- 著作者:文部省
- 底本:『初等科國語 七』(1943年)
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赤道下のボルネオにも、こんなに氣持のよい町があつたのかと驚かされるのがクチンである。
クチンは、ボルネオ島の北西岸、海に面して細長くのびた舊サラワク王國の首都である。
サラワク川の川口から、廣々と流れる濁流をさかのぼること約三四時間、右岸一帶に打ち續くうつそうとした密林が切れて、白い壁に赤い屋根の建物がずらりと川岸に立ち並んで見える。これがクチンである。
川にそつて作られた數本の鋪装道路の兩側には、雜貨店と呉服店を中心に、南洋のどこの町にも見られるあの支那風の商店が、ぎつしりと軒を並べてゐる。さうして、この町も他の町々と同じやうに、商店の持主はほとんど華僑である。
その店先は、赤や黄色のあざやかな花模樣を散らした更紗地と、すきとほるやうな水色や、赤や、緑の薄いきれ地などがいつぱいにかざられ、それが強烈な南洋の光線に照り映えて、まぶしい色どりをただよはしてゐる。
町を歩いてまづ感じることは、このやうな商店街が思つたよりも淸潔であり、きちんと整つてゐることである。上海や廣東あたりの支那街の、あのごつた返したやかましさは見られない。
商店街からのびた數本の鋪装道路は、町とせなか合はせに續いてゐる美しい傾斜面と、緑濃いゴム林におほはれた公園地帶の間を走つてゐる。さうして、赤屋根の住宅が、あちらこちらの緑の中に點在してゐる。
サラワク特産のオランウータンの子どもが、大きな頭を振りながら時々現れて來ては、日本の兵隊さんたちを喜ばすのもこのあたりである。これはたいてい人に飼ひならされたもので人を見るとへうきんなかつかうをして、なつかしげに近寄つて來る。オランウータンは猿の一種で、その一擧一動がをかしいほど人間に似てをり、舊サラワク王國時代には、これを國外へ出すことを禁じて保護してゐたものである。
住宅の周圍には、すくすくとのびたゴムの木立が緑色の涼しいかげを作つてをり、木立の間を流れる空氣はひえびえと澄みきつて、パイナップルのにほひがあたりに滿ちてゐる。
ここの住宅地に明け暮れを送ると、しばしば北緯一度半の熱帶にゐることを忘れてしまふ。あの不愉快な蚊もゐなければ、蠅もゐない。燒けつくやうな眞晝の暑さは、緑色の涼しい木かげでさへぎられ、夜になると、窓から山のいぶきが水のやうに流れ込んで來る。
家のまはりのゴム林には、名も知れない鳥が來て鳴き始める。それは、明け方になるにつれて激しく、夜明け前の一時間ぐらゐに最高潮に達する。何千何百といふ數知れない小鳥たちが、いつせいに歌を奏する。よく晴れた朝など、この一大交響樂にしばしば目をさまされることがある。
ボルネオの雨季は、十月に始つて三月ごろに終る。このころになると、北東の季節風が吹き始め、一日に何回となく激しいスコールがおとづれる。中でもクチンのスコールは、よそでは見られないほど猛烈なものである。大粒の雨が、ものすごい音をたててゴムの葉をたたき、しぶきをあげ、一間先も見えなくなるくらゐ降り續く時は、息苦しくさへなつて來る。
それに雷が多い。今にも頭上に落ちかかるかと思はれるやうな、激しい雷が鳴り響く。スコールの荒れる夜など、すぐ目の前のゴムの木の根へ、耳をつんざくやうな雷鳴とともに、幅廣い稻妻が鋭く切り込む時など、實にすさまじい光景である。
ボルネオの住民であるダイヤ族は、クチンでも大部分を占めてゐる。
ダイヤ族には、陸ダイヤと海ダイヤとの二種族がある。海ダイヤ族は、男女ともに胸から兩手・顔にかけて、たくさんの入れ墨をしてゐる。主として海べに住み、すなどりを業としてゐるが、性質が荒つぽく、海賊を働いたり、今でも人の首を取つたりする惡習が殘つてゐる。陸ダイヤ族は、これに反し性質が從順なので、海ダイヤ族に追はれて陸地深く逃げ込み、農耕をしてゐる。クチンあたりに住んでゐるのは、入れ墨も少く、小がらで柔和な顔をしてゐる。かれらは、二三百戸ほどづつ集つて生活してゐる。毒虫と濕氣から逃れるために、部落全體は、高さ一丈ぐらゐの竹で作つた床の上にできてゐる。
廣い竹張りの廊下が部落の眞中を走り、その兩側に、竹と椰子の木で作つた長屋がずらりと並んでゐる。どの家も同じ作りで、家の中に小さな通路があり、廊下へ出なくてもその通路をくぐれば、部落全體の家をたづねることができる仕組みになつてゐる。床下には、豚や、鷄が飼つてある。廊下は、いはば部落の大通である。
女たちは、勤勉に働いて家を守つてゐる。廊下にもみを干し、小さな木臼を圍んで米をつく。そのきねは、月の世界の兎がつく餅つきのきねとそつくりである。女たちは、すわつて針仕事もすれば、陸稻(をかぼ)の草取りから刈入れまでする。かれらは水浴がすきである。朝夕、部落のほとりを流れる淸流にはいつて、部落の人たちがそろつて水浴する眺めは壯觀である。
その他、マライ人がたくさん住んでゐる。マライ人はいちばん進んでゐて、勢力もある。男女ともサロンをまとひ、女は日本風のじゆばんを着てゐる。髮も束髮(そくはつ)のやうに結つてゐる。
マライ人の女たちが、夕方など、こんな姿で子どもをだいて門口に立つてゐるのを見ると、ふと九州のゐなかへ行つたやうな氣持になることがある。それほど日本人に似た姿である。そればかりではない。何十年も昔から、ほんたうの日本人も住んでゐる。この地に住みついた日本人の男女を見ると、マライ人とほとんど區別がつかないほどである。マライ人も水浴がすきである。かれらは、これをマンデーと呼んでゐる。夕方小川などは、サロンのままマンデーをするマライ人でいつぱいである。
支那人は、どこへ行つてもさうであるやうに、ここへも支那の生活をそのまま持ち込んでゐる。團結力の強いかれらは、またたくまに支那街を作り、そこに支那でやつて來たのとそつくりそのままの生活と習慣とをくりひろげる。土地の習慣や生活には目もくれない。かれらは、自分たちだけの世界を築きあげる。それは、見てゐると自信に滿ちた生活ぶりである。