ニカイア以前の教父たち/第3巻/倫理的論文/祈りについて/第六句
第3巻
編集祈りについて。
[S. テルウォール牧師による翻訳]
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第7章 第六句
神の寛大さを熟考した後で[1]、同じように神の慈悲深さについて語るのも良いことだった。もし私たちが本当に 餌食となる雄牛のように、食物[2]に委ねられているのなら、それが私たちにとって何の役に立つというのだろう[3]。主はご自身が唯一の罪のない方であることを知っておられたので、私たちは「負債を免除していただく」ようにと懇願するようにと教えておられる。赦しを求める嘆願は完全な告白である。なぜなら、赦しを懇願する者は自分の罪を完全に認めているからである。このようにして、悔い改めは、罪人の死よりもそれを望んでおられる神に受け入れられると示される[4]。さらに、 聖書では、負債は罪の象徴である。なぜなら、それは判決に等しく従わなければならないものであり、判決によって強制されるからである。また、たとえ話の中で主人が奴隷の負債を免除したように、強制が免除されない限り、強制の正当性を免れることはできない[5]。というのは、このたとえ話全体の範囲はここに向けられているからである。また、同じ僕が主人によって解放された後、自分の債務者を同じように容赦せず、そのために主人の前で非難され、最後の一コドラント、つまりどんなに小さな罪でも、すべての罪を償うために拷問者に引き渡されるという事実は、「私たちも債務者に免除します」という私たちの告白と一致している。実際、他の箇所でも、この祈りの形式に従って、イエスは「免除しなさい。そうすれば免除されます」と言っている[6]。また、ペテロが兄弟に免除が7回与えられるべきかどうかという質問に対して、「いいえ」とイエスは言った。「77回です」[7]。これは、律法をより良いものに作り直すためである。なぜなら、創世記では、復讐はカインの場合「7倍」とされているが、レメクの場合「77倍」とされているからである[8]。
脚注
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