ざるのみならず、察罕 池の西南に和林ありとすれば、和林は札兒曼台 河 卽 和林 河の西に在ることとなりて、偰氏 家傳の「和林 河經㆓城西㆒北流」の文に合はず。
察罕 池の事は、太宗紀に「九年春、獵㆓于 揭揭 察哈 之澤㆒、夏四月、作㆓迦堅 茶寒 殿㆒、」十一年 春、十三年 春 二月にも「獨㆓于 揭揭 察哈 之澤㆒、」憲宗紀 三年 四年の春「帝獵㆓于 怯蹇 叉罕 之地㆒、」明宗紀「天曆二年三月戊午朔、次㆓潔堅 察罕 之地㆒」などありて、地理志 和寧路の原注に「迦堅 茶寒 殿、在㆓和林 北七十餘里㆒」と見えたり。錢大昕の考異に「揭揭 察哈、卽 迦堅 茶寒 也。譯㆑音無㆓定字㆒」と云ひ、怯蹇 叉罕も潔堅 察罕も、皆 同音の異譯なれば、沈垚は「殿以㆑澤得㆑名。殿在㆓和林 城北七十餘里㆒、澤亦當㆓相近㆒。罕罕 池之卽 揭揭 察哈 澤、無㆑可㆑疑矣」と云へり。蓋 今の察罕は、揭揭 察罕の上略ならん。然らば和林 城は、察罕 池の南に在りけんこと、地理志に由りて證すべし。猶 精︀しく云へば、察罕 池の上流なる和林 河の東にありしこと、偰氏 家傳に由りて明なれば、むしろ察罕 池の東南に在りしなり。
唐古 河の西に峻嶺ありて、「嶺陰多㆓松林㆒」と云へるは、西游記の「至㆓長松嶺後㆒宿。松檜森森、干㆑雲蔽㆑日、多生㆓山陰㵎道閒㆒、山陽極少」とあるに善く似たれば、張德輝の見たる峻嶺は、卽 長松嶺なるが如し。されども「其陽、帳殿在焉、乃避夏之所也」とあるは、長春の到りし乃滿 國の窩里朶とは異なり。沈垚 曰く「紀行、繇㆓和林 川㆒往㆓避夏處㆒、但行五驛。而記、自㆔六月十三日宿㆓長松嶺㆒、至㆓二十八日㆒、方泊㆓窩里朶 之東㆒、凡行十五六日。是時寫里朶、亦是駐夏處、而遠近不㆑同者︀、蓋張參議于㆓定宗丁未年㆒、應㆓世祖︀潛邸之招㆒、所㆑往者︀、定宗駐夏之地、眞人當㆓太祖︀時㆒、所㆑往者︀、大祖︀皇后駐夏之地、故不㆑同矣。」更に西人の記載を考ふるに、和林の名を喇失惕は合喇 闊嚕木と云ひ、祕史の合喇 豁嚕木と甚 近し。嚕卜嚕克 馬兒科 保羅は、合喇 闊舌欒と云へり。喇失惕は「合喇 闊嚕木は、山の名にして、その山より城の名を取れり」と云ひ、
元史 巴而朮 阿而忒 的斤の傳に和林 山とあるも、哈剌 和林 山の上略にして、卽 合喇 豁嚕木の山なり。合喇 豁嚕木は、黑き徑の義、卽 樹木 茂りて路 闇きことにて、我國のくらやみ坂などに似たる語なれば、山の名は本にして、それより河の名となり、遂に都︀の名となれるならん。
訶倭兒思の蒙古史に舊史の說を引きて、「斡歌台の新しき宮殿は、支那風の雕刻 繪畫を以て精︀しく飾られ、周圍に園ありて、門 四つあり。合罕と皇族と宮女と公眾との出入を分てり。皇宮の外に大臣の宅あり、又その外に大なる市街あり。合罕は、それを斡兒都︀ 巴里克(斡兒朶の城)と名づけたれども、普通には喀喇 科嚕木と呼べり。一二三五年(太宗 七年)、その周圍に半リーグほどの壁を廻せり。皇室の需用と給與との爲に、帝國の諸︀處より貨車 五百輛づゝ毎日そこに到着せり。三十七の驛亭の傳馬は、その城を支那に結び附けたり。
斡歌台は、喀喇 科嚕木にたゞ春の一月だけ住み、餘の二月は一日路 隔たれる客兒惕 察干に住めり。そこには珀兒沙の工匠ども、支那人の築ける喀喇 科嚕木の宮殿に劣らざる宮殿を築きたりき。夏は斡兒篾克禿阿に到り、金襴にて緣 取りたる白き毛氈より成れる支那風の假屋に住めり。この天幕は、千人を容れらるゝほど大きくして、昔喇 斡兒都︀(卽 失喇 斡兒朶、黃なる行宮)と名づけられたり。秋は科衣揭の湖の畔に一月を送れり。冬は大に獵する季節︀にて、斡歌台は翁奇に居り、そこに周二リーグの所を土と橛との圍ひにて取圍み、その中に獸を追入るゝ樣にせり。」客兒惕 察干の宮殿は、卽 迦堅 茶寒 殿にして、察罕 諾兒の邊に設けたる離宮なりき。
斡兒篾克禿阿の避暑︀は、憲宗紀にも「四年夏、幸㆓月兒滅怯 之地㆒、」「五年夏、帝幸㆓月兒滅怯土㆒、」「七年夏六月、謁︀㆓太祖︀行宮㆒、還幸㆓月兒滅怯土㆒」などあり。