三壺聞書巻之六 目録
 
 
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三壺聞書巻之六
 
 
 
天正十三年秀吉公御蔵入の金銀員数御吟味の所、御蔵入二百万石の小物成金銀多く成りければ、千枚分銅作らせられ、其の外黄金五千枚・銀子ニ一百万枚、諸侯大夫へ割符なし下さる。三月下旬に、根来寺の衆徒共一揆を起し、万民をなやますに付き、大和中納言秀長を大将として、羽柴於次丸に十万余騎を被相添押寄せ給ひ、打続きて蒲生藤三郎・長岡兵部・中川藤兵衛・高山右近・筒井順慶・長谷川藤五郎・堀久太郎等に一万余騎にて相加る。日本一の悪僧共集り、武勇を専とし一命を捨てゝ戦へども、多勢にて攻めければ散々に成て落行く。開山覚鑁上人とて、空海上人の流れを汲みて顕密の法水を執行する跡なれども、不作法なる故により、堂社仏閣焼立てられ、千人計の出家共滅却せられ、三月二十一日に焼野となる。其の序に熊野辺まで治められ、何れも帰陣せられけり。卯月二十四日には四国退治可有とて、木下美濃守秀長・三好孫三郎秀次を大将として、六万余騎押寄せらる。阿波国の長曽我部新右衛門居城、弟親安が居城、桑名左衛門が木津の城、讃岐国八嶋城、伊予・土佐の侍共、降参するもあり、相戦うて切腹するもあり。四国平均に成りければ御感不斜、追付き参内を被成けり。公家も久々の乱逆に屈伏して難義の所に、五畿内近国静謐の上に、職掌の叙位除目の事目出度き時節到来せりとて、賑やかに悦び奉る。其の折節関白職に争ありて闕職たる故、万事つかへになる事多し。秀吉公御望ありければ、古今無双の大将也とて即ち勅許被成けり。秀吉公初めは藤原氏と号せられ、信長公在世の内は平家と名乗り、今新に豊臣といふ姓にぞ改められける。

  信雄は        尾張大納言

  家康公は       駿河大納言

  秀長は        大和権大納言

  秀次は        近江権中納言

  秀家は        備前参議

  利家公は       加賀中納言

オープンアクセス NDLJP:39  秀康は        三河少将

  秀勝は        丹波少将

  利長公は       越中侍従

  輝政は        岐阜侍従

  長益は        源吾侍従

  氏郷は        蒲生飛騨守

此の外以上三十人、一度に官位受領せらるゝ事、昔より武家任官の始也。太閤五奉行には浅野弾正・前田徳善院玄以斎・長束大蔵少輔・増田右衛門尉・石田治部少輔、是等の人々諸事政道を執行ふ。

 
 
同年被仰出けるは、近年聚楽の普請取込み、漸く御所も出来す。洛中洛外賑になる間、東山に大仏殿を再建可有とて、五奉行に被仰付、大奉行は徳善院其の外片桐市正也。奈良の大仏師宗貞法印並に宗印法眼に棟梁の大工等被仰渡、費をいとはず金銀米銭の入用第一として、材木は土佐・九国・木曽路・熊野より人足を以て伐出し、淀・鳥羽へ着船す。伊勢・美濃・尾張は木曽山へ懸り、桑名へ着船し、南海を経て大阪へ運送す。畿内・中国は地形により寺西筑後守・品川主馬・間嶋彦太郎・古田織部・加須屋内膳奉行し、御堂の高さ二十丈、本尊の御長け十六丈、先例に任せ木像にして、漆くひにてかため、金色のさいしきを調へ、仏光寺を堂守にして鐘を鋳立て、供養相済み、洛中洛外皆悉く富貴になるこそ目出度けれ。
 
 
天正十三年十月朔日北野の松原にて茶湯興行可被成とて、京田舎の数寄者共へ被仰渡ければ、是は目出度く難有御事哉。名物の御道具を拝見し奉ると申し、御茶湯に逢ひける事未来永劫の覚也とて、手に嗜み置きたる道具を持参し、思ひに小屋を懸け囲を付け、宮社のすみをかたどり囲ひまはし、物数寄に道具をかざる。是れ今のすきやの初也。秀吉公夫々へ被為成、御茶を上がり興を催し給ふ。徳善院・千宗易利休に諸事指図を被仰付、名物の品々御道具諸人目を驚かし、渇仰の粧ひなり。千宗易利休居士、泉州堺の宗及、那屋宗久、其の外数寄者共、家々の道具経堂のすみを囲ひ、台子を仕かけ善美を尽す。右の者共に三千石の御米を被下。其の外の人々に近衛信輔公・秀長・有楽・日野輝資・家康・信雄・阿濃津信包・秀次・利家・秀勝・頼隆・秀家・忠興、是等の人々へ御茶被下、御児小姓十人計御供にて、数寄屋へ被為入、茶を上がり、御道具夫々に被下、目出度かりける次第也。此の時分五畿内近国なる城主には、伊賀・尾張・伊勢五郡は信雄の領分にて清洲に在城也。御内の大名津川玄蕃・岡田長門・中川勘右衛門・浅井多宮丸は、伊勢の松嶋、尾張の星崎・犬山・苅安賀の城に所々に要害厳敷相守り置き給ふ。伊勢半国は織田上野介信包領して阿濃津に在城、但馬・播磨は羽柴美濃守、丹波には秀勝、若州・越前・加賀半国丹羽長秀、能州・加州半国は羽柴筑前守利家公、越中は前田肥前守利長公、美濃の大垣は池田紀伊守、江州日野は蒲生氏郷、勢田の城は浅野弾正、丹後は長岡忠興、備前・美作は宇喜多秀家、其の外の大名は記すに不及。宇喜多は三代目秀家の世に成りて、石田治部少輔に組して八丈嶋へ流刑被仰付。是れ利家公の婿也。父直家は天正八年に病死、秀家の流罪は慶長六年也。秀家の内室を加州へ呼取り、備前上殿と申しけり。娘一人ある故に、前田修理子息倉松丸を婿養子に仰付けらる。前田内蔵亮と申しけり。
 
