三壺聞書/巻之一
山は塵ひぢより起りて天雲かゝる千重の嶺、海は苔の露よりしたゝりて波濤をたゝむ万水たり。扨こそ世の人、君が代は千代に八千代にさゞれ石の巌となりて苔のむすまでとはいひけれ。倩々世の中の盛衰の有様は四季転変の理に同じ。春生じ、夏茂り、秋実のり、冬枯の草葉くちぬる其の中に、種子落ちて塵に交り、又立帰る春にあふ。天地の掟何事か不滅不生なるや。人間又斯の如し。中昔の頃とかや、保元・平治の合戦に源氏悉く亡び、平家世を取り栄華を極むる事二十余年也。爰に源氏の胤に頼朝・範頼・義経等生残り、成長して後平家を亡し、又源氏一統の世となりぬ。頼朝・頼家・実朝三代、纔四十余年にして源氏の正統絶え畢。依之京都より摂家の公達を申下し関東の将軍とす。幼稚成る故に頼朝の後室二位の尼政事をきく。世の人是を尼将軍と申しけり。北条時政外戚の勢ひを得て恣に天下の成敗を司り、是より後猶親王家の幼主を申下し、関東将軍の号ありといへ共、政事は悉く北条より出でたり。又京都には一族を置きて政道を聞かしむ、是を両六波羅と申しけり。其の外の七道猶斯の如く、是を探題と云ふ。時政の子孫世を治ること九代、四海波静にして降雨塊を動かさず。然れ共久敷家の習ひにて、下よりひた物上をあがめ、位高にまします故、夫より次第に奢生じ、諸色結構に成る程に所帯に不足し、下を貪り収歛の道つよく成りて、民の訴へ上へ通ぜず。只異国の器物・飲食・色欲にふける。此の時は人皇九十五代後醍醐天皇の御宇元弘の頃也。帝武家の政道をみそなはし給ひ、不道を打たんと思召し立給ふ。是に依りて五畿七道忽に乱れ、干戈暫も止む時なく、終に北条家九代百六十年、高時入道宗鑑が代に至り一家悉く滅亡せり。斯くて暫くは公家一統の御代なりしが、猶御政道違ふこと多き故建武の乱れ起り、又尊氏天下を治め給ふ。然れども宮方の残党諸国にありて、四十余年尚天下修羅の街となりにけり。尊氏の子孫十四代将軍の院宣を蒙り給ふ。斯波・細川・畠山・赤松・一宮・今川・吉良・上杉などゝいふ大名を諸国におき、【 NDLJP:11】天下の政道取行ひ給ふ。又尊氏の二男基氏を鎌倉に置き、鎌倉の公方と仰ぎ、出羽・奥州まで政道せしめ給ふ。足利家の系図は八幡太郎義家の後胤也。此の頃治天は百六代後奈良院の御宇、天文年中は将軍義輝の御代也。中頃義政の御代に、細川・山名の家々党を立て、応仁の乱起りしより以来四海悉く乱れ、一日も静なることなし。是より公方の威も軽くなり、諸国に引籠り戦ひ止む事なし。此の頃天文年中には別して諸国乱れ、公方家もあるかなきかの如くになり、天下悉く戦国と成りにけり。尊氏代々は、尊氏・義詮・義満・義持・義量・義教・義勝・義政・義尚・義稙・義澄・義晴・義輝・義昭凡十四代、義昭にて京都公方は絶えにけり。
鎌倉の公方基氏の子孫相続ぎて関八州の政道取行ひ給ふ。管領は代々上杉也。此の代々管領に居して威を関八州に振ふ上杉家と申すは、藤原冬嗣の後胤也。兄弟両家となり、惣領は相州山内に居住故山内殿と申し、二男は扇谷に居住故扇谷殿と申しけり。然るに持氏将軍の御代、上杉安房守憲実と不和の事有りて合戦に及ぶ。京都の公方憲実に加勢し給ふ故に、忽打負け給ひ持氏公御生害也。御子春王殿・安王殿は結城七郎を頼み給ひ、籠城し給ふといへ共、憲実京都の命を含み攻めける間、数日にして結城落城し、御兄弟も生捕られ生害し給ふ。