ニウルンベルクの名画
ニウルンベルクの名画
一
ニウルンベルクの古城内で、有名な様々の拷問道具を見物して、少し憂鬱になった松坂
ニウルンベルクはベルリンの南、急行列車で十時間行程に当り、ミュンヘンの少し手前にある南ドイツ有数の都会で、人口三十三万と称するのだが、中世紀都市の姿をそのまま残し伝えている事、他に比類なしと云われているだけに、
さて、松坂はこの
そのうちに彼は狭苦しい横丁の突当りとも通抜けられるともつかない所に、軒の傾いた古いうちにも特別に古い家があって、その二階の壁にその
もしこの料理店が誇り得べき何ものかを持っているとしたら、それは数百年と云う古さだけだった。
しかし、彼は直ぐに後悔した。期待した料理は
ドイツ人の癖として昼飯にも
そこは小さい広場になっていた、つまり日本で云えば長屋の共同干場と云ったような所だったが、その広場を越えて向うの、この料理店と比較して、決して年代の新しくないと思われる所の、崩れかかったような家の窓際に、何かに
しかし、松坂の眼を惹いたのはその少女ではなかった。少女の肩越しに見える室の突当りの壁に描っている所の、煤けた古い油絵の額が、彼の眼についたのだった。
松坂は日本を出てから三年、ドイツに来てから二年程になっていた。一体彼がどうして洋行を思い立ったかと云うと、彼は父の遺して行った多くの事業を継承して、経営して行くと云う事が煩わしくて
彼は外国に来て、ホッと息をついた。始〔ママ〕めて安住する所が見つかったと思った。ここでは何をするにしても、故国のように周囲の人に一々
彼は彼の父の意志に従って、法科を出たけれども、彼は元来そんな事は嫌いで、文学的な方面が好きで、云わば一個の芸術愛好者だった。で、父親が死ぬと直ぐに好きな道に走り、事業の方は他人委せて、こうして外国に遊学に出て、言葉がいくらか出来る関係から、ドイツに落着いたのだったが、
当初文学を研究しようと、志していた彼の考えはいつか絵画の方に変っていた。と云っても飽くまで芸術愛好家である彼は、単に鑑賞家であるに
そんな訳で、彼の絵画に関する鑑賞力は頗る怪しいものだった。彼は日本にいる時は、絵画殊に洋画には甚だ冷淡で、展覧会などでも、洋画は素通りしてしまう位だった。ところが、外国へ来て方々の美術館で古来の名画と云われているものを見ると、考えがガラリと変った。日本人の洋画は欧米のどの国に出しても、少しも恥かしくないものだそうではあるが、やはり画そのものが西洋のもので、日本人にしっくりしない、どこかに隙があるように思える。ところが西洋の土を踏んで、西洋画を見ると、それが西洋人の筆になろうとも、日本人の画いたものであろうとも、何となく迫って来るものがあるように思えるのだった。殊にそれが名画として、何人からも許されているものであればあるだけ、一層頭が下るような気がした。
彼は金と暇に
そのうちに彼は名画を所有したいと云う慾望を起すようになった。と云っても、著名な美術館に珍蔵されている名画が手に入る訳がない。彼はそれらの模写で我慢をしなければならなかった。一口に模写と云っても後世の名工が写したのもあるし、中には原画に劣らぬ声価を持っているものもある位で、それらのものを蒐めるために、彼は少なからぬ金を投じた。
彼は又一方では埋もれた名画を
こう云う有様だったから、今彼がニウルンベルクの料理店の窓から、隣家の貧しそうな家に掛っている古ぼけた油絵に眼を光らしたのも、決して不思議ではなかった。いや、不思議どころではない、今度の彼の旅行は全くこうした目的のためだったので、現に彼はミュンヘンで、かなり多くの古画を買ったので、ニウルンベルクは人も知る一代の巨匠アルブレヒト・ヂウラーが、十五世紀から十六世紀にかけて、遙かに
