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マリヤンというのは、私の良く知っている一人の島民女の名前である。
マリヤンとはマリヤのことだ。聖母マリヤのマリヤである。パラオ地方の島民は、すべて発音が鼻にかかるので、マリヤンと聞えるのだ。
マリヤンの年が幾つだか、私は知らない。別に遠慮した訳ではなかったが、つい、聞いたことがないのである。とにかく三十に間があることだけは確かだ。
マリヤンの容貌が、島民から見て美しいかどうか、これも私は知らない。醜いことだけはあるまいと思う。少しも日本がかった所が無く、また西洋がかった所も無い(南洋でちょっと顔立が整っていると思われるのは大抵どちらかの血が混じっているものだ)純然たるミクロネシヤ・カナカの典型的な顔だが、私はそれを大変立派らと思う。人種としての制限は仕方が無いが、その制限の中で考えれば、実にのびのびと屈託の無い豊かな顔だと思う。しかし、マリヤン自身は、自分のカナカ的な容貌を多少恥ずかしいと考えているようである。というのは、後に述べるように、彼女は極めてインテリであって、頭脳の内容はほとんどカナカではなくなっているからだ。それにもう一つ、マリヤンの住んでいるコロール(南洋群島の文化の中心地だ)の街では、島民らの間にあっても、文明的な美の標準がはばをきかせているからである。実際、このコロールという街――其処そこに私は一番永く滞在していた訳だが―には、熱帯でありながら温帯の価値標準が巾をきかせている所から生ずる一種の混乱があるように思われた。最初この町に来た時はそれほどに感じなかったのだが、その後一旦此ここを去って、日本人が一人も住まない島々を経巡へめぐって来たあとで再び訪れた時に、この事が極めてハッキリと感じられたのである。此処では、熱帯的なものも温帯的のものも共に美しく見えない。というより、全然、美というものが―熱帯美も温帯美も共に―存在しないのだ。熱帯的な美をつはずのものも此処では温帯文明的去勢を受けてしなびているし、温帯的な美をつはずのものも熱帯的風土自然(殊にその陽光の強さ)の下に、不均合ふつりあいな弱々しさを呈するに過ぎない。この街にあるものは、ただ、如何にも植民地の場末といった感じの・頽廃たいはいした・それでいて、妙に虚勢を張った所の目立つ・貧しさばかりである。とにかく、マリヤンはこうした環境にいるために、自分の顔のカナカ的豊かさを余りよろこんでいないように見えた。豊といえば、しかし、容貌よりもむしろ、彼女の体格の方が一層豊かに違いない。身長は五尺四寸を下るまいし、体重は少しせた時に二十貫といっていた位である。全く、うらやましい位見事な身体であった。
私が初めてマリヤンを見たのは、土俗学者H氏の部屋においてであった。夜、狭い独身官舎の一室で、畳の代りにうすべりを敷いた上に坐ってH氏と話をしていると、窓の外で急にピピーと口笛の音が聞え、窓を細目にあけた隙間から(H氏は南洋に十余年住んでいる中に、すっかり暑さを感じなくなってしまい、朝晩は寒くて窓をしめずにはいられないのである。)若い女の声が「はいってもいい?」と聞いた。オヤ、この土俗学者先生、なかなか油断がならないな、と驚いている中に扉をあけてはいって来たのが、内地人ではなく、堂々たる体軀の島民女だったので、もう一度私は驚いた。「僕のパラオ語の先生」とH氏は私に紹介した。H氏はパラオ地方の古潭詩こたんしの類を集めて、それを邦訳ほうやくしているのだが、その女――マリヤンは、日を決めて一週に三日だけその手伝いをしに来るのだという。その晩も、私を側に置いて二人はすぐに勉強を始めた。
パラオには文字というものが無い。古潭詩は凡てH氏が島々の古老に尋ねて歩いて、アルファベットを用いて筆記するのである。マリヤンはまず筆記されたパラオ古潭詩のノートを見て、其処に書かれたパラオ語の間違まちがいを直す。それから、訳しつつあるH氏の側にいて、H氏の時々の質問に答えるのである。
「ほう、英語が出来るのか」と私が感心すると、「そりゃ、得意なもんだよ。内地の女学校にいたんだものねえ」とH氏がマリヤンの方を見て笑いながら言った。マリヤンはちょっとてれたように厚いくちびるほころばせたが、別にH氏の言葉を打消しもしない。
あとでH氏に聞くと、東京の何処とかの女学校に二、三年(卒業はしなかったらしいが)いたことがあるのだそうだ。「そうでなくても、英語だけはおやじに教わっていたから、出来るんですよ」とH氏は附加えた。「おやじといっても、養父ですがね。そら、あの、ウィリアム・ギボンがあれの養父になっているのですよ。」ギボンといわれても、私にはあの浩瀚こうかんなローマ衰亡史の著者しか思い当らないのだが、よく聞くと、パラオでは相当の名の聞えたインテリ混血児(英人と土民との)で、独領時代に民俗学者クレエマア教授が調査に来ていた間も、ずっと通訳として使われていた男だという。もっとも、独逸ドイツ語ができた訳ではなく、クレエマア氏との間も英語で用を足していたのだそうだが、そういう男の養女であって見れば、英語が出来るのも当然である。
私の変屈な性質のせいか、パラオの役所の同僚とはまるで打解けた交際が出来ず、私の友人といってもいいのはH氏の外に一人もいなかった。H氏の部屋に頻繁に出入りするにつれ、自然、私はマリヤンとも親しくならざるを得ない。
マリヤンはH氏のことをおじさんと呼ぶ。彼女がまだほんの小さい時から知っているからだ。マリヤンは時々おじさんの所へうちからパラオ料理を作って来ては御馳走する。その都度、私がお相伴に預かるのである。ビンルンムと称するタピオカ芋のちまきや、ティティンムルという甘い菓子などを始めて覚えたのも、マリヤンのお蔭であった。