其の後上杉の家臣長尾昌堅といふ者、持氏公の御子一人打洩されましますを取立て、京都へ申し公方と仰ぎ奉る。是を成氏公と申しけり。則上杉憲実の男憲忠を管領となし、関東暫く静謐す。然るに成氏公親の敵と号して憲忠を誅し給ふ。是より又公方と上杉家相分れて合戦に及び、終に成氏公打負け給ふ。是より公方の御子孫ありといへども、名のみにして上杉家益威を振ひ、関八州・出羽・奥州迄其の下知に従ふ。山内殿の家老は長尾・白倉・小幡・大石等代々の長臣たり。扇谷殿にも太田・上田・箕田・萩谷等家を守護す。中にも太田道灌は太田道真の長男にて、武州江戸の城主にて、扇谷殿にての大身文武の達人也。然るに扇谷定政佞人の讒を信じ、忽ち道灌を誅せしより扇谷殿の威勢も軽くなり、又両上杉の中悪敷成りて算を乱し打戦ふ。爰に伊勢伊勢守の後胤伊勢新九郎氏茂といふ侍京都より来て、今川氏親を頼み駿河に有りけるが、隙を伺ひ伊豆国に発向し、公方の子孫のましますを打奉り、伊豆一国を押領す。氏茂文武の侍故豆州静謐に治め、上杉両家確執の費に乗じて相州半国切り取たり。氏茂法躰して北条入道早雲とぞ申しける。子孫北条を以て姓とせり。早雲嫡男氏綱、猶上杉家と戦ひ勝利を得、相州を切随へ武州の城々を攻落し、江戸・川越等の城を氏綱領し、公方晴氏を以て聟とせり。依之上杉家と弓矢の争ひ止むことなし。氏綱死去有りて、子息氏康上杉憲政と数年相戦ふ。其の頃憲政は国々の政道正しからず、忠地彦四郎・曽我伝吉と云佞人の詞に任せ、諸事彼が計ひに成りければ、日を追ひて家中乱れ衆臣退き、佞人は時を得たり。忠地・曽我益威を振ひ、忠地主馬助・曽我右衛門佐と申しける。此の両人斯の如くなる上は、上杉家の旧臣はなきが如くに成りければ、管領の家運傾き亡ぶべきの時来りけると、心有る人は悔悲せり。北条氏康は相州小田原に在城し、文を以国を治め、武を以て辺境と戦ひ、いまだ一度も不覚なし。依之諸将の思ひ付くこと赤子の母をしたふ如く也。其の頃武州河越の城は、氏康の家臣北条左衛門大夫在職す。上杉憲政多勢を率し攻むるといへ共、左衛門大夫は隠れなき武勇の士にて、士卒を励まし防ぎ戦ふ故に落城しがたし。憲政城をかこむこと数日に及び、公方晴氏上杉の方人として出馬也。依之河越の諸卒運送の道絶え、粮草難儀に及ぶ。氏康後詰の志ありといへ共、不勢成る故に夫も不叶。此上は河越城可明渡の間、士卒の命被助様にと有りしか共、憲政承引せず。氏康扨は是非もなし、小勢なれども河越に向ひて討死せんと、八千余騎を率して天文七年戌七月十五日出馬也。上杉家は扇谷朝定の人数共に八万余也。氏康諸卒をいさめ、只一筋に打死と勇み進んで相戦ふ。城中より是を見て戸を押開き、左衛門大夫士卒を励ましかけ出で、四角八面に切廻り、両方より攻戦ひ、上杉の八万余騎忽ち切開き、討るゝ者数をしらず。憲政は上野国平井の城へ敗亡なり。是より上杉の威勢衰へ、終に平井城にもたまり兼ね、憲政は長尾景虎を頼みて越後へ趣き給ひけり。憲政の子息龍若と申すは、出生の時華奢風流に生立つ様にと、京都より局を初め介添の女房を呼下し、寵愛なゝめならず。依之是は局の親族也、彼は何某殿の縁者よとて、八瀬・小原・醍醐・山科の賤民共【 NDLJP:12】関東へ下り、高禄を賜はり臂をはる。此者共憲政の威勢の衰へたるを見て恐れおのゝき、己が罪を遁れんが為に、龍若君を生捕り氏康へ降参す。氏康聞きて、悪敷者共の仕業とて不残誅伐せられけり。爰に於て関東公方並に上杉の一家断絶して、関八州悉く北条へ随ひけり。関東公方の次第。基氏・氏満・満兼・持氏・成氏。