松坂は早々に払いを済ますと、直ぐに裏に廻って、青白い顔をした少女の家を叩いて、古い油絵を見せてくれるように頼んだ。
少女と
油絵を一目見ると、彼はもうすっかり惚れ込んでしまった。絵は一度洗って見なければ何が描かれているのか分らぬ程汚れて、頑丈な額縁も真黒に煤けていたが、どうやら四使徒の一人が描かれているらしく、筆触もヂウラーか、余程ヂウラーに近い画家のもののように思えるのだった。
「私は日本人で、こう云う古い絵に深い趣味を持っているものだが、この絵を譲って貰えないだろうか」
松坂は主婦に向って単刀直入に切出して、彼女に取ってはかなり莫大な金額を提供した。
「これは先祖から伝っているものだで」主婦はちょっと当惑したような顔をしたが、結局金の誘惑には勝てなかった。「でもなあ、この絵もそう云う好きな人の手に這入って、大切にして貰ったら、
彼女は青白い顔をした少女を振向きながら優しく呼びかけたが、急に早口になって、彼女が早く夫に死別した事、長男と次男とを戦争のために死なした事、戦後の革命騒ぎですっかり無一文になってしまった事などを、涙
松坂は好い加減に彼女をあしらいながら、とうとう彼のつけた値で、その古ぼけた画を買取る事に成功した。
画がいよいよ運び出されようとする時に、主婦は画の前に
松坂も嬉しさを嚙み殺しながら、荷造された画をベルリンの彼の下宿に送り届けさせるべく、町の運送屋を指図した。彼はこの時に、後年この画のために、日本で奇妙な事件を惹き起そうなどとは、無論、夢にも考えていなかった。
その夜彼はニウルンベルクの一室で、今日の思わぬ収獲を喜びながら、快い眠りについていた。
二
南ドイツの旅行を
その中には無論ニウルンベルクで手に入れた例の古画があった。彼はその画をベルリンに持って帰え〔ママ〕ると、直ぐ専門家に洗わしたが、予期したような署名が現われなかったので、二三の知人の画家に見せたところ、ヂウラーの筆だと云う者もあれば、むしろヂウラーの師ミカエル・ウォールゲムートだと云う者もあり、ヂウラー門下の
長い航海の後に故国の姿が見えるようになると、流石に松坂の胸はときめいて来た。三年振りで彼を迎えてくれる近親や親しい友人の顔が急に懐しく思い出されて、帰って来て好かったと云う風にホッと息をついた。日本を不愉快とのみ思っていたのは、彼の感傷的な誇張だったので、やはり日本人だったと云う事が
しかし、故国の土に足を掛けた第一歩で、彼の幻影は破られてしまった。
それは思わざる税官吏の無理解だった。彼等は奢侈品と云う名目の
ところが、上陸第一歩に不愉快な目に遭った彼は、それから後、事々に不愉快を重ねて行かねばならなかった。
彼が呼び返された理由の一つは、関係事業会社が近来の深甚な不景気のために、経営が困難となって来たので、時の政府の救済を仰がねばならず、そのためには当主たる彼が中心となって、要路の大官の意を迎えなければならないと云う事だったので、彼は帰朝後度々盛大な宴を張って、高位高官の人を招待して、御機嫌を取らなければならなかった。そうした事も彼には実に不愉快だった。
帰朝後間もなく、彼は矢張りそうした政略的の意味で、彼の邸宅へ政治家としてのみならず財界にも隠然大勢力を持っている某侯爵を招待した。宴後彼は広間で侯爵に彼の蒐集の一部分である欧米の古画を観せた。この時には彼は老侯爵の機嫌を取って、自分の事業を救おうなどと云う利己的な考えは一切忘れてしまって、蒐集家がその愛蔵品を他人に示す時に覚える所の、真に心からの喜びを持って、一つ一つの画の来歴を説明した。
老侯爵はひどくニウルンベルクの名画が気に入ったようだった。彼は老眼鏡を手に持ち添えて、