 
去程に佐々内蔵助成政は、越中新川一郡を拝領してありけるが、太閤も流石不便に思召すにや、肥後の国を被宛行、一揆等を鎮め能く治め可申旨御法度の状など、御朱印頂戴し、神保安芸守を相具し肥後へ下りけり。新川郡は利家公御加増也。佐々成政は肥後に下り、在々所々より知行高物成の指出を取り仕置申付けるに、菊池郡桑部は領分より指出を出さず。佐々腹を立て、佐々与左衛門・久世又助・前野又五郎・三田村勝左衛門に三千余騎を遣し戦ふ所に、熊本の城主も桑部と一手に成り戦ふといへ共、城中に謀叛人出来して敗軍し、肥後一国平均に成る。然る所に佐々成政上方へ登る折節、天正十六年四月摂津国尼ケ崎にて、謀事を以て切腹仰付けらる。是れ秀吉公兼ねて御いきどほりを御堪忍ありて、西国へ被遣事、斯可被成との御事とぞ聞えける。扨肥後国を加藤主計頭清正に賜り、加藤肥後守清正とぞ申しけり。
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信雄卿は老臣津川玄蕃・浅井多宮丸・岡田長門を城中へ呼寄せ討殺さる。其の意趣は、此の三人の者共は太閤へ別して取入り、秀吉公も御懇意なる故、信雄卿疑ひ生じて心許なく思はるゝ故也。去る天正十二年三月三日の事なるに、秀吉公もとやかくやと打過させ給ひしが、信雄卿の心底を又心元なく思召し合戦と成りにけり。信雄卿も内々一度は秀吉公の御咎も可有と思ひ、家康公へ内談ありければ、一味可有との事也。池田勝入・森武蔵守へ頼みに被遣けれども、兎やせん角やせん、身をがな二つと思ひて、家老共と談合せしに、家来共は太閤へ御一味可然といふ。竹ケ鼻の城主不破孫六も、太閤押寄せ給ひ、水攻にして敗軍す。森田の加賀井弥八郎も攻落されて敗軍し、後には加州へ来りけり。右の岡田長門事、岡田長右衛門子也。長門弟は岡田少五郎といふ。是を後に岡田伊勢守といふ。其の子を岡田将監といふ。其の子を豊前守と申しけり。美濃の御代官にて、今に美濃に在城す。加州に岡田次太夫といふは、伊勢守が甥也。岡田又右衛門も甥也。山村甚五郎は伊勢守母方の甥也。其の外岡田の類、此の岡田長門一類と聞えけり。
 
 
天正十四年秀吉公被仰出は、文明より元亀の頃に於いて天下逆乱し、公家衰へ武家我儘に領内へ引籠り、天下に主君のなき世と成る。爰に嶋津義久といふ者、筑紫九ケ国を取堅め、自分国に居ながら任官受領心の儘にす。天正の今に至りて上洛といふ事昔より終に致さず。就夫九月十二日に、仙石権兵衛を上使として早々上洛可有旨被仰遣所に、嶋津承り、近年上方に木下藤吉郎といふ猿くわんじや我儘に威勢を振ひ、其の上我等などに上洛せよなどゝ下知致す事、誠に片腹痛き事なり。我が先祖嶋津忠久頼朝公の御近習に有之しより、今に主といふ事なし。書札を見るまでもなし、此の由申せといひ放つ。仙石権兵衛是を聞て立腹し此の事使者を以て太閤へ言上し、秀吉公の御出馬を待つまでもなしと、豊後の人数に我が手勢を合して六千余騎、嶋津領分伊集院が城へ攻懸る。嶋津方より同中務を大将として二万余騎駈合はせ、両陣互に入乱れ戦ふ。仙石方の大将長曽我部信親命を捨て戦ひけるが、多勢に取込められて討死し、父信親も不叶して引退く。夫より仙石方引色に成りければ、権兵衛力不及引退く。黒田官兵衛・小早川左衛門は八千余騎にて豊後国へ押寄せ、仙石に力を合はせ相戦ひける。権兵衛爰を防ぎ戦ひ、嶋津勢と火花を散して追廻るに、嶋津方不叶して引退く。夫より仙石は勢を得て、宇呂津・障子ケ岳・河原峠三ケ所の城を乗取り、人数を入置き、秀吉公の御出馬をぞ侍ち居ける。
 
 
仙石権兵衛の使者上方へ到来して、秀吉公の上聞に達しければ、殊の外御立腹あり。さらば打立てよと諸国へ触廻し、来三月朔日に筑紫陣と日限を定め、五畿内五ケ国・北陸道七ケ国・南海道六ケ国・中国十六ケ国、合せて三十七ケ国、其の勢二十万余騎、兵粮等数千艘の船にて下の関まで奉行を付けてよせらるゝ。天正十五年二月朔日に先陣は打立ち、三月朔日には太閤御発向あり。十七日には安芸国に着き給ふ。攻口の大将は、蜂須賀阿波守五千余騎、尾藤甚右衛門三千余騎、長曽我部土佐守五千余騎、宇佐郡へ打向ふ。中国の内八ケ国の主毛利輝元四万余騎、羽柴備前宰相一万余騎、目代として黒田官兵衛・亀井武蔵守を被相添、豊前国駒ケ岳の城長野三郎左衛門要害の大手へは羽柴飛騨守氏郷、搦手へは羽柴肥前守利長公、検使は谷大膳・小野木縫殿助、大将軍は丹波少将秀勝也。敵味方入乱れ戦ふに、城中随分働きけれ共、一揆起りて火の手を上げし故城兵敗軍す。秀吉公御感ありて、物初めよしと被仰、御感状を夫々へ被下。利長公への御感状を増田右衛門持参す。河原兵庫・大平左馬・坪内治左衛門、彼等には金銀を被下けり。
 
