- 御出生以来千六百三年 慶長八卯四月下旬
- コンチリサン〈悔い改め〉の畧 (一に十七ヶ條とも稱す)
人の上に大事の中の一大事というは、霊魂の扶かりという事、是に因りて一切人間の御扶手にて在す御身耶蘇の御金言に、「いかに人、偏界を掌に握るといふ共、其身のアニマを失はば、何の益ぞ」と宣へり。叉「アニマの助かりを如何なる財寳にも豈替んや」と宜へり。されば此アニマの助かりの為に勝れたる勤といふは、コンチリサンとて真実の後悔なり。かるがゆゑに、此書を二様のことを志して記すもの也。一つには此覚悟、何れの切支丹の為にもなるといへども、別してコンピサン〈告解〉を聴るべき神父のなき所は、科に落ちたる切支丹、此書を読明らめ、教の如く勤めば、其科を赦され、天主のガラサを蒙り奉り、終に天の快楽を請奉るべき道を知らせんため也。二つには、何れの道にても死するに於ては、人の最期の勧をなすべき人、此書を読聞かするか、又は此趣を語り聞かするかを以て、人のアニマを導かしめん為也。是別してコンヱソル[1]無所にて勝れたる勤なり。茲に心得べき事あり、死するに近き人は、未だ其隙あらば、此一巻を悉く示すべし。若し早時窮り、暇なきにおいては、初めの一ヶ條の内、第三第四の心得と、第二ヶ條、第四箇條の理を読聞かするべし。但し又是れ相叶はぬ程の急死ならば、責めて第四箇條目に載する處のオラシヨを勧むべし、若し其人口禁り、此オラシヨを申す事も叶はぬに於ては、心中に斯く唱へよと示すべし、此の如く最期近きアニマに力を添へ、すすめをなす事天主の御前にて其功徳、信心無量なり。夫れを如何に云ふに、是等の所作は、ゼズス人のアニマを助け給ふ道の船橋となる事也。豈等閑ならん哉。
- 第一 コンチリサンの上に於てなすべき四ヶ條の心得の事
第一の心得といふは、ゼズスは御憐み深く在す我等人間の御親なるが故に、如何なる罪人も、其科を悔み悲しみ、悪を改め、善に帰して、扶かれがしと思召すのみなり。これに依りて、ゼンチヨ〈異教者〉の時、作りと造りし罪科を赦し給はんために、バプチズモのサガラメントを御定めたまひ、其御功徳を請け奉るを以て、罪と沈みしものを不残消滅して、罪の代りに受くべき苦患をも達して御赦し給ふもの也。猶此上に、人の浅ましき、身の習はしにて、バプチズモの以後、又科に落つべき事を憐み給ひて、其後悔の為にコンピサンの秘蹟を定め置き給ふもの也。かるが故に、いかなる罪科なりといふとも、御名代と定め給ふコンヱソルに教のままに達して、コンピサンを申すに於ては、所有罪過を悉く赦し給ふべき事、何の疑ひあらんや。之に依りて誰なりとも、バプチズモの以後、モルタル科〈重罪〉に落ちたらん程の人は、其科の御赦を蒙るべきために、コンチリサンを申さずして叶はぬといふことを能く辨へよ。然れども時として其ところに神父の在合なきか、又は神父の言語未だ通ぜざるか、其外コンピサンの望ありても叶はざる仕合せ有るときの為に、此コンチリサンの道を以て定め給ふもの也。コンチリサンとは、真実に深き後悔の事也。然れば、いかなる悪逆極りたるキリシタンなりといふとも、心に真実のコンチリサンを催し、コンピサンを申すべき仕合せあらん時は必らず申すべしと思ひ定むるにおいては、假令當座にコンピサンを申さずとも有程の罪科を悉く赦し給ひて、ガラサを賜はるべきもの也。斯のごとき深き後悔達して、重ねてモルタル科に落ちざる内死するにおいては、其人のアニマ扶かるべき事うたがひなし。是に付いて偽り給ふ事叶ひ給はざるゼズスの御辭に「何時にてもあれ、悪人の其身の科を心の底より悔み悲しむにおいては、其科を御赦免し給ふ」との御約束なり。然れば何れのキリシタンも、真実のコンチリサンの催しを能々知るべき事肝要なり。此儀は則ち此巻の第二ヶ條目にあり。