当時の習慣によると、この財界並に政界に〔ママ〕巨頭である老侯に賞讃された品は、何品によらず彼に献上しなけれはならなかった。そうした事が老侯の意を迎えるのに最も有効だったので、老侯を招待した実業家は何品かが老侯の眼に触れる事を
で、松坂はニウルンベルクの名画を老侯に献じなければならなかった。折角掘出して、虎の子のように秘蔵していたものを、ムザムザ人手に渡すのは甚だ惜しかったけれども、相手が老侯爵であるし、又老侯爵によってああまで激賞せられた事も、松坂に取っては嬉しかった事なので、彼は卑しい利己的な政策を離れて、むしろ喜んで老侯に献上を申出たのだった。老侯は無論機嫌よく彼の申出を受け入れた。
ところで、このニウルンベルクの名画がこのまま無事に老侯爵の手に納まれば、この物語もこれ以上に発展をせず、終結を告げたかも知れないが、ここで一つの変事が起ったので、むしろこれを発端として、事件は意外な方面に展開したのだった。
と云うのは、老侯を招待した日の翌日、ニウルンベルクの名画を侯の邸に届けようとすると、驚いた事には、一夜のうちに名画は消失してしまって、影も形もなくなっていたのだった。画を納めた広間の戸締りはそのままちゃんと鍵が掛っていたのみならず、他にあった二三の画は無事で、ただニウルンベルクの名画だけが紛失したと云う不思議極まる事だった。
松坂邸は上を下への大騒ぎになった。鶴輔はニウルンベルクの名画が紛失したと聞くと、彼の愛蔵
今まで書く機会がなかったが、ニウルンベルクの名画は十号大のもので、それに幅の広い頑丈な縁がついていたから、畳一枚の半分の
これらの人々は無論厳重に調べられたが、少しも有力な手掛りも見出されず、名画はまるで空気中にでも発散したように、消え失せてしまったのだった。
こうして二三日うやむやのうちに過していると、奇怪な噂が立ち初〔ママ〕めた。それは松坂が名画を一旦老侯に贈呈する約束はしたものの、急に惜しくなって、彼自身の手でどこかに隠して、盗まれたように云い触らしたのだと云うのだった。部屋の
帰国早々税関吏との不愉快な折衝をして以来、事々に不愉快を重ねた松坂の不機嫌はその絶頂に達して、一刻も早くこの不愉快から免れたいと念じたが、ただいらいらする
三
ニウルンベルクの名画が紛失してから三日目の晩、松坂は寝られないままに、書斎の椅子に
松坂の頭には滞欧時代の楽しい追憶が浮び出て来た、かと思うと、直ぐそれは現在の苦々しい事件を思い出す事に依って、ぶち壊された。彼はその対策について考慮を巡らした。が、彼の頭には又間もなくもニウルンベルクで画を買い取った時の光景などが、
と、静かに
「えー、
彼は一気にこれだけの事を云うと、気遣わしそうに松坂の顔を見上げた。流石に頑固一徹の彼も、この二三日、名画の紛失と云う重大事件に突当って、一方では主人の不機嫌を一身に引受けるし、一方では警官や私立探偵や新聞記者から、うるさい訊問を浴せかけられながら、邸内の捜索やそれからそれへと詮議をしなければならないので、心身ともに疲れ果てていると云う風だった。しかし、今晩は何事か余程決心をしたと見えて、そうした疲れの中にもきっとした態度を示して、松坂を見上げた眼の中には、一種異様な光りがあった。
「何だね、改って――」
松坂は
「御立腹になりますと、恐縮いたしまするので、どうか是非御立腹なく
「腹なんか立てやしないッ!」松坂は怒鳴った。「早く云っておしまい」
「は、は」執事はひどく恐縮しながら、「それでは申上げまするが、
「何だって?」松坂には呑み込めなかった。
「御前様がどちらかへ御納めになりました例の画でござりまするが――」
「お黙りッ!」老執事が何を云っているのかが分ると、松坂は真赤になった。「お前はわしがあの画を隠しているとでも云うのかッ!」
「は、はい」粕谷老人はうろうろしながら、「そ、その御立腹は誠にはや、是非もなき儀でござりまするが、画は確かに先夜御前様がいずれへか御
