思ひ出し奉れば、妻子けんぞくを敵に只今打剿申、又は我等共は打死仕たる斗にては足り不申、御代々又は清康御慈悲、御情、御哀見無者、何に御普代成とも此時は妻子けんぞくをかこちて、山野に隠忍而命をつぐべけれども、清康之御情に者妻子けんぞくも惜ず。扨各々若君を見上而見まいらせ、涙をはら〳〵と泊、各々妻子けんぞくともに只今果て申事を、露塵程もをしからじ。若君に御代を持せ不申して、御年にもたらせ給はぬに、只今来世之御供を申事之遖さよと、申もあゑず一度にはつと嗁。是や此釈尊の御入滅の時、拾弟御弟子、拾六羅漢、五拾二類にいたる迄、遖嗁もかくやらん。儅又御普代に而無者何物かか様には遖まん哉。是を思へば主人之実には普代の者にしくは無、二つ有事は三つ有とは、能社申つたへたり。清康之御仕合に一度嗁、只今若君様に別れ申に、二度之嗁打死をとげ申さんとて出るに、妻子けんぞく鎧之袖に取付、かなぐり付而嗁事三度之歎成。早時刻うつり候、御暇申而さらばとて、御前を立而能出る。神も爰を大事と思召にや、伊賀の郷之八幡宮之鳥居、伊田之郷の方ゑ一間間中歩ぶ。各々岡崎を半道程出而伊田之郷に而、敵を待懸而居たりと云とも、雑兵逍八百有り。弾正之忠是見而大樹寺を押出し而、二つに分けてかゝる。伊田之郷と申者、上者野成下者田成、野方へ四千、田方へ四千押寄。岡崎【 NDLJP:81】寄出る衆も八百を二つにわけて、野方へ四百、田方へ四百に而打むかう。誰見たると云人者なけれ供、申伝へには伊賀之八幡之方寄も、白羽之矢が敵之方へふる雨之ごとく、はしりわたりたると云。さも有哉。然る所に八千之者ども一度に鯨声を上。優しくも八百の方寄も鯨声を上。靁渡る春之野に鶯之古巣を出て初音を出すごとく成。早近寄而南無八幡とてぞむかいける。田の方にて上村新六郎が鑓を入んと云。磯貝出き助が云、新六郎早きぞはやりて鑓を入れば、物きはにてせいがぬけて、鑓が弱き物成、大軍の方寄入させて、待請而根強く請留めて入よと云て、野方を見上て見れば、広き野に而四百之衆は四千之者に取まかれて、追腹切と云衆は一人も残ず火花をちらして、切死にぞしたりけり。又若党小者中間、ちり〴〵に岡崎を指而坎入を見而、野方者皆うたれて、弱者は岡崎を指而坎入ぞと云処に、敵方も野方が勝を見而、我先にと競ひて押懸たり。何方之合戦にも人数多しと申とも、先へ出て鑓を合る者は、五人拾人には過去物なれども、此人々者森山寄此時之事思ひまうけたる事なれば、少も騒事も無、待請而百四五十人一度に錣を傾けて根強くついて係ければ、主々に付而残之者ども刀をひん撛〳〵、主々寄先に立たんと進みければ、三のそないを切くづしければ、残そないは共にはいぐんすれば、悉切捨にして又かたまりて、野方之敵に傃而しづ〳〵と押寄ければ、敵是を見てかなはずとや思ひけん、我先にと大樹寺へ乱入、其寄してのけてくれよと降参を乞う。何方も若き衆は有習なれば、勝に乗而迚も遣る間数と高言をする。其中に老武ども之申けるは、敵かうさんのせばやり給ゑ、敵を打取と云とも田方四千を社打取たり。其儀も未残たり。野方四千は恙無。味方も田方四百社恙なけれ、野方四百は皆打死をする。敵八千之時者味方八百有。敵打被㆑取て四千になれば、味方も打死をして四百に成。其故田方之者も五百も千も打もらされて可有、左様にあれば未敵者多し。味方者すくなく候ゑば、勝て鋹之緒をしめよと云事有。其故は軍の習者しられず、此上我味方打負たらば城迄とらるべし。我等之命露塵惜からじ。只今迄は若君之御命もたすかり給ふべしともおぼえざりしに、早御命を扶申事は是程之勝者何かあらん哉。此上にて軍之習なれば各々打死をして、扶給ふ若君之御命を帰而圇せばいかゞあらん哉。若き衆之被申候ごとく、八萩河を半分越せて切て懸物ならば、早おくれを取たる敵なれば、安々と切くづす。敵なれども然ると云に敵も其を心得而降参をば乞ふ成。りやうじに河をば越じ。河を越と敵も思ひてそこにて思ひ切、聊爾に河を越而も負、城をむたい責にしても負と思ひ切而、城を責物ならば安責落べし。窮却而猫をくふと云事之候ゑば寛而やり給ゑ、此故者爰えへの働者、二度思ひ懸る事者有じと云ければ、其儀尤とてかれは河を越、味方は岡崎へ合引に引けり。各々若君様を二度見まいらせて、又うれし涕にどつと涕。若君様は各々を御覧じて、扨何れもを見る事之嬉さは、二度清康之御目に懸思ひ社すれ。併朝一度に来り而、我を見て涙を流而、今生の暇乞とて出たりし者どもの、多来らず、扨も〳〵ふびん成次第とて、をきつふしつ御落涙有ければ、御前成人々も鎧之袖をぬらして御前を立、三河にて伊田合戦と申けるは是成。
【 NDLJP:82】然るに寄千千代様御元服被成。次郎三郎広忠御法名道幹御代々之御つたはりの御慈悲、御情、御哀見、殊に勝而御。各々悦処に、内前殿者眼前の大伯父なれども、横領して広忠を立出し給ふ。其時御普代衆も色々心々成。御跡に残て是非に一度者御本意をとげさせ申御代に立申さん、我等ども立退く物ならば、末世岡崎へ入らせられ給ふ事有間敷とて、御跡に思ひとゞまりて、御供せざる人多し。又何心も無而御供せざるも有、又内前殿も長親之御子なれば、何れも御主は一つ成とて、内前殿に思ひ付も有。人者兎もあれ角もあれ、をなじ長親之御子とは申せ供、内前殿者庶子信忠者御惣領、其故信忠、清康、広忠迄三代あをぎ奉しに、長親迄四代御跡へ帰りて、其故そしをおなじ事とは云難。広忠の御座御座ば逆成儀成、某供者妻子けんぞくを帰見ず、一命を捨而是非とも一度者広忠を岡崎へ入可㆑奉成。然る所に阿部之大蔵申けるは、忰め社気違にて、君をば打奉りて有、我等においては少も御無沙汰に不㆑及、是非供に御供申さんとて、十三にならせ給ふ広忠の御供申て、伊勢之国へ落行給ふ。其耳非、六七人も御供申成。十四迄伊勢に御座被成候成。然る間に関東三河をば早駿河寄取、吉良殿者小田之弾正之忠と御一身有。然間駿河寄吉良へ押懸ければ、荒河殿は屋方に別心をして、駿河と一身して荒河を持処に、屋方はかけ出させ給ひ、敵に打向はせ給ゑば、屋かたの御馬強き馬に而、敵之中ゑ引入られて、即打死を被成けり。其寄吉良殿御子達は駿河へ付せ給ふ。さあ有程に大蔵、広忠を駿河へ御供申而、今河殿を頼入申。今河殿御無沙汰有間敷由被㆑仰けり。広忠十五之春駿河ゑ御下給ひ而、其年之秋駿河寄加勢をくはゑて、もろの城ゑうつし申。然る間岡崎に有心を懸申御普代衆折をねらひ申せども、其身之力に不及して、大久保新八郎定而思ひ可㆑立と相待申処に、内前殿も内々左様にも思召るゝ哉、次郎三郎殿を岡崎へ入申さん者は別之者ならず、大久保寄外は有間敷、さらば起請を書候ゑとて、七枚起請を伊賀の八幡の御前に而、広忠を岡崎へ入申間敷と書せ申。新八郎宿へ帰りて、弟之甚四郎弥三郎二人之兄弟どもを呼寄、兄弟之者ども聞かとよ、うつけたる事を云まわる、伊賀之八幡之御前に而広忠を岡崎へ入申間敷と、我に七枚起請を書たり。ほれ物にはあらずやとてから〳〵と笑けり。二人之兄弟承而主を本意させ申さんために社、御跡には留まりたり。其故起請之御罰とかうむりても地獄へ落る。是を悲しみ起請のおもてに負問敷とて、主に負ば七逆罪、とても咎をかうむる間、主を世に立申而思ひ置事無咎を請給ゑ、御身一人之咎にも有ば社、兄弟三人地獄に落迄兎角きしやうは千枚も書給ゑ、広忠をば一度は岡崎ゑ入可㆑申と申処に、又新八郎にきしやうを書けとて書せければ、八幡之御前に而、七枚きしやうを書せけり。何度も書申さんとて書けり。又四五日有而も、広忠を岡崎へ入奉ん者は、大久保寄外者兎角に有間敷候間、一度二度のきしやう者無㆓心元㆒おぼえ候ゑば、又きしやうを書給ゑとて、三度迄伊賀の八幡之御前に而、七枚きしやうを大久保新八郎に書せける。新八郎宿所に帰而又二人之兄弟供を喚而申けるは、二人ながら聞け、八幡之御前に、又又きしやうを書せて有。是供には三度迄七枚きしやうを書せたり。合而二十一枚のきしやう成。百枚千枚も書せよ。書せば書べし。起請の【 NDLJP:83】御罰とかうむりて、今生にては白癩、黒癩の病を請、来世にては無間之住かともなれ、子供之母を牛裂にもせばせよ、忰を八つ串にも刺さばさせ、何どきしやうをかゝせ申すとも一度は広忠に御本意をとげさせ申、岡崎ゑ入不㆑申ば置申間敷候。我等斗をふかく疑ひ申間、久敷延るならば何たる事をか申べし。兎角に𠆻べしと云而、広忠へ内通を申上たり。然間もろゑ頓て内前殿働を被㆑成ける。其時新八郎も供を申ける。人先に立出而普代之主に矢を一つ参らせんと云ければ心得而立出る。新八郎はしり出而雑言を云て射懸けるを、其矢を取而広忠之御目に懸申せば御喜成。次の働之時又新八郎はしり出、何ものごとくざふごんの云て罵しりければ、又心得而先度之矢文之御返事を持而出、新八郎普代之主に彎弓は殊外あがりたり。普代之主之矢を請而見よと云ければ、けさんのまくりて尻を出して待懸る。射たる矢を取而靫の底に入、又新八郎が一矢参るとて射懸けるを取而広忠ゑまゐらせければ、取上而御覧ずれば、何月之何時分岡崎へ入申さんと云矢文成。悪雑言を不申ば、内前殿愈うたがはせ給はんとて、畏おそろしくは思へどもざふごんをば申成。帰りてうつぼの矢を取出して見ければ、岡崎を取而くれんと申事御満足に思召ける。早急と被㆑仰候御事成。去間新八郎二人之兄弟どもを呼寄而申けるは、早時分も能に由断有間敷、弥三郎者昼語りしことをば、悉残さず�に云者なれば其心得可有。女房者男之事悪様にはいはざる物なれども�は誰も可笑き物なれば、懸大事とはしらずし而、思はずしらずに人に語物成。左様に有とても、か様之大事をば女房には聞せぬ物成。女者肝びけ成物なれば、色を違いて物をくはで、人に不審を立らるゝ物なれば、か様之大事をば聞せぬ物成。此事をしをうすれば、妻子けんぞくも命佑かる。若しそんずれば妻子けんぞく迄も残ず死事なれば、一代に一度之大事成心得給へよと云ば、甚四郎が聞而、其方が�我さへをかしきと云而笑ければ、新八郎云、笑事に而無ぞ一大事成と云ながら、兄弟三人して笑ける。弥三郎者上帯を頤寄頂へ県からげて臥せば、明ければ腮がするがると云。扨又何時分にやと申せば、明々後日によからんと云。然間我等別して等閑無衆二三人に聞ずんば、後日に恨べしと云。兄弟之者ども誰にやと聞。林藤助、成瀬又太、八国甚六郎、大原左近右衛門ぞと云。尤是には御聞給ゑと云。さらば藤助呼に越と被申ければ、甚四郎立而兄に而候人は少御用有、御隙入無者御出あれと申越ければ、若此事を思ひ立たれてもあらんと心得て、急而使寄先に来り、何事にやと申せば、別之用に非能酒を請而有、一越召と申事と云ば、早たべ度と心得而急ければ、つれて立而此事斯と云ければ、藤助手を合涙を滂、扨も〳〵目出度事哉、我人御供して出候はで叶は去事なれ供、我人御供を申物ならば、二度御本意をとげさせ給ふ事、思ひも寄ず、然時んば御跡に留まり申、是非とも御本意をさせ申さんと、思ひ入而とゞまる成。然ども何供才覚に仕煩らいて有御身之思ひ立給ふを待申処に、内前殿もさも思召か、御身に広忠を引立申間敷との七枚起請を、伊賀之郷の八幡御前にて三度書たまふを見て、力をおとして手をうしないて有。然どもきせうを書給ふとも、兎角に思ひ立候はんとはおもひ入て有つるが、然ども三度之七枚きせうの事なれば、此事【 NDLJP:84】如何と申事も成、御身之貌を見上見おろしはしたれども、さながら如何とも云難。きせうを書き給ふとも兎角御身は引立給はで、置間敷人と思ひしにたがはず、扨も〳〵能ぞ〳〵思ひ立給ふ物哉、殊更我等にも聞給日し事、海ならば大かい、山ならば須弥山寄も高くふかく御恩に請申成。只今迄は一日も早と心懸申事、時之間もわするゝ事無、思ひ入て候へども、一人として成難ければ、我力に不㆑及して打過ぬ。御身さへ思ひ立給はゞ、成もせん物をと思ひて今か〳〵と思ひ、御身の貌をまもり上けれども、七枚きせうのゆゑなれば、さながら詞には不㆑被㆑出、とてもあの人者御本意をとげさせ申さでは置間敷人なれども、度々の七枚きせうに伀を為し給ふ物か。然ども其儀成供兎角に御手者引れ給はん人成と思ひ入而、遅と貌を見上見下し申けるに、思ひ申に違はずして思ひ立給ふ事嬉しさよと、遊上て�て、ふかく一身申て来世迄之契を申と云。此藤助と申は御代々つたはりたる侍大将成。正月御酒盃をも御一門寄先に罷出て被下けり。其次に御一門出させ給ふ。御家久敷侍者是にこす人無。藤助申すは、我寄外に誰にきかせ給ふ。いや〳〵我兄弟一類斗に而も安けれども、御身は御家之子と申、又は某に別而貴殿者ちかづきける。此儀を聞不㆑申は、後之恨限有間敷ければ、御身斗に聞せ申成。貴殿と内談して一両人に聞せ申方も候得ども、未聞せ不申�忝奉存候。然者誰人に而候と申ければ、成瀬又太郎、八国甚六郎、大原佐近右衛門などに聞可申哉。尤之儀成、何れも此衆は思ひ入たる事に候へば、引入させ給へと申に付而、又太を囂に越と申せば、甚四郎方寄兄に而候人は、少御用御座候間、御隙入候はずば少度御出あれ。林藤助殿も是に御入候と申越候へば、若もか様之贔も有やらんと、ふかく無㆓心元㆒存知而、使寄も早来り而、林殿も是に御入候か何之御用ぞ不審成、早承度候と申ければ、何たる御用も無㆑是儀なれども、去方寄めづらしき酒を請而申に付而、一つ申さんために申入たりと云ければ、頓而さとりて其酒を早く被下度と申時、さらばとてかたはらへつれて、此由角と申せば藤助ごとく手を合而、藤助に少もちがはず喜事無㆑限して、一身申成と云。甚六佐近右衛門両人方へ人を越候へと申せば、甚四郎方寄人をつかひ、兄に而候人は御隙入候はずば、少用之儀御座候間、少と御出候へと申越候へば、是も頓而さとりて、使寄先に走り来りて何事ぞや、各々寄合而機嫌能に物語をし給ふと云。御心易かれ何事も候はず、去方寄能酒を請而候へば、一つ申さんために申入たりと申せば、何れも此事胸に絶ぬ事なれば、新八殿之能酒を早く聞度申候。慹と待申候間早被㆑下度と申せば、更ばとて人をのけて此事角と被㆑申ければ、中々喜事無㆑限して、手を合而藤助又太喜に少もちがはずして、ふかく一身申と云。扨何時分にやと云。か様之儀は時刻うつりあしかり明々後日と定けり。新八郎各々に内談有。然者御本居无㆑疑、左様にも荒ば此儀九郎豆殿を引入申、御門を闢て広々と入奉らんと云。其時藤助を初三人衆兄弟共各々申けるは、只今迄之事残所なけれ共、乍㆑去此事を九郎豆殿へ聞られ給は事如何し候はん。能々御分別あれ、内膳殿者九郎豆殿御ためには眼前の伯父にて御。如何に伯父にたいして逆心者荒じ。能々御分別あれと云。新八郎重而申、各々の如仰内膳殿者眼前之伯父にて御【 NDLJP:85】処眼前成、然ども庶子成広忠者、九郎豆殿御ためには眼前の姪と申し、しかも御惣領にて御ばいかでか御一身なからん哉。若少成とも何かと思召たる御気色も荒ば、他言してはかなはざる事なれば、以来迄も御本居とげ難。然時んばなまじひ成事を仕出しては如何がに候間、ごんびんを聞色を見而喧嘩にもてなして指ちがへて死べし。然者他言は荒じ、然時んば我等兄弟一類どもを残置成。彼等と一身して御本居をば、とげさせ給へと云。各々被㆑申けるは、其胸ならば無㆓是非㆒、御存分次第同はとても御本意を遂げさせ申事は、九郎豆殿に聞申に不㆑相相違有間数、同は御思案あれと云ければ、兎角我に御任せ給へ。我をば死たる者と思召、日頃九郎豆殿御物語にも聞かどめたる事も有と云ば、其儀ならば何と成とも貴殿次第と被申候に付而、其儀ならば貴殿達と一度に罷出申さん。又太と甚六は是に待給ひ両人には帰りに寄而申さんとて、打つれて出にけり。扨新八郎者九郎豆殿へ参ければ、何もの如く御機嫌能御ざふたん有。然処に人を退けさし寄而此儀角と申ければ、殊外御喜有て我等が是へ入奉らんとは思へども、内前我等にも事の外心を置而、入番之者油断をせざれば思ひ乍成難。御身寄外本意をとげさせん人者無と思ひて有処に、八幡之御前に而、七昧きしようを一度ならず二度ならず三度迄書給へば、御身も何とか荒んと不審に思ひつれば、不思議に思ひ立給ふ事返々も喜敷存知候とて、殊之外の御きげん成。新八聞給へ、是に付而御身と内談有。此度若御身之しそんずる物ならば、重而御本居させ申さん事成難。然時んば我等寄外は無、然間此度は我等をば重而のためにたばひ給へ。然者我等者有馬へ湯治をすべし。其内に是へ入奉れ。然者門之鍵を壺ねにあづけ置べし。大久保新八郎ならば渡せ、別成者に渡すなと申可付、其分心得而、能調議をし給へ。何時分の事にやと仰ければ、明明後日に相定申と申せば、さらば明日内前得人を使、湯次之事を申而、明後日者かならず罷可㆑立と被㆑仰、かたく仰置ければ、新八郎忝と申而罷立ければ、九郎豆殿御座敷を立せ給ひ而、又誰に聞給ふ哉と仰ける。林藤助、成瀬又太郎、八国甚六郎、大原左近右衛門にしらせ申と申せば、愈御きげん能而、尤之衆成、御身之聞せ給ふ衆ならば、あだ成衆には有間敷と思ひしに、此衆を引入給はゞ思ひ置事無と仰有而、此衆にも心得而仰候得、御身と一身と聞而心安社存知候得、申に及去衆に候得ども、�御心得あれと念比に御語あれと而入せ給ふ。藤助者新八者果られ候か、何と有と思ひ而、手に泚をにぎり門に立、無㆓心元㆒而立ける所へ、新八心能に来り給ふを見而、先命之ながらへたるを、夢之心地して趙賓涙ぐみて、やれ新八か如何成御馳走にや、心能に見得させ給ふと云而見上ければ、新八も二度逢たる嬉しさに仕合先御心安かれ、殊之外御ちそうに相申、忝奉存申間、其祝ひに明朝御振舞可申候間、佐近右衛門殿御同道有り而、かならず御出あれ。爰に而具に可承候得ども路次之儀に候へば早々承候、万事御心安可有と申捨ぞ通りける。佐近右衛門も新八者命ながらへて有かと思ひ、大道へ出て聞𦗗を立而、泚をにぎりて、をほせなぎをつきてゐたる処得、遠寄見懸而はしり寄、扨も帰らせ給ふかと云而涙ぐむ処に、先仕合御心安思召せ、事之外御ちそう忝奉㆑存候。是に而御ちそうの儀御物語申度者候得ど【 NDLJP:86】も、路次之儀に候得ば如何に候。今日之御ちそう忝奉存候間、其祝に明朝御出可被成候、御振舞可申候。藤助殿も是迄御寄可有候由仰候。御同道有而かならず未明に藤助殿と御同道可有候。待入申其迄も候はず未明に可参候。又太も甚六も待かね可㆑被㆑申候間、御免なれとて通りければ、又太八国も二人之兄弟どもと打つれて、半途迄出候得而、新八者果てられけるかとて、互に物もいはずして泚をにぎりて待かね而居たる処に、岡崎之方をながめ居たるに、霞之内寄見付而、新八社来りたりとて大息をつき、はしりむかひて只今御越かと云ば、仕合先御心安思召而帰らせ給得とて、喜而供につれて入にけり。又太甚六二人之兄弟どもに、此由具に語ければ不㆑斜喜而、涙を流而申けるは、陲今日之御身之命と申ければ、とても普代之主に奉㆑命ば何くに而奉も同事成と云。明ければ藤助、甚六、佐近右衛門、又太参而此由具に語。又九郎豆殿右之衆得、御念比に被仰し事どもをも具に申渡しければ、愈感涙を滂而喜事無㆑限。扨又九郎豆殿御湯治と聞寄も各々胸落付。新八郎は忍び而広忠得申上けるは、御支度有而御待可被成、明夜是得入可㆑奉、然者明晩御迎に藤助、甚六郎、佐近右衛門、又太郎、甚四郎を進上可申と申越候得ば、広忠之御喜給ふ。明ければ君も御一代之御大事御一代の御喜と思召、今日之日の暮申事を、千年をふる思ひに思召暮させ給ふ所に、早入合に成ければ、御迎を待兼させ給ふ処に、藤助、又太郎、佐近右衛門、甚六郎、甚四郎忍而参、早御時分能御座候。御仕度有而出させ給得と申す。新八郎は兄弟一類引つれて御番に上相待奉㆑申と申上けり。新八郎は番之由を申而、兄弟一類引つれて七つ時分寄行、暮相に成ければ、御門之かぎを渡させ給得と云。奥寄も門之かぎと申は何者ぞや。不㆑被㆑苦候、大久保新八郎に而御座候と申ければ、局の仰には大久保新八ならばかぎを渡し申せと仰置たり。新八ならば直に渡し申とて御つぼね自身身づから持給ひ而、直に新八かとて渡させ給ふ。かぎは請取申今や慹と相待けり。広忠も早打立給ふ而、莅給ひし処得、城者取申成遅御座候。莅給得とて半途迄申来りければ、御夢之御心地して、御馬を早め給得供、御心には一つ処に而遊様にを思召、鳥ならば一飛にも飛も行早と思名共、御身は跡に御而、御心者城得移らせ給ふ。然間無㆑程打付せ給ひければ、新八郎者待請申。大手之門には兄弟一類を置ければ、錠を取槤斗に而有事なれば、急門を闢而奉入ば、新八郎も一類之者を引付而置、本城之御門の闢、広忠を入奉て大息ついて、今社日比の御本望是成と云。然以此番之族者此方彼方之城をのり狭間をくゞりて落坎ぬ。然間城をかためて、広忠を御本居をとげさせ給ひ而、只今城へ移らせ給ふ成。二三之丸に有侍広忠得心有者は、二三の丸をかため給ひ而、入番之族を一人ももらさず打取給得と云而、鯨声を上鉄砲をはなし懸申せば、しるもしらざるも落行。既に夜も明ければ、心有御普代衆は、何方から此城を忍び取らんともおぼえず。誰人ぞ広忠を引入申とおぼえたり。其儀ならば急可㆑参とて、心有衆は大手へ急参而、是者誰がし何がしと名のりて馳せ集まる。城寄は喚はる。各々か早く来り給ふ物哉。次郎三郎様社今夜暁方に是得御本居をとげさせ給ひ候ぞや。各々御普代の面々達は、𠆻二三の丸得入せ給ひ而、かためさせ給得、定【 NDLJP:87】而上野寄内膳殿駈け可㆑被㆑付、御油断有間敷と申ければ、各々我も〳〵と駈け入而、二三之丸をかためけれども、内前殿も寄給ず。内前殿仰けるは、広忠を引立申者別之者にはよも荒じ。大久保にて可㆑有、腹切すべき者なれども、伊賀之八幡之御前にて七枚起請を三度書せ申故、ゆだんをして扶置き申事悔敷口惜無念成。流水跡へ不㆑帰後悔不㆓先立㆒、大久保は内前殿に憎まれても苦にもたず、広忠を御本居させ申せば、内前之憎給ふも起請の御罰も不㆑入、只今社嬉しきと云。広忠十三の御年清康に御おくれさせ給ひ而、頓面其年眼前之大祖父内前殿に岡崎を立出されさせ給ひ而、御年十三に而伊勢の国得御浪人被成、御年拾五之春駿河国へ御下被成、今河殿を御頼被成而、其年之秋今河殿寄も加勢をくはへて、三河の国もろの郷にうつらせ給ひ而、御年拾七歳之春、御本居被成岡崎得入せられ給ふ。広忠之御悦を、物に遥々譬ふれば、法華経之七之巻薬王品に云、寒者の火を得たるがごとく、倮成者の衣を得たるがごとく、商人のぬしを得たるがごとく、子の母を得たるがごとく、渡りに舟を得たるがごとく、病に薬しを得たるがごとく、貧敷に宝を得たるがごとく、民之王を得たるがごとく、こきやくの海を得たるがごとく、燐燥の暗を除くがごとくと説給ふ如くに、何御心之内の御喜是に劣申間敷、扨又御本居をとげさせ申儀、御満足と仰有而、其御忠節と被成候而、新八郎、藤助、甚六郎、佐近右衛門、又太郎に地方拾五貫づつ被下けり。甚四郎弥三郎を初此一類之者どもにも、それ〴〵に被下けり。新八郎にも並に被下る。然ども御知行は其分成、是に余かつて中野郷と申て、くでん百貫之処を代官を仰被付而、後日には是を知行に被下けり。扨又其後内前殿も御詫事被成而御出仕被成、御一門悉御本居目出度とて、各々御出仕無㆑滞。広忠御慈悲御情御哀見ふかきと申各々喜申処に、御浪人被成人之憂苦き善悪を思召しらせ給ひ而、民百姓の歎適をも能見置給ひ、少身者の鄙の棲渡世を送をも御覧じければ、愈御慈悲、御哀見、御情を懸させ給ひし御事、御代々にも殊に勝たり。然間苅屋の水野下野殿の妹婿に被成せ給ひ而、竹千代様と媛君を御儲けさせ給ひ而、扨其後に御前様をばかりやへ送まゐらせ給得ば、其後久松佐渡殿へ御越有而、御子多もうけさせ給ふ。其後広忠は田原之戸田少弼殿の婿にならせられ給ひ而、御輿が入。然処に本城得御輿を入んと云ければ、本城者竹千代城なれば、新城得入よと仰ければ、久敷つかへて何かと申けれども。かなはずして終に者新城得いらせ給ふ成。又或時玆に御鷹野得出させ給得ば、折節五月之事成に御前成、ずいぶんの人田を植ゑ申とて、我も自身破れ帷子を着たかはしをりにはしをりて、玉襷をあげて、我も早苗を背負ひて目脥迄土にして行処得、折節広忠行合させ給ひ而、あれは今藤に而は無かとて、御馬をひかへさせ給ふ。紛去事なれば各々傍輩衆も赤面して有処に、見而参と仰ければ、畏而参而申様、扨貴方之儀者何としたる事ぞ。上に御覧じ付而、今藤か見而参との御使成。扨何と可㆓申上㆒哉と云。何と御返事を可㆓申上㆒、今藤に而御座候と申上給得と云。されば左様にも申被㆑上間敷と申せば、扨貴方いはれ去事を仰候かな。上様の御直に御覧じて、御馬をひかへさせ給ひ而、御意之処を何とまげられ申さん哉。御身のまげ給はゞ、又【 NDLJP:88】別之人参而、見而有様に申上ば、其時に御身も我等故に御迷惑可㆑有。然時んば我等及に人を損なひ申事も迷惑如何斗可㆑有。其故我等とゞか去故をもつて、人迄そこなふといはれん事も迷惑、然者浮世得此沙汰広まるべし。殊に御身之一類に悪いはれ憎申事も、骸之上迄も骸之上の恥の恥成。其故上の御直に御覧ぜられて、御馬をひかへさせられての御意なれば、御身の撑へにあらば社、御身に恨も有べけれ。玆に而曲る事成間敷に、今藤に而御座候と申上給得と申せば、何供迷惑之御使とて赤面して帰けり。御前得参ければ、今藤かと御意之有ば、謹んで有けり。重而御尋有ければ畏候と申上げる時、急つれて参れとの御意なれば、立帰而参れと御意成と申せば、畏と申而御前得参、早苗をせおひて、いとゞ泥に成者が、上様を見付申而知れ申間敷と思ひ而、早苗をせおひて畔に躓きたる風情にして、田之中得うつぶしにふしたれば、目も脥もまつ墨に泥に成而御前に畏ば、誠に〳〵怪有がる生者に而候。上様は是を御覧じて、御目に御涙を持せられけり。各々も我人あれ躰の事をばせぬ人一人もなけれども、各々は、ふも能か終に御目にあたらず、今日今藤は見被㆑出申事社不連なれ。只今是に而御成敗あらん事之不憫さよ。今日者今藤が身の上明日は如何にとしても、か様之事をして妻子を孚までかなはざる事なれば、明日者我々の身之上とて泚をにぎる処に、つく〴〵と御覧じて、良有而今藤か見違へたり。扨も〳〵汝供左様に荒れぬ事をして、妻子けんぞくを孚み、事の有時は一疋に乗而懸出先懸をして一命を捨而、度々の高名莫大成。然ども少身なれば身を輙過あてがひもせずして、左様の事をさせ申、定而汝一人にも限間敷、面々も嘸有るらん。ふびん成ば我も何たるあてがひもしたくは思得ども、汝供如㆓存知㆒出し可㆑申地行之なければ、可㆑取とも思はであられぬ成をして、奉公をしてくるゝ事返々も喜けれ。是と云も普代久敷者なれば、主を悲未而左様にはすれ。新参犇付之者ならば思ひも不㆑寄、只人間之宝者普代之者成。かまへて〳〵汝が恥には非我等が恥成に、恥と思はで汝も面々も左様にして妻子をはごくみ、我に能一命を捨而奉公をしてくれよ。我汝供が摝をもつて戮ひらく者ならば、過分のあてがひをもすべし。只今者我も成去間荒去事をもなして、妻子をはごくみて、其故一命を捨而摝てくれよ。早々帰而田をうゑよと仰ければ、御前成人々又聞懸に涙を滂。其身者元寄妻子を帰見ず、一命を奉らんと思ひけるも、御慈悲御情之御詞一つをもつて、諸人涙を滂て一入君に思ひ付申成。彼者を是に而御成敗も有ならば、諸人恨をなして君に思ひ付一命を捨んと思ふ者は一人も有間敷に、広忠之御慈悲御情之御詞一つに而是を聞及に、広忠には妻子を帰見ず、一命を奉らんと申者斗成。只人は慈悲と情と哀見にこす事無。然処に天野孫七郎を召て仰けるは、広瀬之作間を切而参れ。切済ましたらば、大浜之郷に而百貫可㆑出。手を負はせる物ならば、同所に而五十貫可㆑出と仰ければ、作間を切ん事思ひも寄去事なれ共、御普代之主の御意負難。但御馬之先に而打死も安し、御前へ引出されて、頸を打れ申事も安し、然ども死る事者同前にはあれども、作間を切ん事心を尽しても成難。然と申ても普代之主の仰者負れず候成。成程者狙ひ候而、成は死迄と思ひ定而、御請を申罷立、【 NDLJP:89】道々案ずるに別之儀も無。作間を切んに者、先作間処へ行而、奉公をして案内を見置て切んと忠ひ而、其寄して作間方得奉公とて行ければ頓而置にけり。然程に能奉公をする事独楽をまはすがごとくに使ければ、大方成気に入而後は膝本近使れて寝間のあたりを徘徊する。仕済したりと思ひ而、今は時分も能折と思ひ而、人侒まりて寝間に忍入而見ければ、作間は前後もしらずして臥したりけり。天野孫七郎立寄而、起きば当るを最後に切べしと思ひけれども、能ふしたれば、胴中と心得けるが、いやいや夜之物多く著て、綿が厚ければ身にとはる間数と思ひ而、細頭を切んと心懸而、夜之物のはづれを、月あかりに見而、以てひらいて切付ければ、戮れ而作間少も身を動かさずして居たれば、切戮たりと思ひ而出ければ、早辺寄もなりを立れば、早城之内�ければ、へいを乗而北とて、刀を跡得取落せども、取に帰らん事も成して捨而来り而、此由角と広忠得申上ければ、刀をおとしたればとて、其程の手柄をする故、取に下而死る事之あらん哉、少もくるしからず、手がら比類無、約束の如く出すべしと仰ける。去程に作間は起上り而疵をさぐりて見れば、折節枕がはづれてそばに有ければ、枕に切付而齃を両之𦗗の処迄切付けり。𪱜下りければ�を取て押上而、鼻の息を吹きて見而あれば、息詰りければ、又疵を引離して能疵口を合而、息をふきて見ければ、息も相違なければ、帯をもつて頭に搦み付而養生する。作間はから〴〵の命を佑かる。天野孫七郎には、御約束のごとく大浜にて五十貫被下けり。手柄をする故に後迄も異名に作間切と申成。然処に内前殿者御兄甚太郎殿者、御舎弟に而御けるが、内前殿者清康広忠に逆心を被成けれ共、甚太郎殿者終逆心無、広忠を内膳殿の立出させ給ひし時も、甚太郎殿者広忠を引請度と被成候へども、内前殿手ばなし給で、伊勢得送り給得ば、力無して御。其寄して者内前殿と甚太郎殿は御中よからず。広忠御本居有而甚太郎殿は御満足之由被仰而、人先に御出仕有而、一入の御取持給ふ。内前殿も詫言被成而出させ給得ば、甚太郎殿仰には、内前者兄なれ供、度々の別心なれば帰新参成。我は弟なれども一度も別心をせざれば、上座に可㆑有と仰けり。内前殿は如何に角有ばとて弟寄下座には有らんやと仰ける間、互の座論に而、御出仕にも日をかへさせ給ふ成。路次をありかせ給ふにも、両方乍抜身に而互に内衆も反を直してとほらせ給ふ。若何事も有成、甚太郎殿方がつよからん。其を如何にと申に両方得御加担は有間敷とは申せども、内前殿者上様を立出し給ひ而、方々を御浪人させまゐらせられ給得者、御心中に余り御贔屓には有間敷哉、甚太郎殿者終に一度も逆心無、上を御たいせつと思召給得ば、御心中には是を悪かれとはよも思召候はんか。其故御普代衆も悉甚太郎殿得可㆑付、内膳殿へは一人も付人有間敷、然時んば甚太郎殿勝られ給はんか、免若者と有内に両方乍跡先に御病死なれば無㆓何事㆒。然処に小田之弾正之忠出馬有而、案祥の城を責取ば、無㆑程佐崎の松平三左衛門殿、弾正之忠の手を取而、広忠得逆心をし給ひ而、岡崎に迎而渡理�鍼に取出を取給ふ。然処に坂井左衛門尉は内々を小田之弾正之忠と心を合而、其故にて広忠得難渋を申懸、折も能ば城をも心懸給ふか、御城得つめ入而、直談に社申けるは、石川安芸守と坂【 NDLJP:90】井雅楽助に腹を御切せ被成候はずんば、御不足を可㆓申上㆒と被申候得ば、両人之者に何とて腹を切せ可㆑申、思ひも不㆑寄と被仰候処に、左衛門尉別心に而御城得つめ給ふと而、各々御城得参ければ、佐衛門尉も引のき給ふ。大原佐近右衛門今藤伝次郎なども一つくみ成。然処に本城之門脇に而、佐近右衛門が一人突伏せて、佐衛門尉と打連れて、大原佐近右衛門も、今藤伝次郎も、其外五三人引のきて小田弾正之忠得出る。然処に松平九郎豆殿、舎弟の十郎三郎殿、御死去被成ければ、御跡継之御子無と仰有而、其御跡式を押領し給ふ。然処に岩津殿御跡式迄、押領被成ければ、御身に妙而御知行どもには三人御知行を一つにして押領被成ければ、広忠之御領分には莫大に勝たり。か様に我儘に押領被成候はゞ、只今社広忠得御無沙汰無とは申せども、此方彼方押領し給得者、早広忠と両天に成給ふ成。然者少之出入も六ヶ敷、其故内膳殿に懲りたる仕合も有、後之わづらひ是成。先車之覆すを見而、後車の誡めをなすと云り。各々寄合談合して広忠得此由申上、九郎豆殿を駿河得今河へ御使につかはされ、其寄岡崎得寄入不申、九郎豆殿は犇せ給ひ、こはいかに何事ぞや。我広忠得対して御無沙汰之心毛頭更に無、如何成儀に而御座候哉。更に我身におぼえ不申と仰せつかはし給得ば、各申上候。如仰只今においては、広忠得御無沙汰之儀夢々毛頭更に無、広忠を御たいせつと思召事大方成。只今迄之御取立残所も無。然間御別心などと申儀は夢々思ひも寄ず、広忠を大事と思召事大方ならねども、十郎三郎殿御跡を我儘に押領被成、其耳成岩津殿御跡迄、我儘に押領被成候得ば、早広忠之御領分には、貴殿様之御領分が莫大に増してあれば、早南天にならせ給得は、自然少之出入も候得ば其時は六ヶ敷、其故先車の覆へすを見而、後車之誡めをなすと云事有。此前内前殿にこり申故は、何只今御無沙汰無と申而も、後日を不存候間、兎角に寄申間敷と各々申ければ、色々御詫事有ども、各々用ひず。然者今河殿を頼入而、御詫事申さんとて、駿河得下而今河殿を頼、御詫事被申ければ、各々右之しいしゆを申ければ、各々の被申候も以来を兼而被申候得ば、道理之聞えたりとて重而御詫事無。然間九郎豆殿仰には広忠には恨は荒ねども、家中之恨なれば、さらば小田弾正之忠と一身可有とて、早手出しをし給ひ而、広忠之御領分に火之手を上給ふ。御普代衆をも九郎豆殿に多あづけ置給ひし処に、九郎豆殿手を出し給ふに寄而、九郎豆殿に付申処には非、如何せんと云処に、大久保甚四郎、同弥三郎申けるは、後日には岡崎得のき度と申たりとも、取鎮め給はゞ成間敷に、取しめざる内に、兎角のき給得とて、各々を唆かし立て、引はづしてのきけり。九郎豆殿も此衆を頼と思召て社、手をも出させ給ひしに、大久保が覚悟をもつて各々はのく成。更角に憎事かな、何ともして大久保一名之子供成とも描まへて、磔串指にもして無念をはれんと仰けり。然ども其比土呂、鍼崎、野寺、佐崎とて敵味方不入之処なれば、鍼崎之勝万寺得妻子けんぞく供を入ければかなはず。勝万寺殿も大久保衆之子供達一人も出させ給ふなとて、人を付而寺内寄外得出させ給はずして置給ふ。然者九郎豆殿ふかく憎給ひ而、大久保一名之知行、又は手作迄も根をほり給得ば、取わけ此一名は妻子けんぞくを餓死に及せ、一衣を【 NDLJP:91】代貸し穄、薭、芋などは上の食物也。豆腐の糟てうずのこなどを買取而、一両年何と無から〴〵の命を存へけれども、御普代之御主の御ためと思へば、何れも苦にもたず。然処に小田弾正之忠出馬有而、上和田に取出を取而、松平三左衛門殿を置給へば、早岡崎は一国一城と成。然処に岡崎寄大原作之右衛門、今藤伝次郎、其外以上に七八人斗、上和田得のきて弾正之忠の前得罷出ければ、弾正之忠立出対面して、各々忠節は忝と仰ければ、其時佐近之右衛門伝次郎指出而申、御心安思召候得。岡崎は程有間敷鑓をもふりまはし候程の者どもは、皆罷のき而座候間、頓而取而御目に懸申さんと申ければ、弾正之忠の御返事に、されば満足して有。然ども各々之様に度々之事をして、名の高き人成。岡崎におきても一本鑓之衆なれども、普代の主の前途を見捨妻子を孚み、一命を捨処を慟而つよ見をほんとして懸落し給ふ。一本鑓立寄も人数に入去とは申ながらも、普代之主のせんどを見つぎ、妻子けんぞくを帰見ずして、一命を主に奉らんと申而、岡崎にいたるあやかり者ども社、一本鎚立寄も千万心憎く存知候と仰ければ、各々赤面して社居たりけり。扨又弾正之忠引入給得ば、広忠之仰出しに筧図書を召而仰けるは、和田之取出得忍入而、三左衛門尉を切て参、切害者ならば、百貫可㆑被㆑下と仰ければ、御請を申罷越、忍入而見而有ば、前後もしらず見得ければ、押付々々四脇指五脇指つきける程に声も不㆑立してはてられ給ふ。豆書も忍入たるに勢息も切けるにや、其を出ければ腰之たゝざれば、弟之筧助大夫も兄と付而其あり迄行けるが、兄之腰之立た去を見て、おびてのきけるに、助大夫と申は隠無おぼえの者、筧助大夫とて人之赦置たる者成。兄之豆書にも抜群位たる者成。助大夫兄を引懸而のくとて云けるは、御身之取給ふ知行之内我等にも少くれ間敷と被㆑申候はゞ、爰に捨と云けるを、扨も〳〵助大夫は能ねぎりたりとて笑譝に譝にけり。筧豆書には御約束のとほり百貫被下けり。扨又広忠は四方に五つ六つの取出をとられ給ひ而、一国一城にならせ給得ば、今河殿を御頼被成御加勢を頼入と、駿河得仰つかはしければ、今河殿御返事に家勢の事は安き儀成、但と申に人質を給候得、其故加勢を申さんと仰ければ、更ばと仰有て竹千代様御年六歳の御時、質物として駿河得御下向被成けり。然間西之郡にて御船に召れて、田原へあがらせ給ひて、田原より駿河へ御下向可被成との儀成。田原の戸田少弼殿は、広忠の御ためには御婚成。竹千代様の御ためには、継祖父成。然供少弼殿小田原之弾正之忠得永楽銭千貫目に竹千代様を売させられ給ひ而、御舟に召而熱田之宮得あがらせ給ひ、大宮司�
給ひ而明之年迄御。広忠之仰には其方得出したる事ならねば、何と成とも存分次第可有とて、終に御用なかりけり。弾正之忠も理非も無あたるべきにあらざれば打過ぬ。然間今河殿仰けるは、広忠寄しち物はきたれども、そば寄盗取而、敵方得売申事は無㆓是非㆒、其故も小田と一身無、侍之義理は見得たり。此上は広忠を見継而、加勢可有とて、林西寺之説斎長老に各々を仰付而、駿河、遠江、東三河、三ヶ国之人数を催而加勢有。説斎駿府を立而藤枝に付、明ければ藤枝を立出大㳄河、さよの山を打越懸河に陣を取。明ければ懸河を打立而、福路居、見付、天龍河を打越、其日は引間に陣を取。明ければ【 NDLJP:92】引間を立出而、両手にわけて今切と本坂を越而、吉田に陣を取。吉田を立出下地之御位、小坂井御油赤坂を打過而、早山中藤河に陣を取けり。岡崎には各々此由聞寄も喜而、いざや駿河衆之出けるか見んとて、弓取三十人斗円入功山得あがりてながめける。折節岡の城寄九郎豆殿五百斗にて岡崎得打まはりと有而、まつ黒にかたまりて坂を押上させ給ふ。三十人斗之衆是を見而、爰成は九郎豆殿と見得たり。いざや此小堬に木の葉を指其蔭に隠れ居而、近くよらせられ給ふ時、一矢づつ射懸申、其寄坂を下りに�降而、明太寺之町得懸入而、其寄すがう河得出べしとて待懸て居たりける処得、近々と寄来らせ給得ば、�出而一矢づつ射懸而、坂を下に�降而、明太寺之町得入而、すぐにすがうの河原へ出けり。九郎豆殿は御覧じて、おつ取〳〵追而町得追入而、町に火を懸させ給ひ而、其きほひに引のけさせ給ば、御手柄と申くるしかる間敷を、御遊の末のかなしさは、町に火を懸させ給はずして、一町斗引のけさせ給ひ而、そなへを立而御処得、又三十人斗之者供が立帰而、両にわけて町の上下寄指取引詰、我も〳〵とそなへゝ射懸ければ、誰之矢が中るとも無して、九郎豆殿ひかへさせ給ふ御馬の口取を射害。次に来る矢にて九郎豆殿を御馬寄射おとし奉ければ、是を見而犇出指取引つめ射懸れば、其儘敗軍しければ、九郎豆殿は早打死被㆑成けり。岡崎も其間四五町有事なれば、元寄押出したる衆是を見而、おつ取〳〵追付而、皆打取。然間九郎豆殿御しるしを持而参る。広忠得角と申上ければ、聞召もあへさせ給ずして、御涙を滂させ給ひ、安如何而か生取てもくれざる哉。日比九郎豆殿我等に一つとして負給ふ事無く、此度敵をなし給ふ事も、違ひめ更になければ恨と更に思はず。以来を疑ひて某方寄立出しけるを、様々侘させ給得ども、わ聞ざれば赤面して存知之外に敵にならせ給得ば、我方寄無理に敵とはなす成。内前之敵に成給ふとは、ばつくんちがいたりとて、はら〳〵と御涙を滂させ給得ば、各々も御道理とて、鎧の袖をぬらしけり。然間弾正之忠は駿河衆之出るを聞而、清須之城を立而、其日は�寺鳴海に陣取給ひ而、明ければ箸寺を打立給ひ而、案祥に著せ給ひ而、其寄八萩河之下の瀬を越而、上和田之取出にうつらせ給ひ而、明ければ馬頭之原得押出し而、合陣の取んとて上和田を未明に押出す。駿河衆も上和田之取出への働とて、是も藤河を未明に押出す。藤河と上和田之間一里有。然処に山道の事なれば、互見不㆑出して押けるが、小豆坂へ駿河衆あがりければ、小田之三郎五郎殿は先手に而小豆坂へあがらんとする所に而、鼻合をして互に洞天しけり。然とは申せども互に旗を立而即合戦社初而、且は戦けるが、三郎五郎殿打負させ給ひ而、盗人来迄打れ給ふ。盗人来には弾正之忠之旗の立ければ、其寄も盛り帰して、又小豆坂之下迄打、又其寄追帰されて打れけり。其時之合戦者対々とは申せども、弾正之忠之方は二度追帰され申、人も多打れたれば、駿河衆之勝と云。其寄駿河衆は藤河得引入、弾正之忠者上和田得引而入、其寄案祥得引而、案祥には舎弟之小田之三郎五郎殿を置給ひ而、弾正之忠者清須得引入給べ。三河に而小豆取も申したゑしは此事に而有。広忠は其年二拾三にて御病死被成ければ、岡崎得も駿河寄入番を入而持けり。扨又本城之御番は誰に【 NDLJP:93】而御。大久保新八郎と云。扨二の丸之御番は誰人に而御やと云。田中彦次郎に而御座候。扨新八殿聞召御代々御忠節と申、又はか様に辛労苦労して御奉公申上、君之御手も広成申たらば、御普代之衆は手と手を取合而、飢死に候はんにやと云。新八郎申、御心安あれ此君御慈悲ふかければ、御手広ならせられても、飢ゑ殺しは被成間敷、御身之如㆑仰末の御代には必さもあらん。御手も広あらば新参犇付之衆多来り而、独楽をまはすがごとく御奉公申ならば、其を御身近召つかはるべし。其耳弄別儀別心之末の子孫供が、能御奉公申而、御意に入、御膝本近く御来公可㆑申、又信光寄此方忠節忠功をなし度々走りめぐりをして、親、祖父、伯父どもを打死させて、御代々御忠節申上たる子孫なれども、悪召つかはさるゝと申而、御不奉公をかならず可㆓申上㆒、其時普代もいらざるとて、押はらはれ可㆑申。御普代久敷者はちり〴〵に罷成、忠節忠高之筋は一人も無して、普代もいらざるとて、行得も無者を普代と可㆑被㆑仰御代もかならず可㆑有。然ども其御代には御普代も入㆑申供又入申御代も可有。其を如何にと申に、此跡之御代にも御手之広がる御代も多し。又はらりと崩れて御手狭む御代も多く候つるを各々御存知成。御手之広き御代には御普代は入申間敷けれども、又末之御代に御手せばに成たる御代に前前の御代に御慈悲無おいはらはせ給ば、後には御普代之筋をも御存知有間敷、又は普代之衆も御普代之御主を知るまじきければ、御身にあてゝ引立申者有間敷ければ、其御代にあたらせ給ふ御主をいとをしく存知候。只今之御主広忠は、御慈悲のふかく御ば御心安あれ。此君之御代に飢ゑ殺は被成間敷候と云。田中彦次郎申者新八殿尤成。只今之御慈悲は申つくしがたし。如仰末之御代に御慈悲無御代も可有候。左様之御代も出来させ給ば、御代々久敷筋は散々に成て、御主も御普代之筋を御存知有間敷は歴然成。又御普代之衆も、御普代之御主を存知申間敷は、是もれきぜん成。然者其御代にて信光寄之此方、御代々之忠節を積み置而河へ流す迄。
元和八年〈壬戌〉卯月十一日 〈子供是を譲門外不出可有成〉 大久保彦左衛門 花押
子供是を能嗜みて、日に一度づつ取出して見而、御主様得御無沙汰無能御奉公申上候得、御
普代衆は何れも是に劣らず御忠節はしりしめぐり者同前可
㆑成。然ども此書物
公界ゑ出す物ならば、何れも御普代衆之事をも能穿鑿して可
㆑書が、此書物はくがいゑ出す事無して、
汝供が
宝物に可
㆑有候得ば、各々の事は不
㆑書して、我一名之事又は我れ辛労しても見も
成、子供も有程の御奉公申上而、御取上無とも其に御不足不申上候。何事も先之世の因果と思ひ而、御不足無奉公を申上よ。其に寄何れもの事書不申候。其為此書物門外不出可有者成。以上。
【 NDLJP:94】
第二中
小豆坂之合戦之明の年、今河殿寄、
雪斎長老を名代として、駿河、遠江、三河、三箇国の人数を
促而押而出、西三河之
案祥得
即取つめけり。
案祥之城に者、小田之三郎五郎殿うつらせ給ひ而、
御処に、四方寄、
責寄而、
鐘太鼓を
鳴し、四方寄、矢
鉄砲をはなし、天地を
響かせ、
鯨声を上、もつたて、かひ立、せい
楼をあげ、矢蔵を上、竹たばを付而、
昼夜、時之間もゆだん無、荒手を
入替々々
責入れば、早二三之丸を
責取而、本丸斗に成而、
噯ひを懸而、二の丸得おろして、
即、
堄をゆて、押こみて、
𥯚の内之鳥、あじろの内の、ひ魚のごとくにして置、其寄して小田之弾正之忠得、
雪斎長老寄申しつかはしけるは、三郎五郎殿をば、二の丸得、押おろし、
即堄をゆいて、押入而おく。然とは云ども、松平竹千代殿と、人質替にも被成候はんや。其儀においては尤成。然らずんば、是に而御
腹を切せ申さんと、申つかはしければ、平手と林両人寄返事に、仰被越候儀尤に存知候。さらば取
替申さんとて、其時
相互に、替相にならせられ給ひし寄、竹千代様者、駿河之国得御下被成、
駿府之、少将之宮之町に、御年七歳寄、十九之御年迄、御
気伻を被成候御事、云に無
㆑斗、あたりにて、
䲼をつかはせられ給し迄も、御
気遣を被成候。
去程に人者只、情あれ。原見石主水が屋敷得、御
鶚それ而入ける時者、折折うらの林得入せ給ひ而、すゑ上させ給へば、主水申様は、三河の忰に、あきはてたりと、度々申つるを、御無念にも思召けるや、三拾七八年程へて後、遠江之国、高天神之城を、甲斐之国の、勝頼方寄
持けるを、押寄而、
堀を
掘、
堄をゆい、塀柵付而
烯害させ給ひし時、原見石主水も、其時城に
籠ける。早兵粮米も尽きて、切而出けるを、
生取而此由を申上ければ、其原見石と申者、我
昔駿府につめて有し時に、上原得、
鶚つかいに出るに、原見石が林得、
鶚のそれて入時、すゑ上に入候へば、三河のせがれに、あきはてたると、度々に
置而申つる。我も
侤たり。原見石も可
㆑存。とてもわれにあきたる原見石なれば、とく
〳〵腹を
戮申との御
諚成。原見石、最後もよかりける。尤其儀成、
悔敷事に
非とて、南得むきて腹を切りけるを、そば寄申けるは、さすがの原見石程の者が、最後をしらずや、西にむきて
腹を
切と云ければ、原見石が申、
汝物をしらずや、
仏者
十方、
仏土中、
无二亦、
無三、
除仏、
方便説と、
説給得者、西方にばかり、極楽者有と斗思ふか、
荒胸狭や。いづれの極楽を嫌はんやとて、南にむきて腹を切けり。然所に、大河内と申者は、其比再々御前得も参、御用をもたして、御奉公ぶりを、いたしたる者なれば、城寄も何時切而出るとも、
汝等は石川
伯耆守
責口之前に、石風呂のありける中得入而居よと仰せければ、御意之ごとく、大河内は、石風呂之中にぞゐたりけるを、命を御
扶被成、其
耳成、物を被下而、送り而国得御返しあり。能あたり申大河内も、
悪あたり申。原見石も一つ時、一度に高天神の城に籠りて、城をば一度に出るとは申せども心に
哀見を
勿而、人に能あたりたる者は、天道の御恵に仍、
忽に、打死をする所を命を
佑る。御
幼少之御時、能あたり申ならば、此度
【 NDLJP:95】の命は、無
㆑遖佑べきを、心に
慈悲を
持去故に仍、討死の
場に而、
生取れ而、腹を切たる儀は、主之奉公には、同事にはあれ
供外のきけいと申、其身之ためには、迷惑成。是を
見に付而、只人者
慈悲之心を本として、人を
悪する事なかれ。去程に御年七歳寄御十九迄、駿河に引被
㆑付させ給ひ而、其内者御扶持方斗之あてがいにして、三河之物成とて少もつかはされ候事
成して、今河殿得不
㆑被
㆑残
押領して、御普代之衆者、拾箇年余、御ふちかたの御あてがひ可被成様もあらざれば、せめて山中弐千石余之所を渡してもくれ
去歟、普代之者ともが
餓死に及
体なれば、かれらにせめてふちかたをもくれ度と被
㆑仰けれども、山中弐千石さゑ渡し候はねば、何れも御普代衆手作をして、年貢石米をなして百姓同前に
鎌鍬を取、
妻子をはごくみ、身を
扶荒れぬ
形をして
誠に駿河衆と云ば気を取
拝つくばひ、折
屈而髃身をすくめて
恐をなして
歩く事も、若
何成事をもし出てか、君之御大事にも成もやせんと思ひ而、其
耳斗に各々御普代衆有にあられぬ
気伻をし
趙廻。拾箇年に余年には五度三度づつ駿河寄尾張之国得
働に而有、竹千代殿の衆に先懸をせよと申越けれども、竹千代様は御座不
㆑被
㆑成、
誰を御主として先懸をせんとは思得ども、然供御主は何くに御座候とも、普代之御主様得の御奉公なれば、各々我々不
㆑残罷出て、先懸をして
親を打死させ子を打死させ、
伯父姪従兄弟を打死させ、其身も数多の
疵をかうむり、其間々には尾張寄
働ければ出て者
禦。昼夜心を尽し、身をくだき
働とは申せども、未竹千代様之、岡崎得入せ給はぬ事之
悲しさと、各々の身に余りて
歎けり。今河殿も竹千代殿の普代之者をさゑ
害あげたらば、竹千代殿を岡崎得入申間敷とや思召哉、
此方彼方の先懸をさせ、数多之人を
害、然処に今河殿寄
苅屋之城を忍び取に取んと、伊賀衆を
喚寄付けり。水野藤九郎殿者恪気の
深き故に、城之内にかいがは敷人を置給而、年寄たる
台所人之様成者、
夫あらしこ、其外年寄、小性の様成
役にも
立去者どもを取
集而、四五十人斗居たり。其故
熊村と云
郷に目懸を置給得ば、其後通い給ふとて、浜手の方をば人之行かよいなければ、聞懸而浜之方寄伊賀衆やす
〳〵と忍入而、藤九郎殿を打取。其外之者どもを
此方彼方得押寄々々
皆打
取而、二の手を待けり。其時岡崎衆を二之手にするならば、
無㆑難城を取かためべき物を、水野下野殿者竹千代様の御ためには、
眼前の伯父、藤九郎殿者下野殿には御子、竹千代様には御いとこなれば、其に心を置
歟、岡崎衆には不
㆑付して、二の手を三河之衆に申被付ければ、をくれても有
歟、二の
手慹ければ
苅屋衆之
爰はと思ふ衆が、早
悉おとなの牛田玄蕃所得懸寄而、
此方は何とゝ云ければ、玄蕃云、何とゝは
酷とて
即倍程に、其
儘城を
騎返而、伊賀衆を八十余打取。然ども藤九郎殿頸をば羽織につみて、床ゑ上而
社置。駿河衆も城を
騎返され而、手をうしないける処に、早小河寄下野殿懸着給得ば、駿河衆も足々にして引退く。然処に小田之弾正之忠も御遠行有而、信長之御代に成、竹千代様も早御元服被成、義元の元を取せられ給ひ而、次郎三郎元康と申奉る。
永禄元年戊午の年、御年十七歳にして、大高の兵粮を請取せられ給ひ而入させ給ふ処に、敵も出て見【 NDLJP:96】得ければ、物見を出させ給ひしに、鳥居四郎左衛門、杉浦藤次郎、内藤甚五左衛門、同四郎左衛門、石川十郎左衛門など見而参、今日之兵らう入者如何御座可有哉。敵陣を持而候と被㆓申上㆒候処得、杉浦八郎五郎参而申上候者、早々御入候ゑと申上ければ、各々被㆑申けるは、八郎五郎は何を申上候哉、敵きをいて陣を持たると云。八郎五郎申、いや〳〵敵者陣は不㆑持、御旗先を見而山成敵方が下得おろさば、陣を持たる敵なれども、御旗先を見而、下成敵が上得引上申せば、兎角に敵者武者をば持ぬ敵に而御座候間、早々入させ給得と申ければ、八郎五郎が申ごとく成、早々入よと被仰而、押立て入させ給得ば、相違無く入給ひて引のけ給ふ。大高之兵粮入と申而御一大事成。然間信長も清須得引給ふ。次郎三郎様之御おぼゑ初成、其寄岡崎得引入給ひて、寺辺之城ゑ押寄給ひ而、外ぐるはを押敗放火して岡崎得引入らせ給ひ而、次に梅がつぼの城得押こみ給ひければ、城寄出て禦�と云とも、何かは以堪ゑべき。付入にして外がまゑゝ追入、二三之丸迄焼排而、数多打取而、其寄岡崎得引せ給ひ而、次に広瀬之城、衣之城得押寄給ひ而、数多打取かまいを敗、放火して引きのけさせ給ひ、其寄岡崎得引入給ひ而、程無又駿河得返らせ給ふ。御普代衆之喜申事無㆑限。扨も何とか御成長給ひ而、弓矢之道も如何御と、朝暮無㆓心元㆒案じ参せ候得ば、扨も〳〵清康之御勢に能も〳〵たがはせ給去事之目出たさと申、各々感涙泊而喜けり。扨又義元、尾張之国得出馬之時、次郎三郎元康も御供被成而御立有。義元者駿河、遠江、三河、三ヶ国之人数をもよをして、駿府を打立而、其日藤枝に付。先手之衆は島田、金谷、仁坂、懸河に付、明ければ藤枝を立而懸河に付、先手者原河、袋井、見付、池田に付、明ければ懸河を立而引間に付、諸勢は本坂と今切ゑ両手にわけて押而出て、御油赤坂に而出合けり。義元者引間を立而吉田に付、先手は下地之御位、小坂井、国、御油、赤坂に陣取、吉田を立而岡崎に付。諸勢者屋萩、鵜等、今村、牛田、八橋、池鯉鮒に陣之取、明ければ義元池鯉鮒に付給ふ。此以前寄くつ懸、鳴海、大高をば取而持たれば、くつ懸之城には駿河衆入番有り。鳴海之城をば岡部之五郎兵衛が居たり。大高には鵜殿長勿番手に居たり。信長寄大高には取出を取而、棒山の取出を佐間大角と申者が勿而、明ずして居たりしを、永禄三年〈庚申〉五月十九日に、義元は池りう寄段々に押而大高ゑ行、棒山之取出をつく〴〵と巡見して、諸大名を寄而良久敷評定をして、さらば責取。其儀ならば元康責給得と有ければ、元寄踸殿なれば即押寄而責給ひければ、程無たまらずして佐間は切て出けるが、運も尽きずや、打もらされて落而行。家の子郎従どもをば悉打取。其時松平善四郎殿、筧又蔵、其外之衆も打死をしたり。其寄大高之城に兵らう米多籠。其上に而又長評定の有けり、其内に信長者清須寄人数をくり出給ふ。評定には鵜殿長勿を早長々の番をさせ而有り。誰を替にか置んとて、誰か是かと云内、良久敷誰とても無。さらば元康を置申せとて、次郎三郎様を置奉り而引のく処に、信長者思ひの儘に懸付給ふ。駿河衆是を見而、石河六左衛門と申者を�出しける。彼六左衛門と申者は、大剛の者に而、伊田合戦之時も面を十文字に切はられ、頸を半分切れ、身の内につゞきたる処も【 NDLJP:97】無、疵を持たる者成を�而云けるは、此敵は武者を勿たるか、又もた去かと云。各々の仰に不㆑及、あれ程若やぎ而見えたる敵の、武者を勿ぬ事哉候はん歟。敵は武者を一ばい勿たりと申。然者敵之人数は何程可㆑有ぞ。敵之人数は内ばを取而五千も可㆑有と云。其時各䇻て云、何とて五千者可㆑有ぞと云。其時六左衛門打䇻而云、方々達は人数のつもりは無㆓御存知㆒と見えたり。かさに有敵を下寄見上而見時は、少数をも太勢に見物成に有。敵をかさ寄見おろして見れば、太勢をも少勢に見物にて候。方々達のつもりには、何として五千寄内と被仰候哉、惣別か様之処の長評定者、能事は出来せ去物にて候。方々達山を責歟責間敷歟との評定久敷、又城之替番の詮義久敷候間、ふつゝと能事有間敷と申つるにたがはず、是得押寄給ふと其儘、取あゑずに棒山を責落させ給ひ而、番手を早く入帰給ひ而、引かせ給はでかなはざる処を、余りにをもくれ而、手ねばく候間、ふつゝと能事有間敷、早々被㆑帰せ給得と、六左衛門申ければ、急早めて行処に、歩行者は早五人三人づつ山得あがるを見而、我先にと退く。義元は其をばしり給ずして、弁当をつかはせ給ひて、ゆく〳〵として御給ひし処に、車軸の雨がふり懸る処に、永禄三年〈庚申〉五月十九日に、信長三千斗に而切而懸らせ給得者、我も〳〵と敗軍しければ、義元をば毛利新助方が場もさらさせずして打取、松井を初として拾人余、枕を并打死をしけり。其外敗軍して追打に成、其儘押つめ給はゞ駿河迄も取給はんずれども、信長は強みを押させられ給去人なれば、其寄清須得引入給ふ。然ると申に、元康の�除を被成候物ならば、か程の事は有間敷に、大高の城之番手を申被㆑付し事社、義元の運命成。岡部之五郎兵衛は、義元打死被成、其故屝懸之入番衆も落行供、鳴海之城を持固而、其故信長を引請而、一責々られて其上にて、降参して城を渡し、あまつさえ信長得申義元之しるして申請而、駿河得御供申而下けり。御死骸を取置申而、御しるし斗之御供申而下事、たぐいすく無とも申つくしがたし。此五郎兵衛を昔之事のごとくに作ならば、武辺と言侍之義理と云、普代之主の奉公と云、異国はしらず、本朝には有難し。尾張之国寄東において、岡部之五郎兵衛をしらざる者は無。扨又義元は打死を被成候由を承候。其儀に置而は、爰元を早々御引除せ給ひ而、御尤之由各々申ければ、元康之仰には、たとへば義元打死有とても、其儀何方寄もしかとしたる事をも申不㆑被㆑来に、城を明退若又其儀偽にも有ならば、二度義元に面をむけられん哉。其故人のささめき䇻くさに成ならば、命ながらゑて詮もなし。然者何方寄もしかとしたる事無内は、菟角にのかせられ間敷と仰除而御座候処得、小河寄、水野四郎左衛門殿方から、浅井六之助を使ひにこさせられて、其元御油断と見得たり。義元社打死なれば、明日は信長其元得押寄可被成、今夜之内に御支度有而、早々引のけさせ給得、然者我等参而、案内者可申由を、申被㆑越候得ば、六之助、主之使に来り而申けるは、我等に御案内者申而、早々御供申せ。信長押寄給はゞ御六ヶ敷候はんと、四郎右衛門申被㆑越候間、我等に三百貫被㆑下給得、御供申さんとて知行をねぎりて御案内者を申けり。水野四郎右衛門殿は腹を立、憎やつばらめ、成敗をいたし度と被申候得ども、敵味方の事なればせいばいも弄、大高【 NDLJP:98】之城を引のかせられ給ひ而、岡崎には未駿河衆が持而居たれども、早渡してのきたがり申せども、氏真にしつけのために、御辞退有而請取せられ給はずして、直に大樹寺得御越有而御座候得ば、駿河衆岡崎之城を明而退ければ、其時捨城ならば、拾はんと仰有而、城得うつらせ給ふ。其時御普代衆悦而、扨も〳〵も目出度御事哉、十ヶ年に余普代之御主様を遠くに置奉り而、一度岡崎得奉㆑入而、とてものはしりめぐりを御目之前に而申度と願ひ而、余国も無、猪猿之様成やつばらどもに折れかゞ見、敗つく敗かゞみまはる事も、一度は君を是得入申さんため成。御年六歳之御時此城を御出被成、永禄三年
〈庚申〉五月二十三日、生年十九歳之御年、岡崎之御城得入せ給ふ事之目出度さと申而、悦申事無㆑限。然間駿河と御手切を被成候得て、元康を替させられ而、家族にならせちれ結ぶ。扨又板倉弾正を中島之郷に而松平主殿助殿ゑ仰被㆑付、御成敗被成候得と而、仰被㆑付ける処に、打漏し給得ば、岡の城得来り而、岡之城を持所に岡崎寄押寄給ひ而、責おとし給得ば、板倉弾正者東三河得行岡崎も方々得御手づかいを被成けり。或時は広瀬之城得御働被成、押つめ而構ぎはにてはげ敷せりあひ有而、追こみ而曲輪を破、数多打取而引給ふ。又有時は履懸之城得押寄而、町を破放火して引給ふ。又有時は衣之城得押寄、数多打取て引給ふ。有時は梅が壺之城得御働有而、町を破而引給ふ。有時は小河得御働有ければ、小河寄も石が瀬迄出てせり合けり。其時鳥居四郎左衛門、大原佐近右衡門、矢田作十郎、蜂屋半之丞、大久保七郎右衛門、同次右衛門、高来九助、是等が鑓を合成其寄引のき給ふ。又有時は寺辺之城得御働有而、押懸而城をのり取給ふ。又有時は苅屋得御働有。苅屋寄十八町得出てたゝかいけり。十八町にて大久保五郎右衛門、同七郎右衛門、石河新九郎、杉浦八十郎鑓が合、但杉浦八十郎は爰に而打死をしたり。其寄互に引のく。又或時は長沢得御働有而、鳥屋が根之城得押懸而、荒々とあて給ふ。其時榊原弥平々々兵衛之助を、あれは誰ぞ早しと被仰ければ、榊原弥平々々兵衛之助に而御座候と申ければ、早押こみて有り。更ば早之助と付よと被仰けるに仍、榊原早之助と申成、又有時は西尾之城得御働被成、是に而も鑓が合、又有時は東条之城得御働有而、各々鑓が合、又有時は衣之城得押寄給ひて、各々鑓が合、越前之柴田と大久保次右衛門鑓が合、ある時は小河得御働有、小河衆又石が瀬迄出で各々鑓が合、石川伯耆守と高木主水が鑓が合、又有時は梅が壺得御働、是にても各々鑓が合、此城城得度々に置而、二三ヶ年は御無㆑隙、月の内には五度三度づつ御油断無御働有。其後信長と御和談被成し寄は、此城々得御働は無。但西尾之城と東条之城は駿河方なれば、節々之御働成。吉良殿も惣領の義藤は、清康之御ためには妹婿なれば、家康之御ためには大姑婿成に寄而、駿河得下申而、藪田之村に置奉、舎弟之義諦を義藤寄西尾の城に置給ひしを、東祥之城得義諦をうつし給ひて、西尾の城得は牛久保之、牧野新次郎を留守居に申付而置。然所に松平主殿助殿は中島之城に東条にむかはせ給ひ而御而、日々夜々の迫合ゐ摝かまりに無㆑隙して、寸ん之隙を不㆑得。然間東条寄中島得働けるに、引羽に主殿助殿余り手ぎつく付給得ば、敵方取而返而こんずこまれつしける処に、主殿助殿打死をし給ふ。【 NDLJP:99】其をきをいにして敵は引のく。然者又荒河殿は義諦得逆心をして、家康之御手を取、坂井雅楽助を荒河得引入而西尾之城と日々夜々にせりあいければ、牧野新次郎もこらゑずして城を渡して、牛久保得行。其寄西尾之城には坂井雅楽助を置給ふ。東条之城得押寄而取出を取給ひ而、小牧之取出をば本多豊後守が持。醅塚之取出をば小笠原三九郎が持。共国之取出をば松井左近が持。本多豊後守手に而、藤瀿畷に而九月十三日にはげ敷せりあゐ有而、義諦のおとなの飛長半五郎を打取、味方には大久保太八郎、鳥居半六郎など打死をする。義諦も半五郎を打せ給ひ而寄、弄して頓而降参して城を下させ給ひ而、御扶持方に而御。半五郎は其年二十五に成けれども、武辺之者なれば敵味方共に申けるは、半五郎打死之上は、落城程有間敷と申せしは、年にもたらずして半五郎者斯被㆑申けるは、手柄成とほめたり。漸したる処に永禄五年〈壬戌〉に野寺之寺内に徒者の有けるを、坂井雅楽助押こみ而けんだんしければ、永禄六年〈癸亥〉正月に、各々門徒衆寄合而、土呂、鍼崎、野寺、佐崎に取籠り而、一揆を迮而御敵と成。其時之義諦をすゝめて、御主となさんと云ければ、其に乗而頓而敵、東条之城得飛上而手を出させ給ふ。荒河殿も初に御味方被成候時、家康之御妹婿に被成申而、此度は逆心之被成義諦と一所に成給ふ。其耳成、桜井之松平監物殿も、荒河殿と仰被㆑合而別心を被成けり。上野にては坂井将監殿別心成。東三河者長沢、御油、赤坂を切而、東は不㆑被㆑残駿河方成。上様之御味方は竹之谷之松平玄蕃殿、形之原の松平紀伊守殿も御忠節成。深溝之松平主殿助殿是、土呂、鍼崎、東三河衆に両三人ははさまれ給ひ而御忠節有。西尾の城には坂井雅楽助有而、野寺荒河殿と取合而有。本多豊後守は、土井之城に居而、土ろ鍼崎に向有而之御忠節成。松平勘四郎殿も、松平右京殿も、野寺、桜井に向而御忠節成。右之御一門之衆、同本多豊後守は遂に一度も逆心は無、岡崎之南は土ろ鍼崎、其内は一里によはし。西南にあたつて、野寺、佐崎、桜井、其内一里有。北西にあたつて上野の城有、其間一里半有。東は長沢寄して不㆑被㆑残駿河御敵成。中にも、土ろ鍼崎者一の御手先なれば、一揆之衆も爰を先途と心得而、鑓をもふりまはす程之衆は、悉我も〳〵と此両所え籠り居たる。野寺寄も一揆は起る事なれども、彼地は岡崎寄は遠候ゑば、本人とは申せども、岡崎之間に、佐崎と桜井を隔てゝ有事なれば、是両所を押向はせて、却而野寺は手置に成。土呂〈[#「土」は底本では「士」]〉、鍼崎、佐崎、三ヶ寺は知ら去事なれども、尤一味の寺なれば同心をしたり。此三ヶ寺は岡崎近く候得ば帰而手先と成に仍、爰はと云衆は悉土ろ、鍼崎、佐崎、是三ヶ所得楯籠る。然とは云ども野寺得は何事も在こもらんと云而、吉良あたりの衆、又は寺内近衆に、大津半右衛門を初獚塚甚左衛門、獚塚八兵衛、獚塚又内、獚塚善兵衛、小見三右衛門、中河田左衛門、牧吉蔵、其外石川党、賀藤党、本田党、手島党、其外爰は之衆百余も可㆑有。小侍は数をしらずしるすに不及。事之在可㆑入とて居たり。佐崎之寺内に楯籠る衆は、倉地平左衛門、小谷甚左衛門、太田弥太夫、安藤金助、山田八蔵、安藤太郎左衛門、太田善太夫、太田彦六郎、安藤次右衛門、鳥居又右衛門、加藤無手之助、矢田作十郎、戸田三郎右衛門、其外是に�爰は之衆百騎余可有。其外小侍【 NDLJP:100】共は際限無。戸田三郎右衛門御前をそむき、御面目たるに寄而、寺内得入たる事なれども、心からの御別心にあらざれば、寺内を可㆑取と調儀をしける処に、顕れければ、外ぐる輪を燔而出で、其時御前がすみて罷出。佐崎に松平三蔵殿の城を勿而居給得ば、御加勢をくわゑ給ふ。岡崎得道一里有。其間に�ばりの取出小栗等に持給ふ。是は矢作河之西、やはぎ河之東、六栗之郷中に夏目次郎左衛門屋敷城を持而、ふかうずの松平主殿助殿と、取合而居たりけるを、主殿之助殿押寄而構を押やぶり給得ば、夏目次郎左衛門かなはずして、蔵屋得とぢこもり而有処に、松平主殿之助殿得仰つかはされけるは、次郎左衛門構をやぶらせ給ふ事ひるい無、殊更夏目我に敵をなし、弓を彎事憎き事かぎり無とは存れ共、左様にとぢこめ、箄の内の鳥になし給得ば、害給ふも同前に候得ば、弐置給得と仰つかはされければ、主殿之助殿大きに腹を立給ひ而、御敵を申而、錆矢を射懸申たる族を、何に御慈悲ふかければとて、弐置給得とはさりとは承とゞけざる御事なれども、御意ならば是非に不㆑及、惣別申上申に及去者をと慷慨被成ける。御免被成間敷夏目を御寛けるを、御慈悲哉と各々感じ入ける。扨又松平七郎殿は大草の城を持而、一揆と一味して御敵に成給得ば、是も土呂同前に御改易を被成ければ、何くゑ行供無、跡方も無して、七郎殿跡者絶たり。扨又土ろに立こもる衆、大橋伝一郎、石河半三郎、佐馳甚兵衛、佐馳甚五郎、大見藤六郎、石河源左衛門、佐馳覧之助、大橋左馬之助、江原孫三郎、本多甚七郎、石河十郎左衛門、石河新九郎、石河新七郎、石河太八郎、石河右衛門八郎、石河又十郎、佐野与八郎、江原又助、内藤弥十郎、山本才蔵、松平半助、尾野新平、村井源四郎、山本小次郎、ぐわつくわい佐五助、黒柳次郎兵衛、成瀬新蔵、岩堀忠七郎、本多九三郎、三浦平三郎、山本四平、阿佐見主水、阿佐見金七郎、賀藤小左衛門、平井甚五郎、黒柳喜助、野沢四郎次郎、其外是に劣ぬ兵ども、七八十騎こもる。其外小侍ども百余可㆑有。坂井将監殿得こもる衆、足立右馬之助、鳥井四郎左衛門、高来九助、足立弥一郎、芝山小兵衛、鳥井金五郎、本田弥八郎、榊原七郎右衛門、大原佐近右衛門、今藤伝次郎、坂井作之右衛門、其外是に劣ぬ衆数多有。扨又鍼崎之寺内得立こもる衆、八屋半之丞、筧助大夫、渡辺玄蕃、渡辺八右衛門、渡辺八郎三郎、渡辺八郎五郎、渡辺源蔵、渡辺平六郎、渡辺半蔵、渡辺半十郎、渡辺墨右衛門、久世平四郎、浅井善三郎、浅井小吉、浅井五郎作、波切孫七郎、今藤新四郎、黒柳孫左衛門、黒柳金十郎、本田喜蔵、賀藤善蔵、朝岡新十郎、賀藤次郎左衛門、佐野小大夫、賀藤源次郎、朝岡新八郎、獚塚七蔵、賀藤伝十郎、賀藤源蔵、賀藤一六郎、賀藤又三郎、成瀬新兵衛、坂辺又六郎、坂辺人屋、坂辺勝之助、坂辺桐之助、坂辺酒之丞、坂辺又蔵、此外是に劣ぬ衆七八十騎可㆑有。其外に小侍供数多有、上和田と日々夜々之たゝかい成。