第二の心得といふは、人或は病気に犯さるゝか、或は陣闘に赴くか、或は船渡りするか、何れにても如此命の危き事に懸らんとき、其身にモルタル科ありと辨へ、コンピサンを申さんと望めども、コンヱソル[1]の仕合せなきにおいては、則ち此コンチリサンを催さずして叶はぬこと也。一つには誰もアニマの助かりを歎き求めずして叶はざる事なれば也。二つには何れの人も肝要なる時はコンチリサンをなせとの御掟なれば也。肝要なる時といふは右にいひし時の事也。爰にまた心得べき一大事あり、縦ひ死するに近からずといふとも、何時にても科に落ちたりと心得るにおいては、時日を移さず、即時に善に立上るべき事也。其故はモルタル科ありながら死せば、助かる事曾て叶はざれば、人の上にいつ何時、死期来るべきもしれざれば也。即時に善に立上るべき道といふはコンピサン叶はぬにおいては、コンチリサンの外になしと能く心得よ。然る時は後生を願ふべき程のものは、各此道を心にかけずんばあるべからず。
第三の心得といふは、此コンチリサンを以て、科の御赦を蒙るべき為には、先づヒデス〈信仰〉堅固なくして叶はぬ事也。ヒデスなくして科をゆるされ、御内證に叶ひ奉るといふ事は曾てなし。此ヒデスは常になくして叶はざる事ながら、取別け肝要なる時は猶強くあるべし。夫れといふは最期の時、天狗は別してヒデスを失はせんと歎く者なり。是によりて心中にか、言葉に出してか曰ふべきには「エキレンジヤの御教を皆誠なりとヒデスに請け奉る也。若し此度は死期を差延べらるゝとも、又臨終の際まで此御教を捨てる事あるべからず」と申して、新に其覚悟を据うべきもの也其信ずべき一々の條目といふは、先づ有りとあらゆる物の御作者、御主天主、御一躰にて在すといふ事、並に此天主、萬事を計らひ、中にも一切人間の後生の御扶手にてまします、則パライゾに至るべき道を教へ導き給ふといふ事、又此御主、我等前生の善悪に随つて来世の苦楽、賞罰を御與へて也。神佛といふはいづれも我等にひとしき人間なれば、前世後世を計らひ、善悪の賞罰を與ふる事は曾て叶はずと云ふ事、又この萬物の御作者、御計手にて在す天帝の御性躰は、唯御一躰に在せども、罷徳助、費畧、斯彼利多三多とて、三ツのペルソナと申し奉る事あり。パテルとは御親、ヒリヨとは御子、スピリト サントとは、御親と御子とより出で給ふペルソナにて在す也。かるが故に、天主パテルも、天主ヒリヨも、天主スピリト サントも、天主にて在せども、天主三躰にてましますに非ず、唯御一躰也といふ事、又天主ヒリヨは人を助け給はんが為に、人骸を請けさせられ、童身のサンタマリアより生れ給ひ、人に助かる道を教へさせられ、終には我等人間の罪障の代りとして、御自由の御上より、悪人の手に渡り給ひ、種々の御苦患を凌ぎ給ひ、十字架に懸り死し給ふと云ふ事、又世の終りに、一切人間を元の肉身に復活らせ給ひ、御身直に天降りたまひて、一人宛の善悪を御糺し有りて、苦楽を夫々に宛行はるべきといふ事、所詮天主、人の科を免し給ひ、ガラサを與へ給ひ、アニマを扶け給ふ事の由来の儀は、此御扶手にて在ます耶蘇の御功力に依る事也と云ふ事、扨この耶蘇と申し奉るは、誠の天主、眞の御人にて在すと云ふ事、是等皆ヒデスに請け奉るべき條々なり。
第四の心得といふは、此コンチリサンを以て、科の御赦を蒙らんと思ふ人は、先天主の御内證を深く頼もしく存じ、ゼズスの御功徳に深く頼をかけ奉るべき事肝要なり。縦ひ犯せる科は海よりも猶深く、又其科の数は真砂よりも多く、既にヒデスも失ふ程のことたりといふ共、真実のコンチリサンありて、夫等の科を後悔するにおいては、疑なく赦し給ふべしと深く頼を懸け奉るべき事也。ゼズスの御慈悲深く在すこと、更に其邊際もなく、又御扶手ゼズスの流し給ふ御血の御功徳の廣大にましますことを申さば、今又た千萬無量の世界を出現して、夫れに住する程の人間の罪科なりとも残さず洩さず消滅し給ふべき為にも、御血御一滴の御功徳は猶餘りある事なるに、いかに况や汝一人の罪を赦し給はんに、一滴にても在さず、無量の御苦みを凌ぎ給ひたる上に、御血を悉く釃め盡して流し給ふ事なれば、其御血の御功徳にて、汝の罪を滅し給ふべきに、何の御造作入り給ふべきや、此儀を深く頼母敷可奉存也。