「ば、馬鹿な」
松坂は余りの事に口も利けなかった。信頼し切っている、永年忠勤を尽してくれた柏谷老人にまで、世間で取沙汰されているような考えを持っていられるのかと思うと、彼はあたかもシーザーが刺される時に当って、ブルタス〔ママ〕お前もかと云つた、その気持〔ママ〕に似たものを感じて、つくづく情けなくなつた。
「御前様のお惜しみ遊ばすのも御尤もでござりまするが。侯爵様の御機嫌を損じまする事は、誠にはや、
老執事は松坂の沈黙したのに乗じて、不興を
余りに予期しない言葉だったので、半ば上の空で聞流していた松坂は、ふと、一体彼はただ世上の風評を聞いて、一途に自分が名画を隠したように思い込んでいるのだろうか。それとも他に何か彼にこう信じさせる事実でもあるのかと考えついたので、静かに彼を制しながら訊いた。
「お前の云う事は少しも分らんが、一体お前は何か理由があってそんな事を云うのか」
「御前様」彼は情けなそうに松坂の顔を見上げた。「お隠し遊ばしても駄目でございまする。あの晩、夜中に御前様が広間から画を
「なにッ!」松坂はいよいよ
「はい」老執事はすっかり覚悟を
老人の云う所は条理整然としていて、真実
と、突然、荒々しく
「粕谷さん、た、大変です。直ぐ来て下さい」
粕谷老人は書生の大袈裟な態度を
彼は幾分悄然としていた。しかし、別に取乱した様子もなく、はっきりした声で松坂に報告した。
「御前様。伜の繁松が何者かに殺されましたそうでござりまする」
四
「えっ」
老執事の意外な報告に、我が耳を疑うように問返え〔ママ〕した松坂は、彼から返事を聞く事が出来なかった。と云うのは扉が開いて、二人の男がツカツカと彼の傍に来たからである。
「やあ」
一人の男はいきなり声をかけたが、それは思いがけなくも松坂の親友の
「全く偶然なのだ。今晩宴会があってね、つい遅くなっての帰り路、自分で自動車を飛ばしたんだが、
一息に話をすますと、八巻は傍の人を指したので、松坂は始〔ママ〕めて、つくづくその人を見た。が、なんと云う奇怪な人相の男だろう。彼は人並より余程背が低く〔ママ〕かったが、顔は又人並外れて大きかった。それに西洋人のように
「私も偶然通り合せましてな、殺された人がこのお邸の人だと云う事で、興味を持ったと云っちゃ悪いですが、何も〔ママ〕縁だと思いましてな、ちよっとお邪魔に上りましたよ」
そう云いながら彼は名刺を差出したが、それには手塚龍太と印刷されていた。
松坂は一眼見た瞬間から、この男がひどく気に入らなかった。始〔ママ〕めての家へ押太くツカツカ這入って来た態度も、
「死体は警官の保管に委して来たが」八巻は又話し出した。「死体の傍にはボッチチェリの春の模写らしい、大きな額が一つ落ちていたが、あれは君が今度持って帰ったものじゃないか」
「えっ、ボッチチェリの――」
松坂は意外に思いながら、委しくその画の模様を聞くと、確かに彼が持って帰ったコレクションのうちのものだが、しかし、その画は横浜の保税倉庫の中にある筈なのであった。
ボッチチェリの春の画と云うのは、裸体半裸体の女神達が春の林間に遊び戯れている画で、かつてこの絵の版画が、日本に持ち帰られた時に、税関吏が「春」の画を春画と誤解して、輸入を禁止したと云う笑い話のある有名な画で、この模写は松坂がパリの素人下宿の一室で、三ヶ月間眺め暮して、いよいよ引上げる時に
字幕が読み切れないうちに消えてしまう映画を見ているように、それからそれへと事件が展開して、説明のつかないうちに又次の奇怪な出来事が現われるので、松坂の頭はすっかり混乱してしまって、何が何やら分らなくなり、何か云いたいのではあるが、黙り込んでいるより仕方がないと云う風に、いたずらに渇いた唇を嘗めていたのだった。
