ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第1章
第1巻
編集第1章
編集― 神は理解不能な存在であり、聖なる預言者、使徒、福音伝道者によって伝えられていない事柄を詮索したり干渉したりすべきではない。
神を見た者は誰もいない。父の懐にいる独り子が神を告げたのだ[1]。したがって、神は言い表すことも理解することもできない。子を除いて父を知る者は誰もおらず、子も父を除いてはいない[2]。そして聖霊もまた、人の霊が自分の内にあるものを知るのと同じように、神に関することを知っている[3]。さらに、最初の祝福された性質の後では、人間だけでなく、超世俗的な力を持つ者、ケルビム、セラフィム自身でさえ、神が自らを現した者を除いて、神を知る者はいない。
しかしながら、神は我々を全くの無知のままに放置はされなかった。なぜなら、神の存在についての知識は、神によってすべての自然の中に植え付けられているからである。この被造物も、その維持と統治も、神性の威厳を宣言している[4]。さらに、昔は律法と預言者[5]によって、また後には、神の独り子、我々の主、神、救世主であるイエス・キリストによって、神は我々に可能な限りにおいて、神自身についての知識を我々に明らかにされた。それゆえ、律法と預言者、使徒、福音伝道者によって我々に伝えられたすべてのものを受け入れ、知り、尊重する[6]。それ以上のことは何も求めない。なぜなら、神は善であり、すべての善の原因であり、嫉妬やいかなる情熱にも左右されないからである[7]。嫉妬は、情熱がなく善のみである神性から遠く離れているからである。このように、神はすべてのことを知っており、各人に有益なことを備えているので、私たちが知ることが有益なことを明らかにされましたが、私たちが耐えられないこと[8]は秘密にされました。これらのことで私たちは満足し、永遠の境界を越えたり、神の伝統を無視したりすることなく、これらを守りましょう[9]。
脚注
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