 
筑前・豊前・豊後三ケ国の境なる彦山といふ所に、一和尚といふ悪僧ありて天下の法に不随、世界の悪人共是に隠れ、国中乱逆の時は何方へも加はり、彦山に利徳の付く様にと心がく。秀吉公此の序に治めんと思召し押寄せ給へば、和尚御詫言申上げ、御好の通誓紙仕り、御法度可相守間、彦山に其の儘被置被下候様申しける故、富田左近・奥山佐渡両人に彦山の仕置仰付けらる。肥後の内新納武蔵守が籠りし高迫城、小代伊勢守が居城洞ケ岳、城野十郎が熊本の城片端より攻給へば何れも降参す。大隅・日向の城共は大オープンアクセス NDLJP:41和中納言秀長大将にて、数万騎押寄せ乗取りけり。嶋津義久は伯耆の南条小鴨が陣へ夜打に入る。宮部善祥坊・木下平太夫・亀井武蔵守・垣屋隠岐・福原右馬助一万五千にて相戦へば、嶋津敗軍に及び、藤堂・羽田・岸田此の者共の手へ首数多討取りけり。此に次で高城の要害も宇土の城も降参し、城を明けて渡しければ、加藤虎之助入替りて相守る。熊城の要害も明けて退きし故、岡本太郎左衛門入替る。夫より原田将監・新納武蔵守・長野・小代・関ノ城・八城、壱岐・対馬・平戸・五嶋・筑前・筑後・肥前の龍造寺・麻生・高橋・立花・杉原・城の井・草野・佐田・安心院、此の者共落行くもあり、戦うて討死するもあり、降参するもあり、悉く落着したりければ、秀吉公此の勢ひに乗りて、急に嶋津の本城へ数万騎にて押寄せ給ふ。前田利長公と丹波少将蒲生氏郷は、豊前国岩石の城主長三郎左衛門を攻め給ふ所に、城中も防ぎ戦ふ。利長公の家臣河原兵庫・大平左馬・坪内治左衛門、氏郷の家臣蒲生源左衛門・同五郎兵衛・那古屋山三郎等先登して、城兵敗軍す。太閤より六人の者共へ金銀を被下、末代までの面目也。
 
 
嶋津居城鹿児嶋には、家老共詮議しけるは、加様に九ケ国の城共敗北降参する上は、鬼神を籠めたり共秀吉には叶ひ難し。しかじ和睦ありて御子孫の栄を期し給はんにはと一同に申しければ、此の義に同じ、伊集院を以て大和中納言秀長殿まで申達しければ、太閤聞召し御赦免の上意あり。嶋津忝く存じ黒染に様をかへ、近習六・七人一様に刺髪染衣の姿と成り、大平寺に於て五月七日御礼申上ぐる。秀吉公御対面ありて、頼朝より以来主君持たれぬ人を攻亡さんもむざん也。哀憐をたれてゆるし置き、本領相違なく安堵せらるべしと、御朱印を賜りければ、一門・家老七人より人質に誓紙を添へて指上ぐる。義久弟嶋津兵庫頭忠平・同右衛門大夫俊久・同中務大輔家久、家老伊集院左衛門大夫・平田美濃守・本田下野守・野村兵部、都合七人也。此の勢ひにや恐れけん、琉球より使者を立て、名物の高麗鷹五連並に種々の捧物を進上し御礼申上ぐる。以来まで御目懸けらるべしとの上意にて、引出物を賜り帰帆せり。扨大隅八郡を嶋津兵庫、内一郡は伊集院左衛門大夫、日向五郡の内二郡兵庫子息又市郎、二郡は新納武蔵守に被下、跡一郡は御蔵入に被成けり。爰に阿蘇の宮の山中は荒所なる故により、夫を頼みに諸国の徒ら集り、盗賊を以てわざとして何方へも随はず。此のついでに打絶さんと人数を被遣所に、御侘言申上げ誓紙を奉りければ、御免ありて本領其の儘被下けり。
 
 
六月朔日熊本に御陣を居ゑられ、佐々成政に肥後国を賜り、六日に太宰府安楽寺へ御参詣あり。義久茶屋をしつらひ、御膳等を上げらるゝ。七日に博多の津箱崎の八幡宮へ御参詣、宝殿御建立被仰渡、拝殿に端居まして。

  千年をもたゝみ入れたる箱崎の松に花咲折に逢はばや

昔は博多・箱崎は在家十万軒の所にて、富人の集る所也。然るに肥前の龍造寺と豊後の大友宗麟と戦ひ、十年余りの乱逆に荒果てしを、秀吉公所の年寄共を被召寄、金銀を被下、町割等被仰付、町を作らせ給へば、昔に帰り有難しと悦ぶ事限りなし。十八日には小早川に豊後・大隅の仕置被仰付、毛利輝元に御加増として筑後国を被下、立花の古城へ移る。七月朔日箱崎より宗像に着陣あり。三日に小倉の城に着き給へば、豊前八郡の内六郡黒田勘解由に被下、二郡は毛利壱岐守に被下、壱岐守は小倉の城、黒田は駒ケ岳の城へ移る。送り迎ひの人々は所せきまで相こぞる。輝元に御甲一頭下されければ、輝元より千鳥の太刀を進上す。太閤大悦不斜、忠光の御脇指を輝元へ被下、大友は瓢簞の茶壺を上げるに、貞宗の御脇指を下され、十四日に大坂へ御帰陣ありければ、公家・武家の御祝儀筆紙の及ぶ所に非ず。御威光の程こそあまねかりけれ。