「殺されていた方の部屋を見せて頂けないでしょうか」
重苦しい沈黙を破って、突然、異様な容貌の持主手塚が云った。
意外な一言である。
「それはお断りします。迷惑千万な」
「是非見て頂きとう存じます」
と、又もや意外な言葉が、悲痛な顔をして突立っていた粕谷老人の口から洩れ出た。老執事は我子の非業の最期を聞いて、直ぐにも駆けつけたかったのであるが、主人の許しを得なければ絶対にどこへも出かける老人ではない。ところが生憎不意の来客のために、許しを乞う暇もなく、松坂の方でも許しを与えるのを、つい忘れていたので、彼は
「是非伜の
老人がこう云い出したので、松坂も最早仕方がなかったので、手塚の交っている事は嫌だったが、一同で繁松の室へ行く事にした。
繁松の室は
手塚は何を思ったか、ツカツカと無遠慮に室の中に這入って、眼を物凄くグルグルと廻転させたが、彼は机の上から一枚の紙片を取り上げた。
「外国から来た電報だが」手塚は呟いた。「ベルリンから来たものだ。ところが電文はただ一文字Berlin とある
こう独言のように呟くと、彼は電文を彼の傍若無人の態度に呆気に取られている人々の前に差出した。
「この電報について何か御心当りの事がありますか」
「ない」返辞〔ママ〕しない訳にも行かぬので、松坂は渋々答えた。
「私も一向存じません」粕谷老人も渋々答えた。
手塚は返辞〔ママ〕を半分聞流して、又もや鋭く眼を動かして、ツカツカと壁際に寄って、耳を押しつけながら、コツコツと手当り次第に叩き廻った。
余りの事に松坂は最早辛抱がならなかった。言葉鋭く無礼を咎めようとした途端に、手塚の押した壁がグラグラと動いたので、あっと驚いて出しかけた言葉をグッと呑込んだ。
「
手塚はこう憎々しく呟きながら、手を少し動かすと、壁は一
松坂は急がしく二枚の油絵を見廻したが、ニウルンベルクの名画はそのうちに見当らなかった。一枚はルーベン〔ママ〕が彼の美しい妻を描いた画の模写、一枚はレオナルド・ダ・ビンチの最後の晩餐これも同じく模写だったが、この二枚はいずれも
「こ、これは」
予期したニウルンベルクの名画がなかったので些か張合は抜けたが、横浜の倉庫にあるべきこの二枚の画がこんな所に隠してあったのには、松坂は二の句が継げなかった。
「未だ驚く事がありそうじゃ」
一同が啞然としている間に、じっと耳を澄していた手塚は、何か物音を聞きつけたらしく、きっと押入の天井を見上げながら云い放った。
松坂を初め一同はもう手塚の無礼を咎める気などはすっかりなくなっていた。それよりは今は超人的な彼の手腕を信ずるように、彼の言葉を聞くと共に、云い合したように天井を見上げた。
手塚は素早く机と椅子を積み重ねると、軽々と天井によじ登って、暫くゴソゴソしていたが、仕掛けを看破ったと見えて、三尺四方程の穴を開けた。そこから彼は天井裏に這入ったが、やがて、真黒な大きな塊を抱えて、下へ降りて来た。
一同はあっと叫んで後に
「あっ、米田だ!」
五
繁松の室の秘密押入の天井裏に縛って
松坂が呆気に取られていると、粕谷老人はフラフラと倒れかかりながら、唇を
「御前様――お許し下さい――画を、画を
ここまで苦し気に云い続けた粕谷老人は頭をガックリ垂れると、バッタリ倒れた。
松坂と八巻とは驚いて右と左とから、老執事を抱えて、室の隅のベッドの上に静かに置いた。
「大丈夫だろうか」
「大丈夫らしい」
二人は心配そうに会話を交した。
その間に手塚は正気づいた米田を訊問していた。
「お前はどうしてこんな目に遭わされたのか」
眼をキョロキョロさせて
「御手数をかけまして申訳ございません。へい、実はちょっとした事から粕谷さんと喧嘩をいたしやして、かくの通りでございます」
「どう云う事で喧嘩をしたのか」