尾州織田家先祖は、昔平家清盛の嫡男小松内府重盛の二男、新三位中将資盛の妾に子あり。平家都を没落の時、彼の妾子を懐にして近江の国津田といふ所へ落行き、母子共にあり。津田の郷主彼女の美なるを以て妻とし、彼幼子を子とせり。或時尾州織田社の神主津田へ来て彼の幼子を乞ひ、後養子として津田権太夫親貞とぞ申しける。此の子孫代々織田社の神職なり。時代押移り足利家天下を取りて、尾州は斯波武衛の恩補の国也。或時織田神職の子美童なるを以て児小姓に被召仕。此の者才発なる故に次第に登庸して、武衛の内五奉行人の列に加り、其の子孫繁昌して織田朝倉とて大身に成りけり。後武衛の家衰へ、織田家益繁昌せり。大和守信定の代に成りて、三奉行あり。其の内一人は信定の子息弾正信秀也、後備後守と号す。是信長の父なり。清盛─重盛─資盛─津田権太夫親真 是より十六代を経て
大和守信定─備後守信秀─┐
┌──────────┘
│┌三郎五郎大隅信広
│├吉法師上総介信長───────┐
│├勘十郎武蔵守信行 │
└┼三位中将上野介信包 │
├源五郎有楽長益────┐ │
├女子 浅井備前長正室 │ │
└此外五人の御兄弟早世畧す │ │
┌─────────────┘ │
│ ┌───────────────┘
│ │┌三位中将秋田城之介信忠 岐阜中納言と号す、二条城にて討死也。
│ │├内大臣茶筌御曽子三助信雄常真──┐
│ │├三七信孝 二十六歳野間内海にて死去 │
│ │├中納言秀勝御次丸 太閤御養子 │
│ │├女子 蒲生飛騨守氏郷妻 │
│ └┼女子 前田肥前守利長妻 玉泉院殿 │
│ ├女子 岡崎殿三河守秀康妻 越前 │
│ ├女子 丹羽五郎左衛門長秀妻 │
│ ├女子 筒井伊賀守妻 │
│ ├御坊 源三郎勝長 │
│ └御長 武蔵守信吉 │
│ ┌────────────────┘
│ └織田出雲守 加州に佐川出雲と云富田越後の聟也。利常様より被仰上上様被召出大和の宇田を領す。
└織田河内─┐ 此家来十人加州へ来る。関屋新兵衛、武藤四郎兵衛、和多田八郎兵衛、林十左衛門、阿部九郎右衛門、林甚助、林宇左衛門、山崎久三郎、矢田五郎兵衛
┌────┘
│┌織田左近─織部─小八郎
│├村井出雲 村井飛騨守養子也。村井名跡也。村井兵部父
└┤ ┌伽耶院
└女子 小幡播摩守内室┼浅井大助妻
└河合内匠妻
河合内匠父伊織名跡として他国す。此時妻女を残し置く故、小松一向寺勧帰寺妻となる、爰にも菊を忌むといふなり。
織田河内不作法成る次第有りて、慶長年中に家断絶す。加州に玉泉院様御座被成に付きて、河内子息家来迄被召出縁組被仰付けり。小幡播磨守は関東侍の召仕の女に菊といふ者あり、食の中に針一本あり。其の科に依りて彼の女を色々に責めらること物語多し。其の後生きながら井戸の中へさかさまに埋めらるゝ。女の老母是をかなしみ、此の報ひ有べきならば、即時に此の胡麻生えよかしと、炒胡麻を井戸のあたりにまく。折節卯月半のことなるに、一両日の内にばらりと生えたり。老母是を見て、罪なくしてあらけなき責にあふこと、天是を照覧なからんやと、比丘尼と成りて修行に出ける。誠に其報いにや、播磨代になり狂気と成りて、内室を切殺し乳母に手を負はせ、七尾の古城に隠れ忍ぶを尋出し、座敷籠に押こめられて果らるゝ。