 
 
天正十五年九月十八日に、大阪より聚楽の御所へ御移徙をぞ被成ける。此の御所と申すは、去る十三年の春より内野に城郭を営み、四方三千歩に石垣を築き、金殿楼閣珠玉をちりばめ日月にかがやき、棟のかはらは四王天より天人も来現と思はれ、言語に絶する所也。其の頃春宮十六歳に成らせ給ふを御即位なし奉り、後陽成院と号し奉る。神武天皇より天正の今まで、帝王百九代の星霜、凡二千三百三十余歳。今爰に豊臣朝臣関白太政大臣秀吉公、尪弱の昔よりオープンアクセス NDLJP:42武威たくましく勢力を励まし、南蛮西戎北狄を打鎮め、主君の怨敵を亡し、君の鬱憤をはらし、王道を延喜・天暦の古へに帰し、守護を加へて尊敬なし奉り、君臣目出度き折柄なれば行幸をなし奉るべきとて、其のいとなみ夥し。天正十六年卯月十四日の行幸と相極り、親王・摂家・清華・月卿・雲客に至るまで一人も不残、国母・中宮・女御・更衣等の御輿数五十余挺と聞えけり。御供の女中・女童子歩行の躰、百花枝をあらそひ咲みだれ、濃香芬々として遠境に薫じ、日本国の大名・小名公家の装束にて、烏帽子・布衣・白張、役者を定め行列をたゞし、聚楽の御所まで五十町の其の間辻がため六千人、大鳥毛の鑓六尺毎に建て、見物の上下五畿内近国より兼ねて参りつどひ、前代未聞の事なれば、是れ又綾羅錦繍を粧ひ、喜見城の辺に安楽浄利界の衆列座せりと思はる。御車をいかにも静にねらせられ、道すがらの御慰に歌舞伎・音曲品々にて、御所へ入らせ給ひては様々の御遊ども、舞楽・連歌・誹諧・歌合・詠歌・連句の会・管絃・御能・歌舞伎、風流残りなく、捧物・拝領物宝の山を積重ね、御知行・御扶持方夫々の禄物賜り、五日の御逗留にて、十八日に還御あり。乍恐禁中・院の御所へ短冊を進上あり。その状にいふ。

ときをえし玉の光りのあらはれてみゆきぞけふの諸人のそで

空までも君がみゆきをかけて思へ雨ふりすさむ庭の面かな

行幸猶思ひしことのあまりあればかへるさをしき雲のうへ人

今度奉成行幸儀忝次第強及言上事還似乎憚多矣。其上無恙奉遂於還幸之供奉事、甚以致恐悦、呈微志畢。猶不遑伸之。仍於蜂腰三首、雖有一紙之儀其恐、仙洞亦合乎御気色候様、宜預御披露者也、恐々謹言。

  四月二十日              秀吉

   菊亭殿

   勧修寺殿

   中山殿

即被備於叡聞之処、有御感御返事。

玉を猶みがくにつけて世にひろくあふぐ光をうつす言の葉

かきくらし降りぬる雨も心あれや晴れてつらぬる雲のうへ人

あかざりし心をとむるやどりゆゑ猶かへるさのおしまるゝかな

  院の御製

うづもれし道もたゞしき折に逢ひて玉の光の世にくもりなき

秀吉公御頂戴ありて不浅忝く思召し、諸大名御名染の人々に御振廻御酒・御茶等の御祝儀、日々夜々の御振廻、筆紙に難尽、目出度かりける御事也。

 
 
此の砌目出度時節に付き、前田利家公へ蒲生飛騨守・浅野弾正其の外御懇意の衆御振舞あり。其の刻徳山五兵衛・斎藤刑部を以て、目賀田又右衛門先年鳥越より退去仕り流浪致し罷在候、御赦免被成被召返候はゞ、忝可奉存由被仰上所に、利家公仰には、異なる不作法たわけを仕る事は免許仕るべし。右の又右衛門も近江源氏の末葉にて有之間、名字に恥ぢてもでかし可申と思ひ、鳥越の城を預置候所に、筋目に不依臆病者、侍一道の所を欠し、成敗可仕者なれ共、命の義は各へ進じ申由被仰ければ、御尤の由にて其の通りに成りにけり。此の時御子孫四郎殿は八歳にて、疱瘡御煩ひ、大名衆御見舞夥し。御命あやうかりけれ共、快気を得させられ、御悦限りなし。かくて同年の暮に利家公太閤へ言上ありて、能州一国を利長公へ御渡し被成、諸事可然様に仕置等被成よとの御事也。利長公忝奉存旨御請被仰上、村井豊後・奥村伊予両人の内一人被遣下候はゞ、猶以難有可奉存旨被仰上候所に、利家公仰には、国侍に長九郎左衛門、家老に村井左馬之助、城代に前田孫左衛門、其の外高山南坊・不破彦三・半田半兵衛・同せがれ治太夫・山崎彦右衛門・北村三右衛門・奥野与兵衛、加様の者共は他国迄も人の知りたる者共也。伊予・豊後両人の義は、我等存命の内は手前に置き申すべし、左様に被相心得候へとの御意にて、其の通に成りにけり。其の時若輩の者共に、利長公御取立出頭人衆数多あり、記すに不及。
 