「それがその、誠に申上げにくいのですが、女の事でございまして」
「黙れ」手塚は大声に〔ママ〕怒鳴りつけた。「貴様は俺を
「決して噓は申しません。全く女のために――」
「見かけによらない
手塚はいきなり米田の腕を取って
「強情な奴だ。よし云わないなら云わないでよし。俺にも考えがある」
手塚は物凄く云い放ったが、松坂の方を向いて、
「この男の室はどこですか。案内して下さい」
「庭の隅の小屋の中です」
松坂はもう逆らわなかった。彼は得体の知れない手塚と云う男の怪腕にすっかり征服されてしまったのだった。手塚は片腕でしっかり米田を引摑みながら、松坂と八巻の後に従った。
例の物凄い鋭い眼で、米田の室をグルリと見廻した手塚は、米田を捕えていた手を放すと、
「あっ」
と云う叫声はガタガタ顫えていた米田の口から洩れたのだったが、それと同時に床板を揚げた手塚は床下から、
「あっ、それは」
今度は松坂が叫んだ。その小さな木切は紛󠄁れもない、ニウルンベルクの名画の額縁の一部分だった。
「紛失した画の縁の切端と見えますな」手塚は松坂の方を見てニヤリと笑ったが、「御覧なさい。今度の事件を解く鍵はこの切端に相違ありませんて」
そう云いながら、彼は
「あっ」
一同の口から、期せずして驚きの声が出たが、中にも米田はあわてて逃げ出そうとして、忽ち手塚に引据えられた。
「このダイヤモンドはどうしたのだ」
手塚は叱るように訊いたが、米田はただうなだれただけで、答えようとしない。
「答えられないか。よし、では俺が代って云ってやろう。貴様は先晩ニウルンベルクの名画が紛失した時、翌朝早く庭の隅でメチャメチャに壊わ〔ママ〕された額縁を見つけたが、ふとその中に光っているダイヤモンドを見出して欲しくなり、宝石の這入っていた部分の縁だけをこうして床の下に隠し、残りは焼いてしまったのだろう」
「――」
「それから今晩はかねて粕谷が税関から画を取出すのを知って、その額の中にも宝石が隠されていると見込をつけて、粕谷の室に忍び込み、あべこべにあんな目に遭わされたのだろう」
「そ、その通りでございます」
超人的な明察に驚いたか、米田はさっと恐怖の表情を浮べながら、平蜘蛛のように恐れ入った。
「はてな」恐縮している米田を尻目にかけて、手塚はダイヤモンドをためつすがめつ見入っていたが、
「このダイヤモンドの切り方は余程古い。数世紀以前のものだ。
手塚は暫く腕を組んでいたが、八巻の方を向いた。
「先刻ボッチチェリとか云う名が出ましたね、あれは頭文字はBですかVですか」
「Bです」だしぬけの奇問に
「そうですか。少し分りかけて来たような気がするぞ」手塚は独言のように云いながら、又松坂の方に向いて、
「とにかく、額縁から出て来たダイヤモンドは余程古いものです。殊によったらこの絵の持主の先祖が隠して置いたのかも知れません」
「え、え」松坂は飛上るように驚いた。
彼の頭にはこの画を買った時の光景がアリアリと浮んで来た。
ニウルンベルクの汚ならしい裏長屋に貧しい生活をしていた老いたる寡婦と、蒼白い栄養不良の干からびたようなその娘、寡婦は隠し切れない喜びの色を浮べながらも、先祖伝来のものを金に換える罪を神に謝していた、そのいじらしい姿が、今でも眼に見えるようである。その時に買取った画の縁に、先祖の一人が高価な宝石を秘め
「私の考えでは今度の事件はこうですよ」手塚は松坂の感傷的な追憶などには一向お構いなしに、ニヤニヤする薄笑いを隠しながら、話し続けるのだった。「ニウルンベルクの名画の中に、こう云うものが隠されていると云う事を粕谷繁松は、どう云う手段だか分らないが、とにかく知ったのですな。そこで彼はゆるゆるそれを取り出そうと思っていたところ、侯爵家へ
「さて、彼は縁から宝石を取出して画を元の所に返えす
