ぞ、我等ワレラ 二人フタリ。汝ナンヂの父チヽ 納忽 伯顏ナク バヤンは[富人トミビトにて]ありき。(明譯に「你父 納忽 伯顏 有㆓家財㆒」とあるを見れば、原文「ありき」の上に脫文あるならん)汝ナンヂは、彼カレの獨子ヒトリゴ、何ナニを知シりてか我ワレに伴トモなひたりし。(明譯你父ナンヂノチヽ 納忽 伯顏ナク バヤン 有アリ㆓家財カザイ㆒、只タヾ 你ナンヂ 一子イツシナルニ、爲タメニ㆑甚ナニノ肯アヘン㆑敎シメ㆓與ト㆑我ワレ作㆒㆑伴トモトとあるは、原文の意とやゝ異なり。)心コヽロの傑スグれたるにより伴トモなひたるぞ、汝ナンヂ。(閻復の撰れる廣平王 玉昔 帖木兒の碑に「祖︀ 博爾朮、諡㆓武忠㆒。武忠志意沈雄、善戰知㆑兵。太祖︀聖武皇帝在㆑潛、義均㆓同氣㆒。初 要兒斤 部卒、盜㆓吾牧馬㆒。武忠共往追㆑之、時年十三、知㆓其眾寡不㆒㆑敵、乃爲出㆑奇、從㆑旁夾㆓擊之㆒。寇拾㆓所掠㆒而去」とあるは、卽ちこの事にして、元史 博爾朮の傳は、この碑に據れり。要兒斤は、祕史の禹兒乞また主兒勤なり)その後ノチ 想オモひて行ユきて、我ワレは別勒古台ベルグタイを遣ヤりて、伴トモとならんと云イへば、汝ナンヂは拱脊キヨウセキの栗毛馬クリゲウマに乘ノりて、靑アヲき毛衣ケゴロモを馬ウマに駄ツけて、伴トモとなりに來キつれば、三ミつの篾兒乞惕メルキト、我等ワレラの處トコロに來キて、不兒罕ブルカンを三ミたび繞メグらしめたる時トキ、共トモに繞メグりたるぞ、汝ナンヂ。
又マタ その後ノチ 塔塔兒タタルの民タミに荅闌 捏木兒格思ダラン ネムルゲスにて對抗タイカウして宿ヤドりたれば、雨アメは晝夜ヒルヨル 斷タえず霖ナガメ 降フりたる時トキ、夜ヨル 我ワレを睡ネムらせんとて、毛氈マウセンの表衣ウハギを覆オホひたるにより、我ワが上ウヘに雨アメを漏モらさず、夜ヨ 盡ツくるまで立タちて、片方カタカタの足アシを只タヾ 一度ヒトタビ 換カへたりき、汝ナンヂ。汝ナンヂの傑スグれたる效シルシなりしぞ。(元史 博爾朮の傳に「嘗潰㆓圍於 怯列㆒、太祖︀失㆑馬。博爾朮 累騎而馳、頓㆓止中野㆒。會天雨㆑雪、失㆓牙帳所㆒㆑在、臥㆓草澤中㆒。與㆓木華黎㆒、張㆓氈裘㆒以蔽㆑帝、通夕植立、足蹟不㆑移。及㆑旦、雪深數尺、遂免㆓於難︀㆒」とあるは、閻復の廣平王の碑に據れるなり。潰㆓圍於 怯列㆒とは、合剌合勒只惕の戰を云へるにて、累騎の事は、斡闊台と孛囉忽勒との事を誤り傳へたるなり。氈裘の覆ひの事も、塔塔兒との戰を客咧亦惕とし、雨を雪とし、孛斡兒出 一人を木合黎と二人としたるは、皆 傳聞の異辭なり。)それより外ホカは、いかで汝ナンヂの傑スグれたることを言イひて盡ツクさん。孛斡兒出ボオルチユ 木合黎ムカリ 二人フタリは、我ワが善ヨき事コトを