扨又御味方の衆、松平和泉守、大給に有而御味方成。坂井雅楽之助、坂井左衛門丞、石河日向守、石川伯耆守、内藤三左衛門、内藤喜一郎、本田肥後守、本田平八郎、本田豊後守、上村出羽守、上村庄右衛門、上村十内、是は此時打死。鵜殿十郎三郎、是も同時打死。松平弥右衛門殿、松平弥九郎殿、【 NDLJP:101】松平次郎右衛門殿、松平金助殿、是も同時打死。鳥井伊賀守、鳥井又五郎、賀藤ひねの丞、賀藤九郎次郎、賀藤源四郎、米来津藤蔵、同小大夫、小栗太六郎、小栗弥左衛門、上野三郎四郎、青長蔵、押かも殿、中根藤蔵、中根権六郎、中根喜蔵、成瀬藤蔵、榊原摂津守、榊原早之助、榊原小兵衛、山田清七郎、山田そぶ右衛門、伊名市左衛門、松井左近、香村半十郎、中根肥濃、中根源次郎、中根甚太郎、中根新左衛門、中根弥太郎、中根喜三郎、天野三郎左衛門、天野三兵衛、天野助兵衛、天野清兵衛、天野伝右衛門、天野又太郎、山田平一郎、芝田七九郎、平岩七之助、賀藤播磨、渥海太郎兵衛、青山喜太夫、今村彦兵衛、長見新右衛門、青山牛之大夫、今藤馬之左衛門、青山善四郎、平岩五左衛門、河斎文助、河上十左衛門、久目新四郎、八国甚六郎、ほつち藤三郎、坂井下総、ほそ井喜三郎、大竹源太郎、小栗助兵衛、小栗仁右衛門、案藤九助、池野波之助、池野水之助、吉野助兵衛、遠山平大夫、鳥井鵧之助、鳥井才一郎、筒井与右衛門、筧豆書、筧牛之助、土屋甚助、打死。筒井内蔵、ふたゑつゝみにて打死する。土屋甚七郎、林藤助、内藤甚五左衛門、内藤四郎左衛門、松山山城、杉浦藤次郎、山田彦八郎、此外岡崎に有衆数多有。御手先得出る衆、上和田には大久保一類有。鍼崎に向。大久保五郎〔新八郎〕右衛門、大久保甚四郎、大久保弥三郎、大久保七郎右衛門、大久保次右衛門、大久保八郎右衛門、大久保三助、大久保喜六郎、大久保与一郎、大久保新蔵、大久保与次郎、大久保九八郎、宇津野京三郎、筒井甚六郎、杉浦八郎五郎、杉浦弥七郎、杉浦久蔵、松山久内、松山市内、天野孫七郎、市河半兵衛、田中彦次郎。扨又土井の城には本田豊後守有而御忠節申。扨又ふかうずには、松平主殿之助殿、竹之谷には松平源番殿、かたのはらには松平紀伊守殿、是三が所相并御忠節有。扨又屋萩河之西には、藤井之松平勘四郎殿、ふつかまの松平右京殿、両所相并而御忠節有。扨又佐崎には松平三蔵殿御加勢を申請而御忠節有。扨又筒ばりには小栗助兵衛、小栗二右衛門、小栗大六郎、其外小栗等有而御忠節有。扨又岡崎寄上和田得は廿丁斗有。土ろ寄も上和田得廿丁計有。扨又鍼崎寄上和田得は、十二丁計之間に而有処に、大久保一類之者どもが集而、日夜油断無塞戦而、終に其寄岡崎得敵を上たる事無。鍼崎寄上和田得働ければ、矢蔵に上而竹之筒の蚵を吹ければ、岡崎には上和田に蚵が立と聞と被㆑仰而、番を付而置せられければ、すはや上和田に蚵社立申せと申上ければ、日比仰被㆑付候間、早御馬に鞍を置而引立れば、早召而何時も人先に懸付させ給ふを、敵は遠見を置而見而者、殿の懸付させ給ふに早のけとて、足々にしてのく。げにと五丁十丁之事なれば、上様を見懸申而は、其儘寺内得引入、又重而之懸合にも何ものごとく貝を立ければ、御懸付も何ものごとくに懸付給ふ。其時は御供申而懸付申たる衆には、上村庄右衛門、黒田半平、敵には八屋半之丞と上村庄右衛門が鑓を合る。渡辺源蔵などが鑓が合、其時黒田半平を渡辺源蔵がつきたをす。然処に懸付之衆重ければ八屋半之丞も渡辺源蔵も引ぬいて足々にしてのく。八屋半之丞はほそ畷而得折而退ける所得、水野藤十郎殿懸付給ひ而、半之丞が八幡大菩薩のけ間煎に、返と仰ければ、八屋立𠌫而につこと笑而、藤十郎殿が我等にはとてもなら【 NDLJP:102】せられ間敷と云而、鑓をまつ直に突立て手につばきを付而手ぐすねを引。藤十郎殿重而仰けるは、とてもやる間敷物をと仰ければ、八屋云、とても我には成間敷に、こたへ給得とて鑓おつ取而、錣を傾け而懸りければ、藤十郎殿脇得闢給ふ。半之丞のゝしりて、左程に社思ひたれ。我に何がならせ給はんと云而ののしる。半之丞と申は脊かし高にして力の強ければ、白樫の三間柄を中ぶとによらせ而、長吉之身の四寸斗成をとぎ上にして紙を吹き懸而、颯々ととほるを、えりはめて持。然間長柄之持鑓も少成ども錆のうきたる事は無。去間半之丞が鑓さきには誰かむかはんと、独ごとを云ける者成。然間半之丞は其寄野得上てのく処得、上様懸付させられて、八屋め返と被仰ければ、心得たりと而返而見而あれば、上様に而有ければ、取つ而戻し鑓をひきずり而頭を傾而、虚空三宝に逃行処得、松平金助殿懸付而、八幡半之丞返と仰ければ、取而返而、殿様なれば社逃たれか、御身達にかとて帰し而、金助殿も八屋も互に鑓を突き合而五度六度合給ふが、力の強き者が樫之三間柄を石突を取而突立れば、かなはじと思召、鑓を引抜而うしろへしさり給ふ所得、ふみ込み而擲突にしければ、金助殿うしろ寄前ゑ鯨に魚淙を立たる如くに突き立けり。走り寄而、鑓を引ぬきける処得、又上様懸付させられ給ひ而、八屋めと被㆑仰候を聞而、又鑓を引ずり而跡も見ずしてにげにけり。上様も御帰被成而、八屋めが我にもにげんやつにはあらね共、我を見而にげけると御意被成、御機嫌能。然間上和田寄大久保一類ともが伊内之都得さがりて、鍼崎之寺内之きはに而きび敷せり合けり。其時大久保七郎右衛門と本田三弥相ためにしたるに、七郎右衛門早くはなし候而、三弥を打たふす。然ども其手に而は死ず。かゝりける所に一揆方之申けるは、爰元をきび敷あひしらひ而、槉之郷中をとをり、妙国寺得出て取きる物ならば、上和田得入事成間敷、然時んば賓をつよくさせ而、跡寄切而懸ならば、土井を指而のくべし。さもあらば土井之間の水田得追入而可㆑打と申を、半之丞者大久保浄玄婚なれば、有は小姑、有は伯父姑、従弟姑なれば泚を捖。然と云而も各々を打せ而見る所にもあらずと思ひ而、皆々出て取剿と云。槉之郷中之原得出て馬を乗ありきければ、妙国寺前を取剿と見えたり。半之丞が来り而懸まはる成。急爰を引のけよとてのきければ、案之ごとく敵打除而出けれども跡にて候得ば手をうしなひたるふぜい成。八屋が出て懸まはり而、しらせずば大久保一名は不㆑被㆑残打れ可申間、愈一揆ははゞかり可㆑申けれども是も、上様の御運の強き故成。然ば佐崎之寺内得取出を被㆑成ける所に、水野下野守殿鴈屋寄武具に而、佐崎之取出得見舞に御越有。然処に土口ゑ誉たる一揆衆、佐崎之取出之後詰として、作岡大平得働而焼立る。佐崎に而御覧じて下野殿得被㆑仰けるは、御貴殿は是寄御帰被成候得、我等は上和田を直に取切申而不㆑被㆑残討取可㆑申と被㆑仰ければ、下野殿は只御無用と仰けれども、兎角に御帰り被成候得、我等は急申とて早御馬に召ければ、是を見捨而何と而返り可㆑申哉、其儀ならば御供申さんとて一度に懸給ふ。上様之御ためには能御仕合成。敵之ためには不運成次第成。渡り河地を越させ給ひ而、大久保一類をは鍼崎之押にをかせられ給ひ而、大久保弥三郎計御案内者申而、盗人来をすぐに小豆坂得あがらせ給ひ而、馬頭之ふみわけ得出【 NDLJP:103】させ給得ば、作岡大平寄帰るとて、鼻合をして洞天す。石河新九郎は道を替而のき而は、たと得ば生而をもしろからず、又道をかゑ而山之中に而打れたらば、新九郎社端道をして打れたるなどと、人に沙汰せられん事は、骸之上之恥辱可㆑成とて、本道を直にのきければ、金之団扇の指物を指ける間、新九郎と見懸而、我も〳〵と追たり。水野藤十郎殿懸付而突きおとして打取給ふ。頓而佐馳甚五郎、大見藤六郎、是兄弟も一つ場にて打取、波切孫七郎そこを行過而、大谷坂る上処を上様懸付させられ而、二鑓迄つかせ給ふに懸のび而馬寄落すして迯行。孫七郎を二鑓つきたるに迯而行たると被㆑仰ければ、波切孫七郎と申者、無㆑隠武辺之者又は気ちがい者なれば、此御意を聞而我は上にはつかれず、別之者につかれたると申。上様につかれ申と申ならばをぼえと申、又は其身のためにも能㆑可有に、眼前に上様につかれ申而、上様にはつかれ申さぬと申たるに仍、御憨被成而、其後終に子供之代迄御前へ召不㆑被㆑出。然処に八屋半之丞、大久保次右衛門を�出し而、御無事可㆑仕由申上候得と申けるに付而、大久保新八郎を同道して、次右衛門と両人御前に参、此由を申上ければ、御喜被成而さらば急との御意なれば、八屋半之丞、石河源左衛門、石河半三郎、本田甚七郎、此外五三人申けるは、何と成とも御存分次第可㆑仕候。然ども何れもちがい申儀御赦免被㆑成可㆑被㆑下由、過分申つくしがたく奉㆑存候。其儀ならばとてもの儀に寺内を前々のごとく立をかせられ而可被下、次には此一揆のくはだての者の命を御捨免被㆑成而被㆑下候はゞ御過分に奉存候。然とは申とも各の存分は不存候へども、まづ申上候各に此事申ならば、定而異儀に及衆もあまたの中なれば不㆑存候。一人成とも何かと申者も候はゞ、又其に付て一味する者も御座候はゞ、此御ぶじ罷成難し。其時は我々供之斯斗存知候而も及間敷候得ば、御不沙汰は無して、御無沙汰に罷成候べき。其時は却而二罪之御咎人に可㆓思召㆒。然ば此事他言無して、此者供斗に而土ろ得引入可申間、各々の命右之くは立之者の命、寺内供に前々のごとく、御捨免之儀を申上給得と申に付而申上ければ、尤之儀汝供申如く面々が命、並に寺内前々のごとく、相違有間敷一揆企之者にをいては、兎角御成敗可歳成との御意なれば、右の者供惶ながら又言上申、寺内并に各々が命被下候儀、御過分申つくし難し。同はいたづら者の命をも被下候様にと申而、御ぶじの儀が支ゑければ、大久保浄玄申上けるは、姪小供御手先得罷出申、日夜之戦無㆑隙仕、賸正月十一日には、土ろ鍼崎、野寺三ヶ所之一揆方一手に罷出、上和田へ働ける処に一類之者供罷出ふせぎ戦申に付而、其日せがれ之新八郎は眼を射られ、姪の新十郎も眼を射られ、其外之姪小供何れも手ををはざる者一人も無して、爰をせんどとしたる処得、上様御自身早く懸付させられ候に付而、敵方御影を見付申に付而、我先にと迯のきけるに仍、一類供も利運仕。其時血池を滂したるをば、上様御覧じ被成けり。其時之姪子之辛労分と思召而、此一揆のくは立之者の命を被下候得、此一揆をさへ御無事に被成而候はゞ、彼等を先立給ふならば、上野に有坂井将監を頓て�つぶさせられ給ふべき。何況哉吉良殿松平監物殿も荒河殿も其日に押つぶし給ふべき。何か之御無心も打被㆑捨給ひ而、何と成供面々が望次第に可被成【 NDLJP:104】候得而、先御ぶじにさせ給得、御手さへ広くならせられ給はゞ、其時は何と被成候はんも御儘に罷可㆑成物を、只今は何かと被仰処にあらずと申上ければ、さらば浄玄次第に徐置、起請を可㆑書とて、上和田之浄衆院得御出被成而、御起請をあそばし而、右之者供に被㆑下ければ、是をいたゞき而、さらばとて石河日向守を土ろの寺内得、高須之口寄八丁得引入ければ、一揆方之各々傲騒供、早乱入ければ不㆑叶して、我も〳〵と手を合ければ、御寛有而方々得御先懸をす。然間松平監物殿も早かうさんに御寛給得ば、其付而荒河殿もかうさんし給得供、御無㆑徐ければ上方得浪人被成而、河内之国に而御病死成。坂井将監殿も上野を明而駿河得落行給ふ。一のをと名に而有ければ、上様歟将監殿歟と云程之威勢なれども御主に勝事弄して、それ寄将監殿筋は絶而跡かたも無。然間義諦もならせられ給はで、佗事被成而東祥之城を下させ給得ども、御扶持方をも出させ給ねば、御身も弄して上方得御浪人被成、浄体を頼ませ給ひ而御座候つるが、悪田河に而打死を被成けり。其後土ろ、鍼崎、佐崎、野寺之寺内をやぶらせ給ひ而、一向宗に宗旨をかゑよと、起請を書せられ給得ば、前々之ごとくに被成而可被下と、御起請之有由を申ければ、前々は野原なれば、前々のごとく野原にせよと仰有而打敗給得ば、坊主達は此方彼方得迯ちりて行、御敵を申上御徐之衆も有、又鳥井四郎左衛門、渡辺八郎三郎、波切孫七郎、渡辺源蔵、本田佐渡、同三弥、御国にはあらずして、東得行衆も有、西国得行衆も有、北国得行衆も有。大草の松平七郎殿は、何方得行ともしらず、何れも御敵申者供を扶置せられ候御事、御慈悲成儀どもとてかんぜぬ人も無。其寄して東三河得御手を懸させ給ひ而、西之郡城を忍取に取せ給ひ而、鵜殿長勿を打取、両人之子供を生取給ふ。然間竹千代様をば駿河に置まいらせられ而、御敵にならせ給ひければ、竹千代様を今害死奉、後害死奉、今日の明日のと罵れども、関口刑部少輔殿の御孫なれば、さながら害死奉る無㆑事。然ば石河伯耆守申けるは、いとけなき若君御一人、御戕界させ申さば、御供も申者無して、人之見る目にもすご〳〵として御べし。然者我等が参而、御最後之御供を申さんとて、駿河得下けるを、貴賤上下かんぜぬ者も無。然処に鵜殿長勿子供に人質がゑにせんと申越ければ、上下万民喜申事限無して、さらばと云而換させ給ふ。其時石河伯耆守御供申而岡崎得入せ給ふ。上下万民つゞい而御迎に出けるに、石河伯耆守は大髯噉そらして、若君を頸馬に乗奉り而、念し原へ打上而、とをらせ給ふ事之見事さ、何たる物見にも是に過たる事はあらじとて見物す。氏真は扨も〳〵あほう人哉。抑竹千代様を鵜殿に帰ると云法やく哉と云たり。其より思召置無㆑事取合給ふ而、牛久保、吉田得御働有而、度々のせり合に各々骨身を砕く成。早長沢之城をも取而、野田、牛久保にあたり而、一の宮に取出を取給ふ。駿河寄も佐脇と八幡に取出を取而、吉田、牛久保を根城にする。然処に氏真は駿河遠江之人数をもよをして、旗本は牛久保に一万斗にて有、一野宮を五千余に而謮を三千の内外に而後づめを被成けり。氏真男ならば出て陣をすべしと而、人数三千斗にて、八幡と佐脇之間得押出させ給ふ。本野が原得出て氏真の所を押とをし給ひ而、市の宮責ける者どもを押除而、其夜者取出に【 NDLJP:105】御陣取給ひ、明ければ本之道に出させ給ひ而とをらせ給得ども、氏真出給ふ事弄、市の宮の退口と申而、三河にて沙汰するは是成。其後八幡、牛久保、御油得働而、御油之東之台に而取合而、打つ打れつ火花をちらし而せり合、既御油之衆押崩されんとせし所得、岡崎寄上様早く懸付させられ給ふ故、敵を押崩して数多打取、八幡迄押こみ、放火して引給ふ。上様は敵之出るとは御存知無して、佐脇得之御働とて出させ給得ば能仕合成、八幡得御働被成けるに、二連木、牛久保、佐脇、八幡寄かた坂得出て合戦をしたり。頓而切くづされて、板倉弾正と婿之板倉主水を打取、扨又八幡之取出も佐脇之取出も明けり。然間小坂井に吉田、牛久保に向而取出を取給得ば、年久保之牧野新次郎も御手を取。扨又設楽は、東三河衆一人も御手を取ざる先に人一番に御忠節を申。然間四方は敵岡崎寄は程遠ければ、居城をさりて妻子を引ぐして、岡崎得詰めて居たり。東三河之国侍には設楽は一番、其付而西郷御忠節成。次に野田之蒯沼新八郎、下祥之白井が御味方を申。然処に二連木之戸田丹波守、御内通を申上し寄、人質を盗取んために、二れん木寄吉田得再々行而、城代と双六を打而、気をくつろがせて其後大韓櫃とを背負はせ、中得色々の物を入、吉田之門を入而番衆是を御覧ぜよ、御不審成物は候はずとて明而見せければ、いや其迄に及不㆑申と申ければ、然ば又此からうとを帰し可申間、御通し候得而被㆑下候得、しかしながら御不審も候はゞ、某が御城に罷在儀に候間仰被㆑越候得、参而改め御目に懸申さんと云得ば、其に及不㆑申相心得申と申せば、此からうとを能見しらせ給得とて、何ものごとく、城代と双六を打而どめいて遊内に、支度して右之からうとの中得、老母を入而せをはせ而通れば、何之仔細も無、盗出て合図して置たれば、小性が参而白須をねり出れば、頓而心得而双六を打納て立出る。門を出る寄馬之上に而長刀おつ取而、母を先得おつ立てのく。本寄申置たる事なれば、郎従どもは迎に懸迎たり。吉田と二れん木之間、相并たる所なれば、何之相違も無、手がら成人質の盗様比類無。其故御味方申けるに仍、其時戸田之丹波守に松平を被㆑下而、其寄此方松平丹波守とは申成。扨又吉田得取詰よせて取出を取せ給ひけり。起研寺之取出には鵜殿八郎三郎、其外の衆、醅壔之取出には小笠原新九郎、二れん木口の取出をば即丹波守が勿。下地得御働之時、本田平八郎と牧惣次郎が鑓を合、其時八屋半之丞少をそく出ければ、半之丞鑓が初ぞ急と云ければ、八屋聞而人が鑓をしたらば、我は切合迄よ。半之丞が二番鑓をしたるといはれては、嬉敷も無、鑓は勿而来るなと云て勿せず。然処に鑓脇に抜はなし而居たる者を、犇入而二人切ふせ而、三人めに河井少徳が鉄砲を懸而居たるに犇入而、京之口を取而切たる所を、正徳も無㆑䛳者の事なれば、身を不㆑引し而放しける程に、八屋半之丞がかうがめえ打込ければ、そこをば引のけ而其手に而死けり。正徳と云名はせはしき所にて、押付而其手負を打取と云ければ、立帰而八幡大井手負にてはなし。正徳のちんばぞと云たるに仍、さらば正徳となれとて、氏実之付給ふ。其寄して河井正徳と申成。今之浮世にかたは者をば嫌うと見えけるが、当世のかたは者はしらず。昔はかたは者をきらはざるに仍、正徳が様成者も有つる。然処に半之丞殿社打死し給ふ【 NDLJP:106】と、母之方得告げ来ければ、急母之立出て何と半之丞が打死と云か。畏候と申。扨最後は如何が有りつるぞ。ひるい無候。扨は心安物哉。若半之丞社最後悪きと聞ならば、我も命ながら得而せんも有間敷に最後之能と聞而嬉敷、打死は侍之役なれば、犇而悔むに不㆑及と云。女にはまれ成、さすがに半之丞が母成と云。然処に早吉田を渡し而行、長間作手段嶺もかうさんし而出仕をする。扨又甲斐の武田之信玄と仰合而、家康は遠江を河切に取給得、我は駿河を取んと仰合而、両国得出給ふ。蒯沼次郎右衛門、鱸石見、今藤登、是三人して案内者をして、永禄十一年〈壬辰〉十一月日、遠江得出させ給ふ。然間氏真は信玄に駿河を取れ給ひ而、懸河得落来り給ふ。上様は伊野谷得出させ給得ば、二俣早く御手を取、小笠原新九郎を召而、其方一類之事なれば、蚖堬得行而小笠原与人郎を引付給得と御証なれば、畏御請を申、其寄蚖壔得行ける処に、与八郎は人質をつれ而、秋山所得行を道に而逢而、御身は何方寄何くゑ通らせ給ふぞと云ば、新九郎申は、我等は御身之方得心懸而参りたり。御身は大勢引つれ給ひ而、何方得渡らせ給ふぞ。我等は秋山方得出仕いたし而、人じちを渡さんと思ひ而、是迄罷出申成と申せば、其儀ならば先御帰あれ、内談を申さんとて、すなはち押帰して申、当国は家康之御手に入成、御身も秋山方得之出仕はやめられ候得而、早々家康得御出仕あれ、為㆑其に某が参候と申ければ、何と成とも御貴殿之御計らひ悪事はあらじとて、秋山方得之出仕を頓而やめて、新九郎をつれ而、家康得出仕有。上様は懸河に当給ひ而、不入斗に御陣をはらせ給ふ。秋山は信濃寄も遠江の国あたご得出て、見付之郷に陣取而、国侍供を引付んとす。然処に家康寄仰つかはさる。大炊河を切而、駿河の内をば信玄之領分、大炊河を切而、遠江之内をば某領分と相定而有処に、秋山被出候事ゆはれ無、早々引帰らせ給得と御使之立ければ畏而候と而、山なし得引入すくもだが原得押上而、原河之谷をとをり、倉見西郷をとをり而、さよの山得出て駿河得行、秋山が異儀に及ならば打害被㆑成と被仰けれども、秋山異儀に不及して引除けるは、秋山巧者と社は申しける。然間永禄十一年〈壬辰〉に、氏真は、駿河をば信玄に押しはらはれ給ひ而、懸河得朝稲之備中守処得落来り給ふ。備中守が引請而、爰をせんどと摝供成難。然処に小原之備後守、日比、小笠原与八郎が奏者之事なれば、与八郎を頼而蚖堬へ、妻子を引つれ而落行ければ、入も不㆑立して妻子共に悉一人も不㆑残打害、扨もむごく哀成次第哉。小笠原が行末いかがあらんと諸人感じける。然処に久野が庶子どもに、久野佐渡、同日向守、同弾正、同淡路、本間十右衛門申けるは、爰に而人と成処成。いざや家康得敵に成而、懸河と相挿み而、爰をのかせ申間敷、久野が敵をするならば、遠江内之侍達は一騎も不㆑被㆑残して、敵に成而くつ帰すべし。さもあらば国中之一揆供も此方彼方寄起るべし。然者家康も深入をし而御ば、綻得入たる心成、いざさらば惣領しきにきかせんとて、久野三郎左衛門に申ければ、何れも申処尤にはあれども、然と云に一度氏真得逆心をし而、家康之御手を取奉而、氏真得弓をひく事をさ得、侍之弓矢義理をちがゑたると思得ば、夜之目も不㆑被㆑寝して、人の取さた迄も面目無して、赤面するに程も無して、又家康得逆心をする物ならば、二張の弓【 NDLJP:107】成。其故人之取仕にも内股膏薬とて後指を指れば、命ながらへても益も無、一心に家康得思ひ付給得とて承引なければ、各々罷立而申は、惣領に而有者に人と成給得と取立申とも、一円に承引なし。其儀においてはそうりやうには腹を切せ申而、鹿子の淡路を取立て、家康を跡先寄も取つゝみ、何方得ものがす間敷と申定ける処に、久野佐渡と本間十右衛門両人内談して申けるは、何況哉そうりやうと云又は主なれば、方々もつて何に知行を取、輙身を過ぐるとても腹をば切せられ間敷とて、両人くみ帰而此由申ければ、三郎右衛門驚而、其儀ならば御家勢を可㆑申とて其由申上ければ、尤と被㆑仰而御家勢を指つかはされ給得ば、三郎左衛門は二の九得折而、本城得御家勢之衆をうつせば無㆓何事㆒、然間淡路には腹を切せ、弾正は三郎左衛門姪なれば押除ける。其寄懸河得押寄、天主山に御旗を立させられ給得ば、城寄も爰者の者どもが出て、きび敷せり合有。其比信長に面目うしなひ而浪人して駿河得下、氏真得出御供して今城にこもり居たる衆之内に打死有、伊藤武兵衛をば謀久原次右衛門が打取、大屋七十郎をば大久保次右衛門が打取、小坂新助をは大手のぬりちが得迄押こみて、ぬりちがゑにて打取而のく。其外高名は数多有。其置謀久原慇懃に申、今日は組打に仕たると中上ければ、大久保次右衛門が申けるは、いや〳〵今日之高名にくみ打は一人も無く、御身之打たるも青皮の具足著而、鉄砲にあたり死而臥したるを打給ふ成。今日之高名は悉冷頸成。我等が取たるも鉄砲にあたり而死たるひゑ頸に御座候と申処に、内藤四郎左衛門高名をして来りて申は、高名は仕候得ども、今日之高名は某を初悉ひゑ頸に而御座候と申上ければ、内藤四郎左衛門と大久保次右衛門が口は扨も相たり。両人之衆には似相たりと各申ける。扨又天王山に取出を被成而、久野三郎左衛門を置せられ給ふ。西にはかは田村の上に取出を被成、各々番手に持。南には曽我山に取出を被成、小笠原与八郎が持。然間永禄十二年〈己巳〉正月二十三日に落城して、氏真は小田原得落行給ふ成。然処に三月日堀河に一揆の起き申候由告来りければ、其儘取あ得させ給はず、懸付給而催もなく偣程に、頓而へいに付而乗る。然間大久保甚十郎十七歳に而一番に乗りける処を、内寄鉄砲に而左のべにさきを打れて打死をする。平井甚五郎も打死をする。其外数多打死有。堀河は汐の指たる時は舟に而寄外行べきかたも無。しほひ之時も一方口なれども�無
㆑事璅程に、即男女ともになで切にぞしたりける。右之大久保甚十郎は、右に一揆之起申たる折節に通り合ければ、悉歴々の衆立も一同す。駭騒衆も有ければ、甚十郎は御膝元近召つかはれ申、御意の能ば一々に申上げけり。誰々は憔酷、跡先得迯ちり山得も迯入而御座候。誰々は不㆑乱して神妙に御座候つる由を申上ければ、せがれなれども神妙に能見たと御意被成御感成。然間見付之国を御住所に被成、城を取、原に各々屋敷取をしてすませ給ひけるが、爰は不㆑可㆑然とと浜松得引かせられ給ひ而、御城を拵へ給ひ御住所を定させ給ふ。
扨又、信長寄仰被越けるは、御加勢を被成而給候得、北近江得働を、被成候はんと仰被越候得ば、頓而すけさせ給はんとて、御出馬被成けり。元亀元年〈庚午〉二月日、信長鐘ヶ崎得働らかせ給ひけるに、越前衆【 NDLJP:108】つよければ、信長も大事と思召而、家康を跡に捨置給ひ而、さた無に、宵之口に引取せ給ひしを、御存知無くして、夜明而、木下藤吉、御案内者を申て、のかせられ給ふ。鐘ヶ崎之、のきくちと申而、信長之御ために、大事ののき口成。此時之藤吉は、後之世の太閤成。然者、信長北之郡得御働被成候はんと思召処に、越前衆は出、方々に取出を取、都得之行通りを停めんとて、三万余にて出ければ、信長も急、横山迄御出馬有而、家康に早々御加勢を被成而被下候得、越前衆罷出申候間、合戦を可被成由仰被越候得ば、相心得申とて其儘御出馬被成けり。信長殊外に悦せ給ひ而早く御出馬有。然者明日之合戦に相定申、一番は柴田、明智、森右近など申付候間、家康は二番合戦を頼入申と云ひて、毛利新助と、両人をもつ而仰被越候得ば、御返事にとても御加勢申故は、何と被仰候とも、是非ともに、一番合戦を仰可㆑被㆑付と仰被越候得ば、信長之御返事に、家康之御存分尤、左様に思召可被成、然ども早備組を仕たる事なれば、彼等を一番之やめさする事も、如何に候得ば、同は二番之請取せられ而給候得、其故一番も二番も同意成。二番と云而も時により一番に成事も多き物なれば、兎角に二番を頼入申と御返事有ければ、又押帰而被㆑仰けるは、尤そないぐみを御定之所を、一番を二番得と被仰候得を、如何がと思召すところ、尤承とゞけ申たり。一番も二番も同意と仰せられ候儀、是は承とゞけ不申。尤明日之合戦には、二番が一番にも社成りもや仕らん。其儀は時之仕あはせ、たとゑば二番が一番になると申しても、後之世までの書物には、一番は一番、二番は二番と書きしるして、末世までも可㆑有候間、兎角一番を申可㆑請。其故某が年も寄たる者ならば、三番四番に成りとも被仰候処に可有けれども、三十に足るたらざる者が、家勢に参而、一番を申請兼而、二番に有と、末世迄申伝へに、罷可㆑成事、迷惑仕候。兎角に一番合戦を、仰被㆑付候得、然らずんば、明日之合戦には罷出間敷候。然者今日引払ひ而罷帰可申と御返事有ければ、信長聞召而、家康之被仰も尤承とゞけたり。左程に思召給はゞ、愈忝存知候。其の儀ならば一番合戦を頼入申と被仰而、明日之御合戦は家康之一番陣成。然処に、各々申上けるは、此以前寄一番陣を仰被㆑付只今家康得、一番陣を被成候得との御諚之処、迷惑仕候と申上ければ、信長御腹を立給ひ、大成御声を被成、推参成忰どもめが、何をしりて云ぞと仰ければ、重而音を出事ならざれば、家康之一番陣に定ける。家康之仰には、明日廿八日之合戦に、今日廿七日に、是得着而一番陣を請取事、天道のあたへ成と被仰、御喜悦かぎり無。元亀元年〈庚午〉年六月廿八日の曙に、押出たま得ば、越前衆も、三万余に而押出す。信長之一万余、家康之人数三千余に而互に押出而、北風南風攻㦴処に、家康之御手寄、切くづして追討に打取給得ば、信長之御手は、旗本近く迄切被立、各々爰はの衆が打れけれども、家康之御前が勝而、おくへ切入給得ば、敵も即敗軍して、不㆑残打取給ひ而、今日之合戦は、家康之御手がら故、天下之誉を取と、信長も御感成。信長其寄、此方彼方押つめさせたまふならば、近江之儀は申に不㆑及、越前迄も切取せ給はんに、惣別信長は勝而、鋹之緒をしめよとて、其儘岐阜へ引入給ふ。桶狭間の合戦にも、義元をば打取給ふ故、【 NDLJP:109】其寄無㆑𠉧璅物ならば、�に三河、遠江、駿河迄納させ給はん。此時もをけばさまより清須得引入給ふ。然ども終には近江も、越前も、三河、遠江、駿河も御手には入たれども、勝而鋹の緒をしめよとて、其きをいを以てつよみをば、おさせられたまぬ御方成。然間元亀元年〈庚午〉十二月日、越前衆三万余に而、比叡に陣取而有。信長は志賀に御陣を取り給ひ而、家康ゑ御加勢之由仰被越ければ、石河日向守を指つかはさる。北国は早雪もつもりたる事なれば、兵粮米も尽き可申。然者敵を干し害べしと信長は思召処に、比叡山寄兵粮米をつゞけ申のみならず、賸帰り調儀をして信長を打せんとす。山寄申越たるは、越前衆之陣屋得火を懸可㆑申候。然時んば切而懸らせ給へば敗軍可㆑有。其儀ならば夜中に山得あがらせ給得と申けれども、信長さすが之弓取なれば、聊爾に山得あがらせ給はずして、坂本迄押寄而、火之手があがらば偣べきとて、ひかゑさせ給ひし処に、案之ごとく帰りてうぎ成。然間越前衆は三万余有、殊更に近江之国は大方越前之領分なれば、岐阜への道も塞れば、信長纔一万之内なればかなはじとてあつかひをかけさせ給ひ、天下は朝倉殿持給得、我は二度望み無と起請を書給ひ而、無事を作り而岐阜へ引給ふ。扨又引入給ひ而、をつ付而切而上らせ給ふ処に、又家康寄御加勢を被成けり。其時は松平勘四郎殿に諸家中寄人を面々に出合而付而立給ふ。然処に信長は見つくり之城を攻させ給ふに更に落ず。然者此小城にかゝり而、日を尽して詮も無。是は先指置而都得切而のぼらんとて、城をまきほぐして搦手之衆のくを、松平勘四郎殿是を見給ひ而、大手之方寄責入給得ば、即からめ手得落行ば城得乱入。松平勘四郎殿手柄覚え云に不及。然間都得入せ給得ば、乱取に小田之上野守殿の者と、三河之者が出合而、ふるゑぼしを奪合ひ而、上野守殿の者を三河之者がしたゝかに打ければ、それが喧嘩に成而、美濃尾張之衆が一つに成而、松平勘四郎殿得偣程に、何れも三河衆が無㆓是非㆒とて悉町得出て、弓鉄炮鑓をかまゑ而居たる処得、偣程に引請而打立ければ、中々あたりゑ寄付ん事は思ひ寄ずして、信長得比由申ければ、信長聞召言語道断とゞかざる事を申者ども哉、家康寄加勢を頼而、其加勢を打害法や有物か。れうじをしたるやつばら在ば、一々に成敗せんと仰ければ、偣者どもはちり〴〵に成而見得ざりけり。扨又信長勘四郎を召而仰けるは、勘四郎今度みつくりにおい而、手柄ひるゐ無処に、又此度之喧嘩扨々ひるい無。勘四郎は背はちひさけれ共、肝のをうき成者なり、いやいや勘四郎は熨斗づけをさして有間、此度之陣をばつゞけられべきぞやと仰けり。勘四郎ためには面目成。然処に信長之仰に、天下之公方も朝倉は引請申事もならざるを、某が岐阜へ喚越申而、二度天下之公方となし奉り申たる、其情をも忘而賸朝倉と一身して、我に敵をなし給ふ事恩を知給はねば腹を切せ申度存ずれども、公方にて御ませば徐置申と而都を除給ふ。其時に比叡山も長袖の身として帰りちやうぎをして我を打んとしける間、さらば山を立間敷と仰有而、其寄も久敷ゑい山はくづれ而、久敷たゝざるを、又家康之御取立被成而、今者山が立。扨又信長記を見るに偽多し。三ヶ一者有事成、三ヶ一者似たる事も有、三ヶ一は無㆓跡形㆒事成。信長記作たる者、我々がひいきの者を、我が智恵【 NDLJP:110】之有儘に能作たると見得たり。其故は処々に而の勝負之事を書付けるに、先偽と見得けるは、其比、十、十一、十二三に成、西も東もしらざる者が、成人してはるか後に元服して男に成而有間、昔物語に聞し者を、そんぢやうそこに而走り廻り、ひる無高名などと書而、偽を作る事も多し。長篠などの陣にも、せざる高名を相打にしたると云処も有。武者づかひなども、一代つかひたる事も無人を、武者をつかひたると書而有。此外此場に而の事にも偽多し。度々にをいてひけを取、人に後指さゝれたる者を、鬼神之様に書たるも有。又は度々の高名をして、諸国に而かくれ無覚得之者をかゝざるも有り。ちからの無者を大ちからと書たるが皆偽り或。大ちからと書たる内に、独力持たる衆は一人も無。結句力は無してがいす成衆多きに、色々加様に書申事は、思得ば我が目を被㆑懸たる衆之事を、かたも無事をも作たると見得たり。然時んば書者に智恵有而無㆓智恵㆒に似。然間信長記には偽多しとさたしたり。家康御代々の事を是にあらまし書しるす成。一つとして偽と云事を、後之世にも当代にも、をそらく申人者有間敷、然ども人に見せ申とて書不㆑置、我等子供に御八代御九代当相国秀忠様、当将軍家光様迄御主様成。其御末々迄なん代も能御奉公申上奉れ、我寄後しらせんため成。門外不出。