 
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秀吉公利家公を召して被仰けるは、伊達政宗は蒲生氏郷と先年より遺恨ありて、底心隔心あるべし。互に心底に宿意無之様才覚可有との御意にて、則ち利家公の屋形桜の間にて御饗応可有とて、浅野弾止・前田徳善院・長岡越中守・金森法印・有馬法印・佐竹備後守・正宗・飛騨も被召寄、御振舞前に御咄ありて、盃の取結び首尾能相済、太閤へ言上ありければ、御喜悦限りなかりけり。其の振舞の折節、正宗の装束上下に朱鞘の二尺計の大脇指をさゝれけり。利家公急度にらみ給ひ、正宗殿はだて男哉と仰せらるれば、いやあづま男に候と一笑して被申しとかや。御勝手には戸田武蔵・上田主水・猪子内匠・土方勘解由、勿論利長公・孫四郎殿も御詰あり。此の蒲生氏郷と申すは、俵藤太秀郷の子孫にて、近江国日野に久敷在城なるを、近年会津へ被遣けるが、頓て病死あり。鶴千代十三歳也。末期と見えし時利家公へ、別けてせがれが義奉頼旨遺言により、跡目無異議可被遣旨を被仰上所に、石田治部少輔・長束大蔵申しけるは、会津は一揆国にて幼少の者などは無心元由申上ぐる故、太閤も其の義ならば故郷近江日野にて四万石可被下旨仰出さる。利家公此の由御聞ありて、是は石田・長束が支へ成るべし、御断り仰上げられんと思召しけれ共、其の節少し御気色悪敷故、政所様へ利家公の北の方を御使として登城あり。最前より申上候通り、会津にて本領被遣、内府の聟に被成下候はば忝可奉存候。我等申上候義御用ひなきに付きては、以来秀頼公の御為申上候とても誰も違背仕可申旨被仰上に付き、夫ならば会津にて可被遣とて、本領鶴千代に被下、忝く存じ入部被致、利家公より徳山五兵衛・脇田主水を附け遣さる。翌年上洛ありて御礼被申上、別けて利家公への一礼懇也。家老其の外も利家公迄御礼申上ぐ。其の後伏見にて被仰出けるは、親飛騨守は忠三郎と申しけれ共、其の方には藤吉郎の藤の字を被下由にて、蒲生藤三郎と被成けり。

 
 
相模国小田原の城主北条左京大夫氏政と申すは、平家の末葉也しが、其の昔伊勢新九郎と名乗り、備中国にて三百貫の所を知行し、はか敷事もなきに付き、うとく成る者に知行を売り、路銭にして諸国を武者修業致し京へ出で、康正三年の頃伊勢へ参宮し、駿河へ出で今川を頼み、わづかなる身代にてありけるが、甲斐敷侍故、三百騎の与力を預り、長禄二年伊豆の韮山の城を攻落し、城へ入替り、伊豆の国民共をなつけあはれみ介抱しければ、次第に諸人思ひ付き、伊豆一国手に入り、伊勢新九郎氏茂とぞ申しける。時に永正年中也。氏茂嫡子氏綱の時天文と替り、其の子氏康の時元亀の年号也。天正に至り、今氏政・氏直迄五代也。然るに三代目氏康の時、鎌倉の公方は足利晴氏也。両上杉の中不和に成り合戦止む事なく、関八州大にさわぐ折節、伊豆・相模より打つて出で、上杉を追出し、八ケ国の大名を幕下になし、八ケ国の大将と成りける。北条とは、早雲始め伊豆国へ打入る時、古の北条の館に住居す。依之国民共おして北条殿と申しける故、自然と北条と名乗るといへり。早雲は氏茂の法名也。天正十七年の事なるに、秀吉公より津田隼人・富田左近を上使として、早々上洛致され可然由被仰遣所に、北条聞きて、昔平家の人数由比・蒲原迄来り、鳥の羽音に驚きて京まで逃上りしが、藤吉郎も大気なる者なれ共、関東へ手を延ぶる事いかで叶ふべき。何時にても気に向ふたる時上洛すべしと返事致しければ、秀吉公いかで堪忍なさるべき、来春早々打立たんと十月十日に陣触ありて、三月朔日発向とぞ極りける。
 
 
長束大蔵は兵粮奉行として代官より二十万石請取り、江尻・清水に着船し、黄金一万枚相渡し、伊勢・尾張・参河・駿河等の米を買取り、小田原の手寄浦々へ取寄する。五畿内・南海道・山陰・山陽・北陸・近江・美濃・伊賀・伊勢の軍勢二十万騎、信雄卿の人数一万五千、甲州・信州・遠江・駿河・参河家康公二万五千、毛利輝元四万騎は聚楽御所の御番也。吉川蔵人広家は、一万五千にて岡崎の御城番也。小早川と安国寺は御供に被召連。三月十九日御発向、二十八日伊豆の三嶋に着き給ふ。
 
 
伊豆国山中の城は大事の押へ也とて、城主松田兵部大輔に間宮豊前守・朝倉能登守・北条左衛門三人を指添へ、数万騎にて楯籠り、上方勢を待つ所に、寄手四方より攻入り、数日戦ひ敵味方討死多く、多勢を入替へ攻めけるに、城中敗軍し、大将共切腹す。秀吉公物始めよしと御喜悦不斜。此オープンアクセス NDLJP:44の時寄手中村式部内に渡部勘兵衛と云ふ者、比類なき働きにて、天下に名を高うす。北条の城には伊豆・相模・上野・下野・安房・上総・下総の大将共籠城す。宮城口へは松田尾張・上田下野・原式部、安房・上総の人数一万二千、湯本口をば千葉新助八千余騎、竹浦口は北条陸奥守・成田下総・壬峯上総・皆川山城、一万五千にて固めたり。上方勢も手分けして押寄せたり。此の時分信雄卿は北条一味と沙汰ありて、ひそと申しあへり。秀吉公聞召し、信雄の陣所へ七・八人の御供にて入らせられ、緩々御咄ありて御帰りあければ、其の沙汰もやみにけり。
 