「こう云う訳で、繁松は繁松で自分の不利を隠すために、名画を一旦自分の室に持ち込んで、それから盗まれた事はおくびにも出さず、米田は米田で曲者の落として行った縁を焼いてしまいましたから、少しも手掛りがなくなって、あたかも名画が戸締のしてある室の中で、
「ところで、今夜繁松を殺した男は多分ニウルンベルクの名画を盗み出した奴と同一人でしょう。彼は執拗にも又繁松の持っている画を奪おうとして、兇行に及んだものの、八巻さんが自動車で来合せたので、果さずに逃げたのでしょう。この男については私は少し心当りがありますから、警察署に申出て一刻も早く捕まるようにしましょう」
数日の間五里霧中に彷徨して、何の端緒をも得なかった怪事件を、快刀一閃忽ち片づけてしまった手塚龍太はそも何者だろう。松坂は彼の妖異な相好を凝視して、ただ驚くばかりだった。
× × ×
余り長くなるので、出来るだけ簡単に結末を述べるが、犯人は間もなく捕縛せられ、事件は手塚が神の如くに推理した事に寸分違わず解決した。松坂は感謝の余り手塚に巨額の謝礼を出そうとしたが、彼は首を振って受取らず、その代りに松坂が欧州から持って帰った画のうち二三枚を貰い受ける事になった。
松坂鶴輔は手塚を清廉の士として激賞したが、手塚の人格について少しお
「ニウルンベルクの名画事件か。俺はあの事件が
「松坂邸へ乗込んで行くと、トントン拍子に推測が当ったが、ニウルンベルクの名画の縁から出たダイヤモンドが恐ろしく時代の古い上に、どう見ても最初からあの縁に這入っていたとしか思えないので、密愉入だと考えていた俺の考えは少しグラついた。ダイヤモンドはどうしても数百年来その縁の中に這入っていたものに相違ないとすると、粕谷がその事を知ったのも可笑しい、知らないとすると、画を盗む訳がない。で、俺もちょっと困惑したが、ふと思いついたのは、名画の縁から宝石が出たのは全く偶然で、他の画に盗んだ宝石が隠してあるのではないか、と云う事だ。現に繁松も他の画を秘密裡に税関から取出しているではないか。〔ママ〕
「そこで問題は例のベルリンから来たベルリンと云う電文だ。あれはベルリンにいる繁松の仲間からのもので、何かの知らせに相違ない。そこで気がついたのが、繁松の盗んだ画の作者の名さ。ボッチチェリの頭文字がB、ルーベン〔ママ〕がR、レオナルド・ダ・ビンチがL、ニウルンベルクの名画がN、どうだみんなBerlinと云う電文に当て
「思うに殺された繁松と云う男は小才の利く奴で、こっちから送ったのか、又向うにいる奴を
「ところがここに彼が致命的な失敗をしたと云うのはベルリンと云う電文を解き損った事だ。この電文はたしかに宝石の隠されている画を示しているのだからね。ところが、ベルリンにいる彼の仲間は彼の考える程利口な奴ではなく、作者の頭文字を綴るなんて、そんな気の利いた事は出来ないのだ。粕谷はつまり自分の智慧に倒れたのだね。ニウルンベルクの名画には偶然ダイヤモンドが這入っていたが、これは彼の手には渡らなかったし、その他ルーベンにしてもボッチチェリにしても、宝石なんか一
「で、つまり粕谷は哀れにも電文を解き違えて、ニウルンベルクの名画などを盗み出し、そのために殺されるような運命を招いたのだ。では電文はどう云う意味かと云うと、何の事はないその通りさ。ベルリンはベルリンの事で、つまりベルリンから直接発送した画の中に隠してあると云う事さ。シンプルな頭の奴の事はシンプルに考えなくては駄目だ、松坂は都合で四五枚下らない画を直接に横浜まで送っていた。で、その画はと云うと、お礼だと云うので、俺が頂戴したよ」
(「新青年」昭和三年八月号)
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