元和八年〈壬戌〉卯月十一日 子供に是譲門外不出可有成 大久保彦左衛門花押
此書物に、各々御普代衆之御事あらまし書而、我一類之儀くは敷書申事は別之儀に非。姪子供又は一類之者ども、御普代久敷御主様之御ゆらいを後には存ず間敷と思ひ而、しらせん為に我遺言として書而子供にくれ申事なれば、門外不出と申置故、くがいゑ出す書物にあらざれば、我等一名之事を本に書置事なれば、別之御普代衆之儀は不㆑書。何れも御普代衆御忠節は雨山可有ければ、各々も後子供之御普代御主様之御筋目を忘させ給はぬ様に、家々に而の御普代之御主様之筋目、又は御普代久敷召つかはれ給ふ、筋目並に御忠節之筋目を能書給ひ而、子供達へ各々も御譲給得、我等も如此に候、然ども此書物は門外不出に候間、他人は見申間敷けれども、若百に一つも落ちりて、人之御覧じも在、其御心得之為に如此に候。我依怙に我一名一類、又は我身之事を書置たると思召有間敷候。子供得之遺言之書物なれば、我一名一類又は身之事を書ざれば、子供の合点がすみ申間敷候間如此に候事以上。
此書物くがひへ出す物ならば、各々御普代衆之御忠節はしりめぐりの儀をも具にせんさくして可
㆑書が、是は門外不出としてくがひへ出事なくして、子供にもたせ而後之世に御普代之御主様のしらせん為に書置事なれば、他人之事をかゝず。然
時我名又は我身之事をかゝずは、子供の合点もすみ申間敷ければ如
㆑此に候。門外不出に候へば、誰人も見は申間敷けれ共、若おちちりて人も見申さば、其時之為如此に候。各々御普代衆は家々之忠節はしりめぐりの事を書立而、子達へ御ゆづり可有候。我等如此書候て、子供にゆづり申。門外不出也以上。
【 NDLJP:111】
第三下
然る所に元
亀三年
〈壬申〉之年、信玄寄申被越けるは、天りうの河をきりて切とらせ給へ。河東は某が切取可申と相定申処に、大炊河ぎりと仰候儀は、一円に心得不申。然者手出を可仕とて、
申之年信玄は遠江へ御出馬有而、来原西島に陣取たまへば、浜松寄もかけ出して見付の原へ出て、来原西島を見る所に、敵方是を見ておつ取
〳〵のりかけければ、各々申けるは、見付の町に火をかけてのく物ならば、敵方案内をしるべからずとて、火をかけてのきけるに、案之外に案内をよくしりて、上のだいへかけあげ而乗付ける程に、頓而ひとことの坂之おり立にてのり付けるに、梅津はしきりのり付られ而ならざれば、がん石をこそのりおろしける。其時大久保勘七郎は、とつて帰し而てつぽうを打けるに、一二間にて打はづす。其時上様之御諚には、勘七郎は何として打はづして有ぞと被仰ける時、其儀にて御座候ふ。
都筑藤一郎が弓をもちて罷有によつて、其をちからと仕候て放し申つる。
纔一二間ならでは御座有間敷、定而くすりはかゝり可申、兎角と申内に我等が臆病ゆへに、打はづし申たると申上ければ、藤一申は、勘七郎が立とゞまりて打申故に、我等は了簡なくして罷有つると申ければ、兄之大久保次右衛門が申は、藤一左様に御取合は被申そ、御身を力とせずんば、せがれが何とて立とゞまらん哉。方々の故に有つるぞと申せば、御方之弓ゆがけをはづし給ふを見て、我も馬ゆがけをはづしたると申せば、藤一申は次右左様にはなし、
坂のおりくちにて、御身の馬ゆがけをはづし給ふを見て、我等も弓ゆがけをはづしたると申せば、いや
〳〵御身の弓ゆがけをはづしたるに心付、我もゆがけをはづしたと申ば、上様は御笑はせ給ひ而、其儀はまづおけ、勘七郎汝があやかりと云にはあらず、見付の台寄おひ立られ而のきたる間、せいきのせきあげたる処に、定而汝はてつぼうを中程に、手をかけて火ざらのしたを取而放したるか、御意のごとく左様に仕申と申上ければ、左様に可有、中程に手をかけて火ざらの下をもちてはなせば、引息にては筒さきがあがり、出る息にてはつゝさきがさがる物成、殊更つねの時とおひ立られし時のいきは、かわる物にて有間、はづれたるも道理成、汝がおくびやうと云処にはあらず、何時も左様成時は
諸手ながら、引がねの下をもちて打物成、何といきをあらくつきたり共、つゝさきはくるはざる物にて有ぞ、以来は其心もち可有と御意成。然間遠江之小侍共が信玄へのきけるが、此度供して来り而、天方、むかさ、市の宮、かくわのふるかまい、其外のふる城、又は屋敷構を取立てもつ。かくわの構をもちたる小侍共を、
久野と懸河と出合而、せめおとしておゝく討取たれば、其外之所をばのこらずあけたり。天方斗
久野弾正其外寄合之小侍共がもちけるを、味方が原之合戦之後、天方之城をせめさせ給ひ而、本城斗にして引のかせ給へば、其後明てのく。信玄は見付のだい寄がうだゐ島へ押上而陣取、其寄二俣之城を責ける。城には青木又四郎中根平左衛門その外こもる。信玄はのりおとさんと仰ければ、山県三郎兵衛と馬場美濃守両人かけまわりて見て、いや
〳〵此城は
【 NDLJP:112】土井たかくして草うらちかし、とてもむり責には成間敷、竹たばをもつてつめよせて、水の手を取給ふ程ならば、頓而落城可有と申ければ、其儀ならば責よとて、日夜ゆだんなくかねたいこをうつて時をあげて責けり。城は西は天りう河東は小河有り。水の手は岩にてきし高き崕づくりにして、車をかけて水をくむ。天りう河のおし付なれば、水もことすさまじきていなるに、大綱をもつていかだをくみて、うへよりながしかけ
〳〵、何程共きわもなくかさねて、水の手をとる
釣なはを切程に、ならずして城をわたす。然間信玄は城を取而寄、東三河に奥平道文と、すがぬま伊豆守と同新三郎、これ等はながしの、つくで、たみね是等が山が三方をもちたるが、逆心して信玄に付、すがぬま次郎右衛門と同新八郎は御味方を申而、ぎやくしんはなし。然間信玄は上方に御手を取衆之おゝくありければ、三河へ出て、それより東美濃へ出、それよりきつてのぼらんとて、味方が原へ押上て井の谷へ入、長しのへ出んとて、ほうだへ引おろさんとしける処に、元
亀三年みづのへさる十二月二十二日、家康浜松寄三里に及而打出させ給ひ而、御合戦を可被成と仰ければ、各々年寄共の申上けるは、今日之御合戦如何に御座可有候哉、敵之人数を見奉るに三万余と見申候。其故信玄は老むしやと申、度々の合戦になれたる人成。御味方はわづか八千の内外御座可有哉と申上ければ、其儀は何共あれ、多勢にて我屋敷之
背戸をふみきりて通らんに、内に有ながら出て尤めざる者哉あらん。
負ればとて出て尤むべし。そのごとく我国をふみきりて通るに、多勢成というてなどか出てとがめざらん哉。兎角合戦をせずしてはおくまじき。陣は多ぜいぶぜいにはよるべからず、天道次第と仰ければ、各々是非に不及とて
押寄けり。敵をほうだへ半分過も引おろさせて、きつてかゝらせ給ふならば、やす
〳〵ときり勝たせ給はん物を、はやりすぎてはやくかゝらせ給ひしゆゑに、信玄度々之陣にあひ付給へば、
魚鱗にそなへを立て引うけさせ給ふ。家康は
鶴翼に立させ給へば、少せいという手薄く見えたり。信玄はまづ
郷人ばらを
出させ給ひて、つぶてをうたせ給ふ。然るとは申せ共、家康衆は面もふらず錣をかたぶけてきつてかゝる程に、
早一二之手をきりくづしければ、又入かへてかゝるを、きりくづして、信玄の
旗本迄きり付けるに、信玄之
旗本よりまつくろに時をあげてきつてかゝるほどに、
纔八千の人数なれば、三万余の大敵に骨身をくだきてせり合たれば、信玄之
旗本にきりかへされてはいぐんをする。家康御
動転なく御小姓衆をうたせじと思召而のりまわし給ひて、まん丸に成てのかせ給ふ。馬にて御供申衆は、すがぬま藤蔵、
三宅弥次兵衛其外はおり立ければ、馬にはなれてかち立成。中にも大久保新十郎をかなしませられ給ひて、小栗忠蔵に馬を一つとれと仰ければ、相心得申とて頓而取てのりける。忠蔵も手を負ひけるが、其馬を新十郎にかすまじきかと被仰ければ、忠蔵御意寄はやくおうけを申而とんでおり、新十郎をのせて我はもゝを鑓にてつかれけるが、いたまずして御馬に付奉りて御城迄御供を申、上様よりも御さきへにげ入て、上様は御討死を被成たると偽を申処へ、無何事いらせ給へば、彼者共はこゝかしこへ又にげかくれけり。上方らう人に中河土源兄弟はおぼえ之者と申つるが、浜松へは得のかずして
【 NDLJP:113】懸河へにげてゆく。水野下野殿は今切れを越てにげ給ふ。山田平一郎は岡崎迄にげ行て、次郎三郎様之御前にて、大殿様は御打死を被成候と申上候処へ、上様は無何事御城へいらせられ被成候。諸大名衆も一人も無何事引のけ申成。但信長よりの御かせい平手と、御手前之衆には青木又四郎殿、中根平左衛門計、物主は討死仕候。其外若き衆
家老共は鳥居四郎左衛門、本田肥後守、加藤ひねの丞、同九郎、ゑのきづ小太夫、大久保新蔵、河井やつと兵へ、杉之原なつと兵へ、榊原摂津守、成瀬藤蔵、石河半三郎、夏目次郎左衛門、河井又五郎、松山久内、加藤源四郎、松平弥右衛門殿、何れも此外に此とほり之衆数多候へ共しるすに不及。然処に信玄はさいがかけにて首共をじつけんして、其儘陣どらせ給ふ所に、大久保七郎右衛門が申上けるは、加様に弱々としては、いよ
〳〵敵方きおひ可申、然者諸手のてつぽうを御あつめ被成給へ。我等が召つれて夜討を仕らんと申上ければ、尤と御諚にてしよてをあつめ申共出る者もなし。やう
〳〵諸手よりして、てつぽうが二三十挺計出るを、我手まへのてつぼうに相くわへて、百挺計召つれて、さいがかけへゆきて、つるべて敵陣へ打こみければ、信玄是を御らんじて、さても
〳〵勝ちても
強敵にて有り。是程にこゝわと云者共を、数多討とられて、さこそ内も
乱て有哉らんと存知つるに、かほどのまけ陣には、か様にはならざる処に、今夜の夜ごみはさても
〳〵したり、未よき者共の有と見えたり。兎角にかちてもこわき敵成とて、そこを引のけ給ひて、いの谷へ入而長しのへ出給ふ。其寄おく郡へはたらかんとて出させ給ふ所に、爰に藪の内に小城有ける。何城ぞととわせ給へば、野田之城成と申。信玄は
聞及たる野田は是にて有か、その儀ならば
通りがけに踏みちらせと仰あつて押寄給へば、打立てあたりへもよせ不
㆑付。さらばとて竹たばを付もつたて、亀の甲にて
偣。昼夜ゆだんなくかねたいこを打て、夜もすがらせめけれ共日数をふる。城には野田のすがぬま新八郎、松平与市殿のかせいにいらせ給へば、ことともせずしておはします。然共日数もつもりければ、二三之丸を
責とられて本丸へつぼむ。然間あつかいをかけて、二の丸へうつして
堄をゆひておしこみて、其寄して長しのゝ
菅沼伊豆が人質と、つくでの
奥平道文が人じちと、だみねのすがぬま新三郎が人じちに、換へあひにして、松平与市殿もすがぬま新八も引のきけり。信玄は野田之城を
責内に病つかせ給ひて、野田落城有而後は、きつてのばる事も不成して、本国へ引而入とて御病おもく成而、平井波合にて信玄は御病死被成ける。
然る間元亀四年〈癸酉〉二俣之城にむかつて、取出を御取被成ける。一つ屋城山、一つがう大島、一つ道々国中のおさいと被成ける。さてまた浜松より岡崎へ御越被成候とて、元亀四年〈癸酉〉長しのゝ城を打まわらせ給はんとて、かけよせさせ給ひて、火矢を射させて御覧じければ、案之外に本城、は城、蔵屋共に一間ものこらず焼きはらひければ、其儘其寄押寄給ひて、責給へば、勝頼は後づめと被成候へて、鳳来寺くろぜまで、武田之典厩をさしつかわせ給ふ。是をも御もちいなくして、せめさせ給へば、城中にもはや、兵糧米も候はねば、はや降参をぞ申ける。しからばたすけおくべきよしおほせ給ひ【 NDLJP:114】て、あつかいて、同年の七月十九日に城をうけとらせ給ひ、御普請を被成、兵糧米多こめおかせられ給ひて、おく平九八郎に城を被下而頓而御馬も入。然ける処に、是も後づめとして、武田之梅雪を遠江之国へ出し森に陣之取、こゝかしこをほう火して、苅田をして打ちりて、らん取をする処に、長しのゝ城をせめおとし給ひ而、引いらせ給ふ所に、敵出而、此方彼方うちちりて放火をし、らんぼうらうぜき、かり田をしるときくよりも、我さきにとかけ付而、おひくづしておひ打に打取。然処に榊原小平太同心に、上方らう人有けるが、大久保次右衛門が高名をして、首をひつさげてのく処へ、彼らう人来りて、七八人してうしろよりいだきて、次右衛門が取頭を、ばいてゆく。次右衛門は、汗をにぎつて、腹を立けれ共、かなわずして帰る。其時榊原小平太彼らう人を召つれて、御前へ出けるを、戸田之三郎右衛門是を見て、急次右衛門に告げられけるは、次右衛門はしらざるか、彼者をこそ只今榊原小平太が、召つれて御前へ出けると被申ければ、次右衛門は、忝よくぞ御きかせ候とゆひすて、彼者之帰らぬさきにと、御前へいそぎける。三郎右も、我も同心してゆくべきとて、二人つれて御前に参、あの人之指上申すしるしは、各々見被申候。我等が打申候へて、ひつさげてのき申処を、七八人参て、ひきかなぐりて参たり。我等にかぎらず、各々御普代久敷衆には、御あてがひも不被成と申共、御普代御主なれば、我人女子を帰見ず、一命をすてゝかせぎ申とは申せ共、あれてい之者にはくわ分之御知行を被下、人をおゝくもち申候へば、何時もあのごとくに御座候へば、少身成、我等通り成者は、何とかせぎ申ても御ほうかうに罷成がたく奉存知候。其うへ彼等はよければ罷有、あしければ罷あらず、御普代之衆はよくてもあしくても、御家之犬にて罷出ざるに、せざる高名を立させられ候御ことは、一段とめいわく仕候と申上ける処に、榊原小平太申けるは、次右いはれざる儀を仰被上候。我等同心の高名には歴然したるに、きこゑざると被申ければ、次右衛門申は、たれ人のよきあしきも、貴所之何とてしらせ給はん。其あたりへも来ずして、いらざる事を仰候。見ぬ京物語は、せざるものに候間、いかに同心之腰を引度共、なき事は成間敷と申ければ、其時御諚には、次右衛門いらざる事な申そ、我家にて汝に武辺に点うつ者は有間敷に、我次第にしておけと、御意のうへ畏つて御前を罷立ければ、くだんの浪人は、有事ならずして虚空にうせぬ。然間、元亀四年〈癸酉〉の暮に、勝頼は遠江へ御出馬有而、久野、懸河へあてゝ、国中へ押出して、ほう火する。其寄天りう河の、上の瀬をのり越而、浜松へはたらき、まごめ之河をへだてゝ、あしがるをして、其寄引取てかんざうの瀬を越、やしろ山を越て、山なしへ出而、すくも田が原に陣を取給ふ。然所に、池田喜平次郎と云者、博奕打のはうびきし成。然共、うき世になきすりきりなれば、ばくちは、やるせもなく打ちたくはあれ共、し合に立るものなければ、取みなしとて、あひてもなければ、やるせもなく打たきまゝに、然者勝頼のすくも田が原に陣取而、御入之由を承候へば、忍び入而馬を盗み取而、ばくちを可打とて、行ける所に、被見付て、四方へおひまはされ、頓而いけどられて、高手小手にいましめられ【 NDLJP:115】て、勝頼之御前へひつすゆる。勝頼は御覧じて、敵のもやうは何と有と被仰けれども、弱みを一つ不申して強み斗を申ければ、引立而行、番をよくしておきてにがすな、頓而御せいばい可有とて、いらせ給へば、いよ〳〵つよくいましめけり。然所に勝頼はすわ之原へ御陣がへを被成而御越有而、縄打を被成而城を取給ふ。然者せな殿、喜平次を御覧じて、あれは、某が古へ存知たるものなり、駿河へほうかうに参し時、某目懸申たる者之儀にて御座候間、哀某に御あづけ給候へと被申ければ、其儀ならばあづけよとの給候へば、せな殿へわたしける。せな殿仰には、御身は昔寄之知音なればあづかり申成。さて又ちいんと云て、なわをかけておくことは、あづかりたるせんもなし。さらばなわをときて、我等が相伴をして、我等が陣之内をば、らく〳〵とありき給へ。他之陣場へ行給ふな。然者御身に昔目を懸申たる故にあづかりて、らくにおき申成。此故にても国へも行度は行給へ。ちかづき故に我が一命を知行に相そへて、勝頼へ指上申迄にて候へ。少もくるしからざるに、行度は行給へと仰ければ、喜平次申、せな殿御なさけをわすれ申而おちゆく者ならば、我身のはぢはさておきぬ、国のはぢをかき申間敷と申。心之内には前のごとく、なわをもかゝりて有ならば、何とぞしてなわをも抜きて行べけれ共、せな殿になわをとかれ申候へば、にぐる事はならず、却而せな殿になわのうへになわをかけられたるとこそぞんじ候と、心の内におもひける所へ、やかたよりの御意に候。あづけおくいけ取に、なわをかけ給ひて、渡し給へとて参ければ、喜平次心之内に思ひけるは、さて命ながらへけるぞや。此程はせな殿にからしばりと云物にあひつるが、うれしやと思ひける処に、せな殿仰けるは、此間之内にかけおちもし給はで、又渡し候へと仰被越候へば、めいわくなれ共是非に不及と被仰而渡し給へば、喜平次も其名をゑたるものなれば、おどろくけしきもなく一礼して行ける。なわ取うけ取而、おつ立而行、なわをつよくいましめて置。ねずの番の者六人ゐて、かわりていたりける所に、喜平次申けるは、御身達はあまりこと〴〵敷ふぜいかな。いけどりと云事は、何方にも敵味方之事なれば、互に主之ほうかうなれば、にくきにあらざる事なれども、かほどに高手小手にいましめて其上に塩水をふきて、したへ足之付ざるやうにいましめて、其の故ねずの番をも給ふ。此のうへ我等がにぐる事は此の世にてならざるていに候間、ねむたくはゆく〳〵とね給へといへば、番之者申けるは、げに〳〵それもきこえたり。其上にげてゆかば、おし付打すつべし。さらばねよとて、臥して大いびきかきければ、喜平次はしすましたりと心得而、高手小手のなはをはづして、番之者をあごみ越而、はしり出而あわが岳へとびあがりて、くら見さいがうゑ出而、浜松へ参りければ、手がら成命のたすかりやうかなとぞ、御意被成けり。勝頼はすわの原の城を取給ひて引入給ふ。同東美濃、岩むろの城をば、信長のおばごのもち給ふが、信長の御子、御房様を養子被成けるが、信長へべつしんをして、勝頼と一身して、秋山を引入而、秋山とふうふに被成、御房様を、甲斐国へやり給ふ。其帰りに勝頼は、あすけのくちへ、御はたらき有と申せば、上様はあすけへ御陣立有。然共勝頼は其の【 NDLJP:116】寄引入給ふ。信長は御はら立而、岩むろへ押寄給ひて、城を責おとし給ひ、秋山をばいけ取給ひて、磔にかけ給ふ。軍兵どもをば二之丸へおひ入而、堄をゆひ、火を付而やきころし給ふ。おばごをば、こまき山にて、御手打に被成けり。さて又天正二年〈甲戌〉四月、いぬいへ、腰兵粮にて、御はたらき有而、ずいうんに、御旗が立ければ、諸勢は、れうけ、ほりの内、和田之谷に陣取。折ふし大雨ふりて大水出ければ、一両日は何れも兵粮なくして迷惑したり。然共水も程なくひきおちければ、同六日之日御陣も引のけさせ給ふ所に、御旗本はみくら迄引とらせ給ふ。然る処に天野宮内右衛門けた之郷より出而、あとぜいにしきつてしたい付、たる山の城、かうめうの城より、これ等が先へまはつて、田のおふくぼ村に出、郷人を相くわへて、此方の嶺谷、彼方のをづる山さき、木かや之中より、しかりげ、さるかわうつぼを付、しゝ矢をはめて、五人十人二十人三十人づつ、中へ出あとへ出先へ出而、おもはぬ外之処にててつぽうをはなし、おごゑをあげけれ共、日のめも見えぬみ山之中なれば、ふせぐ事もならず、殊更上はくもにそびへたる大山、下はがゝとしたるがん石のほそ道なれば、あとよりくづれたるともなく、中よりくづれたる共なくして、田のおふくば村にてかへせば、深山に入て見えず。のけば又出而付。然間、田のおふくぼ村にて、同年の四月六日にはいぐんする。各々打死有り。ほり小太郎、鵜殿藤五郎、大久保勘七郎、おわらの金内、是等がしよ手に打死してより、其ほか数多打死をしたり。御旗本の心がけたる衆、あとへのこりて打死をしたり。上様は、みくらにて此由聞召、あとにててつぱうのおとが聞こえけるが、いかゞと思召所に、あとぜいがはいぐんと聞召て、おどろかせ給ひて、引帰させ給へば、敵はちり〴〵に、味山へ入而見へざれば、是非に及ばせ給はずして、御馬は天方迄入る。其時大久保七郎右衛門同心の杉浦久蔵、手をおひてゐたるをみて、乗りよせて飛んでおり、久蔵手をおひたるか、是にのれとて引立てければ久蔵がいふ、うつけたる馬之おり処かな、我等とをりの者は、何程打死したるとてもくるしからず。大将をする者が、左様に馬ばなれる物か、八幡大菩薩のる間敷と云へば、しきだいは所によるぞ、早のれと云。久蔵云けるは、我御身をおろして、ころして、我此馬にのりていきても、ゑがとけぬ、とてものる間敷とてのらざれば、ぢこくうつりてあしゝとて、七郎右衛門はのらばのれ、いやならば馬を捨てよとて打すてゝのきければ、小だま甚内が立帰而、七郎右衛門はのきたるなり。はやのれとてとつて引立てのせて、我は又、はしり付申す。然間七郎右衛門には、兵藤弥助、小たま甚内、犬若と云小者と三人付。然る処に、ほそみちのかけのはたをのきける処に、あとよりにぐる者が、さきへとをるとて、七郎右衛門を崖へ突落す。三人の者共が付而飛ける処に、犬若があげはのてふの羽のさし物をもちたるが、すてけるに、敵が是をとるを兵藤弥助が見て、はしりかゝりてかなぐりとる処を、わきなる敵が、弥助をけさがけにきりたふすを、七郎右衛門がとつ而帰して、二人ながらきりふせければ、また犬若がさし物を取而もちてのく。然間奥平道文之ちやく子作州は、勝頼に、べつしんをして、御忠節を申給へば、長しの【 NDLJP:117】の城を出し給ひて、九八郎を頓而むこ殿になされんと仰ければ、信康之被仰様には、存知もよらず、我等が妹むこに、何とて九八郎を仕らん哉と、被仰ければ、さすがに、おしてもならせられ給はずして、信長へ被仰ければ、信長より被仰候は、尤信康之仰候儀承とゞけたり。然共忠節人之事、又は大事之さかいめをあづけおき給ふ間、次郎三郎殿不肖を堪忍被成候ひて、家康にまかせられ候て、尤かと存知候と被仰ければ、親達之被仰候間、何と成とも御存分次第と被仰ける間、さてこそ奥平九八郎方へ御越は入ける。
然処に、天正二年〈甲戌〉勝頼御出馬有而、高天神之城へ押寄而、責させ給ふ処に、信長後づめと被成而、御出馬有りければ、小笠原与八郎手がわりをして、ゐなりに成ければ、信長手をうしない給ひて、吉田寄引帰らせ給ふ。然処に天正三年〈乙亥〉に、家康御普代久敷御中間に、大賀弥四郎と申者に、奥郡廿余郷之代官を、御させ給ひて、何かに付而ふそく成事なく、富貴にくらすのみならず、あまりの栄華にほこりて、よしなき謀反をたくみて、御普代之御主をうち奉りて、岡崎の城を取て、我が城にせんとくは立けり。然間小谷甚左衛門、倉地平左衛門、山田八蔵を引入而、此事やす〳〵と岡崎を取可申とよく申合而、勝頼へ申入候は、是非共今度御手を取申、岡崎を奉取、家康御親子に御腹をさせ可申事はれきぜん成。其いわれは、何何時も、家康岡崎へいらせられ給ふ時は、我等御馬之御先に参而、上様御座被成候に御門ひらき給へ、大賀弥四郎成と申せば、うたがひもなく、御門をひらき申候間、然者つくでまて御馬を被出給ひて、御先手の衆を二かしらも三かしらも、指つかはされ候はゞ、其御先に立而岡崎へ御供して、城へやす〳〵と引入れ申者ならば、御城の内にて、次郎三郎信康様をば、打取可奉成。然者こと〴〵く家康へそむいて、勝頼へかうさん申而、御手に可付成。然時んば、家康へ付可奉者共は、何れも少身者にて有者共、二百三百付申而あればとて、功をばなすべからず。其者共も岡崎に女子をおきたれば、こと〴〵くおさへ取物ならば、其内も大方参而かうさんを可申、大久保一るい共が、御敵を不申候筋め之者にて候間、可奉付、然共是も少身者どもなれば、是も功をなす事はあらじ。殊更女子共はやはぎ河を越而、尾張を指而おちゆくべし。然者河之はたに、小谷甚左衛門と山田八蔵が罷有事なれば、一人もとをさずして、めし取申者ならば、是も御手をとる事も候はんか、然共是は不存候へ共、然共家康へ付可奉者は、百騎之内外にて可有候之間、然者浜松をあけて、舟にて伊勢へのかせられ給ふべき、然らずは吉良へうつらせ給ひて、舟にて尾張へ御越被成候はんとて、御とをり可被成、然者押寄而打奉、家康信康御親子様之御しるしを、ねんじ原にかけ可申と、あり〳〵と書付而、大賀弥四郎、倉地平左衛門、山田八蔵、小谷甚左衛門判とかきとゞめ而、勝頼へ上ければ、勝頼悦給ひ而、然者尤此事いそげとて、つく出筋へ、御出馬有りける処に、山田八蔵つく〴〵とあんじて、如此の儀ならば、御主を打奉らん事うたがひなし、然とても打奉る儀も成間敷なれば、兎角に此儀におひて一味は成間敷と思ひて、此儀を申上、若御ふしんに思召候はゞ、我等がちやうだ【 NDLJP:118】いゑ、一両人も御越被成而、御きかせ可被成候。此儀を内談仕而きかせ申さんと申上ければ、尤と被仰而、一両人指つかわされて、きかせられ給ひしに、れきぜん之儀成。大賀弥四郎は、是をば夢寤しらずして、女房にむかひて申けるは、我はむほんのたくみ、御主を打奉らんと申ければ、女房まことにもせずして、ぢやれけうしやにも云ふべき事をこそ云たるもよけれ、さやう成事を、いま〳〵わ敷、きゝ度もなしとてそばむけば、弥四郎重而申けるは、夢々いつはりにあらずと、実しがほに申ければ、其時女房おどろきて、げに〳〵左様成くわだてをたくみ給ふか、さても〳〵天道のつきはて給ふ物哉、上様の御かげ雨山かうむりて、何かに付而とぼしき事はなくして、身をすぎ申事をさへ、天道おそろしく候へば、一度は御ばつもあたり可申と思へば、御主様の御事おろかにも思ひ奉らず、其故各々御普代久敷御侍衆達さへ、我等がまねは成給はぬに、況哉御身は御中間之身成を、か様に奥郡廿余郷之代くわんを仰被付候へば、何が御ふそくは有而御むほんをくわ立被申候哉、其儀を思ひとゞまり給へ、然らずんば、我々子共共にさしころして、其故にてむほんをくわ立給へ、かならず御主様之御ばちは、たちまちにかうむりて、御身のはても此世から、かしやくせられて、辛苦をうけてはて給ふべし。わが身なども烙磔付にもあがりて、うき名をながさんも目のまへなれば、只いまさしころし給へと申ければ、其時弥四郎申は、女之身としてしらざる事を申物かな。其方をば此御城へうつして、御台といわせんと云ければ、女房云は、若も御台といわれゝば祝言だが、いはれぬ時の不祝言はの、御身きゝ給へ。仏法は実がいればかたぶくと云ふ、人間は実がいれば反ると云は、御身之事成とて、其後物もいはず。然る間大賀弥四郎をば御城にて召取、倉地平左衛門はさとり申に付、はなち討に成、小谷甚左衛門は、遠江之国こくれうの郷中にて、服部半蔵がいけ取んとしける処に、天りう河へとび入而、およぎて二俣之城へゆき、それ寄かい之国へゆく。弥四郎をば高手小手にいましめ、鋜をはかせて、大久保七郎右衛門に仰被付而、馬之頭のかたへうしろをして、あとのかたへまへをして、頸がねをはめて、あとわにゆい付而、ほだしを両之鞍骨に搦み付て、むほん之時のためにとて、したてたるさし物をさゝせて、がく、かね、ふへ、たいこにて打はやして、浜松へつれてゆく。然る処にねんし原に、女房子共、五人はり付にかけておく処を、弥四郎を引とをして、やりすごして見せければ、殊之外にわるびれて見えけるが、何とか思ひけん、かほを少もちあげて、五人之者を見て、汝共は先へゆきたるか、目出度事かな、我等も跡寄行べきと申しければ、見物之衆わらひける。然間、道々はやして、人ににくませ、浜松内を引まわして、岡崎へ引帰而牢舎させておく。さて又勝頼は御出馬有けれ共、此事あらはれて、調儀ちがひければ、其寄押出し而、二れんぎへはたらき給ふ。其時信康之御馬は、山中之法蔵寺に立而、御陣之とらせられ給ふ。家康之御旗は、吉田に立てゝ、はぢかみ原にてはげはげ敷、あしがる有而、勝頼は其寄引入給ひて、ながしのへ偣。則城を責させ給へば、家康、信康、両旗にて野田へ押寄させ給ふ。然間、大賀弥四郎をば、岡崎之辻にあなをほり、頸板をはめ、十の指【 NDLJP:119】をきり、目のさきにならべ、あしの大すぢをきりて、ほりいけ、竹鋸と、鉄鋸とを、相そへておきければ、とをりゆきの者共が、さても〳〵、御主様の御ばちあたりかな、にくきやつばらめかなとて、のこぎりを取かへ〳〵、ひきけるほどに、一日之内に引ころす。然る所に、信長御出馬有而、先手之衆は、はややわた、市之宮、ほん野が原に陣をとれば、城之介殿は、岡崎へ付かせ給へば、信長は池鯉鮒へ付せ給ふ。然共、長しのゝ城は、きつくせめられて、はや殊之外つまりければ、忍び而、鳥居強右衛門と申者出して、信長は御出馬か、見て参れとて出す。城寄はやす〳〵と出而、此由を家康へ申上ければ、信長へ指被越ければ、信長御悦被成而、御出馬之由仰つかはされければ、強右衛門、おうけを申而罷立而、武田之逍遥軒の、責口へゆき、竹たばをかづきて、早かけいらんと見合ける処に、見出されて召とられ、勝頼之御前へ引出す。勝頼は聞召、其儀ならば、汝が命はたすけ置、国へ召つれ。過分に地行を可出、然者はり付にかけて城へ見せべき、其時ちかづき共をよび出して、信長は不出候間、城を渡せと申候へ、其時汝をもおろさんと云ければ、強右衛門申は、忝奉存候命さへ御たすけ候はゞ、何たる事を成共可申候に、あまつさへ御地行を可被下と、御意之候へば、目出度事何かあらんや、はや〳〵城ちかくに、はた物にあげさせ給へと申ければ、其ごとく城ちかくに、かけければ、城中之衆出而、聞給へ、鳥居強右衛門こそ、しのびて入とて召とられ、如此に成而候へと申ければ、こと〴〵出而強右衛門かと云。其時、強右衛門申けるは、信長は出させ給はぬと申せ、命を扶其故地行をくれんとは申が、信長は岡崎迄御出馬有ぞ、城之介殿はやわた迄御出馬成。先手は、市之宮本野が原に、まん〳〵と陣取而有。家康信康は野田へうつらせ給ひて有。城けんごにもち給へ。三日之内に御うんをひらかせ給ふべしと、此由を奥平作州と、同九八郎殿と、親子の人へよく申せと云ひければ、却つて敵のつよみを云やつなれば、はやくとゞめをさせとて、とゞめをぞさしける。然処に、坂井左衛門尉、信長之御前に参而申けるは、ながしのゝかさに、鳶が巣と申処之御座候を、はる〴〵と南へまわりて取申物ならば、則城と入合可申。可然と思召候はゞ、三河之国衆を同道申候へ而、某参可申と被申ければ、信長悦給ひ、尤の儀成、早々急給へ。左衛門尉は日比聞及たる者なれば、其ごとく成。目眼が十付而見えけりと被仰ければ、左衛門尉は罷出、家康へ此由申、各々同道してとびがすへまわりて、頓而おひくづす。其時松平紀伊守、同天野西次郎、同戸田之半平、其外之衆おほく鑓が合。世上にては、戸田之牛平が鑓之事をさたしたるは、半平はさし物をさしたるゆゑ成。天野西次郎は、半平寄先なれ共、さし物をさゝざる、づつぼう武者なれば、せじやうにては、半平程はさたはなけ共、半平寄西次郎がゝさき成。然間、大正三年〈乙亥〉五月廿一日、信長、城之介殿親子両旗、家康、信康親子両旗にて、十万余にてあるみ原へ押出し、谷を前にあてゝ、ぢやうぶに柵を付而待ちかけ給ふ所に、勝頼は纔二万余にてたき河之一つ橋之絶所を越、賸わづか橋を越てから一騎打の処を、一里半越て押寄而之合戦なり。然共十万余之衆は、柵の内を出でずして、あしがる計出し而たゝかひけるに、信【 NDLJP:120】長之手へは作ぎわ迄おい付而、其寄は引而入。家康之手は大久保七郎右衛門同次右衛門此兄弟之者を指つかわされければ、兄弟之者共は、敵味方之間に乱入而、敵かゝれば引、敵のけばかかり、おゝき人数を二人之ざいに付而、とつてままはしければ、信長是を御覧じて、家康之手まへにて、金の上羽の蝶のはと、あさぎのこくもちのさし物は、敵かと見れば味方、又味方かと見れば敵也。参而敵か味方か見て参れと仰ければ、家康へ参而、此由かくと申ければ、いや〳〵敵にはあらず、我等が普代久敷者、金之あげはのてふのはゝ、大久保七郎右衛門と申而こくもちが兄にて候。あさぎのこくもちは、大久保次右衛門と申而、てふのはが弟にて候と仰ければ、急立帰此由申ければ、信長聞召而さても家康はよき者をもたれたり。我はかれらほどの者をばもたぬぞ。此者共はよき膏薬にて有り。敵にべつたりと付而、はなれぬと仰けり。然間勝頼も、土屋平八郎、内藤修理、山方三郎兵衛、馬場美濃守、さなだ源太左衛門など云度々の合戦に合付而、其名を得たる衆が、入かへ〳〵おもてもふらず責たゝかいて黜事なき処に、此衆は雨のあしの如く成、てつぽうにあたりて、場もさらず打死をしければ、勝頼も是を御覧じて、是非もなき馬場美濃と、山方三郎兵衛が打死之うへは、合戦は見えたりと思召処に、其外こと〴〵くむねとの兵打死をしたりければ、則乱而はいぐんする。然共勝頼は無何事引のけさせ給ふ。是寄璅給ふならば、かい之国迄おさめさせ給ふべきに、奥平作州同九八郎を召出給ひ而、今度はひるいなき城をもち給ふ事、天下にかくれなき其おぼへ、ばくたい成と御かん其かへもなし。大久保七郎右衛門、同次右衛門兄弟之者共を召出給ひ而、さて〳〵今度之武者づかいひるいなし。汝共がかけ引ゆへ、陣にかちたり。汝共程成者を我はもたぬと被仰而、殊外御かん成。然間其寄引入給へば、家康も頓而今度之御礼と被成而、あづちへ御参府あり。其時御供之衆はしらずに伺候して有所へ、信長立出させ給ひ而、髯はこぬかと被仰ければ、其時ゑ原孫三郎が罷出ければ、信長之仰に、いや〳〵ながしのにてのひげが事と被仰ければ、七郎右衛門は御供にあらざれば、大久保次右衛門罷出ければ、其時さて汝が事にて有。さて〳〵ながしのにてのはしりまい、手がら云に不及、汝共程の者を我はもたぬ。今度は辛労をしたると被仰而、御ふくを被下ければ、次右衛門は時の面目はどこして罷立、家康其寄御帰被成而、同亥の年二俣へ押寄させ給ひて、びしやもんどう、戸ば山、みな原、わたが島に取出を被成給ふ。二俣を大久保七郎右衛門に被下候ゆへ、みな原之取出に有。然処に高明の城へ押寄させ給ふ。大手の二王どうぐちへ、本田平八、榊原小平太、其外押寄けり。御旗本は横河ゑうつらせ給ひて、かがみ山へ押上させ給ひ、其寄城へ璅程に、城にはあさいなの又太郎が有けるが、かうさんをこひければ、命をたすけてやり給ふ。同年二俣も落城成。