 
前田利家公は北国七ケ国の大将として、中仙道より笛吹峠へ打出で給ふ。金沢御城代には御舎兄前田五郎兵衛殿に村井豊後を被指添、越中富山も五郎兵衛殿預りにて名代前田美作、魚津の城村井豊後居城なれば、手勢の内老功の者共被指置、守山の城には前田対馬、能州は前田五郎兵衛殿居城にて長九郎左衛門預り守る。村井左馬未だ又五郎と云ひし時なるが、騎馬三十騎、のぼり十本持たせ、関東への御供を務めけり。加賀勢都合三万余騎、越後景勝、信濃毛利河内・真田源吾都合三万五千余騎、笛吹峠にて加賀勢に相加る。安中・忍・熊谷・岩付・沼田数ケ所の城々を押寄せ攻給へば、何れも降参し、誓紙人質を取固め先手に相加る。此の由秀吉公へ注進の所に、一二ケ所も押寄せ詰腹切らせ、手並を見せて可然旨御意に付き、八王寺の城北条陸奥守は小田原籠城なりけれ共、城代横地監物、二の丸中山勘解由・狩野一庵斎、惣曲輪近藤出羽、加様の者共関東に隠なき大功の者共ありけるを、加賀勢押寄せ鬨をぞ上げにける。城中の者共は生残る事を末代の恥と思ひ、大に働き戦ひける。北国勢は、此の城関八州の内にて小田原本城にかけ向ふ所也。油断不可有と大手・搦手に戦ふ所に、近藤出羽は城中より突いて出づるを、大音藤蔵一番に鑓を合す。出羽は突伏せられて討死しければ、寄手力を得て攻入るほどに、城中の者ども大に乱れ、互に討たるゝ者数不知。中山勘解由・狩野一庵斎は遁けて落行き、後家康公へ被召出、水戸殿の家老と成り、一万石宛賜りける。北国勢石動の前田又次郎殿・高畠平右衛門・篠原勘六・不破彦三・富田六郎左衛門・村井又五郎・大音藤蔵、其の外此の時骨折りたる者数多也。脇田小五郎・湯原八之丞・九里庄左衛門・市橋清十郎・北村甚八・半田半兵衛・野村伝兵衛・荒本善太夫・日根九兵衛、小姓馬廻り二十八人討死也。鉢形の城主北条安房守は氏直の伯父也。利家公へ御預り也。後子息少次郎を千石に被召出、北条采女と云ひ、前田慶次殿の聟に仰付けらる。筑井の城主内藤山城も加州へ来り、四百石被下、内藤助右衛門と云ふ。其の外何れも追々加州へ来る者多し。略す。
 
 
小田原本城には諸大将共詮義して、方々の城共家康公の謀にて落去せしめ、北国の加賀勢にて上野・下野・常陸・下総悉く落去せしめ、頼み少き次第也とて、松田尾張も大道寺陸奥も二の足踏で、城中早や上を下へと返しけり。城中の門々を開き、人質共を伴ひ、妻子ちりに落ちければ、方々にてとらるゝ男女幾百人、氏政並に舎弟氏輝七月八日に切腹也。太閤の御意にて、氏直は一命を被助、さまを替へて高野へのほせ、御扶持方被下。其の後大阪へ被召寄て、秀次公へ二千石にて御附けありしが、三十三歳にて病死也。氏政・氏輝の首を石田治部奉りて京都へ上せ、戻り橋に獄門に懸け、本城は本多忠勝・井伊直政・榊原康政に御預け、番所を守る。此の御陣に石動の前田又次郎殿家来共、八王寺にて過分に金銀を取り、他国へ走る者多し。又次郎殿帰陣ありて其の妻子五十人計、生きながら鉄の串を拵へてつらぬき、石動の町端に懸けらるゝ。一大事の所を斯くなす大罪なれば尤也と諸人申しけれ共、又次郎殿下焦げくさりて終り給ふを、其の報ひとぞ申しける。其の時の奉行は笹嶋豊前也、是も下を煩ひて果てにけり。
 
 

大胡 小幡 伊勢崎 新田 倉ケ野 那和 前橋 安井 小泉 箕輪 木部 白井 免鳥 飯野 館林 佐野 足利 壬生 皆川 藤岡 鹿沼 小山 坂本 深谷 忍 川越 松山 木柄 菖蒲 岩附 羽丹生 江戸 津久為 八王寺 甘縄 新井 三崎 鴻野台 手守 関宿 小金 布川 米本 助崎 孫子 印西 佐倉 臼井 雅津 窪田 万崎 長南池和田 東金 大須賀 八幡山 東野 山室 岩崎 守山 古川 土気 成戸 小窪 土浦 相馬 木泊 江戸オープンアクセス NDLJP:45崎 栗嶋 筧水 以上 七十ケ所の城々也

城々の侍大将太田十郎・北条七郎・同新太郎・同陸奥守・同左衛門佐・同右衛門佐・同新三郎・同彦太郎・伊勢備中守・大和兵部・小笠原播磨・松田尾張・同左馬・同肥後・山角上野・同四郎左衛門・同左近大夫・多目権兵衛・山中主膳・福嶋伊賀・左巻勘解由・同下総守・南条山城・同右京・同左馬助・小西隼人・富永内膳・大藤左衛門・俵田大膳・荒川豊前・大森甲斐守・清水太郎左衛門・遠山右衛門・大道寺孫九郎・上田常陸・酒井左衛門・羽賀伊予・朝倉右京・伊藤右馬・大藤式部・原豊前・荒木兵衛・羽賀伯耆・安中左近・由良信濃・長尾新六郎・小幡孫三郎・上田兵衛太夫・成田下総・内藤大和・足利新六・小泉兵太夫・佐倉筑後・布川弥太郎・長南五郎・倉ケ野淡路・皆川山城・深谷才兵衛・大須賀権太夫・高井主水・館林喜平次、此の人々時政の時分よりの人もあり、早雲の時入替はる人もあり。皆散々に成りて、諸国に小身に成りて暮しけり。

 
 