子息は出家して能州石動山天平寺に住侶となり、伽耶院と申しける。此の小幡の家に菊といふことを嫌うて、道具の絵にも忌みにけり。菊が亡魂行先にて見えつ隠れつたゝりて、家を断絶しけるとかや。浅井大助室は小幡播磨娘なるが、大助奥の居間の前露地の傍に小池あり、其の側に小社を建て、菊【 NDLJP:13】が亡魂を勧請し、朝夕灯明御供を備へられたり。左様にせざればたゝりをなすよし。然れ共大助家も終に断絶したりけり。
信長公十三歳にて元服し給ひければ、御守に青山与三右衛門・平手中務を備後守殿より附けらる。備後守殿御不例成りしかば、信長家督たるべし、信行は母と一所に末森在城たるべしとて、柴田権六・佐久間大学を守とし、其の外長谷川宗兵衛・山田孫左衛門・高畠新兵衛等を被附置、天文十八年三月三日逝去し給ふ。其時信長十六歳也。然るに信長我儘なる振舞言語に絶する処也。平手中務清秀は、此の分にてましまさば、御家の滅亡遠かるまじとて、屢々諫め申すといへ共、日を追うて不行儀重りければ、清秀せん方なく、我れ生きて君の滅亡を見んよりはと自害し果てにけり。信長大に悔い悲み給ひ、寺を建立し則ち清秀寺と号し、菩提を深く弔ひ給ひけり。是より信長不行儀直り給ひ、名将と成り給ふこと、ひとへに平手が忠節なりと後々まで信長被仰出、御落涙有しと也。 美濃の国主斎藤山城守道三といふ人は、其の初山城国西の岡と云ふ所に、油を商売せし貧賤の人也。謡をよくうたひし故、諸国を流浪せし内に、濃州大桑の城主土岐芸頼の家老長井藤左衛門といふ者に扶助せられ、度々甲斐々々敷働きある故、次第に出頭し大身になり、終に長井と不和の事出来す。道三謀事を廻らし、土岐芸頼を頼み長井と合戦して打勝ち、長井を亡しけり、其の後又芸頼と不和に成り、終には土岐をも追出し、濃州を押領し、尾州信秀と屢々合戦ありしが、後和睦ありて、道三の娘を以て信長に嫁娶ありて、尾濃両国無事に成りけり。然るに道三惣領の右兵衛大夫龍興といふ人、至つて不孝人也、殊に癩病なり。道三此の龍興を悪み、弟両人を寵愛故、龍興是を恨み、日根野備中を頼み、喜平次・孫三郎両人の弟を打殺し、夫より父道三と合戦になり、終に道三打負け討れけり。信長公聞し召し、急ぎ人数を出し給へども、早落去の跡故空敷引返す。一度は龍興を討取り、舅の孝養に報ぜんと宣へり。然るに濃州西方三人衆とて、氏家常陸介・稲葉伊予守・伊賀伊賀守とてありけるが、龍興にそむき信長公へ内通す。則ち人数を出し、龍興が本城へ取懸り給ふ故、龍興是非なく城を明けて立退き、信長清洲より是へ移り、稲葉山を改め岐阜と名付け給ひけり。龍興は越前へ赴き、朝倉義景を頼みて居給ひける。 織田の惣領に彦五郎といふ人ありて清洲にまします。備後守殿も信長も不快にて折々取合あり、弘治元年四月の頃、信長公の叔父孫三郎信光と云ふ人を、清洲より謀叛人ありて引入れける。其の時孫三郎押寄せ、謀叛人と申合はせ、家老坂井大炊を打取りしより城中乱れ、一人の家老坂井大膳は立退く。然る所に信長駈着き、城主彦五郎を討取り、則ち其の城へ信長御移ありて、名古屋城へ河東を相添へ、信光へ被遣、御感不斜処に、信光の妻室と家来坂井孫八郎と密通致し信光を害す。信長聞召し、御吟味ありて此の儀に組する男女悉く御成敗、名古屋へは林佐渡守を被入置けり。 名古屋城林佐渡守弟美作守といふ者、末森の城へ参り、末森の城へ参り、家老柴田権六を招き相談する様は、信長は異風にて我儘也。