初等科國語 七/ゆかしい心


十八 ゆかしい心

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長唄ながうた

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 第一線のある夜のことであつた。
 ラジオを敵の陣地へ放送する宣傳班員は、ざんがうの暗がりの中で、擴聲器の點檢をしてゐた。
 そのうち偶然にも、東京放送局からの電波がはいつて來た。長唄の調べである。
「フィリピンのざんがうの中で、日本の長唄を聞くなんて、うれしいことだね。」
と、みんなはにこにこしながら、長唄の音に耳を傾けてゐた。

 澄みきつた大空のもとに、ナチブ山が靑々とそびえてゐる。
 ナチブ山の項には敵の砲兵觀測所があるが、山全體が熱帶の森林におほはれてゐるので、飛行機からの偵察でもはつきりわからない。まして平原にある友軍陣地からは、それがどの邊にあるか、ほとんど見當がつかない。
 バランガへ通じる白い道は、その觀測所から手に取るやうに見えるので、わが軍の貨物自動車は、一臺一臺正確な射撃にみまはれる。しかし、この道以外に部隊の進撃路はないので、どうしてもこの難關を突破しなければならない。
 トラックや戰車は、全部木かげにかくして、敵の砲撃の目標になることを避けてゐる。みかたの砲兵は、畠の中へずらりと放列をしいて、ナチブ山の頂をにらんでゐる。
 このはりつめた第一線の陣中で、ふと猫の鳴き聲を耳にした。こんなところに猫がゐるはずはないと思つて、あたりを見まはすと、かたはらの貨物自動車の上に、三毛猫がうずくまつてゐる。兵隊さんが、どこからかつれて來て、かはいがつてゐる猫であつた。

俳句

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 第一線に近い宿營に、待機してゐた時のことであつた。すぐ隣りの宿營にゐた一人の兵隊さんが、俳句を作つたから見てくれといつて、夜中にやつて來た。
 夜、燈火を用ひることは堅く禁じられてゐるので、窓から流れ込む空の明かるさで、兵隊さんの顔もやつとわかるほどであつた。兵隊さんがさし出す紙切れを手に取つて、一字一字薄あかりにすかしながら讀んだ。

彈の下草もえ出づる土嚢どなうかな
密林をきり開いては進む雲の峯

といふ二句であつた。
 四十近いこの兵隊さんは、前線への出發を明日に控へながら、その前夜、自作の俳句を讀んでくれと、わざわざやつて來たのである。「陣中新聞に發表してはどうですか。」とすすめると、
「いや、そんな氣持はありません。」
と答へた。
「あなたの名前は。」とたづねても、だまつたまま笑つてゐた。
 兵隊さんは、俳句を讀んでもらつた滿足を感謝のことばに表して、部屋から出て行つた。