- 第二 コンチリサンとは何事ぞといふこと、
- 並びにコンチリサンを勤むる道の事
今爰に載すべき理り是肝要の儀也。此旨を達して勤むるにおいては、コンチリサンの本意に至るなり。有程の罪科を悉く滅して、天主の御勘気を赦され奉る事也。先コンチリサンといふは、我犯せし程の罪科は、皆天主を背き奉る狼藉なる處を深く悔悲しみ、其科を心の底より悪み嫌ひ、我と心を苦しめ、如何なる事に対してもせまじかりしものをと思ひ、自今以後、モルタル科を以て天主を再び背き奉る事有るべからずと堅く思ひ定むる事也。又時節を得てコンピサンを申すべしとの覚悟もなすべきもの也。是則コンチリサン也。是を猶廣くいふ時は、コンチリサンの為に肝要なること數ヶ條あり。
一つには、先づ我が越方の進退を顧み、モルタル科に落ちたる事有りや否やを思ひ出すべし。或はヒデスを見失ひ、神佛を拝みし事有り哉、又はゼンチヨ〈異教者〉の教を信じ、頼もしく思ひし事ありや、又は人を悪み、そねみ、悪口雑言し、外聞を失はせ、仇をなしたる事有りや。また我妻にあらざる女に犯したること有りや、其外天主の御掟を背き、大きに道に迦れたる悪事をなしたるや、と我身の上を糾明するべし。
二つには、斯のごとく犯せし科を大方思ひ出だして後、其科はいふにも及ばず、忘れたる科をも同然に後悔すべし。其後悔も又軽々と外面すべからず、天主は人の心中を見給へば、外計にて謀り奉る事叶はず、心の底より犯せし科を深く悲しみ悔みて、いかなる利得を得るといふとも、又は身命を果すと云ふとも、すまじきものをと悔み悲しむべし。爰に心得べき事あり、時として身の上を種々思案してみれども、モルタル科を一つもおもひいださぬことあり。是或は科を能辨へざるか、或は失念したる謂れなるべし。假令左ありといふとも、身に科なしと安堵して居る事なかれ。辨へざる科と、失念して思ひ出さぬ科をも後悔するべし。其故は科有りながら無しと思ひて、其後悔なくんば、インヘルノに落さるべきに依りて也。
三つには、コンチリサンの心當といふは、科故にインヘルノに落つべき事を悲しむにもあらず、又科故にパライゾの快楽を失ふべきと云ふ事を悲しむにもあらず、其外、身の損失を顧みて悲しむにもあらず。第一歎き悲しむべき心當といふは、人に心身に是を萬事にこえて、(?〔ママ〕)心の及び力を盡して御大切に思ひ奉るべき廣大無邊の御主ゼズス キリストを、限りなく嫌ひ給ふ科を以て背き奉りしところを専一に悔い悲しむ事、是誠のコンチリサン也。是を能辨へるべき為に知るべきことあり。インヘルノの苦しみを恐れ、パライゾの快楽を失はん事を悲しみて後悔し傷む事も尤なれども、是一偏に天主の御大切より出づる後悔にあらず、只御法度を恐れ、得を失ひし身の得失を顧みるより發るが故に達したる後悔にあらず。故に是等の後悔にて、其科を赦し給ふ事有るべからず、但し如此の後悔たりとも、コンピサンを申すにおいては、其後悔の不足なる處を補ひ添へて、達したる御赦をなし給ふもの也。然りといへども、コンピサンなきにおいては、斯様の浅き後悔のみにては、其科を許し給ふ事なしと知れ。例へば是臣下たるものの、主命に背き、狼藉を献ぜし時、扶持を放さるゝ上に罪せらるべき事を恐れて、扨もすまじき事をしたるものかなと身の科を悔るの類也。是更に主君を思ふ心より出でず、唯我身をおもふ一偏なり。然るに此コンチリサンといふは、天主を思ひ奉る達したる大切より出づる儀なり。御大切、御慈悲の御親にて在す天主を背き奉りし處を何よりも第一に悔み悲しむ事也。喩へば是れ孝行なる子の親の命を背きて後、身の科を悲しむに同じき事也。是れ折檻を恐れての事にもあらず、唯萬事に超て、孝行を盡すべき憐みの親を故なく背きし處を口惜しく悔しく思うて、泣々赦免を乞ふが如きなり。