然る処に天正四年七月日、いぬゐへ御はたらき有而、たる山の城を責取、其寄かつさかへ押寄せ給へば、しほ坂を持ちて入立ざれば、大久保七郎右衛門に石が嶺へあがりて、かさ寄も追ひ崩せと御意之候へば、おうけを申而七郎右衛門石きりへうつりければ、天野宮内右衛門かなはじと思ひ而、しほざ【 NDLJP:121】かとかつさかをあけて、しゝがはなへ、うつりて引のきけり。大久保七郎右衛門は、天正三年〈乙亥〉寄同天正九年〈辛巳〉年迄、二俣、高明、入手をもちて、境めに有りて、日夜無隙山野に臥してかせぎけり。さて又、天正五年〈丁丑〉に、すはの原の城を責させ給ひ而、頓而責取給ふ。其寄小山之城を押寄而責させ給ふ処に、勝頼は後づめと被成而、長しのにて打死の跡嗣之、十二三寄うへの者、又はしゆつけおちなどを引つれて、御出馬ありてはやおほ井河を、一そなひ二そなひ越ければ、城をまきほぐして、引のき給ふ時、いらうさき迄は、敵にむかわせ給ひし程は、信康何共不被仰してのかせられ給ふが、いらうさきより敵をあとへなす時は、信康之仰には、是迄は敵にむかひ申なればこそ、御先へは参たり。是寄は敵をあとにして引のき申せば、先上様のかせられ給へ。何方にか親をあとにおき申而、子の身として、先へのく事の御座可有哉と被仰ければ、大殿之御諚には、せがれのゆわれざる事を申者哉。とく〳〵のき候へと、千度百度、押しつおされつ仰られけれども、つひに信康はのかせられ給はねば、大殿之まけさせられて、引のかせ給へば、信康は御あとをしづ〳〵と引のかせられ給へば、勝頼も河をば越給はず、河を越たる者も引とり、上様もすはの原城へいらせ給ひ而、其寄御馬は入。丑之年信康之御前様寄、信康をさゝへさせ給ひて、十二ヶ条かき立被成而、坂井左衛門督にもたせたまひて、信長へつかわし給ふ。信長左衛門督を引むけて、まきものをひらき給ひ、一々に是はいかゞと御たづね候へば、左衛門督中々存知申と申ければ、又是はと被仰ければ、其儀も存知申と申ければ、信長十ヶ所ひらき給ひ、一々に御尋ありければ、十ヶ所ながら存知申と申ければ、信長二ヶ所をば、ひらかせ給はで、家之おとながこと〴〵く存知申故はうたがひなし、此分ならばとても物には成間敷候間、腹をきらせ給へと、家康へ可被申と仰ければ、左衛門督此由おうけを申而、罷帰時、岡崎へはよらずして、すぐに浜松へとをりければ、御利根成殿に候へば、頓而御心得被成而、是非に不及と被仰けり。家康へ此由を左衛門督が申上ければ、此由を聞召而、是非に不及次第成、信長に恨はなし、高きもいやしきも子の可愛き事は同前成に、十ヶ所迄ひらき給ひ而、一々尋給ひしに、しらざる由申候はゞ、信長もか様には仰間敷を、一々存知申と申たるによつて、か様に被仰候成。別之子細にあらず、三郎をば左衛門督がさゝゑによつて、腹をきらする迄、我も大敵をかゝゑて、信長をうしろにあてゝ有故は、信長にそむきて成がたければ、是非に不及と被仰ける処に、平岩七之助罷出て申けるは、聊爾に御腹をきらせ御申給ひては、かならず御後悔可被成。然者某を御もりに付奉り候へば、何事をも某之いたづらに被成候へて、某が頸をとらせ給ひて、信長へ急指被上給ば、其時誰ぞ御頼被成而、家康も独子にて御座候間、ふびんに可被存と申上候はゞ、其時は信長も、某が頸之参ると聞召給はば、疑団のやはらぐ事も可㆑有に、兎角に某が頸を一時もはやく指つかわされ給へと思ひ入而、重々指つめ〳〵申上ければ、七之助が云処尤成、忝こそ候へ、能つく案じても見よ、我も国にはゞかる程の独子をもちて、殊更我あとをつがせんと思ひて有に、か様に先立申さんこと、日本之はじと云、いか【 NDLJP:122】計めいわくこれにすぎず、然るとは云共勝頼と云大敵をかゝへて有なれば、信長をうしろにあてねばかなはざる事なれば、信長にそむきてはならず、其故汝をきりて頸をもたせてやりて、三郎が命さへながらへば、汝が命をもらはんずれ共、左衛門督がさゝへの故は、何としても成間敷に、汝までなくしては上がうへの恥辱成。然者三郎をふびんなれ共、岡崎を出せと仰あつて、岡崎を御出被成而、大浜へ御越有而、其寄ほりゑの城へ御越被成而、又其寄二俣の城へ御越被成而、天方山城と服部半蔵を仰被付而、天正六年〈戊寅〉御年二十にて十五日に御腹を被成けり。何たる御とがもなけれども、御前様は信長の御娘にておはしまし給ふ。其故早御姫君も、二人出来させ給へ共、御不合にも有つるが、それとても御子も有中と申、御ふうふの御中なれば、御子の御ためと申、人口と申、方々いか様に御さゝへ可有にはあらざる御事なれ共、さりとてはむごき御仕合と、申さぬ人はなかりけり。それのみならず、坂井左衛門督は御家のおとなと申、御普代久敷御主の候事を、御前様に見かへ奉りて、御前と一身して、よくも〳〵くちを指上而さゝへ奉りたりと、各々上下共に申而にくみけれども、信長へおそれをなして讐はならず、さてもをしき御事かな、これ程の殿は又出がたし。昼夜共に武辺之者を召寄られ給ひ而、武辺の御ぞうたん計成、其外には御馬と御鷹之御事成。よく〳〵御器用にも御座候へばこそ、御年にもたらせられ給はね共、被仰し御事を後之世迄も、三郎様之如此被仰しとさたをもする、人々もをしき事とさたしたり。家康も御子ながらも、御きやうと申、さすが御親之御身にもたせられ給ふ御武辺をば、のこさず御身にもたせられて出させ給へば、御をしみ数々に思召候へども、其頃信長にしたがはせられで、かなはぬ御事なれば、是非に不及して、御腹を御させ給ふなり。上下万民こゑを引而、かなしまざるはなし。信康之御そく女二人おはしまし給ふ成。然間天正五年〈丁丑〉に勝頼よこすかへ、御はたらき成されける。家康はしば原へ出させ給ひて、御陣之はらせられ給ふ所に、勝頼之はたらき給ふ由を聞召而、よこすかへお旗をよせさせ給ふ。既に合戦も有かと見へけれ共、勝頼もかまひもなく引とらせ給へば事出来なし。其寄上様もしば原へ御引被成而、御陣之はらせ給ひて、勝頼はまわりて、懸河之筋へ出るかとて、大久保七郎右衛門と本田豊後守をばくつべへ指越被成而、陣をとらせ給ふ成。然共勝頼は、よこすか寄引入給ふなり。同年に田中へ御はたらき成され而、とうべのしたに御陣之とらせ給ふ。勝頼はきせ河へ出でて、ほうでうの氏政と、合陣をとらせ給ひしが、家康のとうべのしたに、御陣を取せ給ふ由を聞召、是は家康をゑつぼへ引入たり。其儀ならば、うつの谷をゆきて、田中之城にうつりて、あとを取きり而、一合戦してはたすべしとて、氏政へつかいを被立、家康山西へはたらき、とうべに陣取而有由承候間、明日は爰元を引はらい候へて、家康へむかひ可申間、御したい被成候はゞ、其御心得有而御付可有。また合戦を被成んと思召たまはゞ、尤之御事可仕と仰被入而、合陣をはらひたまひて、きせ河より藤河へ押寄給へば、藤河が事之外出ければ、こす事もならざる処に、是をば夢にも、家康御存知なき所へ、大久保七郎右衛門内に、島孫左衛門と【 NDLJP:123】申者の甥に越後と申出家、府中寄走入而、此由を申上ければ、取あゑず引のき給ふ。石川伯耆にしつばらいを仰被付けり。然処に、もち舟寄出て付ける処を、とつて帰而、山へ追上げてこと〴〵く打取。其時松平石見、酒井備後などをほめたり。其外にもあれ共、まづ彼等が事を云たり。其寄おほい河を引越而、すわの原城へいらせ給へば、勝頼もおつつけて、田中之城へうつらせ給へども、おそきゆゑ、無㆓何事も㆒。其年高天神にむかはせ給ひて、大阪山に取出を被成けり。おがさの取出と二つあれ共、おがさ山は此前取給ふ。然間天正七年〈己卯〉の春、田中へ御はたらき有而、苗を薙ぎて引給ふ。同年高天神の取出、中村に二つ、同しゝがはな、同なふが坂に取出を被成ければ、おがさ、大阪、中村に二つ、しゝがはな、なふが坂以上六つ取出をとらせ給ふ。然間天正八年〈庚辰〉の八月寄高天神へ取寄給ひ而、四方にふかくひろくほりをほらせ、たかどいをつき、たかべいをかけ、土へいには付もがりをゆひ、ほりむかひには、七重八重に大柵を付させ、一間に侍一人づつの御手あてを被成、きつても出ば、其上に人をまし給ふ御手だてを被成ければ、城中寄は鳥もかよはぬ計なり。うしろには後づめのためと被成而、ひろくふかく、大ほりをほらせ給ひ而、城之ごとくに被成けれ共、何としてこもり申候哉。さぎ坂甚大夫と申者が入而、又出たると申たり。然るとは申せ共、林之谷と申は、山高くして可出様もなし、たとへ出たると云とも、行さきは国中其外、おがさ、懸河、すはの原、南は大阪、よこすかには上様之御座候へば、出て行べきかたもなし。然間陣之可取らいもなければ、大久保七郎右衛門うけとりなれ共、はるかにへだたりて、とほくに陣を取、上寄之御諚には、とても林之谷へ出る事はあらじ、然者時の番之者を、六人づつ指置申せと御諚成。然間、天正九年〈辛巳〉三月廿二日之夜之四つ時分に、ふたてにわけてきつて出る。あすけ、取原、石河長門守之くちは、入江の様成ところなれば、城寄是を、よわみと見て、きつて出ければ、間はほりなれば、それへこと〴〵くかけ入ければ、三方より指はさみて打ける間、ほりいつぱい打ころして、夜明けて頸をば取る。岡辺丹波と、横田甚五郎者、林之谷へ、大久保七郎右衛門手へ出る。番之者六人指越候へとは御意なれ共、七郎右衛門は大久保平助に相そへて、こゝはの者を十九騎指越ける。然間、城の大将にて有ける、岡辺丹波をば、平助が太刀付て、寄子の本田主水にうたせけり。丹波となのりたらば、より子にはうたせまじけれ共、なのらぬうへなり。其場にてこと〴〵く、五三人づつは打けれども、せいきもきれて皆打とめることはならず。然処に、七郎右衛門所より、はやすけてきりけれ共、はやことおはりぬ。然処に、石河長門守、あすけ、取原の手にて打もらされ共が、又まつくろにきりて、水野日向守手をやぶりけるが、其時は日向守は年若くして、御旗本につめられて、名代として、水野太郎作と、村越与惣左衛門がいたりしが、出而ふせがす。七郎右衛門とならびなれば、すけ合之者共かけきたれば、ふせぎておふかた討取。さてまた天正十年〈壬午〉之春、木曽勝頼へ手がはりをして、信長を引ければ、信長親子は高遠へ御出馬有りて、高とうの城を責取給ふ。勝頼はすはへ御出馬有けるが、高遠の落城之由を聞召而、すはよりかい【 NDLJP:124】之国へ引入り給へば、はや御普代之衆もこと〴〵く、おちちりてなかりければ、いかゞせんと思召処に、有合衆も御供をせんか、何とせんとてさゝめきけり。小宮山内前はおくにて召つかわれ申せ共、御意にそむきて有ける。小山田将監も内前と両天成が、是はかわらずしゆつとう成けるが、勝頼を見捨て奉りて早落行く。其時小宮山弟に申けるは、我は御勘気をかうむると申共、我先祖御代々へ御無沙汰なき筋め之者なれば、此度御供申而腹をきるべきと申ければ、弟之又七郎も、我も是非共に御供せんと申せば、内前申様は、勝頼之御情忝なくて御供申にあらばこそ、我がせんぞの御忠節、又は御普代之筋めなれば、祖父、親、先祖の名をくたさじとのためにお供を申成。汝は命ながらへて、親をかこち、又は我等が女子をかこちて、骸のうへのはぢをかゝざる様に頼入成とて、親又は女子を弟にあづけおきて、勝頼の御前に参、我は日比御勘気をかうむるとは申せ共、是非共御供可仕、御ゆるされ給へ。然とは申せ共、我等が五しやくにたらざる身をもちかね申たる事之御座候。それをいかにと申に、君之御眼前をちがへじと仕候へば、我が先祖の御忠節又は御普代之御内之者之かいもなし。又先祖の御ちうせつを申立御普代之御主様之御用立御供を申せば、君之御眼前をちがい申、其をいかにと申上候に、おなじごとくに、召つかはされ候処に、某をば御用にも罷立間敷と思召而、御かんをかうむらせ給ふ。小山田将監には御心をおかれず、御用にもたゝんと思召而、御ひざもと近く召つかわされ申将監は、欠落ち仕候処に、又御用にも罷立間敷と思召候内前めが、御最後に罷出、おそれながら御直談に御勘当御赦免之御わび事を申上而、御供仕而腹をきり申候事は、さて日比の御眼りきはちがい不申哉。然共先祖の御ちうせつを立、御普代之御主様之御さい後の御供こそ、何よりもつて目出度とて御供をこそしたりけり。扨又武田之梅雪も勝頼之ためには姉婿にて有りけるが、府中寄御前をぬすみ出して下山へ引のけ給ひ而、勝頼にぎやくしんをし給へば、いよ〳〵何れも勝頼をすてゝかけおちをしたり。家康は駿河よりもいらせ給へば、田中之城を、依田右衛門督がもつ。まりこの城をやしろ左衛門がもつ。とうべの城をば朝比奈がもつ。久のの城をば寄合にもつ。あな山は御味方に成たるとは申せ共、未ゑじり之城をもちていたる間、此城々をおさめて蒲原にてあな山とたいめん有りて、あな山を押立給ひて市河へ御付有而御陣取せ給へば、信長はすわに御陣之取せ給へば、先手は新府に付。家康は道々之城々に御隙をつくし給ふ。それのみならず道之程も岐阜と浜松をくらぶれば、浜松からは三日ほども遠からんに寄而、すこしおそくいらせ給ふ成。勝頼は早こと〴〵く御内之衆もちり〴〵に、主をすててかけおちをしたりければ、纔五十騎三十騎之ていにならせ給ひて、新府を天正十年〈壬午〉三月三日に、御前を引つれさせ給ひ而、出させ給ひ、郡内の小山田方へ御越有らんとて、小山田八左衛門と云者を先様指つかわせ給へば、小山田も心がわりをしてよせ奉らざれば、八左衛門も帰りこず。其寄只今迄御供したる者供も、ちり〴〵に成而、早五騎十騎之体にならせ給ひ而、天目山へ入せ給はんと被成ければ、てんもく山へは御書代久数甘利甚五郎と大熊新右衛門が婚舅、先に入而手がわりをして、矢てつ【 NDLJP:125】ぱうを出していかけ打かけければ、かなわせ給はで、御前御曹子ともに河原に敷皮をしかせてやすらわせ給ひける処に、あとより程なく敵がおひかけければ、土屋惣蔵指むかひける所に、跡辺尾張守は爰をはづしておちゆくを、惣蔵是を見て尾張は今にいたつて、何方へおちゆくぞとて、能つ彎いてはなしければ、尾張もうんやつきけん、土屋が矢がはしりわたつて、まつたゞなかをいとおしければ、馬よりしたへおちければ、よせくる者が即頸を取、とてもの黄泉ならば花々と勝頼之御供をするならば、土屋同前に其名をあげて、名をかうたいにのこすべきを、おなじよみぢと申ながら、普代之主のせんどをはづして、其場をかけおちして、土屋に射ころされ申事を、にくまぬ者はなし。土屋はそれ寄矢束ねといて押みだし、さし取引つめさん〴〵にいてまわり、おゝくの敵をほろぼしてとつて帰、御前と御そばの女房達に御いとまをまいらせ給ひ而、勝頼と御ざうしの御かいしやく申而、其身も腹十文字にきりて、死出三途の御供申たる土屋惣蔵が有様、上古もいまも有がたしとほめぬ者はなし。其後に勝頼御親子之御しるしを、信長之御目にかけければ、信長御覧じて日本にかくれなき弓取なれ共、運がつきさせ給ひて、かくならせ給ふ物かなと被仰けり。さて信長は国のしおきを被成而、上野をば滝川伊予守に被下、かい之国をば河しり与兵衛に被下、駿河をば家康へつかわされて、富士一見と被仰而、女坂かしわ城をこゑさせ給ひ而、駿河へ御出有而、根方をとおらせ給ひ、遠江三河へ出させられて御帰国成。然間家康も今度之御礼と被成、あづちへ御座被成候。信長は家康と打つれ都ゑのぼらせ給ふ。信長之仰には、家康は堺へ御越有而、さかいをけんぶつ被成候へよと仰けるによつて、さかいへ御越被成ける。然処にあけち日向守は、信長之取立之者にて有けるが、丹波を給はりて有しが、にはかにぎやくしんをくわ立、丹波寄夜づめにして、本能寺へ押寄而、信長に御腹をさせ申。信長も出させ給ひ而、城之介がべつしんかと被仰ければ、森之お覧が申、あけちがべつしんと見へ申と申せば、さてはあけちめが心がわりかと被仰候処を、あけちがらうどうが参りて一鑓つき奉れば、其寄おくへ引入給ふ。お覧は突きて出而、ひるいなくはたらき而打死をして御供を申。早火をかけて信長はやけ死に給ふ。小田之九右衛門ふくずみをはじめとしてかけけるが、かけもあわせずしてかなわざれば、城之介殿へこもる。野村三十郎は、こもる事ならざれば追腹をきる。然処に信長に御腹をさせ申而、又城之介殿へ押寄ける。小田之九右衛門ふくづみをはじめとして、こゝわの者共百余こもりければ、城之介殿にては火花をちらしてたゝかいて、城之介殿をはじめまいらせ而、こと〴〵く打じにをしたり。小田之源五殿と山之内修理は狭をくぐる、其寄小田之有楽に成。家康は此由をさかいにて聞召ければ、早都へ御越はならせられ給はで、伊賀之国へかゝらせ給ひ而のかせられ給ふ。然処に信長伊賀之国をきりとらせ給ひて、なでぎりにして国々へ落ちちりたる者迄も、引寄々々御せいばいを被成ける時、三河へおち来りて、家康を奉頼たる者を一人も御せいばいなくして、御扶持被成ける間、国に打もらされて有者が忝奉存而、此時御恩をおくり申さではとて、送り奉る成。あな山梅雪は家【 NDLJP:126】康をうたがひ奉りて、御あとにさがりておはしましける間、物取共が打ころす。家康へ付奉りてのき給はゞ、何のさおいも有間敷に、付奉らせ給はざるこそ不運成。伊賀地を出させ給ひて、しろこ寄御舟に召而、大野へあがらせ給ふ由聞きて、各御むかひに参而岡崎へ供申。其より本田百助は河しり与兵衛と知音之事なれば、いそぎ参而其元に一揆もおこる物ならば、御かせい可被成と仰つかわされければ、河しりも忝なきと申せ共、百助は一揆をおこして我等を打可申とて来りたると思ひて、馳走して其後蚊帳をつりてふさせて、河しりは長刀をもつて来りてかや之つりてをきつておとして、其儘つきころしければ一揆共此由聞寄も、四方寄押寄而河しりをも打ころす。然処に大須賀五郎左衛門と、岡部の次郎右衛門、穴山内之者共を指つかわし給へば、あな山衆と岡部次郎右衛門は古府中へ付、大すか五郎左衛門は市河にいたり、然ども爰彼方一揆共にてしづまらざる所へ、大久保七郎右衛門婆口へ付たる由を、五郎左衛門も聞而、さては七郎右衛門が付たるが、今は心安とて太息をつきける処に、石河長門本田豊後親子も付たると申ければ、大方一揆もしづまりけり。然間、大すか五郎左、大久保七郎右衛門、本田豊後親子、石河長門、岡部次郎右衛門、あな山衆、若見こ迄押出す。然る処に七郎右衛門方迄六河衆、おび、つがね衆かけよりて先懸けをする。然る間御出馬程近ければ、此五六手之衆はすわへ押寄ける。大久保七郎右衛門さいかくにて、すわをも引付けり。いなへは大草と、ちくを、是も七郎右衛門が御意を得而、本領を出し而引付けり。然間下ぢやうをも、七郎右衛門が引付けり。よだ右衛門は二俣之城を七郎右衛門に渡しける。其由緒をもつて、田中之城をも大久保七郎右衛門に渡さんと申而、七郎右衛門に渡して信濃へ行けるが、信濃もみだれて早其儀もならずして、両度之ちなみをもつて、七郎右衛門を頼而二俣へおちかくれ而来るを、七郎右衛門が此由を御意をうけければ、信長へ隠しておくべき由御意に候へば、二俣にかくしおく。七郎右衛門申上けるは、此時御用に罷可立候へば、よだ右衛門に本領を被下候へ而、指被越候はゞ普代之者共も不残罷可出候間、是寄も諸手寄も五騎十騎づつ相くわへられ、甲州先鋒を相そへられて、其故しばた七九郎を御勘気をかうむりて罷在儀に御座候へば、此度御赦され被成て、此者共の将に被成て指被越候はゞ、作之郡は相違なく御手に可入。其故よき小屋をもち申つるが、其小屋に普代の者共罷有由申と申上ければ、尤之儀成其儀ならば七九郎を相そへ、諸手よりも出合而、早々越候へと御意に候へば、若見こ寄指越ければ、即小屋へ入ければ、普代之者は夢之多地して悦て小屋をかたくもつ。然る処に北条の氏直は、かんな河にて滝川伊予守と合戦して打勝而、信濃のうすいとうげを越而、作之郡へ出でければ、頓而真田安房守も氏直の御手に付く。然間坂井左衛門督は、東三河之国衆を引つれて、三千斗にて伊名郡へ出て、すわへ来り而被申けるは、信濃をば我等に被下候へば、諏訪をも我手つけんと云ければ、其時すは気を違へて、其儀ならば家康へは付申間敷、然ば氏なほへ可付とて、手ぎれをして氏なほへ申つかわしければ、氏直は此由聞召而、蘆田小屋へあてゝ、其寄ゑんのぎやうじやへ出て、かぢが原に陣取。坂井左【 NDLJP:127】衛門督三千斗にて、すわをのきて、おつこつに陣之取。同大須賀五郎左衛門、大久保七郎右衛門、石河長門守、本田豊後親子、岡部次郎右衛門、あな山衆、是もおつこつに陣之取而有けるが、氏なほ道一里の内外に、四万三千にて陣取給ふを、夢にもしらずして有ける処に、七郎右衛門に石上菟角と云者、あしたの小屋寄、氏なほのすわへ出馬有けるが、おつこつに陣取衆之儀、心元なきとて八つがたけをしのび而来りて申けるは、氏なほはかぢが原に、四万三千之人数にて陣取而、纔是寄一里の内外可有に御存知有而御入候哉と莵角が申ければ、其儀ならばみせに可越とて、其時おつこつの名主太郎左衛門と申者七郎右衛門が陣場に有而、何かの指引を申付而おきたる事なれば、所之者之事なれば、太郎左衛門を申付而見せにつかわしければ、太郎左衛門罷帰而申、むかひの原之しげみ之かげにまんまんと陣取而有。明日は定而是へ押寄可申かと申ければ、其儀ならば然ばのけやと各々被申ける処に、すわにて七郎右衛門が申けるは、すわを引付而御味方申処を、左衛門督殿口さきをもつて、二度敵になしたると申而、左衛門督と七郎右衛門と、口問答をしたりける。故をもつて坂井左衛門督殿は、七郎右まづのき給へ。七郎右之のき給はずば、我はのく間敷と被申候。七郎右は左衛門督のき給へ、左衛門督殿のき給はずば、何と有而ものく間敷と、申はらつていたりけるに、敵はさわを越而我おとらじと、むかひの原へ押上けれ共、此もんどうがはてざれば、さらばとて左衛門督殿のき給ふ。左衛門督殿も此もんどうにはらを立而、四つ之比のき給ひしに、陣場に火をかけ而陣ばらいをし給へば、敵は此由を見るよりも、早めて押出す。左衛門督殿は其寄もあとも見ずしてのきはらい給ふ。然処にはじめ寄一手におしたる事なれば、六手の衆は一度にのく。しつはらいが、岡部次郎右衛門、二の手があな山衆、三が大久保七郎右衛門、四が本田豊後親子、五が石河長門守、六が大すか五郎左衛門、是六手が一所に成て五郎左衛門を先に押立、だん〳〵に押而のきける所に、氏なほは四万三千之人数にて、嵩成道を押而敵を見くだして、先をもぎらんと踸。六手之衆は漸々取集而雑兵三千之内外にて、敵をかさに見上而、無㆓動転㆒引のけける処に、早頓而先を取きらんとしたりける処に、六手が一度に立とゞまりて、旗を押立て踸ければ、敵も帰され而徐呷而見へければ、猶侑而あしがるを出し、てつぱうを打かけて、其競に酷ずして禅引のきければ、敵もしらみて見へける間、そこを十町斗引のけて又旗を立て、敵を相待たるていにいたし候へば、敵も脇へまわすと見へける処へ、早石河はうき守をはじめとして、其外之衆すけ来りければ、坂井左衛門督も押とゞまる。然間氏なほも其寄若見こへ押而、陣之取給へば、各々は新府へ入而陣之取ければ相陣に成。然間六手之大将衆心おくれ之衆ならば、はいぐんもせでかなわざる事なれ共、各々度々之事に合付たる人々の事成。其故三千之人数が千斗は度々の高名、名をあらはしたるこゝはの者共なれば、十万騎二十万騎にてよせくると云共、一合戦づつ花々とせずしては、六手ながらおくまじきそなひに候へば、四万三千之人数をもつて、纔三千之内外之者が、七里之道をつかれて、人を一人打せずして引のく事は、上古も今も有がたし。然る処に家康は古【 NDLJP:128】府中に御座被成候つるが、明之日は早新府中へうつらせ給ひけり。然とは申せ共、家康之うつらせ給へ共、御人数は八千寄外は無之と申せ共、日夜之戦にも、四万三千之敵に一度もつらは、出させ給はず。然ば氏直仰けるは、是寄古府中を押而郡内へ入而、引取らんと仰ける由を家康聞召而、其儀ならばむかいの原に取出を取而、氏なほ押而とおらば取出へ人数をうつして、合戦を可被成とて若見こにも、むかいの原新府にもむかい之原に取出を被成けり。其日かきあげ斗成されて、夕さりは松平上野者と、大久保七郎右衛門者を指越而、大事之番にてある間、ゆだん仕なと仰被越ければ、松平上野殿寄は松平孫三郎を指越給ふ。七郎右衛門方よりは、大久保平助を指遣しける。次之日は御普請をも丈夫に被成而、其寄は諸手よりも一日一夜がわりに番をしたり。然間大久保七郎右衛門方より、あした方へ申越而、何とぞ才覚をめぐらして、真田を引付給へと申越候へばあしたがさいかくしたり。然共家康御前之さいかくをよく被成而、さなだ安房守方へ具に被仰越候へと、あした方より申越に付而、御はんぎやうを取、七郎右衛門方よりもくわしき事杉浦久蔵に申きかせて、久蔵をしのび而、遣しければ、安房守は即御手に入ければ、あしたの小屋へもひやうらう米をいれけり。此比は小屋も兵粮米につまり而、牛馬を喰い而命をつぎける処に、さなだにつゞけられ而、命ながらへたり。然処にさなだとあしたと一手に成而、うすいを取きらんとしければ、氏直滅亡とや氏まさも思召か、含弟之北条之左衛門助殿を仰被付れて、一万余にてぐんないへ出、見坂を越而東郡へ打出、此方彼方に打ちりて、はう火してらんぼうをして、そなひを乱しける。然所に鳥居彦右衛門と、三宅惣右衛門と、伯父姪をば古府中之御留すいに、おかせられ給ひけるが、此由を聞寄急かけ付ければ、おどろきさわぎける処へ、押寄押寄打ければ、こと〴〵くはいぐんして、見坂を指而にげ行ければ、左衛門之助殿もから〴〵の命たすかり給ひて、見坂を指而おちゆき給ふ。然間、彦右衛門惣右衛門両人之手柄云に不㆑及。さて頸を雑兵五百余新府中へつけて越ければ、物見場にかけさせ給へば、敵方是を見て何事をするやらん。寄合而走廻りありくとて見ける処に、頸をかけて立のきければ、敵方いそぎ来りて見て帰り、氏直へ申上けるは、何頸やらんこと〴〵数かけて見へ申と申上ければ、何頸にて有ぞ見て可参由被仰ければ、各々来り而見て、是は我が親、是は我が兄、甥、従弟、是は我が伯父あに弟と申而、興を醒し頸をだきかゝへてなきさけぶ。氏直もいよ〳〵是におどろき給ひ而、其儀ならば無事をつくりて合互に引のけべしとて、ぶぢをぞつくり給ふ。然る間ぐんないと作之郡を渡し可申間、然らばぬまたを此方へ御帰しあつて、御ぶぢに被成候へと仰ければ、其儀においては尤可然と被仰候らいて、頓而御ぶぢに成而、まづぐんないを渡し給ひ而、其故氏直はのべ山にかゝらせ給ひ而、作之郡へ出させ給ひ、うすいが峠を越而上野へ出させ給ひ而引入給ふ。家康もかい之国をおさめさせ給ひ而、其寄大久保七郎右衛門を仰被付而、作之郡へ召つかわされ而、御馬は入。七郎右衛門は御うけ申而、午之九月新府を立而、かぢが原にてすわへ使を立而、すわを引付而、ゑんのぎやうじやへ出て、其寄あしたの小屋へゆきければ、【 NDLJP:129】早野ざはの城を明、前山之城を焼きはらいてのきけるに、其城へうつりて有に、四方に一里二里之内に小城屋敷城共に十二三有。こむろ之城、ねつごや、もぢつきのあなご屋、内山之城、ゆわをの城、みゝ取之城、かしわぎの城、ひらはらの城、田之口之城、ゆわむらだ之城、うみの口、平尾之屋敷城、あらこの屋敷城、此城々の中へわり入而、四方へ取合而其内に此方彼方を引付けり。まづ岩村を引付而寄、午之年之内に大方引付而、未之年よだ右衛門は岩尾之城をのり取んとて、押寄而のり入処に、右衛門はてつぱうにあたり而打死しける。舎弟之源八郎もてつばうにあたり而はてけり。兄弟打死をしたりければ其儘引のく。然共敵にしるしは取られず、又七郎右衛門が未之年こと〴〵く城共を取おさめて、天正十二年〈甲申〉之春、上田之城を七郎右衛門が取而、さなだにわたす。