御弟信行は柔和にして万事遠慮もまします御方也。是を主君と仰ぎ、信長を打ちて取るべしと内談す。此の事いかがしてか信長聞伝へ給ひけん、信行の内なる佐久間大学を召され、名塚村と云ふ所に御置ありて様子を伺はせ給ふ所に、早速名塚の要害佐久間が方へ取かけし由信長聞し召し、人数を引具し、おたい川を打渡り後巻ありて、稲生といふ所にて防戦也。信長は鑓にて美作守を突伏せ首取り給ふ。信行の小姓頭宮井勘兵衛を御子小姓の前田犬千代丸鑓にて突伏せ首取り給ふ。此の勢ひに辟易し、美作守家老山田治部も討死し、柴田権六も叶ひ難くして引退く。信長は武蔵守に腹きらせ、謀叛人共も御成敗有るべきと宣ふ所に、御母堂末森にまします故、色々御噯ありし故、是非なく思召し、信行・勝家に法躰させ、誓紙を以て信長へ御礼申上げ無事に成りける。其の後信行猶逆心止まず、信長を夜討にせんとの企也。爰に柴田勝家はつく〴〵信行の躰を見るに、信長を亡し給ふべき器に非ずと思ひ、密談の趣を信長へ返り忠をぞ致しける。信長聞き給ひ、頓て虚病をかまへ、御不【 NDLJP:14】例と披露し段々重り給ふ故、母君も御見舞として御出御対面ありければ、最早助りがたく存ずる間、跡式の儀武蔵守へ譲り可申儘、御呼寄被下候へ、申置も可仕と仰せらる。御母もいかゞ心元なく思召しけれ共、頃日信長公の謀事に、すはうの木をせんじ多く被召上、大小便血になり、又吐逆被成しを御覧ずれは血也、誠におそろしき御病躰なれば、尤と思召し、文こま〴〵と御調へ、信行へ被遣しに、信行御覧あるに、御母君の御手跡紛れなしとて、頓て清洲へ御越し、御台所へ入り給ふを、松平新太郎・池田勝三郎廊下に在合せ、取つておさへ指殺しまゐらする。此の勝三郎法躰し勝入と申ける。武蔵守殿もの共方々へ立退き、所々に隠れ居たりける。後尾州衆加州にて物語致しけるは、根本柴田権六信行を亡し、信長へ附参らせんとはかり、残るものを謀叛人と反忠を致す所存のほどこそにくけれと悪口を致しけれ共、武勇の者にて越前一国の主となる。然れ共終に秀吉公の為に滅亡せり。偏に信行と其の外の亡霊の憤り成るべしと語りける。武蔵守殿御内の者も数多有りけれ共、その内御取立の者両人熱田神主大夫三右衛門方に忍び、しばし隠れてありけるが、大峯へ参詣致し、本結きり、茂庵・徹庵と申して信長公に笠を傾けゝるが、両人共に高畠孫十郎妹聟也。河尻与兵衛相聟也。 大納言利家の御先祖をいひ伝へけるは、昔近江国を領せし人西坂本にありけるが、狩の為に湖水の辺を遊行せらる。菅のはえたる沢水に天女あま下り、戯れけるを具して来り、三とせを過ぎけるに一子を儲けて、天女は天に飛行し失せ給ふ。其の所を菅の里と申しけり。彼の若子幼より聡明にして諸芸に達し、七歳にて帝に仕へ奉る。宇多天皇の寵臣にて、次第の昇進滞らず、終に右大臣右大将に経上り給ふ。世人菅丞相とぞ申しける。其の時左大臣左大将時平と申すは、昭宣公の嫡男にて代々執柄の家也。然れ共管丞相年甚だ若く、和漢の才に達し給ひければ、諸人も是を重んじ、君の寵愛も追日盛なれば、時平是を憤り、光郷・菅根などいふ人と心を合せ、種々讒奏せらる。当今醍醐天皇其の時十七歳にならせ給ふ故、是非の叡慮も廻らされず、終に菅丞相をば筑紫へ左遷せしめ給ふ。菅丞相筑紫にまします内、御出生の御子を原田氏の先祖といひ伝へたり。