四つには、過ぎし科を悲しむのみならず、今より以後再びモルタル科を犯さず、御掟の儘に行儀を守るべしと堅固に覚悟を据うるべしとの事、過ぎし科をいかほど悔しく思ふといへども、重ねて科に落つること有るまじきとの堅き定めなきにおいては、科の御赦しあるべからず。かるが故に、コンチリサンをなすべき人、本妻の外に若し思ひものを持つか、其外何にても如此の妨あるに於ては、速に夫れを捨て、再び此道に立返ること有間敷と強く思ひ去り、若又人に遺恨を含む事あらば、急ぎ思ひ直し、又は人に外聞を失はせ、其外人に損をさせたる事あるに於ては、天主の御掟にまかせ、當座に其償をなすものか、急速に返す事叶はずば追々に返すべきもの也。いづれも忽かせにすまじきと心に思ひ定むべし。若し又病者の上に、如此アニマに掛る障あらば、確なるとき其整へをなすべき事也。是も即時に整へがたきに於ては、心の正しき内に書置をせよ、人は俄に口禁り、本性亂るゝこともあれば、正念なる時ととのふべし。
右條々の外に又ゼズスの御定めの如く、時に臨みてコンピサンを申し、授け給ふ科送〈償ひ〉を確に勤めんとの覚悟肝要也。但此儀コンチリサンをなすときに忘るゝ事もあるべし其時は斯の如く思定めずといふとも、科をゆるされ、ガラサを蒙り奉る障りとならぬと辨へよ。再び科を犯す事なく、有程の御掟を保つべしとの覚悟をなさば、其中にコンピサンの條々は籠るなり。是等皆真実のコンチリサンの條々也。
爰に人ありて曰ふべきには、人皆コンチリサンの情に至り難し、中にも久しく悪に染み果てたるものは、猶以て難かるべしと、是尤なれども、それ迚も力を落すべき事にあらず。天主の御力を添へ給ふ時は、何にてもあれ、ならずといふ事なし。又此御合力いかにも澤山在せば、我等が方より受け給はんと常に待ち給ふもの也。然る時は如何程罪障深き身なりとも、少しも力を落すことなかれ。御金言に顕し給ふごとく、「天主は我心の門を敲き給ひ、後悔を以て心を開く者あらば、萬の罪科を赦し給はん」との御約束なり。かるが故に、天主の御合力を頼み奉り、真実のコンチリサンの情に至るべき事、我の自由なる事を知れ。但し天主の與へ給ふべきガラサをのみ待ち奉るとて、一向に徒に居るべき事にもあらざれば、コンチリサンを發す便りとなる観念の事を少々左にあらはすべきものなり。
- 第三 コンチリサンを發す便りとなる観念の事、
コンチリサンといふは右に記す如く、科を以て天主の御内證を背き奉りし處を専一に悔み悲しむに極れば、後悔の發る處は、天主の御大切と御敬ひを勧むる観念は、即ちコンチリサンを發す便りとなるべければ少々爰に誌すなり。
第一、観ずべき事といふは、天主の御上也。此君は量りなき御威光、御力、限りなき御智慧、御慈悲、御哀憐の源にて、帝王、主君の中の主君、天地の御作者、今生後生の御計手にて在すといふ事、無限御智慧を以て、萬事を治め計らひ給ひ、諸々の物の大、諸々の善徳、諸々の美しきの源にて在せば、萬の御作の物に籠拜せられ、仕へ思はれ給ひ、萬事を思召す儘に従へ給ふべき尊き君にて在すと観ずべし。是に引替てモルタル科といふは、天主の御内證を背き奉る逆心、御掟を破り奉る重科なれば、天主に対し奉る狼藉なるが故に、其科を又量なく悪み嫌はずして叶はぬ事なりと観ずべし。爰を以て計るに、斯程高上の天主を罪をもつて背き奉りし事を如何程にも悔い悲しみ、心の底より後悔し、再び背き奉るまじくと堅く思ひ定むる事肝要なりといふ事を辨へよ。