然る処に、同天正十二年〈甲申〉之年、関白殿、御本上に、腹をきらせ給はんと被成ける間、其時御本上家康を奉頼と、被仰候に付而、尤之儀成。是非共に、みつぎ可申、さてくわんばく殿は、むごき事仰候物かな、柴田が三七殿を引申たれば、しばたと、しづがたけにて、合戦して、しばたをたやして、又三七殿を、沼の内海に、おはします処に、現在の主成を、昔之、長田に、たがわずして、三七殿をぬまのうつみにて打奉り、本上をばくわんばく殿のもりたてんと被申て、又世もしづまるかとおぼへば、本上に腹をきらせ申と手、是非にみつぎ申さんと仰ければ、早くわんばく殿、十万余騎引つれ而、鵜沼を越而、犬山へ押出て、こまき山を、とらんとし給ふ処に、家康はやくかけ付させ給ひ而、こまき山へあがらせ給へば、くわんばくも手をうしなひ給ひて、おぐちがくでんに、諸勢は陣取りて、一丈斗に高土手をつきて、其内に陣取成。こまき山には、柵をさへ付けさせ給はずして、かけはなちに、陣取せ給ふ。土手のきわまで、かけ付〳〵して、十万余之人数に、つらを出させ給はず。然る処に、岡崎へ押寄而、城を取物ならば、こまき山も、たもつ事成間敷とて、三好之孫七郎殿を大将として、池田勝入、森之庄蔵、はせ河藤五郎、堀の久太郎、其外三万余にて、天正十二年〈甲申〉卯月八日に、おぐち、がくでんを立而岩崎へ出て、一時之内に岩崎城を責めとりて、かち時をつくりて有ける処に、家康は三河へ、敵がまわると聞召而、其儀ならば、人数をつかわさんと被仰而、水野惣兵衛殿、榊原式部大輔、大すか五郎左衛門、本田豊後守親子、其外を指つかわされける処に、程なく三好孫七郎殿に押寄而、合戦をしてきりくづし、岩崎を指而おひ打に打つ。然処にほりの久太郎、はせ河藤五郎岩崎之城を責取而、きおひていたる処へ、おひかけければ、ちり〴〵に乱而、おひける処を、又其寄おひかへされて、おばた迄うたれける。然る処に、小牧山には、本上と坂井左衛門督、石河はうき守、本多中務、其外之衆を、留すゐに置せられ給ひ而、家康は御旗本衆、井伊兵部少輔斗、以上雑兵三千余にて、跡寄押つめさせ給ふ処に、こと〴〵くおばたを指して、にげ入を御覧じて、押よせさせ給ふ処へ、池田勝入と、森庄蔵と、押立て家康へむかひける処に、押合而之合戦成。其時に、平松金次郎と、鳥井金次郎と、二人の鑓が相而、程なくはいぐんして、池田勝入をば長井右近がうち取、森庄蔵は【 NDLJP:130】本田八蔵が、打ちたるとはいへども議定せず。其寄も、三万余之者どもを、きりくづし給ひ而、ことごとくおひ打に打取給ひ、いそぎ人数を引上而、おばたの城へ引きいらせ給ふ処に、くわんばく殿、おぐつちがくでんにて、このよし聞召而、いそぎりうせん寺まで押出し給へども、家康御目の、きかせられたる御武辺第一の名大将なれば、そのむねを思召したる間、きり〳〵と、とりまわして、手ばやくおばたの城へ、引いらせ給へば、くわんばく殿も、手をうしなひ給ふ。然処に、小牧山にあひ残坂井左衛門督申けるは、くわんばく殿押而被出ければ、おばた筋之儀を、心元なく存ずれ。是より二重堀を押やぶり而、こと〴〵く陣屋に火をかけて、やきはらふ物ならば、くわんばく殿も、はいぐん可有と踸給へ共、其比寄、石川はうき守は、くわんばく殿へ心之ある間、其儀不㆑可㆑然とて、はうき守一ゑんに踸ざれば、左衛門督は、手にあせをにぎつて、白泡を嚙みて、いかれ共、はうき守すゝまざれば、打おきぬ。本田中務も、左衛門督と同意なれば、はうき守すゝまぬと見、さらば我等はおばたゑむかひに参らんとて、五百斗にて、くわんばく殿之備之下を、押してとほり、おばたの城へゆきて、御供を申而、小牧山へ来る。敵味方共に、本田中務をほめたり。然間くわんばく殿も、おぐち、がくくでんへ引入り給ふ。然る処に、おぐち、がくでんを引はらつて、すのまたを越而、いもふへはたらき給ふ。家康は、しげん寺へ押出し給ひ而、其寄きよすへ御馬が入る。くわんばく殿はいもふ之城を水ぜめに、せめさせ給ふ内に、かにゑの城にて、前田与七郎が、べつしんのして、滝川を引入ける処に、家康此由聞召して、ぢこくうつしてかなふ間敷と仰あつて、其儘取あへさせ給はずして、かけ出させ給へば、我おとらじとかけける程に、かにへと申は、しほ之さし引の処なれば、ほそ道一すぢにて、わきへゆくべきやうもなけれ共、家康之御いきおひ、一つをもつて即程なくのり付ける。滝川もかなわじと思ひ而、城之内寄舟にのり而、から〴〵の命、たすかり而、ゑ口を指而にげゆく。前田与七郎も、一こたゑ、こたゑ而見てあれども、つよくせめられ而、かなはじと思ひ、女子を一舟に打のり而、ゑ口を指而にげゆけども、のがすべきやうにあらずして、ゑ口にて女房子共、もろともに、のこらず打ころされて汐にうかび而ぞ有ける。さてまたくわんばく殿は、いもふ之城を水ぜめにして、其寄いせへまわり、桑名の上成山に陣取給ふ所に、家康は清須寄、くわなへうつらせ給ひ而、松が島へ、服部半蔵を指つかわされて、しろこへ出させ給ひ、浜田と四日市場に、城をとらせ給ひ而、引入給ふ。くわんばく殿も、其寄引入給ふ。然間、氏直合陣之時之、御無事のきりくみに、氏なほよりはぐんないと、作之郡、諏訪ぐんを渡し可申とて、是を渡しける。家康寄は、ぬまたを御渡し候へと御諚に付而、氏なほ寄は、御やくそくのとおりに渡り申に付而、然ば、ぬまたを小田原へ、渡し申せと仰被越候時、真田申けるは、沼田之儀は上寄も被下ず、我等手がらをもつて取奉る沼田なり。其故今度御忠節と申に付而、其御約束被成候、筋めの儀も御座候処に、其儀にさへ御手付も無御座候へば、御恨に奉存候処に、賸我等がもちたる、ぬまたを渡せと、仰被越候儀、なか〳〵思ひもよらずとて、【 NDLJP:131】渡し不申。其故御主には仕間敷とて、くわんばく殿へ申依る。然処に天正十三年〈乙酉〉之八月に、真田へ御人数をつかわされける。鳥井彦右衛門、平岩主計、大久保七郎右衛門、すわほうり、しばた七九郎、保科弾正親子、しもぢやう、ちく、遠山、大草、甲州せんぼう之衆、あした、岡部次郎右衛門、さいぐさ平右衛門、屋代越中、是等を指つかわされければ、上田之城へ押寄、二の丸迄乱入ける間、火をかけんとせし処に、しばた七九郎かけよせて、火をかけたらば、入たる者共出る事成がたし。火をかくる事無益とてとめけるは、七九郎若げのいたりか、物に合付ざるゆへか、火をかけずしてかなわざる処之火をやめけり。然間其元を引のけ申す時、案のごとく、火をかけて、やき立る物ならば、出間敷敵なれ共、火をかけざる故に、城寄したいて出る。早しきりに付、各々寄弓てつぱうをあとへさげけるに、大久保七郎右衛門内、本田主水、平岩主計内之尾崎佐門に申けるは、佐門何としたるぞ、其元之様子殊外、そないがもめて見ゆるは、いかゞ成と申時、佐門こたへていわく、主水能く見たり。只今迄は、昔之てつぱう之者共が有つる間、よく心得而、人之云事をもきゝ候へば、下知をもなして、そないもさだまりてもめず。其者共は、朝寄ほねをくだきてかけ引したりければ、只今西東もしらざる物に合付たる事もなき者共を、かわりに越たれば、あわてふためきて、げぢを云にも、耳にも不入して、事おかしくあわてたる事に候へば、げぢにも付不申間、爰元之儀は、其方など見られ候分に候へば、只今にげちり可申間、佐門は是にて打死を可仕候間、若其方之命ながらへ而、引のき給はゞ、佐門が申つる由、主計によくかたりてくれよと、云もはてざるに、はやはいぐんしたりければ、佐門はことばの如く、場をさらずして、打死をしたり。鳥井彦右之者共は、一段高き所を引のきけるに、戸石之城寄出而付、是もきつ〳〵と付ければ、早ならざる間、ご見孫七郎が、人にすぐれてはしり出、鑓をくり出し、ひざぐるまにのせていたる処へ、敵おふぜい押かけければ、つつたちて、おふぜいの者共と、花々とつき合而、場もさらず、うたれければ、其より彦右の衆は、はいぐんしたり。七郎右衛門者は、乙部豆吉、本田主水両人弓、くろやなぎ孫左衛門てつぱうにて、押合而のきける。此外にも十二三人可有けれども、跡には此者共がのきけるに、乙部豆吉が一之矢をはなして、射外し、二の矢をつがはんとしたりける処を、早突きふせて打処を、くろやなぎ孫左衛門が、立はだかりて、てつぱうにて豆吉を、打者をはなしてのきければ、其よりこと〴〵くはいぐんして、諸手之衆が四五町之内にて三百余打れける。大久保七郎右衛門は、賀ゞ河迄引のきけるが、鳥井彦右衛門者共が、くづれて来るを見て、其方へむかひ而、一騎帰しける間、其付而大久保平助馬寄飛んでおりて、やりをひつさげ而帰しける。七郎右衛門は、金のあげ羽之蝶の羽のさし物にて、かけまわりければ、さし物を見て、頓て旗をも押寄ける。にげちる者もかけよせ而、河原にこたへける。平助は銀之あげ羽之蝶の羽之九尺有さし物をさして、むかひける処へ、くろき具足をきて、やりをもちて押込みて来る者を、つきふせ而、頸をばとらずして、よせくる敵をまちかけいたる処へ、さし物を見かけて、松平十郎左衛門来る。【 NDLJP:132】次に足立善一郎来る。次に木之下隼人が来る。其寄大田源蔵、松井弥四郎、天野小八郎、戸塚久助、後藤惣平、けた甚六郎、ゑざか茂助、天がた喜三郎、是等が、平助いたる処へ来りたれば、是等を引つれて、上のだいへ押上けるに、敵も防ぎけるが、ことともせずして、押上ける処に、めてはさなだが旗本、弓手と向ふは五間六間之内に、こと〴〵く敵がひかえていたる処に真田が内之へき五右衛門が弓手之方寄、此者共がならびいたる中を、敵としらで通処を、平助が見て、それは三つまきをせざるは敵にて有ぞ、それつきおとせと云ければ、八幡へき五右衛門にて有ぞ。敵にはあらざると申ければ、平助云、へき五右衛門と云に、つきおとせと言時、足立善一郎が、はしりかゝりてつきけるが、鞍の後輪へあたる。五右衛門が共に来る者が、やりを取なほして、善一郎を少つく。然処に大久保平助前へ来るを、胴中と思ひ而つきければ、五右衛門に付たる者共が、やりを四五本もちけるが、二三本にて平助がやりを、からみてなげければ、なほして、つかんとする間に打とおる。けた甚六郎が前へゆきける時、又平助云、甚六郎それつけといゝければ、はしりかゝりてつきけるが、是も追ひさまなれ共、肘のはづれ之腰わきにあたらん。然間へき五右衛門が申は、河中島衆之早くすけ来りたりと思ひ、味方と心得て、敵之中をとおりける処に、大久保七郎右衛門弟の平助に、つかれたると云ければ、平助云は、いや〳〵我もつきはついてあれ共、我が突く鑓はまげられ而、五右衛門にあたらず。けた甚六郎とて七郎右衛門者が、やりがあたる成。我にはあらずと云けるが、五右衛門は、平助につかれたるといへば、おぼへと心得而云けれ共、平助はつかぬと云。然間敵之中へ入而味方が帰しくるかと見ける処に、十七八なる童が一人、敵としらずして来りけるを、天野小八郎がつかんとしける処を、平助が見て、せがれにて有ぞ、むごきにゆるせとてゆるさせける。今思ひ合せ候へば、是等ほどよき高名は有間敷物をと、平助も若げのいたりにて打せず。坂井与九郎高名も其の時之高名を、御旗本にてはくづれくちの高名と云て、世にかくれなきやうに申共、一つ時之高名にて候つるが、与九郎高名は七郎右衛門旗之立たる処をしらでかけ入たる者なれば、味方の中にて打たる高名成。小八郎に平助が無用と云たる場は、与九郎高名の場寄一町程敵之中へ行過、敵の中にての事なれば、高名をせでさゑ此者共には、高名したる衆之口は開ざるに思へば、其時討すべきを然間敵之中にて味方の帰すかと見ける処に、何かはしらず、廿騎斗本道を石橋之方へ帰してくると見て、平助は其寄むかうの敵にむかひ而、帰し来る衆と一手にならんと思ひ而、押こみてゆきける処に、一度に行ける者共は、其時は一人も来る者なき所に、天方喜三郎斗来る。然間帰し来る馬乗を見てあれば、一人も見しりたる人なし。其時喜三郎是寄はゆく間敷ぞ、見しりたる者は一人もなし。只今此者共はくづれべきと申もあへざる処に、我さきにと迯げ行く。もとより敵は五六間之内にひかへたる事なれば、ほどなく乗り付けり。石橋之有ける処にて、天野金太夫と小笠原越中と、なみきり孫惣と、両三人がことばをかわして申は、平助が是をのく程に見捨てまじきとて、平助に詞を孫惣がかけける。見すてまじきと云けれ【 NDLJP:133】ば、三人は馬にのりたり。平助はおり立而、徒歩なれば、いらざるをかしき事ないひそと云てのく。大久保七郎右衛門は、平岩主計がそなひへのり入而云けるは、貴殿のそなひを河を越而、われ等がそなひのあとへ押付給へ。敵之人数之纒らざる内に、我等がきつてかゝるべし。然時んば一人もやるまじきと申せば、中々主計返事もせず。七郎右衛門重而云けるは、川を越事成間敷と思はれば、せめて河のはた迄そなひおろさせ給へ。我等かゝり可申と申けれ共、其儀もならざれば、七郎右衛門はらをたちて、日比其かくご成人なれば、ちからもなきあさましき事とてのり帰し而、又鳥居彦右衛門そなひへ行而申は、平岩主計方にそなひを河のはた迄おろし給へ。然者敵之人数ちり〴〵成内に、我等がきつてかゝらんと云けれ共、震慄まわりて物をもゆわず。然者彦右のそなひを我等そなひのあとへ押出し給へ。敵之人数ちり〴〵にてまとわぬ内に、我等きつてかゝらんと云けれ共、鳥居彦右もことばをも不出して有ければ、其儀ならば河越事をいやとおもはれば、河のはたまでそなひをおろさせ給へ。我等がきつてかゝるべし。せめてあとをくろめ給へと云けれ共、返事もなければ、何れも下戸に酒をしいたるふぜいなれば、ちからもなし。日比之存分之ごとく成とて立帰り、又ほしなのだん正方のそなへへのり入而、御身のそなへを河のはたへおろし給へ。然者敵のまとまらざる内に、我等がきつてかゝるべしと云ければ、是は猶もふるゑて返事もなければ、あつたら地行かなと云すてゝ帰る処へ、平助が乗り迎ひ而、河むかひの敵が河をこしたらば、此ていにてははいぐん可有と見えたり。てつぱうを河のはたへ出させ給へと申ければ、七郎右衛門物もいはずして手をふりければ、手をふりてはかなふまじきに、はや〳〵てつぽうを出させ給へと申ば、其時七郎右衛門たまくすりがなきぞと言ければ、たまくすりのなきとは何としたる事ぞや、はや〳〵出させ給へと云ければ、其時せがれめが何を云。こと〴〵くこしがぬけはてゝ出んと云者一人もなきぞ、こしがぬけたると云へば、諸人のよわみ成に、たまくすりがなきと、云物なるぞと云ければ、平助も其儀ならばとて、かはらへのり出して帰る。され共敵も河を越さずして引入ければ、相互に引。然間明之日はまりこの城へはたらかんとて、ちぐま河を越而八重原へ押上ける処に、さなだは是を見て、うんのゝ町へ押出して、八重原之下を一騎打に、手しろづかまではたらきければ、大久保七郎右衛門が是を見て、しばた七九郎をつかいにして、鳥居彦右衛門方と、平岩主計方へ申越ば、両人之旗をちぐま河のはたへ押おろさせ給へ。然者岡部次郎右は若く候へば、よた源七郎と、すはと我等がむかつて、中を取きりて、ねつ原へおひ上而、一人ももらさず打取べきと申けれ共、両人之衆一ゑんにすゝみ不申。されば七九郎も手をうしない而立帰り、七郎右衛門に語ければ、如存知左様に可有。然者河のはたへ出させ給ふ事ならずば、此の山さきまで押出してあとをくろめ候へ。兎角に我等がかゝり可申と重而申ければ、両人ながら七九郎にも出合給はず、七九もはらを立而此由七郎右衛門にきかせければ、七郎右衛門はこの内之鳥をにがしたりとて、手をうしないて有けるが、重而又御越候へ而給候へと申け【 NDLJP:134】れば、其時七九郎七郎右衛門にはをかけ而申は、どれ〳〵とてもげこに酒をしいたるごとくに武辺之方をしいればとて、しいたよりもあらざるに、重々千度百度行たればとて、かたが可付か、天日あつきとてかきがみをかぶりて、我等にも不出合して、臥りて有にいらざる事を被申候物かな、あのていに候はゞ、出たり共やくには立まじければ、ほしなだん正親子と右之両人をば有なしにして、其方と我等計成共、出ば出させ給へと被申ければ、源七郎も幼少成、岡部内前もやうしやうなれば、御身と諏訪と我等三人して、進む所にあらざれば、無是非とて打おきぬ。然る所にまりこへはたらきて、八重原に陣取ければ、さなだも押帰して相陣之取ける。然る処に岡部内前之物見番之時、さなだ親子足軽之中へ打まじりて、手ぎつくせり合けるが、岡部内前には、駿河先鋒のこゝわの者共あまたあつまりければ、事共せずしてあひしらいける。其時七郎衛門又もやこりずして、鳥居彦右衛門方と、平岩主計方へ申被越ける。さなだ親子あしがる場へ出而、かけ引をしたると見えたり。ねがうに幸の処へ出たれば、両人の旗を我等が陣場迄出させ給へ。然者内前之手まへは引はなされば成間敷候へば、内前を一番にして、其あとへ我等が押つめて、合戦をするならば、さなだ親子をばとてもあの坂をばあげ間敷、打可取と度々のつかひを立けれ共、中々返事もせざれば、日比の事はしりてあれ共、か程とはしらず、もつけかな〳〵とて打返ぬ。岡部内前斗にても追ひ不被立して、対々にして有つるに、各々出たらば手に物はもたすまじき、千兵はもとめやすし、一将はもとめがたしとは今思ひ合たり。二人之心をもつて勝利をうしなひ給ふ。殊更何れもの手はよき事に会か又あしき事に会か、何様に此度手にあはざる人は一人もなけれ共、ほしなだん正は、よき事にもあしき事にもあわざれば、たぐいなき武者下戸と見へたり。然間此衆ふるひまわりたる故に、いよ〳〵敵もきをもちければ、相陣ののきかね而、重而御かせいを申うけて引のきて、各々ははつまがそりに城を取給ひと、よだの源七郎は天神林に行而、おさいにおりければ、其時も大久保平助にてつぼうを相そへてかせいに越たり。各々ははつまがそり寄引取給へ共、大久保七郎右衛門者こむろの城にとゞまりける処に、天正十三年〈乙酉〉の暮に石河ほうき守逆心をして、女子を引つれて岡崎寄引のけける。上には岡崎へうつらせ給ふ。大久保七郎右衛門にも、さう〳〵罷上候へとこむろへ日々に重々飛脚立けれ共、七郎右衛門いそぎて上ならば、上方は乱而早七郎右衛門も落行と云ならば、爰元も乱而一揆も起き而あらば即さなだも偣者ならば、相違なくとらるべし。其ゆゑ越後に信玄御子に御せうどう殿と申而、御目の見えざるの御入候ふ。是親子を甲州へ入奉んやうに申而、是を何とかと心がけたると、さたの有様に申候へと、何となく申様に候へば、自然左様之儀も有らば、甲州迄も乱而可有、左様にも有ならばいよ〳〵御負けに可被成候間、爰元を少見合而罷可上と申而有とは申せ共、重々仰被下候へば、其儀ならば誰ぞのこしおきて罷可上と申而、御地行を申上而可出に、誰居よ彼居よと申せ共、御地行ののぞみ処にあらず。石川ほうき守ぎやくしんの故は、親女子のゆくへもしらずして、のこり所にあらずと【 NDLJP:135】各々申はらつていたり。七郎右衛門は其儀ならば是非に不及、各々は帰り給へ、我等が是に可有と云ければ、各々申は、たとへば親女子はつれ申共、我等共斗罷帰る事は中々有間敷、何方へもともかくも御貴殿次第と申。七郎右衛門はたれに申而もがつてんなし、然者平助是に有而くれよかしと被申ければ、我等もいづれも同前に候。ほうき守いられ候う膝の下に、母と女房をおきて、とられたるもしらざるに、御地行を申而、くれんなどといはれ而、跡にとゞまる者哉可有か。其故爰元之様子をも御らんぜ候ごとく、命ながらへて帰り而、御地行申うけ申事かたし。其故ほうき守ぎやくしんの故は、定而おほかたの儀には有間敷ければ、上而も死するとゞまりても死ずる、とてもしする物ならば、御旗先にて討死を可仕候。同命をまいらせながら、爰元にて果て候はゞ、人もしり申間敷候へば、幕の内之討死に候。其故母之儀は、御方にも母、次右衛門、権右衛門にも母にて候へば、我等一人之母にあらず。我等こそあらず共、両三人之御入候へば、思ひおく事はなけれ共、女房之行へもしらずして、其故命不定成処にて御地行ののぞみ処あらず。御地行は閻魔王の御前へさゝげ候はん哉、何と仰候共とゞまり申事は中々思ひよらず、ふつつといやに候。其時七郎右衛門申は、其方が被申候所げに〳〵左様に候。母之儀は子供あまたあればあんずる事なし。女子之儀はほうき守ちかくにおきたるに、何と成たるもしらずして御地行ののぞみ処にあらざると被申候事、其の儀は尤道理きこえ而候。其儀は我等あやまつたり、かんにんせよ。然者何の望もなく、命をすてゝ是に其方とゞまりてくれよかし。其儀にあらざれば、我等のぼり申事ならざる間、偏に頼入と被申ければ、其儀ならば心得申候。地行にたづさわりてならば、中々にかくごに不及候へ共、何かなしに命をすてよと仰候処を、いやとは不被申候間、さう〳〵一時も早くいそがせ給へと、重々の御意に候に、爰元之儀あんじ給ふなと言て、早早と申て暇乞してのぼせて、我は酉之八月より戌之正月迄とゞまりける。然共ほうき守させる手立もせずして引のきける。
然る処に、天正十四年頗之月、尾張内府家康へは御さたもなくして、関白殿へ無事をつくらせ給ふ処に、くわんぱく殿よりして、尾張内府早ぶぢに被成候間、家康も御ぶぢに被成候へと、仰被越ければ尤の儀なり、大ふの頼被申候へばこそ手ぎれは申たれ、大ふさへ一身被申候はゞ、我等においては仔細なしと仰つかはされければ、其儀におひては忝存知候。然者べつして申合可申ためなれば、我等の妹を可進とて其御定を被成て頓て御輿を入給ひて、御姉婿殿に被成ければ、此故は上洛をせずしてはかなわざる事なれば、然者御上洛可被成と御意の有ける処に、坂井左衛門督被申けるは、御上洛の儀共さりとはゆわれざる思召立にて御座候。菟角に思召とゞまらせ給へ、御手ぎれに罷成候うとても、是非に及ざる儀共なりとしきつて被申上ければ、各々諸大名衆も右衛門督被申上候ごとく、御手ぎれに罷成申とも菟角に御上洛の儀は分別に及不申候。何と御座候へても、今度の御上洛は是非に思召とどまらせられ可被成と、各々もしきつて申上給へば、左衛門督をはじめ各々は何とて左様には申ぞ。我【 NDLJP:136】一人腹を切て万民をたすけべし、我上洛せずんば手ぎれ可有。然共百万騎にて寄くる共、一合戦にて打はたすべけれ共、陣のならいはさもなき者なり。我一人のかくごをもつて民百姓諸侍共を山野にはめてころすならば、其亡霊のおもわくもおそろしき。我一人腹を切ならば諸人の命をたすけおくべし、其方などもかならず何かの儀不申共、わび事をして諸人の命をたすけおけと被仰ければ、左衛門督も左様にも思召に付ては御尤なり、御上洛可被成之由申被上けるを、さすがにおとなの御返事には似相たりと申ける。太閤者御上洛之由を聞召て、其儀ならば忝存知候。左様にも思召ならば、若御用心之儀も思召可有候へば、母にてまします人を岡崎迄質物に可遣と被仰て、御老母之政所を岡崎迄御越被成ければ、其迄に及不申忝と被仰て、井伊兵部少輔と大久保七郎右衛門にあづけおかせられ給へば、人じちの御越有て、諸人も大いきをつきてよろこぶ。御上洛有ける時兵部と七郎右衛門を召て被仰けるは、若我が腹を切ならば政所をがいして腹を切可有者なり。我腹を切たり共、女共をばたすけおきて帰すべし。家康こそ女房をがいして腹を切たると有ならば、異国迄の聞えも不㆑被㆑可㆑然、末世の云つたへにも可成、然時んばまん所をばがいし奉れ。かならず女共に手さし有間敷と仰おかれて、御上洛被成けるに、何事もなく御帰国被成ければ、各々上下共に目出度と申よろこぶ事かぎりなし。然間政所も御よろこび有て御上洛被成けり。然共六ヶ敷や思召けるか、其後に御毒をまいらせんとて御ふるまいの時被遣けるに、大和大納言とならばせ給ひて上座に御座被成候つるに、御運のつよきによつて御膳の出る時御しきだいを被成て、大和大納言殿を上座へ上させ給ひて下座へ居替らせ給ふゆゑに、其御膳が大和大納言殿へ据りて、家康のきこしめされん御毒を大和大納言の参てはてさせ給ふ。さて其後年々御上洛被成けるに相違もなし。
天正十八年〈庚寅〉三月廿八日小田原の御陣立なる。うき島が原へ押出してさうが原に御陣の取せ給ひ、にら山の城へ人数を指越給ひて責させ、其よりはこね山をひらおしにあがりて、山中の城をとをりがけにのりおとして、太閤の御旗はむじりがとうげに打あがらせ給ひて、石かけ山に御陣のとらせ給ふ。家康はみやぎ野へかゝらせ給ひて、くの原へ出させ給ひ、其よりいまい、いつしき、浜の手をうけとらせ給ふ。思ひ〳〵に山々をのり越て城を取まきけり。関東へは加賀、越前、能登、越中、越後、信濃衆を引つれて、加賀大納言、うへ杉景勝の出給ひて関東の城々をのこらずうけとりて小田原一城になす。然る所に早松田尾張もべつしんのくわ立けり。みな河山城も城よりかけおちをしければ、城中も早成間敷とてぶぢのあつかいにて落城する。其上にて氏政と奥州と兄弟に腹をきらせ申て、氏なおと、安房守と、美濃守と左衛門助をばたすけ給ひて高野山へやり給ふ。さて又家康は国替可被成においては関東にかへ給へ、いやに思召ば御無用なり。何と成共御存分次第と被仰ければ、尤かへ可申と被仰て三河、遠江、駿河、甲州、信濃五ヶ国に、伊豆、相模、武蔵、上野、下総、かづさ六ヶ国にかへさせられて、関東へ〈庚寅〉の年うつらせ給ふ。其より太閤は御馬が入、天正十九年〈辛卯〉七月日、くわんぱく殿大将【 NDLJP:137】はして奥州陣有りて家康の御旗は岩手ざわに立。然間奥州もこと〴〵くおさまりて関白殿は板屋越を被成て米沢へ入せ給ふ。家康もよなざわへ御越被成て関白殿と其より御帰国。
然間文禄元年〈壬戌〉に高麗陣とて、太閤の御馬も名護屋に立ける。家康の御馬も名護屋に立ける。諸勢は高麗国へ立けり。辰の年御出馬有て、午の年の八月御帰国なる。然るあひだ其後に関白殿御むほんの由仰被出て聚楽の城を取出、高野山へおくり奉りて御腹を被成けり。其後御手かけの女房衆あまた三条がはらへ引出て、かうべをはねて一つあなに取入て畜生塚と名を付てつきこめ給ふ。然る処に太閤は慶長三年成八月十八日に御年六十三にして朝の露ときへさせ給ふ。然共各々寄合給ひて七歳に成給ふ秀頼を寵愛有ける。中にも内大臣家康を太閤の頼奉らせ給へば、取わけての御てうあひ成ける。然る処に各々諸大名衆寄合て内府の御仕置なれば我々の存分にあらずと思ひて、諸大名一身して家康へ御腹を切せ申さんと申合ける処に、伏見より大阪へ御見舞にうつらせ給ふ時、よき時分と心得たる処に、此由を藤堂佐渡が心得て、今夜は先我等所に御座可有由申上て、我所にて用心きびしくし奉りける処に、伏見にのこる御普代の大名小名夜がけにしてかけ付ければ、早成間敷と思ひて知らず顔していたれば、城へいらせられ給ひて秀頼にたいめん被成て伏見へかへらせ給ふ。然共此儀思ひとゞまらずして、又伏見にて早大方敵味方見へわかつて有様に有りけれ共、取かくる事はならざる所に、大阪より加賀大納言遅し速しと来らせ給ひて、兎角に向島へうつらせ給へと仰ければ、むかひ島へうつらせ給ふ。其よりこと〴〵く気をちがへて我も〳〵と申わけして、後には石田治部少輔一人に掛けて、後には寄合て治部に腹を切せんとする処に、家康御慈悲におはしましければ、各々治部をゆるし給へと被仰けれ共、各々きかざれば、其儀ならば石田は先さお山へ引入て可有由を仰被出けれ共、道へ押かけて腹を切せんと各々申由を聞召て、然者中納言おくれと御意の出ければ、越前中納言様の送らせ給へば、相違なく石田はさお山へ行ていたりけり。然共治部少輔は此御おんをかたじけなきとはおもわずして、心中には謀叛のたくむ事計なり。然間会津の景勝は国へ暇申てくだりけるが、其後召共来らず。其儀ならば打取らんとて、家康の向わせられ給へば、北国、中国、四国、九国、五畿内、関東、出羽、奥州迄残所なくあひづ陣へぞ立ける。然間都を立て、先陣はなす野の原へ押出せば、後陣は未尾張、三河、遠江、駿河をおすも有り。古河、くりはし、小山、宇都宮に陣の取、古河には家康の御旗が立、宇都宮には将軍様の御旗が立。然処に、石田治部少輔謀叛をおこして、安芸の毛利、島津、あんこく寺、小西摂津守 増田右衛門督、長束大蔵、大谷ぎやうぶのせう、にわの五郎左衛門、たち花左近、金吾中納言、ぎふ中納言、うき田中納言、長宗我部、小田の常真、其外大名共が跡にて敵になり、伏見の城を責取て松平主殿助、松平五郎左衛門、鳥居彦右衛門、内藤弥次衛を討取、かち時をつくりて大津の城をせめ、あをのが原へおし出す。東にては景勝、佐竹義宣、真田が敵になる。然間あいづの御陣の御やめ被成て、上方へきつてのぼらせられんと被仰ける処に、本田中務、井伊兵部少輔御内談【 NDLJP:138】被申けるは、上方へ上らせ給ふ儀は如何に御座候。先此地を御しづめあつて其故きつてのぼらせられ、御尤かと奉存知候儀は如何御座可有と被申ければ、言語同断なる儀を申者共かな、我せがれより弓靱を付て度々の事に相付て有物を、磯をせゝりていかゞせん。大場へ押出して一合戦してはたすべし。早早汝共は罷上給へと被仰て、御先へこと〴〵く御人数をつかわされければ、先ちまつりにぎふの城を責取ける。其手にのらざる衆は合渡へ押かけて、がうどの敵をきりくづしておひ打に打て、其よりあをのが原へ押上て陣の取。敵は大がきを根城として、柏原、山中、ばん場、醒井、垂井、あか坂、さを山迄取つゞく。敵は十万余可有か、味方は四五万も可有か。家康御出馬なき内に合戦をいたす物ならば、自然勝事も可有に、せでかなはざる処をのばしける処へ、慶長五年〈庚子〉九月十四日にあをのが原へ押寄させ給ひて、同十五日に合戦を被成て、金吾中納言うらぎりをしてきりくづさせ給ひ、ことごとく大たに刑部少輔をはじめとし、不残追打に打取せ給ふ。さを山の城をのりくづして火をかけて、治部少輔が女子けんぞく一人も不残やきころす。石田治部、あんこく寺、小西摂津守、両三人はいけ取て京、大坂、堺を引渡して、後には三条かわらにてあをやが手に渡りて、かうべをはねられて頭を三条の橋のつめにかけられたり。なつか大蔵をはじめ、其外しよ大名の頭をば百姓共が所々にてきりて来る。うきだの中納言殿をも生取て来りければ、八丈ヶ島へ親子三人ながさせ給ふ。ました右衛門督は命をたすけおかせられ、岩付の城にあづけられて命ながらへたる斗にてあさましくぞくらしける。あきの毛利はおとなにて有る。吉川が宵に御内つうを申上、十五日の日は是もうらぎりの心にてむかへていたるにより、命もたすかり主の国をもあげて、安穏にして御じひふかきによりて、毛利には周防と長門両国を被下けり。島津には、薩摩日向是両国が本領なれば下おかれける。には五郎左衛門は上様への御ぶ沙汰にはあらず、指むかひ申たる加賀の筑前に付申事のめいわくさのまゝ、御敵を申めいわく仕たりと申に付て、命を御ゆるされ被成て、其後召出されて少の御地行を被下けり。立花之左近は膳所の城を責て御敵申さる者成を、命を御たすけ被成候儀さへばく大なる御おんに候に、召出されて過分の御地行を被下て、御用に罷可立者と御意之候儀は、平人のふんべつに不及、先指あたつて御用にたゝざるは御敵を申たるが一せう、其故御用に罷立間敷と思召ても、今度御敵を申さぬ人は重ても御用に立事は治定なるに、何れも〳〵御用に立たる衆より立花におゝく被下候儀は、御敵を申上たる御褒美か、然る時んば御敵を申せば地行をもとる物か。此度の御取合には池田三左衛門と福島大輔と両人が頭をふりたらば、関が原迄出させ給ふ事は成がたけれ共、三左衛門は家康の御ためには婿殿にておはしませば、御みかたなくてもかなはざる御事なり。福島はさりとは思ひきりて御味方を申。きよすの城をあけて渡し申事はたぐひすくなき御ちうせつなり。然る所に将軍様は宇都宮より御立被成、中道にかゝらせ給ひて押て上らせ給ひける処に、さなだが城へとをりがけに打よせさせ給ひける。将軍様御年二十二の御事なれば、御若く御座被成候につきて、本田佐渡をつけさせたまひて御供させた【 NDLJP:139】まふ。なにかの儀をもおの〳〵にまかせずして、佐渡一人して指引をしたりける。佐渡がさなだにたぶらかされて、我はの顔して五三日日をおくりける。何事も各々は佐渡次第と被申て罷在間、佐渡がはからひも隼の指引こそよくも可有、武辺のしたる儀は一代に一度もなければ何かよからんや。然間二三日もおそく付せ給ふ。何時も何事に付ても、其道々にえたる者に指引をばさせてならでは、事のゆくべきにあらず。佐渡が我があしくしたるとはいわずして、後にはしらずがほしていたれ共、何事も皆佐渡が妨なり。其時繰引をしたり、是も佐渡がかうしやぶりにてくり引をして、後には我が利口に云けれ共、人々は佐渡がくり引とてわらひける。くり引と云事はあれ共、つひにくり引に合たる者はなくして、佐渡がをしへてはじめて各々もくり引に合たり。くり引に不及、敵が城より出たらば、おつ取〳〵おひ入て付入に城をとらんとはおもはで、さても〳〵佐渡はくり引はしたり。さて又さを山にて先ぜいに追付せ給ひ、其より伏見へ移らせ給ひて、押て大阪へうつらせ給ひけり。秀頼に腹を切せ給ふかと各々存知ければ、御じひなる上様にて、帰て後には将軍様の婿殿に被成ける。
