ロベルト・コッホ
原文
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(底本p.283, p284)
醫 聖 列 傳
(一)ロ ベ ル ト ・ コ ッ ホ
Robert Koch (1843─1910)(細菌學の樹立者)
ロベルト・コッホ先生は、一八四三年十二月十一日、ドイツ國クラウスタール(Crausthal)に生
れて、一八六二年から同じく六六年までの間、ゲツチンゲンに於て學んだのであつた。
卒業後、ハンブルクの病院をはじめとして、ハンノーベルに行き、又間も無くポーゼンに轉じて
居た醫員生活は、外見上、平凡極まるみじめな田舎醫者に過ぎなかつたけれども、此の十年間こ
そ、硏究心に燃えて居た若い彼が、孜々として倦むこと無く、狭い汚い診察室の一隅で、世界を
驚倒せしむべき細菌學の創設と大成とを兼ねた大努力の繼續せられて居た時であつたに違ひな
い。それは彼に關する次の挿話に依つても、想像するに十分である。
一八七〇年頃のことであつたらう。一日、見すぼらしい姿をした男が、古いボール箱を大事さ
うにかゝへながら、ブレスラウ大學の植物學敎室の門を叩いて、當時盛名を世界に馳せて居た隱
花植物學の泰斗、コーヘン敎授に面會を求めたのである。受附の男は相手の風體を見くびり、敎
授の盛名を笠に被て、「先生がお前の如きに、逢はれるものか!」といふ權幕で、中々取次がうと
はしなかつたが、その見すぼらしい男も亦、面會が許されるまでは、遂に引返さうとはしなかつ
たのであつた。
頑强な面會人は遂に、コーヘン敎授の前に立つて、州の公醫、ドクトル、ロベルト・コツホとい
ふ名刺と共に、ボール箱の中から二疋の白鼠と、一枚の顯微鏡標本とを取出して、恭しく敎授の
敎を乞ふたのである。その白鼠には脾脫疽(病名)の病原菌が、種えつけられて居り、顯微鏡標
本にはその白鼠の血液の中から分離した脾脫疽の病原菌が、色も鮮に染められて居たのであつた。
一八七六年の彼の處女論文「脾脫疽の病原に就いて」(Zur Aetiologie des Milzbrandes)は、之を
記載したものなのであつた。「開業醫であるから硏究が出來ない」といふのは、硏究心が無いか、
硏究的頭腦を持つて居ない者の口實に過ぎない。
「どうも硏究費が足りないから困る」とか、「どうも硏究室が不完全で、思ふやうな成績が上らな
(底本p.285, p287)
い!」といふのは、自分の無能を硏究室の宏大と華麗とに依つて、胡魔化して行かうとする、内
容の貧弱なる學者達の泣言に過ぎない。コツホ先生、十年間の雌伏時代を思つたならば、意志と
腦力との二つが、大業績を完成すべき絕對の要素であつて、硏究費や硏究室の如きは、ホンの装
飾に比すべきものであることを、何人も容易に知ることが出來るであろう。
玄關番に馬鹿にされた見すぼらしい人の手に依つて、世界の醫學界を驚嘆させるだけの、優秀
な業績があげられたではないか。古ぼけたボール箱の中から、一代の碩學をして啞然たらしめた
程の、脾脫疽の病原體が、一點の非難を容れる餘地の無いまでに、完全に立證して取出されたで
はないか。
脾脫疽の硏究に次いで、創傷傳染病の病原硏究成績を發表したのは、一八七八年であつた。
(Untersuchungen über Aetiologie der Wundinfektionskrankheiten)是に於てコツホの聲名漸く高
く、一八八〇年、擢んでて首都ベルリンの國立保健局(Reichs─Gesundheitsamt)に招聘せられる
ことになつたが、彼は地位にさへ有りつけば、もう手をつかねて安泰に暮さうといふ輩と選を異
にして、その硏究の便宜に勇躍しながら、直に前年の脾脫疽の硏索を進めたのである。一八八二
年の Ueber die Milzbrand─impfung. Eine Entgegnung auf den von Pasteur in Genf gehaltenen
Vortrag は、その成績の報吿であつたが、之と同時に又人生最大强敵たる結核征服の問題に着
眼して、先づその病原體が結核菌(Tuberkelbazillen)であることを明にし、Beitrag zur Aetiolog-
ie der Tuberkulose 以下の諸論文を發表したのも、亦それと同じ一八八二年の事であつた。これ
まで無數の人命を奪はれながらも、全く手のつけやうさへ無かつた結核の原因が、玆にはじめて
明瞭になつて、結核に向つての對策は、此の時に於て、初めてその緖に著いたものと云はなけれ
ばならない。
一八八三年、ドイツ國コレラ病調査委員長として、エヂプト及びインドに派遣せられた際には、
コンマ狀の細菌が常に同患者にあつて、これが病原體であることを認めたので、翌年歸國す
るに及んで、政府は十萬マルクを贈つてその功績を表彰したのであつた。
一八八五年又コレラ病調査委員として、フランス國に派遣せられ、次いで帝國大學醫學部の正
(底本p.288, p.289)
敎授として、衞生學敎室を新設すると共に、併せて傳染病學硏究所の主宰者を兼ねて、その偉才
を發揮し、Ordentlicher Hoaerarprofessor の尊称を與へらる々に至つたが、此の時、年四十三歳
の男盛りで、硏究心の旺盛な事、正に烈火の如くなのであつた。
それから後にも、或は一八九六年、畜牛ペストの調査にカプスタツトへ行つたり、或は又熱帶
病マラリヤの病原調査の目的で、一八九八年に、ドイツの各植民地に赴いたりして、一九〇九年
卽ち我が明治四十二年に、六十七歳で病沒するに至るまで、その一生を捧げて、未知の病原體の
發見、並にそれに基いた防疫と治療との硏究に沒頭し、殆ど寧日が無い位であつた。その日本に
來遊した一九〇八年の如きは、實に死亡の前年に相當するのである。
從來久しく行はれて居た、漠然たる對症療法、卽ち熱が高くなれば熱を下げ、咳が出れば咳を
止めるといふ如き、枝葉の點にのみ拘泥して、根本問題に觸れ得なかつた治療法を改めて、徹底
的にその病原體から退治して行かうとする原因療法は、實に此のコツホ先生に最も多く負ふもの
であつて、例へば血淸療法の如きも、先生の硏究に基いて、一八九〇年に、ベルリンの萬國醫學
協會から、結核治療の目的に、ツベルクリン、卽ち所謂コツホ氏結核治療液の出されたのに端を
發する位で、世界人類の福祉が、先生の力に依つて增進された事は、實に絕大なものであると云
はなければならない。その日本來遊の砌、兵庫縣醫師會から贈られた菊水の定紋附の羽織に仙臺
平の袴で、端然として寫された先生の肖像は、病魔退散の救世主として、いとも神々しく仰がれ
るものである。
脚注
編集関連項目
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