又此御主、御慈悲限り在さねば、人のアニマの助りに超えて、別に望み給ふ事在さず。斯程に深き御内證を背き奉りし者は我等也といへども、御大切に催され、前非を悔い、自今以後、進退を改むべしと存じ立(?〔ママ〕)端的に諸々の罪科を赦し給ひて、御寵愛の御人數に召加へられんと毎常待ち居給ふもの也。かるが故に人は天主に仕掛け奉る狼藉といふは、我科を赦し給ふ間敷といふ頼母敷こころを失ふ事也。然れば今此観念を先として、左に記すべき観念にも、天主の御憐み深く在す處を目前に置きて、コンチリサンをいたすにおいては、科を許し給ひて、アニマを助け給はんと深く頼母敷思ふべし。されば、此頼母敷思ふこころは平生も肝要なりといへども、取別け最期に臨みて専要なり。其故は天狗の謀りは、存命の間、天主の御慈悲を信じに頼ませて科を勧めし如く、一息截断の砌は、深く見せつる御慈悲をいかにも浅く思はせて、頼母敷心を失はせんとするもの也。
第二の観ずべき事は、一方よりは天主の我等に與へ給ふ御恩の品々を観じ、今一方よりは其深き御恩を辨へ存ぜざりし處を観ずべし。先天主の與へ給ふ御恩といふは、御作なされし諸々の有情非情に施し給ふ徳義を兼備へ給ひて、其上にアンジヨ〈天使〉に似たるアニマを與へ給ふもの也。此アニマに智慧分別、並びに自由の徳義を與へ給ひて、猶又天主を辨へ御大切に存じ、直に拝み楽しみ奉るべき情を與へ給ふもの也。如之科を以て御身を背き奉りし御罰として、肉身は死に行ひたまひ、アニマをばインヘルノの苦患に沈め給ふ仕合はせ幾程に及ぶべきといへども、斯程の儀を差置き給ひて、却て現在にては勇健息災に存らへさせ給ひ、後生にては、心にも言葉にも及ばざる終りなき快楽充満のパライゾを整へ置給ふものなり。また此君われらを助け給はんために、人骸を受けさせられ、十字架に掛り死し給ひ、流し給ふ御血の御功徳を以て、我等を天狗の奴より遁し助け給ふもの也、是等皆天主より人に與へ給ひし御恩の數々なり。然るに又人よりは其深き御恩を忘れ奉り、其御禮の代りとして、誠に數々の罪を以て背き奉るより外の事なし。是を観じて見れば、誰かは此君を萬事に越えて御大切に存じ奉らずしてあるべき。誰か此御大切に遂げ渡りて背き奉りし處を心の底より悲しまざる事有るべき。誰か今より再び背き奉るべからずと堅く思ひ定めざらんや。
第三の観ずべき事といふは、御主ゼズス汝に対し給ひてなし給ふ御事を細かに思案すべし。是則ち御憐の御親、二心なき知音、アニマの為に情深き御夫の如くなる御わざをし給ふ事を見よ。親は子を生みてより養ひ育て、後には萬事を譲與へるがごとく、眞の御親にて在す天主、汝をバプチズモよりガラサの命に生み給ひ、天主の御養子と召せられ、尊きユカリシチヤに籠め給ふ御血肉を以て御養育し給ひ、終にはパライゾを譲り給はんと待ち給ふもの也。又眞の御知音の如くなる事をみよ。双びなき知音の證といふは、其人の為に一命を軽んずるより外の事なし。然るに此君は汝が為に百千難を凌ぎ給ひ、終にクルスに懸り御血を流し盡し給ひて、御一命を果し給ふもの也。又此君は汝がアニマの慥なる御夫にて在すゆゑに、汝は幾度も此君の御内證を科を以て背き奉り、貞心を守らずといへども、此御情深く在す御夫は、それにても汝を捨て給はず、其科を翻し、後悔をだにも仕れば即時に思召し直され、元の如くに又親しく思召す。早是等の理り此君を永く背き奉らず、御大切に存ぜずして叶はずといふ至極の道理にあらずや。然るに汝は是に相替りて、不孝なる子の親の命を背く如く、モルタル科を犯して御掟を背き奉るを以て、天狗に與力し、怨敵となり奉り、両夫にまみゆる女のごとく、御作の物に心を移し、此君を後ろになし奉る也。是を天主は悪み給ひて、或ポロヘタ〈預言者〉を以て、悪人のアニマを數多の夫を持つ悪人の女人と呼び給ふもの也。然る時は如何なる悪人なりといふとも、天主より思召し給ふ御大切と、我等が天主へ運び奉る御大切の薄く、しかも野心多き事を思ひ合せて見ば、誰かは犯せし科を悔い悲しみ、今より進退を改めんと思ひ定めざらんや。