或る時H氏と二人で道を通り掛かりにちょっとマリヤンの家に寄ったことがある。うちは他の凡ての島民の家と同じく、丸竹を並べたゆかが大部分で、一部だけ板の間になっている。遠慮無しに上って行くと、その板の間に小さなテーブルがあって、本が載っていた。取上げて見ると、一冊は厨川白村くりやがわはくそんの『英詩選釈』で、もう一つは岩波文庫の『ロティの結婚』であった。天井に吊るされた棚には椰子ヤシバスケットが沢山並び、室内に張られたひもには簡単着の類が乱雑に掛けられ(島民は衣類をしまわないで、ありったけだらしなく干物ほしもののように引掛けておく)竹の床の下に鷄どもの鳴声が聞える。室の隅には、マリヤンの親類でもあろう、一人の女がしどけなく寝ころんでいて、私どもがはいって行くと、うさん臭そうな目を此方に向けたが、またそのまま向うへ寝返りを打ってしまった。そういう雰囲気の中で、厨川白村やピエル・ロティを見付けた時は、実際、何だかへんな気がした。少々いたましい気がしたといってもいい位である。尤も、それは、その書物に対して、いたましく感じたのか、それともマリヤンに対していたいたしく感じたのか、其処まではハッキリ判らないのだが。
その『ロティの結婚』については、マリヤンは不満の意を洩らしていた。現実の南洋は決してこんなものではないという不満である。「昔の、それもポリネシヤのことだから、よく分らないけれども、それでも、まさか、こんなことは無いでしょう」という。
部屋の隅を見ると、蜜柑箱のようなものの中に、まだ色々な書物や雑誌の類が詰め込んであるようだった。その一番上に載っていた一冊はたしか(彼女がかつて学んだ東京の)女学校の古い校友会雑誌らしく思われた。
コロールの街には岩波文庫を扱っている店が一軒も無い。或る時、内地人の集まりの場所で、たまたま私が山本有三氏の名前を口にしたところ、それはどういう人ですと一斉に尋ねられた。私は別に万人が文学書を読まねばならぬと思っている次第ではないが、とにかく、この町はこれほどに書物とは縁の遠い所である。恐らく、マリヤンは、内地人を含めてコロール第一の読書家かも知れない。