然る所に奥州九戸に諸国の悪人共集り、所々へ打出で押領す。近所の城々より随分制しけれ共不治旨注進ありければ、秀吉公会津まで御出馬あり。堀尾帯刀・蒲生氏郷を九戸へ被遣所に、彼の一揆共を不残打取り鎮りければ、両人に御感状被下。末代の面目也と諸人申しあへり。此の序に国々検地ありて、知行高被聞召、割符被仰付んとて、前田利家公御父子に慶次殿御供にて検地御奉行に立たれ、碇の関まで利家公御越ありて、境目の山の峯へ上らせ給ひ、只一目に御見渡し、爰は五万石、かしこは四万石、あの山際より此の山際まで十万石と夫々に御見計ひ高を御極め被成ければ、扨も大気なる大将かなと諸人感じ奉る。出羽・奥州・関八州皆悉く利家公の御極め也。此の時奥州絹川と云ふ所に大水出来る。先づ人数は水前に越し、利家公を待ち奉るに、京三寸と云ふ御馬に召し、川へ打入れ、向ふの岸へ打上らんと、利家公はほとんど危く思召しもだえ給ひしが、難なく馬は岸へぞ打上る。利長公仰せらるゝは、近頃危き渡り哉と御申あれば、利家公御意には、川向に敵寄来ると思へば、川も浅く渡る物也と被仰ければ、御尤の由諸人感じ奉る。斯くて八月初に聚楽の御所へ御帰陣ありて、国々の大名皆々居城へ帰り暫く休息にて、追付き聚楽へ被召寄御目見被仰付けり。

    諸国御割符の事

伊豆・相模・武蔵・上野・下野・上総・下総七ケ国
                    松平家康公

尾張北伊勢五郡             羽柴秀次公

奥州之内十七郡             蒲生氏郷

奥州之内八郡              木村伊勢守

参州十五万石              羽柴輝政

同国五万石               田中兵部大輔

遠州十二万石              堀尾帯刀

同国三万石               山内対馬守

甲州一国                加藤遠江守

遠州三万石               渡瀬左衛門

信州小室五万石             仙石権兵衛

同小笠原一郡              石川出雲守

同伊奈郡                毛利河内守

同木曽郡        御蔵入御代官  石川掃部

同諏訪郡                日根野織部

如斯各頂戴有之、所知入の人々勝手に任せ、引越目出度のみに付き、京・大阪・国々共に繁昌なる次第也。信長公の次男信雄卿は秋田へ被遣、御知行被宛行、諸人いかがと思へ共、口には何もいはざりしとかや。

 
 
天正十七年九月九日、利家公は利長公へ御茶御振舞可有とて、猪子内匠・土方勘解由宗無など御相伴にて、御秘蔵の御茶入この村といふ肩衝を利家公御持参被成、此の茶入我等果候はゞ其の方の茶入にて候へ共、存生の内に相渡し喜悦の躰を見て慰まんと仰せられ、則ち其の方手前にて茶を給べ候はんと仰ありければ、利長公深く御頂戴被成、難有御意にて御座候へ共、先づ夫に置かせられ、御慰に被成候へと被仰上所に、御相伴衆は御意に任せ御頂戴可然由被申故、御頂戴被成けり。木村九郎三郎に挟箱より御装束を取出ださせ、御次にて召替へられ、御手前をぞ被成ける。利家公の思召難有被成方とて、何れも感じ被申ける。其の後或時御姪聟中川武蔵奢強く、公儀普請に過分の未進ありて、普請奉行より注進す。利家公御吟味ありける所、公儀の事オープンアクセス NDLJP:46を心易立に仕り、役を不勤に付き、諸傍輩より仕埋めければ、何れも迷惑がり申由御耳に立ち、利家公被仰出は、武士の公儀普請・軍役等は専一に可勤所の業也。夫を疎畧にして自分の栄華を第一にし、傍輩をたふす事盗賊に似たり、罪科不軽とて能州つむぎと云ふ所へ配流被仰付。其の後利長公より御詫言被仰上に付き御赦免被成、秀吉公へ御伽の衆に被召出、三千石被下置所に、御他界以後加州へ来る。則ち宗伴入道是也。其の頃利家公京の御屋敷御普請ありて、毎日御出被成けり。岡田長右衛門出頭して、篠原出羽・木村作右衛門・中川八右衛門など、岡田を少しそねむ心にて中もしたしからず。然る所に利家公御出ありて、殊の外はかも行きたる由御意の所、長右衛門申上げけるは、出羽など無油断情に入れ申由申上ぐる処、御機嫌殊の外宜敷に付き、出羽も長右衛門を誉申也。夫より何れも長右衛門としたしくす。利家公御意にて、脇田主水・水野采女・今井左太夫に普請場の御目付被仰付、着帳を付けさせられ、金のし付の刀を両人に被下けり。両人帳を付け申す時、篠原出羽は小川逸兵衛方へ振舞に行き帳の点に不合、村井豊後・徳山五兵衛笑止がり、急に呼寄せ点に合はせけり。木村作右衛門・中川八右衛門は帳にはづれ、殊の外御呵にて、出羽などさへ情に入る所に油断沙汰の限と御意ありて、久々御言葉も懸らざりしが、又頓て御前は直りけり。又或時前田徳善院惣領左近を、不行儀者とて徳善院呵り、伊勢の浅熊の奥へ引込ませしを、利家公仰らるゝは、子を悪人にする事は親の業なり。我れ利長を安土に置き、府中に我等有之時、村井豊後・近藤善右衛門・木村三蔵・小塚藤右衛門など付置きしに、随分行儀も能候由切々申越す。又世間にも其の由取なす。就夫利長も世間に誉むると聞いて、日に三度我身を返り見るとやらん心がけ、諫をも聞入れたしなむ也。夫れ故我等方より諫言いるゝ事なし。余り成る人の子供をたわけと父いひなし、気詰めぬれば人も又うとむもの也。徳善院杯分別には似合ぬ由被仰ければ、御尤の由にて召返しけら。左近は一入忝く存ずる由帰参して御礼申上ぐる。金言なりと諸人申しあへり、故に村井勘十郎留帳に記し置く。
 