然る間慶長十九年〈甲寅〉之年秀頼諸国のらう人を抱へ、分銅をくづして竹をわりてそれへ鋳流して、竹ながしと名付てらう人共にとりくれて、十万余ふちせられると家康聞召て、其儀ならば秀頼の御ふくろを江戸へ下給へと仰つかはされけれ共、思ひ不寄と御返事有ければ、其儀におひては国をも可進に、大阪をあげて国入をし給へと被仰けれ共、其儀も思ひ不寄とていよ〳〵諸らう人をかゝへてふしんをして、てつぽうをみがき矢の根をみがくと聞召て、其儀ならばべつしんかと被仰ける。秀頼もりの片桐市之正異見の申けるは、なにかと被仰候御時分にあらず、兎角に何と成共家康の御意次第に御したがい被成て、御ふくろ様を江戸へ御越被成て御尤と申上げれば、大野修理、同主馬之助、同道けん、さなだ左馬助、明石掃部、其外のらう人共が寄合て申けるは、菟角に御ふくろさまを江戸へ御越被成候儀はいらざる御事に候。市之正は家康のかたんを申候へば、市之正を御せいばいあれと申に付て、市之正はすいたへ引のけける。さては謀叛におひてうたがひなしとて、東は出羽、奥州、関東八ヶ国、東海道、五畿内、西は中国、四国、九国、北は加賀、越前、能登、越中、越後、日本に残無所大阪へ押寄せける処に、大阪よりは河内摂津国の、堤をきりて水をはゞませ、道をあしくしたりければ、家康、秀忠、御親子様は都を御出馬あつて、諸せいは奈良口をほうりう寺、だうめう寺、平野へ出させ給ひて、相国様は住吉に御陣の取せ給ふ。大将軍様は平野に御陣を取せ給ひて、岡山へ御陣を取よせ給へば、相国様はすみ吉より天王寺へ御陣のよせさせ給ひて、ちやうす山に御陣の取せ給へば、諸ぜいは城を取まく。然所に城よりは、天ま、せんば、野田、福島、かわ田が城迄指出てもつ。然所に蜂須賀阿波守、かわだが城へ押寄てたゝかいけれ共、取事のならざれば、石河主殿頭横矢にかゝりきび敷せり合て、ふかきゑ河を脇立頭立にてとび入〳〵越て、攻かゝりければ、たまらずしてあけてせんばへ引入処に、蜂須賀のり入、次の日せんばをあけける処に、石主殿頭のり入て、せんば橋迄押寄て【 NDLJP:140】橋を越んとする処に、敵はこさせじとすれ共、あたりの衆主殿頭処へすける衆一人もなければ、敵は是を見てあたりのてつぼうをあつめて打立けれ共、事ともせずして良久しくたゝかいければ、相国様聞召て、あたりの者共はすけずして主殿をばすてころすか。主殿は何とて目もあかざる処へ押寄けるぞ。さう〳〵引のけよと重々御使ひの立ければ、其儀ならばとて少引のきて小口をかためていたりけるを、天下にかくれなく申ならしたり。相国様も大将軍様も両日の手がらを御感被成けり。さて城を四方より取つめ、高く築山を築て大筒をかけ、又は江口をつききらせ給ひて、天ませんばの河をほし、天地をひゞかせ攻させ給ふ。然る処に越前少将様と井伊掃部と乱入んとてほりへとび入どいをのり、既のりいらんとしたりけれ共、あたりの衆一ゑんにかまひもなく見物したるふぜいなれば、敵は此由を見るよりもあたりの虎口を指置て、おりかさなりてふせぎければ、乱入事もならずして引のきける。ひるゐなき仕合不申及。然る処に城も成間敷と心得てあつかいに成けるは、此儘ゐなりにゆるし給へと申ければ、相国の被仰様には、其儀ならば惣かまいをくづし給へ。其儀においてはいなりに指おかれ給はんと御意なれば、尤とおうけを申てぶぢに成ければ、おそしはやしと乱入て惣かまいのへいやぐらをくづして、一日之内に日本国の衆が寄合て一日の内にほりを真平に埋めて、次の日は二の丸へ入て二の丸のへいやぐらをくづし、石がけをほりそこへくづし入てまつたひらに埋めさせ給へば、秀頼もしよらう人も、もろ共に惣がまいと申つるに、二の丸までか様に被成候う儀共はめいわく仕と申せば、もとより惣がまいと申つる。たゞし本城をばやぶる間敷と申しつるによりて本城はやぶらず。其段になれば物をもいわせずしてうめさせ給ひて、相国様は御先へ京とへ御帰馬被成けるに、大将軍様御跡に残せ給ひて御しをき共被成、五三日御跡に御帰京被成けり。此故は秀頼重而手を被出候共御心安と御意被成、御親子共に卯の正月、駿河関東へ御帰国被成ける処に、二月は早秀頼手かわりの由つげ来る。然る処に手出しに堺の町をやき而手を出す。大野主馬、さなだ左馬頭、明石掃部其外の者共が申けるは、京とをやき払い、大津をやきてせたの橋をやきおとし、其より宇治橋をやきおとして奈良をやくべしと申処へ、早相国様の御馬が京とへ付、押付而早江戸より夜日についで押つめさせ給へば、大将軍様もつゞいて伏見へ御付給へば、秀頼の思召事もかなわず。然る処に、ふる田織部は京とをやき立申さんと申て秀頼と内通申処に、あらわれて其くみのもの迄あらわれ、東寺にはりつけにかゝる。古田織部は御せいばい成されける。其ほかにも御せいばい人おほし。かるが故に、慶長八年
〈癸卯〉〈[#「癸卯」は底本では「癸」]〉五月五日に京とを御出馬被成而、同六日にどうめう寺ぐちへ後藤又兵衛をはじめとして各々出ける処に、たつ田ぐちより出給ふ衆、越後のかづさ守様、政宗、松平下総守、水野日向守、此衆に出合而、松平下総守、水野日向守、指合而両手の前にて合戦してきり負けて、後藤又兵衛は打れける。其外はいぐんしておひ打にせられ大阪指てにげ入。平野筋へは木村長門が出けるが、井伊掃部と藤道和泉と両人指合而、両手にて合戦して木村長門を打取ければ、大阪指而はいぐんしたる処を、おひ打に打けれ【 NDLJP:141】ば、のこりは大阪へにげ入、しぎ野筋へは榊原遠江がおひ打にしたり。然る間同七日には、御両旗にて押つめさせ給へば、真田左馬之助は天王寺ゑ押出しける処に、大将軍様押寄させ給ひ而御旗本にてきりくづさせ給ひける。大将軍の御手柄広大無変なり。然る所に城に火がかゝりければ、大阪内が町迄一間も不残やけはらいけるはふしぎなり。然る処陣すぎて後に味方くづれこそしたり。然る間秀頼は天主に火かゝりて、千畳敷もやけければ、山里ぐるわへ御ふくろ女房たち引つれ而御入有処に、井伊掃部を仰被付ければ、大野修理罷出て、御のり物を二三でう給候へ、罷可出と被申候由申ければ、御ふくろ斗のり物にて出給へ。其外は馬徒歩にても出給へと被申ければ、何かと言而出かねさせ給へば、其儘てつぱうを打こみければ、かなわじとや思ひ給ひけるや、火をかけてやけしに給ふ。御供には大野修理、真野蔵人、はやみかいの守、是は秀頼の供をして腹を切てやけしする事たぐひなし。野々村伊予守は行方なし。伊藤丹後守は秀頼さい後の場をはづし、さまをくゞりて出けり。大野主馬、千石惣弥は行方なし。長宗我部と大野道けんは、落ちて此方彼方さまよひありく所に、長宗我部をば、やはたにてとらまへ而高手小手に諷て、二条の城の駒寄にしばり付而さらし給ふ。道犬をば大仏にてとらまへ而高手小手にいましめて、堺の町を引而両人ながら三条河原へ引出して、あをやが手にかけてかうべをはねて三条の橋の下にかけさせ給ふ。秀頼の落胤の若君も、十斗に成せ給ふを守がつれまいらせ而、伏見までおちゆかせ給ふをいけどりまいらせて、獄門にて切奉り而、すなわちごくもんにかけさせ給ふ。然間大阪にこもりたる衆は、命ながらへたる衆はこと〴〵く具足をぬぎすて、裸にて女子もにげちる。こと〴〵く女子をば北国、四国、九国、中国、五畿内、関東、出羽、奥州迄ちり〴〵に捕られけり。
さて因果と云ものは有物か、太閤のいにしへは松下加兵衛が草履を取給ひし人を、信長の御取立をもつて人となり、今太閤迄へあげ給ひける人の、信長之御恩のわすれ而、御子の三七殿をぬまのうつみにて御腹をきらせ給ひ、尾張内府をば御地行を召上北国におしこめ給ひ而、御扶持宛行いもなくしておき給ふ。さて又太閤の御子秀頼も、相国様打奉らんと大阪にて一度、又伏見にて諸大名に仰而打奉らんと二度め、会津御陣の御跡に諸大名をもよおして伏見の城を攻めころして、相国へむかはせ給ひ而三度め、又去年謀叛の企て、諸浪人をふちして敵に成給ふ事四度め、又当年手を出し而合戦をし給ふ事五度めなり。相国御じひ故四度迄は御ゆるされ被成けれ共、たすけ度は思召けれ共、此うへは是非なき次第、たすけおく物ならば又謀叛を可企、然者腹を切給へとて御腹を切せ給ふ。是を見る時んば因果と云物有物なり。然る所に御旗奉行の衆今度うろ〳〵としたるを内々聞召被成候哉、御旗の衆一人は甲斐国の者ほさか金右衛門とて武辺もなき者なり。一人は丹波の者せうだ三太夫と申者なり。是も武辺の有もなきも御普代家にては人しらず。御鑓奉行の者、一人者武蔵の者、若林和泉と申者なり。一人は三河の者大久保彦左衛門と申者、是は相国御代御七代召つかわさる。其身の先祖つたわり申、御【 NDLJP:142】普代のものなり。然ると申処に、御旗奉行の衆御鑓ぶぎやう衆を下目に見て、何事をも御眼力をもつて御旗を我等共に仰被付けるとて物ごと談合をもせず、御鑓ぶぎやう衆はおか敷事申者共哉、出頭人を取むけて有ればこそ彼等に御旗をば仰被付たり。彼等が武辺もしりたり、あすが日にも見よ、彼等が何事もあらば御旗を取まわすすべをばしる間敷き。又依怙をして彼等を取立んとしたる衆本多上野其外の衆の胴骨をもよくしりたり。此衆が武辺定の事をかしき腹すぢなる事なり。只今座敷之上にて何かの事云て依怙したり共、何事もあらば見よ、えこしたる衆迄も恥をかゝせ可申と云ける処に、相国様は岡山の方へあがらせ給へば、御旗をば住吉迄押て行、住吉にて相国様の御座被成候方をしらずして、十方をうしなひて其時御鑓ぶぎやう衆とだんがふ申せ共、御眼りきにて御身逹には御旗を仰被付たり。斯様の時のためにてこそ、御眼力のちがわざるやうに可被成とて一ゑんかまはざれば、重々云寄て彦左衛門云は、然者御旗を阿部野の原へ押上て、あれなる大塚へ両人かけあげて御馬じるしの見えば其方へ押給へといへば、尤とて御旗をあとへ押返てつかへ上て見けれ共、御馬じるしは見えずと云。其儀ならば阿部野の原を押上給へと云ば、天王寺をさして押上げるに、中程にて御旗立ける処へ、彦左衛門がかけよせて、何とて敵ちかき所にて御旗をばふらめき給ふぞ。ちやうす山を左にして押上給へと云ければ、ほさか金右衛門が申は、御身はへたくらしき事をの給ふぞ。ちやうす山なるは敵にはあらずやと言ければ、大久保彦左衛門云けるは、御身こそへたくら敷旗をばたつれ、ちやうす山のを敵にてなきとはたれか云ぞ。ちやうす山のが敵なればこそ、御旗を遅々せずして左へ押上給へと云。相国の御旗が昔よりついに左様にふらめきて敵にへりたる事なし、たゞちやうす山を左になして押上給へと言けれ共返事もなき。良有て天王寺の方へは押ずして東の方へ押ける処へ、又大久保彦左衛門かけ付て、何とて敵を後になして左様に御旗をば押給ふぞ。御旗がまくれて見ぐるしきに、菟角ちやうす山を左にして押上給へと云へ共耳にも不入。然る処にちやうす山の東にてやう〳〵相国様見付申。然る処に早天王寺口にててつぱうのなり取合ける時、御旗を田中に立ける時、御鑓を御旗の前へ出しければ、ほさか金右衛門がかけ出して申は、只今迄御旗のあとに有ける御鑓を、御旗之先へ出し給ふか、我等はしらざると申時、彦左衛門が申は、不㆑及㆑云我等共のあづかり申御鑓を御身達にしらせんならば腹がいたき。其故物前にて御鑓が先へ不出ば何が可出ぞ、それ故物前にては旗にてたゝき合物か、鑓にてたゝき合物か、何とて御身達のしらん哉。我等二人のだうぐをしり度共しらせ間敷と云ければ、物もいわず帰りける。然処に彦左衛門が云けるは、若林和泉殿御らんぜよ。御旗奉行が何をもしらざる。てつぱう衆はみかすみに有り。てつぱう衆へ押付でかなわざる旗を、遥にへだちたると申ければ、左様に申たるかと云ければ、いや〳〵さやうには不申。然者我等が可申と被申候へば、彦左衛門が申。いや〳〵御無用に候、よき事をば御がんりきに我等仰付たりと云べし、あしき事をば其方と我等なんにいたし候はん間御無用と申ければ、和泉甲は、いや〳〵御ために候間可申と被申候へば、彦左衛門重て申は、【 NDLJP:143】御ための処は指おき給へ、彼等がていにてはまつことの時は、御旗を立申事は成間敷、其時は御身と我等として立可申ければくるしからず。其儀は御心安可有と申処に敵もはいぐんする。然る処に相国の御馬じるしの天王寺の方に御座候と見て、其方へ御旗を押けるに、頓て押付るに、天王寺の南にて味方俄にくづれて来りければ、其時御旗を立けるに、二人の旗ぶぎやう一人もゐず。相国様は道より天王寺の方に頓て道畔に御馬をひかゑさせ給ひて御座被成候。御辺には馬のりとては小栗忠左衛門より外は一人もなくして、ちり〴〵になりけるがにげたる事やらん、又御さきへゆきたる事やらん、御前にはあらず。然共少身の衆は此時に候へば、手前をかせぐとても御先へ出ても似合たれ共、御目をかけられて人となり諸国の衆にもちいられて御影を見、人に怕慄かれける衆は老若をきらわずして、上様之御あたりを一寸はなるゝ事は何たる武辺をしても第一のひけなるに、ましていわんや何れも有所をしりたる者は一人もなけれども、時のいせいによりて我も存知たり、我も存知たるとは申せども蔭にては有所存知たると申人一人もなし。其時御旗ぶぎやうの衆御旗のあたりには一人もあらずして、はるか後来りて保坂金右衛門が申けるは、大久保平助我等はさきへゆかんと云ければ、彦左衛門申けるは、尤の儀なり。先には鑓がはじまりたると云にさう〳〵ゆきてやりをし給へ、我等は仰被付ける御道具の有所にて可有と申ければ、金右衛門然者我等も参間敷と言ければ尤の儀なり、何事はなけれ共若何事もあらば、仰被付たる御だうぐを枕として、はて給ふを本義と存ずる成と云ければ、其時御旗の所へは参たれ、せう田三太夫は先へ出てむかひより鉄砲をはなしける間、其に寄て先へ出て我等も鉄砲をかけていたるとは云けるが、まことに鉄砲をかけていたるやらん、又はくづれたるやらん人はしらず。たとへば先へ出ててつぱうをかけてある共ゆわれざる事なり。仰被付ける御どうぐのあたりをはなれ申事はきこへ不申。然間はじめより彦左衛門ばかりいたる処へ、頓てすわべ惣右衛門が来たる、おしつゞきて若林和泉が来る。御旗奉行二人はるかおそく来る。然間各々の被申様にも彼衆にましたる御普代の衆も有に、ゆわれざる衆に御旗を仰被付ける物哉。其故上方と御取合の処に、せう田三太夫も上方の者なるに仰被付候儀はさりとはゆわれざると申。甲州関東の儀は上方との御取合なればくるしからざる事なれ共、是と申も出頭衆の気に入たる故なり。きに入而申被付而も御ためには不被可然事成と各さたしたり。さて又相国様は五月八日に御帰京被成けり。大将軍は御跡にとゞまらせ給ひ、秀頼に御腹を切せ給ひて其外御仕置共被成て御帰京なる。
其後相国様京都にて今度大阪にてのよきあしきの御せんさく被成けるに、あるいはでんちやうらうに相申たると云人も有り、又はそうてつ法印に相たると云人も有、あるいは我々互に云合て証人に立相たる人も有、事おかしきせう人成。昔は出家や医者などを武辺之証人に立たる人をば、中々付合もせざれ共、今の世は末世にも成り、出家といしやが武辺の脈とり、又は察しれば武辺に成と見へたり。又は度々の武辺のしたる者を、昔は武辺のせう人には立て有に、一代之内敵のかほの赤きも黒きもし【 NDLJP:144】らざる者を、武辺のせう人に立る事、腹筋のいたきほどおかしき事なり。相国様はもとより度々合戦に合付させられて、日本の事は申不㆑及異国迄も隠れなき御武辺第一之相国様なれば、おかしくは思召共それ〴〵に被成而、打おかせられ給へば、申霽れたると思ひ而武辺顔をしていたる人おほし。古き武辺者共は目引鼻引わらひてこそいたり。其故武辺のしなも多し、昔はくづれくちの武辺をば武辺とはいわず、但しくづれざるまへにたがひにつゞゑてまほり合たる時之武辺をば、よき武辺とてほめたり。敵くづれたる処へ人さきにかけ入たると云共、其儀は昔はほめず、のきぐちの武辺が成がたき者なり。然間のきぐちの時手きつくて敵につかれ申時は、五人十人には過ざる者に候間、のきぐちの武辺を昔はほめ申なり。又こゝに只今はおもしろき事を云、兜をきたる者の頸を取ては、もぎ付と云事昔はなければ只今聞当世流か、昔は小者中間ふ丸之頸なりとも、押つおされつ之処にての頸か、又は槍下の頸か、深入をして打たる頸などの手がらなる処にて取頸は、何くびにてもあれ手がらと云たり。今度之大阪などのやうにの追ひ頸をばかぶときたり共、たとへば大将のくびなりとも手がらの高名とはいわざるに、大阪にてかぶと頸を取たるとて利口する事のおかしや。然どもくづれてにぐる人が帰しししたる武辺をば、其儀をば殊の外にほめあげたり。今度は始めよりくづれたる敵なれば、各々馬にておひかけければ、何時もか様に馬にのり而合戦は可有と斗、たうせいの衆は心得候へども、合戦の時は皆々馬よりおひおろして、馬をば後備ひよりはるかにとおくやる物とはしらずして、何時も馬にのりてあらんと斗言もはかなき事なり。然る所に今度相国様の御旗奉行之衆うろ〳〵としたるを聞召被成候哉、小栗又一郎と大久保彦左衛門が罷出て有けるに、御座の間よりひろ間へ成せ給ひしが、彦左衛門を御覧ぜられて、汝は旗に付而来りたるかと御意の候へば、彦左衛門手を付いてうしろを見ければ、汝が事にて有と御意なれば、我等は御鑓に付奉り申と申上ければ、汝は旗にて可有と御意なれども、いや〳〵御鑓に付奉り申すとまた申上ければ、重而又汝は旗にて可有と、あららかなる御こゑを被成而御意の有りけれ共、兎角御鑓に付奉りて参上申由申上ければ、其時したらば旗には誰が付たるぞと御意の時、ほさか金右衛門と小田が付奉りて参たる由申上ければ、何小田々々と三度迄御意なれども、三太夫をわすれける処に、小栗又一郎が申上けるは、せう田三太夫と申ける。其時四方を御らんじけれ共御旗ぶぎやうの衆一人もあらざれば、御広間へ御座被成候つるが立帰らせ給ひて、御目を見ひらかせ給ひて、五日の日淀にとまらんとは誰がいふつると、あら〳〵成御声にて三度迄被仰候へ共御返事申上る人なし。はじめに某に御あらため被成候間、某が事にもやと奉存、彦左衛門申上げ申は、よどに御とまりの儀は誰と人を奉㆑指に及不申、上下共に左様に不申候人は、一人も無御座と申上ければ、重ての御諚に、我がとまらんといわざるに、とまらんと云やつばらめはたくらため迄と御諚被成而御ひろ間へならせけり。誰申ともなく申つると申上たらば、誰が云つると御意被成而云くちを御せり被付可申が、上下共不申候人一人も無御座候と言上申によりて、彦左衛門はされ共せり被付不申。【 NDLJP:145】又然る処に二三日過而水野日向守御目見へに参而有。小栗又一郎大久保彦左衛門も有つる処に御座の間より書院へならせ給ひけるに、日向守を御らんじて、今度は何としたるぞと御意被成ければ、日向守申上けるは、さればせんばの方より三百騎斗住吉之方へ参申たるが、其内より三十騎程天王寺の土井に奉付而参申たるが、何方へ参りたるを不存候と申上られければ、其時御諚に、汝がしるべしと御諚なれども、人を指而の御諚なければ、おうけを申上る人もなければ、彦左衛門手を付而、うしろの方をみければ、汝が事なり汝がそこにいたればしりつらんと御意なれば、されば天王寺の土井の方よりもすぐ道の御座候ひつる。其よりにげ出申者がちやうす山の方より岡山の方へ参本道へ罷出申て、本道をくづれ申者と一つに罷成申而参申に付而、敵味方之見わけは不存と申上ければ、其は敵かと御意有りければ、敵のかほは見しり不申、ずいぶんの地行取衆が逃来り申つるが定而其中へも入而参申か不存候。其くづれ而参候衆が御鑓をもふみちらし申、馬之上にてかなぐり取而切折り申而もちて参候。それを見てやりかづき共が又きりをり申たるも御座候と申上ければ、御諚にさても〳〵腰抜めかな、やりの短きがよきと云事をばいつしりたるぞ。然ば其者共は何方へにげけるぞ。御前の方へ参申つるが、御前様より某などは御先に罷在つる儀に御座候へば前後は不存と申上ける時、其儀ならばやりはなきかと御たづね被成ければ、御鑓も御座候へども多分無御座と申上ける。相国様は三間柄より短きをば惣別にきらわせ給ふ事なれば、鑓をきり折り申たる者を腰ぬけと思召儀共なり。然る処に其明の日二条の御構ひの火たきの間にての事なるに、松平右衛門は御旗は見ぬと云。彦左衛門は御旗は立たるに何とてたゝざると仰候哉と云。いや我等共は見ずと云。又云、七本之御旗の立たるを何とて見給はぬ哉と云。また立たる御旗をたゝぬとはいわれ間敷と云ければ、其の時こゝに御入候各々は見給ふかと右衛門にいわれて、時の出頭におそるゝか、我も見ぬ〳〵と各々口を指上云ければ、さればこそ聞給へ、御旗は立ざるにきわまりたり、我等共も見ず各々も見ぬとの給ふに、御身一人斗立たるとの給ふはたゝざるが必定成と云。又云実に〳〵左様にも可有、頓て心得たりと云。何と心得給ふと云ければ、云べつの儀には有間敷、おそれながら各々の暗の夜程に御らんぜば、我は月の夜程に見申べし。月の夜程に御覧せば我等は昼程に見可申。よく〳〵存知候へば各々は其元へ御越候はで御越有と仰候物か、若其元へ御越候とも、七本之御旗を御らんぜずんばあわて給ふか。其儀ならば不可然と云ければ、重而之戦闘はなし。然間彦左衛門申は、其時御旗もおさまりて後具足をぬぎて、ぐそくかたびら斗にて其まゝせう田三太夫と二人参て、上様の御馬の立処、又は御旗の立所を見て返り申つるが、各々は御らんぜ候かと云へば、其時右衛門げにと見る所成を、何のふんべつもなくして見ざると云ければ、彦左衛門左様に見る所をさへ見給はで物をあらそひ給ふかと云。然る間各々有事をろんじて、後には彦左衛門を性の強き者と云。又然る処に二三日すぎて、御前にて御せんさく有而よく申ひらきたる人も有、又あしく申而退るも有。然る処に、やりに付きたる者参れと有ければ、又彦左衛門が罷出【 NDLJP:146】る。然る処に御せんさく過ぎて御座敷へいらせられ給ふとて彦左衛門を御覧じ付て被仰けるは、汝は鑓に付て来ると云かと御状なれば、かしこまつて御座候と申上ければ、御けしきかはりたまひて、彦左衛門手を付たる畳のへりをふませ給へば、よこ畳の事なれば二尺四五寸へだたりける其間を、御杖にてつかせ給ひて、汝は何とて我にはつかざるぞと御状の時、御鑓に相そへられ御旗本の諸鑓まで若林和泉と某に仰被付候へば、千本に及申たるやりに御座候へば、御旗に付申たる御どうぐに御座候へば、御旗の有所に罷在由申上ければ、其儀ならば何としたるぞと御状の候時、御旗が大和が冬の陣場に立申間、御やりも其に罷有たりと申上ける時、そこに旗は立まじくぞと御状の時、いや其に立申たりと申時皆共見ざると云程に立間敷と御状なれば、彦左衛門申は、何と御状成とも御旗は立申たりと申せば、早御けしきかわりて御わき指をねぢまわさせられて、頭へ埃のかゝり申ほど御杖にて畳をつかせられて、我も見ざるほどに、莵角に立間敷と重々御状なれども、何と御状成共御旗は立申と強く申はりたれば、御状には、其儀ならば何としたるぞと御状之時、ちやうす山の方より崩れて来り申者が、御家中の旗、やり、又は御鑓共にふみくづして御旗斗立て罷在と申上ければ、然者何としたると御状の時、ちやうす山方より参たる者は御前の方へ参而、御前の方がくづれ申と申ける時、弓矢八幡今日の天道我が一代迯げたる事もなきを、あれめが我をにげたると云。大久保七郎右衛門が性の強きに、大久保次右衛門がこわきに、兄弟一のぢやうの強きやつめなり相模をも我が助けておきたる。あれめが情のこはき事を云と御意被成て、城内のひゞくほど御声のたかければ、各々何事にやと申て肝を消す。然る処に本多上野守参て彦左衛門が手をとりて罷立とてつれて出る。上様の御そばへ永井右近がまいりて、御道理にて御座候。総別ぢやうのこわき者にて御座候と申上ければ、御腹をいさせられ給ふ。然間彦左衛門召つかいが申ける、ゆわれざる御ことばを返給ふと云ければ、おのれらはしる間敷、何とて上様を迯げさせられたると、天道おそろしく申上申さん哉、上様は小栗忠左衛門と只二騎御馬に召而御座被成候。御へんには二十人ぐみ衆れき〳〵といたる。然共ずいぶんの衆はにげてこそ有らん、御前にはあらず、上様こそ御座被成けり。御内のれき〳〵はおふかたにげける間、申ぞこなひにはあらず。然共此さきの御たづねにはゆる〳〵御たづね被成候に付而御前の方へ参申つるが、御前とは程へだち申間、御前へ参申而からは不存と申上ければ、御機嫌もよく御座候つるが、今日はつめ寄てせり付〳〵被仰候間、某も事の外せき申故に、御前が崩たると申上たる儀は心の外の儀成。又御ことばを返し申儀はべつの儀にあらず、御旗奉行衆うろめきたると聞召けるや、それをにくしと思召て御旗がにげたると御状被成けるは、上様の御ちがい成。御旗にきずを付させられて、御はたがにげたると被仰所にはあらず。其に御腹を立せ給ひて、我が旗はにげたると御状被成候を、各々れき〳〵としたる御取立の衆中々にげ申たり。我等共も見不申と申上たる衆は日本一のひけと云。又は御しうさまの御事をおもわずして当座の御きげんとり申つるは、さて卑怯にはあらざるや、某は相国様迄御代御【 NDLJP:147】七代召つかわされ申御普代の者なれば、御旗にきずをば付申まじき。たとへにげ申たる御旗成ともにげ不申と申上而、其が御咎ならば頸はうたれ申共、御旗のにげたるとは何として可申上哉、各々は当座の御意にいり申とて、以来之御主のためをば不申、我等はとうざにくびは打れ申共、以来の御ためあしくは何としてかは可申、相国様度々之儀を被成申せ共、味方が原にて一度御旗のくづれ申寄外、あとさきに陣にも御旗のくづれ申無㆑事。況や七十に成らせられて、おさめの御ほうどうの御旗がくづれては、何の世にはじをすゝぎ可被成哉、然時んば我等が命にかへても御旗のくづれざると申たるが、御普代の者の役なり。又いかに御取立成とも当座の御気にそむかざるやうにと思ひて、以来の御ためにかまはざる事こそ、御ふだいにあらざる人のやく成。我等御ことばを返し申而からかひ申たる故に、おさめの御ほうどうの御旗はくづれぬになる。其儀をかんがへずして、某を上様にからかい申たる我まま者と申人は、とても末世御主の御用には立事有間じき。御ことばを返し申故に、世間にては我等に腹を切せ可被成由を申と承候へば、其儀ならば我等唐高麗へ落行而、石のからうとに入たればとてものがるゝ事は有間じく、其儀ならば御前へ只今罷出て腹を切迄とて上下をきて出る処へ、小栗又一郎が来りてやどに有かと云。何として被出けるぞや。其儀成、御前へ出給へ。出はぐれたらば出る事成がたし。腹を御きらせあるならば切給へ。年寄衆して御意を得被申候事は御無用成。其に付て何かと被仰候はゞ後六ヶ敷可有、定業はさだまりたり、あしきことをして死したるにはましなり。御主の御ためを申而其があしき事に成ならば是非もなき事成、只今可被出同道可申とて、来りたると申ければ、よくこそ御出有たれ。只今我一人罷出て腹を切せ被成候はゞ可切と存て支度申たり。我腹を切ならば介錯には何時も御身寄外に頼可入人なければ、さいわいの所へ被出候者かな。腹を仰被付ば御かいしやくを頼入事、目出度も御出かな。いざや御ともせんとて二条の御城へ参りければ、彦左衛門が来りたると申而、各々興醒貌にて有ける所へ、上様御出被成而御覧ぜられて通らせ給へば、又一郎も心安とて同道して帰りける。然間からかい申たるよりも、被出間敷所を出たりと人々も申なり。然間卯の年は両上様ながら江戸駿河へ御帰国被成けり。
然間元和二年〈丙辰〉の正月、田中へ御鷹野に御成被成ける処に、俄に御わづらいつかせられて、次第々々におもり給ひて、卯月十七日に御遠行被成ける。御遺言の儀たれしりたる人はなけれども、申ならはしたるは、我がむなしく成ならば、日本国の諸大名を三年は国へ帰さずして、江戸に詰めさせ給へと被仰ける時、大将軍の御状には御ゆひごんの儀一つとして違背申まじき。然とは申せども此儀におひてはおゆるされ可被成候。左様にも御座候へば、若御遠行被成候はゞ、是より日本の諸大名をば国へ帰し申て、敵をもなさば国にて敵をさせ、押かけて一合戦してふみつぶし可申。何様天下は一陣せずしてはおさまり申間敷と被仰候へば、其時御手を合られて、将軍様をおがませられて、其儀を聞き申度ために申つる。さては天下はしづまりたりと御よろこび成され而、其まゝ御遠行被成候と申たり。下々にて、【 NDLJP:148】さても〳〵将軍様の被仰様は承ごとかなと舌を捲いてほめ奉たり。然間相国こそ卯月十七日に御遠行ならせ給ひけれ、各々は不㆑被㆑下して国元にてゆく〳〵と、其元仕置き其外申付而来年罷下給へと仰被越給ふ。此御ことばに付おそしはやしと諸大名は罷下。
さればにや君之御めぐみあまねく、御あはれみのふかくして世もしづまり、かた〴〵も安穏なるにて、昔を思ふに大唐殷の国に旱魃する事三ヶ年なり。然に草木こと〴〵く枯れうせ、人民多くほろびけるうへは、鳥獣にいたる迄いきのこるべしとは見へざりける。国主大になげき給ひて、大法秘法のこさずおこなひ、雨を祈給へどかなわず。大王思ひの余りに諸天を恨奉りていわく、我生て寄此方、禁戒をおかさず政みだりにおこなふとも思はざるに、如此日でりして人の生命すくなし。身にあやまりあやまる処あらば、いましめ給へかしとなげき申さるれども、其しるしなかりけり。今は自ら命を民の為にすてんにはしかじとて、広き野辺に出て萱をおほくあつめて高さ二十丈につみあげさす。公卿大臣奇異の思ひをなすに、国王臨幸なりて、其かやの上にのぼり給ひて、まわりに火を付よと宣旨を被成ければ、臣下大に辞して付る者なし。其時大王の給はく、若あやまりて政罌粟ほどもみだり成事あらばやきぬべし。やくる程の身ならば命いきても益なし。若又あやまらずば天是をまもるべしとて大に逆鱗有りければ、綸言そむきがたくして四方寄火を付ければ、猛火山のごとくにもゑあがりて、炎空に充てり。大王もけむりに噎び、前後もわきまへがたくし、すでに御衣に火の付ければ御目をふさぎ、掌を合十念に住して火境変浄地と念じ給ひければ、天是を憐み大雨俄にふりくだりて、山のごとくなりつるみやう火をけし、国王もたすかり給ふ。人民命をつぎ五穀成就しけるとなり。是も大王の御心一つをもつてなり。されば論語に曰く、あやまつてあらたむるにはゞかる事なかれ。あやまりてあらためざるは賢かへりて愚なりと見へたり。然に此文の名を円珠ともいへり。まことなる玉のばんをはしるによそへてなり。公方様の御ことばのおもき、一つに天下も穏やかにたせいも静まり、国土安穏にしてたみもゆたかにさかへ、目出度御代とぞ申けり。さて又我伝聞くは、親氏泰親様より今当将軍様迄御代拾一代の御事をあらまし伝てきゝおきしに、御代々御慈悲をもつて一つ、御武辺をもつて一つ、よき御普代をもつて一つ、御情をもつて一つ、是によつて御代々もすへ程御はんじやう目出度なり。御子大将軍様の御代にわたらせ給はざる時は、物をものたまはず、人に御ことばをかけさせられ給ふ御事もなくして、何とも御心の内をしれず。いかにとしても御代につかせられ給ふ御事、いかゞあらんと申人多き時、大久保彦左衛門が申けるは、この君様はあだなる御人にはならせられまじき。其をいかにと申に、清康様は御年御十三にして御代をうけとらせ給ひて、纔の案祥の小城をもたせ給ひて、雑兵五百の内外の御普代の者斗にて、三河一国を、御年十七八の御時分はきりおさめ給ひて、其後小田の弾正の忠をおひすべて尾張を半国きりとらせ給ひて、諸国にて案祥の三郎殿と申て、人に怕られ給ふ。其清康様の御育ち、又はなりふりまでも我親共の物語申つるに、すこしもたがわせ給はねば、うたがひもな【 NDLJP:149】き御武辺はたけくおはしまして、諸国の人の恐れをなさざるはあるまじき、目出度御屋方可成ぞ。我は年寄の儀夕さりをもしらず。此かき物に後引合て子共ども見よ。つかな蛇は一寸を出して其大小をしり、人は一言をもつて其賢愚をしるといふことは、当将軍様の御事なり。御雑談のおもむきを承しに、御武辺ならぶ人有間敷ぞ、御普代久しく召遣われ申せば、御代も御長久に目出度なり。是やせいやうの詞に、漢の文王は千里の馬を宣じ、晋の武王は雉頭の衣をやくとは、今の御代にしられたり。民の竈には朝夕の煙もゆたかなり。賢王の代になれば鳳凰翅をのべ、賢国にきたれば麒麟蹄をとくと云ことも、此君の御時にしられたり。目出たかりし御事なり。抑東照権現は、かたじけなくも紅葉山に崇め奉り、蘋蘩の礼社壇に繁く、奉幣しんぎよく石社なり。其垂跡三所は仲哀、神功、応神三皇の玉体なり。本地を思へば、本覚法身本有の如来なり。八万法蔵十二部経の如来も、法しんの如来も、ほんうの如来も何れとわくべき一体なり。名付て三如来と号す。生界経行果上の三重の袂をあらわしたまへり。百王鎮護の誓を起して、一天静謐にめぐみおはします。まことに是本朝の宗廟として源氏をまもり給ふとかや。現世あんをんの方便は、観音の信力を起し給ふ、仰ぎても信ずべきは此権現なり。相国の御ために清浄衆縁の建立し給ふ。今の権現堂是成。其のほか堂塔を創立し給ふ。仏僧経巻をあふぎ、御志即壮にして善根も又莫大なり。征夷大将軍に任ず。籌策を帷帳のうちにめぐらし、勝ことを千里の外にえたり。げにやはるかに纔の案祥に御座の御時、清康山中岡崎を御手に入させられ給ひて、其後三河一国をおさめさせ給ひて、御子広忠へゆづらせ給ふ処に、伯父内前に立被出給ひて、其後御普代の衆が入奉りて駿河の吉元を頼奉りて、竹千代様を人質に被㆑進し時、継祖父中にて盗取、小田の弾正忠へうり奉りて、御六才の御年より熱田大宮司があづかりておはします御時は、かく可有とはたれか思ひよるべきや。今一天四海をしたがへ、唐、高麗、中天竺まで掌なくなびかせ給ひ、なびかぬ木草もなかりける。まことややしきのことばに、天下安寧なる時はけしやくをもちひずとは、今こそ思ひしられたり。