マリヤンには五歳いつつになる女の児がある。夫は、今は無い。H氏の話によると、マリヤンが追出したのだそうである。それも、彼が度外どはずれた嫉妬家やきもちやであるとの理由で。こういうとマリヤンが如何にも気の荒い女のようだが、―事実また、どう考えても気の弱い方ではないが――これには、彼女の家柄から来る・島民としての地位の高さも考えねばならぬのだ。彼女の養父たる混血児のことは前にちょっと述べたが、パラオは母系制だから、これはマリヤンの家格に何の関係も無い。だが、マリヤンの実母というのが、コロール第一長老家イデイズ家の出なのだ。つまり、マリヤンはコロール島第一の名家に属するのである。彼女が今でもコロール島民女子青年団長をしているのは、彼女の才気の外に、この家柄にもるのだ。マリヤンの夫だった男は、パラオ本島オギワル村の者だが、(パラオでは女系制度ではあるが、結婚している間は、やはり、妻が夫の家に赴いて住む。夫が死ねば子供らをみんな引連れて実家に帰ってしまうけれども)こうした家格の関係もあり、また、マリヤンが田舎住いを厭うので、やや変則的ではあるが、夫の方がマリヤンの家に来て住んでいた。それをマリヤンが追出したのである。体格からいっても男の方がかなわなかったのかも知れぬ。しかし、その後、追出された男がしばしばマリヤンの家に来て、慰藉料ツガキーレンなどを持出しては復縁を嘆願するので、一度だけその願を容れて、また同棲したそうだが、嫉妬男やきもちおとこ依然直らず(というよりも、実際は、マリヤンと男との頭脳の程度の相違が何よりの原因らしく)再び別れたのだという。そうして、それ以来、独りでいる訳である。家柄の関係で、(パラオでは特にこれがやかましい)滅多な者を迎えることも出来ず、また、マリヤンが開化し過ぎているために大抵の島民の男では相手にならず、結局、マリヤンは結婚できないのじゃないかな、と、H氏は言っていた。そういえば、マリヤンの友達は、どうも日本人ばかりのようだ。夕方など、いつも内地人の商人の細君連の縁台などに割込んで話している。それも、どうやら、大抵の場合、マリヤンがその雑談の牛耳を執っているらしいのである。


私はマリヤンの盛装した姿を見たことがある。真白な洋装にハイ・ヒールを穿き、短い洋傘を手にしたいでたちである。彼女の顔色は例によって生々いきいきと、あるいはテラテラと茶褐色にあくまでも光り輝き、短い袖からは鬼をもひしぎそうな赤銅色の太い腕がたくましく出ており、円柱の如き脚の下で、靴の細く高いかかとが折れそうに見えた。貧弱な体軀を有った者の・体格的優越者に対する偏見をつとめて排しようとはしながらも、私は何かしら可笑おかしさがこみ上げて来るのを禁じ得なかった。が、それと同時に、いつか彼女の部屋で『英詩選釈』を発見した時のようないたましさを再び感じたことも事実である。但し、この場合もまた、そのいたましさが、純白のドレスに対してやら、それを着けた当人に対してやら、はっきりしなかったのだが。


彼女盛装姿を見てから二、三日後のこと、私が宿舎の部屋で本を読んでいると、外で、聞いたことあるような口笛の音がする。窓から覗くと、すぐそばのバナナ畑の下草をマリヤンが刈取っているのだ。島民女に時々課せられるこの町の勤労奉仕に違いない。マリヤンの外にも、七、八人の島民女が鎌を手にして草の間にかがんでいる。口笛は別に私を呼んだのではないらしい。(マリヤンはH氏の部屋にはいつも行くが、私の部屋は知らないはずである。)マリヤンは私に見られていることも知らずにせっせと刈っている。この間の盛装に比べて今日はまたひどいなりをしている。色のせた、野良仕事用のアッパッパに、島民並の跣足はだしである。口笛は、働きながら、時々自分でも気が付かず吹いているらしい。側の大籠に一杯刈り溜めると、かがめていた腰を伸ばして、此方に顔を向けた。私を認めるとニッと笑ったが、別に話しにも来ない。てれ隠しのようにわざと大きな掛声を「ヨイショ」と掛けて、大籠を頭上に載せ、そのままさよならも言わずに向うへ行ってしまった。