其の中より一人尾州へ来り代々前田の庄に住給ふ故、自然と前田を以て姓とせり。前田氏の内よりも、高畠へ分れしとかや。其の後織田氏尾張に繁昌して家盛なれば、幕下に属し荒子の城に居住也。利家公の御父を前田縫殿助利高公と申し奉る。御子数多おはします。嫡男利久、二男安勝、三男利家公、四男利玄、五男秀継、六人目は姫君にて高畠石見守内室也。蔵人殿は病身にて、御子持ち給はざりしかば、滝川左近将監一益の甥を養子に被成、惣兵衛利益と申す。後は慶次殿とぞ申しける。然るに利家公いまだ犬千代丸と申し御年十四歳の春の頃、織田吉法師信長公へ被召出給ふ。天文十九年春の事也。信長公は甲午の御出生、利家公は戊戌の御出生、四歳の御年劣りにて、さながら御兄弟の如くしたしくましまして、余りに容儀勝れさせ給ひ、万御器用にましませば、十五歳の頃より同床にして、月花の友とならせ給ひ、御前にましまさねば御膳も不被召上、上下肩を並ぶる人もなし。初めて百五十貫の所を拝領ありて、十六歳にて御具足召し初め、十八歳にて御元服、又左衛門利家にならせ給ふ。後蔵人利久の名跡に成り給ひ、荒子の城へ御入城、二千貫の領知御取あり。此の時蔵人殿御家老奥村助右衛門城代にて、城を渡し申間敷と申されけれ共、蔵人殿御誓紙を以て被仰渡し故相渡し、蔵人殿は御隠居、奥村は浪人致し、ある在所に蟄居しけり、利家公には近藤善右衛門附き奉りしが、頓て病死し、せがれ幼少也。柴田権六或時利家公へ被申けるは、奥村助右衛門は比類なき剛の者也、被召置可然と申さるゝに付き被召寄、万事御家の事を被仰付。慶次殿尚信長公より扶持せられけり。此の人若年より人に替りて異風なる人也。聚楽にて銭湯の風呂へ行き、小風呂の内へ小脇指をさして入り給ふ。人々気遣し皆出でにけるに、慶次殿板の間へ上り、小脇指をすらりとぬき垢をかき給ふを見れば、竹刀にてぞありける。伏見の御城にて太閤へ御目見の時、大撫付・かま髭・上髭にてなが〳〵敷長袴を着し、御次まで出で給くは、浅野弾正・猪子内匠など是を見て、是はいかなる有様ぞ。長髪にて御目見は叶ふまじとありける時、畏るといふ儘、其附髪・懸髭おつ取り給へば、剃立てたる頭也。国々の大名中、是を見て興をさまして居られける。又京室町通【 NDLJP:15】を、古紙衣にしなの皮にてあみたる鳥巾を着、脇指一腰にて通り、或店を見給へば呉服店也。肥えふとりたる男、片足をみせばたへ投出し、脇なる者と雑談し居たりけり。慶次殿するすると立寄り、膝の上を押へ、亭主此の足は何程に売るぞ、買ひ申度しと被申ければ、百貫に売可申とて足を引かんとすれども、膝皿を押し付けてひかせ申さず。供廻りを呼び給へば、何茂参り畏る。此の足を買ひたるぞ、金子を取りて参れと被申しに、町中寄合ひ詫言致し、其の上町奉行の磅にて無事に成りける。夫より加様の事共千万あるに付き、人皆恐れ不出合。此の慶次殿に、加州にて女子三人あり、一人は北条采女妻也。一人は戸田弥五左衛門妻也。一人はお花どのと申し、利長公の妾の姫にてあるを、山田弥右衛門に遣はさる。戸田弥五左衛門娘二人あり。一人は清泰院様の御召仕今井の方、一人は吉田又右衛門妻也。序なれば是を記す。 菅原之姓前田氏前田縫殿助利高┐
┌───┘
├前田蔵人大輔利久─前田慶次利益
├前田五郎兵衛尉安勝┬女子 中川宗伴室
│ └女子 笹原出羽室
├前田又左衛門尉利家 太閤秀吉之御時大納言に被任─┐
