初等科國語 七/セレベスのゐなか


 セレベスの島影は、どこか日本の山を思はせるやうな姿で、地平線の上に浮かびあがつて來た。
 赤道を越えて南半球へはいると、だれしも遠く來たものだと思はないではゐられないが、今目の前に現れて來た陸地の姿や、木々の色が、フィリピンの島々よりもかへつて日本に近いものを感じさせるのは、意外だつた。ただ、海の色と、空の明かるさと、雲の形が、日本の内地に比べてすばらしくあざやかである。
 南にウォウォニ島を見ながら、船は靜かにスタリン灣へはいる。だが、想像してゐたココ椰子やしの林も、船着き場も、家らしい家さへも見えない。ところで、一面マングローブの林のやうに見える岸べから、せまい水道を通つて、更に袋のやうにひろがつた灣内へはいると、そこにケンダリといふ小さな町があつた。
 船は、淺い珊瑚礁さんごせうを警戒していかりをおろした。
 日は、もう山の端にかくれた。陸地の方から、果物くだものの香氣のやうなにほひをふくんだそよ風が流れて來る。
 あたりには、まだたそがれのかすかな光がただよつてゐて、空と海とが、刻々に千變萬化の美しさを見せる。
 住民たちが、丸木舟でわれわれの船に近づいて來て、「バナナ、バナナ。」といひながら、太いバナナのふさをささげる。日本人のバナナがすきなことを知つて、賣りに來るのである。
「あれは、馬に食はせるバナナだ。とても、なまではまづくてたべられやしないよ。」
と、以前セレベスにゐた人が笑つて敎へてくれた。

 「この道はいつか來た道。」
と歌ひたくなるのが、セレベスのゐなか道であつた。耕されてゐないこんな廣い原野といふものになじみのないわれわれには、森や林の間にひろびろとひろがつてゐる草原が、ふと麥畠のやうに感じられる。ただところどころに、ニッパ椰子や、サゴ椰子や、びんらうが生えてゐるけれども、ここがセレベスだとは思へないほど日本内地の風景によく似てゐる。

 セレベスには、猛獸毒蛇まうじうどくじやがゐないといふ。だが、家の中の机の上に、大きなとかげがちよこんと頭をもたげてすわつてゐたり、大男の手のひらほどもある、黑と黄色のだんだらの蜘蛛くもともとんぼともつかないものが、ふはふは飛んで來たり、毒々しいまでに朱色しゆいろのとんぼが、壁に止つたりしてゐるのを見ると、あの内地の山によく似た山脈の森の中には、どんな動物がゐるのか想像がつかない。
 朝日の出前から、うつそうと茂つた林の中では、うぐひすそつくりな鳥の聲や、今まで聞いたこともない笛を吹くやうな調子で鳴く奇妙な鳥の聲がする。
 朝の涼しさは、その鳥の聲とともに内地の春を思はせるのであるが、やがてぎらぎらと太陽が中天にのぼると、燒けつくやうな暑熱しよねつが地上を支配する。この炎天えんてんのもとのはるかな草原に、大きなすすきの穗が波のやうに搖れ、とんぼが飛びかふのを見てゐると、これが夏なのか秋なのかと考へてみたくなる。

 夜が來て、山脈の上の黑水晶のやうにつやつやした大空に、南十字星がかかつて、あたり一面が虫の聲に滿たされ、木々の間に無數のほたるが群がつて靑白い光を見せ始めると、世界は太古のやうな靜けさの中へはいつて行く。
 住民のまばらな、廣大なセレベスの夜の靜けさは、内地の都會や町に住む人々には、想像もつかないであらう。
 今は二月、内地ではまだ寒い風が吹いてゐるであらうに、四季しきのないセレベスのゐなかでは、窓を開けはなし、かやをつつて、きらきらと輝く南半球の星を眺めながら寝につくのである。