去年の大晦日おおみそかの晩、それは白々とした良い月夜だったが、私たちは――H氏と私とマリヤンとは、涼しい夜風に肌をさらしながら街を歩いた。夜半までそうして時を過ごし、十二時になると同時に南洋神社で初詣でをしようというのである。私たちはコロール波止場の方へ歩いて行った。波止場の先にプールが出来ているのだが、そのプールの縁に我々は腰を下した。
相当な年配のくせにひどく歌の好きなH氏が大声を上げて、色んな歌を――主に氏の得意な様々なオペラの中の一節だったが――唱った。マリヤンは口笛ばかり吹いていた。厚い大きな唇を丸くとんがらせて吹くのである。彼女のは、そんなむずかしいオペラなんぞではなく、大抵フォスターの甘い曲ばかりである。聞きながら、ふと、私は、それらが元々北米の黒人どもの哀しい歌だったことを憶い出した。
何のきっかけからだったか、突然、H氏がマリヤンに言った。
「マリヤン!マリヤン!(氏がいやに大きな声を出したのは、家を出る時ちょっと引掛けて来た合成酒のせいに違いない)マリヤンが今度お婿さんを貰うんだったら、内地の人でなきゃ駄目だなあ。え?マリヤン!」
「フン」と厚い唇の端をちょっとゆがめたきり、マリヤンは返辞をしないで、プールの面を眺めていた。月はちょうど中天に近く、したがって海は退潮なので、海と通じているこのプールはほとんど底の石が現れそうなほど水がなくなっている。しばらくして、私が先刻のH氏の話のつづきを忘れてしまった頃、マリヤンが口を切った。
「でもねえ、内地の男の人はねえ、やっぱりねえ。」
なんだ。こいつ、やっぱり先刻からずっと、自分の将来の再婚のことを考えていたのかと急に私は可笑しくなって、大きな声で笑い出した。そうして、なおも笑いながら「やっぱり内地の男はどうなんだい?え?」と聞いた。笑われたのに腹を立てたのか、マリヤンはっぽを向いて、何も返辞をしなかった。


この春、偶然にもH氏と私とが揃って一時内地へ出掛けることになった時、マリヤンは鶏をつぶして最後のパラオ料理の御馳走をしてくれた。
正月以来絶えて口にしなかった肉の味に舌鼓したづつみを打ちながら、H氏と私とが「いずれまた秋頃までに帰って来るよ」(本当に、二人ともその予定だったのだ)と言うと、マリヤンが笑いながら言うのである。
おじさんはそりゃ半分以上島民なんだから、また戻って来るでしょうけれど、トンちゃん(困ったことに彼女は私のことをこう呼ぶのだ。H氏の呼び方を真似たのである。初めは少し腹を立てたが、しまいには閉口して苦笑する外は無かった)はねえ。」
「あてにならないというのかい?」と言えば、「内地の人といくら友達になっても、一ぺん内地に帰ったら二度と戻って来た人は無いんだものねえ」と珍しくしみじみと言った。


我々が内地へ帰ってから、H氏の所へ二、三回マリヤンから便りがあったそうである。その都度トンちゃんの消息を聞いて来ているという。
私といえば、実は、横浜へ上陸するや否や、たちまち寒さにやられて風邪をひき、それがこじれて肋膜ろくまくになってしまったのである。再び彼の地の役所に戻ることは、到底覚束無おぼつかない。
H氏も最近偶然結婚(随分晩婚だが)の話がまとまり、東京に落着くこととなった。もちろん、南洋土俗研究に一生を捧げた氏のこと故、いずれはまた向うへも調査に出掛けることがあるだろうあ、それにしても、マリヤンの予期していたように彼の地に永住することはなくなった訳だ。
マリヤンが聞いたら何というだろうか?


 

注釈 編集


 

この著作物は、1942年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


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