├前田十左衛門尉利玄─前田孫左衛門早世 │
├前田右近大輔秀継─前田又次郎利秀 │
├女子高畠石見守定吉室 │
└女子寺西九兵衛室─与市郎─庄左衛門 │
│
┌─────────────────────┘
├女子前田対馬守源峯入道長種室─────────┐
├前田肥前守利長 │
├前田孫四郎利勝───────────────┐│
├女子宇喜多中納言室 ││
├女子長岡与市郎室 ││
├前田大和守利孝──────────────┐││
├前田修理亮知好─────────────┐│││
├前田備前守利貞 出雲 備前 ││││
├女子浅野左京大夫室 ││││
├女子長十左衛門好連室 ││││
├女子万里小路大納言室 前田日向 木工之助 ││││
├篠原織部 但出羽養子に被成 ││││
└松平中納言利常┐ ││││
┌───────┘ ││││
├女子毛利右近大夫室 ││││
├松平筑前守光高────────────┐││││
├松平淡路守利次大蔵大夫 │││││
├松平飛騨守利治─飛騨守利明─大学 │││││
├女子松平安芸守室 │││││
├女子八条宮室 │││││
├女子松平越中守室 │││││
├女子保科筑前守室 │││││
├松平美濃守 飛騨守殿名跡 │││││
├女子前田対馬守室 │││││
└女子本多安房守室 │││││
┌───────────────────┘││││
└三位中将松平加賀守綱利┐ ││││
┌──────────────┘ ││││
│┌──────────────────────┘│││
││┌──────────────────────┘││
│││┌──────────────────────┘│
││││┌──────────────────────┘
││││├前田内記─────────────────┐
││││├前田丹後┬左馬介 │
│││││ └平太夫 │
││││├女子日根九兵衛室 後家を織田河内室 │
││││├女子溝口伯耆守室─金十郎 │
││││├女子横山山城室 │
││││├女子今枝民部室 │
││││├女子青木新兵衛室 │
││││├女子神尾図書室 │
││││├女子松平伯耆室 │
││││└女子岡嶋備中室 帯刀也二代の備中 │
││││┌─────────────────────┘
││││├前田対馬─────────────────┐
【 NDLJP:16】││││├前田熊之助─女子一人 │
││││├前田孫九郎 │
││││├前田権之助 │
││││├前田主水 │
││││└女子前田平太夫室 │
│││├前田三左衛門─前田備後 │
│││├女子四辻大納言室─前田主殿─虎助 │
│││├女子奥野主馬室 │
│││├女子角倉与市郎室 │
│││├女子岡嶋市郎兵衛室 │
│││└女子神谷治部室 │
││├前田右近大夫 │
││├前田帯刀 │
││└前田主膳 内匠 │
│├前田内蔵允 内蔵允 万之助 │
│├前田木工助 │
│├大音主馬 │
│├女子奥村伊予室─内匠 │
│├女子上田主水室 但前田左馬介後家也 │
│├女子多賀左近室 │
│└女子加藤九兵衛室 │
│ ┌──────────────────────┘
│ └前田対馬─万勝丸
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