偖又我子共物を聞け。親氏の御代に三河国松平之郷へ御座被成てより此方、親氏、泰親、信光、親忠、長親、信忠、清康、広忠、家康、此御代々野にふし山を家としてかせぎ、かまりをして度々の合戦に親を打死させ子を討せ、伯父、甥、従弟、はとこを打死させて、御ほうこうを申上、それのみならず女子けんぞく共に麦の粥粟稗の粥をくわせ、其身もそれをくいて出ては打死をして御ほうこう申上たる、其すへ〴〵子共供が、只今は御前へ可罷出ちからもなければ、ゆくゑもなき人の普代と成、一季奉公をして世をめぐるも有り、御はしりばうかうをするも有り、荷担商をして鰯田作をうりて世をおくるも有、又は御前御ほうかうを申せ共、百俵、百五十俵、弐百俵、三百俵被下候へば、御前の御ほうかうを申せば、髪をゆひ申若とうの一人も二人もつれではかなわず、御城ありきにもならざるとて徒跣にてもならざれば、小者の五人三人持でもならず。百二百三百俵被下候物は年中の上下一衣又は若とう小者【 NDLJP:150】の扶持給にもたらず候へば、内儀は昔親祖父のすぎあひのごとくなる、稗粥のていなり。各々御普代のすへ〴〵のくらし申なり。それのみならず其身が咎とは申ながらにて候へば、さら〳〵御怨みにはあらねども、御勘気をかうむり奉りてこゝかしこ徘徊し、餓死に及も有り。然間人を召つかう事番匠の木をつかうが如し。長木をばうつばりにし、短きをばひじきつかばしらにす。如此人の器用分限に随いて心もちをしてあてがいつかふ。されば人をあまさずしてすべき事共なり。又年比召つかうともちいさき咎あらんには捨べきなり。或文に曰く、君子はよき事一つしたるをば百のとがあれども人をすてず、下郎はよき事百度したれども、とがを一度しつれば恨みつるなり。人をかへりみるには我ごとくある物はすべてなき物なり。是則主となる時は、人をもどかわしく思ひ、臣と成時は人にもどかるゝ習いなり。惣別三河の者は明暮弓矢をかせぎければ、公儀の道は何れもしらざる。然と申せどもかうぎのよき物何に可被成、日本の諸侍はこと〴〵く御内の者にて候へば、誰をあがらめてせうくわん被成てかうぎのよき物を御用に思召や、余りかうぎのよき物に昔も武辺をかせぎたる物なし。偖又日本の諸大名に金銀実物を被下給ふ事は、海河へなげいれさせ給ふ如く也。其を如何にと申に大名は百姓同前にて、此前々も草の靡にて強き方へ斗就きければ、後世にもかく可有。何の入ざる諸国の者は、御身にも成間敷者に過分の御知行を被下候ても、其上に御気遣可被成。御普代の衆の産広げたる子が方々へ散りて有を召集させ被成、御勘気の御普代衆をも御赦し被成候はゞ、五千も一万も可有。是を召よせられて御座あらば、百万騎にて寄来る共、上様の御先にて働く物ならば、きまんごくのきおふが寄せ来る共、何かはためんや。只今斗にもあらじ。長親様の御時も北条の新九郎が一万余にて寄懸たるを、長親様五百斗にて斬懸らせ給ひて斬崩し給ひし事も有。家康様の御時氏なを四万三千にて相陣を取時、相国様の人数は七八千にて四万三千につらを出させ給はねば、氏なをは国郡を帰して降参してのく。同太閤の拾万余にておぐちがくでんに陣取給へば、相国様は雑兵七八千にて小牧山へあがらせ給ひて相陣をとらせ給ひ、十万余の人数につら出しをさせ給はず、あまつさへ三万余打ころし給ふ。是を見る時んば、御普代衆押へ召寄させられておかせられ給はゞ、万に御きづかいは有まじけれども、御普代の衆といへば肩身をすくめてありく事は是は何事ぞ。他国衆は只今世がおさまりたる故におひさう被成て御普代衆をば外様に召つかはれ給ふ。御代は五百八十年目出、しぜん何事もあらば、他国衆は御目を日比かけられ申たるとはおもわずして、こと〴〵く欠落をすべし。それのみならず只今も左様に可有、御目をかけられ申内はぜひとも御用に立可申とは思ひ申べけれ共、御意も背き御言葉をも御かけなくば、そばめる心有て御かたじけなく候間、御用に是非共立候はんとおもふ人は一人も有まじき。又御普代衆の御重宝は召つかわさるゝ人の儀は不申及、在々所々に有て御存知なき衆迄もはせ来りて御用に罷可立。然時んば鴆毒口に甘くして命を断、良薬くちに苦くして身をたすくと云文有。ちんどくと云鳥は海をとび渡るに毛一つもおちいれば、かいちうの生類こと〴〵くしするなり。是は口に甘きなり。【 NDLJP:151】然る間おろかなる物のあしかるべき事を、主を賺さんためにいつくしくして、なだらめて心にたのむすぢと心得て申せば耳にいる。まつそのごとく他国の衆はかう儀はよし、口はじやうずなり、御ほうかうはよく申なり。召つかわされよきまゝに御心をゆるさせ給ひて、御膝元ちかく召つかわされ候事は、ちんどくのくちにあまきがごとし。又は御普代衆は相国様の御代迄山野に伏て夜ひるかせぎ、かまりをして、武辺を家としてやりさきをとぎみがき、矢のねをみがきてつぱうをみがきて、武辺をむねにたやさずして此道をかせぎたる衆の孫子にて候へば、祖父親のぶこつ成すがたを生おちより見つけて候へば、上方衆のやうに、いたいけらしき声づかいして、こびひなのやうに出立て、けいはくを云事は罷成間敷けれども、しかしながら、恐らくは御用にたち申事においては、御普代衆に上こす事はおそれながら日本には有まじけれども、只今は御用づくは御国も治まりて天下富饒成うへ、いらざると思召て御普代衆には御ことばがけも不被成候哉。殊吏案祥御普代、山中御普代、岡崎御普代の衆のすゑ〴〵をば、一しほ御目にもいれ給はざる御事は、良薬口に苦きが如く、然どもらうやくは口ににがけれどもやまいを治する。御普代はぶこつにて召つかわれ候事もどかはしく思召とも、御わきざしと思召御心おきなくゆる〳〵と御心をもたせ給ふ御事は。御普代衆にこす事は有まじけれども、左様には候はでとざまにて召つかわれ候へば、かたみをすくめて各々御普代の若き衆はありく。他国衆は只今は御座敷にては御用にたゝんと云て、肩衣にてめをつかせてありく共、取つめての御用には、御座敷の上にて、かゞみたる御普代衆には中々思ひもよらず成間じき。昔の引べつも有、諸国のらう人が浜松へ出来りて御普代衆にもまけ間敷、是非共に御用に立て御旗の御先にて打死を可仕候と、誠しやかに高言をきらしければ、上様もさもやあらんと思召、又は御普代衆もげにもと思ひてまけまじとかせぎければ、御普代衆を一度越たる事もなし。其故味方ヶ原にて御合戦に打負させ給ひて、既に遠江三河もあぶなく思召候時は、日比かうげんきらして有る諸国の諸浪人は、かけおちをして一人も残らずして、三河遠江の者斗有て、御用に立て御運のひらかせられける。か様なる引べつも候へども、其儀を御存知なくして上方衆を御秘蔵被成、御心をおかせられ給ひて、御身になる御普代重代の衆のすゑ〴〵をば御ことばがけもなし。御普代衆をあつめおかせられ給ふならば、日本国者打かはるとも、百万騎にてよせくるとも、御普代衆五千も一万も可有が、上様の御先にて錣を傾けてかゝるならば、何かはためん哉。御普代衆をあしく被成候事は、上様の御しつついを御存知なきなり。清康様家康様などは御普代の者をたいせつに思召て、弓矢八幡普代の者一人には一郡にはかへまじきと御意被成ける間、なみだをながしてかたじけなしと申てかせぎけるが、只今は御普代の者を御存知なきとてなみだをながしける、うらとおもてのなみだなり。是迄は何れも御ちうせつ被成候御普代衆、又は我々共の儀なり。さて又子共どもよく〳〵きけ。此書付は後の世に汝共が御しうさまの御ゆらいをもしらず、大久保一名の御普代久敷をもしらず、大久保一名の御忠せつをもしらずして、御主さまへ御ぶほうかうあらんと思ひて、三【 NDLJP:152】でうの物の本にかきしるすなり。何れも大久保共ほどの御普代衆は数多候間、別の衆の事は是にはかきおくまじけれ共、ふでのついでにあら〳〵かきおくなり。各々のは定て其家々にてかきおかるべければ、我々は我が家の筋を詳しくかきおくなり。先御地行不被下とても、御主様に御不足に思ひ申な、過去の定業なり。然とは云ども、地行をかならず取事は五つあれども、如此に心をもちて地行を望むべからず。又地行をゑとらざる事も五つあれども、是をばなを飢ゑて死するとも此心持をもつべきなり。第一に地行を取事、一には主に弓を引、別儀べつしんをしたる人は、地行をも取末も栄、孫子迄もさかると見えたり。二つにはあやかりをして人にわらはれたる者が、地行を取と見へたり。三つにはかうぎをよくして、御座敷の内にても立まわりのよき者が地行を取と見えたり。四には算勘のよくして、代官みなりの付たる人が地行を取と見へたり。五つにはゆくゑもなき他国人が地行をば取ると見へたり。然共地行をのぞみて夢々此心もつべからず。又は地行をゑとらざる事、第一には一普代の主にべつぎべつしんをせずして弓を引事なく、忠節忠功を成たる者は、かならず地行をばゑとらぬと見へたり、末もさからず。二つには武辺のしたる者は地行をばゑとらぬと見へたり。三つには公儀のなきぶてうほうなる者が地行をばゑとらぬと見へたり。四にはさんかんをもしらざる年の寄たる者が、地行をばゑとらざると見えたり。五つには普代久しき者が地行をばとらざると見へたれども、例へば地行はゑとらでかつゑ死ぬるとも、かならず〳〵夢々此心持を一つもすてずしてもつべし。電光朝露石火のごとくなる夢の世に、何と渡世を送ればとて、名にはかへべきか。人は一代名は末代なり。子共どもよくきけ。相国様迄は一名の者どもをば御念比に被仰つるに、只今は何の御咎によりて大久保一名の者共は、かたみをすくめせうかを立てありき申事、さら〳〵不審晴れ不申。信光様寄此方今当将軍様迄御九代召つかわされ給ひしに、我等共が先祖御代々様へ一度そむき奉り申たる事もなし。其故清康様の御時には案祥斗もたらせられ給ひける処に、我等共が祖父が山中の城をちやうぎをして、取て進上申なり。其より山中衆が御手に入て山中御ふだいと申なり。広忠の御やうせうなるによつて、眼前の大伯父にて御座有松平内前殿押領して、広忠様を岡崎をたて出し奉せ給ひし時、伊勢の方を御らう人被成候へてわたらせ給ふ処に、十人斗も御供をして出るに、大久保一名の者は御供を申ならば、広忠様を御本意させ申奉る事なりがたければ、せんほうになりて御跡に止まりて、是非共に一度は岡崎へ入奉らばやと申て御供をせずしていたり。其外の御普代衆にも其存分にてとゞまる衆もおゝかりける処に、内前殿の仰には、広忠を岡崎へ入申さん者は、大久保新八郎寄外有間じきに、新八郎に入申間敷と起請をかき候へとて、伊賀の郷八幡の御前にて七まい起請をかゝせけり。其故にても、とかく新八郎より外有間じきとて、又伊賀の郷の八幡の御前にて、一度ならず二度ならず七枚きせうを三度迄かゝせける。其時新八郎やどへかへり、おとゝい共物をきけ。上様を岡崎へ入申まじきと又七まいきしやうをかゝせたり。殿様を一度御本意させ申さんためにこそ御跡にはのこりたり。其心なくば御供をこそ申べけれ。【 NDLJP:153】七まいきせうの御ばつとかふむりて、此世にて白癩黒癩のやまひをもかうむれ。又はせがれを八つ串にも刺さばさせ、女房を牛裂にもせばせよ、来世にては無間の住家共ならばなれ、是非共一度は入申さでは置まじきと申て、我等共が伯父我等父などを引かこち、又は林藤助、八国甚六郎、成瀬又太郎、大原佐近右衛門などを引入れ、其まゝ広忠を岡崎へ入奉る事も有、又伯父ご様の蔵人殿御べつしんの時は、我等親の甚四郎と同弟の弥三郎と両人して、蔵人殿御家中をくりわりて口をもきくほどの者を、こと〴〵く岡崎へ引付申せば、蔵人殿御腹をたゝせ給ひて、大久保一るいの者の女子を一人、何共して取て磔にかけ度と被仰候事も有。又有時は御普代衆こと〴〵く一揆を起して御敵に成て、野寺、佐々木、土ろ、はりざきに立こもりて、相国様へ錆矢をいかけ申時も、我等をぢの大久保新八郎屋敷城をもちて、わづか敵の城へ七八町十町斗へだてゝ、日夜たゝかいける。其時はこと〴〵く御敵を申せば、一国一城のやうなれども、大久保一流共が御味方申たる故に御運の開かせ給ふ。其時土ろはりざきを打あけて、大久保共の有ける上和田へよせかくる。其時正月十一日に大久保五郎右衛門も同七郎右衛門も一度に目をいられける。こと〴〵く手をおはざるはなし。其時上様人一ばんにかけつけさせ給ひて既のりいれんと被成ける処に、大久保次右衛門がはしり付奉りて御馬のくちを取、御跡を御らんぜよ、たれもつづき不申とてとゞめ奉り申時、汝共が恩をば七代御わすれ被成間じきと被仰し御事も有。おとゝい共しんるい、いとこ、はとこ供のかせぎ申儀は申つくしがたし。我等をぢも打死をする、いとこ供もおほく打死をして御ほうかう申、又は我等が兄も三人打死をして御ほうかうに申上、又は彼等も十六の年より境目に十二年罷有りて御ほうかう申上、其内四五年もまくらもとにぐそくをおきて、中夜野に伏山に伏、芝のは萱のはをおりしきて、かせぎかまりにくろうをする。然ども不器用にも候哉、つひに武辺のせず、又有時は石川ほうき守逆心のして太閤へ引のきける時は、大久保七郎右衛門は信濃之国こもろに有ける。ほうき守がべつしんなるに、七郎右衛門に急き罷上候へとおり付〳〵御ひきやくの立ども、七郎右衛門覚悟をもつて信濃を治め給へば、只今爰元を引はらい申者ならば、信濃は御手に入間敷と思ひて立かねたる処に、重々御つかひなれば、其儀ならばたれぞのこしおかんとて誰居りて呉よ、かれおりてくれよと頼候へども、伯耆守のき候故は上ても打死をすべし、また爰元に有りても打死をすべし、然る時んば女子共は何と成たるもしらずして、止まり申す事思ひもよらずとて、あらんと云人一人もなし。其儀ならば御ほうかうは何れも同前なり。平助是にて打死をしてくれよかしと被申ければ、彦左衛門申は何れも御ほうかうと承る。同御ほうかうならば罷上て御目の前にての打死は御目に見ゆべし。爰元にての打死は同打死なれども、幕の内の打死、人もしるまじければせんもなし。罷上て御旗先にて打死を可申。其故母と女房を頓てはうき守足の下におきて何と成たるをもしらず。母之儀は、御貴殿と次右衛門権右衛門にも母なればあんずる事なし。女房の行衛もしらずして是に有所に有らずと申ければ、七郎右衛門申は尤の儀なり、何かもいらず、其方をとゞめおかねば爰元の衆も心【 NDLJP:154】とまらずと申儀は尤なり。御ために立つる命と云、又は我等に命をくれて是にあれかしと被申候に付て、其儀ならば尤の儀、是に可有、早々御上あれとてのぼせける。然る間上方はみだれて七郎右衛門こそ取敢へずに上たると云て、こゝもかしこもそゝめきけり。然る処に信玄の御子に御せうどうどのと申て御目くら子の一人、越後の国に景勝のかゝゑておき給ふが、其御父子を甲州へ入奉ると申てさゝやきける。か様の時もゆくへもしらぬ他国へ、十日路行て人のいかねる処に、命をすてゝ御ほうかう申上候。然どもはうきの守させるくは立もせざれば、おのづからしづまりければ何ごともなし。それのみならずしてさなだべつしんの時、御せいばいとして人数を一万余指被越候とき、おしこみてかまひをやぶりて退足につかれてはいぐんしけるに、四五町の内に三百余打れければ、早さうくづれにあらん時、金のあげはの蝶の羽の指物にて、七郎右衛門が加賀河をのり越て返す。七郎右衛門につゞいて彦左衛門が返す。七郎右衛門はかわらにてかけまわれば指物を見て、七郎右衛門所へかけよせける所に、旗をもおしよせける。彦左衛門はかわらにてつきふせて、頭をばとらずして上の段へ押上けるに、彦左衛門は銀の上羽のてふの羽を指たれば、それを見て十一二人参りたれば、七郎右衛門はかわらをもちこたゑる。彦左衛門は上のだんをもちこたへたる故に、総のはいぐんはしづまりたり。然ずんばはいぐんして四五里の間おひ打に打れ可申けれ、のこりたるとても五千も六千も打れ可申を、第一は七郎右衛門が帰したるゆゑ、次には彦左衛門が帰たるゆゑに、五六千の人数をたすけて御ほうかう申上たる事も有。又各々ちかき事なれば存知たり、偽とは申間じき。今度大坂において相国様御旗奉行衆うろ〳〵としたるを御腹立被成、旗はにげたると御意の時、御きに入申とて中々御旗は何方に御座候を不存と申上ければ、其付ていにしへは草履取を、一人としてもたざる者を御取立被成、一も二もなく御出頭を申衆さへ上様の御ひけの事御気に入申とて、御旗をば我等も見不申と申上ける。たとへばくづれ申御旗成とも、御旗は立申たるとて御意にそむくとも、御主様を思ひ奉らば立申と申はらずしてかなわざる処を、御主様の御ひけをもいらず、当座の御意のよきやうにと申事は、御取立の衆にはさん〴〵の事、以来の御用にも立がたし。然る処に彦左衛門に旗は何としたると御意の時、御旗は立申たりと申上ければ、御気色もかわらせ給ひ、畳のむかいのへりを御ふまへ被成て、御杖にてたゝみを突かせ給ひて、旗をば皆共も見ぬと云ほどに立間じきと御意成に、彦左衛門はこなたのへりに手を付ければ、間は二尺余有りけるが、頭をたゝみに付て御旗は立申と申ければ、我も見ぬ程に立間じき、何と御意成とも立申と申上ければ、返してたつ間じきと、おふきなる御声にて御杖にてたゝみをつかせられ、御腰の物をひねりまわさせ給へどもそれにもおどろかず、何と御意なるとも御旗立申と申はりて、ついには申かちける間御旗はくづれざるに成たり。我等が身上の事を各々の様に思ひて、おの〳〵の如くに御はたは立不申と申上候はゞ、さながら御旗はくづれたるになるべし。然る時んば日本に其隠れ有間敷ければ、異国迄も其ひゞき不㆑可㆑然、我等が頭は刎られ申とも御旗に疵は付申間じき。たとへばくづれ申ともくづ【 NDLJP:155】れ不申と申上げて御せいばいに合可申に、いわんやくづれ不申御旗に候間、おそれながら御ことばを帰し申て申はりたるによりて、御旗のくづれざるにしたるは、我等がからかい申たる故なり。是は御ほうかうにはあらざるや。それのみならず七郎右衛門に付て、さかいめに十二年いたるに七郎右衛門者をつれ、七郎右衛門名代に此方彼方の取出の番を、其将になってつとめたる只今迄残りて有者は、御普代衆の内には我一人より外は有間じき。尤其比の取出の番をしたる衆も可有けれども、其衆はことごとく人に付て歩きたる衆は可有。人をつれて歩きたる人は一人も有間じき、我斗にて可有を、我等をば辛労苦労申上たるとは思召なくして、其比人の内の者に成て、其主人に扶持給をうけて、草履取一人のていにて其主人ゑほうかう申たる者をば、若き時しんらうくらうして走りまはりたる由御意にて過分に御地行を被下ける。それは其身の主へのほうかうなり。上様への御ほうかうにあらず。其を御ほうかうと思召候はゞ其主への御ほうかうはなし。我等は境目へ出ると申せども、親の跡と兄の新蔵打死の跡を被下てあれば、七郎右衛門処寄は何にてもとらず。若き間は御手さきを心がけて、我が望にて出たり。其故七郎右衛門をさかいめに召おかれける間、方々以さかいめへ出て御ほうかう申上候なり。人なみに走りまい申事は一々にあらはしてもいらざることなり。面白き事どもなり。御直に御地行被下て、さかいめへ出て御ほうかう申上たる我等共は、辛労とも思不召して、主をもちて其主の供に出たる者をば、さかいめに有てしんらうをしたるとて、過分に御知行を被下ける。子共聞たるか、其いにしへ人につかわれ、草履取一人にて世をめぐりたる衆が、御前へ出人を大勢召つれたり。又今度大坂にておそろしくもなき所にてにげたる者が、過分に重ね地行を取て、人を多く召つれてひらおしにありく。我等共は又武辺したる事もなし、猶々にげたる事もなし、先祖の御忠節もきわもなし、又我等辛労もきわもなし。御主様には当将軍様迄御九代の御普代なれども、か様に被成ておかせられ候へば、右の衆が人多にて通れば、わきへ乗寄せてとおる時は、さりとは、御なさけなき御事かなと思へば、人しれず大とちのせいなる涙がはら〳〵とこぼれけれども、何の因果かなと思ひて、心と心を取なをしてこそ歩き候へ。さて〳〵御ほうかうは身にあまるほど申上申なり。上様御座被成候御方へ、後をして臥したる事もなし。朝夕の看経にも先釈迦仏をおがみ奉りて、其次に相国様をおがみ奉りて、其次に当将軍様御寿命御安穏に御そくさいに、御子様御兄弟様何れも御そくさいに、御じゆみやうあんをんにと拝み奉り、其後七世の父母二親とおがみ奉り申。か様なる儀は当将軍様は御存知なき御事、東照権現様は見とをさせられ給ふべき。か様に大事と存知奉り申儀をば、神仏も見とをさせられたまはん。おもへば世も末世になりて神もましまさぬかと思ひ奉るなり。然ども子供よくきけ。只今は御主様の御かたじけなき御事はもうとうなし。さだめて汝共も御かたじけなく有間じき。其をいかにと申に、他国の人を御心置きなく御膝元近く召つかわされ、又は何の御普代にもあらざる者を御普代と被仰て、御心おきなく召つかわされ、汝共が様に御九代迄召つかわされける御普代をば、新参者と被成て斗立の三斗五升俵【 NDLJP:156】の三年米を、弐百俵三百俵づつ何れもに被下て何とて忝存知可奉。然共其儀を御不足に存知奉らで、よく御ほうかう可申上、御こんがうをなをし申と御意ならば、弐百俵の事はさておきぬ。弐俵不㆑被㆑下候ても、御草履取になりとも御馬取なりとも、御家を出てべつの主取有間じき。只今こそ我等先祖をすてさせ給へ。信光様より此方相国様迄御代々の御なさけわすれずして、只今のかなしき事をば、信光様より御代々相国様迄ゑの御ほうかうと思ひ奉り、何とやうにも御ほうかう申上奉れ。其故御主にそむき奉れば七逆罪の咎をうけて地獄におつるなり。此世はかりのやどりなり。後世を大事と思ひて返々も御無沙汰なく、御馬取に被成候共御鑓かづきに被成候共御意にもれ有間敷、御家を出る事なかれ。御普代久しく度々の御ちうせつはしりめぐりを申、御九代召つかわされたる者の筋を、あしく召つかわされ給はば、御主の御ふそくにてこそあれ、万騎が千騎、千騎が百騎、百騎が十騎、十騎が一騎に成とも御草履をなをしてもよく御ほうかう申奉れ。但御ほうかう申上ても不勝づらをして御ほうかうを申上たらば、御ほうこうにならずして反つて七逆罪の御とがと可成。何事をもかごとをも御意次第火水の中へも入て打笑い申て、御きげんのよきやうに御ほうかう申上奉れ。親兄弟女子けんぞく一るいを取あつめても、必ず〳〵返々くりかへし〳〵御主様御一人にはかへ申な。御主様の御ほうかうならば、右の者共をば火水の中、又は敵かたきの中へも打すてゝ二度其沙汰もすな。其さたをしたる物ならば、悔みたるに似べければかならずさたもせぬ事なり。此おもむき汝共が子共によく申つたへよ。是をそむきて御主様へ御無沙汰申上たる者ならば、我死たりと云とも、汝共が笛の根に喰ひ付てくひころすべし。かくは申せども、只今御主様に御忝御事は一ツも半分もなけれども、信光様より此方御代々相国様迄の御あはれみを、我等の代々深くかうむり申、それへの御ほうこうと申、当将軍様迄御九代之御主様と申、又は我等の代々御ちうせつを申上たるを、今末の代に御無沙汰申上たらば、我々代々の御ちうせつがむと可成間、其儀をむなしくなすまじきため、其故御主様に逆心を申せば、七逆罪のとがをかうむりて無間地獄におつべければ、是等のおそれのおそろしければ、返々も御主様に背き奉り申な、よく〳〵心得可申。然共当世の衆は地獄見たる者なき、何の後生と云人も多し。然共地獄なきと云人は主親をも何共思ふまじければ、主の用にも立まじければ、左様なる人にはあつたら知行くれても詮もなき事なり。地獄が有と見てこそ主にそむけば七逆罪のとがをかうむりて、無間地獄ゑおつるをかなしみてこそ御主をば一しほおそろしけれ。又親に背けば五逆罪のとがをかうむりて、無間地獄ゑおちてよるひる苦をうける。其くるしみのおそろしさに、御主と親をば大事にして御意に背かざるやうにと、人間はたしなめ、地獄も極楽もなきと見たらば、主のばちもおやの罸もあたらぬと見べき間、是をおもへば左様に申人は、御主様の御事をも思ひ申まじきは必定なり。かまへて〳〵子共よくきけ、地獄も極楽も有にはひつぢやうなるぞ。地獄にかならずおそれて御無沙汰申上申な。御召つかい候事もあしく共、過去の生業いんぐわと心得て可有。然共因果は色々に有と見えたり。よき事をしてもよくは報はであしき【 NDLJP:157】も有り、あしき事をしてすゑがさかえてよきも有り。あしき事をして其身の代にあしくあたるもあり。色々とは見えたり。其をいかにと云に、御主様へ敵をして、さび矢を射かけ申たる者の末々の、はんぢやうしてさかゆるもおゝし。又代々御敵を不申上して、矢おもてにかけふさがりて、御代々の御時毎に御忠節を申上たるすゑ〳〵の者に、こと〴〵くかた身をすくめて、御敵を申たる筋の者にかゞむ因果も有。我等共の因果は此因果なり。さて又信長などの因果はたちまちにむくはせ給ふ。其をいかにと申に、みのゝくに岩もろの城にて甲州衆を攻おとさせ給ひ、二の丸へ押入堄をゆひて、こと〴〵くやきころし給ふ。其後甲州へ乱入給ひし時、ゑりん寺の智識達其外の出家達を鐘楼堂へおひ上て、火を付てこと〴〵くやきころし給ふ。比は三月の事成に、其年の六月二日にはあけち日向守べつしんして、二条本能寺にてやきころされ給ふは、因果は早くむくいたるかと見えたり。さて又太閤の関白殿御べつしんとて腹を切せ奉りて、御手かけ衆を三十人斗、何れもれき〳〵の衆の娘達を、三条磧へ引出して頭を切て、一ツあなへ取入て畜生塚と名付て、三条につかを築給ふ事も因果、又三七殿は信長の御子なれば、太閤のためには主にて有物を、ぬまの内海にて御腹を切せ給ふ事も因果なり。昔は長田今は太閤なり。又家康様へ毒をまいらせんと被成けるに、座敷にて御しき代を被成て、御座敷が大和大納言の、上座より下座へ御さがり被成候故に、其御膳が大和大納言にすわりて、太閤の舎弟の大和大納言まゐりて死給ふ。是と申も相国様御じひにて御正直故に、天道の御恵深くして不被参、大和大納言の参りたるも因果なり。其後秀頼の大阪にて相国様に御腹を切せ奉らんと有りけれ共、ほぐれてならざる事なれ共、御じひ故に秀頼をたすけおかせられ給ふ。其後又諸大名を語らひて、伏見にて取かけて御腹を切せ申さんと専支度をしけれ共、思ひもよらずならざる事なれば打過ぬ。其後あひづ陣へ御出馬の御跡にて諸大名をかたらひて、手を出して伏見の城をせめてやきくづし、各を打取て其きおひに関が原へ押出して、合戦して打まけける時、御じひ故たすけおかれ、それのみならず、いなりに大阪の城におかせられ給ひけるに、其御恩をもしらずして今度又諸国の浪人を拾万に及てかゝゑて、御敵をなし給ふ所に、押寄させ給ひて城を取巻給へば、又かうさんのしければ、こりさせ給はで、御じひの深きゆゑに赦りさせ給へば、又次の年手出しをして、堺の町をやきはらへば、又々両将軍様御出馬有りておひくづさせ給ひ、なでぎりに被成ければ、運のすゑかや町も城も一間も残らず、二時の内にやけはらいける。天主に火がかゝりければ、秀頼は御母を打連させ給ひて、山里ぐるわへ出給ひて、又かう参を乞給へば、御じひにて御思案有けるが、いや〳〵又生けておくならば、又もや不覚悟可有に、腹を切せ申せと御意なれば、押かけて腹を切給へと申せば、火をかけて焼死に給ふ。是と申も太閤の因果又は御とがなき相国様へ度々におひてそむかせ給ふ因果なり。是を思へば因果と云事も有物か、さて又相国様の御じひは申不及候へどもあら〳〵如斯。まづ〳〵御敵をなしてさび矢をいかけ奉り、御命をねらいひたる者共を、こと〴〵く御助け被成候御事さいげんなし。又は尾張内府の太閤にせめつけ【 NDLJP:158】られ被成んと有時、家康を頼奉と仰けるにより、御加勢に御出馬有て合戦を打勝給ふ所に、内ふは太閤にかたらはれ、家康へはさたなしにぶぢをつくりて、あまつさへ家康を打奉らんと内々たくみ給へと、何とも打可奉様のあらざれば程も延行ける処に、太閤より内ふはぶぢをつくらせ給ふが、家康は何と可被成、同は御ぶぢをも被成候へと仰被越ければ、内ふにたのまれ申せばこそぶぢにもいたさね、さらばぶぢに申とて御ぶぢになる。然時後内ふは太閤に国をとられ給ひて、越前のかたはらにあられぬ成にて御座候つるが、今度石田治部が手がわりの時、家康へ御敵に成て治部と一身に成けるが、合戦に御勝ち候ても御赦し被成て御じひを被成ける。今度は大阪へ不入る故に、役なしに五万石被下候儀は御じひにはあらずや。石田治部が伏見にて御敵をなさんとしければ、上方衆寄合て腹を切せんと申を、各を賺いてさお山へおくりて越給ふ。御じひにはあらずや。其御おんをわすれて又御敵を申て打ころされ申。佐竹、景勝、島津、安芸の毛利、彼等が御敵を申たるに、御せいばいはなくして反て国郡を被下けるは御じひにはあらずや。秀頼を四度迄ちがいめを御赦されたるは御じひにあらずや。信長の伊賀の国の者をば何方に有をも引出して、こと〴〵くせいばい被成けるに、三河遠江へ参たる者をば隠し置給ひて、一人も御成敗なき、是は御じひにはあらずや。然処に信長の御腹切せ給ひし時家康様者伊賀地にかゝらせ給ひてのかせられ申時、日比の御おん御忝と申て、国中の者共がおくり申奉りて通し申、是も日比の御じひ故なり。是も御因果の御目出度御事なり。又々爰に不審成ことの有けるは、各々犬打童迄申けるは、本多佐渡守が大久保相模守をさゝえ申たる由ならわしたり。左様の儀を人がしらでなもなき事申、佐渡は相模親の七郎右衛門に重恩を受たる者なれば、恩を忘れて何とて左様には可有哉。其は人の云なしなり。相模は子の主殿を初め我等どもこそしらね、定て其身の御科も深くこそ有つらん、とても佐渡はさゝゑ申事ゆめ〳〵有間敷とは、今に於て思ひ居れ共、町人民百姓迄も申故は、いかなれとは思へども、げにも左様にもこそありけるかと、ふしんにはあれども、然共しれず。佐渡は若き時分にはむごき物とは沙汰はしたれ共、年も寄ければ定て其心はなほり可申。佐渡守をば七郎右衛門が朝夕のはごくみて、女子のつゞけ塩噌薪にいたる迄、つゞけてはごくみ、御敵を申て他国へかけおちしたる時も、女子をはごくみ、其故御詫事を申上て国へ帰して、先隼鷹匠にして、其後色々御とりなしを申上、四十石の御知行を申うけて出し、其後もはごくみて、年取にはかならず嘉例にして大晦日の飯と元三めしをば、七郎右衛門処にて佐渡は喰ひけり。関東へ御移り被成ても、其故には江戸にても其かれいをばしたる佐渡なれば、いかでか其おんをわすれんや。其故七郎右衛門果つる時も、佐渡守をよびて遺言にも、相模に不沙汰なき様にと頼入て果候へば、其時も七郎右衛門にむかひて、何とてかぶさた可申、御心安あれとかた〴〵と申つるに、若其心を引ちがへてさゝへても有か。昔は因果は皿の縁をめぐると云けるが、今はめぐりづくなしにすぐに向へ飛ぶと云こと有。今においていかなればとは思へども、人にさへづらせよと申事のあれば、左様にも候哉、よき因果はむく【 NDLJP:159】へどもおぼえなし。あしき因果のあしく報うは見えやすし。さも有か佐渡は三年もすごさずして顔にたうがさを出かして、方顔くづれて奥歯の見えければ其儘死、子にて有上野守は御改易被成て出羽之国ゆりへながされて、其後あきたへ流されて佐竹殿にあづけられて、四方に柵を付堀をほりて番を被付てゐたり。皆々申ならはすもげにはさも有か、相模守御かいえきも、大うす御大事の御仕置とあつて、京都へ召つかはされ其跡にて御改易被成、又上野守を御かいえきも、大うす御大事の御仕置とあつて、て召つかはされて、其跡にて御かいえき被成候へば、同如くに候故、さてはさゝゑ申たるか、困果のむくいかと又世間にて犬打わらんべ迄申なり。史記のことばに蛇は蟠れどもしゆうけのかたにむかひ、鷺は太歳のかたをそむき巣をひらき、つばめはつちのえつちのとにすをくいはじめ、わうよきはみなとにむかひてかたたがへす。鹿は玉女にむかいてふし候なり。か様のけだ物だにぶんにしたがう心は有ぞとよ、面斗は人々にて、霊魂はちくしやうに有物哉。
元和八年六月 日 大久保彦左衛門 花押
子共にゆづる
若此書物を御普代久敷衆の御覧じて、我家之事斗を依怙に書たるとばし思召な。左様にはあらず。此の書置儀者人に見せんためにあらず。我は早七十に及に罷成候へば、今明日之儀も不存候へし故に、今にもむなしく罷成候はゞ、御主様を何程久敷御主様とも存知申間敷ければ、御主様にあふぎ奉御事、当将軍様迄御九代の御主様にて御座被成候儀を、我がせがれにしらせんため、又は我が先祖の御代代の内一度も御敵を不申候へて、度々の御ちうせつを申事をしらせんため、又は我等共のしんらうをしらせん為に書置て、門外不出と申おき候へば、誰人も御覧ぜは有間敷けれども、若落ちりて御覧ぜ候共、えこに我家の事斗書たると仰有間敷候。御普代久敷衆は、何れも我家々の御ちうせつのすぢめ、御普代久敷筋めを如此書立て、子供達へ御ゆづり可被成候。我等は如此、我が家の事を斗書立て子共にゆづり申なり。然る間他所之儀は書不申。以上。