このページはまだ校正されていません
第二章 御三代の御經論
天孫瓊瓊杵尊は高千穂峰に天降り給ひて後、
吾田長屋笠狹の碕は、日本書紀の一書に「到㆓于吾田笠狹之御碕㆒、遂登㆓長屋之竹嶋㆒乃巡㆓纜其地㆒」と載せて居る。吾田と云ふ名稱は、和名抄に薩摩國阿多郡阿多郷とある地より起りしものならむも、日本書紀の天武天皇紀、持統天皇紀等の各所に大隅に對して、薩摩の總名として用ひて居る故、廣き地域の汎稱として用ひられた事が明白である。 笠狹は阿多郷の南隣河邉郡加世田とする説が、最も有力であつて、長屋は其の西に突起する長屋山(俗稱長永山)に其の名が残り、古へは此の邊一帯の總名かと云ふ。竹島は孝徳天皇紀白雉四年の條に「於㆓薩麻之曲、竹嶋之