第四、右三さまの外に、今一便といふは、コンチリサンを心に覚えさせ給へと天主に乞ひ奉る事也。此訴訟の御取次には、おん母聖瑪利亜を頼奉るべし。此御憐の御母は則ち悪人の御取次にて在す。天主も此御取合せを能聞召し給ふもの也。又天主を除き奉りては、この御母程、我等のアニマの扶かりを歎き給ふ御方別になし。又此左に誌すオラシヨを心を留めて申すにおいては、コンチリサンの深き便となるべし。此オラシヨにコンチリサンの情を一々細かに籠め現すもの也。是常にも申すべきオラシヨ也といへども、別して死するに及ばん時は、繰返し〳〵心をとめて幾度も申すべし。
- 第四 天主に奉立帰罪人の申上ぐべき
- コンチリサンのオラシヨの事
萬事叶ひ給ふ始め終り在さぬ天主の御前に、破戒無慙の身として罷出づべき功力なしといへども、測りなき御慈悲に頼をかけ、諸悪の綱に搦め付けられながら、只今御前に出で奉るなり。扨も御身は始め終り在さぬ無邊廣大の御主、窮なき御善徳の源にて在す。我等に與へ給ひし厚き御恩の數々誠に際限なければ、萬事に越えて深く御大切に存じ奉るこそ本意なるべきに、左はなくして却りて罪過の色品盡して背き奉りし我が身なれば、今更其御赦免を蒙り奉るべき身にもあらずと辨へ奉る也。我曾て犯せし科を陳じ奉らず、唯罪過の甚だ重く、しかも數限りなき事を白状し奉る。然りといへども、御慈悲は我科よりも深く、御子ゼズ・キリシトの流し給ふ御血の御功徳は我罪よりも猶廣大に在すと辨へ奉るなり。然る時は如何に御主、直の御辭に「罪人ならば我科を悔むにおいては何時も赦し給はん」との御約束を今思召し出し給ひて、我罪科を赦し給へ。過し科を今心の底より深く悔み悲しみ奉る也、斯く言上仕る事強ち後生にて受くべき苦患を恐れての事にもあらず、只偏に御大切に催され、御威光、御善徳測り在さぬ御身を背き奉りし事を悲しみ申す也。今より我進退を改め、再びモルタル科を犯して、御内證を背き奉る事有まじく堅く思ひ定め奉る也。然れば今御憐の眥を罪人なる我に旋らせ給へ。我科の代りとして御受難の量なき御功徳を捧げ奉れば、是を以て御勘気を赦し給へ。ゼズスの御血の御功徳と、御身の深き御憐に頼をかけ、犯せし科の御赦を乞ひ奉る也。又此御訴訟の御取次には、御母聖瑪利亜を頼み奉れば、其御取合を聞召し入らせ給ひ、我に御勘気を免し給ひ、其功力に及ばざれ共御子の一分に再び召加へ給へと謹んで頼上げ奉る。アメン。
- 第五 洗禮を授からざる人も、コンチリサンを
- 以て科の御赦を蒙る事叶ふと云ふ事。
バプチズモを授かりて後科に落ちたる人は、コンピサンを不申して叶はざる儀なれば、時節を以てコンピサンを申すべしとの定めなして、コンチリサンを致せば、科の御赦を蒙る也。故にコンチリサン有るにおいては、仕合せなくしてコンピサンを申さずして死するといふ共、パライゾの快楽に至るべき事疑ひなし。其如く切支丹の御教を聴聞したらん異教者、バプチズモの望深しといへども、授手なきゆゑ力に及ばざる時は、仕合せあらばバプチズモを請くべしとの定めを以て右のコンチリサンをなすに於ては、過し罪科を悉く御赦しありて、助け給ふべきもの也。但し先此巻の始第一篇の内、第三の心得に記し現す條々を確かに信ぜずして叶はず。其上又同じ篇の内、次に第四の心得に記す頼母敷をも帯せずして叶はざる儀也。畢竟第二ヶ條に載する處のコンチリサンの條々を達して勤むべき事肝要也。都て異教者と切支丹との間のコンチリサンの差別といふは、切支丹は時節を得コンピサンを可申との定をなし、異教者は仕合せあらばバプチズモを受くべしとの定めある事なり。此外別に差別なきと辨ふべし。
- 〈終わり〉