 
天正十七年九月九日聚楽の御所に於て諸侯御礼申上ぐる。利家公の太刀折紙は村井豊後持参し、景勝の太刀折紙は直江山城持参す。其の日奏者寺西筑後守也。直江進み出で、景勝は上杉管領の家也とて、先に太刀を指出す。村井是を聞き、上杉管領は昔の上杉殿伊豆の氏政に追散らされ、管領も越後へ追ひこまれて、捨りたる管領を景勝公持ち給へり。当代秀吉公は凡夫にてましませ共、弓矢にて天下を治め給ふ。利家もわづかの身代より弓馬の鑓先にて国を治む。高家の景勝殿の御礼、御当家にては叶ふまじとて、村井太刀を奏者に渡す。尤也とて寺西筑後先に利家公を披露す。斯くて利家公御帰りありけるに、村井は式台に伺公しけるを、赤ひげをつまゝせ給ひ、此の髭故に礼を先に遂げたりと御機嫌宜しくおはしけり。利家公宰相に御任官の時、諸大夫入用に付き村井又兵衛を豊後守に被成、篠原勘六を肥前守になさる。那古屋陣の後、利長公肥前守にならせられし時、笹原は出羽守に被成ける。其の時分諸大夫、家康公に四人、備前中納言殿に二人、毛利安芸守殿に二人、景勝に二人、利家公に二人、都合十二人ならではなかりけり。
 
 
天正十八年に成りけるに、東西南北浪風静かなる御代と成り、聚楽の御所を秀次公に御渡しありて、関白職を御譲り、三月上旬に大阪の城へ御入城ありければ、各大名衆も大阪に屋敷取して、屋形を立てらるゝ。大阪の城にて不時の御茶を可被下とて、大名各登城ありて御茶被下、被仰出けるは、数年各の武功に依りて四海太平思ひ置く事更になし。然れ共上古の事を聞伝ふるに、異国の兵船日本へ渡海し騒動する事度々に及ぶ。此の以後とても有間敷事にあらず。末世の為に渡海して高麗を攻破り、新羅・百済までも日本に随はせ置くならば、末代天下の為なるべしと思ふはいかにと被仰ければ、家康公・利家公・輝元・秀家・景勝、三人の中老生駒雅楽頭・中村式部少輔・堀尾帯刀、五人の奉行浅野弾正・前田徳善院・増田右衛門・石田治部・長束大蔵、何れも一同に、是は珍敷上意かな、誰か異議に及可申、思召し立ち給へと被申ければ、御機嫌能く御暇被下、国々へ帰り用意軍役等急がれけり。
 
 
天正十九年正月より可打立との陣触にて、軍役・軍兵・人足・オープンアクセス NDLJP:47大船・水主、人馬・兵粮夫々に触廻し、日本六十余州の軍兵都合三十万七千余騎の着到也。肥前の名護屋に屋形を立て、八万余騎にて番割役所を請取り、高麗渡海の人数二十万五千余騎也。太閤も渡海可被成所に、天子より勅使立ちて御留めありける故により、名護屋にまして御名代御目付等被仰渡、朝鮮国へ乱入し、爰かしこにて攻戦ふ。唐人も一命を捨て防ぐといへども、加藤清正・小西行長爰をせんどゝ戦へば、鬼上官と申して高麗人共魂を失ひ、散々に成り、打取る首共船に積みて送りけるに、異国人共見るよりもいとゞ震ひわなゝきけり。首共名護屋へ指上ぐるに、太閤御機嫌不斜。
 
 
七月二十三日に御母君以の外御不例の由飛脚名護屋へ着きければ、太閤驚き急ぎ都へ登らせ給ひけり。毛利輝元は朝鮮へ渡海也。子息右京大夫秀元は、国に在合せ御迎に参り、御膳等を被上、御座舟に同船にて被召連、豊前国大里の沖と云ふ所に、まな板が瀬戸と申す難所の舟路あり。大なる栗石水の底にありて、此の石に舟をのすれば必ず破損す。船頭明石の与次兵衛大汗をながし、随分梶を取るといへ共、不叶して御座船を栗石にすゑければ、雷の如くに鳴渡りてくだけんとす。右京大夫の供舟に君をのせ奉り、御命助かり給ふ。船頭の与次兵衛は、大里の浜にて御成敗あり。栗石の上に石塔を立て、与次兵衛栗石と名付け、徃来の船の助けとす。夫より右京大夫を宰相に被成けり。晦日に御帰着ありけれ共、二十五日の御遠行と飛脚道にて申上ぐる。御残多く思召し御愁傷限りなし。去れ共無是非思召し、大徳寺へ御入ありて、玉仲和尚に大法事御執行被仰付けり。秀吉公追付き九州御発向、天正十九年より文禄二年までの内に、高麗思召す儘に随討へ、御手に入る国々は。

朝鮮国 京畿道 江原道 咸鏡道 平安道 黄海道 忠清道 慶尚道 金羅道 合八州其外 西生浦 釜山浦 東策 熊川 安骨羅 唐嶋 感昌 忠州

右悉く討随へ、文禄三甲午年まで追々日本へ帰帆、其の間に唐使和睦の御礼として、

正使 参将謝用梓    家康公御賄

副使 遊撃徐一貫    利家公御賄

五月十五日より同二十一日まで御賄、御馳走中々申す計なし。夫より浅野弾正・建部寿徳斎・小西如清・太田和泉・江州観音寺にして、五人にて十日宛五十日賄申され、追付き御返答有りて高麗へ帰帆致しけり。