ニカイア以前の教父たち/第3巻/倫理的論文/祈りについて/第二句
第3巻
編集祈りについて。
[S.テルウォール牧師による翻訳 ]
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第3章 第二句
「父なる神」という名前は誰にも公表されていなかった。まさにその点について神を尋問したモーセでさえ、別の名前を聞いていた[1]。それは子において私たちに明らかにされた。なぜなら、子は今や父の新しい名前だからである。「わたしは父の名によって来た」[2]、また「父よ、み名の栄光をあらわしてください」[3]、そしてもっと公然と「わたしはみ名を人々に示しました」[4]と、彼は言う。それゆえ、その名前が「聖化されますように」と私たちは祈る。神が他の誰か[5]によって良くなるよう願ったり、私たちがそう望まない限り神が苦しむかのように、人々が神の良くなるように願うことがふさわしいということではない。明らかに、神があらゆる場所とあらゆる時に祝福されることは[6]、すべての人が常に受けるべき神の恩恵の記憶のために、普遍的にふさわしいことである。しかし、この祈りは祝福の役目も果たす。そうでなければ、神の名が「聖なる」ものでなく、神自身を通して「神聖化され」ていないことがあるでしょうか。神はご自身によって他のすべての人を聖別するからです。天使たちは神に向かって「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と絶えず唱えています [7]。それゆえ、同じように、私たちも天使候補者として、それにふさわしい者となれば、この地上にいても、神のもとに引き上げられるための努力と、将来の栄光の役割を暗記し始めます。ここまでは、神の栄光のためです。一方、私たち自身の願いとして、「御名が聖とされますように」と言うとき、私たちはこう祈ります。神のうちにいる私たちだけでなく、神の恵みをまだ待っている他のすべての人においても、御名が聖なるものとされますように[8]。私たちも、この戒めに従って、「すべての人のために祈る」ことができますように [9]。個人的な敵に対しても[10]。それゆえ、私たちは、「私たちの中で聖別されますように」とは言わずに、口をつぐんで、「すべての中で」と言います。
脚注
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